パウロ書簡から史実のイエスを傍証する ちなみに、パウロ書簡は現存する最古のキリスト教文書ですが、新約聖書の約3分の1を占める膨大な量であるにもかかわらず、そこには史的イエスの描写が「一切」といっていいほど存在しません。唯一つの例外は『コリント人への第一の手紙』(11:23〜26)で、そこに、
「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行ないなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」 という記述があります。たったこれだけです。 これでさえ、死の影にほとんど包み込まれたイエス、生身のイエスの消滅を前提とした最後の晩餐でのイエス、それもその教義的解釈の枠内でしか史実のイエスを記述していません。これを史実のイエスへの言及と言っていいかどうか? パウロがイエスに触れるのはキリストとしてだけ、つまりその十字架の死と復活と栄光の来臨についてだけであり、それもそれぞれについての神学的意味づけに関してだけです。 パウロは「意図的に」史実のイエスには触れません。 イエスがどのような家庭に生まれ育ち、いかに成長し、いかなる目的で伝道を始め、どのような集団を構成し、どのようにして死に至ったかについては何も語りません。 つまりそこには肉のイエス論(生前のキリスト論)はなく、霊のキリスト論(死後のイエス論)しかありません。『コリント人への第二の手紙』第5章16節には、 「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方はすまい」 と記しています。手紙としてこれを記しているというのは、読む人々にも「そのようにしなさい」と薦めてもいるわけです。 肉のイエスに関わる「作り話やはてしない系図などに気をとられることのないように、命じなさい」とも記しています。 「もうそのような知り方はすまい」というパウロの態度は、史実のイエスへの単なる無視ではなく、むしろ拒否を意味しています。 しかし、もしマタイ、マルコ、ルカなどの共観福音書で描かれたように、十字架贖罪死へ意図的に歩むイエス像が史実として正しいならば、最強最大の十字架贖罪論者であるパウロがイエスの言行についてほとんど一言も触れないのは言語に絶する不可解なこととなります。
そこには当然十字架贖罪死へ向かう感動的なイエスの言行が数限りなく存在した筈だからです。 なぜパウロはイエスの言行について一切触れなかったのでしょうか?
この重大な問題については、ふつう、「史実のイエスと直接接触のあったペテロ・ヤコブ・ヨハネなど直弟子たちに対する劣等感からくる反撥や開き直りかもしれない」と解釈されて、納得が求められています。 しかしパウロ自身のそのような個人的な境遇が救い主の生涯そのものへの無視へと続くことは決してありえません。これはさも解答があるかのようにみせる一種の誤魔化しや誤導です。 とにもかくにもイエスは彼と全人類にとって「神の子」で「救い主」だから、そのイエスの生涯について一言も語らないというのは、本当は信じられないほど奇妙なことなのです。 その奇妙さを実感していただくために、ここでひとつ質問してみたいと思います。もしあなたの命の恩人がいて、その人がまた家族一人ひとりの命の恩人でもあり、さらに存亡の危機にあった国家をも救った恩人だったとしましょう。 これでもパウロが信じた「全人類を救ったイエス」という大恩人よりはまだもう一つスケールの小さい恩人ですが、それでも、もしこういう人物がいたとするなら、あなたはその人の生まれや成長や活動内容に全く無関心でいられるでしょうか? そのようなことは人間として100%ありえません。 ところがパウロはそういうこと一切に対して拒否の態度を示し、事実上、積極的に「無視せよ」と薦めているのです。 これは非常に不自然です。言葉に尽くせないほど不可解です。 もしイエスが十字架死へ向けて意図的に生きたのが史実として正しければ、熱烈な十字架贖罪論者のパウロは彼一流のあの素晴らしい筆法で、十字架への道を歩むイエスの感動的な生き様を数多く紹介してくれたことでしょう。
むろんイエスの生き様に対するパウロのこのような度外れた無視と拒否は、事実上、史実のイエス・本当のイエスへの甚だしい侮辱に他なりません。 ________________________________________
パウロが、イエスの言行・史実のイエス・肉のイエス・生前のイエスに一切触れようとしなかったのは、「史実のイエス」と「彼の信じたもの」とがその質において正反対と言っていいほど全く違っていたからなのです。
それはイエスが自覚的に十字架贖罪死へ向けて生きたのでなかったこと、言いかえれば、イエスはこうした彼岸的・肉否定的な「宗教的メシア」でなく、本当はダビデ王の子としての、此岸的・肉肯定的な、栄光の「政治的メシア」を目指した者であったことを意味しています。 当時の主なメシア像には、
(1)ローマの植民地からユダヤを独立させる軍事闘争をやっていれば、必ず神からの助けがあるとする戦闘的で自力本願的なもの
(2)神の定めた時が来れば宇宙的な変動が起きて一切が転覆され神の国が到来するという待望的で他力本願的なもの とがありましたが、積極的か非積極的かの違いはあるものの、ともかくどちらも直接的にはローマ支配の終焉によるユダヤの解放を意味していたわけですから、ともに政治的でした。
事実、ヨハネとヤコブなどイエスの直弟子たちは生前のイエスに、近く地上に建設される神の国でイエスの左と右の座を占めさせてほしいと頼み(マルコ10:35〜40)、あるいは、神の国では自分たちのうちで誰が一番偉いかと論議もしています(マルコ9:33〜37)。『マタイによる福音書』(21:20〜21)では彼らの母も同伴して頼み込んでいます。
福音書にあるような自己犠牲的な贖罪死を目指す「宗教的メシア」のもとでは、弟子たちのこういう世俗的野望は辻褄が合いません。 だから十字架の贖罪死を目指す「福音書のイエス」は彼らを強くたしなめます。しかしこれは史実のイエスがもともと「政治的メシア」だったことの痕跡なのです。 また四つの福音書全てに、処刑時、十字架の上に「ユダヤ人の王」という罪状の札があったことが記されていますが、「ユダヤ人の王」を決めるのはローマ皇帝の専権事項であったため、これはイエスが「政治的メシア」として「ユダヤ人の王」を僭称して活動したことで処刑されたことを示すもう一つの痕跡です。 また、イエスは自分を「人の子」と呼んでいますが、これは旧約聖書の中の「ダニエル書」7章13〜14節にある次のような預言を根拠にして使っている自称です。 みよ、人の子のような者が、 天の雲に乗ってきて、 日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。 彼に主権と光栄と国とを賜い、 諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、 なくなることがなく、その国は滅びることがない。 その他にもイエスが「政治的メシア」だった証拠としては、 ・ガリラヤの海の漁夫ペテロとアンデレ兄弟に「人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)と述べている
・幹部弟子のなかに軍事戦闘派の熱心党員がいる(マルコ3:18 マタイ10:4 ルカ6:15 行伝1:13) などもあります。 したがって、
神の力によって神の国を打ち立てローマの植民地支配からユダヤを独立させようとしていた「政治的メシア」としてのイエス
これが史実 (中川隆 注:実際は史実ではなくて、ローマ人にはイエスはこういう姿で捉えられていたというだけでしょうね) のイエスであり、そのためにローマ兵に捕らえられて、ローマ総督ピラトから「ユダヤ人の王」という罪名の死刑宣告を受け、ローマの処刑法である十字架に掛けられ、ローマ兵によって刑殺されたのです。
イエスが十字架贖罪死を目指して生きたのでないことが、すでに上記の五つの理由や史的イエスに対するパウロの徹底的な無視から明らかになっていて、しかもローマの官憲によって刑死した以上、彼は「政治的メシア」だったということです。 むろんこの「政治的メシア」はその独自の律法解釈やそれによる破戒行動を行なうため、必然的に既存のユダヤ教権力層とも宗教的対立関係に入ります。
イエスが軍事戦闘型の「政治的メシア」だったのか、それとも待望型のそれだったのか、福音書の捏造があまりにも甚だしいためどちらであるか決定するのは難しいですが、 弟子たちの中に軍事戦闘型の熱心党員のシモンがいることもあり、またイエスが逮捕される際に弟子たちのうちのある者(ルカ22:50では弟子たちのうちの誰か、ヨハネ18:10ではペテロ)が剣を抜き、イエスを捕らえに来た祭司長あるいは大祭司の僕(しもべ)の右耳を切り落としたとあるように、 私は闘争型の要素を持つ待望型だったのではないかと想像しています。 つまり戦闘性も多少持つが主に納税拒否などさまざまな反ローマのサボタージュを行なう非軍事的な性格のものです。熱心党員の弟子はシモンの他にも幾人かいたかもしれません。 「政治的メシア」としてのイエスは十字架死によって敗北しました。 これを弟子たちは「宗教的メシア」に仕立て直してイエスを勝利者とし、みずからも勝利者としたわけです。 そのとき史実のイエスは直弟子たちからも見捨てられ放棄されたわけです。 イエスが逮捕された後、直弟子筆頭とされているペテロが官憲などに三度尋ねられて、そのたび「自分とは関係ない」と告げ、雄鶏が鳴くまでに三度イエスを裏切ったという福音書の話も、ひとつはそういう事情を反映したものでしょう。 キリスト教は史実のイエスとは何の関係もありません。それは直弟子たちの創作物です。 ________________________________________ パウロはイエスを直接知っていた直弟子たちから、先ほど述べた「最後の晩餐」の様子(これについては、パウロは、十字架贖罪死信仰を前提とした「これは私のからだ、これは私の血」などのイエスの架空の言葉によって、すでにペテロなどに欺かれているか、あるいは、たぶん、自分自身を欺いている)だけでなく、イエスの言行について無数の事実を知らされていましたが、ほとんど全て「政治的メシア」に関する史実であったため、あえて「肉のイエス」には一切触れませんでした。
彼は過去の「肉のイエス」に触れないことを、
「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」 (『コリント人への第二の手紙』第5章17節)と神学的に正当化さえしています。 パウロが史実のイエス・肉のイエスに一切触れずに済ませることが「できた」ということは、すなわちイエスの直弟子たちも、「政治的メシア」と直結する部分は全て排除するという仕方で、イエスの生涯や生き様を無視したということを示しています。
現代聖書学ではルドルフ・ブルトマンの福音書に対する詳細な様式史研究などによって、
「史的イエス研究のための唯一の資料である福音書からは史実のイエスを再構築できない」 という結論が出されています。つまり福音書に書かれているイエスの記事はほとんど信用できないということで、これは福音書が非事実の塊だということに他なりません。 さて、「政治的メシア」から「宗教的メシア」へ転換することで、キリスト教はイエスの政治性から脱してローマ帝国と妥協可能になり、その成功とともに際限なく非政治化してゆき、帝国内部に広く浸透できることになりました。
しかしそのかわりローマ帝国との妥協の産物として、 「ローマ人でなくユダヤ人たちがイエスを刑死させた」 というありもしない罪が捏造され、それが史実とは異なる十字架贖罪論の福音書に描かれて、その後の二千年に及ぶユダヤ人迫害の土台を形作ることになりました。 キリスト教がイエス殺害の主犯としての罪をローマ人からユダヤ人に転嫁したのは、ローマ総督がイエスを殺害したという姿のままではローマ帝国内部での成功がとうてい不可能だったからです。
その姿はイエスがローマ支配に反抗する「政治的メシア」として処刑されたことを示すもので、ローマ人は帝国内にこういう敵性宗教が蔓延するのを絶対に許さなかったことでしょう。 また、「宗教的メシア」を強調するために治癒奇跡や自然奇跡(風を叱って止めさせる・水上を歩く・パンと魚を数千倍にする)など様々な奇跡を次々と行うイエス像が捏造されるに至りました。 http://www.geocities.jp/toryon33/syuukyoukaitou.html#hitonoko 歴史はイエスを抹殺した。 しかし、そのあとを完全に消し去ることはできなかった。 それで、今度はかかえ込んで骨抜きにしようとした。
そしてそれは、一応見事に成功してしまった。 大勢への反逆児が、暗殺されたり、抑圧による貧困の中で死んでいったりしたあと、体制は、その人物を偉人として誉めあげることによって、自分の秩序の中に組み込んでしまう。 マルクスが社会科の教科書にのった時、もはやマルクスでなくなる、ということだ。 こうしてイエスも、死んだあとで教組になった。
抹殺と抱え込みは、だから、本来同じ趣旨のものである。 キリスト教は、イエスの抹殺を継続するかかえ込みであって、決して、先駆者イエスの先駆性を成就した、というものではない。 イエスは相変わらず成就されずに、先駆者として残り続けている。 http://fanto.org/diary-new/archives/669.html
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