法華経はバラモン教を元に作られた、釈迦の教えとは全く異なるもの釈迦の教えは輪廻や死後の世界や神の存在を完全に否定するものだったのでインドでは受け入れられなかったのですね。 それでその代わりにバラモン教を元にした大乗仏教がでっちあげられて、釈迦の教えだと偽って流布されたのです。 従って、法華経を認めることは釈迦の本当の教えを完全否定する事になるのですね。 釈迦(紀元前463年? - 紀元前383年?)
法華経は初期(第一期)大乗仏教の時代に成立した経典であると仏教学者は考えている。初期大乗でも、阿弥陀経、般若経(小品系)の次に成立した。法華経が成立した時代は紀元50年から150年あたりにかけて成立したと考えられる。 因みに、法華経の漢語訳は最初から最後までデタラメだというのが定説: 法華経 上―梵漢和対照・現代語訳 植木 雅俊 (翻訳) http://www.amazon.co.jp/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C-%E4%B8%8A%E2%80%95%E6%A2%B5%E6%BC%A2%E5%92%8C%E5%AF%BE%E7%85%A7%E3%83%BB%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3-%E6%A4%8D%E6%9C%A8-%E9%9B%85%E4%BF%8A/dp/400024762X
わが国には、サンスクリット語(梵語)の法華経を現代語訳した本は他にも存在するが、この本により、これまでの訳が如何に不完全であったか(文法上・語彙上・思想上の誤り、深読み、省略など)が、これでもか、これでもかというほどに明瞭となる。
しかも、サンスクリット原文、漢文(書き下し)、現代語訳が左右見開きで並べられ、著者の訳し方が正しいかどうかを、その気になれば誰でも検証できるように配慮されている。その上、全1300ページの3分の1にも及ぶ注釈でなされる緻密な分析・解説は圧倒的な説得力を持つ(それはロゼッタストーンを読み解くような面白さといえる)。まさに毎日出版文化賞の受賞にふさわしい労作である。 徹底的に正確に訳すことによって、従来の訳に見られた法華経思想への誤解を改めるということが本書の重要な目的であるようなので、ここに一例を紹介しておこう。例えば、方便品に「四仏知見」とよばれる箇所がある。これは、仏がこの世に出現した目的について、「衆生たちに(1)如来(仏)の知見を開示し(2)如来の知見に入らせ(3)如来の知見を悟らせ(4)如来の知見の道に入らせる(開示悟入)」ことであることを仏自らが述べる箇所である。 ところが、梵文法華経の口語訳として著名な岩本裕訳では前記(1)から(4)が「(1)’如来の智慧の発揮を人々に示すため(2)’如来の智慧の発揮を人々に理解させ(3)’ 如来の智慧の発揮を分からせるため(4)’ 如来の智慧を発揮するに至るまでの道程を人々に理解させるため」とされている。 ここで問題となるのがtathagata-jnana-darsanaという複合語を如来(tathagata)の智慧(jnana)の発揮と訳していることである。darsana(見ること、内観、哲学)を「発揮」と訳すのは無理であることなど、この訳の語彙上の問題点は同書に詳しく述べられているが、その不正確な訳により「如来の智慧の発揮」が、あくまで如来の側のこととされてしまい、そこにおいて衆生は、如来によって示される「如来の智慧の発揮」をただ理解し、分かることだけが求められることとなる。 しかし、このような訳では、衆生に本来備わっている仏性を衆生(二乗を含め)に目覚めさせるという一仏乗の思想(法華経の根幹思想)が蔑ろにされてしまう。そうなってしまっては、長者窮子の譬喩(信解品)も衣裏珠の譬喩(五百弟子授記品)も不軽菩薩の振る舞い(不軽品)も何ら意味をなさなくなるのである。植木氏は、その語彙上の誤りを正し、真に原文に忠実な訳をされた。これにより、法華経思想の理解に一本筋が通ったと言える。徹底的に正確な訳というのは、このように大変重要なことである。 これは、ほんの一例にすぎず、植木氏はこうした誤訳を随所で指摘し、明確な根拠を示して正している。中国に始まって日本にまで持ち越されたいわゆる「三車家」と「四車家」との間に展開された千五百年来の論争に決着をつけたり、法華経の重要な菩薩の名前が「常に軽んじない菩薩」、あるいは「常に軽んじられる菩薩」と全く相容れない訳し方がなされてきたが、その矛盾を見事に解決したり、法華経の題名の正しい和訳を行ったり──と、正確無比な訳により、これまで種々問題となっていた事柄に解決の光を当てたことは仏教史上に輝く偉業と言って良いであろう。 また、その美しくやさしい現代語訳は、誰でも親しみやすくわかりやすい。著者は言う。「シェークスピアより面白い」と。出版元である岩波書店が「正確で読みやすい現代語訳で蘇る、平等と人間への尽きせぬ信頼の経典」と謳う本書が多くの方の座右の書となることを願うものである。 ______ まあどちらにしろ法華経は釈迦の教えを完全否定する所から出発してるんだよね。
天台法華思想の系譜 田村芳朗/梅原猛 『法華経』の不思議 梅原 天台思想というのは、日本の仏教の基礎になった思想だと思うのですけれども、ほとんどの日本人は天台の思想について何も知らないのではないでしょうか。これほど日本の文化に大きな影響を与えていながら、日本人は天台の教義というものをほとんど考えてみたことがない。そういう意味でいうと、日本精神史の背骨みたいなところが、全然研究されていないといえるのではないでしょうか。 田村 梅原さんが『地獄の思想』でかなり宣伝してくださったわけですけれども。 梅原 私のなどは不完全なものだと思いますけれども、それですら、いままで指摘した人がほとんどいなかった。天台思想の基礎になった『法華経』というものは、最も日本の文化や思想に大きな影響を残した経典だと思います。そこで『法華経』というのはどういう仏典なのか、そのへんから… 田村 私は、『法華経』というのは非常に不思議な経典だと思いますね。というのは、古来両極の評価がなされている。非常にほめたたえているかと思うと、一方、それとは逆にけなしてしまう。その一つに『法華経』無内容説というのがありますね。たとえば徳川時代に排仏論が起こったときに、富永仲基がそれを最初にいっています。それから有名なのが平田篤胤の能書説ですね。中身のない薬の効能書にすぎないという、そういう無内容説に加えて、もう一つ、『法華経』は愚夫.愚婦のためのものだ、というようなこともいわれました。 現代でも『法華経』にたいして、同様の批判をする学者がいます。また『法華経』に基づいた天台の思想にたいしても、無知なまちがいだらけの思想だといいます。『法華経』には殉教・殉難が強調されていますが、これなどは、一般社会から疎外された、いわば特殊階層によって『法華経』がつくられたためではないかというのです。排他的だという批判も出ていますしね。 ところが反対に、『法華経』自身が平等一乗というように、非常に包容的な、寛容性に富んだ経典だとたたえられてもきております。梅原さんもいわれたように、『法華経』は一般文化や思想に吸収され、大きな影響を与えたことは事実ですね。『法華経』の強調する殉教・殉難の精神も、崇高なものとしてたたえられ、そこに生きる勇気と支えを見いだした人々も出ているわけです。 ともあれ、『法華経』が、このように両極の評価を受けたことは、まことに不思議な現象です。私は仏教にも七不思議があげられると思いますが、これがその一つに数えられるかもしれません。なぜそのような両極の評価を受けるようになったかということですが、それを知るためには、『法華経』が、いつ、どのような時代につくられたかを調べる必要がありましょう。 梅原 大乗仏教思想の発展史の中で、どういうかたちで『法華経』がつくられたのかということですね。もう少しいうと、『般若経』『華厳経』『涅槃経』などとの関係ですね。中国の仏教学者たちが非常に苦労して、そういう関係を論理的に整理したわけですが、現代の仏教学から見ると、それが歴史的にどういう関係でつくられたのでしょうか。 『法華経』の成立 田村 近代になって、原典がヨーロッパを通して紹介されると、あらためて近代的な立場から経典が研究しなおされます。『法華経』についても研究しなおされたわけですけれども、問題は『法華経』の成立年代、あるいは『法華経』の中での各篇の成立の違いですね。そのことについては、いろいろな学者が研究しているようですけれども、私は布施浩岳氏の『法華経成立史』の説にほぼ賛成したいのです、2、3の小さい点では異論があるのですが。それによれば、『法華経』は、「授学無学人記品」第九と「法師品」第十の間で一くぎり入れられ、さらに「嘱累品」第二十一と「薬王菩薩本事品」第二十二の間でもう一つくぎりが入れられます。現在の羅什(クマーラジーヴァ。350?〜409?)訳の『法華経』には「提婆達多品」が第十二章として立てられていますが、これは天台大師あたりになって挿入されたもので、ここでは除きます。 ともかく、そういうことで、『法華経』は、第一類・第二類・第三類というように区分され、第一類は、西暦50年ころ、第二類は100年ころに、それぞれ1グループとしてできあがり、第3類は150年ころまでに、個々につくられて付加されていった、というふうに布施さんはいわれます。竜樹(150〜250頃)の『大智度論』には、『法華経』の最後の章まで引用されているので、第三類の諸章が付加される最終の時期を150年こると見るわけです。 伝統的な区分では、そのはしりが道生(?〜434)に見られますが、「安楽行品」第十三(第十四)と「従地涌出品」第十四(第十五)の間で線を引き、前半と後半に分けたわけですね。なぜそのように分けたかというと、前半では、いわば「宇宙の統一的真理」というものがとかれている。 『法華経』のことばでいえば、「一乗妙法」です。二乗ないし三乗、あるいは諸法を統一した真理、そういう統一的真理というものが明らかにされている。一方、後半では「久遠の人格的生命」とでもいいますか、現実の釈尊を通して、永遠なる仏の存在がときあかされている。要するに、常住の生命とか、久遠の生命というものが強調されている。そういうことで道生が最初に『法華経』を区分し、それを光宅寺法雲(467〜529)も天台大師(智。538-597)も受けついだわけですね。 梅原 ほぼ紀元後1世紀から2世紀にかけてということになりますね。それと『般若経』とか、『華厳経』との関係はどうなりますか。いちばん最初にできた大乗仏教の経典は『般若経』ですか。
田村 『般若経』が最初ですね。紀元後50年ころには「原始般若」ができていたと考えられます。『般若経』作成の意図ですが、それまでの仏教では、根本真理の「空」のつかみ方に誤りがあった。そこで空の観念をあらためてここで再認識というか、その概念をはっきりと規定しようとしたのだと思われます。そこで一応、『般若経』によって空の根本概念に目鼻がついたといいますか、それがさらに理論化されるのは竜樹あたりになってからのことでしょうけれども、『般若経』で原理的には確立された。次には、その空を、もう少し積極的に展開し、あるいは現実にあてはめていこうという考え方や運動が起こってくる。こうして出てきたのが『法華経』とか『華厳経』です。 梅原 『法華経』と『華厳経』とはどちらが先ですか。 田村 『般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』の順で、それに『無量寿経』『阿弥陀経』などの浄土経典を加えて、第一期大乗経典といっております。 梅原 『般若経』と『維摩経』はほぼ同じころですか。 田村 そうですね。相次いてできたもので同類のものと考えられています。第一期大乗経典は、およそ1世紀から3世紀ごろにかけて成立したものと考えられます。 『法華経』以後の経典 梅原 『涅槃経』はいつごろですか。 田村 そのあとになります。第一期大乗経典がほぼ3世紀までにできあがり、論者があらわれてさらに理論体系化します。それが竜樹ですが、そのあとに、あらためてまた経典が作成されます。それが第二期大乗経典といわれるもので、時期的には4世紀に入ってからで、その一つが『涅槃経』ですが、第二期大乗経典の結集のあとにまた論者が出ます。無着(310〜390頃)・世親(5世紀頃)がそうです。 梅原 他の経典はどうなのですか。 田村 第二期大乗経典は、如来蔵系としては『如来蔵経』『不増不減経』『大法鼓経』『央掘摩羅経』『勝髪経』『涅槃経』『無上依経』などがあげられ、阿頼耶識系としては、『解深密経』『大乗阿毘達磨経』などがあげられます。如来蔵経典は、第一期大乗教典で確立した「空」をさらにもっと積極的に主張するといいますか、つまり、内在的に概念づけていったものだといえます。 仏性とか、如来蔵という説がそうです。また永遠観ですが、『法華経』でも、永遠の存在とか永遠の生命を説いていますが、まだ『法華経』の場合の永遠者というものは対象的ですね。「私」にたいして、永遠なる仏が対象的なものにとどまっている。時間的にいえば、永遠という概念は、時間の延長にすぎない。ほんとうに時間・空間を突きぬけた永遠性というもの、ひいては永遠というものは、ただいま、この瞬間に、わがうちにつかまれるというような内在説にまでいっていない。そこまでいくのはやはり第二期大乗経典の中の如来蔵系の経典ですね。 その代表的なものが『涅槃経』です。光宅寺法雲は、そういう永遠性に惹かれたらしく、『法華経』を注釈しながら、『法華経』の永遠性は、仏の神通力で時間を延長したにすぎず、神通力が尽きれば寿命も尽きる、ほんとうに時間・空間を超越した絶対の永遠性というものは、『涅槃経』だということで、彼は『法華経』から『涅槃経』に移っていったわけです。ついでにいえば、如来蔵系の経典というのは、事物の本質面をときあかし、その現象面を分析したのが阿頼耶識系の経典です。 経典偽作の理由 梅原 そういうふうに次々と経典が釈迦の名でつくられた、そういうことは他の文化では行なわれたことがないのでしょうか。ヨーロッパでは、つまりキリストの名で、どんどんあとから経典が出てくるなどということは考えられないことですからね。 田村 さっき仏教の七不思議といいましたが、その七不思議の最たるものが、インドでは、そのように経典が次々とでっちあげられていったということ、しかも釈尊の名前を騙るわけですからね(笑)。 これは全く不思議ですね。 梅原 中国でも、孔子の名の著作はその後出ないでしょ。いくらあつかましい男でも、孔子の本がどこかにかくしてあったととり出してくるようなことはしない。インドだけですね、そういうことの起こったのは。しかし、インド人はそれを信じたのですか。それが偽作だとわかっていたのでしょうかね。 田村 ただ作為に偽作して、シャカはこういったとうそぶいたわけではないとは思いますが。(笑) 梅原 一種の創作が行なわれるわけですか。 田村 よくいわれるように、インド人には歴史意識がない。シャカにまつわる歴史的事実に、あまり関心がなかったのではないですかね。 梅原 自分の中にまで釈尊が入ってしまってるのでしょうか。だから事実とフィクションの差別の意識がなかったのでしょうね。あるいは自分と釈尊との区別の意識もなかったのかもしれない。これをつくりだした男は、一体どういう男なんでしょうかね(笑)。あるいは竜樹あたりがみずからつくりだしたのかもしれない。(笑) 田村 もう一つは、哲学的にいえば、インド人は普遍の世界、現実の歴史的時間を超えた普遍の世界へ自分を投入していく傾向をもっている。そういうふうなことは、歴史的現実の事実には、たいして関心がない。だから、あとからつくられたものでも、釈尊の歴史的事実は問題ではなく、それを超えた釈尊の思想が問題なのだということで、つまり、釈尊はこう語った、というふうになったのではないでしょうかね。 梅原 たしかに暑い所へ行くと、時間の観念がおかしくなりますね。私は昨年カンボジアまで行ったのですけれども、時間の観念がおかしくなった。インドヘ行った人の話だと、タクシーの運転手が、自分のおばあさんは126歳だといって(笑)、そういってるだけではなくて、ほんとうにそう思っている。そういうことからいえば、1世紀や2世紀は問題ではない。われわれの時間とは違った、別の時間に住んでいる。それにしても、よく経典の大量偽作という驚くべきことが起こったものですね。 田村 ですから、『法華経』ができ、インド・中国・日本で、それぞれ『法華経』の注釈がなされるわけですが、国によって、『法華経』にたいする目のつけどころが違っています。インドでは、前にいいました宇宙の統一的真理、普遍平等なる真理、または世界というものが強調されている。インドの仏教学者は、みんなそこに目をつけて、『法華経』のすぐれていることを主張する。たとえば竜樹の『大智度論』は『般若経』を注釈したものですが、その中で、『法華経』をすべての章にわたって引用しつつ、「二乗作仏」を一般的にいえば、『法華経』の普遍平等の説に目をつけ、その点に関しては『般若経』よりすぐれているとさえいっています。 羅什訳『法華経』 梅原 すると田村さんのお考えだと、大乗仏教が空という考え方を出したけれども、まだ『般若経』ではほんとうの空の積極性が出てこない。『法華経』が、その積極性を宇宙の統一原理にまで高めた。そこに『法華経』の独自な思想的位置があるといわれるわけですね。 その『法華経』にたいして、極端な見方があるといわれましたが、私も悪いほうの見方をした本ばかりいままで読んだので(笑)、どうも『法華経』にかんして一つの偏見をもっていたのです。ところが、最近若い学生さんたちといっしょに『法華経』を読んでみて、やっぱり『法華経』はすばらしいと思った。 和辻哲郎さんは『法華経』というのはドラマだというのですが、非常に雄大ですね。それにみごとなイメージの経典ですね。「薬草喩品」など、雨が降って、すべての木々が次々と成長していくという、そのイメージはすばらしいですね。宇宙に内在している仏性のイメージが、実に雄大に次から次へと展開していく。私はその意味で非常に文学的だと思うのです。そういうすぐれた経典が中国に入っていくことになる。そこで『法華経』を考えるとき、どうしてもぬかせないのが羅什だと思うのですよ。 田村 そうですね。『法華経』は、羅什が406年に訳したよりも前に、すなわち286年にすでに竺法護によって訳されているわけですが、これはわれわれにはちょっと読めない。悪く評すれば非常にぎごちない。それにくらべて、羅什のものは名訳であり、美文訳ですね。梅原さんが以前いわれたように、羅什の色気がそこににじみ出ているのかもしれませんね。(笑) 羅什の達意の訳としては、よく指摘されるのが、「方便品」第二の「十如是」ですね。羅什以外のものは漢訳本や原典チベット訳もふくめて、5つのカテゴリー、あるいはそのくりかえしになっています。それが羅什訳では、10のカテゴリーにみごとに整理されている。これは明らかに羅什の作為的なカテゴリーエン(範疇化)ですね。『大智度論』では9つのカテゴリーが立てられていて、それを応用したのだといわれます。 梅原 カテゴリーをですか。 田村 『大智度論』を訳したのが羅什ですからね。『大智度論』を書いたのは竜樹ですけれども、羅什が訳すときにかなり色づけしたのではないでしょうか。 梅原 塚本さんもそういう考え方のようですけれども。 田村 ともかく「十如是」一つとりあげても、羅什の作為的翻訳というものが見られる。厳密な文献考証的立場からすれば、問題となりましょうが、とにかくそういうことのできる人だったということですね。 梅原 『大智度論』というのは、『般若経』の注釈書ですね。けれどもその中で『法華経』を重視してますね。 田村 そうですね。さきにもふれましたように、『法華経』のほうが『般若経』よりもすぐれているというのですね。どこがすぐれているかというと、「二乗作仏」の点だというのです。小乗教徒は、結局、空を誤解してニヒリストになった。ニヒリズムにおちいったものはもはや成仏しない、ということで、大乗教徒から強烈な非難を受けたわけですね。 それが『法華経』にきて一乗平等の真理のもとに、あらためて目を開いて起死回生し、成仏できるのだという保障がえられた。これが『法華経』の「二乗作仏」の説、普遍平等の思想です。ここに羅什は目をつけて、それが説かれている点は、『般若経』よりすぐれている、といったわけですね。世親の『法華経論』というのは、インドにおいて、『法華経』そのものを注釈した唯一の書ですが、やはり「二乗作仏」とか、平等の真理とか、平等の存在とか、平等の世界が、『法華経』の特色として強調されています。 ともあれ、そういうことで、竜樹の『大智度論』では『法華経』が重視されたわけですが、さきほどの話に出ましたように、羅什が訳すときかなり手を入れましたし、『法華経』を訳すさいにもまた、非常に手を入れたところが見られる。 梅原 二重にプリズムが入っている。(笑) 田村 そうですね。羅什の人格、羅什の出生地、あるいは中国に来てからの考え方がどうだったのかとか、中国的な雰囲気にどれほどとけこんでいったのか、ということを、羅什訳の『法華経』を見る場合も、頭におく必要があると思います。このへんの事情はちょっとわからないのですけれども、どうですか。梅原さん、羅什については、たいへん興味をお持ちのようですが。 梅原 それは小説的な興味で(笑)。しかし、羅什の存在というのは重要ですね。それまで中国人に仏教が十分にわからなかったわけですからね。大乗も小乗もいっしょに入ってきて何が何だかわからない。このとき、インドの仏教を直接に知っている羅什がやってきて、中国仏教の伝統を創造する。 ところがその仏教解釈において、羅什の個性が強く影響しているという気がするのですがね。いわば羅什によって中国仏教の基礎がこしらえられたのですからね、天台智の思想を考えるときに、やはりどうしても羅什によってつくられた仏教思想の伝統を考えなくてはならない。智の思想という場合も、『大智度論』と『法華経』からくるのでしょうね。『大智度論』が思索の種でしょ。そのときいちばん中国仏教者を悩ましたのが、例の教相判釈の問題ですね。 教相判釈の問題 田村 私は教相判釈をあらためて再評価できると思うのです。当時の仏教学者のそれぞれの哲学があると思います。それぞれを哲学的見解と見ればいいのじゃないですか。 梅原 仏教の経典を釈迦の一生にあてはめたところが問題ですね。 田村 そこは問題がありますけれども。 梅原 大乗教典の中で、何がいちばんすぐれた経典か。その価値判断が教相判釈と考えられますね。 西洋哲学でいえば、つまり西洋哲学のすべてをソクラテス作ということにして、カントを選ぶか、ヘーゲルを選ぶかという問題になるわけですね。そんなことは長い西洋哲学の伝続の中では考えられないことですよ。その点が中国仏教の教相判釈のおもしろいところですね。 田村 たとえば天台大師の五時八教というような教判の場合、そのうちの五時とは、釈尊一代の説法を五段階に分けて、諸経をそれにあてはめたわけですけれども、はたして天台大師自身が、釈尊がそういうふうに説いたと信じて、その説を立てたかどうか。それほど素朴だとは思えない…。 梅原 日蓮はそう信じている。(笑) 田村 私は日蓮はそれを信じていたというのではなくて、一つの論証方法としてあったと思うのです。偽経ができたということは、すでに問題にあがっているくらいですからね。日蓮だって偽経説というのは知っているのですからね。だから単純に…。 梅原 それを全部偽経にしたら、大乗仏教はなりたたなくなる。(笑) 長い間、歴史的に発展した思想を釈迦の一生にあてはめるのは、むろんまちがいですけれども、これを大乗仏典の発展史と見ると、『華厳経』をのぞいては阿含、方等、般若、法華、涅槃の順になり、たいへん歴史的成立年代にも近くなる。だからその意味では、そういう前提さえぬけばたいへんよくできている。クロノロギーとしてもたいへんおもしろいのではないかと思うのです。 田村 ただ私は『華厳経』を最初にもっていったのは意味があると思うのですよ。結局、『般若経』で空の根本原理が確立されて、こんどは、そこで『法華経』と『華厳経』をくらべた場合、『法華経』は非常に総合的統一的なかたちで、真理を積極的に表現している。 『華厳経』のほうは非常に純粋なかたちで空の真理を表現しているわけですね。『華厳経』を読めば、だれもがそう感じたろうと思うのです。それで『華厳経』を最初にもっていったのですね。つまり釈迦の悟った直後の純粋な状態を表現したものだということです。牛乳でいえば、しぼりたての乳ですね。『涅槃経』に五味のたとえがあり、天台は最初の乳の味に華厳をあてました。ともかく、『華厳経』は、純一な真理に照らされた、まじり気のない理想的世界を説いたものであり、『法華経』は総合ですから、悪も善も全部…。 『涅槃経』に説く五味のうち、最後の醍醐昧というのは、最も牛乳が発酵して、最後の円熟した状態をいうわけですよ。だから私は学生に、どちらをとるかは、結局、本人の好みだっていうのですよ。自分はしぼりたての牛乳のほうがいいという人と、円熟したまろやかなものがいいという人とあるわけです。 『華厳経』を最初にもってきたわけも、そういう思想内容から判断して、教相判釈が立てられたので、そういう点をくみとるべきだと思います。 梅原 人生にたいする天台智の見方があるわけですね。初めは純粋なものを説いたけれどもむずかしすぎた。それでやさしいところから説きおこして、またむずかしいところへ入って、最後に『法華経』を説いた。初めと終わりとはだから、逆に近いわけでしょ。 田村 『華厳経』を最初にもっていくのは、天台以前の教相判釈で、すでに見えています。教判は、南北朝時代に代表的なものとして、南三北七、つまり、江南に三種、江北に七種があげられます。 インドでは、順序、次第をおって経典が成立していったわけですが、中国へは、そういう成立順序はおかまいなしに、見つけたものから翻訳していったわけですね。それで困ったわけですよ。こんなにいろいろあって、一体、どれがほんとうなのか。中国の当時の学者が成立順序を知っていれば、あるいは問題はなかったかもしれませんが、なにせ新しいものが先に入ってきたり、古いものがあとになったりして、雑多に入ってきたものですから、思想内容でもって価値配列づけがなされることになったのですね。結局は、それぞれの学者の哲学的見解の表明ですね。 そこで『般若経』を根本におくというのは問題なかったわけですよ。その上で『華厳経』『法華経』『涅槃経』の三つが注目される。『華厳経』は真理の純一性を説き、『法華経』は真理の統一性、『涅槃経』は真理の永遠性を説いたものですね。真理についての三つの属性というか、その特色が、それぞれ分担して説かれているわけです。『華厳経』は純一無雑なかたちでじかに説いた、ということで頓教と名づけられました。頓ということばは後に実践論に使われたり、認識論に使われたりして、いろいろな意味をもつようになりましたが、本来は釈迦が悟った直後の境地をじかに説いたものということですね。それにたいして『法華経』や『涅槃経』は漸教とされ、そのうち、『法華経』は、万善同帰教、『涅槃経』は常住教と定義づけられました。 南三北七の教相判釈は、結局、『華厳経』を真理の純一性を説いたものとして、アルファ、『涅槃経』を真理の永遠性を説いたものとしてオメガとし、この二つをアルファにしてオメガ、最初にして最後なるものとして最高視したといえます。『法華経』は、両者の中間に位すると考えました。いわば橋渡しです。『法華経』は、すべての思想を総合していて最後に『涅槃経』にバトンタッチする経典だということです。ところが天台大師が出て、『法華経』を最後にもってきて、『涅槃経』はむしろ『法華経』の付属物と見たのです。天台は仏教の統一形態、ないし体系の樹立を志し、そこで、統一的真理を説く万善同帰教として、この『法華経』を最後の段階においたので、ここから天台独自の教相判釈が生まれたわけです。 『法華経』の三部門 梅原 中国の教相判釈は、ほぼ三つの経典が中心でしょうね。どこに中心をおくかで、いろいろ考え方が変わってくるわけですね。 そこで、『法華経』ですけれども、前半が「二乗作仏」を説き、後半が「久遠実成」を説くという解釈になるのでしょうが、これは天台智の創造なのですか。 田村 その解釈は、道生から始まっているんです。道生というのは鳩摩羅什の門下で、鳩摩羅什といっしょに翻訳に参加した。羅什が翻訳したそうですけれども、羅什一人ではなく、共同作業ですね。ですから、いわば翻訳工場ですよ(笑)。彼らは翻訳したあと、互いに討議し合い、また注釈書を著わした。ところがその注釈書が、道生のものしか現在残っていないのですね。その道生の注釈書を見ますと、因門と果門というかたちで分けてある。つまり、前半は因門、後半は果門というぐあいです。 梅原 そうすると、すべての人に仏性がある。衆生に仏性があるというのが前半の因門、そしてそれが永遠の仏性のめざめというかたちで実を結ぶというのが結果ですね。それが迹門と本門ということになりますね。 田村 因果というのは、現実の事物をささえる原理ですね。そのような現実の理法でもって、『法華経』を解釈したところには、なにか現実尊重という中国的考え方がはたらいているのではないか、と思うのですが。天台大師は、そういう因果二門の分け方を受けつぎながら、迹門・本門ということばに置きかえたのです。 梅原 すると解釈も違ってくるわけですか。 田村 解釈は同じです。ただ道生の場合、果門が最後までではないのです。すなわち、「嘱累品」第二十一までですね。「提婆達多品」が加わってきますと、第二十二になりますけれども、当時は第二十一です。この第二十一章までで切ったわけです。そのあとは流通分、つまり応用部としたわけです。ところが道生のあとに光宅寺法雲が出て、『法華経』を注釈したさい、区分のしかたに少し変化が生じました。光宅寺法雲は、やはり因果二門ということばをうけ、同じ解釈を与えているのですが、ただ果門を最後までのばしてしまったのです。天台大師も光宅寺法雲にしたがって、最後までのばした。のばした上で、迹門・本門とした。ですからのばしたところに、ちょっと変化が出てきています。しかしつかまえ方は同じですね。成立史的な観点からいえば、「嘱累品」で区切ったほうがよかったと思いますが。 梅原 前半が宇宙の統一的原理、後半は人格的生命を強調したといわれる。前半には一種のカテゴリー論みたいなものが、はっきり出ているわけでしょ。「方便品」には如是というカテゴリー論が出ている。つまり、差異の世界、万物が差異でありながら、一つの統一をもっというのが前半。後半は永遠なる生命という思想が非常に表面に出てくるのではないかと思うのです。天台大師は、どっちを強調したのでしょうかね。 田村 日蓮にすれば、天台は迹門ばりだというのです。迹門に傾いているというのですね。迹門というのは仮の部門ということですし、本門とは真実の部門だということで、迹門・本門ということばからすれば、天台も後半に重点をおいたということがいえると思うのですがね。 ただし、天台と日蓮との間に違いが出てくるのは、日蓮になって、私のいう第三部門に注目したことです。日蓮のことばでは「第三法門」ですね。成立史的には、最初にふれた第二類の部分、すなわち、「法師品」第十から「嘱累品」第二十一(第二十二)までのところです。そこでは、殉教・殉難の菩薩行が強調されています。一口にいって、実践部門にあたるものですね。 この第三部門は、伝統的な迹門・本門という二部門にまたがるわけですが、日蓮は、本門と重なる部分、すなわち八章を特にとりあげ、「本門八品」ということを主張しました。『観心本尊抄』にはそれが説かれています。 梅原 それは非常におもしろい解釈ですね。私は漠然と読んだわけですけれども、「法師品」の前までは非常に比喩が多いでしょ。ところが次になると、人間のあり方が主に説かれてきますね。そして、またふたたび宇宙論が出てきますね。ちょうど宇宙論と存在論との間に、ダーザイン論、現実人間論が出てくる。そこに日蓮は注目したわけですね。 田村 そうですね。 危機の時代の意識 梅原 そこは天台ではどうなのでしょう。 田村 天台にはそれがありません。価値評価は別にして、最初に日蓮が目をつけた。たとえば、「法師品」に「如来使」というのが説かれている。このことばは非常におもしろいと思います。キリスト教の使徒意識に似たものを感じさせます。この「如来使」ということばはほかの経典を探しているのすけれども、ないですね。「天使」ということばは原始経典にあります。何を天使としたかといいますと、それは生老病死なんです。『天使経』とか1天使品」とかがあって、「お前は天使を見たことがあるか」「ない」「では、病にたおれて体が腐っている人を見たことはないか」「それならある」「それが天使だよ」というような会話が交わされています。つまり、人間の実存的な姿をたとえて天使といったものですね。 ところが『法華経』でいう「如来使」は、現実の苦難にたえて、真理の実践にはげむ者は、仏の使徒としてこの世に遣わされた者であるということで、非常に実践的な意味をもったものです。 梅原 それが「法師品」からはっきり出てきますね。そこがキリスト教的というか、ほかの経典にはところですね。 田村 だから、『法華経』は、ある特殊な階層によってつくられたのではないかという説も出てくるわけです。 梅原 私も最近まではそう思っていたのですよ。こんど読み返してみて、身にしみてわかったのです。いまの時代はそういうものを必要としているのですよ(笑)。『法華経』という経典全体がそうではないと思うのですが、危機の意識の産物ではないかと思うのですがね。危機意識が出てきます。最初の部分にある「方便品」「譬喩品」でしたか、火宅の話があります。火事がおきて家が火につつまれる。卜カゲなどがいっぱいいる。かたわらでは子供が、無心に楽しく遊んでいる。それが世界のイメージというものでしょ。現代もトカゲがいっぱいいたりしてあぶないわけですね。大学あたりでは(笑)。しかし一方で、人々はパチンコや競馬やマージャンばかりしている。これは危機を知らずに遊んでいる子供ですね。 田村 たしかに似てますね(笑)。『法華経』はフィクションにみちておりますが、そういうフィクションには、やはり材料が背景にあったのではないかと思います。「法師品」以降に見られる危機意識といいますか、苦難意識というものが背景にあった。それはなにも『法華経』だけの特別なものではなくて、当時の大乗仏教者、あるいは大乗経典に共通してあったのではないですか。『法華経』だけに限定する必要はないと思うのです。『法華経』はそれを非常に強調しているために、特殊な感じを受けるのですがね。 梅原 危機の時代における人間、指導者というのは、苦難を覚悟しなくてはならない。その苦難のすすめのようなものが『法華経』にはありますね。『法華経』というのは、インドの特殊社会から生まれたという説がありますが、それだけではすまなくなる。日蓮は『法華経』をやはりそういう危機の時代における人間のあり方を説いたものとして読んだ。あの時代は現代に似ている。一種の危機・変革の時代だった。 田村 疾風怒濤の時代ですね。 梅原 そういうふうに読んだときに、『法華経』というのはすばらしい経典だ。火宅のイメージは私も身につまされるんですよ。 田村 そういう危機意識に基づく経典の作成は、たとえば、『涅槃経』を読みますと、やはり法をそしるものといいますか、そういうものが非常に強く出てきてます。 梅原 日蓮も『涅槃経』についてはずいぶん言及していますね。 田村 ですから『涅槃経』がつくられたとき、大乗仏教グループにたいして、外から相当の攻撃があったのではないか。あるいは仏教内で、たとえば小乗仏教徒からの攻撃があったのではないか。あるいは一般社会に、なにかそういう危機意識を持たせるようなものがあったのか、ですね。特に『涅槃経』には武力の問題が出てきております。 梅原 ゲバルト論が出てきて…。(笑) 田村 時にはゲバルトにたいしてゲバルトをもって抵抗してよろしい、なんていうことを説いたりしていますね。 梅原 いままでの仏教解釈では、そういう点がよわいと思うんです。つまり『法華経』のもっている時代の危機意識、その危機意識の中でどう対決したか、そういう点がないから、仏教は生きたものとして見えてこない。仏教の問題は心の内部のものだけに限っている。日蓮の読み方には、そういう危機意識がある。智はその点どうなのですか。 田村 やはり危機の時代ですね。ただし、智が法華哲学をつくるようになったころには隋によって一応統一された時代です。智の家庭は侵略による不幸を受けはしましたが、隋の統一以後は、一応の安定がおとずれます。智も如来使ということばにふれてはいますが、殉教の使徒とか殉難の使徒としての如来使というような解釈は見当たりません。伝教大師も同じですね。 梅原 どちらかというと、智の考え方そのものが、空間的なのでしょうかね。五時八教という思想がありますけれども、それよりも『法華経』のもっている統一的な、いわゆる空間的な把握が…。 田村 ですから歴史的な変化、あるいは歴史的な形成というか、そういうウェルデン(生成)に欠けてくるというのは、そこに起因しているのではないでしょうか。 梅原 どちらかというと平安仏教、古代仏教というのは、空間的な要素が強いのではないですかね。 田村 強いですね。特に日本においては。 法華三大部 梅原 ところが智の著書として、例の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』は、三つともむずかしくて、これを解説するのはたいへんだったと思いますが。 田村 いや、全く四苦八苦の思いでしたね。 梅原 『法華玄義』では、「南無妙法蓮華経」ということばの解釈が一つの本になった感じですね。 これはどういうことでしょうかね。中国仏教独自のものだと思うのですよ。 田村 それはたしかにそうですね。悪く許すれば、ことばの羅列というのか、非常にカテゴリーエン的ですね。西洋哲学ではどうなのでしょう。 梅原 やはりザッハ(事情)を分析するのがヨーロッパ哲学の態度でしょうね。最初から最後までことばの解釈が占めるというのは、ちょっと考えられないのではないでしょうか。 田村 『法華玄義』では、最初に「妙法蓮華経」という題目について、名・体・宗・用・教、すなわち五重玄義といわれる一種のカテゴリーをきめておいて出発するわけです。しかし『法華玄義』は、読みようによってというか、思想をできるだけ発掘しようという意図をもって読めば、深い哲理なり、思想というものがくみとれると思います。 梅原 田村さんの第一部で非常におもしろいと思ったのは、例の十如是の解釈です。 田村 いや、それは梅原さんの西洋哲学からの見方ではどうなりますか。 梅原 カントのカテゴリー論などとくらべるとおもしろいと思います。魂の実体とか、そういうカテゴリーはないのですか。 田村 ないですね。そういう実体観は強く戒められていますからね。ただ、それが華厳には若干出てきます。 梅原 如来蔵思想になると出てきますか。 田村 『涅槃経』にはそれが出ていますが、しかし、そうなると仏教本来の立場に反するではないか、ということで弁明をつけ加えるわけですね。たとえば如来蔵は我だ、大我だなんてことをいい出します。ところがウパニシャドに見える実体説などと同じではないかという疑問がおこる。そこでまた空をもち出して、そうではないのだというのです。けれども、客観的にみれば相当に実体説が出てきますね。だからたえず弁明をくりかえすのです。 梅原 実体論というのは、魂の不死の思想とつながっているでしょう。ヨーロッパではそうですね。仏教のほうだとこれが因果でしょ。だからたえず生死の問題になる。永遠の生というのは考えない。道元あたりも一種の外道の説だとして、魂の実体説をしりぞけていますね。 田村 身滅心常説だとして否定していますね。 梅原 そういう論理的カテゴリーまでが、仏教の基本的な死生観みたいなものを反映している。それがおもしろいと思いますね。 田村 それは仏教の思想史の底をずうっと流れてきていますね。だから実体的な説が出ても、そのあとで、すぐことわり書きをつけるというわけです。 天台の三諦説 梅原 天台でやかましくいわれた例の空・仮・中の三諦ですが、あれはすでに竜樹にある思想ですね。 田村 天台も引用してますが、竜樹の、「中論」の「観四諦品」第二十四にあります。ただ、あそこでは、三つのカテゴリーになっていないで、二諦です。 梅原 中がないわけですね。 田村 空と仮とがあって、それがイコール、そのまま中だということで、分ければ、真諦と俗諦の二 つのカテゴリーとなる。それを天台が、空・仮・中という三つのカテゴリーに分割して、そして三諦を立てた。これは天台の解釈の誤謬だというふうにいわれたりするのですが、思想ないし哲学的立場から考えるとどうでしょうか。 梅原 空というのは、私のことばでいうと、リアリズムの否定だと思います。仮というのはニヒリズムの否定というわけです。リアリズムを否定しニヒリズムの立場になる。そのニヒリズムも否定して、中の立場に立つというのは、なにかいまの人間存在の本来のあり方を考えて、非常に微妙で深い哲学真理だという気がしますね。 田村 話が少し飛躍するかもしれませんが、西洋哲学者が、空・仮・中の三諦を弁証法にあてはめてみて、円環の弁証法だっていうのですよ。そこには歴史的なウェルデンがない。くるっと円でかこまれてしまう。へーゲルやマルクスの弁証法には、対立を基点とした無限の歴史的生成がある。ところが天台では、中を強調しすぎたせいか、くるっとつつみこまれて、そういう意味では強烈な歴史的生成がないというのですがね。 梅原 私は対立によってものが生成するなんてウソだと思うのですよ。つまり弁証法というのは、ヨーロッパでは闘争によって歴史が発展してきた、その歴史の論理化が、弁証法だと思うのですよ。このまえ、「スキタイとシルクロード展」を見ましたが、スキタイの遺物には、ギリシャ人の彫刻した猛獣の喧嘩の図が多い。猛獣の闘争が彼らの歴史のイメージでもあり、弁証法にも通じるわけですよ。歴史の発展というのはそんなものではない。弁証法の肯定・否定・否定の否定としての肯定というあの論理は、一種の猛獣闘争説を人間社会にあてはめた考え方だと思います。だから天台には西洋の弁証法がないから、空・仮・中の論理がまちがっているなどとはいえません。西洋哲学でいえば、むしろヘーゲルより二―チエの考え方に近いのではないかと思うのです。たとえばニーチェにとって世界は、空しいものである。ところが、世界は空しいものであるという見解にとどまったらだめだ。それは単なるネガティブなニヒリズムだ。ネガティブなニヒリズムからポジティブなニヒリズムにかえらねばならない。もう一度世界にたいして肯定をいわねばならない。天台の空・仮・中の論理はそういう論理に近い。すると天台思想というのは、非常に現代的な、つまり積極的ニヒリズムの性格をもっている。 田村 こちらの立場を擁護して、西洋哲学の弁証法を批判すれば、むこうの弁証法には解決ということがないのですね。永久に対立的展開をするばかりで解決がない。そこがこちらでは解決されている。そう簡単にはいえないかもしれませんけれども、論理的には解決というものが存在しているといえなくはない。しかし、天台の論理には生成がないということはたしかにいえると私は思いますね。 梅原 ただし、西洋の弁証法が絶対に正しい、それにたいしてこちらはそれがないからだめだとはいえない。仏教は仏教で、また生成概念が出てくるのではないですか。鎌倉時代の日本仏教思想には、時間性と歴史性を強調しているでしよう。だから弁証法だけが歴史の見方だとはいえないと思うのですよ。 田村 たしかに、鎌倉時代になると、生成の概念が出てきます。私もそうだと思うのですが、それでは、一体何を材料として生成概念が出てきたかということですね。鎌倉時代の祖師たちが、当時の変転きわまりない歴史的現実というものに対する個的体験、内的体験を通して生成の観念を身につけたのか、あるいはそういう観念を身につけさせるなにか材料があったたのか。ともあれ、私はそこに華厳がよびだされると思います。もともと日本では、伝教大師最澄の時から華厳が入ってますね。ですから、最澄の世界観というのは華厳だと思うのです。空海もそうですね。『十住心論』を華厳から編み出しましたね。最後は真言にいきましたけれども、その根本の論理的なはこびは華厳哲学ですよ。最澄の場合は、非常に華厳的だけれども、形態的な統一仏教の必要を感じ、そこで法華に目を移した。そこで日本の天台も初から非常に華厳的です。その華厳には、天台思想に欠けている生成の観念がある。 梅原 私は華厳をよく読んでいないのですが、『法華経』だと多の一といっても、多が非常に強調されて、そのうちに多が一となり、多が統制的にまとめられているような気がするのです。ところが、華厳だと一が最初にあって、一からすべてが出てくる。いわばプロチノス的な発出論的な論理がある。だから、たとえ時間が、生成が強調されていたにしても、全部が一から発するような発出の時間ではないか。しかし、その最初から永遠の一があるという立場でほんとうの時間が考えられるのか。 田村 自己展開ということですね。結果的には、私もそうだと思います。天台と華厳をくらべた場合、どちらから生成の観念が出てくるかということになると、華厳のほうに可能性がある。しかし結果的には、いわゆる歴史的形成という意味での生成の観念はついに出ないでしまったと思います。 梅原 ただ私は、日本の古代仏教の場合、歴史とか時間性というか、瞬間に生きている人間の個体性というものが、よわかったような気がしますけどね。 田村 私は、中国においても、天台も華厳も禅をもふくめて、総括的にそれはよわかったと思います。インドにくらべて、中国では非常に現実が重視されていますが、いわゆる個的対立とか、生成をおこすような現実の直視はないような気がします。 天台本覚思想の起源 梅原 もう一つ、田村さんに教えられて、これから少し勉強したいと思ったのは、いわゆる本覚思想ですね。いままでも口ではいろいろにいわれても、本覚思想というものが、日本天台独自の思想であり、同時にあの鎌倉仏教の母胎になっているということ、つまり天台思想からすぐ鎌倉仏教が出てくるのではなくて、天台の中で本覚思想が熟してきて、そこからいろんなものが生まれてくるわけでしょ。その本覚思想の重要性が、これまでほとんど考えられたことがなかった。日蓮を読んでいても、やはり本覚思想の影響をぬきにしては考えられない。本覚思想は良源(慈恵大師。912〜985)に始まる。良源から檀那流と恵心流が分かれて、どっちかというと恵心流のほうが主流ですね。源信(恵心)あたりから始まるわけですね。法然にしても道元にしても、そういう本覚思想の影響をうけている。そうすると天台本覚思想というのは、日本独自の思想で、その中から、しかもその枠を破って、鎌倉仏教が出てくるわけですね。この本覚思想とはどういうものなのか。ここに日本天台を解くカギがありそうに思うのですがね。 田村 そうですね。天台本覚思想というのは、これまであまり注目されなかった。最近歴史学者などが本覚思想に注目しはじめましたね。日本の中世文学にしても、芸術にしても、本覚思想をぬきにしては考えられないというようにいわれてきています。鎌倉新仏教の祖師たちも、結局はこの本覚思想から生まれたわけですから、本覚思想を否定するにしろ、肯定するにしろ、無視できないものとして、当時の思想界の背景に存在したということですね。 梅原 本覚思想がどうしてできたのかを考えてみたいと思います。 最澄の場合は、ほぼ智の直輸入だといってもいい。それが円珍・円仁になると密教の影響が強くなってくるわけでしょ。そこで密教と天台思想をどう総合するかが理論的な課題となるように思うのです。ところがさきほどいわれた華厳がありますよね。密教と華厳、それに『大乗起信論』あたりの如来蔵思想の影響があります。それらがどう結合されて日本独自の本覚思想になったかということですね。 田村 天台智頻は『大乗起信論』を全然引用していないのですね。『小止観』に一ケ所引用されていますが、その部分でさえ、あとから挿入されたものだといわれます。 梅原 最澄には『起信論』がとり入れられていますか。 田村 最澄には入っています。中国で華厳哲学が起こり、『起信論』を活用するわけですが、唐代になって、天台6祖の妙楽大師湛然(711〜782)と華厳4祖の清涼大師澄観(738〜839)の間に論争が展開されたとき、それぞれの立場に立ちながら、相手の理論を自家薬籠中のものにして論争しました。だから『起信論』のいわゆる真如随縁の説や、華厳の生成の観念を湛然は自己にとり入れた。したがって以後の天台には『起信論』の思想が入ってくるわけです。最澄は湛然の弟子の道邃・行満から教えを受けたので、当然『起信論』は入っていました。最澄自身、天台法華を学ぶ前に、行表から華厳や『起信論』の書物を教えられ、すでに研究ずみなのです。 そもそも天台本覚思想の本覚ということばは、『起信論』にあるもので、内容的にいえば、最澄においても、すでに天台本覚思想はあったといっていいのかもしれません。はっきりと具体的にあらわれてくるのは慈恵大師良源あたりからですね。円珍・円仁では密教が大幅にとり入れられ、天台は密教化するわけですけれども、良源が出て、ふたたび天台法華の正統にもどします。しかしそれは形態の上でもどしたのですから、思想内容としては、それまでのものを継承、推進していくのですね。いわばあらためて法華の器に盛るわけです。 梅原 それはおもしろいですね。 田村 法華の器に盛ることによって、天台本覚思想というものが熟してきたといえますね。 梅原 そこで永遠性が強調されるわけですね。 天台本覚思想の本質 田村 天台本覚思想を時間論でいえば、「永遠の今」説です。西洋哲学でいわゆる「永遠の今」、私は「絶対瞬間の永遠」というのですがね。要するに時間的にしろ、空間的にしろ、人間の思考の限界を、最後の一線で突破した彼方に展開される世界を理論づけたものです。カテゴリーエンすれば、絶対的一元論ですね。絶対的一元の世界を哲学的に理論づけたものです。原理的には、古くから仏教にはそういう考え方はあります。空観を基調としてあったわけですけれども、本覚思想はそれをつきつめていって理論化した。だから島地大等さんなども、天台本覚思想は、仏教哲学としては究極のものだといわれたわけです。天台法華・華厳・起信論・密教・禅といった当時の代表的な大乗仏教思想が、日本には総決算のかたちで入ってきた。それを受けとめて、総合し、一つの哲学に体系づけたのが天台本覚思想です。 梅原 もう少し整理しますと、良源に始まって…。 田村 良源で具体化し表面にあらわれて…。 梅原 完成者はだれですか? 田村 それはわかりません。完成というより、一応の整合は平安末期ですね。いちばん深奥の真理というわけですから、書物には書かず口伝方式をとりました。密教にあった方式ですけれども、天台本覚思想もそれをもっぱら採用しました。ほかに切紙相承という方式もあります。小さな紙きれに秘伝を書くのです。おもしろいことに、中世の日本の文芸はみんなこの方法なのですね。 梅原 たとえば何がありますか。 田村 世阿弥の『花伝書』がそうでしょ。生け花でも、茶道でも、すべてそういう口伝方式がとられています。 梅原 文底秘沈の法則。(笑) 田村 現在にいたる日本の文化・芸能というのは、南北朝から室町にかけてできあがったものだと思ますが、たとえば池坊の第12代にあたる専慶(1460年代)に「古今遠近を立つる」という口伝があります。生け花の極意をいったものとされますね。『花伝書』も、もともと口伝で、一般には公開されなかったといわれますね。こういう口伝形式は、天台本覚思想からきていると思うのです。 梅原 だれが完成者がわからない。大乗仏教と同じ…。(笑) 田村 天台本覚思想は、最初はそういうふうに口伝や切紙相承で伝えられましたが、平安末期になって、それらを総括して一冊の本に編集しようとする運動が起こってきた。 梅原 なんという本ですか。 田村 最古のものでは、『本理大綱集』とか『円多羅義集』です。後者は日蓮が写しておりますね。 それから源平合戦の時代に、その争乱をよそに叡山の奥深く住み、ひたすら真理を探求した宝地房証真が、『円多羅義集』にふれています。それは、証真が天台三大部を注釈した『法華三大部私記』の中に見えます。ただし証真は、正統派というか保守派というか、本覚思想にたいしては批判的な立場に立ちました。 ふつう一冊の書物にしたときには著者名を入れますねえ。しかし本来口伝だったものはだれが著者だといえないわけですよ。そこでどうしたのかというと、前者は伝教大師最澄作、後者は円珍作とか恵心僧都源信作としたわけです(笑)。そのために現代の私たちを大いに悩ませました。(笑) 梅原 日本でも大乗仏典と同じことが起こったわけだ(笑)。それに関連して、以前出たテレビで話に出たことなのですが、平安末期というのは、芸術の分野でも日本の美の最高点を示すものが出ているということなのです。歌でも文学物語でも絵画でも、平安末期というのは恐るべき時代ですね。そこでいまの天台本覚思想という醍醐味ですね。醍醐昧というのはたいへん甘いものですが、同時に腐りやすい。(笑) 田村 南北・室町時代になると熟しすぎて頽廃してきますね。梅原さんは爛熟したあたりがおいしいのだといわれるかもしれませんがね。(笑) 梅原 そういう爛熟したものの一つの精髄ですね。瞬間の中に永遠がある。だから生きているわれわれの中に、ほんとうの仏性が宿っているのだ、というのは非常に深いメタフィシックだな。 田村 ですから、たとえば生と死の問題、前にちょっと出ましたけれども、天台本覚思想の立場からすれば、空もまたよし、死もまたよし。つまり生も永遠なる真理の一つの活現態であれば、死もまた永遠なる真理ないしは生命の活現のすがただということで、生死を肯定し、達観しているのです。 梅原 そういう考え方は、鎌倉時代の祖師たちにほとんど共通してありますね。 親驚・道元・日蓮 田村 親鸞にしても、道元にしても、また日蓮にしても、根底には天台本覚思想が流れています。そ れは現実における実践力を獲得するためだったのですね。つまり、天台本覚思想の絶対的一元論によ りながら、現実救済ないしは実践の面から、天台本覚思想を出て相対的二元論におりたったというこ とですね。 梅原 生死の問題というのは、道元でも生と死は離れているのではないとか、日蓮では生死血脈なんていうでしょ。それはやはり、生と死が一体だ。しかも瞬間の中に生死が宿っているということですね。道元や日蓮を読んでみて、同じようなところがあるというのは、やはりこの本覚思想から出ているからなのですね。 田村 道元は「永遠の今」をいいますね。「有時の而今」ということが、それですね。『正法眼蔵』の注釈者として有名な天桂伝尊(1648〜1735)は、「有時の而今」を「久遠即是今日」と注釈した。これは天台本覚思想で盛んにいわれることです。たとえば昨日の日月も波も、今日の日月も波も、明日の日月も波も、すべての日月や波には変わりがないということで、「久遠即是今日」を主張しています。天月と池月でたとえてもいます。 道元が盛んに使う比喩ですね。ふつうは池に映った月の影から空の月に目を向ける。そして空の月こそが真実だという。ところがそうではない。空の月も、池に映った月も、それぞれがともに真実の月だ、と説いております。つまり、池に映っている月は影ではなくて、空の月の一つの活現のすがただ。こういう場所におけるこういう形の月なのだというわけです。そういう場にいかされた月、そこにこそ、月の生きたすがたが存する。だから池の月から空の月に目を移す必要はないといっております。 梅原 道元の中には、華厳的世界の影響が強いように思うのですよ。それがどこからきたのかというと、『臨済録』にも『碧巖録』にもない思想だと思います。そこを天台本覚思想というものを媒介にするとよくわかりますね。「永遠の今」という場合、鎌倉時代の仏教というのは、「今」のほうにウェイトがかかっていますね。 田村 そうなのです。その点が天台本覚思想と同じです。「今」にウェイトをかけ、「今」を絶対肯定しています。 ただ、鎌倉時代の祖師たちは、歴史的現実としての「今」をつかんだわけです。ところが歴史的現実の「今」は相対的なものですから、天台本覚思想の絶対的「今」との二つの間にはさまれて苦悩したわけです。 梅原 その点は共通してますね。 田村 法然は歴史的現実としての「今」は相対的世界であることを強調し、そこにおりてきて救済論理を回復するために浄土教をよりどころとした。ところがあとの親鸞や道元や日蓮たちは、あらためて一つの難問、アポリアにぶつかった。法然における歴史的、相対的な現実としての「今」は、当時の現実相を見つめれば無視できないし、哲理としては、天台本覚思想の絶対的「今」も、深遠なものとして無視できない。そこで思想的に苦悩したのが親驚・道元・日蓮だったと思います。 日蓮の永遠性と時間性 梅原 それは宗教のいちばん大切な問題ではありませんか。永遠の問題と時間の問題はね。考えてみると、現代人の心には、歴史ばかりがあって永遠がない。歴史的な人間には進歩思想しかない。しかし人類ははたしてそれだけでいいのかどうか、たいへん疑問に思うのです。人間というのは、やはり永遠と歴史的時間と、この二つの交錯の中で生きてきたのではないか。ところが現代人には永遠がない。そういう根源的な悩みを親鸞も日蓮も提出しているのですね。日蓮という人は、意識においては非常に天台が強かった。最初は自分でも天台の復興者だと思っている。しかし法然に対立する必要があったわけで、そうなると法然の末法史観をそのまま認めて、末法の時代に流行するのは浄土経典ではなく『法華経』だというわけですね。と同時に、易行、易行というけれども、「南無阿弥陀仏」というのは易行にちがいないが、もっと易行がある。それは「南無妙法蓮華経」だという。あの題目は日蓮の発明でしょうが、そういう易行の論理と末法の論理で法然を否定した。法然を否定するつもりが逆に法然の影響を受けた。そこでいまの永遠という観念から歴史性の観念が強く日蓮に出てきたと思うのです。 田村 それは私も同感です。日蓮における歴史的現実の意識は、当時の時代にたいする感覚、あるいは時代社会にたいする自己体験というか、特に受難というものを契機として出てくるわけですが、思想的には法然の影響が濃厚であるように思いますね。 梅原 相手にしているうちに、いつのまにか法然がはいりこんでしまった。意識においては天台復興者のつもりだったけれども、実は自分の最初の志とは違ってしまった。その違いに気づいたのは佐渡へいってからだと思いますが。 田村 私は、日蓮の生涯を3つに分けられると思うのです。『立正安国論』作成ごろまでの30歳代は、天台本覚思想そのものですね。そこでは世界観は絶対的一元論に立ち、時間的には永遠の「今」を説き、法然の相対的二元論をつくわけです。それがよくあらわれているのは『守護国家論』です。それが、『立正安国論』以後、伊豆流罪などの受難を経験していく40歳代になると、しだいに現実対決的となり、歴史主義的なカテゴリーを立ててくる。伊豆流罪中の著書に見える教・機・時・国・序の五綱判といわれるものがそれです。さらに佐渡流罪以後、身延退隠にいたる50歳になると、現実を改変した仏国土を建設することは未来に託し、みずからは現実を超越した世界にひたっていく。私は、日蓮のこの三段階は、茶道でいわれた守・破・難の概念をあてはめることができるのではないかと思います。すなわち、日蓮の30代が守、40代が破、50代が離にあたるといえるのではないか。ところで『守護国家論』などを見てもわかりますように、はじめは法然における来世浄土や臨終正念の思想を一元論的立場から否定したのに、佐渡から身延時代になると、来世浄土や臨終正念をこんどは積極的に説きだしてくるのですね。そういうところに、法然を否定しながら、法然の影響を受けたといいますか、関係していると思われます。 梅原 私はきわめてアイロニカルな見方で、価値復興者としてあらわれた日蓮が、その意識では、価値撹乱者としての法然を否定した。ところがいつのまにか、自分が新しい価値の創造者になっていたと考えます。だから価値復興者日蓮と、佐渡以降の価値創造者としての日蓮を考えると、もともと天台思想から出てきたのでしょうけれども、日蓮はたいへん独自な天台思想の解釈者、あるいは新しい日蓮思想の創造者になった。 日本文芸思潮とのかかわり 田村 そうですね。日本的なという場合、天台の思想、もっと広げて仏教思想と日本文化の問題ですね。日本の文芸思潮とのかかわりあいといってもいい。その問題は、天台本覚思想を考える場合に是非とも必要だと思いますよ。 梅原 たとえば『源氏物語』がありますね。「匂宮」以下を「宇治十帖」といいますけど、実際は光源氏以後の話は十三帖ですが、そこでの物語は、それ以前の部分とは全く違っているでしょ。浄土教的な考え方が強い。その前の部分は密教的というか、台密みたいな非常にはなやかな世界がある。すばらしい生命が湧きあがっている。ところが「宇治十帖」になると、絶望感、無常感がたちこめてくる。いわば『源氏物語』という作品の中に平安時代の思想史みたいなものがそのままあらわれているかのように感じますね。そこに天台本覚思想をおいてみること、これは少し大胆な仮説になるかもしれませんが、例の「玉鬘」の巻の中に、文芸論みたいなものがありますね。そこで、小説というものは、一種のフィクションだという意味のことをいってます。いいかえると空なるものだ。空なるものだけれども、実は現実の正史、たとえば「六国史」とかよりもむしろ真実をあらわしている、というような理論がある。私はこれは例の空・仮の論理を背景において考えられたもののような気がしてならないのですがね。 田村 私もそう思いますね。よくいわれることに、日本文化には思想、ないしは哲学がないといわれるでしょ。なるほど分析的な理論展開はないかもしれませんけど、しかし別な意味での理論はあると思うのですよ。中世の世阿弥の『花伝書』ですね。あれはすぐれた芸術理論ですね。 ですから、日本の文化、あるいは芸術に一つの理論構成がなされた。そういう理論構成のもとになったものは、仏教ではなかったか。すでに『源氏物語』がそうなのですね。次にこれを仏教のほうからいえば、日本の仏教というものは、ただ仏教だけで考えでいいものかどうか。天台本覚思想一つをとりあげても、やはり日本の文化ないしは日本の文芸思潮、そういうものとの関連において考えなければならないものだと思います。反対に、日本の文化なり、文芸思潮のほうから見る場合も、仏教との関係において見なければならないのではないか。『源氏物語』についていえば、本居宣長は仏教的なものをきらって、仏教の入らなかった日本がいちばん正しいのだとして、仏教の影響を『源氏物語』からとりのぞこうとしましたね。 梅原 私は『地獄の思想』でそのことをいったのです。するとある先生がそんなことはない、宣長は仏教が大好きだったのだ、彼はやはり仏教なのだといわれる。『源氏物語玉小櫛』で考えた場合、彼は仏教が好きかどうかはともかく、やはり仏教と『源氏物語』との関係をまじめに考えていなかったと思うのですよ。だけど私は、宣長自身引用しているのが、例の文学論「玉鬘」のその部分でしょ。それは空・仮・中の論理ですね。それを考えずにはあそこを理解できるだろうか、ということになると、やはり決定的なところで宣長は誤っていると思います。宣長の仕事というのは、ある意味でルネツサンス運動ですから、中世をきらった。中世をきらったから仏教をきらった。島崎藤村が、父親が平田篤胤の弟子で、気狂いになってしまった青山半蔵をモデルとして『夜明け前』を書いた。そこで晩年の藤村は、中世というものを見直さなければならないのではないか、といっているわけですよ。やはり宣長・篤胤の線は、故意に仏教との関係を見ようとしなかった。その線が日本の文化史の見方を定めている。そこの面を改めないと、そういう問題意識というものは出てこない。 田村 たとえば中世の歌論についてですが、藤原俊成や定家の歌論書の中に天台の『摩訶止観』などを引き、それに基づいて歌というものは詠まれなければならないといっておりますね。ですから、歌論における幽玄の理論などは、天台法華思想や本覚思想との関係から見直される必要があると思うのですが。 梅原 宣長みたいに仏教と文学の関係を切ってしまうことは、文学をやる人に思想の問題をまじめに考えさせないことになる。思想といえばすべてマルクス主義になってしまう。日本の文学者が思想と文学というときは、マルクス主義と文学という意味ですよ。それはとんでもない話で…。 田村 それ以外は思想ではないというのは困ったものですよ。 日本文化の本質 梅原 『源氏物語』というのは、その後の文学にないような大文学だと思うのです。そういうすばらしい文学がなせてきたか。やはりそういうものは思想の影響なしにできるものではない。その思想は仏教だ。それをもう一度認識しなおさないと、今後の日本にはそういう思想的な小説が生まれえないと思うのですよ。だから日本の文学を思想から見直すことは、今後の日本文学を考える上でも、非常に大切なことだと思うのですよ。ですからいまの和歌のことでも、定家は『摩訶止観』が非常に好きですね。俊成にしても天台止観的ですよね。ですから中世の歌論と天台止観とのつながりを当然考えていいわけですよ。これまでそれはほとんど問題にされなかったですね。 田村 私は宣長の「もののあはれ」論というのは肯定したいのです。ただそれを仏教と切りはなすところに問題がある。 梅原 私もそう思います。 田村 仏教を吸収しつつ、それを日本的に消化し、再生産したのが「もののあはれ」というかたちになった。「もののあはれ」という観念が仏教との関係なくして出てきたのだとする解釈はまちがいだと思います。問題は天台法華にしても、ほかの仏教思想にしても、日本の文化の中に吸収されていって、どういうかたちで再生産されたか、ということではないかと思うのですがね。 梅原 宣長の気持もわからなくはないのです。特に道徳と文学との分け方で、文学的価値と道徳的価値というのは違うのだということがいいたかった。道徳的価値というのは主として儒教の考え方だと思うのです。儒教の勧善懲悪というのは文学の理念ではない。文学というのは別の独自の価値をもっているという考え方なのですね。文学の価値というのは欲望的人間をありのままに書くのだ、という考えなのですね。坊さんが恋歌をつくる。それはよいことではない。人間一皮めくってしまえば色と欲だ。これは私にもよくわかる。(笑) 田村 天台本覚思想でも、南北・室町時代になって、爛熟してきますと、煩悩のふるまいを、そのまま積極的に肯定してきますね。それも真理の活現のすがたとして、真理からはずれたものではない、ということです。すべては仏のふるまいであり、仏からもれるものはないというわけです。ただとらわれたものはいけないというのです。とらわれないで人を殺すならいいというのですよ。だから女性の問題も……。(笑) 梅原 『太平記』というのはそうでしょ。あれは不思議な世界だと思うのです。それから世阿弥。あれは悪の世界ですよ。最後になんとかワキがシテを救うでしょう。やっと最後に救われる。本覚思想というのは能までいくのではないですか。 田村 本覚思想の中で考えうる問題かもしれませんね。一方で天台本覚思想も、南北・室町の日本文化の傾向から考えるべきかもしれませんね。女性の問題にしても、とにかくとらわれなきゃ、浮気してもいいっていうのですよ。女性と交わっても、とらわれるから三角関係だとかなんだとか、悲劇がおこるわけですよ。 梅原 それは便利な話だな(笑)。女房をとりかえるとかいう話もあった。これは聞き捨てならないですよ。(笑) 田村 いや、ほんとです。だから仏が浮気し、仏が悪をするならいいとするのですよ。とらわれるから、そこに悲劇が起こるということで、とらわれないで、サッパリすれば…-・。どうですかこの考えは。 梅原 必ずしも肯定しないけれども(笑)、しかし、一休なんかもそういう考え方らしいですね。 田村 時宗の一遍などにも、天台本覚思想のことばがしきりに出てきます。『一遍上人語録』に、それが見えています。一遍の始めた「踊り念仏」は、室町時代に「念仏踊り」の庶民芸能となって発展していくものですね。そういうことで、一遍と天台本覚思想と室町文化は、きわめて関係ふかいといえましょう。 ところでおもしろいことに、親鸞は女房を持つことを肯定したのに、一遍はむしろ否定したのですね。『一遍上人語録』に、妻子を持つ在家者は上根のものであって、下根の者は、すべてを捨てて出家者たるべきである、という逆説的なことが説かれているのです。ちょっと考えると、天台本覚思想の影響を濃厚に受けながら、それと反対のことをいっているような感じがするのですが、実はそうじゃかい。妻子など固定したものを持つと、とらわれがおきてだめだということなのです。 天台本覚思想は、とらわれるな、固定観念をいだくなということを強調し、ひょうひょう自在に人生を享楽することをすすめたのですね。そのはてに、とらわれなく、広く女を愛せよ、欲望に自然に身をまかすべし、悪をなすもまたよし、と説くにいたったのです。ここまでくるとあぶない。ですから、もとは一般には公開せず、秘密・口伝としたわけです。しかし南北・室町時代になると、おおっぴらに公開した。結果は、天台思想自身の頽廃をまねく。玄旨帰命壇が、その典型的あらわれです。 梅原 悪の肯定ですね。それは私も『太平記』を読んで感じましたよ。これは『平家物語』とは違う。結城なにがしという憎悪のかたまりのような人間が出てくるでしょ。世阿弥の保護者であった佐々木とか、こういうなんともいえない悪いやつが出てくる。しかし悪いやつを悪いとはいっていない。そこが『太平記』と『平家物語』の違いだと思うのですね。いまの田村さんのお話でよくわかる気がします。世阿弥の能は、シテがまず悪ですよ。善はシテではないし、けっして救われない。すベてが悪い煩悩です。それが最後にワキの祈禱によって救われる。最後は即身成仏みたいになるわけですね。それを天台本覚思想で考えると、たいへんおもしろいですね。なにか日本文化の秘密を、新しい視点から見るような気がする。 田村 特異な日本文化の秘密を解くカギは案外天台本覚思想にあるのかもしれませんね。 梅原 これはいままで未知の分野だったわけですよね。これはおもしろかった。 (『仏教の思想5 絶対の真理(天台)』1970年1月角川書店刊) http://home.att.ne.jp/blue/houmon/books/tamura&umehara.htm 本来の釈迦の教えは深層心理学的な宗教理解で典型的な唯物論・無神論だったので、弟子全員が結束して釈迦の教えを絶対に人目に触れない様にした。
そしてその代わりに一般大衆向けに捏造・流布されたのが通俗的宗教ビジネスを集大成した法華経だったという事ですね。
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