>「光明とは、自身の外側に尋ね当たるものではない。存在するものすべての身のうち(それそのものの内奥に蔵する)にある。」ということである。 >(イエスがすべての人に光をみるのみだ、とする話と同一)光の意味を完全に誤解しているんですよね。 自分で実際に体験していないと頭で勝手に見当外れのものを妄想してしまう実例ですね。 イエスや仏教でいう光というのはこういうもの:
光のトンネル
危篤状態に陥った人の40%が何らかの臨死体験をしている
アメリカ在住のエリン・ダイは30年前、車で事故を起こし、一旦「死亡」が確認された。エリンは奇跡的に蘇生したが、彼女は事故直後の光景を憶えていた。 彼女は肉体を抜け出し、車の上から車体を見下ろしていたと言う。その後、光のトンネルを抜け、他界した親族に出会ったと彼女は話す。 欧米では、1980年代、死の淵から生還した人々の体験が似通っていることが統計を元に指摘され、科学的に臨死体験を説明しようとする試みが始まった。
最近の調査によれば、危篤状態に陥った人の40%が何らかの臨死体験をしているという結果が出ている。現代では、臨死体験はもはやオカルトではない。実際に起きている「何か」のようだ。 http://golden-news2.com/technology/2016-04-05-1081.html 鈴木秀子さん (国際文学療法学会会長。文学博士。)が1977年不慮の事故で臨死体験をした時の描写です。 鈴木秀子さんは 愛の極致と至福感に包まれながら 生きた光からメッセージを受け取ります。
★限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。
一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、一面光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。 それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。 不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。オリンピックの選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、こんな状態なのでしょうか。 からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。 その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。 「この命そのもの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受け入れられ、許され、完全に愛しぬかれている」 これが愛の極致なのだと。 心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。 そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。 「癒してください。癒してください」 その声には、少しつたない感じのアクセントがありました。 ★その声が聞こえてきたとき、光であり命そのものの主が、
「現世に帰りなさい」 と言いました。そしてさらに、 「現世に戻ったとき、一番大切なのは、知ることと愛すること、その二つだけが大切なのだ」 というメッセージを受け取ったのです。 ★あの光に包まれる体験をしてから、まるで別次元の境地に達したように、私の中ですべてが変化していきました。
それまで悩んでいたいろんなことが、とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生はすがすがしく晴れ渡っていました。そして、私の心の中には、ある言葉が、美しい鐘の音のように響きわたっていました。 「大切なことは、知ることと愛すること。それだけが大切なのだ」 「知る」とは「叡智」、「愛する」とは「慈悲」の意味のようでした。 ★あの光との出会いが夢や幻覚ではなかったことを、その後の、私の身に起きた数々の不可思議な出来事が裏づけてくれました。 事故の後、後遺症が残るといけないので、当時通院していた国立医療センターに検査のために入院することになりました。 私は、その事故の5~6年前から膠原病を患っており、ついでにその検査もしてもらうことにしました。 担当のお医者さんが首をひねりながら私の病室に入ってきました。 「鈴木さん、不思議ですねぇ。全部きれいに治っていますよ」 検査の結果、長年わずらっていた膠原病がすっかり治っているというのです。 私もお医者さんも驚きました。 「光に出会った人は超自然的な力をもらう」 その言葉が胸に響きました。 難病が突然治ってしまったのも、光の体験がもたらした奇蹟なのでしょうか。 自分の身に何か変化が起きている・・・・・。 ★あの生きた光は、私の人生を無限の輝きで満たしました。 そしてその光は、私だけでなく、私と出会った人々にも、降り注ぐようでした。 それからというもの、誰かに会っているとき、突然、暖かい予感に満たされるようになったのです。 「あ、この人は幸せになる」と。 次の瞬間、 「あなたはきっと、来週の水曜の何時ごろにいいことがありますよ」 とふっと口にします。 それを聞いた相手は何日後かに、「先生の言ったこと、本当でしたよ」と、喜びの報告に来てくれます。 ★あの光との出会いを思い出だすたびに、頼りなく思える肉体の奥に、こんこんと湧き出る泉のように、命の輝きがほどばしっているのを感じます。 しかも、それは、尽きせぬ泉であり、永遠の輝きなのです。私が出会った光の中に、時がなかったように。 永遠なる生命の光の中に、例外なくすべての人が受け入れられている。その圧倒的な愛の力を感じることができたら、大宇宙の気にぱっと入ることができて、病気も治ってしまうし、奇蹟だって起きるのでしょう。 http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51655830.html http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51656333.html 仏の世界は「空」の場、そのものなのだ。 般若心経の解釈では「空」は「実体がない」つまり、相がないと学者は解釈するが、実は心の目で見ると全く反対となる。 空は、全く形なきものではなく、「光」(クリアーライト)で成り立ち、実は形もあり、動き回わる。 それがマンダラなのだ。 無と空 そもそも、「無」を対象として、それと合一することはできない。 「無」とは、主語ともなりえず、また、一切の形容を受けつけない。 空性はわれわれの意識と連続しており、万象がまた連続しており、一切が一つの空性(マンダラ)のなかに息づいている。 なにもないことを無というのでない。 存在のなかに無がある。 彼は、はっきりと実在の「光」を観相する。 それは現実の光線ではない。 そして、しばし己れを忘れる。 そういった体験から、空性は「無」ではなく、輝き、あるがままに自在に運動する実体なのである。 激しく活動する光り・・・マンダラは、その所在地を「空」の場に置く。 空界がイコール、そのままマンダラなのだ。 マンダラはわたしたちをも包含した神仏の世界、それは広大なる、「空」である。 そこには、実在の「光」があり、それは振動の乱舞であり、エネルギーに満ちている。 無限のエネルギーの波動であり、永遠に尽きず、宝石のような美しさに溢れている。 http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html
マンダラの普遍性 マンダラはタントラ(仏教教典)によった仏界の見取り図といわれている。 しかし、単に「金剛頂経」のから生まれ出た産物なのではない。
この幾何学的な構図や色彩は、真実の仏界と心のリアリティ=元型(イデア・プリンシパル)の像であり、かつ普遍的なものである。 だからこそ、太古からその像は連綿と描かれてきた。 そもそも、マンダラは意図されることなく、始まりのない宇宙そのものであった。 ところで、瞑想ってなんだろう? チベットの僧侶たちは、「マンダラ」に対座して暝想をする。 チベットの密教では暝想が必須の行だ。 暝想を実践しなくては、生ある間に、どんな人間も聖なる領域へつながることはない。 チベットの僧侶の暝想は、朝、昼、晩、夜にと、各時間帯に継続して行なわれている。 ゴンパ(寺)の中は暗く、蝋燭の火で灯す。 すると、マンダラは眼前に迫るように浮き上がり、揺らめく炎が煙のようにその前を立ち昇る。 その煙は、自分の体から立ち昇る気の炎であることに気づく。 と、やがて、目の前は青紫色に、やがて黄金色に輝き始める。 それは、次元を透過する超越した偉大なる光だ。 「空性」の体験はこうして現われる。 大空の世界からの橋渡しが為されており、それは、この幻の光に他ならない。 マンダラは超越しており、特定の人間のものだけではない。 マンダラを外なる図画として語るだけでは、マンダラに近接できないと言ったのは、実は、こうした体験こそ大切なことだからだ。
マンダラは内なる存在として、すべての俗的な権威を越える至高の存在であり、それは、同時にあなた自身であるからだ。 マンダラは「空」の世界の究極の「相」であり、空の本質であり、円く輝くさまざまな色彩に満ちた光の像となって顕れる。 永遠なるもの、マンダラの本質、それは、同時に一人一人の「魂」に輝き、万物に平等にある。 生あるものは、それがマンダラなのだ。 暝想は誰もが大悟を得るために通らねばならない偉大なステップだ。 宇宙原理(ブラフマン)と個我(アートマン)とは本来、同一であるという考え方は、バラモン正統派の伝統的な疑いえない真理なのだ。 アートマン、その表れはあくまで肯定的な「有」の存在であり、肯定的な有産力をもった力となって表れる。 さまざまなトーンをもち、色彩をもち、形をもって存在し、あらゆる存在するものなかをつらぬいて全空間をおおいつくしている。 それゆえに、アートマンは現象のすべてを包み、生産するむシャクティ(母性)の役割を担う。 それは、空域と物質界がもともと一つである事の確証であり、2つの領域は別物ではないことを示している。 そして、それと不二だと思うとき、彼は至福をえるのである。 彼の外からけっして来るものでなく、それははじめから内蔵されていたものであった。 さて、インドでは仏教はヒンズー教に、また、イスラム教に圧倒されてしまったが、チベットにはタントラ仏教(ラマ教)がいまでも残されている。
そして、チベットには数々のゴンパ(寺)があり、なかでもリンチェンサンポ方式の堂は、ただ、ひたすら暝想を行なうための場とされている。 とりわけ堂内の壁にはマンダラが所狭しと描かれ、そのなかで、独り、宇宙と自分の合一を体感するために暝想に耽る。 宇宙のエネルギーが彼自身を全く貫いている。 すべては、原初仏のもとに一つなのだと・・・。 密教タントラのあらゆる実践は、ラマによって灌頂、直接伝授されなければ成就できないとされる。
また、タントラ密教の三帰依戒は、導師(グル)、守護神(デーヴァ)、ダーキニーで、仏教とは出発から異なっている。 仏教の三宝帰依は”仏法僧”である。 チベットの修行で、導師は一人とは限らない。 はじめは何人もの導師に教えを乞う。 しかし、最終的な悟りに導く導師を根本導師といい、グルに絶対的に帰依する。 口伝だけでなく、あらゆる動作を含めて、それらは書物だけでは伝えることができない。 ヨーガとはサンスクリット語で、馬をくびきに「縛りつける」といった意味だ。 肉体の感覚器官を暴れる馬にたとえると、その統御を意味する。転じて、暝想という意味の言葉になった。
荒々しい五感煩悩に、手綱をつけるという伝統的な意味をもっている。 それが、ヨーガである。 タントラとは、[tantri]が語源で「縦糸、織物」を表し、転じて、「知識を広める」という意味。 自らに目覚めるための知識、体験の体系を意味し、単純に教典をさすようになった。 タントラのうち、第4の無上ヨーガ(最高のヨーガ)は中国・日本には伝わらなかった。 一方、いわゆる後期の密教がチベットでは一世を風靡し、土着的ボン包含しながら発展したといわれる。 チベットでは、タントラヨーガに、無常の魂の励起が約束されており、多くの人々を高い境地に導く実践がいまでもなされている。 日本の密教は、中期の密教に属している。 瞑想のビギナーは、瞑想中に不思議な挙動をしめす光にでくわす。 それらは、ブラフマンを顕す兆候だ。 なぜなら、その光はまさしくわたしの意志によらない挙動をしめし、わたしはただ感動しているからだ。 禅では、これと魔境(雑念、妄想)と区別しない人が多い。 しかし、これらは、たいへん良い瑞兆なのである。 「密教は4つの段階に別れている。 一、所作タントラ 二、行タントラ 三、ヨーガタントラ 四、無常タントラ。 第1の「所作タントラ」は、呪文、陀羅尼、諸仏の供養の仕方、壇の作り方、手印の結び方などの作法を主要な内容とする。「蘇悉地経」、「蘇婆呼童子経」、「不空絹索経」などがある。 第2の「行タントラ」は7世紀の成立と言われる「大日経」で、マンダラをつくり、悟りを中心にした観想法を発展させた。観想法とは、精神集中によって眼前に神仏をありありと描くことである。しかし、この行タントラの大日マンダラはほんのわずかの点数が残されていること以外、あまり知られていない。 第3の「ヨーガ・タントラ」は「金剛頂経」である。この教典の出現は8世紀で、行者はこの金剛界曼陀羅と一体になる暝想を行じる。 第4の「無上ヨーガ・タントラ」は精神・生理学的なヨーガの技術を用いる。さらに、奥深い秘密を残しているが、この暝想は、ある観相マンダラを持ちいて直接、光の場に降り立とうとする。 チベットの観相修業にもちいる第4段階以降のマンダラは、日本に知られていなかった。 「悟り」の第一段階は、シューニャータ(空)の光とエネルギーが、いつも真我に透過しているという真実を見ることからはじまる。 それが透過しているゆえに、万物がマンダラの(構成の)一部であり、わたしたちもマンダラの元型を刻印された「仏」に他ならないことを感得することができる。 ○チベット・ゾクチェン密教
「無意識をさらに突き抜けたところに光の領域があらわれる。この光の領域こそ、意識の原初の場を示している。 これは、『ダルマ(法)の本性』ともいうべき(光の)場、精神現象の「法」すべてが、この『法の本性』の場に立ちあらわれる。 『法の本性』という光の場において、輪廻する現象界のすべてと、それを抜け出した解脱の状態を示すものすべてがあらわれである。 したがって、この『法の本性』とは違うところからあらわれでるものはなにひとつとしてない。 すべては、とぎれることなく、『法の本性』という場の中にあり、その場から立ちあらわれる。だからこれを、一切の土台と呼んでもいい。 仏教の修業は最終的には、ここに直接おりたとうとする。 経験的な知覚意識よりもさらに奥深く、光の領域がある。 この光の元型がマンダラである。 そのマンダラはまさに「ダルマ」の本性であり、さまざまに呼ばれるているが、もともと一つのものだ。 この他に、「空」とも「中道」とも、さらに「縁起」とも名づけられる。 これらも、そう名づけられているが、皆、一つのものを言い表している。 マンダラは光の領域、または、光の場にあり、自然(じねん)的で、なにものにも影響されない(無碍)ばかりか、いっさいの精神現象のエネルギーの源になっている。 つまり、ここから、無限の生命力が絶え間なく供給されている。すべてのエネルギーがそこから流出している。 ダルマカーヤ(法身)とはマンダラにほかならない。 マンダラは永遠で無限の光を、他からエネルギーを与えられずに活動する超越的な存在である。 つまるところ、原初の太陽といってもいい。 この太陽は、なにものにも影響されず、消滅せず、また、なにものにも汚されない純粋な光を放つ性質をもっている。 その存在する領域は空性であり、永遠で、清浄で、破壊されず、減ることも増えることもない。終わりなく、始まりもないので、創造した、あるいは創造されたということもない。 この永遠の光の領域は、3つの純粋な光に分かれ、それらは堅く結び合わされている。 そして、図画としてのマンダラもまた、光の法身を直接顕そうとする。 マンダラがパンテオンのようでもあるが、実は、一つである。 したがって、マンダラはわたしたちに秘密をもって立ち表れる。 自己の内部には、必ず光り輝く空性の領域(仏の世界)がある。 外なるマンダラは、内なるマンダラを招来するための聖なる像であり、同時に伝法の手段である。 そもそも、マンダラを自己のものとしてとらえるのには暝想する以外にない。 暝想はマンダラを捉える最上位の手段である。マンダラが描かれた訳はたとえていうなら、図画は多くの情報を瞬間的に訴えることができるからといえる。 無意識の内奥に刻印された形は、文書で説明するのは極めて難しい。 http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html
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