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何を持って嘘。何を持って確たる証拠とするのか甚だ疑問。
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/356.html
投稿者 Air−Real 日時 2016 年 4 月 28 日 15:22:37: dsfJ1hAY0z6VI gmCCiYKSgXyCcYKFgoGCjA
 

(回答先: ペトロ(ペテロ)とユダ 「この中に私を裏切る者がいる」 −それは一人を指す言葉のはず− 投稿者 Air−Real 日時 2016 年 4 月 27 日 15:39:12)

とにかくも、面白いものだと思っています。
→コメント欄の埋め尽くし作業

親投稿のコメント欄
>8
のコメントに直接返信するわけではないですが、
一言あるとすれば、上記表題のとおりです。


人々に認識されている事柄が”事実(真実)”だとするには、
どのようにして認識されるにいたったかという点だけが重要です。

”既成事実”とするものが、必ずしも歴史上において、唯一それだけが事実だとするのは、
現在では、余程そのことで自分たちの沽券に関わる事だと考えるものたちだけでしょう。

たいていの人間ならそのことは理解できるはずでしょう。

私が言いたいのは、
人々にとって、「その情報が何をもたらすのか」、
重要なのはそこだけです。

私が親投稿で伝えたことは「確かに事実だ」と断言しますが、証明はもちろんできません。
しかし、それはお互い様だということです。

たとえば、日本の昔話、アンデルセンの御伽噺、そのどちらもが、
地域性、または時代性とともに、その内容が変化していったとしても、
そこに伝えられている本質は代わり映えしないものです。

そして私はそのことで、もともと利する立場にもないのですから、
もちろん、一般的に知られている寓話の話を好きだという立場の人に対してまで、
でばって関与しようなどといった気持ちは微塵もありませんし、またできないものです。

大概そこに反論してくるのは、そこに縛りづけになっている狂信的なマニアか、
そこにとりわけ大きな利権が発生する立場のものだけです。

ただ、それはそれで何かしら人々の教材となることには違いないのですから、
別に非難することもありません。それぞれにおいて、気づきがあるというだけです。

もちろん私の知る”事実”が真相であるということに対しては揺るぎもないことです。

とりあえず、こうなることを予見して、
あらかじめ書いておいたコメントを載せておこうと思います。

以下。

++++++++++++++

私がこうした話をするのは、人々が何にこだわり、
そのことで何を見失っているかを理解する機会を与えたいからである。

あなた方の争いの元は、「意味のない価値観」を持ち、
それを持つもの同士によって起こされる。

くだらぬいざこざはすべて人々にとって意味のない価値観と価値観のぶつかり合いである。

「本当に価値あるもの」とは単純に人々がそれを「真実だ」と呼べるはずのものである。

それは純粋に自身の感性を紐解く人ならば気づくだけのものである。

だが、多くの人々はその真実を理解できないがために迷う。

そして自分の外側にそれら真実が隠されているのだと捜し歩く。

それは、迷いにある自分に酔いしれているからである。


「光明とは、自身の外側に尋ね当たるものではない。存在するものすべての身のうち(それそのものの内奥に蔵する)にある。」ということである。

(イエスがすべての人に光をみるのみだ、とする話と同一)

「本当に価値と呼べるもの」を知らないとするのは、
「真の調和」を理解できない間だけである。

常に策(はかりごと)略に頭を働かせているからである。

迷いの霧を晴らしたいのであれば、自分の抱える問題のみに向き合うことである。

自身のどうした感情、また性格の起こりにも理由があるのであり、
そのことを理解しようとすればよいことである。

何事も人前に隠さず、臆さず、自分に透明性を持って人々に接する人に、
なんら恐れや悩みなど訪れないものである。

故にその逆においては、闇を深くしていく。
つまり、
「自分たちの知識(ほかならぬ地位や名誉や利権のからんだ知識)」のみを価値と掲げて、
他方の声を制圧しようとすることは、結果「自分たちの都合」のみを押し通そうとすることとなり、
それは自分の心の声すら隠し、真実を閉じ込める行為である。

そしてそこには代わりに「権力への志向性」が生まれることとなる。

言葉はその道具となった。

それはただいたずらに人々の真実性を歪曲し、
人々の当たり前の「神聖さ」をも、言葉の意味するところのみに形骸化し無力化する。

そうして世界のあらゆる場所で真実は覆われ、光が隠されていったのである。
そこには必ず「神」という概念と支配権力が結びつけられた価値観画生まれ、
それにより、思想組織、宗教、国家というものが生まれている。

それらは本来、人々に必要とされないものである。
つまり、人々は、神なるもの、そして神なる英知、
神なる神聖さとはそもそも直接的につながりを得ているからである。

人々がそれらから乖離された状態であるにも原因があり、
そこには人々の意識的な心というものが関与しているが、
それはまた改めて、投稿しなおす予定がある。

人々がその真実というものを理解できないのは、
三毒(仏教用語)に冒されているためであるが、
その原因は、人々の持つ価値観にある。

何ら光明をもたらさない価値観。

それらは、全体のごく一部の人間が作り上げた利権がもたらすのである。

エジプト然り、ローマ然り、メキシコ然り、もともとの土台をすべて根こそぎ、
自分たちの理解に都合のよい価値観一色に塗り染めてしまうのである。

人々のもとにそうして覇権国家が生まれるのはそこにある推進力の性質由縁のことである。
多くのものはわけもわからず、自分たちにとって意味のない価値観を
権力支配の下で絶えず押し通そうとするだけとなる。

それは宗教界に顕著である。すべてがそうだとは言わないが、私が知る限り、
ほとんどの宗教活動家を称するものは、自身の存在性の真実すら理解できていない。

「人が本当に求めているもの」が何かを知らないのでは、「何も知らないのと同じ」ことである。

日本における仏教界の問題点もまた宗派間のいざこざにある。
無知である証拠と理由はそこに山積みである。

+++++++++++++

以上。  

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コメント
 
1. 中川隆[2302] koaQ7Jey 2016年4月28日 15:46:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2515]
>「光明とは、自身の外側に尋ね当たるものではない。存在するものすべての身のうち(それそのものの内奥に蔵する)にある。」ということである。
>(イエスがすべての人に光をみるのみだ、とする話と同一)

光の意味を完全に誤解しているんですよね。

自分で実際に体験していないと頭で勝手に見当外れのものを妄想してしまう実例ですね。


イエスや仏教でいう光というのはこういうもの:


光のトンネル


危篤状態に陥った人の40%が何らかの臨死体験をしている

アメリカ在住のエリン・ダイは30年前、車で事故を起こし、一旦「死亡」が確認された。エリンは奇跡的に蘇生したが、彼女は事故直後の光景を憶えていた。

彼女は肉体を抜け出し、車の上から車体を見下ろしていたと言う。その後、光のトンネルを抜け、他界した親族に出会ったと彼女は話す。


欧米では、1980年代、死の淵から生還した人々の体験が似通っていることが統計を元に指摘され、科学的に臨死体験を説明しようとする試みが始まった。

最近の調査によれば、危篤状態に陥った人の40%が何らかの臨死体験をしているという結果が出ている。現代では、臨死体験はもはやオカルトではない。実際に起きている「何か」のようだ。
http://golden-news2.com/technology/2016-04-05-1081.html


鈴木秀子さん (国際文学療法学会会長。文学博士。)が1977年不慮の事故で臨死体験をした時の描写です。 鈴木秀子さんは 愛の極致と至福感に包まれながら 生きた光からメッセージを受け取ります。


★限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。

一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、一面光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。

それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。

不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。オリンピックの選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、こんな状態なのでしょうか。

からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。

その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。

「この命そのもの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受け入れられ、許され、完全に愛しぬかれている」

これが愛の極致なのだと。

心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。
そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。

「癒してください。癒してください」

その声には、少しつたない感じのアクセントがありました。


★その声が聞こえてきたとき、光であり命そのものの主が、

「現世に帰りなさい」

と言いました。そしてさらに、

「現世に戻ったとき、一番大切なのは、知ることと愛すること、その二つだけが大切なのだ」

というメッセージを受け取ったのです。


★あの光に包まれる体験をしてから、まるで別次元の境地に達したように、私の中ですべてが変化していきました。

それまで悩んでいたいろんなことが、とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生はすがすがしく晴れ渡っていました。そして、私の心の中には、ある言葉が、美しい鐘の音のように響きわたっていました。

「大切なことは、知ることと愛すること。それだけが大切なのだ」

「知る」とは「叡智」、「愛する」とは「慈悲」の意味のようでした。

★あの光との出会いが夢や幻覚ではなかったことを、その後の、私の身に起きた数々の不可思議な出来事が裏づけてくれました。

事故の後、後遺症が残るといけないので、当時通院していた国立医療センターに検査のために入院することになりました。

私は、その事故の5~6年前から膠原病を患っており、ついでにその検査もしてもらうことにしました。

担当のお医者さんが首をひねりながら私の病室に入ってきました。

「鈴木さん、不思議ですねぇ。全部きれいに治っていますよ」

検査の結果、長年わずらっていた膠原病がすっかり治っているというのです。
私もお医者さんも驚きました。

「光に出会った人は超自然的な力をもらう」

その言葉が胸に響きました。 難病が突然治ってしまったのも、光の体験がもたらした奇蹟なのでしょうか。 自分の身に何か変化が起きている・・・・・。

★あの生きた光は、私の人生を無限の輝きで満たしました。

そしてその光は、私だけでなく、私と出会った人々にも、降り注ぐようでした。

それからというもの、誰かに会っているとき、突然、暖かい予感に満たされるようになったのです。

「あ、この人は幸せになる」と。

次の瞬間、

「あなたはきっと、来週の水曜の何時ごろにいいことがありますよ」

とふっと口にします。

それを聞いた相手は何日後かに、「先生の言ったこと、本当でしたよ」と、喜びの報告に来てくれます。

★あの光との出会いを思い出だすたびに、頼りなく思える肉体の奥に、こんこんと湧き出る泉のように、命の輝きがほどばしっているのを感じます。 しかも、それは、尽きせぬ泉であり、永遠の輝きなのです。私が出会った光の中に、時がなかったように。

永遠なる生命の光の中に、例外なくすべての人が受け入れられている。その圧倒的な愛の力を感じることができたら、大宇宙の気にぱっと入ることができて、病気も治ってしまうし、奇蹟だって起きるのでしょう。
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51655830.html
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51656333.html

仏の世界は「空」の場、そのものなのだ。

般若心経の解釈では「空」は「実体がない」つまり、相がないと学者は解釈するが、実は心の目で見ると全く反対となる。

空は、全く形なきものではなく、「光」(クリアーライト)で成り立ち、実は形もあり、動き回わる。

それがマンダラなのだ。

無と空 そもそも、「無」を対象として、それと合一することはできない。

「無」とは、主語ともなりえず、また、一切の形容を受けつけない。

空性はわれわれの意識と連続しており、万象がまた連続しており、一切が一つの空性(マンダラ)のなかに息づいている。

なにもないことを無というのでない。
存在のなかに無がある。

彼は、はっきりと実在の「光」を観相する。
それは現実の光線ではない。

そして、しばし己れを忘れる。

そういった体験から、空性は「無」ではなく、輝き、あるがままに自在に運動する実体なのである。

激しく活動する光り・・・マンダラは、その所在地を「空」の場に置く。
空界がイコール、そのままマンダラなのだ。 


マンダラはわたしたちをも包含した神仏の世界、それは広大なる、「空」である。
そこには、実在の「光」があり、それは振動の乱舞であり、エネルギーに満ちている。
無限のエネルギーの波動であり、永遠に尽きず、宝石のような美しさに溢れている。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html


マンダラの普遍性
 
 マンダラはタントラ(仏教教典)によった仏界の見取り図といわれている。
しかし、単に「金剛頂経」のから生まれ出た産物なのではない。

この幾何学的な構図や色彩は、真実の仏界と心のリアリティ=元型(イデア・プリンシパル)の像であり、かつ普遍的なものである。

だからこそ、太古からその像は連綿と描かれてきた。
そもそも、マンダラは意図されることなく、始まりのない宇宙そのものであった。

ところで、瞑想ってなんだろう? 

チベットの僧侶たちは、「マンダラ」に対座して暝想をする。
チベットの密教では暝想が必須の行だ。
暝想を実践しなくては、生ある間に、どんな人間も聖なる領域へつながることはない。

チベットの僧侶の暝想は、朝、昼、晩、夜にと、各時間帯に継続して行なわれている。
ゴンパ(寺)の中は暗く、蝋燭の火で灯す。
すると、マンダラは眼前に迫るように浮き上がり、揺らめく炎が煙のようにその前を立ち昇る。
その煙は、自分の体から立ち昇る気の炎であることに気づく。

と、やがて、目の前は青紫色に、やがて黄金色に輝き始める。 
それは、次元を透過する超越した偉大なる光だ。

「空性」の体験はこうして現われる。
大空の世界からの橋渡しが為されており、それは、この幻の光に他ならない。


 マンダラは超越しており、特定の人間のものだけではない。
マンダラを外なる図画として語るだけでは、マンダラに近接できないと言ったのは、実は、こうした体験こそ大切なことだからだ。

マンダラは内なる存在として、すべての俗的な権威を越える至高の存在であり、それは、同時にあなた自身であるからだ。
マンダラは「空」の世界の究極の「相」であり、空の本質であり、円く輝くさまざまな色彩に満ちた光の像となって顕れる。

永遠なるもの、マンダラの本質、それは、同時に一人一人の「魂」に輝き、万物に平等にある。
生あるものは、それがマンダラなのだ。

 暝想は誰もが大悟を得るために通らねばならない偉大なステップだ。
宇宙原理(ブラフマン)と個我(アートマン)とは本来、同一であるという考え方は、バラモン正統派の伝統的な疑いえない真理なのだ。

アートマン、その表れはあくまで肯定的な「有」の存在であり、肯定的な有産力をもった力となって表れる。

さまざまなトーンをもち、色彩をもち、形をもって存在し、あらゆる存在するものなかをつらぬいて全空間をおおいつくしている。
それゆえに、アートマンは現象のすべてを包み、生産するむシャクティ(母性)の役割を担う。

それは、空域と物質界がもともと一つである事の確証であり、2つの領域は別物ではないことを示している。
そして、それと不二だと思うとき、彼は至福をえるのである。
彼の外からけっして来るものでなく、それははじめから内蔵されていたものであった。


 さて、インドでは仏教はヒンズー教に、また、イスラム教に圧倒されてしまったが、チベットにはタントラ仏教(ラマ教)がいまでも残されている。

そして、チベットには数々のゴンパ(寺)があり、なかでもリンチェンサンポ方式の堂は、ただ、ひたすら暝想を行なうための場とされている。

とりわけ堂内の壁にはマンダラが所狭しと描かれ、そのなかで、独り、宇宙と自分の合一を体感するために暝想に耽る。

宇宙のエネルギーが彼自身を全く貫いている。
すべては、原初仏のもとに一つなのだと・・・。


 密教タントラのあらゆる実践は、ラマによって灌頂、直接伝授されなければ成就できないとされる。

また、タントラ密教の三帰依戒は、導師(グル)、守護神(デーヴァ)、ダーキニーで、仏教とは出発から異なっている。
仏教の三宝帰依は”仏法僧”である。

 チベットの修行で、導師は一人とは限らない。
はじめは何人もの導師に教えを乞う。

しかし、最終的な悟りに導く導師を根本導師といい、グルに絶対的に帰依する。
口伝だけでなく、あらゆる動作を含めて、それらは書物だけでは伝えることができない。


 ヨーガとはサンスクリット語で、馬をくびきに「縛りつける」といった意味だ。
肉体の感覚器官を暴れる馬にたとえると、その統御を意味する。転じて、暝想という意味の言葉になった。

荒々しい五感煩悩に、手綱をつけるという伝統的な意味をもっている。
それが、ヨーガである。

 タントラとは、[tantri]が語源で「縦糸、織物」を表し、転じて、「知識を広める」という意味。

自らに目覚めるための知識、体験の体系を意味し、単純に教典をさすようになった。

タントラのうち、第4の無上ヨーガ(最高のヨーガ)は中国・日本には伝わらなかった。
一方、いわゆる後期の密教がチベットでは一世を風靡し、土着的ボン包含しながら発展したといわれる。

チベットでは、タントラヨーガに、無常の魂の励起が約束されており、多くの人々を高い境地に導く実践がいまでもなされている。
日本の密教は、中期の密教に属している。

 瞑想のビギナーは、瞑想中に不思議な挙動をしめす光にでくわす。
それらは、ブラフマンを顕す兆候だ。

なぜなら、その光はまさしくわたしの意志によらない挙動をしめし、わたしはただ感動しているからだ。

禅では、これと魔境(雑念、妄想)と区別しない人が多い。
しかし、これらは、たいへん良い瑞兆なのである。

「密教は4つの段階に別れている。

一、所作タントラ 
二、行タントラ 
三、ヨーガタントラ 
四、無常タントラ。 

第1の「所作タントラ」は、呪文、陀羅尼、諸仏の供養の仕方、壇の作り方、手印の結び方などの作法を主要な内容とする。「蘇悉地経」、「蘇婆呼童子経」、「不空絹索経」などがある。 

第2の「行タントラ」は7世紀の成立と言われる「大日経」で、マンダラをつくり、悟りを中心にした観想法を発展させた。観想法とは、精神集中によって眼前に神仏をありありと描くことである。しかし、この行タントラの大日マンダラはほんのわずかの点数が残されていること以外、あまり知られていない。 

第3の「ヨーガ・タントラ」は「金剛頂経」である。この教典の出現は8世紀で、行者はこの金剛界曼陀羅と一体になる暝想を行じる。 第4の「無上ヨーガ・タントラ」は精神・生理学的なヨーガの技術を用いる。さらに、奥深い秘密を残しているが、この暝想は、ある観相マンダラを持ちいて直接、光の場に降り立とうとする。 

 チベットの観相修業にもちいる第4段階以降のマンダラは、日本に知られていなかった。

「悟り」の第一段階は、シューニャータ(空)の光とエネルギーが、いつも真我に透過しているという真実を見ることからはじまる。

それが透過しているゆえに、万物がマンダラの(構成の)一部であり、わたしたちもマンダラの元型を刻印された「仏」に他ならないことを感得することができる。


○チベット・ゾクチェン密教

「無意識をさらに突き抜けたところに光の領域があらわれる。この光の領域こそ、意識の原初の場を示している。

これは、『ダルマ(法)の本性』ともいうべき(光の)場、精神現象の「法」すべてが、この『法の本性』の場に立ちあらわれる。

『法の本性』という光の場において、輪廻する現象界のすべてと、それを抜け出した解脱の状態を示すものすべてがあらわれである。

したがって、この『法の本性』とは違うところからあらわれでるものはなにひとつとしてない。

すべては、とぎれることなく、『法の本性』という場の中にあり、その場から立ちあらわれる。だからこれを、一切の土台と呼んでもいい。

仏教の修業は最終的には、ここに直接おりたとうとする。

 経験的な知覚意識よりもさらに奥深く、光の領域がある。
この光の元型がマンダラである。

そのマンダラはまさに「ダルマ」の本性であり、さまざまに呼ばれるているが、もともと一つのものだ。

この他に、「空」とも「中道」とも、さらに「縁起」とも名づけられる。
これらも、そう名づけられているが、皆、一つのものを言い表している。

マンダラは光の領域、または、光の場にあり、自然(じねん)的で、なにものにも影響されない(無碍)ばかりか、いっさいの精神現象のエネルギーの源になっている。

つまり、ここから、無限の生命力が絶え間なく供給されている。すべてのエネルギーがそこから流出している。

ダルマカーヤ(法身)とはマンダラにほかならない。

マンダラは永遠で無限の光を、他からエネルギーを与えられずに活動する超越的な存在である。

つまるところ、原初の太陽といってもいい。

この太陽は、なにものにも影響されず、消滅せず、また、なにものにも汚されない純粋な光を放つ性質をもっている。

その存在する領域は空性であり、永遠で、清浄で、破壊されず、減ることも増えることもない。終わりなく、始まりもないので、創造した、あるいは創造されたということもない。

 この永遠の光の領域は、3つの純粋な光に分かれ、それらは堅く結び合わされている。

そして、図画としてのマンダラもまた、光の法身を直接顕そうとする。
マンダラがパンテオンのようでもあるが、実は、一つである。
したがって、マンダラはわたしたちに秘密をもって立ち表れる。

自己の内部には、必ず光り輝く空性の領域(仏の世界)がある。
外なるマンダラは、内なるマンダラを招来するための聖なる像であり、同時に伝法の手段である。 

そもそも、マンダラを自己のものとしてとらえるのには暝想する以外にない。
暝想はマンダラを捉える最上位の手段である。マンダラが描かれた訳はたとえていうなら、図画は多くの情報を瞬間的に訴えることができるからといえる。
無意識の内奥に刻印された形は、文書で説明するのは極めて難しい。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html


2. アーリエル[14] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月28日 22:47:45 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[100]
>1
あなたは面白おかしい人ですね。

長々と書いていただいて申し訳ないが、私には必要ないよ。

私は仏教用語としての厳密な意味や解釈を日常会話で求めはしない。
だが、私はそれらの言葉の意味を知っているよ。

それらはあなたと問答するためにあるわけでもないことをね。

あなたは鏡に自分の顔を映して、自身の目を覗いてみたらどうだろう。
そこに光明があるかどうかわかるだろう。


3. 中川隆[2304] koaQ7Jey 2016年4月28日 23:06:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2519]
>あなたは鏡に自分の顔を映して、自身の目を覗いてみたらどうだろう。
>そこに光明があるかどうかわかるだろう。

光明があるというのは宗教的妄想に取り付かれているという事

精神障害の一種だな


4. 2016年4月29日 22:58:59 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[23]

 マタイ福音書 15章より


  それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。

  口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚

 すのである」。

( 実行はむつかしいのですが、気をつけたいですね。)


5. 2016年5月06日 11:51:40 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[97]
>>エジプト然り、ローマ然り、メキシコ然り、

中国然りインド然り中東然りetc,.

そして「日本然り」、ね。

アーリエルさん、中川某をいちいち相手していても仕方なかろう。

一つの反証材料込みの参考文献wとして、頭の片隅に置いといた上で
スルーしたら如何か。其れなりの敬意を込めて(笑)


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