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(回答先: この世の修行とは 投稿者 金十字架 日時 2012 年 11 月 17 日 18:26:20)
よくある思い込みのひとつとして
人とは問題に直面すれば「考え抜くことで切り抜けられる」といった観念がある
人とは"考える葦"といった名文があるからである
その為に人は教育と云ったものに力を入れるのであるし
知識と云ったものを溜め込む記憶媒体
つまり脳の能力にとても関心が高い
それらをまとめると
「人は頭で考えるものである」と云った観念は常にそこにワンセットである
それらを裏付ける観念として
記憶力の低い者を愚かしい存在として看做す様にさえなる
その幹となる考えを通じて観念は枝分かれし
「頭が働いていなければ人として何処かおかしい」
といったような考えもが枝葉として派生する事となる
そうした考えは常に根本の幹の考えに正当性を与えつづける
そして幹の観念はより太く強力に人の間に浸透し働く事となる
しかしながら意識は一カ所に留まりあるものなどではない
そして皮肉にも記憶力などと云うものの働きを有り難く想う事が
世の中をよくする為にポジティヴに働かせることができた試しなどはないのである
最近はようやくそうした比較に依る個性の違いも認められ始めてきたが
それでもまだそうした観念は根強いまま残っている
大抵は誰が失態を演じたとか
相手の揚げ足取りにばかりに
知的なアイデンティティーの高さを誇る舞台を探している
そうした在り方があなた方を限定した存在にいつまでも留め置くのである
あなたの中に特定の自己などと云うものが幅を利かせ
いつまでも居座るのであれば
あなたはそこにまったく成長など見ることはできない筈である
あなたの肉体を構成する全細胞は
意識的に何かを捉えては終始あなたにそれを伝えている
しかし頭脳に於けるあなたの自我意識はそれをまったく把握出来ていない
つまりここで言いたい事は
全体を把握するあなたの意識は頭の中に在る自我とは別にあり
しかし常にあなたの自我意識とも一体である
と云う事を暗に今は理解しておいて欲しい
思考より心で何かを感じ取ろうとする事のほうが
ずっと自分を把握することにつながる
そのようにして考えると
そもそもの問題は何処にもないのである
なのに人は自分の何処かに問題があるのだと
いつまでも捉え考えてしまう
何度も言うがそこに評価の二文字があるからである
そして世の中もまたあなたの視線を通して
絶えず何処かに問題を生み出しつづける
あなたがこの世界を欠陥を抱えていると分析してしまっているからだ
あなたの中に不安というものが払拭出来ないままであれば
あなたも常に自身の評価に対して
正当性を訴えたり言い分や主張を貫く必要性を抱く様になる
自分の持ちうる信念が間違っていないことを
裏付けようとする働きそのものが
不安を更に膨れ上がらせるのである
身体のどこかが病んでいると感じるのならば
そこに餌を与えてきたのはあなたであり
あなたの受け容れた観念が働いている証拠である
そしてあなたがその身体を維持する事もまた
あなたがその観念を受け入れつづける限り続くのである
治らないと信じ込んでいるならそれはその為の情報を
あなたは絶えず仕入れていると云う事になる
そこにあなたの能力は限定され続けるのである
新たな観念をあなたが作っていいのだ
人から齎されるものが正しい情報である訳ではないのだから
物理的な観察結果とはあなた方が裏抱けているだけである
その発信源が権威であろうとなかろうと
あなたがそれを信じるかどうかだけが
そこに意味を与えているだけなのである
だから何にもしがみつく必要性はない
ただ手放せばいい
何故ならあなたは何からも限定されない存在なのだから
あなたは欲しいとするもの利用したいものすべてを手に入れた存在であり
あなたはいつ如何なる時もその限定された情報を利用して
現状のあなたを手に入れていると言えるのである
あなたはあなたの意思で現在のあなたを取り巻く状況を正確に創り出している
そうした意識を取り戻せるか否かが
あらゆる支配から脱却する為の重要な鍵となる
だから常に今のあなたが不満を持って
「自由になりたい」と感じているという事は
誤った自己の現実の紡ぎ方だと言えるのである
私がここに掲げている知識は何かを守る為のものでもなければ
誰かを慰める為のものでもない
正論だとでしゃばるものでもなければ議論を必要とするものでもない
ただ素直にあなたがどうした感情で居たいのかに気付かせたいだけである
どうした状態で今あるのだとしても
いついかなる状況が迎えられたとしても
あなたがどう在りたいかどういった心の状態にありたいか
それだけが絶対的にあなたにとって大事なものなのである
そのことの重要性に気付いて欲しいだけである
失っているのであれば取り戻すことが出来るのであり
忘れてるのであれば思い出す事が可能なのだから
他人の評価そして自分自身に対する評価を
あなたは自身に期待すればするほど
そこに「巧くやらねばならない」と萎縮するような心苦しさだけを感じてしまう
それが出来るか出来ないかに限らず
無意識の中にも絶えず自己批判に明け暮れることになる
そしてその間は反射的に他者をも痛烈に批判するようになっているだろう
あなたが自身をそうした責め苦から解放したいと感じているのであれば
そうした発想によって自分自身を縛ることをやめればいい
まずは必要性を感じる事柄を一旦投げ捨てればいい
何故そうしなければならないとだけ限定して考えてしまうのか
どのような観念がそこに付きまとっているのか
それを洗い出せればいい
それをせずにその発想のまま居続けるとしたら
あなたは格子の外の解放感に浸る事よりも
むしろそこに居る事によって掴めそうな事柄に
強い興味を抱いているのかも知れない
こうした話を旨い話の類いとして
如何わしく感じるのであれば
それはあなたの中にこれ迄の限定された自己を
美化したいとする理由があるのかも知れない
すべてはあなたの中に蠢くあなたを形づくる観念が為す事だ
その観念はあなたが選択して受け容れて来たものである
それはそれで何も間違っていない
すべては間違いようがないのだ
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