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(回答先: ゲームの遊び方 投稿者 金十字架 日時 2012 年 11 月 17 日 03:24:40)
さて思いやりや憐れみと云ったものを抱くのが
愛ある者として当然の態度である様に感じているとしたら
それは大きな誤りである事を此処に指摘する
何故ならその思いやりや憐れみが投げかけられることによって
その対象を確実に不幸にするからである
その対象となる者を過小評価していれば
その者は本来の能力を出す事が出来なくなる
善や良識というものを真に理解するという者は
そのことをよく呑み込んでいなくては話にならない
よってそれを知ろうとするものに対しては
常に気付きと諭しの為の言葉は対等な立場から投げかけられる
さて他者への思いやりとは表現を替えれば
その者に何かが足りないと感じるあなたの目線をして
対象となる相手を何かが欠けているといった存在として
見下ろしている状態である
これは在るレベルの見解に達していないと
正しく理解出来ない話かも知れない
それを今回の話の中心とする
しかしこれまで私のメッセージに"中立の立場"を取り
"真摯に"尚かつ"興味を持って"
私の動向及び経過並びに変化を目で追うことによって
同様に自身の心に耳を傾けて来た方々であれば即座に理解する話である
よって私はそうした方々を中心にそれ以外の方々へ向かうように話をしている
それでも自分の欲するデータ収集以外の情報には
目をくれないとしてもそれは何度も言う様に間違った事ではない
こうした知識の押し売りもまた解釈の取り違えによるものである
愛と云われるものが本来そうあったものからかけ離れ
いつから全く別のものになってしまったといえるのか
愛の押し売り
善の押し売り
いつどのようにしてそれが取り違えられていったかはともかく
では本来の愛とは一体何だと言えるのかを先ず示さねばならないだろう
解釈の取り違えに拠る歪んだ言動が横行したのも
その考えの元となる「ごく自然で当たり前の価値観」に
目を向けられない状態に留まってしまった事が原因としてある
簡単に言えば「評価というものにしがみつく」段階にあれば
もはやくだらない筈のゲームは続行すると云う事である
そこから離れるにはその眼差しが変化し
「見る」からその目に「飛び込むのを赦す」に移行する段階へ
自分を向かわせる事だ
そこに光は見えてくる
何故こう云った抽象的な表現が昔から使われているかと云うと
言葉によって適格に表現されて伝わる感覚などないからである
さてあなたが"ゲーム"の中で
「縛られた存在」として尚も演じるかどうかに限らず
そこでのあなたの眼差しが幾分変化しさえすれば
目に飛び込むものを評価査定することから
全てに対しありのままの無限の可能性を見出すと云った事に変化すれば
あなたは世界を正しく解釈し捉えはじめるようになる
神というものだろうと仏だろうと天使だろうと
またそこに誤った評価(限定)した存在として捉える事がなくなる
故にそしてそこにしがみつく事もなくなる
あなた自身が自己を低く評価することとはまさにそれであるのだから
「何かを高く評価し、そこに比較して何かを低く評価する」と云う事自体
他者を限定して低く評価し批判するが如くあり
尚も同時にそこにあなた自身をまたもそのように限定して
捉え続ける存在として見続けるのである
何か一つを捉えればそのように自動的に
自己をも低く見積もっていることになるのである
あなたは当然そこで穏やかな状態ままの感情に浸る事は出来ていないのである
何をどう感情的に反応してもそこに自己を絶えず低評価することになる
何かを不本意に感じればあなたは他者の評価を気にし
思うような自己の評価から離れて行ってしまうのである
そのような状態に自分で自分を置くのである
それはあなたが其処に居ないも同然の行為であり
それが不安(刹那的な感情)というものの正体である
しかしゲームの中ではそうした不安をも自身の為に利用して
自分に栄えある勝利を齎す闘いを演じる事も出来る
その為に前提となる不安要素を事前に生み出しているとも言えるのである
ドラマはすべてそうあるといえるだろう
そこでは自分の信念に沿った欲しいデータを集める為に
自己の思惑を投影する存在を求めそれを通じて
あなたが望む経験の為に互いの立場を役立てているのである
だがそれはあくまでゲームだ
事実とはかけ離れたものである
あなたが本当はどうありたいのかは
ゲームの最中でも常に見直しができる
何かを経験してそれがあなたに不要であると感じれば
すぐにそれを捨てる事が出来る
本来のあなたの望み実現するために
そこであなたという存在を常に再設定する事があなたの本分なのだ
よって過去のあなたは既にたった今あなたの中から消えてしまって構わない
過去の出来事にあなたが捉えられ続けているのならば
それはあなたが手放さないだけである
全てはゲームの進行の為に利用すべきものなのである
何かに振り回されている間は先に進まない
あなたがまず気を付ける事は
あなた自身を蔑まない事だ
自身を監視査定することを止めれば良いのである
「互いに評価(批判査定)し合うゲームに参加せよ」
というメッセージを理由も無しに受け取り
不自然な流れに巻き込まれたものは
始終自身を監察するようになってしまう
自身がそこに無い
人は自身の中に確かな心と云うものを通じて人を見ない為に
未だに人と云うものを知らないままである
「不自然な思いやり」と云うものも
本来あるべくもない罪の意識といったものから生まれる
そこでの罪悪感とは何かと言えば
そこに「自分は期待に応えられて居ないのではないか」
と云った無意味な意識を指すのである
裏を返せばそれはまったく不自然で不本意な判決をあなたに齎し
あなたは何処に居ても自身を心苦しくさせる感情に苛まれる事になる
商品コマーシャルにのせて流れる聞こえの良い善良な謳い文句ほど
実に気味の悪いものに感じられるのではないだろうか
やさしくあろう
思いやりを大切に
人として生きよう
どれも実に観念的で伝わるものがない
正常な感覚が麻痺している
これら標語は単なる意識的な心を無視したルールである
そこには常に何かをしなければならないと云った
漠然たる要請に対する義務感だけを募らせるようになり
常に自分の本来の向き合いたい筈の方向性の扉を閉ざし
あなたをその本分から引き離し限定された存在に置き換える
あなたはその為の限定された評価だけをいつしか求める様になる
すべて不自然な向きに働いていることである
そういった不自然な観念をあなた方は
何の躊躇いもなく受け容れてしまうことができている
全ては他人の目そして自己評価の目
正しく在らねば残るのは恐怖だけという図式である
もう一度言うがあなたがゲームを楽しんでいるのならば
それは何も問題ではない
しかし他人からの評価(それもあなたの能力を限定するものである)を
期待する必要性など持たなければ
あなたはもっともっと巧く自分をそこに表現できることだろう
人の目を気にする事がなければ
あなたはそのゲームから離れてそこに存在するようになる
他者の観念の思惑には乗らないとはっきりその胸に宣言すればいい事だ
あなたは既に正当に最高レベルで自己に評価されているのである
何かを求める必要性よりも
既にそうなっていると云うあなたの常に今の実感だけがあれば
すべて良い方向性に向けて扉は開かれるのである
それが改めて何も信ずる必要性をはなから持たないと云う事であり
それが信の一字である
あなたは自分の想い描いた理想だけを追い求めて
その輝かしい力で人々の前に新しい創造性を目覚めさせる事が出来る
ひとつのゲームオーバーもまた新たなあなたの始まりを生む為に利用される
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