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(回答先: ペトロ(ペテロ)とユダ 「この中に私を裏切る者がいる」 −それは一人を指す言葉のはず− 投稿者 Air−Real 日時 2016 年 4 月 27 日 15:39:12)
まずはじめに、一人の人物とその言葉を紹介したい。
wikiから。
以下。
***********
ラルフ・ワルド・エマーソン
別名 コンコードの賢者
生誕 1803年5月25日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 1882年4月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州コンコード
地域 西洋哲学 学派 超越主義
研究分野 個人主義、神秘主義
主な概念 自己信頼、オーバーソウル
ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson )は、
アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。
***エマーソンの言葉***
自然とは言語であり、人が学び得るあらゆる新しい発見とは、新しい言葉なのである。
しかしそれは、個々に分けられて辞書の中で生気を失った言語ではなく、
一体として最も重要で普遍的な意味合いを伝えるものである。
私はこの言語を学びたい。それは新しい文法を知ることではなく、
その言語によって書かれた大いなる書物を読むことであるだろう。
+++ +++ + +++ +++
我々は連続したものや、断片、かけら、微粒子の中で生きている。
それに対し、人間の内には全なる魂がある。
それは智者の沈黙であり、この世界の美である。
全なる魂故に、あらゆるかけらも粒子も、等しく永遠なる一者に関係している。
そしてその内に我々が存在し、その無上の幸福がすべて我々の手に入るこの深淵なる力は、
どんな時も自らを満たし完全であるだけでない。
見ることと見られるものであること、見る者と見せ物、主体と客体がひとつであるのだ。
我々はこの世界を部分部分で、太陽とか、月とか、動物とか、木とかいうようにしか見ない。
だがそれらのものが一部として光り輝いている、全なるものが魂なのである。
*********
転載、以上。
先駆者は常にわれわれの中に道として続く。
さて。
われわれが学びを得る必要性を感じるのは、現存するあらゆる問題に対処したいと考えるためだが、
裏を返せば、問題がなぜ起こるのかといえば、われわれ人間がいまだ無知だからである。
しかし、われわれの無知さとは、われわれ自身に対する無知さゆえのことなのである。
つまり、他方が他方を軽んじることの無知さにある。
そして今、その無知さはわれわれの存在自体に対する無関心さに置き換えられてある。
つまり、学びの本質、学ぶことの意義もまたそこに書き換えられつつある。
人間的なものに対する存在認識の誤りが無知さにつながるのであり、
そこにおいて得る知識とするものに問題を解決する力はなく、多くの問題を野放しにし、
そこにさらに多くの問題を生むことにしかならないのである。
さて、本スレの話の続きとその補足となる。
イエスキリストの生涯のドラマに欠かせないのは十二使徒の役割である。
それは、それぞれの人格が、人間にみられる十二の性格にそれぞれ対応するからである。
私たちは、彼らのドラマに自分たちを重ねてみることができるゆえに、
そこに人間的な気づき、そして学びというものを得ることもできるといえる。
彼らが残したとするそれぞれの文書が、細かな部分に食い違いを見せる点については、
謎というより、彼ら弟子の性格をそれぞれに現していると見たほうがスルーしやすい。
いずれにしても、そこからもわかるとおり、
弟子たちのそれぞれが違ったコンセプトを持つのは、
ひとつの事実を多角的に見せることが意図されているからである。
そして「裏切り」の冠に対応する人格(者)はそこに一人だけである、ということも理解されることである。
つまりそれは「ペテロ」か「ユダ」、どちらか一人である。
キリストのドラマは人類が、自身の霊性に対する無知さゆえに起こりうる出来事を題材として取り上げている。
つまりキリストの物語に限らず、あらゆる宗教の物語とは常に気づきの”場”として提供されているものである。
ドラマはそれぞれの立場に対応する解釈と意図が加わり、書物に置き換えられてきた。
それらもある意味では教材となりうるのだろうが、誰にも望まれていないことに私もまた関心がない。
ところで、わたしはすでに、ユダはキリストを助けようと画策し、実行に移した人物だと評価した。
身代わりに磔になった酩酊者とする人物もまた、狂信的な性格のものであったため、
身代わりを探すユダの目に留まったのである。
そして彼は自分こそが磔台に上るにふさわしい人物だと信じ、熱烈な信仰心のもとに昇華している。
(パウロも日蓮も熱心すぎるほどの性格ゆえに狂信的ともいえるかもしれない)
では次に、キリスト意識と人類の意識との関わりについて。
聞きなれない方もいると思うので念のために。
→俗に言う「キリスト意識」とは、何を指すのか?
イエスとヨハネ、そしてパウロら三人は、同じキリスト意識から派生した意識的存在である。
(これに関しては別途投稿のこと)
*(上に紹介したエマーソンに関する記述場所でも、オーバーソウルの概念については触れられている)
私たちもまた意識的な存在、つまり物理的身体をまとった”概念的存在”である。
私たち人類はみな、肉体の知覚を通して、読み込んだ情報を脳内で処理し、
そこに「自分自身」とする個我性や現実感覚を得ている。
そこにある”情報”こそは、そうした自分自身、またはわれわれ自身といえる。
”場”の概念を理解する上で、「われわれ自身の意識」とは、物質的な素子を身にまとって活動する意識を指すが、
”情報”とはその物理的な知覚の範疇の外においても同時的にやりとりされているものだといえる。
われわれはそれらの情報を”現実として知覚する段階”で、初めてそれに触れ、反応するものだと考えているが、
それはあくまで概念的な知覚内における出来事であり、真実とはそこだけに限定されない。
そうして、”場”で感知し、やりとりされた情報は、物理的な肉体の知覚に解釈しなおされた後、
われわれはそれを知覚、認識して現実としているのだが、そこで理解できることはつまり、
”それ以前”に、われわれであるものとは、その”情報”の存在自体に対し、反応しているということが理解できるはずである。
例えて、「肉体」はパソコンであり、「五感」は”知覚のモニター”である。
情報はプログラムであり、共通のOS「空間と時間という概念」を通して、
オンラインで現実(映像)空間として、われわれ全体に認識されている訳である。
その世界において、私たちとは「そこに生存している」ように感じていると言えるのである。
言えることは、私たちが肉体上に知覚を通して昇ってくる”現実の認識”以前に、
”情報”だけの段階が存在し、そこにおいても、それらに触れ、そこで十分、
現実と認識されうる以前に、起こりうることをすべて精査する自分がいる、という事実であり、
デジャヴとはその事実の一端を伝えるものである。
またそのプレ現実を知覚する機能の備わった「自身」としての存在から、
あなたという「自己認識」とは発生しているということである。
上の例えに沿えば、そのあなたとは、「PCモニターの前に座っている人物」のことである。
それを守護神や、守護霊という呼び方をするものもいるだろうし、
その存在自体、あなたにアピールしてきたときもあるかもしれない。
それは、”同時的に、前世や来世として存在する”自分である、あなたの存在の本質をあらわすものと言える。
そこには人格的な概念による差異や、差別の必要性を感じるとしても、
それら人間的尺度による解釈の一切は当てはまらない。
いわばそこに霊的な関係、つまりあなた方の価値観で想像しうるすべての関係性は的を得ないだろう。
身内関係にあたるとしても、あなたがそこに差別的な意思を持てば、それらは途端に仰々しく振舞わざるを得なくなる。理解もできないものに変わってしまうのである。
私たちは限定された「モニターに映し出された”情報”」のみを
”極度に肉体の知覚に集中することによって”現実と認識することができているとする。
感覚としては半径一メートルから三メートルの範囲にある「”場”」を自分自身と捉えて考えてみてほしい。
それがあなたが多様な情報を基に集中して作り出せている世界である。
つまり、肉体以外の空間にあるものもまた(理解しづらいのは当然だが)、本質的には「あなた自身(私)」である。
思想的なものではなく、あなたの吐く息も、かつてあなたの一部であったものなら、
これから吸い込む息も、やがてあなたになるものだということができる。
これば事実である。思想的な解釈でも、このことは十分に理解できるものであるはずだが、
私とするものがどこからどこまでが私とするかについては、枚挙に暇がないといっておこう。
当然それら「私」にも多様性があり、流派、流儀にグループ分けができるものだが、
いずれにしても、すべての存在は源流を持ち、すべての支流はひとつの源につながっている。
蛇足だが、
神とは「上(かみ)」である。橋の源流側を上手(カミテのカは右を表す)と呼ぶ。
(対して民タミとは下手(タ=左))
ここで改めて、気づいておいてほしいことだが、これは比喩的例えを用いたひとつの発想であり、ひとつの方便である。
ここは想像を働かせてみてほしい。
あなたとは”場”であり、あなたの”場”ですべてのことが起こる。
あなたは周囲の”場”から情報を受け取り、
自分の”場”に同じコピーしたものを自身で作り上げ、みて、触り、感じ取っている。
たとえば、現実で、誰かからスプーンを受け取るとする。
そのスプーンがあなたの”場”に発生させるには、あなたがそれを受け取るための同意と手続きが必要である。
あなたの場へ同意なく、他人の”場”が進入したり、情報が侵入することはないからである。
あなたがその情報を自分の経験のために利用すると考えることで、そのものが引き寄せられてくるのである。
つまりこの世界とは、それぞれの多様性ある価値に触れ、それらを利用するために存在する。
現実として起きていることとは、自分の”場”でのみ起きていることである。
やりとりされた情報をあなた自身の手で起動させて、
それをモニターに映して、「受け取った」と感じているのである。
もう一例あげると、たとえば現実で、喫茶店に入りテーブルを囲んで誰かと食事をしたとする。
互いにそこにある木でできた硬いテーブルを認識する二人だが、
互いはそれぞれの”場”で、硬い木製のテーブルで大きさや色合い、
位置といった情報を互いにテレパシックにやりとりして完璧に帳尻を合わせているに過ぎない。
つまり、それらはそれぞれの現実認識の中に作り上げているということ。
それは電車の座席も同じであるし、会社の定時上がり、デートの待ち合わせや、
起床といった時間の概念もまた、意識が刷新され行く毎瞬、
それら同意の下に存在していることを告げている。
確かめようがないとするのは、人間的な価値観を通して肉体の知覚に依存し観察しつづけることになるからである。
ともかく、それは何より人間的な経験を優先するためであるし、
当然のこととは言えるのだが、キリストや釈迦といった教師は、
あらゆる概念に通じていたということが理解できるため、訓練など要することもなく、
そうした多次元的な観察眼を通して、すべての存在価値を等しく見ていたとすることができる。
ここで思い出してほしいのが、ヒーリングに関する話題である。
釈迦やキリストは確かに、そうした知識に秀でた偉大な教師であるといえ、
多次元的な性質を境界なく現在も体現している存在だと確かにいえるのだが、
ヒーリングのしくみ自体は民間の催眠療法とそのしくみは一切違わない。
私たちは、それぞれの”場”に直接的な影響力を与えることはできない。
これは原則としてそうあるのである。
情報そのものとして”場”に存在しているそれぞれは、
唯一、その”場”に対して大きな影響力を持つものだということができる。
つまり、自身に奇跡を起こせる神とは唯一、あなたそのもの自身である。
他者の影響力を自身の下にコピーし、唯一、そこであなた自身の力により、奇跡なるものを起こしているのである。
つまり、それぞれの本質は神聖な光である。上も下もない。
ただそれぞれに受け入れている価値観による差異が、
その影響力の大きさというものに関係すると言えるだろう。
自身に影響力を与えるのは、あなたがそこに受け入れたい情報があるからであるが、
あらゆる経験もまた、それはあなた自身に役立てるために自分で起こしたということができるのである。
それぞれが光であり、特別な価値を持つものであり、
ヒーラーであるということを完全に理解した上で、
偉大な教師というものは、そのもの自身で抱え持つ問題点の本質を見抜き、
その個性に対応した働きかけを熟知していなければならないということになる。
こうした偉大な教師といえる存在とは、常にどの次元においても活動的に存在し、
経験といえるものを常に積んでいる。
釈迦もキリストもそうした魂の一団に属し、教師としての経験を積んでいる。
そこに終わりなどない。
それを知るものはすべてそうあれ、ということである。
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