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(回答先: 「本能寺の変」は銀本位制と金本位制との争いという発想 (八切止夫論への切り口) 投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 16 日 18:28:19)
http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html#1-18
第一章 古代日本史へタイムトリップ
白い小さな錠剤の世界へ
どうしたことか、脳みそが波打つように動き回る感じだ。意識が消え行く瞬間に、「何故だ?」という意識の問いに、フラッシュバックが始まった。住居兼事務所のボロマンションの一室。氷酢酸の臭いのする赤い光が灯る風呂場。大学病院の心療内科の治験部屋。テーブルの上の白い小さな錠剤とコップ。「そうだ、あの錠剤を、、、。」と思ったときには、意識が消えていた。
初夏の日差しに照らされたレンガが所々欠落している建物の一室で、若い医師に問診されている男が、オレ亀田満。本名は「かめだみつる」なのに、「カメダマン」とひとは言う。そのあだ名で今は通している。数年前まで、出版社でカメラマンをしていた。しかし、社の方針で、パソコン編集に対応して、銀塩カメラからデジタルカメラへの切り替えが指令された。
オレはパソコンアレルギーで、キーボードでの入力などできなかった。当然、デジカメの操作などできるはずもないし、したくもなかった。そこで、自己都合の退社となったわけだ。35歳独身、技術者でもあるカメラマンは、どこでも職場が探せると思った。それが、そもそもの間違いであることは、職を求めて二三の出版社を尋ねて分かった。
編集者は、机上のパソコンで、写真をデータとしてカメラマンと遣り取りをしている。銀塩カメラでの現像・プリント作業などなく、デジカメは、記憶媒体をパソコンに挿入すれば、瞬時にモニター上で映像を見ることが可能だ。
ひと昔、写真学校で教師が語ったデジタルカメラの世界が、今、現実の世界に現れていたのだ。授業で未来のカメラマン像を熱っぽく語る老教師を、ひややかな眼でみていた自分を恥じた。オレが初めて手にしたデジカメは、その軽さからオモチャのように感じたし、その画素が300万ほどであったので、四つ切り(254mm×305mm)でプリントアウトをすると、画面が荒れて、まるで砂漠の嵐のなかのような像であった。これは使えない。それからのオレは、デジカメの情報収集をしなかったし、デジカメを手にすることもなかった。だから、それからのデジカメメーカー技術者の努力の結果を知る由もなかったのだ。
しかし、就活で現実の写真界の激変を悟ったオレは、わずかに残った退職金から中古パソコンと中古デジカメを買い、その操作を自己学習したが、パソコンは、人差し指一本とひらがな入力で、かろうじて操作できるまでになった。でも、デジカメは生理的に受け付けない。デジカメのファインダーが、写欲を湧かさない、モニターなどは、なお更だ。
若い医師は、問診表を手にして、オレが提出したメモを見ながら言った。「脳みそが動く感じとは、どのようなことか具体的に説明できませんか。」
そう、オレは、何ヶ月にも及ぶ職探しに疲れ果てて、軽いうつ状態に落ち込んでいたのだ。フリーカメラマンといえばカッコがいいかもしれないが、それは無職カメラマンの意味でもある。保険料滞納のため今や健康保険証もないし、病院に行く余裕もない。そこで新聞で眼にした治験広告だ。その治験広告の質問は、オレの今の精神状態ピッタシだった。コールセンターに電話をすると、交通費名目で何がしかの金がもらえるらしかった。それに、初診料を自費で払えば、あとの治療は無料ということで、オレは、その治験に参加し、エントリーされたというわけだ。
「すみません。実は、薬飲み忘れて、二日分を一度に飲みました。薬を飲んで暗室作業を終わり、光を灯したら、急に、脳みそがグワーンと動くように感じて、そのまま意識を失いました。」
「で、それでどうでした。」
「どうでしたって、何ですか。」
「有害事象が現れませんでしたか。幻聴とか幻覚が。これは誘導質問ではありませんが、、、。」
「この治験、うつ病でしょう。パソコンで調べたら、うつ病のくすりは、元気の素ノルアドレナリンやドーパミンを調節して、うつ症状を緩和するのですよね。」
「そうですが、、、。」
「実は、意識を失ったのではなく。別の世界に居たのです。その世界はリアルでした。この治験薬には、幻覚や覚醒作用があるのですか。」
「被治験者には、治験薬の作用機序については述べることは出来ない規則になっているのですが、、、。」
オレが黙っていると、若い医師は、治験脱落を恐れたのか、「この治験薬は、亀田さんの言うように、ノルアドレナリンとドーパミンを調整するものです。今回の治験は、PFCの影響力を測るためのものです。」
「PFCって何ですか。」
「前頭前皮質のことで、作業記憶および認知機能をつかさどる処です。その役割は、計画する、まとめる、反応を開始、または遅延させる、といわれています。」
若い医師は、その後も、この治験について説明したが、専門過ぎてその内容はオレには理解できなかった。
「そのリアルな幻覚とは具体的に説明できますか。」
「ええ、簡単に言えば、治験薬を飲む前に、推理小説を読み終わったのです。その推理小説の全編が、映像となって現れたのです。その全映像は、暗室タイマーで確認したところ1分も経っていなかったのです。こんなことってアリですか。」
オレは、幻覚の説明中、若い医師の動作を観察していた。それは、オレの脳には、何か重大な欠陥があるのか心配だったからだ。若い医師は、オレの説明をひととおり聞くと、少し時間があるかと尋ねた。金はないけど、時間はたっぷりあるオレは、頭を縦に少し振った。
3時も過ぎると大学病院は、その喧騒から静寂に替わっていた。黒いスーツに黒カバンの人達が廊下に佇む医局のすわり心地のよくないソフアーに腰掛けると、若い医師は、少し声を落として、オレに頼みごとを申し入れた。オレは、その頼みごとを即座に受け入れた。
四週間の治験が済むと、なんだか気のせいか気分の落ち込みが改善したように感じられた。オレは、溜まっていた仕事に取り掛かることにした。今の仕事とは、出前で肖像写真を撮ることだ。この仕事は、就活中にオヤジが脳梗塞で急に亡くなって、葬儀の写真がないかと兄貴からの連絡で、編集取材の残りのフィルムがもったいなかったので、時々オヤジの日常を、スナップしていたものだ。
その盆栽を手にして誇らしげにポーズをとるオヤジの、明日の葬儀に間に合わせるために急いで暗室作業をした結果の、定着と水洗が完全ではなかったため、セピア調に変色したモノクロ全紙(457mm×560mm)写真が、葬儀出席の親類縁者の評判となり、その口コミで、日常生活を背景とする葬儀用のスナップ撮影依頼が舞い込んできたのだ。そのころのオレは、少しうつ状態だったので、ほとんどの撮影依頼を断わっていたのだ。
オレの愛用のカメラ機材は、ペンタックスSPブラック、それにレンズは3本、スーパーマルチコーテッドタクマー28mmF2.8、同じく、50mmF2.8、それに、85mmF2.8と、ポラロイドSX−70が、オレの手足となって、時間と空間を切り取ってくれるのだ。
オレが出版社カメラマン時代に、ニコン、キャノンではないのですね、って取材先でよく言われたものだ。プロ用ニコンもキャノンも小柄のオレには、すっごく重い。それに、メカも複雑だ。それに比べるとペンタックスは、軽くてシンプル。スクリューマウントの難点を外せば、レンズも優秀だ。
写真は、カメラを道具として撮るものだ。機材は、好みだ。オレは、そんなニコン・キャノン時代に逆らって、なけなしの給料とボーナスでハッセルブラッド500CMを買ってアクセサリーにしていた時もあったが、上から覗くファインダーと、パカッというシャッター音には最後までなじめなかったので、ハッセルは中古カメラ店に二束三文で売り払ってしまったのだった。
あとの機材といえば、カコの小型ストロボと、ラッキー90Mの集散光式黒白引き伸ばし機と、退職時に出版社から払い下げられた現像タンク、バット、竹ピンセットなどの小物と、現像薬品類だ。
現像薬品といえば、オレはグラビアのモノクロが専門だったので、現像液はD−76を高校写真部時代から使っている。高校時代に、そのD−76フィルム現像液は、PQやMQ現像液のカブリの難点を克服して登場したのだ。新物好きな先輩は、そのD−76の処方をどこからか入手して、新入部員のオレに毎週作らせていた。
池袋の大塚寄りのキクヤカメラで、メトール、無水亜硫酸ナトリウム、ハイドロキノン、ホウ砂などを買い込んで、上皿天秤で量り、D−76現像液を作っていたから、もう二十年も過ぎても、その処方を覚えている。
D−76フィルム現像液
約50度Cのお湯 750ml
メトール 2g
無水亜硫酸ナトリウム 100g
ハイドロキノン 5g
ホウ砂 2g
水を加えて総量1000mlとする。
フィルム用停止液
水 1000ml
クロムミョウバン 30g
無水硫酸ナトリウム 60g
フィルム・印画紙兼用定着液
水 600ml
チオ硫酸ナトリウム(ハイポ)240g
無水亜硫酸ナトリウム 15g
氷酢酸 13.4ml
ホウ酸 7.5g
粉末カリミョウバン 15g
水を加えて総量1000ml
因みに、D−72印画紙用現像液
約50度Cのお湯 500ml
メトール 3g
無水亜硫酸ナトリウム 45g
ハイドロキノン 12g
炭酸ナトリウム1水塩 80g
臭化カリウム 2g
水を加えて総量1000mlとする。
今や、銀塩フィルムのこんなメンドクサイ処方箋も無しに、デジカメ映像は電子媒体で切り取られ、そして、現像・停止・定着作業もなしに映像を固定させることが出来るのだ。これが写真界の現実だ。
肖像撮影の仕事帰りで、愛車バイクのトモスを駐車場脇に置くオレに、管理人が小荷物が届いているから管理人室に来るように言った。
このマンションは、マンションとは名ばかりで、エレベータがないため、五階のオレの部屋までは、階段を上らなければならないのだ。カメラバックをソファーに放るように置き、その小荷物の封を開けると、一枚のメモ、CD-ROM、、一冊のハードカバー本、そして、自動タイマーのような物があった。
小荷物は、あの治験担当医師からだった。メモには、「お言葉に甘えて、資料をお送りさせていただきます。」の他に、オレの幻覚の医学的所見は「状況関連性発作/一過性てんかん」が疑われるが心配無用とあり、その下に簡単な自己紹介があった。それによると、治験担当医師の名は、田辺功で、「日本騎馬民族研究会」のメンバーで、その研究会設立の簡単な趣旨と、今回の依頼の件が三つ箇条書されていた。そして、その本は、オレの幻覚の心配を和らげるための資料としてお読み下さい、とあり、養老孟司監修「脳と心の地形図」だった。
箇条書きその1、この依頼事項は強制ではないので、いつでも中止できます。
その2、今後の連絡は、パソコンでお願いします。
その3、この依頼の件は、他人に話さないで下さい。
以上に同意していただけましたら、パソコンにCD-ROMを挿入して下さい、とあった。
オレは、仕事をためるのが苦手だから、今日撮影したフィルムを現像してから、パソコンに向かおうと、現像準備にとりかかった。
大型冷蔵庫から、現像処理の薬品ポリタンクをとりだすと、風呂場に急いだ。風呂場がオレの現像室だ。保温機で20度Cに暖められた、現像液D-76、停止液、そして、定着液をセットすると、現像タンクのリールに素早くネオパンSS36フィルムを巻きつけ、タンクの蓋を閉めた。そこまでは、暗闇での作業だ。現像タンクをトレイに置くと、赤灯を灯した。現像液をタンクに注ぐと、タイマーをセットした。後は、時間通りに停止・定着の流れ作業を進めれば、フィルムは現像されるわけだ。現像されたフィルムの滴をスポンジで拭い、錘のクリップを付けて吊るせば、乾くまでは時間はフリーだ。
パソコンにCD-ROMを挿入すると、しばらくしてメッセージが現れた。プロバイダーとの契約書類にある英数字を指示どおり打ち込んでください、との指示に従い順次に英数字を打ち込んだ。このパソコンをインターネットに接続する時、友人のパソコンマニアの作業を横で眺めていたので、この動作は接続作業であることぐらいは、パソコンアレルギーのオレにも分かった。
最後に、エンターキーを押すようにの指示に従うと、画面にメッセージが現れた。「田辺功です。これで、チャットは完全に暗号化されたので、パソコンでの会話の安全が構築されました。午後10時以降であれば、チャットは可能です。もし、不都合でしたら、メールでも連絡がとれます。」、とあった。
オレは、撮影と現像作業での疲れを覚えたので、送られてきた本を見ながらソファーに寝転んだ。その本をパラパラ捲ると、所々にマーカーで印があるのが分かった。24頁から25頁にかけて、
カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経学者たちは、側頭葉を調べているうちに、神秘的な何かが存在するという感覚と、すべてを超越したという霊的な感覚を生みだすと思われる領域をつきとめた。カナダのローレンシア大学で神経化学を研究するマイケル・パーシンガーは、その領域を刺激することで、信仰心を持たない人にこうした感覚を起こさせることにも成功している。「まず例外なく、被験者は何かの存在を感じたと報告している。ストロボ光を点滅させると、そこにキリストがみえたという者もいた、、、、[別の]被験者は、神が自分のもとにやってきたと言った。あとで彼女の脳波図を調べたところ、その経験をしていたとき、側頭葉に典型的なスパイク波形と低速波の変動がみられた---ほかの部分に異常はなかった」
そして、33頁には、
赤ん坊の脳には、おとなが持っていないものがある。例えば聴覚と視覚の連絡、さらに網膜と視床(音情報を受けいれるところ)の連絡である。そのため幼児は、音を「見たり」、色を「聞いた」りすることもがある----これがおとなになっても続くと、共感覚と呼ばれる状態になる。
更に頁を捲ると、41頁に、
ドーパミン
脳のいろいろな場所で喚起レベルをコントロールし、神体面の動機づけを与える。パーキンソン病のように、ドーパミンが極端に少なくなると、自分の意志で前に進むこともできなくなる。精神的な停滞状態にも、ドーパミンがかかわっているとされる。逆にドーパミンの過剰は精神分裂病に見られ、幻覚を引きおこしたりする。幻覚を誘発する薬物は、ドーパミンの分泌に働きかけている。
そこまで読むと、本を支えていた腕の力が抜け、同時に、意識が薄らえていくのを感じた。
どのくらい眠ったのか分からなかったが、日は当に暮れていた。時計を見ると、午後9時少し前だった。いつものように冷蔵庫からパックされた十六穀米をチンすると、豆乳をコップに注いだ。オレの夕食はこれだけだ。以前は、食欲に任せて脂ぎった食物をタラフク食べていた時代もあった。その結果がメタボ。日本人は、飽食には弱いが、飢餓に強い民族だ。精神的な落ち込みを別とすれば、身体はいたって健康。豆乳を飲み干すと、パソコンに向かった。
オレは、人差し指二本で、「こんばんわ、カメダマンです。」と打ち込んだ。
すると、すかさず、「こんばんわ、田辺です。」の返事がきた。
「ごぶさたです。で、オレ何をすればいいんですか。」
「一寸した実験をしてもらいたいのです。」
「どのような実験ですか。」
「これから添付する文章を読んで、暗室の赤ランプを灯けて、自動タイマーに電気スタンドのコンセントをつないで、そのタイマーのボタンをおしてもらいたいのですが。」
「何ですか、この実験。」
「幻覚ではなく、共感覚の実験です。亀田さんには、文字情報を映像化する回路があるようですから。」
「あの治験薬を二錠一度に飲んだ時の幻覚の再現ですか。治験薬がないのに。」
「幻覚の原因は、治験薬ではなかったのです。プラセボだったのです。亀田さんのは」
「でも、治験でうつ状態から脱出できました。」
「それは、プラセボ効果です。」
「そうですか、プラセボですか。で、本当の原因は何ですか。」
「ポケモン事件を覚えていますか。日本全国のポケモンファンの子供が、状況関連発作を起こして、全国の小児科がパニックになった事件です。」
「覚えています。」
「間歇光刺激下で光過敏性のある人は、その条件下で「誘発性けいれん」を起こすことが知られています。赤色が10ヘルツから20ヘルツで点滅すると、脳内のドーパミンに作用するのです。亀田さんが見た幻覚のスイッチが、暗室内の赤い暗室ランプと白色灯の点滅だったというのが、私の推論です。」
そして、しばらくチャットが止まると、メールが届いたとの知らせがパソコン上に現れた。プリントアウトすると、A4で四枚あった。そこには、「魏石鬼八面大王について」、のタイトルに続いて、その歴史が書かれていた。
何か、覚えのある大王だったので、パソコンで検索すると、その魏石鬼八面大王が支配していたとする地に、オレは、出版社カメラマン時代に取材に訪れていたのを思い出した。黒澤明監督の映画のロケ地の取材で、大王わさび農園を訪れた時、大きな石と、立派な横穴石室のある古墳を見学していたのだ。
オレは、田辺さんの指示どおりに、レポートを読むと、暗室に入り、自動タイマーに電気スタンドをセットし、そのスイッチを押した。20ヘルツで赤色と白色が点滅する光の中に、魏石鬼八面大王が立っていた。
オレは、パソコンに向かって、今「見た」状況を簡潔にキーボードから打ち込んだ。
すかさず応答があった。
「レポートのストーリーと大分違うようですね。何か別の資料か、魏石鬼八面大王について知っていたのですか。」
「大王についてパソコンで調べました。それに、以前、大王が立てこもったという岩屋を見学したことがあります。」
「そうですか。納得できました。送った本お読みになりました。」
「50頁ぐらいまで。」
「253頁から第七章 「記憶はどのように保存されるか」を後でお読みになれば分かると思いますが、人間の記憶はいい加減なものです。興味のないものは、直ぐ記憶から外され、覚えていませんが、興味があるものは長く記憶に留まる傾向があるのです。古墳に興味があるのですか。」
「子供の頃ですが、実家の田舎に夏休みを過ごすことが多かったのです。裏の小山の上に神社があったのですが、その小山の横に穴があり、その中に入ると大きな石で囲まれた空間があったのです。日本史を学んで分かったのですが、その大石に囲まれた空間は石室で、神社は古墳の上にあったのです。石室は遊び場だったので、それ以来興味をもっていますが。」
「そうですか。そこは何処ですか。」
「栃木県の佐野の近くです。」
「北関東ですね。昔の陸奥国への玄関ですね。」
「古墳は、墓ですね。何故、大王の石室が露出しているのですか。」
「それはいい質問です。奈良の石舞台も石室が露出していますね。石室が残っているのは、それはあまりにも大きな石で作られた石室だったので、破壊できなかったのです。」
「誰が、何のために、大王の墓を破壊するのですか。」
「大王わさび農園に行きましたね。その茶屋にその大王の歴史を簡単に説明したボードをご覧になりましたか。」
「覚えていません。」
「そこには、坂上田村麻呂の理不尽な要求に対して、威圧にさらされた農民を護るために「八面大王」が立ち上がり、田村麻呂と戦い敗れた、とあるのです。その時、立てこもったのが魏石鬼窟だというのです。」
「田村麻呂が蝦夷を壊滅するために北征したのは、九世紀始めですね。古墳が築かれなくなったのは七世紀末ですよね。その100年間はどんな時代だったのですか。」
「歴史教科書的には、白鳳時代に続く天平の奈良時代。大和朝廷が、文化国ニッポンを確立するために、唐の律令制度を導入し、優秀な青年を遣唐使として、唐に送り込んでいた、とする時代です。」
「飛鳥大和時代に築かれた古墳が、何故、平安時代初期には破壊されていたのですか。」
「飛鳥大和時代、と言いますが、「あすか」が「飛鳥」と表示されたのは713年好字令からです。それ以前は、万葉語といわれる漢字を使ったアルフアベットで、「明日香」と記述されていたのです。その明日香とは、奈良だけではなく、東国には多くあるのです。「アスカ」は「ナスカ」と関係があるとする人もいます。」
「何故、713年に「明日香」を「飛鳥」に替えたのですか。」
「いい質問です。歴史書籍には、漢字二文字の人名や地名がありますよね。その漢字二文字は、713年以降の記述です。それ以前は、中国式に漢字一文字や、漢字アルファベットで二文字以上で人名や地名が記述されていたのです。それは、支配者が替ったからです。」
「それおかしいです。日本は万世一系の天皇が、紀元前660年から飛鳥大和を支配していたのではないですか。」
「カメダマンさん、日本の本当の歴史を知りたくありませんか。」
「知りたいです。」
「分かりました。今日はもう遅いので、これで終わりにしましょう。」
「分かりました。おやすみなさい。」
パソコンのスイッチを切ると、時計の針は午前二時を回っていた。
目覚まし時計のベルの音にオレは起こされた。6時、カーテンを威勢よく開き窓を開けると、土手の上に早朝散歩をする人達が行き交っていた。冬の川風はキツイが、夏の朝風は気持ちよい。体調を崩した原因のひとつが、不規則な生活であることを治験で指導されてからは、オレはどんな時でも、6時に起きることを実行している。
夕飯がシンプルだと、朝の食欲はどんな状態でもある。オレの朝食はいたって簡単。卵をチンして温泉卵をつくり、オレンジジュースと食パン一枚だ。
朝食を済ませると、ソフアーに横たわり、本の第七章「記憶はどのようにしに保存されるか」を読む。そこにも、マーカで印があった。
種類はともかく、記憶の仕組みは基本的に同じものだ。それは、ニューロン集団の連合であり、ひとつのニューロンが活発になれば、それが全体に波及して特定のパターンを作り出す。
3頁先にもマーカがあった。
細部まではっきり残っている記憶は、脳の扱いかたも異なる。こちらはエピソード記憶と呼ばれ、時間と場所の感覚に支えられている。「たしかにそこにいた」という個人的な記憶が含まれていて、ホワイトハウスがワシントンにあるという知識とは一線を画す。記憶がよみがえるときは、それが定着したときの心の状態も再現される。
更に頁を捲ると、
長期記憶になるエピソードは、皮質から海馬へと送られる。海馬でニューロンパターンとして記憶されるわけだが、そこまでは皮質のときと変わらない。ただし海馬は皮質のいろんな部分と接続しているので、より包括的なイメージを作ることができる。
更に、
個人的な記憶を記号化して取りだすのは海馬だが、恐怖感を覚えた記憶となると、少なくとも一部は扁桃体にたくわえられるという証拠もある。扁桃体は大脳辺縁系にある小さな核で、恐怖を記憶するところだ。心的外傷後ストレス障害で起こるフラッシュバックは、この扁桃体に由来すると考えられる。だから、フラッシュバックは記憶のリブレイであるにもかかわらず、身体的、心理的にもとの体験に匹敵する強烈さを伴うのだ。
脳にある何十億というニューロンは、100兆もの結合を持っていて、そのひとつずつが記憶の一部になる可能性を秘めている。だから人間の記憶能力は、正しいやりかたでたくわえれば無限なのである。
そして、第八章の「意識はどこにあるか」の扉の裏には、文章をマーカで囲んであった。
観念をうみだし、計画を組み立て、思考と連想を結びあわせて新しい記憶を作る。すぐに消えようとする知覚を引きとめて、長期記憶に昇格させるか、忘却のかなたに追いやる。これはみんな前頭葉がやっていることである。意識が住むところ、それが前頭葉だ。明るく照らされたこの場所では、脳の奥深くにある組み立てラインで作られた産物が、厳しい検査を受けている。自意識もここで生まれるし、物理的な存在システムが主観的な感覚に移しかえられるのもここだ。精神の地図に「現在地はここ」という印を入れるとしたら、それは前頭葉だろう。脳に対する新しい見かたと、古くからの知恵はここで響きあう。なぜならこの前頭葉には、古来より神秘主義者が唱えていた第三の目---意識の最高点への入り口---があるからだ。
オレは、田辺さんがマークした文章をもう一度読み返し、田辺さんがオレに依頼した事の意味を少し理解した。田辺さんはオレを「第三の目」として「歴史の地図」を創ろうとしているのか、と自問した。
オレは、本を読み終わると、昨日の暗室作業の続きを始めた、印画紙現像は、フィルム現像に比べると神経が休まる。現像に失敗してもやり直しが出来るからだ。乾燥したフィルムを光源に晒すと、コントラストがあまりハッキリとしていない。室内での撮影だったからだ。印画紙は、1 号から5号までの諧調があって、号数が多くなるにしたがって軟調から硬調になる。オレは、5号の印画紙を用意した。
試し焼きをしてから現像時間を確認すると、慎重にピントを合わせる。ニッコール引き伸し用レンズは製版用に開発されただけあって、周辺までシャープに像を結ぶ。ルーペで銀粒子を確認すると、露光開始だ。「オバーチャン」と呪文を唱えると1秒だ。今回は、サンプルプリントなので、6切(203o×254o)で焼くことにした。呪文を5回唱えると、印画紙を現像液に浸けた。潜像が徐々に像として現れる。いつものことだか、何か、魔術師になった気分になる。それと同時に、昨日の撮影現場を思い出した。
今回の撮影依頼者は、シロウトではなかった。地図を頼りに、愛車のトモスで越谷まで行くと、町外れに大きな屋敷があった。高いコンクリート塀に囲まれた屋敷は、要塞のように感じられた。時代遅れの冠木門には、監視カメラがあった。門にあるドアホーンを押すと、何か用かとの若者の声が返ってきた。オレは用件を素早く告げると、脇門が開いた。そこには警棒を持った若者が居た。
その若者は、オレの営業用スタイルを見て、少し、警戒しているのが感じられた。オレの服装は、同業者の様だからだ。黒のスーツに黒ネクタイ、糊の利いた白のボタンダウンのYシャツ。それに、跳ね上げ式グレーサングラス付きメガネだ。このような服装をしているのは、オレは、出版社カメラマン時代に、カメラマンは雰囲気作りが必要だということを学んでいたからだ。オレは、葬儀用肖像プロカメラマンなのだ。
大企業の静寂な社長室での社長の撮影で、Tシャツ姿のカメラマンでは、被写体である社長は威厳のあるポーズはとらない、そして、活気ある町工場の現場撮影では、タキシードに蝶ネクタイのカメラマンでは、工場の被写体の工員は緊張してしまう。プロカメラマンは、被写体に合わせて、どのような写真を撮るのかを前提に、身だしなみを繕い、その場の雰囲気を演出する必要があるのだ。つまり、プロカメラマンは、シャッターを押す前に、演出家でなくてはならないのだ。
若者に従って屋敷内にはいると、そこは外界の猥雑さから遊離して、静寂さがあった。広い部屋に通されると、床の間の前に老人が居た。それが、今回の依頼主だった。
角刈りと甚平姿が如何にもヤクザの親分らしかった。
「マッ、座んねぃ。」
オレは、東映ヤクザ映画の一シーンを思い出した。座卓を挟んで、親分子分の図だ。
「何処から起こしなすった。」
「荒川の赤門近くからです。」
「あの自転車で、」、親分は庭に止めたトモスを見て言った。
「あれはバイクです。」
「ペタルがあるじゃねえか。どう見たって自転車でぃ。まっ、そんなことどうでもいいゃ。ワシもそろそろお迎えが来る年だ、冥土の土産に写真でもって思ったんで、電話したわけサ。」
「ありがとうございます。お気に入る写真を撮らさせていただきます。」
オレは、部屋の欄間にズラッと飾ってある先代の写真を眺めながら言った。中には、写真修正の失敗かビックリ目のような肖像写真もあった。大昔、ストロボなどない時代、マグネシュウムでの一発勝負の写真には、目をつぶった人物写真は、筆で目を開ける開眼術を必要としていたのだ。
オレは、次に依頼主が質問する流れを知っている。それは、カメラマンの腕を調べるための質問だ。そう思っていると、
「ところで、カメラは何?」
依頼主が期待するのは、カメラ通だと四五ではリンホフテヒニカ、35ミリだとライカかニコンだ。オレが、皮製のリュックからペンタックスSPブラックを取り出すと、親分の顔が期待はずれの色となった。
「なんでぃ、ペンタックスか。ワシだってライカでぃ。おぃ、カメラもって来い。」奥に控える若い衆に言った。
親分は、皮製のカメラケースから取り出したのはライカDVだった。オレは、その型のライカを高校時代写真部で見たことがあった。写真部の後輩で医者の娘が使っていたのだ。フォーカルプレン式ゴム引き布幕シャッターで、T.B.1〜500秒不等間隔で、スロースピードダイヤルはボディ前部右手側にあるのだ。フィルム巻上げはノブ式だ。レンズ部は沈胴式で携帯性は抜群だ。
「ワシが、日中戦争(1937年〜1940年)でボロ儲けした時の記念として買った物サ。」、一瞬親分の顔が子供のようになった。オレは、その瞬間をこころのシャッターで記録した。
そのような依頼主が期待外れの顔をした時には、オレは、次の手を打つのだ。リュックから写真集を取り出し、依頼主に見せるのだ。写真集は、知人の印刷屋に格安で製作してもらったものだ。このブロカメラマンのセールステクニックも出版社カメラマン時代に習得したものだ。
依頼主は、プロカメラマンの腕を評価する基準があるらしい。それらは、カメラ機材、カメラ師匠の名、写真展開催の有無、そして、写真集を出しているかである。これらのハードルを越えることができれば、一般社会ではプロカメラマンとして評価されるらしい。そこで、オレには写真の師匠もいないし、写真展開催の実績もない、更に、カメラもライカやニコンではなく、ペンタックスだ。そこで、印刷屋の友人に頼んで、写真集を製作した。もちろん、総モノクロ豪華写真集だ。表紙はハードカパーの銀箔型押しだ。その「亀田満写真集」を撮影の前に被写体のモデルに示すと、撮影がスムースにいくことを経験で学んでいたのだ。
親分は、オレの写真集を一枚一枚捲るたびに、表情に変化が現れていくのを感じた。オレは、その間、部屋を観察した。気がつかなかったが、床の間には、刀が飾ってあり、掛物には「神農皇帝」と立派な筆で書かれていた。その刀は、今まで見たこともない、柄が妙に長かった。
「撮影オネゲェします。ところで、撮影料金時価とサイトにあったのは、いっテェ幾らねんでぃ。」
オレが、このビジネスを始めた頃、プロカメラマンはただ依頼された撮影をこなせばよい、と考えていた。サラリーマンカメラマンには、撮影料金など無縁であったからだ。だから、フリーカメラマンになった時には、写真を渡す時、対価として料金をもらうというプロカメラマンビジネスの基本が分からなかった。親類縁者の撮影の時は、撮影料金を先に決めていなくてもよかった。しかし、見ず知らずの依頼者は、オレの撮影技術に対しての対価を厳しく査定して、その基準を満たしていない時は、オレの提示した料金を高いと言う。
二三撮影料金で揉めてから、オレは、撮影料金を依頼者に決めてもらうことにしたのだ。それが、撮影料金時価の意味だ。
「時価って、高級スシヤみてぃだナ。おもしれェ。撮ってもらおいじゃねえか。」
オレは、人物撮影のコツを、やはり、出版社カメラマン時代に学んだ。それは、グラビア頁で有名人の乳幼児の子供を掲載する企画だ。子供は、子供なりに自由に行動する。カメラマンの指示など無視だ。オレは撮影に疲れ果て、試しに有名女優の母親にカメラを渡してみた。すると、女優カメラマン(マン?)は、むずがる子供をあやした。そして、興味のある玩具を子供に渡すと、子供は玩具に夢中になって活発に行動し、また表情も豊かになった。そこを空かさずシャッターを切った。できあがった写真は、オレが撮ったのと異なり、子供の表情をよく捕らえていた。
ひとは、夢中になれる物を手にしている時と、興味のあることを語っている時、瞳が輝くのを理解した。それからは、オレは、撮影に入る前に、被写体のモデルが何に興味があるのか、何を語ると興味を示すのかを観察することにしているのだ。
ひとには、オーラを発する時期がある。その一瞬を捕えれば、生きた肖像写真を撮ることができるのだ。後は、テクニックとして、アイキャッチの光を取り入れる技術を学ぶことだ。オレは、その方法のひとつとして、銀レフを被写体の足元に置き、小光量で下向きにストロボを焚く。
話しのキッカケがないときに活躍するのが、ポラロイドSX−70だ。撮影テストとして、ポラロイドで撮って、そのポラロイドをモデルに見せながら、良い点だけを指摘する。するとモデルの瞳が輝いてくるのだ。
おっといけない、ライカと日本刀を手にしたモデルが微笑んでいる写真が現像オーバーになるところだった。間一髪、オレは、現実の世界に戻って印画紙現像作業を続けた。
ドラム式乾燥機、これも退社時の払い下げ、から出てくるプリントは満足いくものだった。10枚ほど選んで写真ファイルに入れ、郵送すれば今日の仕事は終わりだ。オレのシステムは、なるべく移動しないことが基本だ。時間も経費もかかるからだ。サンプル写真と注文書を依頼主に送り、FAXかメールで来る引き伸ばし注文を受け、注文された写真と時価と書いた請求書を送り、銀行振り込み先を指定すれば、期日には撮影代とプリント代が入金されるということだ。しかし、その入金額は神のみぞ知る。
一服しようと時計を見ると、1時を回っていた。昼メシはいつも、ビスケットと紅茶だ。
昨夜の田辺さんとのチャットで気になることを思い出した。日本全地図を取り出すと、大王わさび農園の位置を確認した。むかし取材で訪れた時、長野自動車道の豊科ICをおりると直ぐだったように記憶している。やはりそうだった。わさび農園内にある岩屋とするその巨大石室は、糸魚川街道寄りにある。その街道の日本海側には姫川があり、そこは縄文時代から翡翠の産地だ。古代中国の皇帝は、その姫川産の翡翠を加工して魔除けとしていたと歴史書で読んだことがある。
そして、糸魚川街道を南に下ると、ユーラシアからの渡来遊牧民族がトルファンと名付けた地が広がる。そのトルファンは、713年好字令により「諏訪」と改名された、と何かの書籍で読んだ記憶がある。
糸魚川街道は、フォッサマグナといわれる断層に沿ってできた、古来からある、日本海と太平洋を繋ぐ古道だ。その糸魚川街道は、日本列島本土を西国と東国を分ける道でもあるのだ。
「日本書記」では、平安時代以前の東国は蝦夷の棲む未開の地としているが、その地にある古代遺跡の多くは、高度な石切りや土木建設技術を駆使して造作されている。「日本書記」は、東国の「何」を隠そうとしていたのか。今夜は、古代史のほかに、ヤクザのことなども、田辺さんに色々教えてもらいたいことが多くある。10時が待ち遠しかった。
「こんばんわ、カメダマンです。」
「こんばんわ、田辺です。今、亀田さんに読んでもらいたいレポートを作成中です。出来上がったらメールで送ります。」
「わかりました。入力省エネのため亀田さんでなくて、カメと呼んでください。」
「分かりました、カメさん。では、田辺ではなく、ナベと呼んでください。ところで、田辺のナベは、古代エジプト語です。その意味は、ナーベの「小山」です。」
「そうなんですか。ちっとも知りませんでした。」
「日本語には、各国の渡来民族の言葉が基礎となって構成されているのです。」
「そうですか。一寸聞きたいことがあるのですが。それは、ヤクザのことです。」
「ヤクザですか、渋いですね。」
「ヤクザの語源はどこからきているのですか。ヤクザ本によると、博打での893目が語源で、博打では役に立たない数字から、役に立たない者の意味とか書いてあるのですが。それに、会話でやたらと逆語をつかうのです。旅のことを「ビタ」と言ったり。」
「ヤクザさんと会話したのですか。」
「ええ、昨日。撮影でそのヤクザさんの家で」
「場所はどこですか。」
「越谷郊外です。立派な屋敷で冠木門がありました。広い玄関には、提灯がズラリ飾ってあり、丸に十の字がありました。名刺をもらたのですが、その名刺には関東土木事業協会副理事と小料理店「小吉」代表とありました。どうみても、東映ヤクザ映画の雰囲気です。床の間には、柄の長い日本刀と、模造品と言っていましたが、「神農皇帝」と書かれた掛け軸がありました。」
「そうですか。ヤクザの歴史は、闇の日本列島史でもあるのです。逆語のことですが、「神武紀」に「大来目の諷歌・倒語(さかしまごと)を以って妖(わざわい)をはらう」とあるように、逆語は呪術の一種なのです。因みに、「神武紀」は、720年完成の「日本書記」にはなく、百済系桓武天皇が支配した平安時代に創作されたものです。更に、神武天皇稜は江戸末期から明治維新にかけて創造されたのです。逆語は、平安時代に、放免という警察請負業者が現れる以前から、使われていたのです。京の都を警備した検非違使の手下である放免は逆語をよく使っていたらしいのです。現在でも、刑事警察隠語には逆語が多くあるのは、警察と逆語には関係があるからです。」
「では、警察の祖はヤクザですか。何故、逆語は、ヤクザと関係があったのですか。」
「ヤクザと的屋(テキヤ)とは混同されているのですが、ヤクザは、鎌倉時代の「座」から発生したのです。的屋は江戸時代からです。的屋の前身は、香具師(ヤシ)です。香具師の前身は矢師ですが、その矢師の前身は野士(ヤシ)で、野武士なのです。その野武士は、生きるために、座でのバザールで、馬油や香具を商いしていたのです。がまの油売りがそうです。がまの油とは、馬油だったのです。野士は、バザールで売薬や歯抜きなどの小外科手術などもおこなっていたのです。」
「ヤクザの発生は鎌倉時代の「座」からですか、ずいぶん古いですね。座って、神社(ジンジャ)から発生したのですよね。」
「ジンジャの言葉は、明治革命後からです。それまでは、神社は、「モリ・ホコラ」などと呼ばれていたのです。」
「そうですか。そのモリからヤクザが発生したのですよね。何故ですか。」
「座は、同業者組合です。ヨーロッパのギルドと機構は同じです。同業仲間内の結束を図るための排他的結社です。何故、座がモリで発生したのかは、モリは禁足地で、異界だったからです。つまり、その地に入ると祟られると信じられていたので、王権からの治外法権の場であったのです。」
「何故、そのような異界のモリに座が出来たのですか。」
「そのモリに集まったのが、異界の民族であったからです。」
「すると、ヤクザは異界民族ですか。」
「そうです。王権から見ればですが。正統ヤクザは、王権に逆らうアウトローでなくてはならないのです。その座を武力で護るのがヤクザで、「座」を仕切る「顔役」から「役座」が発生したのです。」
「分かりました。では何故、掛け軸に「天照大神」ではなく、「神農皇帝」なのですか。東映ヤクザ映画では、「天照大神」ですが。「神農皇帝」とは何ですか。」
オレは、それまでは、田辺さんの歴史解説を素直に受け入れることができなかった。あまりにも、いままで知った歴史知識と異なっていたからだ。
「神農様は、日本古来の神様ではなく、中国大陸で発明された神様です。その神農様は、漢訳仏教と対立する道教に取り入れられ、渡来民族と供に日本列島にあらわれたのです。」
「いつごろですか。」
「はっきりは分かりませんが、漢訳仏教が伝来する前は確かです。漢訳仏教が北九州から明日香ヤマトに現れたのが、645年です。」
「それってヘンですね。歴史教科書では、「仏教伝来538さん」と教わりましたが。」
「実は、飛鳥時代の歴史は良く分からないのです。それは、奈良時代に藤原氏が「日本書記」で飛鳥時代の歴史を改竄し、更に、平安時代に亡命百済貴族がその「日本書記」を改竄していたからです。日本古代史は謎だらけなのです。例えば、飛鳥時代の次の時代の奈良時代も分からないのです。奈良時代に遣唐使船が、唐文化輸入のために、日本と唐国とを行き来していた、と学校で教わったと思いますが、その遣唐使船の歴史物語の多くは、奈良時代ではなく、平安時代に創作された物語なのです。その根拠のひとつとして、日本六国史の「日本書記」に続く、797年完成の「続日本紀」には、その遣唐使船の華々しい物語はごくわずかしか記述がないのです。「続日本紀」は、697年文武天皇から781年即位の桓武天皇までの、奈良時代の歴史を綴ったものです。しかし、中国の「旧唐書日本伝」には、遣唐使の記録が多く記述されているのです。それによると、遣唐使の日本人は、中国名で皇帝に謁見しているのです。これ、どういう意味が分かりますか。」
「分かりません。」
「それは、奈良時代の遣唐使は、独立国日本の使節ではないことを示唆しているのです。だから、奈良時代の大和朝廷には、遣唐使は触れられたくないことであったのです。」
「それって本当ですか。」
「「続日本紀」を読んで下さい。どこまで話しましたか、そう、漢訳仏教伝来が645年と言ったのですね。その645年から、奈良盆地に仏寺が移築されるのです。」
「奈良の仏寺が移築ですか。どこから?」
「北九州からです。明日香の都の仏寺は移築です。では、それ以前には「何」が建っていたかといえば、景教寺と道観です。」
「景教、道観?それ何ですか。」
「景教は、太陽神を祀り、雄牛を屠る儀式を持つ宗教です。その寺が景教寺です。景教は中国伝来以前では、ミトラ教と呼ばれていたのです。道観は、道教の神を祀る寺です。寺と言うと、仏教寺の連想をしてしまいますが、寺(ジ)とは、関税施設であったのです。中国に渡来する異国の商人を取り調べる施設を「寺」と言っていたのです。それが、漢訳仏教が中国皇帝に取り入ると、漢訳仏教僧が異国から大挙して中国を訪れていたので、やがて、その「寺」が、漢訳仏教僧の溜まり場となり、「寺=仏寺」となってしまったのです。」
「そうですか。では、景教寺と道観はどうなったのですか。」
「645年漢訳仏教が明日香ヤマトを支配してから、それらの景教寺と道観は、徹底的に破壊され、その跡に、仏寺が北九州から移築されたのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「史料としての証拠はありません。645年に前政権の歴史書は焚書されたからです。証拠は、遺跡です。明日香ヤマトから斑鳩までの「太子道」と、法隆寺境内から発掘された若草伽藍遺跡です。それらは、仏教建築軸と異なる基準で建設されていたのです。法隆寺の謎はそのうち話ます。「神農様」の話に戻します。道教の神様のひとつである神農様は、薬草の神様であったのです。」
「そういえば、出版社カメラマン時代、大阪道修町を取材した時「神農祭り」を行っていました。その薬草の神様が、何故、アウトローの役座の神様なのですか。」
オレは、田辺さんの歴史解説から、日本列島史の闇が解き明かされるのではないか、と直感した。と同時に、自分が立っている地盤が揺れ動くような不安も感じた。日本人とは「何」か、オレは「何者」なのか。
「今でも医薬品会社が多くある大阪道修町では神農様が祀られているのに、日本史をよく読んでも、神農様も景教も道教も出てきませんが、何故ですか。」
「神農様は、騎馬民族と関係があるからです。徳川家康が騎馬民族の流れにある根拠として、徳川家康は薬草を煎じる創薬の名人であったのです。部下が病気になると、徳川家康は、部下のために薬草を煎じていたのです。しかし、教科書の日本史では、日本列島には騎馬民族が渡来していないことになっているようです。それは、神農様の歴史を辿ると道教に行き着くからです。その道教の渡来が、ユーラシアの騎馬民族が日本海沿岸に渡来した歴史を示すからです。日本列島に前方後円墳が築かれていた五世紀、中国の北魏では、騎馬民族が祀る道教と、農耕民族が祀る漢訳仏教とで熾烈な戦いを行っていたのです。宗教の魅力のひとつが、病気の治療です。道教の治癒技術は、仙術と薬草です。それに対して、漢訳仏教は読経と仏像崇拝です。中世ヨーロッパでは、ローマ・キリスト教が治療を独占するため、小動物や薬草で「くすり」を作り治療する民間治療者を魔女として焼き殺していたのです。それほど、病気治療は民衆が求めていた技術なのです。宗教者は、病気治療を独占するため、敵対する優れた治療者を抹殺したのは、東西同じです。」
「その道教と漢訳仏教の戦いが、日本列島に持ち込まれたのですか。」
「教科書の日本史にはそのような記述はありません。しかし、歴史教科書に記述がないからと言って、その歴史がないとはいえません。簒奪王権は、王権に不利な歴史は抹殺か隠蔽し、それが出来ない時、改竄して自史に取り込むのです。先ほど、奈良時代の歴史が分からない、と言ったと思います。奈良時代のハイライトは、なんと言っても東大寺大仏鋳造です。しかし、その時代を綴ったとされる国史の「続日本紀」には、華々しい大仏開眼の記述もなければ、聖武太上天皇や光明皇太后の列席の記述はないのです。カメさんが知っている大仏開眼の華々しい天平時代とは、平安時代後期に創作された「東大寺要録」を参考にした、井上靖「天平の甍」の小説による影響です。その小説物語の刷り込みにより、インド僧の菩提センナが筆を持って大仏の目に筆を入れ、その筆からひいた綱を聖武太上天皇がもち、さらに分けて多くの人々が綱を持ったと言うことは、歴史虚構の小説なのです。史実は、聖武太上天皇は水銀中毒で病に臥し、奈良の大仏の頭部には螺髪(らほつ・巻き毛)などはなかったのです。奈良東大寺の巨大像が仏像だとする根拠も、奈良時代の資料には何一つないのです。今日に伝わる奈良の大仏物語は、全て平安時代に創作されたのです。」
「それって、本当ですか。」
「「続日本紀」を読んで下さい。それに、中国僧鑑真の渡来も奈良時代のハイライトですが、その渡来についても「続日本紀」にはないのです。鑑真は、いきなり天平勝宝6年(754年)に歴史上現れるのです。鑑真の渡来については、大和朝廷には不都合があったようです。それは、鑑真が聖武太上天皇に戒を授けたとされる「唐招提寺」とは、「招提」とは、僧院を意味する語で、「唐招提寺」とは、「唐の寺」という意味なのです。太上天皇が、「日本の寺」ではなく、「唐の寺」で受戒する意味がわかりますか。」
「「唐の寺」で聖武太上天皇が戒を授かったのですか。でも、日本史には、唐の文化を導入するために高僧を唐から招いたと述べていますが。史実はその逆なのですか。」
「日本の律令制度は、701年大宝律令からです。この、罰と法律による人民統制のシステムも、唐のものです。奈良時代といわれる、藤原京から長岡京までは、唐進駐軍と前政権の明日香ヤマト政権の闘争時代だったのです。奈良時代では、明日香ヤマトの残党が、奈良盆地北の山背国を支配していたのです。何故、都が奈良盆地から北進していたのが何故か分かりますか。」
「歴代天皇の道楽というのは冗談です。オレもその度重なる遷都が気になっていたのです。何故ですか。」
オレは、田辺さんの歴史解説に引き込まれて行くのを感じていた。
「古代日本列島史は、中国大陸とユーラシア大陸との戦いのミニチュア版です。つまり、南の農耕民族と北の騎馬民族の戦いが、日本列島にも持ち込まれていたのです。この大陸での戦いが、日本列島にもたらされたのが、四世紀以降です。その根拠は、騎馬民族系方墳が現れるのが四世紀以降で、その方墳に、装飾品ではなく、実戦用馬具や鉄剣が埋葬されるのが、五世紀半ばからです。さいたま県行田市の稲荷山古墳の鉄剣は、五世紀末です。」
「騎馬民族は、朝鮮半島から渡来したのではないですか。江上氏の「騎馬民族征服王朝説」では、朝鮮半島を南下して、北九州に渡来したことになっていますよね。」
「朝鮮半島から騎馬民族が渡来したことは否定できません。古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化国であったので、当然、騎馬軍団も存在していたのです。その根拠は、慶州天馬塚古墳から出土した遺品が証明します。しかし、騎馬民族渡来の痕跡は、北九州よりも、越前・越後・秋田など日本海側に多くあるのです。そして、古代高速道路は、畿内から出羽国の酒田津まで続いていたのです。酒田津は、どう見ても朝鮮半島からの海路のための津ではないようです。教科書の日本史は、朝鮮半島が文化の渡来ルートと教えているようですが、ユーラシアには騎馬民族が暮らしていて、紀元一世紀からローマ帝国と馬絹交易をおこなっていたのです。当然、ローマ帝国と中国後漢との馬絹交易が始まった紀元一世紀以降、中国の絹生産植民地の日本列島に、国際交易民族でもあるユーラシアの騎馬民族も渡来していたことが考えられます。」
「日本列島が、中国の絹生産植民地ですか。」
「三世紀の女王卑弥呼は、魏に絹製品を貢いでいたのです。魏は邪馬台国に軍事顧問も送り込んでいたのです。中国と日本列島は絹でつながっていたのです。騎馬民族はその絹を求めて渡来したのです。騎馬民族は、国際交易民族でもあるので、渡海のための技術を持った民族とも友好関係にあったのです。そのひとつに、突厥語で豊かな水という意味の、バイカル湖沿岸に住む、騎馬民族突厥は、河筋に住む民族とも友好関係にあったのです。遠方より津に運ばれた荷物を人馬により船を引き河を遡上し、内陸の都市まで運んでいたのです。そのような騎馬民族には、内海の日本海を渡るのはさほどの技術がなくてもできたのです。」
「そうですか。朝鮮半島からではなく、ユーラシアから騎馬民族が日本列島に押し寄せたというのですね。」
「そうです。そして、明日香ヤマトをユーラシアから渡来の騎馬民族突厥が支配したのが、六世紀半ば、と言うのが私の推論です。」
ヤクザの歴史を知りたいオレは、田辺さんの話が長くなりそうなので、一服した隙に、話題を変えた。
「ところで、ヤクザさんの家にあった長い柄の日本刀は、なにか意味があるのですか。」
「もし、間違いがなければ、その刀は「上州長脇差」です。上州は戦国時代から長い柄の刀を好んでいたようです。長い柄の刀は戦闘用です。日本刀の発生は、平安時代で、戦闘用武器としてではなく、祭祀具として発明されたものです。」
「武器ではない。歴史物の映画では、日本刀での戦闘シーンがよくありますが。」
「その日本刀による武士の戦闘場面のイメージ作りは、1673年江戸で歌舞伎の荒事(戦闘物語)を演じたことによるのです。1651年由比正雪の乱で、エドの武士は壊滅されたのです。その時代までは、道場では、剣道ではなく、槍術や弓術を教えていたのです。鉄砲が伝来する前の戦国時代の武士の戦闘用武器は、日本刀ではなく、弓と槍だったのです。道場で剣道を教えたのは、幕末からです。何故、幕末の道場では、「刀術」ではなく、「剣術」を教えたのでしょう。「刀」と「剣」は異なる武器です。カメさん、武士とサムライの違いは分かりますか。」
「武士もサムライも同じでは。」
「同じく日本刀で武装していても武士とサムライの発生は異なるのです。武士の発生は、939年から941年にかけての天慶の乱を、祭祀者の武芸者が鎮圧したことにより、平安朝廷より祭祀者である武芸者が、「武士」と認められたのです。武芸者は、禁足地の神社(モリ)で、「日本刀」の剣舞により怨霊鎮めを行っていたのです。」
「何故、平安時代に怨霊鎮めなのですか。」
「それは、平安朝を拓いたとされる百済系桓武天皇が、騎馬民族系天武王権の流れにある井上内親王と他戸親王を謀略により抹殺し、更に、実弟早良親王も抹殺していたのです。古代では、不穏な死に方をした者は、祟りを行うと信じられていたのです。この平安時代初期の歴史も謎だらけなのです。それは、「続日本紀」には平安遷都の記述はないのですが、それに続く、840年完成の「日本後紀」には、第一巻から第四巻が現存していないのです。その欠損の巻には、平安京遷都の記述があったはずです。しかし、藤原緒嗣らの選者の「序」があるのに、巻五巻からいきなり記述されているのです。誰かが、その四巻を抹殺したのでしょう。「日本書記」の系図一巻の紛失や「日本後紀」の策謀をみると、日本列島史には、藤原氏や亡命百済貴族が隠さなければならない歴史があったようです。」
「武士の歴史はわかりました。サムライの発生は。」
「サムライの発生は、平城天皇と嵯峨天皇との確執において、亡命百済貴族の子息を貴人の警護のために武装させたのが始まりです。貴人の側に「侍/サブライ」て、秘書兼警護がサムライの任務だったのです。」
「武士とサムライとは、祭祀者と秘書兼警護者の違いですね。」
「そうです。武士は祭祀者なのです。ここから、武士は、日本刀を使い、祭祀者として罪人の首を落とす刑死業者となっていくわけです。」
「では、日本刀は、平安時代の誰が発明したのですか。」
「日本刀は別名「カタナ」と言います。「カタナ」とは、「カタの刃」で、「カタ」とは完成していない、もしくは、「未熟な刀」、の意味です。文字では、「カタカナ」があります。それも、「未熟なカナ」の意味で、蔑視された言葉です。」
「何故、日本刀が蔑視されたのですか。」
「それは、日本刀は、蝦夷の武器である反りのある蕨手刀を改良したものだからです。騎馬民族の武器は、上から振り下ろすために、刃に反りをつけて衝撃を防いでいたのです。日本刀の特徴は、直刃の剣と異なり、騎馬民族の知恵である反りがあることです。」
「蝦夷の武器から日本刀が発明されたのですか。では、その蝦夷とは何者ですか。学校では、アイヌ民族のように教えていたように記憶しているのですが。」
「蝦夷は、アイヌ民族ではありません。その根拠は、アイヌ民族には、騎乗弓射の技術はありません。「後日本紀」にも、平安王朝軍団と戦う蝦夷は、騎馬により戦闘を行い、振り向きざまに矢を射る、との記述があります。」
「では、その騎乗弓射する蝦夷は、どこから陸奥国に渡来したのですか。」
「明日香ヤマトからです。蝦夷の祖は、ユーラシアから渡来の騎馬民族突厥と、朝鮮半島から渡来の秦氏の軍団である花郎騎士団であったのです。六世紀の中ごろ、教科書歴史では継体天皇の時代、明日香ヤマトに、それらの軍団が侵攻して奈良盆地を支配したのです。」
「「日本書記」では、継体天皇が越前から大和に入京したことになっているのですが。それって、何か証拠でもあるのですか。」
「書籍としての史料は、645年藤原氏の祖中臣族により焚書されてしまい、現存していません。しかし、遺跡までは焚書?できなかったのです。その六世紀中ごろから、奈良盆地では、前方後円墳が築かれなくなり、その代わり、騎馬民族の墓性である方墳が多く築かれて行くのです。そして、秦氏の支配地の河内には、巨大前方後円墳が築かれていくのです。もし、四世紀に大和朝廷が存在していた根拠として、巨大前方後円墳の築造であるのならば、何故、継体天皇が大和入りした時期から、奈良盆地では前方後円墳に代わり、騎馬民族の墓である方墳が築かれていたのでしょう。」
「そう言われると、「日本書記」の記述も不思議ですね。」
「「日本書記」では、約200年前の明日香ヤマトの歴史を記述しているのです。そこには、作為が存在します。しかし、だからと言って、「日本書記」は、デタラメを書いているわけではないのです。「日本書記」の作者は、明日香ヤマトの歴史を全て知っての上で、飛鳥大和物語を創作しているのです。」
「すると、ナベさんの推論では、ヤクザの祖が武士で、武士の祖が蝦夷で、蝦夷は騎馬民族突厥と秦氏の花郎騎士団が祖と言うわけですね。」
「そうです。ヤクザの渡世のひとつに、博打がありますね。博打はサイコロを使う遊戯です。そのサイコロ博打の祖は、双六です。双六の駒は、馬を模したのです。その双六が、サイコロ賭博の祖です。つまり、博打は騎馬民族の遊戯であったのです。」
「博打が騎馬民族の遊戯?」
オレは、田辺さんの歴史解説についていけなくなっていた。
「オレには、トンデモ歴史に思えるのですが、もう少し、ヤクザと博打の歴史を詳しく説明してくれませんか。」
「ヤクザと博打の歴史は、史料として残っているものは、王権側の貴族の日記類や寺社の証文類で、ヤクザ側のものはほとんどないのです。ですから、これから述べることは推測にすぎません。」
「推測でも、知りたいです。」
「博打は、古代では博奕と書かれていたのです。「博」は勝負を争う遊戯の意味です。「奕」は「やく・えき」とも読み、古代中国では勝負遊戯の碁を囲むの意味です。博奕とは碁や将棋、双六での勝負事なのです。そして、博奕は、正式には賽博奕と言い、賽とは、賭銭の交易など含む売買や貿易を意味する語であるのです。日本の山伏は、「役エンの行者」などとも呼ばれていたのは、山野を越えて交易の民でもあったからです。その山伏も、講などを立てて、博打をおこなっていたのです。」
「山伏は、仏教系ではないのですか。山伏が博打をした。信じられません。」
「それは、山伏のルーツを知れば理解できます。山伏は、火を祭る民族です。山伏は、645年以前は、火を祀る民であったのです。カメさんも知っていると思いますが、古代ペルシャで、三神を祀るミトラ教から、二神を祀るゾロアスター教が発明されるのです。」
「三神を祀るミトラ教って何ですか。」
「ミトラ教の歴史は、史料により知ることは出来ません。紀元四世紀にローマ・キリスト教にその歴史が抹殺されてしまったからです。しかし、ミトラ教の儀式は、ローマ・キリスト教や漢訳仏教に取り込まれて現在に至っているのです。鉄器を始めて製作した古代ヒッタイト帝国で発明されたミトラ教は、太陽神を祀る宗教で、日の出の神、天中の神、日没の神の三神を祀っていたのです。その三神を祀るミトラ教から、日の出の神と日没の神の二神を祀るのが、古代ペルシャで発明されたゾロアスター教です。そのミトラ教の二神は、光の神と暗黒の神となって、ゾロアスター教では祀られて行くのです。ゾロアスター教の世界は、その光と闇の戦いが永遠に続くのです。このゾロアスター教の光と闇の思想が、ローマ・キリスト教では、天国と地獄、そして、漢訳仏教では極楽と地獄となるわけです。」
「それって本当ですか。信じられません。」
「ゾロアスター教では、光を火として聖なるものとして崇拝していたのです。ですから、中国に渡来したゾロアスター教は、太陽神を祀るミトラ教が景教と呼ばれたように、拝火教と呼ばれていたのです。ところで、ヤクザが仕切る縁日を何と言いましたか。」
「確か、高市タカマチだと思います。」
「その高市が何故、タカマチなのか、それは、マチとは、古代朝鮮語の「赫・マチ」が語源と言われています。「赫・マチ」とは、火・雷を意味する語です。火を祀るゾロアスター教では、太陽を祀るミトラ教が暗黒の冬至を祭日としたのに対して、黎明の夏至を祭日としたのです。その日の光が長くなる陰暦5月の最頂点を日辻と言い、「高い火=赫・マチ」、つまり、「高市・タカマチ」となったのです。その陰暦5月の「高市」では、「常陸風土記」には、「夏暑の時、おちこちの郷里、酒肴をもたらし男女つどへて遊び楽しめり」とあります。ゾロアスター教では、夏至が祭りの日であったのです。」
「ナベさんは、山伏の祖が、そのゾロアスター教徒というのですか。」
「そうです。山伏の祖は、拝火教のゾロアスターの流れにあるのです。」
「それって変ですね。学校で、蘇我氏と物部氏の神仏戦争で、蘇我氏の崇仏派が勝利して、飛鳥大和に仏教文化の種を撒いた、と教わりました。そして、仏教を導入したが、疫病が流行り、仏像は難波の堀江に投棄され、その仏像が長野善光寺に祀られている、と教わりました。そして、再び、神道が復活した、とも教わりましたが。拝火教が神道なのですか。」
「カメさんは、神道の発生がいつごろだと思っていますか。」
「神代の昔、日本列島が発生した時。」
「そう思っているひとは沢山います。明治史学者による日本史の刷り込みの成功です。神道は、漢訳仏教が現れた後に、奈良時代に藤原氏により発明された宗教です。」
「神道が、仏教の後ですか。信じられません。」
またしても、オレの頭は混乱した。田辺さんの歴史解説は、学校で学んだ歴史を超えていた。
「カメさんは、「日本書記」の世界観で、日本列島史を観ているのです。その世界観は、藤原氏と亡命百済貴族の世界です。古代日本列島には、飛鳥大和以外にも、多数の異民族が暮らしていた国があったのです。何故、ゾロアスター教徒が、仏教系山伏になったのかを述べましょう。山伏は、明日香ヤマトが壊滅された、645年以前は、ゾロアスター教、ミトラ教、道教などの祭祀者だったのです。それらの異民族の祭祀者が暮らせたのは、明日香ヤマトは、オリエント文化の国際交易都市であったからです。その明日香ヤマトを軍事支配していた突厥進駐軍の母国突厥帝国が、630年唐軍団により散逸されてしまったため、明日香ヤマトの防衛力が劣勢となり、645年唐進駐軍に明日香ヤマトが壊滅されてしまったのです。このことを藤原日本史では、中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を暗殺した「大化の改新」としているのです。しかし、その大化の改新物語は、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーです。明日香ヤマトの祭祀場を追われた、それらの祭祀者は、山奥に逃げ込むわけです。しかし、散逸された突厥帝国残党は再び息を吹き返すのです。それが七世紀末です。それにより、山奥に逃避した明日香ヤマトを追われた残党軍が、近江の亡命百済王朝を攻撃し、壊滅したのが、672年壬申の乱というわけです。しかし、藤原日本史では、その乱は、天智天皇側と天武天皇側の兄弟の争いとして描いています。そのような不安定な国際情勢時に、672年即位したのが、日本初の天皇である天武天皇です。この頃、中国王朝から、「倭国」から「日本国」と呼ばれていくのです。」
「一寸待ってください。「日本国」の成立が672年ですか。信じられません。」
「「日本国」といっても、その頃では、近畿一帯のことで、それ以外の日本列島では、隣国から渡来の異民族が暮らす国が多くあったのです。日本語の単語の中には、ポリネシア語、アイヌ語、古代エジプト語、古代朝鮮の高句麗・百済・古代新羅語、そして、突厥語などがあるのです。それは、古代日本列島では、多くの異民族が暮らしていたからです。」
「「日本民族」は、単一民族ではないのですか。」
「そう言っているのは、明治の政府を支配した結社です。話を山伏に戻します。日本国として発足した天武王朝は、東アジアでの唐と突厥との闘争に影響された、不安定な王朝だったのです。その天武天皇が、686年崩御すると、百済系の女帝持統天皇が即位するのです。この持統天皇をロボット化したのが、藤原不比等であるのです。この藤原不比等により、オリエント文化の明日香ヤマトが、仏教文化の飛鳥大和に改竄されてしまうのです。そのために、藤原不比等は、713年日本列島の各支配地に、その土地の歴史物語を報告させるのです。その地方史を改竄して「風土記」を創作し、その土地・人名を漢字二文字で記述することにより、オリエント・ユーラシア文化色を抹殺していくのです。例えば、トルファンは、諏訪としたり、ローランを浪速・難波として、「風土記」に記述していたのです。だから、「風土記」を調べても、オリエント・ユーラシア文化を知ることはできないのです。そのように、地方史を抹殺した後に、720年「日本書記」を著すのです。」
「だから、地方をドライブすると漢字二字の地名が読めない道路標識があるのですね。ところで、「日本書記」は、漢語で書かれていたのですよね。学校では、飛鳥大和では、万葉語で詩を詠んでいた、と教わりました。万葉語と漢語とは違いますよね。当時の日本人には、漢字が読めたのですか。何故、「日本書記」は漢字なのですか。」
「それは、漢字の読めるひと向けに書かれたからでしょう。」
「漢字を読めるひとって?」
「それは、唐帝国のひとです。」
「唐帝国って?」
「天武天皇が686年崩御すると、即位した女帝持統天皇は、694年藤原京に遷都するのです。そして、697年文武天皇が即位すると、701年日本初の法律である大宝律令が発せられるのです。その藤原京は唐の都のコピーです。そして、日本初の法律の大宝律令も唐の律令のコピーです。この意味が分かりますか。」
「分かりません。」
「それは、唐帝国の支配下に入ったことを示唆します。つまり、明日香ヤマトを支配していた突厥帝国進駐軍に替わり、唐進駐軍が奈良盆地の南部を、天皇家を傀儡として占領した、ということです。万葉語の話に戻しましょう。カメさんは、万葉集の成立がいつだと思いますか。」
「学校では、759年と教わりました。」
「年代が分かっているもので新しいものが、大友家持の歌で、それは天平宝字3年(759年)ですから、学校ではそう教えていたのでしょう。しかし、万葉集の成立には、色々な謎があるのです。そのひとつに、平安時代に発明された「ひらがな」には、長らく濁音をあらわす文字がなかったのです。しかし、それよりも300年以上前の万葉仮名には、弖(て)に対する泥(で)などのように、濁音をあらわす万葉仮名が存在していたのです。更に、母音の一部に二種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていたのです。例えば、「任那」は、「みまな」と読みますが、万葉仮名の使用者は、「にむな」と読んでいたのです。万葉語とは、「色々な民族のことば」の意味なのです。」
「ナベさんは、明日香時代と平安時代とに民族の断絶があったとでも言うのですか。」
「そうとでも考えなければ、この万葉仮名の謎は解けません。「万葉集」が現在のように読めるようになったのは、鎌倉時代に仙覚という人物が、当時伝わっていたいろいろな「万葉集」を集めて解読したことによるのです。」
「すると、「万葉集」の原著は存在しないのですか。」
「そうです。「日本書記」も含めて、全ての古文書の原著は存在していないのです。しかし、その「万葉集」に面白い歌があるのです。春日に神を祭る日に、藤原太后の作らす歌一首 大船に ま梶しじ貫き この我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち、とあるのですが、その遣唐使の無事を祈る歌が作られた頃、藤原氏の神を祀る春日大社は存在していなかったのです。」
「それって本当ですか。春日大社は、神道の拠点ですよね。その歌が読まれたのはいつ頃ですか。」
「藤原清河が遣唐使に任じられたのが、天平勝宝2年(750年)の9月です。その頃、春日大社が存在していない根拠は、天平勝宝8年(756年)の正倉院の「東大寺山堺四至図」には、その春日大社が建立している地は、空き地で「神地」と書かれているからです。」
「すると、神道の神を祀る、藤原氏の春日大社は、どう考えても、756年以降に建立されたと言うわけですね。」
「そうです。その春日山の「神地」の空き地は、何を意味していると思いますか。」
「分かりません。」
「それは、祭祀場であったのです。春日山は、平城京の東にあります。その平城京が遷都される前には、その地に巨大古墳があったのです。その春日山の祭祀場で、山伏の祖が、夏至には火を祀るゾロアスター教が、そして、冬至には太陽を祀るミトラ教が祭事を行っていたのです。」
「そのことを証明する史料はあるのですか。」
「ありません。あくまでも推測です。しかし、その710年平城京遷都から87年後に書かれた、797年「続日本紀」には、そのヒントが記述されているのです。藤原京から平城京への遷都は、奈良王朝には乗り気ではなかったようで、「平城遷都の詔」には、「遷都のことは必ずしも急がなくてもよい」と記されているのです。そして、その平城京遷都は、朝廷の官人らが、「衆議忍びがたく詞情深く切りなり」とあるように、全員賛成したわけではないようです。では、神を先祖にもつ元明天皇に、藤原京から平城京への遷都を誰が命令したのでしょうか。その平城京造営の記事に、平城京が遷都される前、その地がどのような地であるかを示唆した文があるのです。それが、「平城京の地ならしで墳墓が掘りだされたら埋め戻もどし、酒を地に注いで霊魂を慰めよ」、の記述です。その記述は、平城京の地は、以前、巨大古墳があったことを示唆します。」
「古墳を破壊して平城京が造られたのですね。」
「そうです。更に、「続日本紀」には、その平城京が、貴族や庶民のための都ではなく、軍事都市であったことを示唆する文があるのです。それが、和銅四年(711年)「諸国の軍団から選抜された都を警護する衛士は、体が弱く、武芸にはげまず、役に立たない。もっと武勇の者をおくるように」との詔です。そして、「諸国の賦役の民のなかには造営に疲れて逃亡する者が多い。禁じても止まないという。まだ宮の大垣も完成せず、防守もままならない。仮の軍営をつくって武器庫を警護せよ」、との詔があるのです。「大垣」とは、土を盛った巨大な城です。城とは、戦国時代の石垣の上に仏閣を乗せたものではなく、土を盛った囲いのことです。平城京は、巨大な土壁に護られていたのです。カメさんこれってどう思う。」
「「青丹よし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとし今盛りなり」、と歌われたように、平城京は、白鳳時代に続く、仏教文化の平安な時代ではなかったのですか。」
「白鳳時代は、日本の年代ではありません。」
「教科書にもありますが。」
「白鳳時代は、五世紀からの朝鮮半島で仏教文化が花咲いた時代です。その根拠に、「日本書記」には、白鳳などの年号はありません。藤原日本史は、朝鮮半島史も取り入れて創作されているのです。その「続日本紀」の記述から、藤原京から平城京への遷都は、唐進駐軍の傀儡である奈良王朝が、明日香ヤマト残党軍との戦闘中におこなわれたことが示唆されます。」
「それって、ナベさんの推測でしょ。」
「そう言われれば、何も語れません。反奈良王朝の史料は、全て焚書されているわけですから。だから、勝者側の史料を読み解くか、破壊から免れた遺跡から、敗者側の歴史を推測することしかできないのです。例えば、長野の大王わさび農園の魏石鬼窟の伝承には、二つありましたよね。王権側の物語では、民に迷惑をかける「鬼」と呼ばれる八面大王を、平安王朝から派遣された坂上田村麻呂が征伐したとなっているのです。しかし、地元の伝承では、平安王朝が派遣した坂上田村麻呂が、蝦夷の支配地である陸奥国を侵略する途上、信濃の民に食料などの貢を強いたため、その惨状を見かねた八面大王が立ち上がり、平安王朝軍の坂上田村麻呂に戦い挑んで、敗れた、との物語です。歴史物語には、二面性があるのです。それは、勝者側と敗者側とです。カメさんが知っている歴史は、勝者側の歴史です。」
「歴史に二面性ですか。学校で教えるのは勝者の歴史ですか。でも、ナベさんの言う歴史もなんとなく分かるような気がします。奈良時代の奈良盆地が、南端の唐進駐軍の軍事都市藤原京とすると、奈良盆地の北端の山背国に、明日香ヤマト残党軍の花郎騎士団と突厥帝国残党軍が布陣していたとすると、都が北進するということは、唐進駐軍の北進ということですね。」
「そうです。だから、藤原京も平城京も高い壁で、騎馬民族突厥と花郎騎士団の攻撃を防いでいたのです。京都には、平安京を明日香ヤマトの残党軍から護るために築かれた土壁の一部が現存しています。」
「藤原京→平城京→長岡京→平安京と遷都されたのは、唐進駐軍と供に、軍事都市が北上したということですね。」
「そうです。それに伴い、反唐・反藤原氏の聖武天皇は、恭仁宮→紫香楽宮→難波宮へと逃避行を重ねていたのです。それらの、奈良盆地での闘争も、744年東ユーラシアを支配していた東突厥が、唐帝国軍により滅亡すると、明日香ヤマト残党軍は、東突厥の軍事援助が受けられなくなり、防戦一方となり、ついに、山背国の防衛基地が陥落し、794年平安京の遷都となり、唐進駐軍の支配下となってしまったのです。」
「それって、証拠でもあるのですか。」
「史料としてはありません。六国史のひとつ、840年「日本後紀」の一巻から四巻までが欠落しているので、長岡京から平安京遷都への公式歴史は知ることが出来ないのです。しかし、伝承では、781年桓武天皇の即位式は、奈良時代の公式発音の呉音ではなく、唐帝国の公式発音の漢音で詔がおこなわれて、唐の儀式により執り行われた、と云われています。その即位儀式では、藤原氏が発明した天照大神を祖神としないで、桓武天皇の父親光仁太上天皇を祖神としたのです。その光仁太上天皇の出自は、亡命百済貴族であったのです。」
「日本初の天皇である天武天皇は、新羅系ですよね。すると、奈良時代末期に、天皇家の血が、新羅系から百済系に替わったというのですか。」
「そうです。現在の天皇家の位牌を護る仏寺には、天武天皇から称徳天皇までの位牌が祀られていないことで証明できます。平安時代中期までは、唐帝国が907年滅亡するまで、唐進駐軍が、亡命百済貴族を傀儡天皇として支配した時代であったのです。この平安時代中期までに、放免、山伏(山の武士)、遊行する芸能民、武士などが発生するのです。それらは、唐進駐軍に敗れた、明日香ヤマト側の敗者末裔であったのです。」
「すると、役座の祖も、その流れにあるわけですね。」
「そうです。毎日の生活に密着する生活様式や社会様式は、その民族が誇りを持っている限り、抹殺や改竄はできないのです。役座が逆語を使うのも、そのルーツが、平安時代に発生した放免や武士であったからです。逆語は、霊を鎮める呪術の一種で、検非違使の手下である放免から発生した武士は、元は、怨霊を刀舞で鎮める武芸者であったからです。武士の祖も、芸能民であったのです。」
「逆語を使うのは、芸能界でもそうですよね。」
「そうです。芸能のルーツも、平安時代に発生した遊行する芸能民であるからです。役座には、仁義という「シキタリ」がありますが、競馬の旗手の世界にも、役座の「シキタリ」が流れているのです。それは、その役座と旗手のルーツが騎馬民族に関係するからです。先ほど高市のルーツを述べましたが、古代での高市では、馬の取引もおこなわれていたのです。」
「馬は、日本列島在来の種ではないですね。いつ、どこから渡来したのですか。」
「馬が日本列島に渡来した年度を証明する史料はありません。しかし、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭国には、馬、牛がいない、とあります。しかし、三世紀半ばから発生する前方後円墳の埋葬品には、馬の埴輪があります。五世紀からの古墳の埋葬品に、実用品の馬具があることから、馬の渡来は四世紀末からと考えられます。六世紀半ば以降には、明日香ヤマトには、道幅12mを超える直線道路が築かれていることから、かなりの馬が日本列島を闊歩していたことが推測されます。その古代高速道路の拠点には、「ミヤケ」という軍事中継基地が設けられていたのです。八世紀以降、唐進駐軍が支配した奈良時代には、軍馬が迅速に移動できるように、全国に駅舎を設けていたのです。中国の王朝は、秦から唐までの支配者は、漢族化した騎馬民族であったのです。ですから、その軍団も騎馬民族により組織されていたのです。」
「でも、平安時代の貴族は、馬車ではなく、牛車で移動していたのですよね。」
「平安時代の半ばまでは、平安京は唐文化一色だったのです。唐は、漢訳仏教を思想武器として、北方の騎馬民族突厥帝国を蔑視していたのです。そこで、秦氏の最後の支配地「山背国」を乗っ取り「山城国」とすると、唐進駐軍は、傀儡天皇の桓武天皇をして、奈良時代の天皇家を陰謀・謀略で支配していた藤原氏色の付いた軍団を廃止して、792年健児(こんでん)を設置したのです。そして、東国から陸奥国に退避した騎馬民族の軍団が、馬を疾走させることができないように、道幅12mを超える直線道路を、道幅6mに狭めてしまうのです。その幅広の古代高速道路は、東京オリンピックまで土の下に埋葬されていたのです。九世紀、その唐傀儡の平安王朝軍団が陸奥国を侵略する時代が、信濃の大王わさび農園に掲げてある八面大王の伝承物語の時代背景です。唐進駐軍は、陸奥国の金、琥珀、鉄や馬などの資源を略奪するために、そして、百済系桓武天皇軍は、母国百済を滅ぼした新羅花郎騎士団を壊滅するために、中国製武器で武装した、それらの歩兵軍団が、陸奥国へ進軍していたのです。しかし、騎射による奇襲攻撃により、平安王朝軍団は苦戦し、武力では侵略できなかったため、金髪の坂上田村麻呂が蝦夷棟梁のアテルイを騙して、京都で惨殺したことにより、陸奥国の軍事力は削がれて、津刈(ツカル)を残して、陸奥国は平安王朝の支配下となってしまったのです。」
「そういえば、出版社カメラマン時代、東北を取材した時、田村麻呂は侵略者と言っていた老人がいました。そして、関西弁を聞くと虫唾が走る、とも言っていました。正に、歴史の二面性ですね。」
「関西弁と、東北の人は言いますが、関西弁とは、大阪弁と京都弁があります。さらに、大阪弁と言っても、河内弁があります。何故、狭い日本列島で、そのように発音が異なるのかと言えば、それは、その地域を支配した民族の発音が、その地域文化を支配したからです。そして、その地域の発音は、代々途切れることなく、現在に継承されているのです。」
「すると、平安王朝の京都は、唐進駐軍と唐の山東半島から移民した亡命百済民の都だから、京都弁のルーツは、唐音ということですね。」
「そうです。朝鮮半島や中国語には、濁音が少ないのです。だから、唐帝国が滅亡したため、平安王朝では唐の公用語の漢語文が使われなくなると、「ひらかな」が発明されるわけですが、その「ひらかな」には、濁音字がなかったのです。「ひらかな」に濁音字が加わるのは、ずっとあとのことです。しかし、「カタカナ」には、濁音字があったのです。そして、明日香ヤマトで使われていた万葉仮名にも、濁音字があったのです。「かな」歴史も不思議ですが、「国史」の歴史も不思議です。901年「日本三代実録」が漢語文により著されたのですが、それ以降、漢語文による「国史」は著されていないのです。」
「その意味は何ですか。」
「考えられることは、六国史と言われる「国史」は、唐帝国を意識していたからです。もし、純粋に、六国史が、日本国のために国史が漢語文で著されていたら、907年唐帝国が滅亡したからといって、漢語文による国史編纂を中止することはないはずです。」
「それもそうですね。」
「時間だいじょうぶですか。12時回りましたが。」
「だいじょうぶです。仕事入っていませんから。」
「カメさんは、プロカメラマンでしたね。仕事頼めますか。」
「どのような撮影ですか。」
「今週の土曜日、治験解析の中間発表のセミナーがあるのです。その会場撮影と演者の顔写真を撮ってもらいたいのですが。プロカメラマンだから撮影料金高いのでしょうね。」
「撮影料金は、時価です。」
「時価って?」
「撮影料金はナベさんが決めてください。」
「分かりました。詳細は、メールします。ところで、先ほどの続きですが、国史編纂の不思議が存在するのですが、日本国自体は不思議な国なのです。」
「日本国の不思議って?」
「カメさんの宗教は何ですか。」
「仏教徒でもないし、神道でもありません。強いて言えば日本教かな。」
「日本人の多くは、仏教か神道かの選択を迫られているようですが、大方のひとたちは、子供が生まれたら神社にお参りし、死んだら仏式で葬儀をします。これって変じゃないですか。」
「そうですね。確かに変です。」
「では、仏教は、日本国で生まれた宗教ですか。この仏教の伝来の歴史が分からないのです。そして、神道の伝来の歴史もわからないのです。」
「神道は、日本列島古来の宗教で、仏教は538年百済から伝来したのではないですか。」
「そのような説もあります。しかし、それらを確定する史料がないのです。神道の歴史は、藤原氏が創作し、百済仏教伝来538年は、亡命百済貴族が創作したものだからです。」
「神道は、伊勢神宮が始まりの地ではないのですか。20年毎に宮が建て替えられて今日に至っている、と観光で伊勢神宮を参拝した時、ガイドさんの説明がありましたが。」
「伊勢神宮が、神道世界のメッカというのは、明治新政府の宣伝です。伊勢神宮の創建は、天武天皇が、685年道観を伊勢の地に建てたことから始まるのです。奈良時代、藤原氏が、その伊勢の道観を破壊し、その跡に建てられたのが伊勢神宮です。その後、藤原氏は、中臣神道を発明して、漢訳仏教を支配するために、神仏習合のトリックを考えるのです。そして、伊勢神宮に天照大神の神を発明すると、その伊勢神宮に仏像を造らせるのです。」
「ちょっと待ってください。伊勢神宮は神道のメッカですよね。その地に、敵対する仏像の建立ですか。信じられません。」
「このことは、「続日本紀」に、天平神護2年(766年)伊勢大神宮寺に仏像を造らせる、との記述があります。」
「そうですか。伊勢神宮に仏像があったのですね。その仏像はどうなりました。」
「明治革命のドサクサで、300以上もあった神仏習合の宮寺にあった仏像は、藤原氏に近い者達により、どこかに持ち出されていたのです。そして、その跡に、神殿が建てられたのです。」
「伊勢神宮の神殿が、江戸時代末期に建てられたと言うのですか。」
「そうです。伊勢神宮だけではなく、日本全国の神社の神殿には、多くの謎が隠されているのです。カメさんは、信濃の大王わさび農園を訪れたと言いましたよね。それでは、その近隣の穂高神社も訪れましたか。」
「ええ、訪れました。静かな境内の中に荘厳な社殿があったように記憶しています。」
「その穂高神社は、海神を祀っているのを知っていますか。」
「そういえば、境内に扁平底の船が祀られていました。それが何か。」
「その穂高神社の氏子は、安曇族です。安曇族の伝承では、安曇族の祖は、北九州に興った海神族の国から北上して、信濃に渡来した、としているのです。その安曇の言葉は、713年以前では、ワダツミであったようです。ワダツミとは、海人という古語です。ワダツミは、海だけではなく、河川の水運もその仕事としていたのです。ワダツミは、海から運ばれた荷物を、平底の河船に移すと、人馬により、その河船を引き、内陸の奥深くまで、荷物を運んでいたのです。信濃の盆地は、太平洋に流れる天竜川、木曽川の源であり、そして、日本海に流れる越後川の源にあるのです。古代の信濃盆地は、騎馬民族のユーラシアと農耕民族の中国本土との交易の中継基地であったのです。その中心地が、ユーラシアからの騎馬民族が渡来したトルファン(諏訪)であるのです。この信濃の地に、騎馬民族と海洋民族の交易の中心があったことが推測されるのです。」
「その推測の根拠は何ですか。」
「それは、諏訪神社の謎が解明してくれます。諏訪神社は不思議な神社です。本殿がないのです。諏訪大社は、上社と下社を合わせ、1社をなしています。その上社は、前宮と本宮、そして、下社は秋宮と春宮に分かれ、四箇所に所在しているのです。その中心が、上社の本宮です。その本宮の拝殿の奥には建物がまったくないのです。空き地があるだけです。その理由として、当宮では守屋山の中央に位置する宮山をご神体として信仰の対象としてきたからと言うのです。しかし、不思議なことに、その宮山は拝殿の位置からは拝めないのです。これは一体何でしょう。宮山を拝めない拝殿。そして、本殿がなく、その位置には空き地があるのです。」
「空き地とは、春日山と同じに、禁足地ですよね。神域だから、空き地でしょう。何も不思議はないようですが。」
「藤原日本史では、空き地は「神地」の禁足地で、神の領域だから、何人も入ることができない、とするのですが、諏訪神社の祭神を調べると、不思議なことが分かるのです。上社の本宮には健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)を祀っているのですが、その「御名方」とは、「製鉄炉の主要な柱」の意味なのです。この諏訪には、産鉄民族が古くからいたことを示唆します。その根拠として、戦国時代の武田軍団には、産鉄民族の「金山衆」がいたからです。そして、農業神の他に、狩猟神も祀られていたのです。その狩猟神事では、「鹿食免」という肉食を許した護符が発行されていたのです。また、御頭際では、鹿の頭が本宮に供えられていたのです。これってカメさんどう思う。」
「不思議ですね。漢訳仏教も中臣神道も、獣を「シシ」と言い、穢れものであったはずですね。その鹿の肉を食うことを諏訪大社が許し、その上、鹿の頭を宮に供えていたとは、正に、諏訪神社は謎だらけですね。」
「不思議は、諏訪神社だけではないのです。未だに、神社のルーツが分からないのです。神社だけではなく、鳥居も、注連縄も、禁足地といわれる「空き地」の存在も、神道のルーツは謎だらけなのです。」
「そういえば、「神社本」を読んでも、それらのことを明快に述べたものはなかったですね。神社って、本当に神を祀っていたのですか。」
「分かりません。ただ言えることは、アウトローの役座の発生は神社(もり)で、その祖は、神社で怨霊鎮めを刀舞によりおこなっていた武芸者であったのです。その武芸者の祖は、俘囚と言われた陸奥国の蝦夷捕虜であったのです。そして、捕虜の蝦夷の一部は、京の都を護る検非違使の手下である放免となっていたのです。その放免は、役座と同じに逆語を使っていたのです。そのように、神社(もり)には、反体制の色があるのです。」
「反体制の色とは何ですか。」
「神社には、本殿がないものがありますが、その本殿がなく、空き地の「神地」がある神社の地域には、騎馬民族文化の影響が強く残っていることです。そのような地にある神社の神地(空き地)には、何か特別な施設があったことが推測されます。藤原氏の神を祀っている春日大社が建立する前、その地は、禁足地の空き地があったのです。その面積は約60m四方であったのです。カメさん、このことで何か思い出しません。」
「方墳や円墳は、だいたいその面積のように思いますが。」
「そうです。その禁足地の神地といわれる空き地は、方墳か円墳があったことが推測されるのです。」
「その推測を裏付ける証拠はあるのですか。」
「文献としてはありません。しかし、神社の境内にその証拠があるのです。カメさん、穂高神社に行きましたよね。その境内に「石」がありませんでしたか。名のある古い神社境内には、「石」が注連縄で祀ってあるのです。その意味は何だと思いますか。」
「分かりません。」
「出雲は不思議な国で、大和朝廷に国譲りをしたとの神話があるのです。その出雲支配地には、古代の遺跡が多く出土するのですが、古墳も不思議な形をしていたのです。その古墳は、方墳で四隅に角のような突起があるのです。その方墳には、丸石があったのです。」
「古墳に丸石ですか。丸石と言えば、信濃の魏石鬼窟にもありました。石と古墳との関係は何ですか。」
「石は、何らかの宗教的象徴だと思います。ミトラ教では、その神である太陽は、東の山の頂上から誕生すると信じられていたようです。ミトラ教は契約の神でもあったので、国際交易商人と供に世界に伝播するうちに、太陽神ミトラの誕生場は、その山の頂上から、洞窟、そして、大岩、更に、丸石などに変換していったようです。「猿」の孫悟空が岩から誕生したという物語は、そのような信仰がヒントであったかもしれません。太陽神を祀るミトラ教は、秦と供に中国に渡来していたようです。秦とは、西域の国の意味です。紀元一世紀頃には、ローマ帝国は、中国では「大秦」と呼ばれていたのです。その秦は、蔑称で「猿」とも言われていたのです。それは、秦→しん・申→さる・猿、の流れです。日本史に登場する、猿田彦も蔑称で、本来は、「秦の日の子」です。そのように、四隅突角墳には丸石があったのです。」
「でも、穂高神社には、丸石ではなく、二つの岩ですが。」
「方墳は、騎馬民族と関係のある古墳です。穂高神社は、海神を祀る海洋民族の宗教施設であったので、四隅突角墳ではなかったのでしょう。いずれにしても、古墳と石とは関係があったのです。古墳が破壊された歴史的記述は、「続日本紀」の平城京を建設する時の記述にありますが、七世紀末まで築かれていた巨大古墳が、奈良時代には破壊されていたことは、支配民族の変換が示唆されます。奈良時代から始まる古墳破壊により、「空き地」ができるわけです。しかし、古墳の小山が削られて「空き地」となっても、その古墳を祀っていた民族は、その「空き地」を信仰するために集まって来るのです。そこで、簒奪王権は、注連縄で、その地を禁足地としたのです。「空き地」を囲む注連縄の本来の意味は、「閉め縄」で、そして、神を祀る木とされる榊の本来の意味は、「佐加木」で、その意味は「塞也、閉塞也」と現在最古とされる漢和辞典「新撰字鏡」にはあります。それらの神社に関係する注連縄、榊とは、被征服民族が、被征服民族の祭祀場に足を踏み入れることを厳しく禁じるための道具であったのです。」
「それって、またまたナベさんの推測でしょう。」
「文献がないのです。神道の歴史については、神社関連の施設・道具・儀式をもとに推測する以外に、方法がないのです。「神社」を「ジンジャ」と読んでいますが、古代では「モリ」であったのです。その根拠は、万葉集の歌です。木綿懸けて斎ふこの神社(モリ)超えぬべく念ほゆるかも恋の繁るきに、とあるように、古代では、神社は「モリ」と読まれていたのです。「モリ」と言われたのは、「神社」だけではなく、「社」も「モリ」と読まれていたのです。そして、万葉集では、「杜」と「社」の漢字に混同があるのです。その「社」は、「やしろ」とも読まれて、万葉集では、神の住む聖域で、注連縄を引きめぐらして、ひとが立ち入ることを禁じているのです。この「禁足地」を意味する「モリ」とか「やしろ」とかの意味がわからないのです。では、「神社」、「社」に対する「宮」とは何でしょう。」
「神を祀る建物でしょう。」
「「神社」には本殿がないものがあり、中には、山を前にした鳥居だけのものもあります。しかし、「宮」には、必ず建物があるのです。「神社本」では、「宮・みや」は、「御屋」だと説明するものもあります。更に、「日本書記」では、「仏像を造ること既に訖りて、堂(みや)にいることを得ず」とあるように、仏堂や寺も「みや」と読まれていたのです。神霊を祀る神社には、「空き地」だけで、建物がないものがあるが、政権が変わり、仏像を安置するには堂(みや)が必要だったようです。その神社(モリ)と宮とが厳格に区別されたのが、「延喜式神名帳」からのようです。平安時代初期に著された「延喜式神名帳」は、唐進駐軍の指揮下、前政権の宗教施設であった古墳を破壊しただけではなく、唐の国教である漢訳仏教思想を広めるため、「堂・みや」を建て、仏像を安置したのでしょう。」
「ナベさん、それって変ですよ。仏教が伝来する前に、神道があったのでしょう。だったら、仏像を安置する「堂・みや」の以前に、神道の神を祀る「宮」があったはずです。伊勢神宮、鹿島神宮、そして、八幡大菩薩宇佐宮だって、仏教伝来以前にあったのでしょう。」
「カメさん、前にも言ったと思いますが、神道は、仏教伝来の後に、藤原氏により、奈良時代に発明されたものです。」
「日本史では、蘇我氏と物部氏との神仏戦争があって、在来の神道を祀る廃仏派が破れ、崇仏派の蘇我氏が勝って、仏像を安置するために仏寺を建立したことになっているはずですが。」
「それは、藤原氏が創作した物語です。明日香ヤマト時代には、仏教など伝来していません。その時代は、太陽を祀る景教(ミトラ教)、北極星を祀る道教、そして、火を祀る拝火教(ゾロアスター教)など、西域の宗教であったのです。その根拠は、六世紀半ば、明日香ヤマトを支配したのは、騎馬民族突厥進駐軍であったからです。その突厥は、東アジアで、漢訳仏教を国教とする唐帝国と戦争をしていたのです。敵国宗教の漢訳仏教など、突厥が支配する明日香ヤマトで布教を許されるはずはないのです。」
「でも、学校の日本史では、仏教の伝来は、538年と教えていますよ。」
「仏教伝来の538年は、平安王朝を築いた、亡命百済貴族が創作した物語です。「モリ」の話に戻します。「モリ」の語源は、「モロ」のようです。その「モロ」の「モ」とは、つまり、古代では「神」、「精霊」を意味していた「モノ」が降臨する処であったようです。その神や精霊が降臨する処は、美称の「ミ」を付けて、「ミムロ」「ミモロ」と言われたようです。「万葉集」の歌には、よく「ミモロ」は出てくるのですが、そのほとんどは明日香ヤマトなのです。例えば、「三諸の神杉」とは、桜井市三輪の三輪山で、「三諸の神名備山」の「三諸」は、奈良県高市郡明日香村の雷丘のことと云われています。」
「高市と雷丘ですか。それって、役座のバザールがおこなわれるタカマチと、マチとは、「火」「雷」を意味する古代朝鮮語ですよね。」
「そうです。ゾロアスター教は、旧暦の5月の太陽の位置が一番高い日に、酒肴をもたらし男女つどへて遊び楽しんだのです。古代の「遊び」とは、「まぐわい」の意味です。」
「そういえば、盆踊りのルーツは、村の「男女交際の日」と聞いたことがあります。」
「明日香ヤマトでは、高市郡では、丘に男女が集い、高い日(火・マチ)の太陽を祀り、お祭りをしていたのです。」
「ナベさん、その祭りがおこなわれる丘って、もしかすると「古墳」ではないですか。」
「私も、その丘は、「古墳」だと思っています。その丘が、「モロ」で、神や精霊が降臨する処で、その「モロ」が「モリ」となったのです。奈良時代、その「モリ」の「古墳」を、征服民族が破壊し、空き地の「禁足地」としたのです。そして、その前政権の神や精霊を封じ込めるために「神社・モリ」を建立したのですが、被征服民族の力が残存している地域では、神社が建立できなかったので、「空き地」のままだったのです。ですから、騎馬民族の残存勢力が強い地域の神社には、本殿がなく、「空き地」があるわけです。」
「その説明なんとなく理解できます。神社が「モリ」で、その「モリ」は「モロ」が語源で、その「モロ」とは、神が降臨する「丘」、つまり、「古墳」というわけですね。」
「そうです。その「古墳時代」は、藤原日本史で述べる、「飛鳥時代」とオーバーラップするのです。藤原氏が創作した「日本書記」は、推理小説を読む視線で眺めると、藤原氏が、明日香ヤマトの歴史の「何」を隠そうとしたかの「意図」が分かります。」
「藤原氏は、「何」を隠そうとしたのですか。」
「それは、明日香ヤマトのオリエント文化です。明日香ヤマトは、仏教文化の発祥の地などではなく、オリエントの石造文化の地であったのです。」
「それって、飛躍しすぎません。現に、飛鳥大和には、飛鳥寺など古代の仏教寺が多く存在していますよね。」
「その飛鳥大和のトリックは、明治維新での「国家神道」を伝播させるためのトリックを述べることで説明できます。その飛鳥大和も明治維新も、その影には藤原氏の存在があたのです。日本列島史の謎は、天皇の謎などではなく、藤原氏の謎なのです。藤原氏の謎を解明できれば、日本史の封印が解けるのです。」
「ナベさんは、「大化の改新」と「明治維新」が、同じ藤原氏による陰謀とでもいうのですか。」
「民族の思考は、時代を経てもそう変化するものではありません。藤原氏の戦術のひとつは、「夷を以って、夷を制す。」です。敵対する同族を分裂させ、その弱い方に味方して、強い方を壊滅した後に、その弱い方の勢力を取り込むか、或いは、抹殺するのです。そして、外国の勢力を利用して旧政権を倒すと、傀儡新政権を裏でコントロールするのも、藤原氏の得意とするところです。」
「それって、具体的にどういうことですか。」
「645年明日香ヤマトを倒した時は、唐進駐軍の軍事力を、そして、1868年江戸幕府を倒した時は、イギリス東インド会社の軍事援助を利用していたのです。藤原氏は、古来から外国勢力とのパイプを持っていた民族です。」
「藤原氏は、日本列島で最も古い民族で、天照大神を天磐戸から引き出した時の祭祀者である天児屋根命が祖ではないのですか。」
「カメさん、天照大神はいつごろの神だと思っていますか。」
「神武天皇が紀元前660年即位ですから、紀元前八世紀頃かと思います。」
「天照大神を祀っている伊勢神宮は、奈良時代に建てられたのです。それ以前は、天武天皇が、685年道教の神である北極星(太一)を祀るための道観であったのです。ですから、天照大神が発明されたのは、685年以降です。」
「その解説信じられません。」
「では、天照大神は、男神か女神かどちらですか。」
「それは女神です。日本神話では、スサノウの姉となっていますから。」
「天照大神は太陽神と言われていますよね。世界の神話では、太陽神は、全て男神なのです。何故、日本の太陽神だけが女神なのでしょう。」
「分かりません。」
「それは、藤原氏が、天照大神の天磐戸物語を創作した時、ギリシャ神話の「デメテルが女王を笑わす物語」を種本としていたからです。」
「それって本当ですか。」
「暇な時、ギリシャ神話と読み比べてください。明治維新のトリックが、大化の改新のトリックと同じと言いましたよね。大化の改新の645年大和朝廷は仏教興隆の詔を発しているのです。そして、明治維新の1868年明治新政府は神仏分離令を発しているのです。その意味は、宗教改革を利用して、旧勢力の抹殺が、藤原氏一族の意図であるのです。明治維新の宗教改革を解析すれば、明日香ヤマトがどのようにして、オリエント文化から仏教文化に摩り替えられたかを知ることが出来るのです。」
「明治維新が宗教改革ですか。それって変ですよ。万世一系の天皇家は、古来から神道の神を祀り、天皇はその神道の儀式の祭祀者であった、と歴史本で読みましたが。」
「明治天皇が神道の十三の儀式を執り行ったのは史実です。しかし、その十三の神道儀式の十二は、明治維新以降に、藤原氏により発明されたものです。そのひとつの五節舞も、戦国時代には廃れていたのです。天皇家は、781年即位の桓武天皇から、新羅系から、百済系に替わり、嵯峨天皇の時代から江戸末期の孝明天皇まで、錬金術師空海が発明した真言密教のダキニの呪法の儀式により天皇家は祀られていたのです。」
「それって本当ですか。」
「天皇家の皇祖を祀っていると云われる伊勢神宮境内には、明治革命以前、宮寺が300以上もあって、そこには仏像が安置されていたのです。奈良時代、伊勢神宮が天皇家の皇祖を祀っていなかったことは、道鏡を天皇にするかどうかの宣託を受けるのに、769年伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮に和気清麻呂を遣わしたことで理解できます。奈良時代の伊勢神宮は、天皇家ではなく、藤原氏の宮であったのです。もうだいぶ時間が経ちましたよね。今日はこれくらいにしませんか。」
「そうですね。ナベさんの歴史解説についていくのに疲れました。ひとつだけ質問をしていいですか。」
「どうぞ。」
「ナベさんが所属している「日本騎馬民族研究会」とは何を目的の会なのですか。」
「その答えは簡単でもあり、難関でもあります。簡単に述べれば、何故ひとを罵倒する時の言葉の「バカ」が、何故「馬鹿」なのかを解明するのが目的です。」
「関西では、「バカ」ではなく、「アホウ」ですが、違いは何ですか。」
「簡単に言えば、罵倒相手の民族が異なるからです。「馬鹿」の対象は「騎馬民族」です。「阿呆」の場合は、「古代新羅民」です。」
「騎馬民族を罵倒するのが「馬鹿」の文字であるのは理解できますが、古代新羅民を罵倒する文字が、何故「阿呆」なのですか。」
「一説には、古代新羅の数詞からきていると云われています。「アホウ」とは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、数詞の「九」を表す言葉です。「アホウ」は、「十」に足らないことから、「抜けている」の意味に転訛して、「アホウ」が「間抜け」となったようです。今日でも、関西の百済系日本人が、新羅系日本人によく使う「罵倒言葉」です。京都が、日本歴史上において民族差別発祥の地であることは、そのような民族差別の罵倒言葉からも理解できるのです。京都を支配した亡命百済貴族のDNAは、母国百済を滅ぼした新羅を今も憎み続けているのです。」
「関西でよく使われる罵倒言葉の「アホウ」が、そのような民族差別語であったのですね。」
「「馬鹿」の語源は、巷で解説の秦の時代の「馬」を「鹿」と言ったという創作物語ではなく、愚か者の意味の、サンスクリット語の「ハーカ」からきているのです。」
「何故、そう言えるのですか。」
「中国読みでは、「馬」は、呉音「メ」、漢音「バ」、「唐音」「マ」ですが、「馬鹿」は、「バロク」なのです。鹿の中国読みは「ロク」で、「カ」は、日本語読みの訓です。ですから、「バカ」を「馬鹿」としたのは、中国人ではなく、日本人なのです。サンスクリット語の「ハーカ」が中国語の「莫迦」になり、「馬鹿」になったのは、民族差別が激しくなった第三百済王朝の江戸時代中期からなのです。そのように、藤原氏や亡命百済貴族が、騎馬民族を貶めるために色々な史料を創作して、日本列島史の騎馬民族やオリエント文化を抹殺、或いは、隠蔽・改竄しても、文化のDNAである「言葉」までは、抹殺、或いは、隠蔽・改竄はできないのです。」
「分かりました。今日も、色々勉強になりました。ありがとうこざいました。」
「では、今週の土曜日の撮影、よろしく。後で、必要事項をメールします。では。」
オレは、チャットが終わっても、パソコンをオフする状態ではなかったので、今日のチャツトを再び読み始めていた。
会場内のざわめきは、開始のアナウンスが流れると、シーンと静まり返った。オレは、一脚に乗せたカメラを構えると、司会者に200ミリレンズを向けて、二三回シャッターを切った。
イベントの撮影は、何が起こるかわからない。イベント写真は、その時を切り撮れなければ、二度とはできない一発勝負の仕事だ。出版社カメラマン時代の教訓で、昨日会場でのリハーサルを見学していたのだ。演壇舞台が広いので、オレの愛用の85ミリレンズでは、顔のアップは無理と分かり、リハーサル見学後、急遽、中古カメラ店で、200ミリレンズを購入したわけだ。それにしても、中古タークマーレンズは安過ぎる。
会場でのイベント撮影、特に、学会などは、ひとつのミスも許されないので、コンベンション会社は、本番の前にリハーサルをおこなう。大体、午後開場の場合、当日の早朝からリハーサルがおこなわれる。午前開場では、前日の夕方にリハーサルがおこなわれるようだ。リハーサルでは、演者の立ち位置やライトの光量、そして、マイクの音量のチェックが念入りにおこなわれる。そして、学会撮影での大事な確認事項は、演者の誘導のことだ。演者控え室から演壇までの歩行経路だ。
何故、演者の歩行経路が大事なのかは、講演者の撮影では、会場内のライトが落とされたら、撮影禁止が原則だからだ。演者の中には、演壇に登場と同時に、「スライドお願いします。」と言って、講演を始める演者もいるからだ。そのような時、講演が終わった演者を待ち構えて、顔写真を撮る位置を、前もって決めておくことは、プロカメラマンの保険だ。
それに、リハーサルに立ち会っていれば、当日のライティングと撮影位置が確認できる。なにより、講演の流れが掴めれば、どのように撮影位置を移動すればよいかを知ることが出来る。イベント撮影では、必ずアクシデントが起こると思っていたほうが、もし、起こってしまっても気持ちが落ち着き、冷静な判断により乗り越えられる確率がアップする。
そして、演者の名前を覚えておくのも大切なことだ。講演撮影がうまくいかなかった場合、廊下で、演者を待ち、演者に声をかけるとき、○○先生と、本名で声をかけるのと、ただの先生とでは、演者の反応は大いに異なるからだ。
そして、イベント撮影でプロカメラマンとして大事なことは、プレスの腕章を付けることだ。このプレスの腕章があるかないかで、被撮影者の反応は大いに異なることは、出版社カメラマンからフリーカメラマンになった時、実感した。だから、オレは、イベントでの撮影の場合、自作のプレス腕章をするのだ。
第一演者の紹介が終わると、いかにも医者らしいタイプの演者が現れた。オレは、昨日下見で決めていた位置で、カメラを構えてシャッターを切った。目つぶり写真を回避する方法のひとつは、被写体が目をつぶった瞬間にシャッターを切ることだ。そして、二三枚切ったら、その位置を他のカメラマンに譲ることだ。そうすれば、カメラマン同士のトラブルが回避できる。それにしても、女性カメラマン?が多い。デジカメが普及してからは、編集者がカメラマン兼任となってしまったからのようだ。
「では、スライドをお願いいたします。近年、ニコチン性アセチルコリン作動性神経系やグルタミン酸作動性神経系、などを介する、新規の薬理学的特徴を持つ薬物が開発されています。では、」
オレは、講演を聴きにきたわけではないし、聞いても意味が分からないので、押さえのために、廊下での撮影位置に移動した。
「オッ、カメ久しぶり。」
「田中か。十数年ぶりだな。元気か。少し老けたな。」
「お互い様。お前、出版社辞めたそうだな。ここで何しているんだ。」
田中は、オレが六ヶ月のサラリーマン時代に終止符を打って、写真学校に入学した時に知り合った。前歴がパチプロだったことで、気があって写真学校時代つるんでいた。就職で、オレは運良く出版社のカメラマンとして採用されたが、一緒に受けた田中は落ちた。その後、田中には会っていなかった。
「田中こそ、ここで何してるんだ。」
「カメと違って、才能ないから、出版社の営業で、今にもつぶれそうな地味な出版社に就職したのが、医療系の雑誌を出版したら、あっという間に自社ビル建てて、オレはそこの営業部長。」
そう田中は言って、名刺ホルダーから名刺を出し、オレに渡した。その一連の動作から、営業慣れがうかがわれた。その時、ひとは環境に影響される、と感じた。オレは、カメラマンバックから名刺を出し、渡した。
「モノクロ専門肖像写真家。カメダマン。スナップ写真協会会員。何だいコレ。」
「オレの営業ツール。デジカメ苦手だし、長らく銀塩カメラで人物撮っていたから、希少価値をウリにしようと考えたわけ。」
「ビジネスになるのか。今はデジカメのカラーの時代だぜ。写真学校でも言っていただろ。銀塩カメラの終焉。今は、そのたそがれ時。やがて、闇になる。銀塩カメラは、博物館で展示。」
「いいじゃないか。そのたそがれ時に、最後の華を咲かせるのも。肖像写真っていっても、葬儀用写真で、結構需要がある。六十台以上のひとは、デジカメより銀塩カメラに親しみを持っているからね。」
オレは、腕時計を見た。もうそろそろ講演が終わる頃だ。
「悪い。これから撮影。名刺に連絡先があるから、電話して。」
オレは、田中にそういうと、所定位置に行き、そこで演者を待った。
誘導者に従って演者が現れた、オレは頭を軽く下げて、
「矢崎先生。T医大の田辺先生からの撮影依頼です。二枚ほど撮らせて下さい。」と言って、名刺を出した。
矢崎医師は、オレのプレス腕章をチラリと見て、うなずいた。オレは、矢崎医師を所定位置に誘導すると、カメラマンバックからポラを取り出し、シャッターを切った。
「ポラロイドだね。まだあるんだ。懐かしいね。」
矢崎医師の表情が緊張から解放されたように一変した。オレは、排出されたポラを矢崎医師に渡すと、もう一度ポラを切った。
「先生、よろしかったらポラどうぞ。では、本番いきます。」
オレは、ストロボを天井に向けると、矢崎医師の目線より下の位置からレンズを向けた。下から仰ぐアングルは、被撮影者の威厳を演出する。卑屈の演出は、上から見下ろすアングルだ。レンズ位置は、写真を鑑賞するひとの目となるのだ。
「ありがとうございました。」
「今日は懐かしいものを見た。ペンタックスっていいよね。軽くてシンプルで。私も昔、S2を使っていたことがあるよ。」
そう言いながら、オレの名刺を再び見た。
「モノクロで撮ったの。よかったら、写真送ってくれない。」
「いいですよ。」
「先生、後は私が引き受けます。お車が玄関に到着しています。」
オレと同じような服装をしたMRが、オレと矢崎医師との会話に割り込んで言った。
「では。」、と言って、矢崎医師が立ち去った。オレは、もう一枚のポラに、医師名と日付を書き込んだ。何人もの人物写真を撮った場合、後で整理するのに便利だからだ。
今日の講演は、三名だ。あと二人、オレは、急いで会場内に戻った。
本日の講演も終わり、スポンサーの製薬会社の重臣らしきひとが、御礼のご挨拶を始めると、退席が始まった。挨拶が終わる頃には、会場内にはほとんどひとがいなかった。
オレは、事務局のある部屋に、田辺さんを尋ねた。
「撮影終わりました。依頼事項は全て撮りました。」
「ご苦労様です。写真、データでお願いします。」
田辺は事務的に言った。白衣を着ている時と、半そでYシャツ姿の田辺さんは、別人のように感じた。課長どまりのサラリーマンのようだ。やはり、「馬子にも衣装だ」、とオレは思った。それにしても、何故「馬子」なのだろう。この小部屋には何人かがいるので、いつかチャットで、田辺さんに聞いてみようと思った。
今日の仕事も無事終わった。たそがれの人生、急ぐこともないので、法定速度30kmの愛車トモスでトロトロと家路に着いた。
真昼の照り返しがキツイ。オレは久しぶりに神田に来た。神田の古書店通りは、来るたびに古書店が減っていた。高校時代、長谷川という古本好きがいて、古本屋で購入した古本を、神田の古書店で売りさばくのを手伝っていたことがあった。それまでは知らなかったが、古本屋と古書店とは古本の値付けが異なる。古本屋の基準は、本の内容よりも体裁に価値基準を置く。しかし、古書店では、その体裁よりも、本の内容に置く。
長谷川は、古本屋から内容の良い、少し汚れた初版本を安く購入して、神田の古書店に売りさばいて、利鞘を得ていたのだ。古本屋では、全集でも、中に汚れている本があると、その汚れた本は買い取らない。しかし、古書店では、そのようなことはない。内容がよければ、汚れていても購入してくれる。全集を売るなら、古本屋ではなく、古書店だ。
久しぶりに神田の古書店に来たのは、田辺さんとのチャットで歴史の認識がずれてしまったようなので、もう一度、日本の歴史を確認したかったからだ。それに、田辺さんの歴史観の種本は何かも知りたかった。神田の歴史専門古書店で、それらの答えが見つかるかもしれないと思ったからだ。
店に入ると、本が湿気を吸って醸し出す、独特のニオイが鼻に付いた。棚だけではなく、通路にも平積みされた古書は、褐色で、いかにも歴史の宝庫のように感じた。適当に棚から一冊取り出す。ページを捲ると、そこには漢字がびっしり、更に、その漢字は旧字だ。オレの漢字知識では、到底解読できない。棚の下に、江戸絵図の古書があった。絵だったらと思い、ページを捲った。何回か捲ると、伊勢神宮の絵が開かれた。その絵は、何枚かに分かれていて、伊勢神宮の遍歴を絵で解いていた。一枚目の絵は、川筋にぽっんと建つ祠が描かれていた。二枚目には伊勢神宮境内に点在する宮寺が描かれていた。そして、三枚目には、伊勢参りの旅人が、銭を川に投げるのを、橋の欄干から子供が飛び込む図が描かれていた。
オレは、その伊勢神宮の遍歴絵を見ながら、田辺さんが「伊勢神宮には、江戸時代末期まで、宮寺が無数にあった。」、と言っていたことを思い出した。すると、江戸時代末期まで伊勢にあった無数の仏像はどこに消えたのか。現在のような、宮寺のない、神道の聖域とする伊勢神宮は、何時、誰が、何を目的に企画したのか。ニッポンの古来からの宗教は、神道ではなかったのか。だったら、「日本書記」で述べている物部氏と蘇我氏との神仏戦争物語での、神とは何か。オレの脳内は混乱し始め、その結果、軽い眩暈がした。
古書店を出て、新刊本屋に行った。もちろん歴史コーナーだ。そこには、無数の歴史本が、時代順に置かれていた。古代の列には、聖徳太子本が多くあった。
近年、聖徳太子の実在性が疑われていたが、今では、「聖徳太子はいなかった」側に分があるようだ、それは、徐々に聖徳太子の存在を否定する本が多く出版されているからだ。聖徳太子の連想で、蘇我馬子を思い出し、そのことにより、「馬子にも衣裳」の諺が浮かんだ。
そこで、何故、「馬子」なのだろうという疑問が再び湧いた。オレは、辞書のコーナーに急いだ。諺辞典を手に取ると、索引欄を開き、ページを確認して、「馬子にも衣裳」を引き当てた。その解説では、「誰でも外面を飾れば立派に見える」、とある。その言外の意味からすれば、「誰でも」が「馬子」なら、「馬子」は身分の低い者の意味か。
その諺の隣に、「馬子にわんぽう」とある。その意味は、馬子には「どてら」が似合うとある。そして、分相応の意のたとえ、とある。「わんぽう」とは、「どてら」のことで、粗末な着物のことだ。そして、その「どてら」とは、他人の衣服を褒めるのではなく、けなして言う語だ。そして、馬子の意味としては、駄馬をひいて人や荷物を運ぶことを業とする人、とある。
いずれにしても、「馬子」は、尊敬される者ではないようだ。平安末期に成立の、大江匡房の談話を藤原実兼が筆記した「江談抄」には、昌泰2年(899年)の上野国の馬盗の話には、坂東諸国の富豪は、京都方面へ物を運ぶ時、賃馬を雇ったが、その賃馬の「駄馬」は、略奪を業とする徒党が盗んだ馬であると述べてある。そして、戦国時代を記述している「上野国志」には、乱波(ラッパ・シッハ)という曲者多く抱いて、これ馬盗人にして、また盗人にもあらず、乱波は我国にありて、盗人よくせんさくす、長野家乱波大将軍風車と申せしなり、と述べている。
それらの書籍史料によれば、馬盗人は、ただの盗賊ではなく、間者(諜報員)であったようだ。その馬盗人は、後に、テキ屋の「馬賊」と称される者になっていくようだが、古来「馬子」は、忍び者でもあったようだ。
それらの書籍史料を読むと、「馬子」は、体制側からは良く思われていなかったようだ。だったら、何故、蘇我馬子なのだろう。そして、孫の蘇我入鹿との一字を組み合わせれば、「馬鹿」になる。古墳後期時代(飛鳥時代)、530年から645年まで、明日香ヤマトを支配した蘇我氏の名前が、稲目、馬子、蝦夷、そして入鹿との蔑称が、何故、付けられているのか。その名前は、713年好字令により、命名されたものだ。その蔑称を使って、藤原不比等は、「日本書記」を創作した。何故だ。オレは、田辺さんの歴史観で、日本史を観るようになっていることに驚いた。
「こんばんわ。カメダマンです。」
「こんばんわ。ナベです。写真ありがとう。カメさん、銀塩カメラでしたよね。どうして、写真メールで送れたのですか。」
「スキャナーで取りこんだんです。」
「だったら、はじめからデジカメで撮ったら楽なのに。現像もなしに撮れるから。」
「気持ちがデジカメについていけないんです。でも、パソコンのテクは無視できません。画像を送れるわけですから。大昔の新聞社で使われた電送写真が、パソコンだと誰にでも、簡単に出来るのですから。ところで、諺に「馬子にも衣裳」ってありますよね。何故、「馬子」なんですか。」
「諺は、時代や地域によって異なります。そして、解釈も。言葉の意味も同じです。例えば、「くだらない。」という言葉がありますよね。その意味は、平安時代と江戸時代では異なっていたのです。「くだらない。」の語源は、「百済のものではない。」つまり、平安時代の京都は、唐の山東半島から移民してきた亡命百済民で溢れていて、百済系桓武天皇は、その亡命百済貴族を高級官僚に登用したり、息子の嵯峨天皇の時代には、814年「新撰姓氏録」を創作して、亡命百済貴族を「皇族」として優遇していたのです。」
「日本の皇族の祖は、亡命百済人なのですか。」
「そうです。そのような、唐に支配された平安時代の京都では、百済の文化は先進であったのです。つまり、「くだらない。」とは、「百済のものではない。」つまり、「取るに足らないもの」の意味であったのです。それに対して、江戸時代、つまり、第三代将軍徳川家光には、百済の血が流れていて、天台宗の怪僧天海により、騎馬民族の血が流れる徳川家康の霊は、改築された日光東照宮で猫により幽閉され、その結果、河口の湿地帯を金山衆の産鉄民族や秦氏末裔の高度土木建築技術で宅地に変えた三河・河内文化のエドは、京都文化の江戸になってしまったのです。」
「江戸文化が京都文化ですか。信じられません。」
「その江戸の物資の多くは、百済文化色が残る京都の本社の支店がある日本橋で売りさばかれていたのです。そこで、上方の京都から下ってくる物品は、「下るもの」で高級で、「下ってきたものではない」つまり、関東の物品は「くだらない」物で、「取るに足らない物」の意味となったのです。」
「なんとなく理解できました。では、日本橋にエド時代に居た三河・河内のひと達は、何処にいったのですか。」
「多くは北関東です。関八州です。」
「関八州と言えば、上州を中心に関東ヤクザの拠点ですよね。」
「そうです。1651年槍術の道場を開いていた武士の由比正雪は、怪僧天海の陰謀により江戸幕府転覆の首謀者として抹殺されると、翌年、「エド時代の武士」であった浪人達は江戸から追放されるのです。それが、武士→野武士→野士→やし→香具師、となって、高市(タカマチ)で、がまの油売り、薬売り、むし歯を抜歯する藪医者として、第三百済王朝の江戸時代の「サムライ世界」で生き延びて行くわけです。」
「何故、上州がヤクザの拠点となったのですか。」
「それは、シルクロード交易の北限地だったからです。桐生は、古来から絹製品の北関東の集積地であったのです。平安時代末期、律令制が崩れ、荘園制に移行すると、僧兵の武力により、比叡山延暦寺は、東国一円を支配下においたのです。その比叡山延暦寺の東国支配を壊滅したのがイエズス会傀儡の織田信長です。その織田信長により、市や座は、仏教徒から解放され「楽市楽座」となったのですが、江戸時代になると、再び、天台宗の勢力が、絹交易地の関東にも及んだのです。その結果、武士の末裔は、ヤクザの香具師として貶められたのです。その漢訳仏教徒の下で、各地でバザールが開かれていたのです。絹製品交易は、貨幣を必要としたのです。貨幣が潤沢にある処には、娯楽施設が発展します。博打は、賽博打と言われているように、宗教と関係があったのです。仏教徒が支配する宮寺で、「寺銭・テラセン」を払って開帳される賽博打は、騎馬民族の、祭事で、リクリエーションでもあったのです。」
「その絹製品を馬子が、桐生から京都に運んでいたわけですね。」
「そうです。馬子は、日本国での運送業の祖であるのです。」
「でも、日本史や通史、諺、そして、蘇我馬子を含めて、馬子は良く言われていませんよね。何故ですか。」
「それは、古墳時代後期の明日香ヤマトを支配していたのが、騎馬民族で、天皇制度も騎馬民族の制度だからです。」
「天皇制度が騎馬民族の制度なのですか。」
「天皇の元は、天子(テングリ)で、騎馬民族の王です。その王は、北極星の太一の命により、王権を授かるわけです。その天命の儀式が、天武天皇が始めた「大嘗祭」となるのです。しかし、国が乱れると、太一(北極星)が命を改めて、実力のある者を王とするのです。それが、命を替えることで、「革命」となるのです。」
「革命とは、天子の交代ですか。」
「倭国から日本国へと国名を替えた、日本初の天皇である天武天皇は、騎馬民族のギリシャ・ローマ文化の古代新羅の流れにあったのです。その騎馬民族の「天皇システム」を、藤原氏が利用して、今日に至っているのです。」
「どうして、そう言えるのですか。」
「藤原氏が、明日香ヤマトの歴史を改竄するために創作した「日本書記」と、その改竄日本史の「日本書記」を否定するために著された「古事記」により、藤原氏と亡命百済貴族による、明日香ヤマトの歴史改竄が暴かれるのです。明日香ヤマトは、オリエント文化、そして、騎馬民族文化であったのです。」
「その証拠とか、根拠は何ですか。」
「残念ながら、史料は、645年焚書されてしまったのです。そのことを、藤原氏は、「日本書記」で、「蘇我蝦夷が、天皇紀と国紀を燃やしてしまった。」、と述べています。実際は、藤原氏が明日香ヤマトの史料を焚書してしまったのでしょう。書籍は、焚書して抹殺できますが、文化や言葉は、そのようにはできません。騎馬民族文化が、明日香ヤマトに存在していた根拠のひとつとして、「だいご」の言葉があります。その「だいご」は、古墳時代後期から、現在まで食されているのです。」
「その「だいご」とは何ですか。」
「チーズのことです。乳の脂肪を固めて醗酵させたものです。まさに、日本版チーズです。おいしいの意味の「醍醐味」とは、チーズを語源としているのです。チーズが、農耕民族の食べ物だと思いますか。」
「そうですね。チーズは、牧畜民族の食べ物ですね。やはり、明日香ヤマトには、騎馬民族が暮らしていたのですね。「だいご」と言えば、平安時代初期に「醍醐天皇」がいますよね。」
「その「醍醐天皇」の母は、貴族出自ではなく、庶民であったようです。可能性としては、騎馬民族末裔を母としたので、「チーズ天皇」と呼ばれたのかもしれませんね。」
「それってアリですか。」
「日本の天皇についての謎は、藤原氏の謎、って先日言いましたよね。藤原氏は、その天皇の号の始まりを、天武天皇ではなく、もっと先にするために「日本書記」で推古天皇物語を創作するのです。」
「推古天皇は、実在の女帝で、「聖徳太子」を摂政として、607年隋に遣使小野妹子を送ったのですよね。」
「「日本書記」ではそのようになっています。しかし、「隋書」では、隋使が倭国で謁見したのは、女王ではなく、男王となっています。「日本書記」と「隋書」のどちらかが「ウソ」をついているのです。カメさん、「古事記」が、何故、推古天皇で終わっているか分かりますか。」
「歴史本では、何らかの事情で途中で終わった、とありましたが。」
「その説明は、説明になっていません。それだったら、どうして、序に天武天皇のお言葉が記述されているのでしょう。その天武天皇の序のお言葉では、「古事記」が書かれた理由が述べられているのです。簡単に言えば、日本の歴史が改竄されている、このままでは日本の本当の歴史が分からなくなる、そこで「古事記」を著したのだ、ということです。」
「「古事記」が完成したのは、712年ですよね。645年に蘇我蝦夷が天皇紀や国紀を焚書したから、その復元を考えたのでは。」
「カメさん、「古事記」が、和銅5年(712年)完成というのは、何の根拠もないのです。奥付に、和銅5年とあるから、後のひとは、その奥付の年度を信じているだけです。実際に、「古事記」が完成したのは、百年後の812年です。平安時代初期に、万葉語学者の多人長が著したのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「証拠は、その使用した万葉語にあります。奈良時代では、万葉語の発音は統一されていなかったのです。それは、万葉とは、諸国のことで、諸外国の言葉が万葉語であったからです。その万葉語が、日本語として統一されたのが、平安時代だからです。その統一された万葉語が、「古事記」にはあるのです。更に、神話物語が、「日本書記」では、陰陽思想の二元論で記述されているのに対して、「古事記」では、一元論です。一元論は、二元論より新しい思想観念です。それに、「古事記」は、「日本書記」のある書に曰くについて、その反論を試みているのです。決定的なのは、「日本書記」の天皇の年齢は、二倍年で記述されているのです。だから、百歳以上の天皇がゴロゴロいるのです。しかし、「古事記」では、二倍年ではありません。飛鳥大和を支配したと言う継体天皇の年齢は、二倍の開きがあるのは、「日本書記」は、倭国が一年を前期・後期にわけて、一年で二歳となる古い史料を基に創作されていたからです。そのように、「古事記」は、「日本書記」よりも、「新しい」のです。」
「ちょっと信じがたいですね。でも、何故、八年後に著された「日本書記」と「古事記」との記述事項の違いの意味が少し理解できました。」
「「天皇」の祖が、騎馬民族の王である「天子・テングリ」であったことに話を戻します。「日本書記」では、推古天皇により派遣された小野妹子が、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつが無きや」と国書を送ったことになっていますよね。その解釈として、日本国の天皇が隋の皇帝と対等の立場を主張した、という解釈です。しかし、その推古天皇が存在していたとする時代の東アジアでは、騎馬民族の突厥帝国が、隋と対峙していたのです。その突厥帝国の天子は、隋に国書を送っていたのです。その文面は、「天より生まれたる大突厥の天下聖賢天子のイリキュルシャドバガ・イシュバラ可汗、書を大隋皇帝に致す。」、とあるのです。騎馬民族の突厥の王は、自らを「天子・テングリ」と言っていたのです。」
「その突厥の王と、日本の天皇とは、何か関係があるのですか。」
「私の推論では、「日本書記」で創作した、越前出自の継体天皇とは、ユーラシアを支配していた突厥帝国より倭国侵略のために派遣された将軍ではないか、ということです。その突厥将軍が、明日香ヤマトを支配したのです。その史実を隠すために、720年藤原不比等が「日本書記」で蘇我氏を創作した、というのが私の主張です。蘇我氏とは、突厥帝国進駐軍の将軍一族です。蘇我氏、つまり、突厥の将軍が、明日香ヤマトのテングリ(天子)であったのです。」
「それって、飛躍しすぎでは。」
「ひとは、小さなウソは簡単に指摘します。しかし、大ウソには飲み込まれてしまうのです。カメさんは、天皇号が、神武天皇から今日まで続いていると信じていますよね。しかし、天皇号は、唐が907年に滅びてからは使われなくなり、それ以来「天子」や「院」と言われていたのです。やっと、第三百済王朝の江戸時代後期に「天皇号」が復活して、外交文書の「皇帝」を「天皇」に変えたのは、昭和時代の1936年だったのです。中世・近世を通じて、「院」と呼ばれていた「過去の天皇」を、「○○天皇」と呼び変えたのは、1925年(大正14年)だったのです。」
「それって、本当ですか。学校での日本史では、日本国の天皇は万世一系で、太古より続いている、と教わった記憶があるのですが。」
「例えば、豊臣秀吉により関東の湿地帯に左遷された、騎馬民族末裔の徳川家康は、1615年大阪夏の陣で、藤原氏傀儡の豊臣家を滅ぼすと、「禁中並公家諸法度」を制定して、天皇家、藤原氏、亡命百済貴族をイジメるのですが、その法度では、「天皇」ではなく、「天子諸芸能事」から始まって、文中には、「国王」はあっても、「天皇」の文字は無いのです。そして、騎馬民族の血が流れる徳川家康の孫娘を、女帝明正天子(天皇)としてしまうのです。女帝とは、女の皇帝という意味です。701年大宝律令で定められた、祭祀に称する所の「天子」、詔書に称する所の「天皇」、そして、華夷に称する所の「皇帝」の号は、中国の唐の滅亡と供に、日本列島の歴史では、あやふやとなっていたのです。その「天皇号」と「十三の天皇の儀式」を復活させたのは、明治革命で復活した藤原氏であったのです。「天皇の謎とは、藤原氏の謎である。」とは、そのことなのです。」
「その藤原氏って何者ですか。」
「それが良く分からないのです。藤原氏の謎が解ければ、日本史の謎も解けると思います。藤原氏の出現は、645年からだと思います。そして藤原氏は、明日香ヤマトを壊滅した唐進駐軍の傀儡として、唐の律令制度を藤原氏に有利に改竄して、日本列島支配の中枢に入り込むのです。その原点は、大宝律令の「蔭位制・おんいせい」です。「蔭位」とは、三位以上の貴族の子・孫、五位以上の子に、成人すると自動的に高い位階を授ける制度です。そして、三位以上の貴族には、広義の官庁である「家」を設けることを許したのです。奈良時代の「家」とは、ただの家族単位などではなく、「公的な官庁」であったのです。この制度を利用して、藤原不比等は、自分の子息に、南家、北家、式家、そして、京家を造り、官庁の独占の布石を造ったのです。このことは、ヨーロッパの金貸しの赤い盾のロートシルトの、自分の息子にフランクフルト、ロンドン、パリ、ローマの支店を開かせた戦略と同じようです。」
「藤原氏がユダヤだとでも言うのですか。」
「断言は出来ませんが、藤原氏が発明した中臣神道の儀式の多くは、ユダヤ教儀式と酷似しているのです。」
「神道は、日本古来の宗教ではないのですか。日本神話にも、藤原氏の祖天児屋根命がいますし。」
「日本に神道が現れたのは、奈良時代です。その日本神話の創作年度も古くはないのです。日本神話が創作されたのは、藤原氏が暗躍し始めた奈良時代で、その種本は、ギリシャ神話です。カメさん、暇があったら、日本神話とギリシャ神話を読み比べてみてください。その結果を自分で判断してください。」
「それも飛躍しすぎです。どうして、古代の日本列島に、はるか遠方のギリシャ文化があるのですか。」
「文化はひとが運びます。当然、ギリシャ文化を日本列島にもたらしたのは、渡来人です。」
「では、その渡来人とは。」
「それは、秦氏です。秦氏は、古代新羅から渡来したのです。」
「新羅は、仏教国でしょ。」
「527年までは、非仏教国だったのです。漢訳仏教が、古代新羅に隆盛となるのは、528年からです。」
「527年と言えば、北九州筑紫国造磐井の反乱がありますよね。」
「「日本書記」では、日本国の内乱として描いていますが、それは、朝鮮半島南端のギリシャ・ローマ文化の古代新羅貴族が、北九州に亡命した時の、九州在住の民族との戦闘です。その、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅亡命民が、唐が支配する奈良時代に藤原氏により「秦氏」と命名されたのです。秦氏も蘇我氏も、奈良時代に発明された氏名なのです。」
「では、秦氏が、ギリシャ・ローマ文化民族であるとの証拠は何ですか。」
「古代新羅の都の慶州の古墳が、古代新羅がギリシャ・ローマ文化国であったことを証明します。」
「物品は、どこからか持ってくることもできるし、遺跡の改竄も可能です。他に証拠は。」
「証拠になるか分かりませんが、新羅系天武王朝と古代新羅には、文化的に共通点があるのです。それは、女帝の存在です。古代朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が、互いに覇権を競って対立したり、同盟を結んだりしていたのです。その三国の内、高句麗と百済には、女帝が存在していないのです。しかし、新羅では、七世紀に女帝善徳、女帝真徳、そして、九世紀には女帝真聖が即位していたのです。「日本書記」でも、七世紀の女帝推古、女帝皇極、女帝斉明の架空女帝を創作し、天武王朝では、女帝持統、女帝元明、八世紀の女帝元正、女帝孝謙、女帝称徳、そして、騎馬民族のエド時代では女帝明正、女帝後桜町が即位していたのです。女帝は、仏教文化には存在しないのです。それは、漢訳仏教思想では、女性は「穢れ」の存在だからです。女性が成仏するには、一度男に生まれ直さなければ、成仏できなかったのです。そのことからも、女帝が存在した、古代新羅と明日香ヤマト文化を引き継いだ天武王朝は、唐に実効支配されているため表面的には仏教徒を装っても、その真髄は仏教文化ではなく、ギリシャ・ローマ文化であったことが示唆されるのです。」
「では、古代新羅のギリシャ・ローマ文化は、何処から渡来したのですか。」
「それは、遠く秦帝国からです。秦帝国は、母国バクトリアの衛星国だったのです。そのバクトリアとは、アレクサンドロス大王が、インド北部を制圧し、支配下に置いた時の残存部隊が興した国です。だから、バクトリアにはギリシャ文化が継承されていたのです。インドの北部に、ギリシャ文化のバクトリアが存在していたことは、ギリシャで迫害されたプラトン一家が、バクトリアに亡命していたことからも証明できます。そのバクトリアの地が、後に、紀元一世紀に大乗仏教が発明される国際交易都市ガンダーラとなるのです。ですから、大乗仏教思想には、ギリシャ科学、文学、神学、天文学などが導入されていたのです。大乗仏教徒が、初めて仏像を創作したのは、ギリシャ彫刻の影響を受けたため、写実的なガリガリの仏像だったのです。」
「宗教の話には、ちょっとついていけません。」
「古代朝鮮半島には、ギリシャ文化が、紀元前から渡来していたのです。そして、紀元一世紀、ローマ帝国が後漢と絹馬交易を開始すると、後漢には、ローマ帝国の軍団が渡来していたのです。」
「それって証拠でもあるのですか。」
「97年後漢の和帝は、甘英をローマ領に派遣したと、歴史書にあります。そのローマ帝国軍は、ギリシャ文化を崇拝していたのです。ローマ騎士道は、ギリシャ文化からもたらされたのです。そのローマ騎士道は、古代新羅に渡来して、新羅花郎騎士道となるのです。その新羅花郎騎士団が、日本列島のローラン(浪速→難波)に渡来して、明日香ヤマトを支配し、645年唐進駐軍に敗れると、東北に逃れ蝦夷となるのです。そして、その陸奥国の新羅花郎騎士団と突厥軍団末裔が、平安時代に発生する武家源氏の祖となるのです。日本武士道とローマ騎士道思想に多くの共通点があるのはそのためです。」
「古代の日本列島に、ギリシャ・ローマ文化が存在していたことが、少し理解できました。でも、それって矛盾では。」
「何が。」
「527年古代新羅軍団が渡来して、ローラン(浪速)から明日香ヤマトに侵攻して、そこを支配するのですよね。」
「そうです。」
「だったら、越前から琵琶湖を下って樟葉から明日香ヤマトに侵攻し、明日香ヤマトを支配した突厥進駐軍との存在が矛盾です。その異民族軍団の明日香ヤマトの支配形態をどのように説明するのですか。」
「「日本書記」での説明では、継体天皇が越前から樟葉に侵攻し、その周辺民族を平ら上げるのに20年かかり、その後、飛鳥大和に入り、筑紫国造磐井の乱の指揮を執り、崩御したことになっています。そして、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇、敏達天皇、用命天皇、崇峻天皇、そして、593年女帝推古天皇が即位し、飛鳥大和を支配したことになっています。そして、女帝推古天皇は、607年小野妹子を隋に遣わしたことになっているのですが、倭国は、600年にも隋に使者を送っているのです。しかし、飛鳥大和の歴史を記述している「日本書記」には、その600年遣隋使の記事はないのです。カメさん、何故だと思います。」
「分かりません。」
「それは、明日香ヤマトの政治形態が、「隋書」に書かれているからです。その「隋書」では、「倭王は、姓は阿毎、字は多利思比弧、号は阿輩鷄弥、使を遣わして闕に詣らしむ。」とあり、そして、倭国の使者の奏上を、「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざるとき、出て政を聴き、跏趺して座す。日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんという。」、とあるのです。これってすごいよね。明日香ヤマトの王の名は、女帝推古天皇ではなく、アメ・タリシヒコと言っているし、跏趺とは胡坐のことで、騎馬民族チュルク系の座り方です。そして、明日香ヤマトの政は、天に委ねている、つまり、太一の北極星を祀っていたことを示唆している。」
「それがどうなんですか。」
「日本初の天武天皇は、伊勢に道観を建て、北極星の太一を祀っていたのです。その孫の長屋王は、北極星を祀ったことにより、鬼道を行ったと、729年藤原氏により謀殺されていたのです。「隋書」から推察すれば、600年の明日香ヤマトでは、天、つまり、太一の北極星を祀ることが政であったのです。」
「夜、兄が天を祀るのですよね。兄は、北極星を祀るから騎馬民族と理解できるのですが、そしたら、昼の弟とは誰なのですか。」
「日とは、太陽です。太陽を祀るのは、ミトラ教です。中国では、そのミトラ教は、景教と呼ばれていたのです。そのミトラ教は、ローマ帝国軍の軍神であったのです。カメさん、古代新羅の軍団が、花郎騎士団って言いましたよね。その「花」とは、「ミトラ」の借字です。花郎とは、ミトラ教徒の意味です。」
「すると、「隋書」によれば、明日香ヤマトは、夜、騎馬民族の突厥軍団が政を行い、そして、昼になると秦氏の花郎騎士団が政を行っていた、と述べていると解釈できますね。」
「そうです。だから、藤原不比等が、600年の遣隋使の出来事を「日本書記」には記述しなかったことがわかるのです。それに、その600年の明日香ヤマトには、女帝推古天皇など存在していなかったこともバレてしまうから。平安時代の多人長が、サイファー式暗号解読法により、「古事記」で女帝推古天皇の存在を否定していたことも、「隋書」の記述が証明しているのです。」
「仏教を隆盛させた聖徳太子を摂政とした、女帝推古天皇が架空の人物だとしたら、明日香ヤマトは騎馬民族文化とギリシャ・ローマ文化に溢れていたわけですね。しかし、飛鳥大和には、聖徳太子建立の七寺など、沢山の仏寺が存在していたことは、どのように暴くことができるのですか。」
「それは、以前言ったように、江戸末期の伊勢をみればわかります。江戸末期に、伊勢が宮寺から神道テーマパークに改竄されたように、奈良時代に、明日香ヤマトは、景教・道教から仏教テーマパークに改竄されたのです。」
「その改竄者は誰ですか。」
「藤原氏一族です。」
「その藤原氏一族による改竄は、何故告発されなかったのですか。奈良時代はともかく、明治維新は、1868年として、約150年前、世代でいえば、四五代前ですよね。何故ですか。」
「史実の隠蔽は、色々行われていますが、参考になるのは、「清盛公のかぶら」があります。」
「その「かぶら」って何ですか。」
「強いて言えば、賎民により組織された「親衛隊」です。平清盛は、1167年太政大臣となるのです。しかし、その祖父正盛は賎民であったのです。正盛は、京を流れる加茂川の死体が流れ着く処、つまり、髑髏ヶ原を拠点に勢力を伸ばしていた賊の棟梁だったのです。その正盛を、朝廷の官僚機構を支配する藤原氏に対抗していた白可上皇が、私兵として雇うわけです。これが、「平家」の始まりです。その平正盛の武力による活躍により、白河上皇は、藤原氏に対抗すると、今度は、藤原氏が源氏武士を私兵として雇うのです。この対立が後に、「源平合戦」となるわけです。」
「平安時代末期を支配した「平家」は、賎民出自だったのですか。でも、清盛の父忠盛は、内昇殿を許されていますよね。」
「「平家」の祖は、アラブ系海洋民族だから、船による海戦が得意だったのです。内昇殿が許されたのは、その海戦技術により、瀬戸内海の海賊を平定した功績です。「平家」が京で勢力を伸ばすと、その根拠地の「髑髏ヶ原」も「六波羅」と改名されるのです。そして、京の亡命百済貴族が避けていた、髑髏ヶ原で行われていた祇園祭りも、京の祭りとなっていくのです。しかし、太政大臣平清盛の時代となっても、その「平家」の実態を知っている者がいたのです。更に、「噂」には蓋ができません。そこで、平清盛は、「かぶら」を街に放ち、「平家」の悪口を言う者の家を破壊したりして、口封じをしたのです。このことにより、「平清盛」は、白河上皇の「ご落胤」となって、今日に伝わっているのです。」
「「平家」がアラブ系海洋民族を祖としていたのですか。すると、平安時代、伊勢・尾張を支配していたのが、「おミャーサン」と八母音を話すアラブ系海洋民族だとしたら、戦国時代の織田信長もアラブ系ですか。」
「そう考えられるのが、1568年織田信長が、足利義昭を奉じて入京すると、「余部」を支配下に置いて保護するのです。その「余部」とは、「海部」で、漢訳仏教徒に、賎民としてイジメられていた海洋民族であったからです。」
「だから、織田信長は、比叡山延暦寺の僧侶全員を打ち首にしたわけですね。代々の民族の恨みですか。その「清盛公のかぶら」が、明治革命後の歴史を隠蔽したことと、何か関係があるのですか。」
「明治新政府も、歴史改竄の隠蔽工作として、「かぶら」を使ったのです。」
「その「かぶら」とは何ですか。」
「ひとつは、1889年皇室典範の発布です。皇室の歴史の封印です。これにより、皇室の歴史を調べることが、法律上禁止されたのです。しかし、法を犯すものは何時の時代にもいます。そこで、「明治天皇のかぶら」が登場するのです。それが、カメさんが越谷のヤクザさんの家で見た「神農皇帝」ではなく、藤原氏の神である「天照大神」を祀る「二束わらじ」の「役座」です。その「役座」により、皇室の史実を口外する者を脅すわけです。そして、「落語家」が動員されて、「明治天皇物語」を寄席で宣伝したのです。ですから、「明治天皇」のイメージは、役座の威圧と落語家の話術により創られていたのです。」
「それって本当ですか。」
「江戸末期や明治初期の一般庶民は、「天皇」などの存在を知らなかったのです。もちろん、江戸時代では、漢訳仏教が神道を支配する「宮寺」であったので、純粋に神道儀式で運営される「ジンジャ・神社」なども知らなかったのです。そこで「明治天皇」のプロパガンダとして、日本各地に国家神道による「ジンジャ・神社」が建てられて、その「ジンジャ・神社」を中心に祭りがおこなわれていくのです。その祭りの運営には、「役座」も参加していたのです。」
「現在では、役座は祭りから排除されているのに、何故、明治時代には、役座が祭りに参加していたのですか。」
「役座のルーツは、平安時代の放免まで遡れるのです。放免は、陸奥国の蝦夷捕虜です。京都の治安・公安警察を司る検非違使は、その放免を利用して、京都の治安・公安警察をおこなっていたのです。」
「何故、陸奥国の蝦夷捕虜を治安・公安警察に利用したのですか。」
「京都の地は、794年平安京が遷都される前は、秦氏の支配地だったのです。その秦氏の支配地を、唐進駐軍の軍事武力を背景に、百済系桓武天皇が乗っ取ったのです。そして、亡命百済貴族は、その京都を防衛するために、秦氏のミトラ教の祭祀場があった比叡山に、延暦寺を建立するのです。古代の寺は、仏像を祀るだけではなく、軍事砦でもあったのです。つまり、比叡山延暦寺は、山城でもあったのです。その唐の軍事力を背景に、秦氏などのまつろわぬ先住民を、山背国(山城国)の都から河原や山奥に追放するのです。百済系桓武天皇にまつろう秦氏は、氏名を秦氏から惟宗氏に変えて、仏教文化の平安時代を生き延びて行くのです。河原者や遊芸者となった秦氏末裔は、闇の世界を築いて、平安時代を生き延びて行くのです。しかし、朝廷に逆らい、都を追われた蝦夷の武人は、山に篭り盗賊となり、京都を襲うわけです。その盗賊取締りに、平安王朝は、放免を利用したのです。」
「放免は、私設ガードマンというわけですか。」
「その放免には、別の仕事があったのです。それは、「もり・神社」での、怨霊鎮めです。桓武天皇は、天武王朝の血が流れる井上皇后や他戸皇子や実弟早良皇子を謀殺していたのです。京都の天変地変や盗賊の仕業は、それらの怨霊によると、平安貴族は信じていたのです。そこで、騎馬民族の死者が眠る古墳を破壊して空き地とした「モリ・神社」で、蝦夷の放免による武芸で、怨霊を鎮めていたのです。その時に発明されたのが、日本刀と牛の角を付けた冑です。雄牛は、ミトラ教では、死と再生を繰り返す太陽神の化身です。その牛の角を付けた冑の武芸者が、後に、祭祀道具の日本刀と鎧兜で武装した「武士」となるのです。ですから、祭祀道具の日本刀が、武士の魂と呼ばれて行くのです。「モリ・神社」の怨霊を鎮めていたのが、武士の祖です。その武士を祖とするのが、役座です。だから、「神社」が「モリ」と言われていた、明治初期までは、「神社」での怨霊を鎮める行事を裏で仕切るのは、「役座」の仕事であったのです。」
「では、何故、現在では、役座が排除されているのですか。」
「詳しくは分かりませんが、役座の存在が、藤原氏に不都合になったからでしょう。役座=暴力団のキャンペーンは、今のところ成功しています。しかし、役座と暴力団とは、同じ暴力を振るうにも、根本的に異なるのです。役座には、日本武士道が流れているのです。それは、「任侠」です。弱い立場のひとを護るために使う暴力と、己の私利私欲を満たすために使う暴力とでは、根本的に異なるのです。藤原氏は、「明治天皇のかぶら」を見捨てたため、天皇の謎、つまり、藤原氏の謎を封印するための「仕掛け」を外してしまったのです。だから、「明治天皇のかぶら」が存在しない現在では、「明治天皇すり替え説」まで、堂々とネットで語られてしまうのです。」
「ナベさんも、そのうちのひとりでしょう。明治時代であれば、ナベさんの家は「明治天皇のかぶら」により打ち壊しですね。でも、役座が、何故、「明治天皇のかぶら」になったのですか。役座は、「神農様」を祀る道教系で、天皇家は漢訳仏教を祀る百済系でしょ。北魏の時代からの敵対関係者がどうして協力できるのですか。」
「明治革命のドサクサで、天皇が北朝系から南朝系に摩り替わったからです。詳しくは、ネットで調べてください。藤原氏は、日本列島を支配するため、戦国時代にイエズス会と結託して、美濃のゲリラ隊長の織田信長を傀儡として、比叡山延暦寺軍団や一向宗軍団を壊滅したように、明治革命で、薩摩の賎民軍団と長州の賎民軍団により、第三百済王朝の江戸幕府を壊滅するのです。そして、その第三百済王朝を思想的に支えた天台宗系仏教組織を壊滅するために、闇の世界を支配していた役座組織を利用したのです。それは、役座は、鎌倉時代から仏教組織に、賎民としてイジメられていたからです。」
「仏教は貧民弱者を救う、平和的な組織ではないのですか。」
「誰がそのように言っているのですか。日本列島では、645年中国製武器の長刀で武装する僧兵に護られた僧侶は、砦の仏寺で、何をしていたと思いますか。」
「仏像を祀り、お経を読んでいたのでは。」
「仏教が一般民の葬儀を行うのは、第三百済王朝の江戸時代からです。その葬式儀式も、仏教オリジナルではないのです。例えば、葬儀後、49日は、魂は死者の家の軒下に居座ってから、あの世に旅立つ、と説教されていますよね。その49日の魂の旅立ち思想は、中国道教の「中陰説」からの租借なのです。」
「その「中陰説」って何ですか。」
「神仙思想の道教では、死者の行方が決まるまでの49日間を中陰と言っていたのです。更に、日本列島に根付いた漢訳仏教思想と、北インドに誕生した釈尊が唱えた教えは、根本的に異なるのです。大乗仏教から、中国で変身した漢訳仏教には、極楽浄土思想や西方浄土思想など、あの世の存在があります。しかし、釈尊の教えには、あの世はないのです。あの世がないから、当然、魂などもないのです。それは、カースト制度を発明してインドを思想支配するバラモン教に対抗したのが、釈尊の教えであるからです。その基本は、そのバラモン教の輪廻転生思想から脱却することです。その答えが、人間と死者との中間で暮らすことです。それが、乞食して非人として生きることです。釈尊は、この世は互いに関係しあって成り立っていると考え、それを「五蘊」としたのです。その「五蘊」とは、色(肉体)、受(感じること)、想(思うこと)、行(意思)、識(判断すること)です。「五蘊」は、五つの要素で成り立っているから、そのひとつである「色・肉体」がなくなってしまえば、全てのものがなくなってしまうのです。この「五蘊」思想により、バラモン教が唱える生死を越えて替わらない非物資の「アートマン」思想を否定したのです。」
「なんだか、難しすぎて理解不能です。」
「釈尊は、霊魂の存在を否定していたのです。しかし、漢訳仏教では、釈尊の教えを百八十度変えて、霊魂の存在を肯定して、その霊魂を祀る事をビジネスとしているのです。」
「そう言われると、敵対する道教思想を取り入れたり、釈尊の教えを捻じ曲げたり、漢訳仏教が何を基本の宗教が分からないですね。」
「漢訳仏教が、日本列島に渡来した時期も謎なのです。」
「ナベさんが言うには、「仏教伝来538さん」の飛鳥時代というのはウソでしたよね。そもそも、飛鳥は明日香で、仏教文化ではなく、騎馬民族・オリエント文化なのでしょ。」
「藤原氏には謎が多いのですが、漢訳仏教にも、それ以上に謎が多くあるのです。まず、渡来時期が分からない。だれが招いたかも分からない。そして、その漢訳仏教が、日本列島で何をしていたのかも分からないのです。」
「仏教思想を布教していたのでは。」
「日本列島原住民に仏教の教えを広めるのが目的ならば、何故、梵語(サンスクリット語)で、教えを唱えるのですか。戦国時代のイエズス会の宣教師は、日本語辞典を編纂して、たどたどしい日本語で布教していたのに比べれば、漢訳仏教は、現在でもお経は、サンスクリット語です。不思議だとは思いません。」
「そう言われれば不思議ですね。意味の分からない外国言葉では、仏教思想など布教できるはずはないですよね。だとすると、漢訳仏教の何に日本列島の貴族は惹かれたのですか。」
「酒と女と博打です。」
「ナベさん、冗談でしょ。」
「漢訳仏教は、645年に明日香ヤマトに侵攻してから、織田信長の仏教軍団壊滅まで、治外法権という特権で、日本列島に仏教王国を築いていたのです。その闇の仏教史を解読できれば、藤原日本史の改竄実態を解明することが出来るのですが、残念ながら、その史料はありません。あっても、鎌倉時代の京都高雄の神護寺の張り紙に、酒・女・遊芸者を寺に入れてはならぬ、とあったことが伝わっているだけです。」
「漢訳仏教組織は、自己に不利な史料は焚書したのでしょうか。」
「今に残る仏教史料は、賎民の史料と仏教の光を称える史料だけです。しかし、反仏教の織田信長が、高僧を山の頂に上げて、麓に薪を積み上げて焼き殺したり、比叡山延暦寺の僧侶全員を、「欺瞞者ども」と侮って斬首している事実からすると、中世から近世にかけて漢訳仏教は、非仏教徒に相当な弾圧をしていたことが示唆されるのです。」
「ナベさんは、漢訳仏教組織が、藤原氏と同じに、闇の支配者だとでも言うのですか。」
「漢訳仏教は、紀元一世紀の国際交易都市ガンダーラで発明された大乗仏教を基本に、中国で発明されたものです。法外なお布施をもらう為の戒名など、大乗仏教にはありません。戒名は、漢訳仏教のオリジナルなのです。大乗仏教は、一世紀頃、ローマ帝国と中国後漢との絹馬交易に携わる国際交易商人達と供に、中国大陸に渡来したのです。その頃の後漢では、上流階級は儒教が盛んで、庶民は土着宗教だった道教です。儒教は、格式を重んじる宗教で、「礼に始まり、礼に終わる」と言われ、宮廷儀式から庶民の儀式まで、儒教儀式が浸透していたのです。その儒教の儀式を真似て、漢訳仏教も色々な儀式を発明するのです。そのひとつが、釈尊の教えである「戒」を守った受戒者に与える「戒名」です。中国で発明された戒名は、中国での漢字一字文字ではなく、二文字で表したのです。カメさん、何か思い当たりません。」
「漢字二文字表記は、確か、713年好字令で、それまでの日本列島の地名・人名が漢字一文字や、漢字アルファベットの万葉仮名数文字で表されたものを、日本語表記として漢字二文字にしたのですよね。」
「そうです。それまでは、貴族階級は、中国式に漢字一文字で、オリエント系は、ワカタケルなどのように、漢字アルフアベットにより多くの文字で名前や地名を表していたのです。その漢字二文字の戒名を与えるための戒の正式の行法を伝えたのは、藤原日本史の根本史料の「日本書記」での飛鳥時代の552年ではなく、奈良時代の753年(天平勝宝5年)来日とする、鑑真によるのです。」
「すると、唐が認める戒を受けていないとすれば、それまでの僧侶は、正式の僧侶ではないということですか。」
「そうとも考えられますね。」
「だったら、645年に、仏教興隆の詔を発したとある「日本書記」の記述は、何を意味していたのですか。」
「分かりません。飛鳥大和時代から奈良時代にかけての歴史は、謎だらけですから。飛鳥と奈良時代に、白鳳時代が挿入されていますが、その白鳳号は、「日本書記」にも記述がないのです。その白鳳号は、六世紀頃から朝鮮半島全土が仏教文化に染まった時の年号なのです。藤原氏の他に、藤原日本史を改竄したひとが存在していたのです。不思議出すよね、日本史は。」
「そうですね。不思議の国、ニッポン。ナベさんの歴史解説で、オレの前頭葉はグシャグシャです。」
「今日はこれまでにしましょうか。では、二三日で、レポートをメールしますから、よろしく。そうそう、カメさん、「たそがれ」が、騎馬民族の突厥語だって知っていました。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
「たそがれ」が、大和言葉ではなく、突厥語だって、オレの脳味噌の処理能力は、ナベさんとのチャットを理解するために、限界を超えていた。
軍事都市明日香ヤマトへ
オレは、今、出雲大社の巨大注連縄の前にいる。昨日、と言っても今日の早朝までの、田辺さんとのチャットで、気になっていたことを思い出し、朝一の飛行機で、出雲大社に来たわけだ。
それは、以前、古本屋で手に入れた歴史書には、「梁書」に五世紀頃、出雲地域に文身国があった、との記述が気になっていたからだ。文身とは、身体に刺青(いれずみ)を施すことだ。「梁書」では、五世紀の出雲には、刺青をした民族の国であると認識していたのだ。身体に刺青をするのは、どうみても、南方系の民族だ。五世紀の出雲は、南方系民族の国ではなかったのか、とオレは思っていたのだ。
しかし、学校で学習した出雲の歴史は、大昔、オオクニヌシノミコトが、飛鳥大和朝廷に国譲りをしたことぐらしか覚えていなかった。でも、田辺さんとのチャットで、今まで常識という覆いで封印されていた日本史の疑問が、一気に噴出したようだ。
今まで、「日本書記」や「出雲国風土記」を史実と信じて疑わなかった。しかし、「日本書記」は、奈良時代の720年成立、そして、「出雲国風土記」は、733年だ。それらの書籍は、713年好字令が発令された後に創作されたものだ。だから、それらの書籍からは、713年以前の歴史を知ることはできないのだ。
何故ならば、それらの書籍は、漢字二文字により、地名・人名が記述されているからだ。その713年以前の日本列島には、漢字をアルファベットとして使用した民族がいたからだ。田辺さんは、「たそがれ」は、突厥語だと言っていた。
突厥語は、膠着語のウラル語系だ。ユーラシア大陸の騎馬民族の言葉だ。日本列島には、漢語が渡来する前には、異なる言葉を話す多くの民族がいたのだ。万葉語とは、万国語のことなのだ、と思い始めると、出雲の風景も異なって見えてきた。ここには、水田稲作技術を持って、黒潮に乗って渡来した、青銅器の武器で武装した南方系の民族も暮らしていたのだ。
オレは、出雲大社をカメラに収めながら、何故だ、の問いを発していた。日本の神社には、多くの謎がある。鳥居の由来もわからないが、その建築物の由来も分からない。でも、出雲が文身国であったならば、その文化も南方系だ。そう言えば、昔、インドネシアに取材旅行に行った時、神社本殿のような建物を見て、不思議に思ったことがあった。何故、神社本殿は、南方系高床式なのか。何故、神社本殿の屋根に、海洋民族を暗示する賢魚木(かつおぎ)を乗せているのか。神社を祀る神道は、肉・魚を穢れ物としていたのではないのか。オレは、シャッターを切りながら、自問自答していた。
境内はだいぶ賑やかになっていた。バスツアーの観光客が、列を成して境内を散策する。大きな看板の前には、観光客に囲まれてガイドさんがいた。ガイドさんが、看板の絵図を示しながら説明している。
「今の建物は、高さ24mでございます。古代の建物は、48mと言われております。太古では96mもあったようです。その建物の柱が最近発掘されて、その柱の模型があちらにございます。」
ガイドさんが指し示した方向に、つい最近発掘された三本柱の実物大の模型があった。想像していたより大きかった。
有名建築会社の考察の発表で、高さ48mの神殿の存在は、多くの人に認められているようだが、でも、オレは、その超高層神殿の存在を、以前から疑っていた。
田辺さんの神社発祥の解説を聞いてから、更に、その疑いは高まった。神社の始めは、710年平城京遷都のおり、藤原不比等が、山背国の山階寺を奈良に移し、興福寺と改称した後、藤原不比等が春日明神を、藤原氏の守護神として勧請したと、寛治7年(1093年)「扶桑略記」にあるように、古代からではなく、奈良時代からなのだ。
出雲大社境内から発掘された三本柱の年代測定も、平安時代末期から鎌倉時代を示していたようだ。だとすると、46mの超高層神殿は、平安時代末期に存在していたのか。すると、「日本書記」で云う、出雲の国譲りの条件で建立したとする出雲大社とは、何んなんだ。オレは、更に、出雲の歴史に疑問を持った。
オレの今度の調査のひとつに、荒神谷遺跡見学があった。タクシーを拾うと、直行した。
「お客さん。取材ですか。」
人のよさそうな初老の運転手が、バックミラーでオレを観察しながら言った。
「そう見えますか。」
「カメラマンバックでしょ。それ。」
「そうですけど。」
「だいたい、カメラマンバックで、荒神谷遺跡を指定するのは、取材の方ですから。そうでしょ。」
オレは、今朝までのチャツトのため眠いので、運転手さんの問いかけを無視して、眠り込んだ。
「お客さん、着きました。」
オレは、グッスリ寝込んでしまったようで、だいぶ時間が掛かったように感じたが、十分程だった。
「そこの荒神谷博物館のわき道を辿り、ハス池の左側中腹が、遺跡です。」
「ありがとう。」
「この後のご予定は。」
「二三枚写真撮ったら、空港です。」
「だったら、そこの駐車場で待っていますよ。メータ切っておきますから。」
「では、お願いします。」
オレは、運転手さんが教えてくれたように行くと、左手側の斜面に遺跡があった。思ったよりも小規模だ。これが、日本全国で出土した300銅剣を上回る、358銅剣も埋葬されていた遺跡か。オレは、周辺の風景を写真に収めた。
「どうでした。」
運転手が、メーターを倒しながら言った。
「ええ、まあ。」
オレは、睡眠の続きをしたいので、曖昧に答えたが、運転手さんは、話好きのようだ。
「この間乗せたお客さんが言っていたのですが、出雲の歴史は、「日本書記」とだいぶ違うようですよ。」
「オオクニヌシが、大和朝廷に国を譲ったのでしょ。それが違うのですか。」
「お客さん、「出雲国風土記」っての知っていますよね。その風土記には、オオクニヌシが登場していないんです。それに、出雲大社も、この辺じゃ昔から、杵築大社なんですよ。なんで、出雲が、イズモと読めるのでしょ。」
「そう言われれば、出雲がイズモとは読めませんよね。」
「飛鳥もアスカとは読めませんでしょ。更に、安曇も、アズミとは読めませんよね。諏訪も、何故、スワなんでしょうか。お客さん、不思議に思いませんか。」
「そうですね。呉音でも、漢音でも読めませんね。」
「この間のお客さんが、出雲は、弥生中期まで、北九州と新潟を結ぶ国際交易中継点といっていましたよ。糸魚川では、縄文の昔っから翡翠が採れたって。その翡翠を中国へ持っていくと、高価に取引ができたようです。」
「弥生時代って今から2000年も前ですよね。」
「その後、朝鮮半島から産鉄民族が、出雲に渡来して、青銅器武器の弥生民族を征服し、その征服された民族が、信濃に逃れた、って言ってました。」
「そうですか。」
「お客さん、ヤスキ節って知っていますか。」
「どじょうすくいですか。」
「そのどじょうすくいのほんとの意味は、土の土壌です。川床の土をすくっていたのが、どじょうすくいの、ほんとの意味です。」
「何のために、川の土をすくうのですか。」
「川砂鉄ですよ。島根では、製鉄をタタラ製鉄って言いますけどね。」
「そうですか。」
「そのタタラ製鉄の、タタラって、ユーラシアのタタールからきたんです。」
「出雲には、南方からの海洋民族の後に、北方のユーラシアから騎馬民族が渡来していたのですか。」
「そこまでは知りません。この話、ぜんぶ、この間乗せたお客さんの受け売りです。運転手の独り言です。忘れてください。」
「運転手さんは、東京の方ですか。」
「何故ですか。出雲の者ですが。」
「言葉が東京弁だから。」
「出雲生まれの両親が、出雲訛りを嫌いましてね。小さい私を、東京の親戚に里子に出していたんです。お客さん、知っています。出雲弁は、東北地方と同じ、ズーズー弁なんですよ。」
「出雲と東北とは、歴史的につながっていたのですか。」
「この間のお客さんが、出雲大社の大木遺跡の話をしたのですが、その時、日本海沿岸には、巨木文化があった、と言っていましたね。その日本海沿岸の巨木文化を、信濃に伝えたのが、海洋民族の安曇族で、その名残が、諏訪大社の御柱だって言っていました。」
「そのお客さんってどのような人でした。」
「だいぶお年のひとで、学者タイプでした。日本海沿岸の巨木文化って何なんですかね。三内丸山遺跡には、巨木で作られた見張り台があったようですが、海岸だと、灯台ですかね。」
「運転手さんも、そう思いますか。オレも、以前から、出雲大社の超高層神殿といわれている建築物は、古代の灯台だと思っていたんです。意見が合いますね。」
「楽しいお話も、此処でお終いですね。空港に着きました。」
オレは、話に夢中になっていたので、車外の景色が目に入らなかったのだ。
オレは、昨日取材撮影した写真を、四畳半いっぱいに敷き詰めると、四つ切のモザイク写真を俯瞰した。モノクロ写真の良いところは、カラー写真が現実世界の切撮りとすると、想像世界へトリップ出来ることだ。色がないのに、心に思った色がそこにはある。時間は、過去に自由に退行する。モノクロ写真は、カラー写真に比べ、想像力を描きたてるのだ。
御埼山から望んだ日本海の波が洗う海岸写真から、出雲大社、荒神谷遺跡までの写真の流れを辿ると、そこにひとつの古代史ストーリが浮かんだ。
オレは、急いで暗室へ行き、赤色ランプを点けて、田辺さんが送ってくれたタイマーのスイッチを押した。20ヘルツで、赤と白が点滅する、脳内のドーパミンが一気に多量に放出されると、オレの視界が突然真っ白に、そして、フェードインした像が徐々に現れた。
オレは、昼下がりの海を見渡す小山にいた。沖合いには多数の帆を立てた外洋船が見えた。徐々に近づいて来る船の船員が、大きな赤旗を振っている、船員が旗を振る方向に目を遣ると、海岸近くに、巨木で組み上げられた、見上げるように大きな櫓があり、その天辺の見張り台にいる者も、大きな赤旗を振っていた。やがて、船は、入り江の港に着くと、槍を持った男に急き立てられるように、綱で繋がれた刺青をした多くのひとが下船した。その光景から、その船は、南の国から来た奴隷船と直感した。
空になった船には、奴隷達が、生糸、翡翠、毛皮、昆布やアワビなどの海産物を運んでいた。やがて、船は、南に去った。ここの港は、国際交易の中継港のようだ。
場面は、急に展開した、入り江の奥の小山の前に、オレは居た。金ぴか王冠を被り、きらびやかな剣をベルトに帯びた、筒袖にズボン姿の男を前にして、裸同然の刺青をした多くのひとが、膝まづいている。やがて、刺青男達は、武装解除した剣を小山の中腹に埋めた。その後、多くの刺青男達は、船に乗り、北を目指して去っていった。それは、正に、国譲りの光景だった。
オレは、前頭葉に、鈍い痛みを感じた。すると、そのセピアがかった映像は、フェードアウトし、真っ暗となった。やがて、瞼に赤白の点滅する光を確認すると、オレの意識は、現実の世界に戻った。
「カメさん、レポートありがとう。やはり、出雲に行ったのですね。」
オレは、今日見た出雲の幻視についてのコメントを田辺さんからもらいたかったので、レポートにして、メールしていたのだ。
「ナベさん、出雲の歴史には深い闇があるようですね。」
「カメさんも、そう思いますか。私も、以前から出雲には、「日本書記」が述べている歴史と異なる歴史があると感じていたのです。カメさんの幻視レポートを読んだら、そのことを確信しました。出雲弁と東北弁が同じルーツであることは、画期的です。古代北関東から東北以北は、アイヌ民族が支配した地域でした。それだったら、アイヌ民族は、ズーズー弁かといえば、そうではないのです。カメさんのレポートは、アイヌ民族が支配した北関東から東北地域にかけて、出雲から渡来した民族がズーズー弁を広めたことを示唆します。」
「出雲弁は、イ→え、シ→す、ヒ→ふ、と音韻変化するのですよね。」
「そうです。民族言葉は、民族のDNAだから、代々継承されていくわけです。だから、征服民族は、被征服民族を抹殺するために、文化の基である民族言葉を抹殺するわけです。明日香ヤマトにも、多数の民族言葉があったはずです。しかし、713年藤原不比等らによる、文化大革命により、明日香ヤマト言葉は、漢字二文字表記に改竄されてしまったのです。」
「タクシーの運転手さんが、「出雲国風土記」にはオオクニヌシノミコトが登場していないといっていましたが、本当ですか。」
「藤原氏が、645年古代史料を焚書してしまったので、出雲の歴史を知るには、720年「日本書記」、733年「出雲国風土記」、812年「古事記」の三書しかないのです。その「日本書記」では大己貴神(オオナムチのカミ)、「出雲国風土記」では大穴持命(オオナムチのミコト)、「古事記」では大国主神(オオクニヌシのカミ)、と物語の主人公の名が、それぞれ異なるのです。そして、後世の歴史物語改竄により、オオクニヌシノカミの名前は、大己貴神・大物主神・大地主神・八千矛神・葦原醜男神・大国魂神・顕国魂神・奇甕魂神・広矛魂神・所造天下大神・伊和大神・幽冥事知食大神などの名前が創作されてしまうのです。カメさん、これってどう思う。」
「考えられることは、出雲の支配者の名前の隠蔽ですね。」
「出雲物語のハイライトは、国譲り物語です。その国譲りの条件としての大社建立の申し出も、「日本書記」と「古事記」では、異なるのです。「日本書記」では高天原からの申し出となっているのに対して、「古事記」では大国主命が言い出しているのです。そして、不思議なのは、全国に数ある神社(モリ)の中で唯ひとつ、出雲大社についてだけ、その造営のいきさつを語っていることです。」
「古代の神社(モリ)って、神様を祀るのではなく、前政権の宗教施設を封印した施設ですよね。藤原氏にとって、神社(モリ)の歴史は知られたくないことですよね。それが、何故、「日本書記」に書かれているのですか。」
「推測ですが、出雲には、藤原氏が抹殺・隠蔽しなければならない歴史があったからです。「日本書記」では、天照大神につかわされて下界に降りてきた武甕槌神ら二柱の神は、出雲国の五十田狭(いたさ)の小汀にて外交折衝をおこない、天照大神の第二子の天穂日命を始祖として、代々「出雲国造」となり国譲りされ、大和朝廷の支配下となった、としています。しかし、「古事記」では、健御雷ら二柱の神が、大国主神を前にして十拳の剣を伊那佐(いなさ)の浜に突き立てて、出雲の国を譲り渡すよう強談判にでているのです。その談判に対して、大国主神は、二人の息子に尋ねると、兄は出雲をあげてしまいなさいと言って神隠れしてしまったが、弟健御名方神は戦い挑んで負けてしまい、科野(しなの)の国の洲羽海(すわのうみ)まで逃げて行き、洲羽の神となった、と述べているのです。カメさん、この「古事記」の物語をどう思う。」
「ナベさんが、「古事記」は、「日本書記」の物語を否定するために、平安時代初期に書かれた書物であると言っていたことから、出雲を支配した民族は、「日本書記」のように交渉で国譲りされたのではなく、「古事記」が述べるように、剣の力で奪い取ったのでしょう。そして、出雲の地を追われたズーズー弁の出雲民族は、信濃のスワに逃亡し、神となり、そこを支配したというわけですね。出雲から信濃への広域移動は、信濃の大王わさび農園の八面大王に続く物語ですね。レポートにも書いたように、日本海沿岸巨木文化と海洋民族との関係も考えられますね。」
「カメさん、佐渡おけさ音頭のルーツを知っていますか。」
「知りません。佐渡おけさと出雲と関係があるのですか。」
「佐渡おけさ音頭のルーツは、江戸時代に北九州で流行した「ハンヤ節」が、北前船により小木港に上陸し、鉱山で仕事唄として歌われるようになると、「ハンヤ」が「おけさ」と呼ばれるようになり、島全体に広まると「ハンヤ節」から「佐渡おけさ」に統一されて今日に至っているのです。その小木港から本土に渡るルートに越後出雲港があるのです。」
「越後出雲と出雲が関係あるのですか。」
「カメさん、世界遺産として有名になった石見銀山って知っていますよね。その出雲の先の石見と、佐渡の石見とは、古来から交流があったのです。日本海沿岸は、縄文時代から、海洋民族が国際交易のため、外洋船で行き来していたのです。藤原氏は、このことを隠蔽したかったのです。「出雲国風土記」には、出雲周辺だけではなく、高志(北陸)、因幡国(鳥取)、筑紫(九州)だけではなく、新羅(朝鮮半島)までもの記述があるのです。出雲の国際性は、日本列島を孤島とする藤原日本史では、抹殺すべき歴史であったのです。」
「発掘された遺跡によれば、出雲と同じに、明日香ヤマト文化も国際性豊かであったようですね。」
「日本の歴史教育の不思議は、日本史と世界史を別々に分けて教えていることです。そして、紀元一世紀から平安時代までを「古代」、鎌倉時代から室町時代までを「中世」、そして、戦国時代から江戸時代までを「近世」と教えていることです。その日本の古代と言われる時代、ヨーロッパではローマ帝国の繁栄があり、その後、封建制の時代になっているのです。そして中国大陸では後漢・魏呉蜀の三国時代・五胡十六国時代・南北朝・隋・唐・北宋・金・南宋が支配国としてヨーロッパと絹馬の国際交易をおこなっていたのです。」
「藤原日本史によれば、神功皇后が新羅を征伐する、201年までは、天孫族が日向に天降った日本列島の住民は、異民族の国の存在も知らない孤島であったということですね。」
「藤原氏の創作した「日本書記」を史実として信じれば、何処からともなく渡来した天孫族の後裔は、201年までは外界の世界を知らなかったことになります。しかし、紀元前からの縄文時代から、北の岩手県久慈では琥珀が産出され、バルト海沿岸との琥珀ロードが存在していただけではなく、新潟県糸魚川上流から産出された翡翠は中国皇帝で珍重されていたのです。更に、奈良県宇陀では朱砂が産出され、三輪山麓のイワレでは、異民族による沈黙交易がおこなわれていたのです。」
「では、何故、藤原氏は「日本書記」を創作して、201年まで日本列島は孤島であったと「ウソ」を述べているのですか。」
「色々な考え方がありますが、強いて言えば、藤原氏が海外から渡来した、明日香ヤマトを支配した民族と異なる、異民族であったからです。」
「海外と言うと、何処からですか。」
「縄文時代から続く日本海沿岸の海洋巨木文化を、奈良時代ではなく、平安時代に建立された出雲大社なる建築物で隠蔽している事実からすると、南方からの渡来が考えられます。」
「具体的に言うと、何処ですか。」
「南インドのマラバル沿岸です。」
「その証拠とか、根拠は何ですか。」
「弥生時代に、日本列島に水田稲作が発生するのです。水田稲作は、陸稲作に比べて、作業が複雑です。それは、水田稲作は、土の囲いを作り、その囲いの中で人工的に洪水を起こし、そして、その水を抜き、干潟を造る作業だからです。元来、水田稲作は、定期的に氾濫する河口湿地帯がルーツであったようです。その水田稲作作業で使われる、「アゼ」「ウネ」などの言葉が、南インドで使われていた「タミル語」であるからです。このタミル語を使う、水田稲作民族の埋葬は、甕棺に死者を屈葬させるのです。この埋葬遺跡は、北九州で多く発掘されています。」
「ナベさんは、水田稲作はタミル語を話す民族が日本列島にもたらしたというのですか。何故、遠くの南インドからわざわざ日本列島に渡来したのですか。」
「南インドのマラバル沿岸とヨーロッパとでは、フェニキア商船のタルシシ船により、紀元前10世紀のヘブライ国のソロモンの時代から、孔雀・猿・染料のベンガラ・香辛料・香木・真珠などが、南インドのマラバル沿岸から持ち出されていたのです。そして、紀元一世紀になると、ローマ帝国の盛隆と供に、絹の需要が増大したのです。その絹は、中国大陸南部の特産品だったのです。絹を求める国際交易商人は、その絹を求めて、中国を目指したのです。その結果が、シルクロードです。やがて、そのシルクロードは、三ルートが開発されたのです。そのひとつが、NHKが忘れた頃にシルクロード特集を組む、長安→敦煌→楼蘭の中央砂漠ルートです。そして、騎馬民族の交易ルートの北の草原ルート。更に、ペルシャ湾→南インド→中国大陸の南海ルートです。シルクロードには、その三ルートがあったのです。」
「そのシルクロードとタミル語を話す民族と、何か関係があるのですか。」
「日本列島は、縄文時代の古来から、琥珀・翡翠・朱砂などの国際交易をおこなっていたので、日本列島の気候が、繭生産地として良好と知られていたのでしょう。それらの、南方系の民族が、繭を持ち込んだのです。それが、在来種に比べて、多くの糸を吐くポンピックス・モリ種です。蛾は、蝶に比べて、飛来距離は極端に短いのです。中国南部の蛾は、東シナ海を飛渡することは困難です。」
「すると、ナベさんは、絹を求める南インドを基地とする国際交易商人が、タミル語を話す民族を農奴として、日本列島を繭生産基地とするために渡来したというのですか。」
「そう考えています。日本海沿岸には、東南アジアと同じ、棚田が多く見られます。能登の千枚田は有名です。何故、沿岸のそのような急な山肌に、棚田を作ったのかと推測すると、それは、海から渡来して、又、船により他の地に移動するのに適しているからです。騎馬民族の国が「風の王国」とすれば、海洋民族の国は、半農半漁の「海風の王国」と考えられます。その二つの民族の特徴は、定着しないということです。だから、その二民族は、基本的に、土地の支配権を主張するための「歴史書」を持たないのです。」
「すると、「日本書記」などの偽書を創作した藤原氏は、騎馬民族でも海洋民族でもないということですね。」
「そうです。藤原氏は、祭祀民族です。祭祀権を独占することにより、異民族を支配するのが、藤原氏です。」
「ナベさん、藤原氏とは、何者なのですか。」
「私にも分かりませんが、ユダヤ民族のニオイがするのです。」
「どのようなニオイですか。」
「藤原氏が創作した中臣神道の思想・儀式の多くは、ユダヤ教の思想・儀式と酷似しているのです。日本列島に水田稲作をもたらしたタミル語を話す民族のルーツは、南インドです。その南インドのマラバル沿岸には、紀元一世紀ユダヤ教ヨシュア派の教会が存在していたのです。その南インドのマラバル沿岸は、戦国時代のイエズス会が、日本列島の銀を独占するための基地としたように、古来からユダヤ教ヨシュア派の拠点であったのです。」
「そういえば、「日本書記」と「旧約聖書」は似ていますよね。天照大神をヤハヴェとすれば、藤原氏の祖である祭祀者天児屋根命は、ユダヤ民族の祭祀者モーセということですね。」
「カメさん、ユダヤ教に詳しいですね。私も、以前から、ユダヤ教と中臣神道には、共通点が多くあると思っていました。紀元四世紀のローマ帝国の出来事と、645年明日香ヤマトの出来事が、以前から気になっていたのです。」
「それって、関係ないように思えますが。」
「前政権の宗教の歴史的抹殺です。」
「宗教の抹殺って、何ですか。」
「392年ローマ帝国のテオドシウス一世の時代、ローマ帝国に逆らう、「ヨシュアはメシア」と唱えるユダヤ教ヨシュア派を、ローマ帝国の国教としてしまうのです。それが、ギリシャ語で、「イエス・キリスト」です。ローマ帝国がキリスト教国となると、395年ローマ帝国は、東西に分裂してしまうのです。その当時のローマ帝国は、征服した民族の宗教を認めていたので、ローマ帝国には主たる宗教が存在していなかったのです。その多くの宗教の中に、太陽神を祀るミトラ教があったのです。このミトラ教は、戦場で勇敢な戦士を護る神として、ローマ帝国軍の軍神であったのです。この太陽神ミトラは、民族平等思想を持っていたため、独裁を望むテオドシウス一世には、邪魔な神であったのです。そこで、唯一神を祀るユダヤ教ヨシュア派が発明した宗教を、ローマ帝国の国教としたわけです。そして、ローマ帝国の国教となったキリスト教は、ミトラ教を歴史的に抹殺するために、ミトラ教地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教教会を建てるのです。そして、ミトラ教の痕跡を消すために、その教義・儀式を、キリスト教に取り込むのです。」
「そのキリスト教の行いと、明日香ヤマトと何か関係があるのですか。」
「カメさん、明日香ヤマトは、仏教発祥の地と思っていますか。」
「ええ、学校の歴史授業で教わりました。」
「明日香ヤマトが、仏教発祥の地で、蘇我氏が崇仏派だとすると、明日香ヤマトの遺跡は、仏教色でなくてはならないはずですよね。」
「蘇我氏が仏教を保護したのなら、当然、明日香ヤマトから発掘される遺跡は、仏教文化を示すはずですね。」
「カメさん、それが違うのです。確かに、地上には仏教寺が多く存在するのですが、現在も、明日香ヤマトから発掘される遺跡の数々は、仏教文化など示していないのです。その遺跡が示すのは、石の文化と軍事都市明日香ヤマトです。」
「それって、本当ですか。」
「これって、ローマ帝国での、ミトラ教抹殺技法の真似と考えられませんか。」
「仏教文化ではない明日香ヤマトの宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、仏教寺を建設したとするのですね。」
「そのとおりです。これならば、明日香ヤマトから発掘される遺跡が、仏教文化を示していないことをうまく説明できます。」
「その明日香ヤマトの遺跡を残したのは、どのような民族であったのですか。」
「カメさん、明日香ヤマトに始めて持ち込まれた仏像は、何んだと思いますか。」
「新羅からの弥勒菩薩だと思います。」
「その弥勒菩薩は、インドではマイトレーヤと言われ、インド渡来以前では、ミトラと言われていたのです。日本初渡来の仏像と言われる弥勒菩薩は、ミトラを変身させたものです。抹殺・隠蔽できないモノは、それを取り込むことにより抹殺する技法が、明日香ヤマト文化抹殺にも応用されていたのです。」
「そう言えば、西方浄土を約束する阿弥陀様は、エジプトの太陽神アトンであると、ある本で読んだことがあります。その本には、キリスト教と大乗仏教は一卵性双生児とも述べていました。ナベさん、それってトンデモ歴史ですか。」
「そうではないようです。以前から、キリスト教の教義・儀式と大乗仏教の教義・儀式が酷似していると言われています。キリスト誕生物語と大乗仏教のブッタ誕生物語の基本は同じようです。」
「ナベさん、話を明日香ヤマトに戻しませんか。」
「明日香ヤマトの歴史を知るには、大乗仏教の歴史を知る必要があります。しかし、大乗仏教は、405年中国の後秦で、バラモン僧の鳩摩羅汁により、騎馬民族を蔑視する道具として改竄され「漢訳仏教」となってしまったため、キリスト教との同一性が薄まってしまいましたが、ギリシャ文化継承国バクトリアがあった地であった国際交易都市ガンダーラで発明された宗教物語が、西に向かってキリスト教となり、東に向かって大乗仏教(漢訳仏教)となったのは、それらのギリシャ神話を含んだ宗教物語を広めた民族は、同じ民族だからと考えています。初期の「聖書」がギリシャ語で著されていたのは、そのためです。大乗仏教の経典も、後の宗教者により、ギリシャ語からサンスクリット語に変換されたのでしょう。仏教専用語と思われているサンスクリット語は、ギリシャ語から派生した言語であったのです。」
「すると、ナベさんは、藤原氏は、ユダヤ民族で、中臣神道は、ユダヤ教だとでも言うのですか。」
「今は、確信がありませんが、いずれ、結論を出したいと思います。話が長くなってしまいましたが、古代史のレポートを書き上げるところです。後ほどメールしますから、カメさん、幻視のレポートお願いします。」
「分かりました。レポートします。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
そこには継体天皇も聖徳太子もいなかった。
翌日、オレは、簡単な朝食を済ませると、パソコンを開いた。そこには、メール受信の表示があった。メールを開くと、田辺さんからのものだった。
「レポートを送ります。A4で百枚ほどです。四章で構成されていますから、その都度でも良いし、まとめてレポートしていただいても結構です。レポートを読む前に、確認事項に目を通してください。」、とあり、
「確認事項1.天皇の出現は、紀元前660年神武天皇は「ウソ」で、672年天武天皇からです。
2.日本神道の出現は、神代の昔からではなく、奈良時代からです。
3.神社(モリ)の出現も、古墳時代が終わって百年後の奈良時代からです。
4.仏教伝来は、538年ではなく、645年です。
5.「日本書記」は、明日香ヤマトやイズモの異民族の歴史を抹殺する目的のために、藤原不比等が創作したものです。
6.「古事記」出現は、奈良時代の712年ではなく、平安時代初期の812年です。
よって、藤原日本史が述べる、四世紀の飛鳥大和朝廷の存在を否定します。」、とあった。
オレは、添付資料をプリントアウトするために、プリンターに印刷紙を詰め込んだ。印刷をクリックすると、プリンターから印刷紙が排出された。一枚目を取ると、そこには、タイトルとして、「消された日本古代史」とあった。その下に、レポートの趣旨が簡潔に書かれていた。
「このレポートは、「日本書記」で構築された日本古代史を、敗者の側から眺めるものである。古代の日本列島には、諸外国から多くの異民族が、それぞれの目的により渡来し、それぞれの部族国家が存在していた。その異民族の文化を抹殺したのが、645年軍事都市明日香ヤマトを壊滅した、仏教を侵略思想武器とした、唐進駐軍と藤原氏である。当レポートは、日本列島に古墳が出現した三世紀後期から、その古墳時代が終わる、645年までを考察するものである。そして、第一章は、古代日本列島に渡来した民族と文化を知るために、オリエント史を述べることにする。」、とあった。
それに続く文章が、論文形式ではなく、どうみても、シナリオ形式だ。そこには、いつ、どこで、だれが、何をした、と簡潔に記述されていた。その記述が、年代順のブロックとなっていた。田辺さんのレポートを要約すると、以下のようだ。
第一章「オリエントから日本列島へ」
No.1、紀元前14世紀黒海沿岸に、鉄器製造を発明したヒッタイト帝国から、エジプト王国へ、土木建築技術者一団が渡来した。そのヒッタイト帝国では、三神からなるミトラ神は、太陽神の化身として、異国民族との交易を見守る神として信仰を集めていた。
No.2、ヒッタイト帝国の技術者は、エジプト王国のアメンホテプ4世の宗教改革により、新都アケトアテンの造営のために招かれたのだ。アメンホテプ4世は、多神教により宮廷を支配する神官達を排除するために、ヒッタイト帝国の太陽神であるミトラ神から、唯一神アトン神を発明した。しかし、急激な宗教改革に対して、神官達は反乱を起こし、アメンホテプ4世一家は暗殺されてしまった。その結果、エジプト王国で建築技術者として優遇されていたヒッタイト帝国の技術者達は、エジプト神官の迫害を逃れて、シナイ半島に逃れた。
No.3、そのシナイ半島で、バビロニアから放浪してきた民族と合同して、エジプト軍に廃墟とされたカナンの地にたどり着くと、その二つの異民族は、紀元前1230年ヘブライ王国を築いた。
No.4、そのヘブライ王国は、海岸地域を支配する海洋交易民族フェニキアの外洋交易船を利用して、南インドと交易をおこなった。しかし、バビロニアからの民族は、ヒッタイト帝国からの民族を支配下に置いたため、ソロモン王が死去すると、紀元前932年ユダ国とイスラエル国に分裂した。分裂は時間の問題だった。それは、その二つの民族は、祀る神が異なっていたからだ。ヒッタイト帝国からの民族は、太陽神と牡牛を祀る多神教だ。それに対して、バビロニアからの民族は、エジプト王国の太陽神の唯一神アトンを取り入れ、唯一神ヤハヴェとして祀った一神教だ。
No.5、太陽神と牡牛を祀るイスラエル民族は、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより滅ぼされ、アッシリアの砂漠に消えてしまった。一方のユダ王国は、紀元前586年バビロニアにより滅亡した。しかし、バビロニアが、紀元前538年滅びると、再びカナンの地に戻ることが出来た。この異なる二民族は、645年日本列島で、再び出会い、そして、戦い始めることになる。
No.6、紀元前334年マケドニア王国のアレクサンドル大王は、グラニコス川の戦いにより、東征を開始した。アレクサンドル大王は、ペルシャ帝国への侵略を開始したのだ。このアレクサンドル大王により、紀元前330年ペルシャ帝国が滅亡した。これにより、アレクサンドル大王の支配地は、ギリシャから北インドのガンダーラ地域までとなった。しかし、紀元前323年アレクサンドル大王がバビロニアで病死すると、統制がきかず、内部分裂により、紀元前301年最後の支配者デメトリオスが、イプソスの戦いでアンチゴノス緒将に敗れ、広大なアレクサンドル大王領は、マケドニア王国、エジプト王国、トラキア王国、パルチア、バクトリアなどに分割された。しかし、その北インドを支配したギリシャ文化を継承したバクトリは、東征を止めなかった。
N0.7、北インドを支配したバクトリアは、中国大陸で紀元前403年から始まった戦国時代を統一するために、秦を軍事援助することにより、紀元前221年中国の戦国時代が終わり、ここに秦帝国が興った。秦帝国の母国バクトリアは、中国では大月氏と呼ばれた。
No.8、中国戦国時代中期、北アジアでは騎馬民族匈奴が興った。騎馬民族の歴史は、現在でも謎が多い。それは、騎馬民族は、基本的には歴史書を持たないで、自然の法則に従い、定着せず、移動を繰り返す、地上に建築遺跡を残さない「風の王国」だからだ。騎馬民族の歴史は、紀元前五世紀のギリシヤの歴史学者ヘロドトスの「ヒストリア」によれば、紀元前八世紀カスピ海北岸に興ったスキタイが始めだ。スキタイが騎馬民族となれたのは、鉄器製造技術を保持していたからだ。鉄器製造技術により、轡を作り、馬の口にはめ、手綱により馬を制御可能にしたのだ。その鉄器製造技術は、カスピ海南岸を支配する、敵対国アッシリアの捕虜から手に入れたものだ。アッシリアには、鉄器を発明したヒッタイト帝国→エジプト王国→ヘブライ国→イスラエル国へと流れた民族がいた。そして、そのイスラエル国は、紀元前722年アッシリアに滅ぼされていたのだ。母国を失ったヒッタイト帝国の鉄器製造技術を持つイスラエル民族には、エジプト王国で習得した、石切技術・石組み技術・運河掘削技術を保持していた。スキタイ民族は、そのイスラエル民族の技術を取り込むことにより騎馬民族として、北ユーラシアの覇者となり、東進することにより、紀元前3世紀には、そのスキタイ民族末裔が、東ユーラシアに渡来して、遊牧原住民を取り込み、騎馬民族匈奴として、南の農耕民族国と対峙していた。
No.9、紀元一世紀、ローマ共和国は、ギリシャ・マケドニア王国・ペルガモン・エジプト王国を支配すると、アウグスツスは、初代ローマ皇帝となり、ここにローマ帝国が興った。ローマ帝国軍は、ロンギヌスの槍と盾により、隣国を支配国とすると、ローマ帝国軍式直線道路により、戦略品をローマ都市に持ち込むことにより、国際交易商人が多く集まるようになった。そして、富の蓄積により贅沢品の絹の需要が激高した。その絹の生産地の中国後漢には、オリエントから国際交易商人が多く渡来した。その後漢は、北の匈奴との戦闘に対処するために、俊敏なアラブ馬を求めていた。ここに、絹を求めるローマ帝国と、アラブ馬を求める後漢による、絹馬交易が始まった。97年後漢の和帝は、甘英をローマ領に派遣した。
No.10、紀元一世紀、ローマ帝国と後漢との絹馬交易の中継国際交易都市、ギリシャ文化継承国のガンダーラで、不思議な宗教が発明された。それが無数の経典を著した大乗仏教だ。大乗仏教の祖とする釈尊は、バラモン教の偶像崇拝主義を否定するために、仏像製造を禁止していた。しかし、大乗仏教徒は、ギリシャ彫刻思想により、写実的なガリガリ仏像を造った。148年パルチア王国の僧安世高は、後漢の洛陽に渡来し、仏典を訳した。定説では、サンスクリット語から、漢語に訳したことになっている。では、405年鳩摩羅汁が、後秦で漢訳したとする仏典原著は、何語で著されていたのか。
No.11、166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者が、後漢に渡来した。ローマ帝国では、シルクロードの交易権をめぐって、隣国のパルチア王国と度々戦闘をおこなっていた。ローマ帝国は、パルチア王国との戦闘に対して、後漢の加勢を求めたのだ。しかし、後漢は、匈奴を北アジアから駆逐した、騎馬民族鮮卑の度重なる攻撃により、疲弊し、220年滅びた。その後漢が分裂し、魏・蜀・呉の三国時代へ突入した。東アジアの中国北部を支配した魏は、ローマ帝国と絹馬交易をおこなうため、日本列島での繭生産経営に乗り出した。この時代の日本列島の様子は、「魏志倭人伝」により、窺がい知ることが出来る。この魏・蜀・呉の中国三国時代に、日本列島は古墳時代の黎明期に突入したのだ。三世紀の日本列島には、周辺諸国から、多くの異民族が渡来していた。
第二章「前方後円墳とは何か」
No.1、日本列島史は、645年藤原氏の前政権史料焚書により、その史実を文献により知ることは出来ない。しかし、中国の史料には、日本列島の記述がある。それらの史料により、古代日本列島史を復元することにする。
No.2、藤原日本史のトリックは、日本列島は孤島で、倭人が九州を支配していたとし、その倭人が、近畿一帯に侵攻し、原日本人となったとすることだ。
No.3、中国南朝の梁(502年〜557年)の歴史書「梁書」によれば、5世紀の日本列島には、倭国(北九州+朝鮮半島南端)、文身国(出雲)、大漢国(大阪)、扶桑国(東北以北)の四カ国の存在が記されている。
No.4、この日本列島の謎の四世紀、藤原日本史では、南朝の宋(420年〜479年)の歴史書「宋書」にある、倭王、讃、珍、済、興、武の五王を、讃は仁徳天皇か履中天皇、珍を反正天皇、済を允恭天皇、興を安康天皇、武を雄略天皇とする。しかし、その藤原日本史の「ウソ」は、502年倭王武が、梁の武帝により、征東大将軍となったとする「梁書」の記事が暴くのだ。雄略天皇が、502年梁王から、征東大将軍に任命されていたとすると、その年代前後に存在したとされる、万世一系である清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇、武列天皇の存在が否定されるからだ。
No.5、日本列島の謎の四世紀、日本列島に前方後円墳が出現した。藤原日本史では、大和盆地の東部三輪山麓の傾斜地に、突然、全長250mを超える巨大前方後円墳が出現したことをもって、四世紀の飛鳥大和には、強力な権力組織があったとした。それが、藤原日本史が述べる、大和朝廷だ。しかし、東海・北陸以東では、越中、能登、越後、福島県会津にも、墳長50mを超えない前方後円墳が出現していた。
No.6、飛鳥大和に巨大古墳が築けたのは、強力な政権が存在していたからではなく、その奈良盆地は、定期的な氾濫により、人が住めぬ大湿地帯であったからだ。その大湿地帯を居住地に改良するために、又、朱砂の産地の宇陀の先住民を取り込むために、巨大前方後円墳が、渡来者の意図の下に築かれたのだ。その根拠として、6世紀半ば、オリエントから渡来民族や北アジアを支配した突厥軍団が、明日香ヤマトを支配すると、その奈良盆地では、前方後円墳ではなく、オリエント方式の方墳や八角墳が築かれて行くのだ。しかし、奈良盆地の外側では、前方後円墳が築かれ続けていた。藤原日本史が述べるように、前方後円墳が、歴代天皇の墓であるとするならば、このことをどう説明するのか。
No.7、古墳は民族の思想を表している。古墳時代前期、大和地方では、前方後円墳や新羅慶州に多く存在した円墳が主であった。しかし、イズモ地方、島根県東部、鳥取県、広島県北部山地、富山市では、四隅突出型墳丘墓という、四隅が突き出た四角い糸巻き型方墳が存在していた。しかし、そのイズモ地域では、古墳時代後期になると、四隅突出型墳丘墓に替わり、大型方墳や前方後円墳が、飛鳥大和では、646年薄葬令により巨大古墳築造が禁止されていたのに、依然として築かれ続いていたのだ。これを、藤原日本史では、どう説明するのか。
No.8、前方後円墳が飛鳥大和に出現した、日本列島の謎の四世紀、中国大陸では五胡十六国の時代であった。五胡とは、匈奴、羯(せつ)、鮮卑、テイ、羌(きょう)だ。匈奴、羯、鮮卑は、チュルク系民族で鼻が高く、髭が濃い、それに対して、テイ、羌は、チベット系民族で鼻は低く、髭が薄い。これらの、漢民族ではない、異民族が中国北部黄河沿いに国を興していた。この4世紀から5世紀半ばまでの約150年間、漢民族ではなく、西域の騎馬民族や遊牧民族が、150年間にわたり北部中国を支配していた。
No.9、四世紀半ば、朝鮮半島では、紀元前1世紀に興った高句麗に対抗して、346年百済が、356年新羅が興った。この朝鮮半島三国時代に、372年前秦から高句麗に仏教が伝来し、384年東晉より百済に仏教が伝来した。しかし、新羅では、仏教が伝来したのは、528年であった。新羅は、527年まで、女王国でギリシャ・ローマ文化国であった。
No.10、この中国五胡十六国時代の4世紀から5世紀半ばの150年間、中国の記録には日本列島の記述はない。騎馬民族や遊牧民族は、農耕の定着民族ではないため、土地の支配権を主張するための「歴史書」を持たない。だから、藤原日本史での、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の存在を、中国史料で確認できない。
No.11、「漢書」には、紀元前2世紀から紀元前1世紀にかけて、朝鮮半島の楽浪の海内には、倭人がいて、分かれて百余国をなしていたとの記述がある。「後漢書」には、紀元1世紀から2世紀に、倭の奴国が朝貢して来たとあり、その奴国は倭の極南界にあり、57年後漢の光武帝は、奴国の使者に印綬を授けた、とある。この中国史料から推測すると、倭国は、九州ではないことが分かる。紀元1世紀から紀元2世紀の200年間、倭国は朝鮮半島にあり、奴国は、朝鮮半島南端にあった。
No.12、中国王朝で云う倭人とは、どのような民族か。「後漢書」の「鮮卑伝」には、光和元年(178年)鮮卑王の壇石槐が、河川にいる魚を捕えるために、倭人を捕虜としていた、とある。鮮卑(93年〜319年)の支配地は、後漢と対峙する内陸の東ユーラシアで、海に接してはいない。そのような騎馬民族の鮮卑が、玄界灘の海を渡り、北九州の倭人を捕虜にすることができるのか。このことからも、1〜2世紀の倭人は、海洋漁労民族ではあるが、、朝鮮半島沿岸だけではなく、中国大陸の内陸まで、暮らしていたことを示唆する。
No.13、青森地方に東日本最古の弥生時代前期の水田跡が発掘されている。弥生時代とは、紀元前1世紀頃から3世紀中頃までだ。東北から出雲にかけて、弥生時代以前の縄文時代から、日本海沿岸には巨木文化があった。その縄文人は、琥珀・黒曜石・翡翠の国際交易のために日本海を渡海して、中国大陸と国際交易をおこなっていた。そして、その日本海は、東南アジアからの黒潮が流れ着くところだ。古代青森地方は陸稲だ。水田稲作は、南インド、東南アジアの技術だ。その青森の水田稲作が、弥生時代前期に青森に伝播していたことは、南インドのタミル語を話す民族の渡来を示唆する。
No.14、弥生時代、倭人の祖は、南インドや東南アジアから、黒潮に乗り、中国大陸沿岸、朝鮮半島、北九州、そして、日本海を通り、秋田まで渡来していた。古代の日本列島は、藤原日本史が述べるように、孤島などではなかった。そして、古代の日本海には、沿岸に巨木で組み上げられた「灯台」を目印に、国際交易船が行き来していた。
No.15、では、弥生時代に、何故、極東の日本列島に、はるばる遠方から危険を冒してまでして、異民族が訪れたのか。考えられるのは、紀元1世紀に始まる、ローマ帝国と後漢による絹馬交易での絹の需要だ。19世紀に、イギリス東インド会社が、薩摩の藤原氏(近衛家)と結託して明治革命を企画した目的のひとつが、中国での絹生産が内乱により減産したため、その絹の需要を日本列島に求めたためだ。1872年富岡製糸場開業と1872年新橋・横浜間鉄道開通は偶然ではない。戊辰戦争最中に建設していたその二つの事業は、紀元1世紀のローマ帝国時代からから続いていたシルクロード交易の極東、日本列島の北関東の絹製品を横浜港からイギリスに持ち出すためだった。
No.16、日本列島の繭が優れていたことは、唐の詩人張説の「梁四公記」に、「東方の扶桑に行くと大きな蚕がいる。その糸は強く卵は大きいが、その卵を高句麗まで持って行き育てると、中国の蚕の卵のように小さくなってしまう。」と記されている。絹につていは、「日本書記」応神朝に弓月君が120県の人民を率いて帰化し、朝廷に庸調の絹を貢進した、との記述がある。平安時代に著された「新撰姓氏録」にも、秦酒公は、秦民92部18670人を率いて、絹を貢進し、酒公は長官に任じられた、とある。絹は、古代でも、明治時代でも、日本列島の国際交易品であったのだ。その日本列島で養蚕の繭は、弥生時代に、タミル語を話す民族により、水田稲作技術と供に持ち込まれた、ポンピックス・モリ種だ。日本列島は、紀元1世紀より、国際交易商人により、中国に供給する繭生産基地となっていたのだ。
No.17、日本列島謎の4世紀にいたる3世紀については、中国史料が、参考となる。「魏志倭人伝」に、247年邪馬台国に軍事顧問の張政を派遣した、との記述がある。その報告によれば、邪馬台国の武器について、矛、盾、木弓、鉄鏃、骨鏃がある、との記述がある。弥生時代の遺跡で、矛が出土するのは北九州の福岡県が中心だ。大和朝廷が四世紀に出現したとする、奈良県は無だ。鉄鏃は、福岡県171個、奈良県2個だ。その「魏志・韓伝」には、邪馬台国は朝鮮半島で、韓人らと争って鉄を採取していた、とある。そして、「魏志倭人伝」には、「魏の皇帝に倭錦、異文雑錦などを贈った。」との記述がある。弥生時代の遺跡で、絹が出土しているのは、福岡県比恵、有田、吉武高木などの北九州だけだ。3世紀、倭人は朝鮮半島から、北九州に渡来して、絹を生産して、魏に貢いでいたのだ。その邪馬台国の卑弥呼には、魏の軍旗を与えられて、その上、魏の軍事顧問も送られていたのだ。そして、「魏志」には、「倭人は自らを、中国三国時代の「呉」の泰伯の子孫だと名乗った。」、との記述がある。3世紀の北九州の倭人中には、中国大陸から渡来した者もいたのだ。
No.18、藤原日本史によると、四世紀に、倭国があった九州から大和に侵攻した天孫族が、その飛鳥大和に、天皇家の墓として巨大前方後円墳を築き、その後、仲哀天皇と神功皇后とにより朝鮮半島新羅の征伐に赴き、仲哀天皇が九州の地で死んだために、神功皇后が新羅を征伐し、飛鳥大和に凱旋して、応神天皇を生んだ、とする。では、天孫族以前に飛鳥大和を支配していた、倭人を祖とする倭国は、四世紀には滅亡していたのか。「唐書」によれば、「倭国」と「日本」がはっきりと別の国として記述され、648年「倭国」は唐とまた交流することになった、との記述がある。そして、「唐書」には、「日本」の記述は、大和政権の年号である大宝3年(703年)からである。因みに、今日の平成年号まで続く、日本初の年号は、大宝元年(701年)からだ。それ以前の「日本書記の年号」は、中国史料では確認できない。つまり、701年以前の「日本国としての年号」は、藤原氏が創作した年号だ。
No.19、藤原日本史では、謎の4世紀を隠蔽するために、そして、4世紀に突然明日香ヤマト現れた巨大前方後円墳の歴史を隠蔽するために、仁徳天皇を登場させる物語に繋げる応神天皇←仲哀天皇(神功皇后)←成務天皇←景行天皇の九州平定物語や新羅征伐物語を「日本書記」で創作したが、その神功皇后の新羅征伐物語は、100年前の中国史料と「魏志」史料を引用していたために「ウソ」が暴かれた。それは、「明帝の景初3年(239年)6月、倭の女王、大夫難升米等(たいふなしめら)を遣わして、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。」、「正始元年(240年)、建忠校尉・梯携印綬を奉りて倭国に詣らしむ。」の文章を、神功皇后新羅征伐物語に挿入していたからだ。景初3年・正始元年は魏・蜀・呉の三国時代の年号で、魏の属国邪馬台国の卑弥呼の時代で、4世紀よりも、100年前の年号だからだ。
No.20、では、謎の4世紀に、明日香ヤマトに突然現れた巨大前方後円墳は、どのような民族により築かれたのか。3世紀までの奈良盆地は、大阪の河内湾が堆積により埋まり、河内湿原に運河を造ることによって河内平野となり、水田稲作地となっても、その上流は、大湿地帯のままだった。だから、その大湿地帯の奈良盆地に到達するには、生駒山麓を迂回するルート以外の「道」が必要だった。
No.21、奈良盆地は、縄文時代の昔から、三輪山麓では、異民族による朱砂などの沈黙交易がおこなわれていた。それは、その三輪山麓は、大湿地帯と、流れ込む川が定期的に氾濫する自然の要塞だったので、宇陀の先住民は、安心して、異民族と国際交易をできたからだ。その三輪山麓の交易地に至るルートは、北九州から、四国を抜け、紀伊から吉野を抜け、伊勢に至る、中央構造線の断層に沿って、縄文の時代から、呪術に必要な朱砂を採取した民族により、開発されていた。
No.22、奈良盆地の三輪山麓の傾斜地に、巨大前方後円墳が築かれた少し前、中央構造線上にある和歌山県紀ノ川河口にも、前方後円墳が出現していた。しかし、その前方後円墳は、平安時代以前に破壊され、溝だけが発掘された。その溝の中から発掘された土器の破片により、その年代が4世紀初期と分かった。そして、その付近から、当時の日本列島では珍しいガラス製の小玉や管玉が出土した。ガラス製造技術は、ギリシャ都市国家と騎馬民族スキタイが交易と戦闘を繰り返した、紀元前七世紀頃のカスピ海沿岸で発明されたのだ。
No.23、日本列島初の前方後円墳が、三輪山麓の傾斜地ではないことは、近年の考古学の研究で証明された。3世紀末から4世紀までに、香川県鶴尾神社4号墳、福岡県津古生掛古墳、兵庫県養久山1号古墳、福島県堂ヶ作山古墳、杵ヶ森古墳などの前方後円墳が、全国的に同時期に築かれている。藤原日本史では、このことを、4世紀に巨大前方後円墳を築いたとする飛鳥大和朝廷が、全国を平定した証拠だと述べている。
No.24、では、その前方後円墳は、大和朝廷のオリジナルなのか。1990年中国国境鴨緑江沿いの旧高句麗支配地だった地域で、紀元前後の積石塚の高さ2m長さ約15m前後の前方後円墳が発見された。積石塚は、日本列島では、香川、徳島、長野、山梨、山口各県で、計約1500基も発掘されている。古墳表面に葺き石を施した「積石塚風」の古墳は、日本列島では無数に発掘されている。そして、1991年朝鮮半島全羅南道咸平郡礼徳里の新徳古墳が発掘された。その横穴式石室の入り口がラッパ型、中央に棺台があり、そして、石の積み方などの特徴が、九州の古墳、佐賀県関行丸古墳と全く同じ構造であることが分かった。その築造時期は、5世紀後半から6世紀前半だ。そして、轡などの馬具、鉄鏃、金製耳飾などが出土した。この出土品は、熊本県江田船山古墳とよく共通していた。これらの考古学上の研究から、前方後円墳は飛鳥大和政権のオリジナルではなく、北方系の騎馬民族の埋葬施設であったことが示唆される。
No.25、前方後円墳の初期にはなかった、横穴式石室は、どのような民族により造られたのか。横穴式石室が、日本列島に現れたのは、5世紀からだ。そして、埋葬品が、祭祀道具から、戦闘道具の馬具や鉄武器に替わっていた。この頃、東アジアの中国では、騎馬民族や遊牧民族が支配した、五胡十六国時代だった。
No.26、この中国大陸が、騎馬民族や遊牧民族により支配された五胡十六国時代の3世紀半ばから、日本列島には突然古墳が現れた。そして、四世紀初期には、岩手県以南から九州まで、相似形の前方後円墳が現れ、約300年間も古墳が築かれていたのだ。そして、5世紀となると、埋葬品は祭祀道具ではなく、戦闘用馬具や鉄製の武器や農具となっていく。
No.27、藤原日本史では、四世紀の飛鳥大和朝廷が、全国の支配地に前方後円墳を築いたとするが、東北の会津は、801年坂上田村麻呂が蝦夷棟梁のアテルイをだまし討ちをした平安時代までは、独立国であった。信濃のわさび農園に掲示してある、八面大王が坂上田村麻呂に滅ぼされた物語は、平安時代初期まで、信濃も独立国であったことを示唆する。
No.28、北関東のさいたま県稲荷山古墳から、115文字を記した鉄剣が発掘された。その文字には、ヲワケ(騎馬民族の王の意味)がワカタケル大王のために鉄剣を捧げた、とあった。そして、ワカタケル大王は「シキの宮」に住んでいた、とあった。遺跡・発掘物のなにもかもを「日本書記」に結びつける歴史学者により、ワカタケル大王が「雄略天皇」だとされ、5世紀には、さいたま県まで、飛鳥大和朝廷の支配権がおよんでいた、とされた。しかし、「日本書記」によれば、雄略天皇が暮らした宮は、二つで、「泊瀬の朝倉」と「吉野宮」だ。「シキの宮」などに暮らしたとの記述は、「日本書記」にはないのだ。では、「シキの宮」とは、何処か。それは、北関東だ。ワカタケル大王は、飛鳥大和などではなく、北関東の大王だった。北関東の群馬県前橋市の前方後円墳の前二子古墳は、九州熊本県宇土半島周辺で発見される「肥後型石室」と同じ横穴式だ。「肥後型石室」とは、横穴式の奥を床から20cmほどの高さに仕切り、ベット状の切石で棺台を造ったものだ。5世紀の北関東は、江戸時代に北九州で流行した「ハンヤ節」が北前船により小木港に上陸し「佐渡おけさ」として歌われたように、九州と何らかの文化交流があったのだ。
No.29、横穴式石室は、5世紀に現れた。そして、その埋葬土器も、陶質土器となっていた。従来の土器は野焼きで800℃で焼き上げた。しかし、陶質土器は、1200℃だ。1200℃の高熱を得るには、自然の風ではなく、フイゴの人工風が必要だ。そのフイゴは、鹿の皮で作られていた。須恵器の陶質土器は、製鉄民族と同じ高温で焼き上げられていた。5世紀の日本列島には、タタラ製鉄をおこなう民族が渡来したことを示唆する。
No.30、6世紀初めに築かれた和歌山県井辺前山10号墳は、珍しく、山頂にあり、そこからは、ユーラシア大陸の文化を色濃く背負った大量の埴輪が出土した。その中に、牛やサイの角で作った角杯を背負った人物埴輪があった。角杯は、東北アジア一帯の騎馬民族が使う、ミルクや酒を飲むためのものだ。同じモチーフの埴輪は、ギリシャ・ローマ文化の新羅の都慶州の瑞鳳塚から出土している。更に、短弓を左手と肩で支えた人物埴輪も発掘された。4世紀から中央ユーラシアで活躍した騎馬民族は、騎射のために、南方系の長弓ではなく、短弓だった。その短弓でも、強く射ることができたのは、弓のしなりだけではなく、動物の小腸から作った弦の弾力性を利用したからだ。北条鎌倉時代から始まる流鏑馬で、短弓ではなく、長弓が使われたのは、騎馬民族の武家源氏三代を謀殺した平氏の北条氏が、騎馬民族ではなかったことを示唆する。そして、ふんどしを付けた力士埴輪も計6体出土した。藤原日本史によれば、日本国の相撲の歴史は、「日本書記」に、垂仁紀7年(4世紀初期か?)に、大和の当麻蹴速と出雲の野見スクネ(古代ペルシャ語で「勇者」の意)に角力(相撲)をとらしめ、野見が勝った試合が初めである、とする。しかし、日本の相撲の源流は、東アジア北方の騎馬民族の格闘技だ。この騎馬民族の格闘技は、高句麗を経て、日本列島にもたらされた。その根拠は、高句麗の安岳3号墳の壁画に、モンゴル相撲図が描かれていたからだ。
No.31、5世紀の日本列島には、北方ユーラシアの騎馬民族が、大挙して渡来したようだ。5世紀後期に築かれた和歌山市古谷古墳からは、騎馬戦用の馬冑・馬鎧・蒙古鉢兜が出土しているが、それと同形の馬冑・馬鎧が朝鮮半島南部伽耶釜山10号墳から出土している。更に、それらの武具類は、和歌山だけではなく、さいたま県さきたま古墳群将軍山、福岡月の岡両古墳からも出土している。このことから、前方後円墳は、朝鮮半島から北九州に渡来して、吉備→近畿へと築かれて行ったと信じられているが、4世紀前期の飛鳥見瀬丸山古墳と同型の前方後円墳が、東北の会津若松で大塚山古墳が発掘されている。藤原日本史では、これをどのように説明するのか。古代東北には、藤原氏により消された歴史があるようだ。
No.32、奈良時代、藤原氏が唐進駐軍の軍事力を背景に、大和朝廷の中枢に入り込むと、祭祀者として、前方後円墳を破壊していくのだ。718年奈良に平城京を遷都するが、その地には、巨大前方後円墳が存在していた。平城京は、前方後円墳跡に築かれた都だった。これは、正に、392年ユダヤ教ヨシュア派が、ローマ帝国の国教となったキリスト教により、ローマ帝国軍の軍神であったミトラ教を歴史的に抹殺するために、ミトラ地下神殿が徹底的に破壊された跡に、キリスト教教会を建てた戦略と同じだ。そして、その平城京に、藤原氏の氏寺である興福寺を建設するのだ。そして、その興福寺の東側の山の麓に、藤原氏の「本当の神=中臣神道」(ユダヤ教と酷似)を祀る春日社を建立した。そこは、牡牛を屠るミトラ教の祭祀場があった場所だ。奈良時代の藤原氏は、前政権の歴史を消すために、全国に存在した前方後円墳を破壊して、その跡に、社(モリ→神社)や神宮を建て、騎馬民族の歴史を消していたのだ。社・神社(モリ)や神宮は、「日本書記」で述べているように古代から存在していたのではなく、奈良時代に、藤原氏により、古墳跡に建立されていたのだ。本殿が存在しない、空き地を祀る社・神社(モリ)の謎は、そのことにより解明できる。
No.33、4世紀初めに、東北の会津若松に、前方後円墳の大塚山古墳が築かれていたことは、東北には、4世紀初めに騎馬民族が渡来していたことを示唆する。奈良時代に、出羽国一帯にあった古墳跡に、藤原氏により古四王神社(モリ)が建立されていたことから、前方後円墳を築いた騎馬民族の渡来の流れは、紀元前1世紀から朝鮮半島付け根を支配した強大な高句麗を避けるために、中国大陸北方→日本海北方沿岸→秋田・新潟→会津→常陸→下総→上野→甲斐→加賀→近江→丹後→河内→大和へのルートが考えられる。これは、「古事記」の倭健の東征物語ルートのほぼ逆を示している。5世紀初期から7世紀後期までの約300年間、日本列島の岩手以南から九州まで、前方後円墳を築いていた騎馬民族の歴史は、奈良時代に、藤原氏が支配した中臣神道と仏教により消されていたのだ。
第三章「552年伝来の仏教とは何か」
No.1、日本人の多くは、日本国は仏教国だと思っているようだ。そして、日本神話は、「古事記」にあるように、日本古来のオリジナルだと信じているようだ。しかし、現在の仏寺にある仏像の多くは、バラモン教やヒンズー教の神・鬼がその祖だ。そして、「古事記」にある日本神話物語のルーツは、ギリシャ神話がその祖だ。何故、そのような外国の神・鬼や神話物語が、日本古来のオリジナルと信じられるようになってしまったのか。
No.2、その謎は、645年にあるようだ。藤原日本史で云う、「大化の改新」の解明が、藤原氏が「日本書記」で封印した古代日本史の封印を解くのだ。それは、「大化の改新」が、オリエント文化の明日香ヤマトの歴史を消すために、藤原氏により創作された架空の物語であるからだ。その根拠は、「日本書記」にある、「大化の改新物語」のストーリは、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーであるからだ。その645年「大化の改新」では、「藤原氏」の祖、祭祀者である中臣氏が、中臣鎌足となって初めて歴史上に登場するのだ。しかし、「日本書記」の神話物語では、藤原氏の祖神が、アマテラスオオミカミの天磐戸物語での祭祀者天児屋根命として登場しているのだ。ここからも、645年「大化の改新」での藤原氏の出自の「うさん臭さ」が臭う。日本古代史の謎は、藤原氏の謎なのだ。
No.3、その日本古代史の謎解きは、4世紀から150年間にわたる中国大陸の五胡十六国時代から始まる。しかし、その謎解きのための史料は多くはない。4世紀の東アジアの歴史は、空白なのだ。それは、漢字を発明した漢民族ではなく、自然に従い定着しない「風の王国」の騎馬民族が支配者だったからだ。
No.4、何故、藤原日本史では、4世紀の明日香ヤマトに、大和朝廷が存在していた、と主張するのか。それは、645年以前の明日香ヤマトには、中国大陸から、日本海を渡り、東北の日本海沿岸に渡来した騎馬民族が、支配者として存在していたからだ。それは、日本列島は、東アジア大陸の回廊だからだ。北海道から本州、沖縄列島を通れば台湾にたどり着く。台湾からは、絹生産地の中国南朝は眼前だ。
No.5、絹は、中国南朝で主に生産されていた。ローマ帝国との絹馬交易のために、ユーラシアの騎馬民族は、北朝諸国を避け、朝鮮半島付け根を支配する高句麗を避けるには、縄文時代から続いていた中国大陸へたどり着くために、日本列島の島ずたいの海路を利用したのだ。
No.6、「魏志倭人伝」には、倭国には馬・牛がいないとされたのに、3世紀後期から出現した古墳には、馬の埴輪が埋葬されていた。では、どのような民族が、日本列島に馬を持ち込んだのか。
No.7、国際交易品の馬を繁殖させるには、日本列島の東北は、気候も土地柄もユーラシア大陸と、大変似通っているのだ。東ユーラシアから新潟に渡来して、阿賀野川を遡れば、そこには大草原に囲まれた猪苗代湖があり、又、信濃川を遡れば、そこにも大草原に囲まれた諏訪湖がある。5世紀から、その会津、諏訪には、馬具や鉄武器・農具が埋葬された前方後円墳が築かれていくのだ。
No.8、その諏訪では、渡来騎馬民族は、海洋民族の安曇族と遭遇するのだ。騎馬民族と海洋民族には、国際交易民族としての共通点がある。そして、物流での補完がある。海を渡るには船が必要だ。陸地を行くには馬が必要だ。この船と馬を使うことにより、日本列島での物流網が完成するのだ。しかし、古墳を破壊する奈良時代になると、日本列島の川と山の交易路を開発した海洋民族と騎馬民族の交易権が、唐進駐軍の後ろ盾を得た仏教組織に奪われると、川筋に暮らす海洋民族は「カッパ」と貶められ、そして、山道に暮らす騎馬民族は「テング」として貶められて行くのだ。
No.9、安曇(アズミ)の地名は、「地名大辞典」によれば、新潟、長野、富山、岐阜、山梨、大阪、岡山、奈良、和歌山、兵庫、鳥取、福岡にある。このアズミの地名を辿れば、安曇族の交易ルートが分かる。古代の日本列島では、東北の新潟から、九州の福岡まで、海洋民族の安曇族が、国際交易のため、外洋船や川船を駆使して行き来していたのだ。縄文時代から始まる、出雲から青森まで続く日本海沿岸の巨木文化は、海洋民族の安曇族の海洋国際交易ルートとの関係を示唆する。
No.10、その海洋民族が活躍し始めた、紀元前1世紀前後の日本列島の北九州は、漢字文化圏にあった。北九州と朝鮮半島南端には、倭族(イゾク)の百余国の都市国家があり、その都市国家はローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた後漢の支配国となっていた。
No.11、1世紀末期頃、東北ユーラシアに興った遊牧民族鮮卑は、騎馬民族スキタイの騎射技術を取り込むと、遊牧民族匈奴を倒し、絹馬交易で潤う後漢を攻撃したことにより、220年後漢が滅び、魏・蜀・呉の三国時代に突入した。
No.12、この中国三国時代、魏は、247年倭国へ軍事顧問の張政を派遣し、邪馬台国と狗奴国との戦争に介入した。邪馬台国は魏の絹生産基地で、女王卑弥呼は、魏に絹を貢納していたからだ。その根拠として、弥生時代の日本列島の遺跡で、絹が発掘されるのは、北九州以外には無い。そして、それは、魏の明帝から、卑弥呼が親魏倭王に封じられて、金印紫綬を授けられていたことからも証明できる。この北九州には、弥生時代の墓が発掘され、その埋葬法は、南インドや東南アジアと同じ、甕棺に屈葬だった。
No.13、265年魏が滅び、晉が中国を統一すると、しばらくは平穏だった中国も、バイカル湖畔に興るチュルク系騎馬民族の東進により、317年頃から五胡十六国の時代に突入する。この4世紀の五胡十六国時代が、中国も日本列島も謎の時代だ。藤原日本史では、この謎の4世紀を、倭の五王の時代とする。しかし、この五倭王とは、飛鳥大和の王ではなく、朝鮮半島南端と北九州を支配していた王のことだ。
No.14、中国の歴史は、各帝国が歴史書を編纂していたので、それにより歴史が「推測」できる。しかし、中国王朝の北に隣接する遊牧・騎馬民族の歴史は謎だ。それらの民族は、歴史書も地上に遺跡も残さないからだ。
No.15、中国漢代の歴史家司馬遷(紀元前145年〜紀元前86年?)の歴史書「史記」によれば、紀元前3世紀頃、シベリア草原地帯にチュルク系(=トルコ系)の諸民族が存在した。その民族は、紀元前8世紀に、鉄で轡を発明したことにより騎馬を可能にしたスキタイ民族の騎馬技術を習得すると、東西にその勢力を増していった。その騎馬民族は、中国王朝により、丁零(ディンリン)→勅勒(チールー)・高車→鉄勅(ティエルー)と呼ばれ、552年モンゴル高原西方、アルタイ地方に遊牧騎馬民族国家・突厥帝国が興った。
No.16、突厥民族は、ユーラシアを支配した他の遊牧民族や騎馬民族と異なることは、唯一自民族の文字(オルホン・エニセ文字)を創出したことだ。その文字は、象形文字のカナクギ文字で、アルファベットのフェニキア文字・ギリシャ語から影響を受けた表音文字だ。その突厥語の発音も特徴がある。子音に硬・軟の区別があり、母音を省略する。その語順も、中国語語順の、私(主語)+読む(述語)+本(目的語)ではなく、私は(主語)+本を(目的語)+読む(述語)、だ。現在の日本語語順と同じなのだ。そして、突厥語には、中国語にはない、格語尾がある。格語尾とは、日本語の「格助詞」である、「て・に・お・は」と同じ働きをする語尾だ。
No.17、ここに疑問が生じる。それは、日本列島は、紀元前1世紀から江戸時代まで、中国文化の影響を強く受けていた。藤原京、平城京、平安京などの都は、中国の都のコピーだ。そして、日本の正史と信じられている「日本書記」も漢語で記述されている。だったら、日本語語順も、中国語語順でもよいはずた。しかし、日本語語順は、北方騎馬民族の言葉であるウラル語語順だ。これはどうい訳だ。
No.18、日本国には、漢語に対抗して、漢語以前から万葉語がある。そこには、やまと言葉がある、と主張するひとがいる。文字はなかったが、古くから「やまと言葉」が存在した、と信じているのだ。では、その「万葉語」「やまと言葉」とは何か。この万葉語の解明が、藤原氏により消された歴史の封印を解くのだ。
No.19、藤原日本史では、日本古来の言葉で綴られた歌が、飛鳥時代から歌われて、759年大伴家持の歌が最後だから、「万葉集」は759年完成と述べている。しかし、20巻、約4500首ある「万葉集」には、謎が多くあるのだ。現在、出版されている「万葉集」は、奈良時代の759年本ではなく、鎌倉時代に仙覚が、多くの「万葉集」を参考に著した20巻本を基本としているのだ。平安時代に多くの「万葉集」が存在した根拠としては、905年紀貫之等による日本最初の勅撰和歌集「古今集」の序文に、「万葉集」に入らぬ古き歌、みづからのものを奉らしめ給ひてなむ、とあるのに、現在に伝わる「万葉集」巻七の歌が全く同じに15首も「古今集」に入集されているからだ。このことから、現在に伝わるのとは異なる「万葉集」が、平安時代に伝わっていたことが疑われる。
No.20、何故、奈良時代、平安時代に「万葉集」が著されていなかったのか。その謎は、「万葉集」の歌は、安康天皇3年(456年)に即位したとされる雄略天皇から、天平宝字3年(759年)大友家持まで集録されている。「万葉集」には、その456年から756年まで歌われているのに、552年仏教が伝来して、飛鳥大和には仏寺が多く建立され、天皇家を護る宗教として隆盛したと「日本書記」には記述されているのに、仏を詠んだ歌がほとんどないのだ。仏は、「日本書記」で述べているのとは異なり、天皇家では日常生活に関係する「モノ」ではなかったようだ。
No.21、更に、謎は続く。「万葉語」には、濁音を専門にあらわす万葉仮名が使用されていたのに、平安時代に成立した「平仮名」には、長らく濁音をあらわす文字がなかったのだ。「万葉集」の時代には、母音の一部に二種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていた。そして、万葉仮名には、平安時代のひとが聞き分けることができない、音の区別を、明確に書き分けているのだ。
No.22、平安時代とは、唐進駐軍に支援された百済系王朝時代だ。だから、平安時代の貴人の会話は、中国の唐音で発音されていた。唐音は、京都弁の祖だ。その平安貴族が、万葉語の発音を聞き分けることができないことは、何を意味しているのか。それは、万葉歌を歌っていた民族は、平安貴族の祖ではないことを示唆する。明日香ヤマトの民族と平安時代の貴族とは、異なる民族だったのだ。
No.23、では、藤原日本史では、「万葉集」が、何故、759年の奈良時代に完成、としたのか。それは、「万葉集」の構成に、その謎が隠されている。「万葉集」の「巻第一」の巻頭歌は、雄略天皇の歌だ。仏教宣伝バイブルと云われる822年「日本霊異記」も雄略天皇の話から始まる。オオハツセ ワカタケノ スメラミコトと云われる雄略天皇の万葉歌をみてみると、
籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我こそ居れ しきなべて 我こそいませ 我こそば 告らめ 家をも名をも
この歌は、毎年若菜摘みで詠われる「よばい」の歌だ。何故、毎年歌われる「よばいの歌」が、雄略天皇の歌と云われるのか。
No.24、不思議は続く。第二の歌は、舒明天皇だ。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は
この舒明天皇の歌が詠われたのは、628年から641年までの間だ。第一の雄略天皇の歌が5世紀後半だとすると、第二の舒明天皇の歌とには、約180年間の空間がある。この180年間には、日本国の黎明期があるのだ。舒明天皇以降は、謎の「大化の改新」があった孝明天皇の時代を除いて、各天皇ごとに途切れなく続いているのだ。
No.25、「古事記」を、「日本書記」の「黙示録」とすれば、「万葉集」は、明日香ヤマトの謎を解く「鍵」を示しているのか。「万葉歌」を詠っていた、明日香ヤマトの民族は、現在の日本語語順を確立した民族であることを示唆する。それは、ウラル語を話す騎馬民族の突厥民族だ。では、その突厥語の書物は、明日香ヤマトに存在していたのか。
No.26、明日香ヤマトには、大和朝廷に不都合な書籍があったようだ。「続日本紀」に、元明天皇が年号を「慶雲」から「和銅」に改元した、708年に出された恩赦の記事に、
山沢に亡命して、禁書を隠しもっているもので、百日以内に自首しないものは、罪は初めのようにする。(死罪で、恩赦しない。)
このことから、708年には、明日香ヤマトには、禁書があったのだ。これは、藤原日本史で述べる、645年蘇我蝦夷により、天皇紀・国紀が焚書されて、明日香ヤマトの歴史書は存在しない、と矛盾する。日本列島には、藤原氏にも読めない言葉や発音で記述された「書物」があったのだ。
No.27、では、突厥語が、日本語のルーツか。そうではない。突厥民族が、明日香ヤマトに侵攻した、6世紀半ばには、南方系のポリネシア語、先住民のアイヌ語、南インドのタミル語、朝鮮半島の高句麗語・百済語・ギリシャ・ローマ文化の新羅語が存在していたのだ。突厥語の特徴である、カナクギの象形文字(後のカタカナ)、子音に硬・軟の区別、母音の省略などにより、「たそがれ」・「タフノミネ・多武峰」(連山の意)などの突厥言葉を残しただけで、古代日本列島の共通語とはなれなかった。しかし、その突厥語の語順である、主語+目的語+述語は、日本列島に暮らす民族の共通語順として、今日に至っている。万葉語とは、万国の言葉の意味だった。
No.28、「万葉集」の構成が示す、雄略天皇から舒明天皇までの180年の空白が示す不自然さは、何を意味するのか。そして、仏を詠む歌が、「万葉集」にないのは何故か。舒明天皇の歌が詠われた後、孝明天皇時代の646年薄葬令が出され、明日香ヤマトでは、巨大前方後円墳の築造が禁止されていたのだ。しかし、「日本書記」で国譲りされたとする出雲地域では、依然、前方後円墳が造り続けられていたのだ。その前方後円墳築造禁止が出された孝明天皇時代の歌が、「万葉集」にはないのだ。
No.29、仏の歌を詠わない「万葉集」には、何かのメッセージが隠されているようだ。血・死者を穢れとし、そして、死者を燃やす仏教思想が、死者の再生を願い石室に石棺を収める古墳時代中期の552年に、仏教が本当に明日香ヤマトに伝来していたのか。「日本書記」の仏教伝来物語には、藤原日本史に消された歴史があるようだ。
No.30、仏教についての疑問は、江戸時代から多くのひとから発せられていた。そのひとり、江戸時代中期の白隠禅師が、仏の真理を研究するために多数の仏典を読破しても、悟りを得られなかったことにより、「うつ」になってしまい、その結果、悟ったことは、「仏典」には真理がない、ということだった。その仏教の謎を解明したのは、大阪の醤油屋の息子で町儒学者の富永仲基だ。富永仲基は、「出定後語」で、大乗仏教加上説を唱えた。大乗仏教加上説とは、後人は先人の説に自説を加えて正統を装うとし、釈尊の唱えた仏教と大乗仏教とは全く違うことを証明した。
No.31、では、釈尊の唱えた仏教の教えとは何か。それは、バラモン教の唱える輪廻転生のカルマから逃れるため、「非人となり、乞食して生きる」ことだ。そこには、救済も浄土もない。
No.32、大乗仏教による仏教物語では、紀元前6世紀に、シャキャ族の皇子であった釈尊は、人間の生死について悩み、29歳で苦行僧となり、35歳の時、心も物もすべて無関係に存在しているものではない、という真理を悟り、その思想により精神上の生死の苦しみから解脱できる、と説いたとする。
No.33、何故、釈尊は、バラモン教が唱える輪廻転生のカルマから逃れるために「非人・乞食」の思想を考えたのか。それは、釈尊の生国に問題があった。シャキャ族とは、遊牧・騎馬民族スキタイが、黒海沿岸からインドへ渡来した肉食の遊牧民族だ。そのインドへ、アーリア人が侵攻した。アーリア人が、そのインドを支配するために発明したのが、偶像崇拝の菜食主義のバラモン教だ。バラモン教は、先住遊牧民族のトラヴィダを支配するために、身分制度を発明した。それが、バラモンの神官・王と貴族・武士と庶民・奴隷の4身分のカースト制だ。しかし、その他にも身分制があった。それが、不可触賎民チャンダラー(施陀羅)だ。バラモン教では、肉食するトラヴィダ民族を貶めるために、そのようなカースト制を発明し、永遠に変身できないように、輪廻転生の思想を発明したのだ。
No.34、大乗仏教では、釈尊が「非人・乞食」の教えを守り生活するために、生き物を殺すな、ウソをつくな、盗むな、不適切に女と関係するな、そして、午後に食事をするな、身を飾るな、ベットではなく床の上で寝ろ、という五戒・八斎戒を唱えたとする。しかし、その五戒・八斎戒とは、キリスト教の十戒に酷似している。紀元1世紀、ローマ帝国と後漢とによる絹馬交易が盛んとなった頃発明された大乗仏教とキリスト教とには、共通点が多くあるのだ。
No.34、宗教とは、明治時代初期に、英語のリリジョンから作られた言葉だ。その宗教の神が、紀元前14世紀のヒッタイト帝国の楔型文字の粘土版に、契約神ミトラとして記されていた。異民族との交易は、騙し合いだ。どのような宗教でも、「ウソをつくな」との教えがある。それは、宗教の始まりが、取引の平等を求めるために発明された契約神だったからだ。
No.35、紀元1世紀、ローマ帝国と後漢との絹馬交易の中継都市ガンダーラで、新しい宗教が発明された。そのガンダーラは、ギリシャ文化継承国のバクトリアがあった地だ。だから、ガンダーラにはギリシャ文化が継承されていた。そのガンダーラで発明された宗教は、国際交易商人と供に、東西にもたらされた。「ウソをつくな。約束を守れ。」の教えは、国際交易では必須の条件だ。国際交易商人は、その新しい宗教と供に国際交易に励んだ。
No.35、紀元3世紀、インドのバラモン僧のナーガルジュナ(竜樹)が、釈尊の「永久に不変なものはない。」という思想を、インド人が発明した数学の「0」の考えを取り入れ、「空」の思想を発明し、そして、「慈悲」の救済思想へと発展させ、釈尊の「非人・乞食」の個人修行の仏教を、庶民救済仏教に変えてしまった。
No.36、国際交易商人により広められた、この全てのひとを救う救済仏教は、ローマ帝国と後漢との絹馬交易での国際交易に物流で関係していた遊牧・騎馬民族にも浸透していった。国際交易品を中国に運ぶ遊牧・騎馬民族は、中国の儒教や道教に対抗して、救済仏教をこころの拠り所としていた。
No.37、しかし、中国に渡来したばかりの竜樹の発明した救済仏教には、キリスト教物語ソックリの仏教物語とギリシャ彫刻によるガリガリの仏像しか、布教道具がなかった。中国の儒教には、霊魂をあの世に送り出す儀式があった。道教では、不老長寿の仙薬と風水術により庶民の欲望に答えていた。その儒教・道教に対抗して、救済仏教は、中国で変身して行く。ギリシャ彫刻のガリガリの写実的仏像は、女の柔肌に透ける衣装の仏像に替わり、読経もキリスト教の聖歌隊を思わすゴスペル調風となっていった。現在に伝わる仏教儀式の多くは、儒教や道教儀式から租借したものだ。しかし、護摩祈祷の儀式は、平安時代に空海が、拝火のゾロアスター教の儀式から租借したものだ。
No.38、ローマ帝国と絹馬交易で栄えた後漢も、北ユーラシアに興った遊牧・騎馬民族鮮卑の度重なる攻撃により、220年滅んだ。三国時代の内乱から五胡十六国時代にかけて、救済仏教は変身して行くのだ。五胡十六国時代の支配者は、漢民族ではなく、チュルク系騎馬民族やチベット系遊牧民族だ。国際交易のため、全民族に救済を約束した竜樹の救済仏教は、405年五胡十六国のひとつ、後秦(384年〜417年)でバラモン僧クマラジュ(鳩摩羅汁)により、漢訳仏教に変身したのだ。この漢訳仏教には、遊牧・騎馬民族を蔑視する言葉「施陀羅」がふんだんに取り入れられたのだ。
No.39、「施陀羅」とは、バラモン教で遊牧民族トラヴィダを不可触賎民とするチャンダラーの漢訳だ。この「施陀羅」は、肉食する騎馬民族に対抗するには、強力な思想武器となった。殺生禁止により平和を守るとする漢訳仏教思想で、肉食する支配者の騎馬民族を「施陀羅」として、不可蝕賎民とすることが出来るからだ。この漢訳仏教思想を、第二民族とされた漢民族は、支配者の騎馬民族追い落としに利用した。この漢訳仏教思想の布教が、五胡十六国に広がると、騎馬民族の中から、騎馬民族の風俗を遺棄する者も現れた。騎馬民族の漢化だ。五胡十六国後の、隋、唐、宋の支配者も、漢化した騎馬民族だった。
No.40、五胡十六国も、南朝は420年武帝により統一され、宋(420年〜472年)となり、北朝は439年太武帝により統一され、北魏(439年〜534年)となった。その北魏を統一した太武帝は、漢民族ではなく、鮮卑族だった。騎馬民族を蔑視する漢訳仏教思想により、五胡十六国の一部の王朝に食い込んだ漢訳仏教は、寺(ジ)という役所施設を国際交易基地としていた。鮮卑族の太武帝が、洛陽を陥落させ、城内の寺(ジ)を捜査させると、そこには夥しい武器が保管されていた。五胡十六国時代の漢訳仏教は、庶民救済よりも、国際交易に興味があったようだ。そのため、漢訳仏教僧は、国際交易品を保管する寺(ジ)を護るため、武装していたのだ。奈良の興福寺から始まる中国製武器の長刀で武装する僧兵の祖が、北魏にあった。そこで、太武帝は、騎馬民族を「施陀羅」とする漢訳仏教を、446年弾圧するのだ。この弾圧により、200万人とも云われる仏教僧が国外追放となり、移動可能のためにクギを使用しない仏閣と供に、その一部が朝鮮半島に渡来した。漢訳仏教を弾圧した太武帝は、民間土着宗教から発展した道教を優遇した。しかし、452年騎馬民族の風俗を嫌う騎馬民族の文成帝により、仏教を弾圧していた太武帝が暗殺されると、仏教と道教の立場が逆となった。北魏を追われた道教士は、朝鮮半島から日本列島へ、又は、中国大陸から日本海(東海)を渡り、東北の日本海沿岸へと渡来した。平安時代、錬金術師空海に敗れた産鉄民族により、出羽三山が修験道の聖地となったのは、東北には、仏教が伝来する前に、産鉄民族により山岳信仰宗教が土着していたからだ。その産鉄で「火を治める」ため、錬金術師空海の仏教軍団に下った産鉄者は、「ヒジリ」と蔑まれ、「聖」として仏教組織の下人となった。
No.41、騎馬民族を蔑視し、仏典と仏像により布教する漢訳仏教と、肉食を禁忌せず、不老長寿の仙術と薬草治療を行う道教とを比べれば、騎馬民族が受け入れた宗教は、漢訳仏教ではなく、道教の方だ。
No.42、この中国北魏から、道教が追放された時代の日本列島は、謎の4世紀に続く、藤原日本史では、倭の五王時代だ。倭王は、海洋民族で、騎馬民族ではない。しかし、藤原日本史で倭五王とする時代、日本列島の古墳の埋葬品が、祭祀道具から、実戦用の馬具や鉄武器・農具へと替わっていた。このことは、日本列島で、騎馬による戦闘がおこなわれていたことを示唆する。
No.43、5世紀後半の東アジアでは、南朝の宋、北朝の北魏、そして、東ユーラシアの柔然が支配していた。その柔然を、中央ユーラシアに興った騎馬民族チュルク系高車が攻撃をし、508年柔然を破った。その勢いで、高車は北魏を攻撃したため、北魏は、535年西魏と東魏に分裂した。そして、北朝は動乱の時代に突入した。
No.44、その北魏が東西に分裂した頃、藤原日本史では、欽明天皇7年(538年)飛鳥大和に、朝鮮半島百済の聖明王から、釈迦の仏像とお経三巻が届けられたとするのだ。その頃の朝鮮半島では、高車と北魏残党との戦闘により、高句麗が南下して、百済と新羅を圧迫していたのだ。その結果、北魏を追われた仏教徒が、528年ギリシャ・ローマ文化の新羅を占領したので、新羅の王族・貴族は北九州に亡命してきた。その時の、北九州での新羅亡命軍と先住民との戦いを、藤原日本史では、527年筑紫国造磐井の反乱として、大和朝廷での内乱としているのだ。
No.45、北魏を分裂させた高車を、バイカル湖沿岸に興った騎馬民族突厥が取り込み、西はカスピ海沿岸から、東は中国大陸極東までを支配し、552年突厥帝国を興した。この突厥帝国庭に、東ローマ帝国の返使ゼマルクスが入った。東ローマ帝国と突厥帝国とは、絹馬交易をおこなっていたが、その交易を中央ユーラシアを支配するエフタルが妨害していたからだ。そのエフタルは、東ローマ帝国軍と突厥帝国軍に挟み撃ちされ、563年散逸した。
No.46、この突厥が高車を取り込み、535年北魏を東西に分裂させた頃、藤原日本史では、飛鳥大和の朝廷に、突然、蘇我稲目が大臣となって現れるのだ。そして、蘇我稲目は崇仏派となり、廃仏派の物部尾輿と神仏戦争を起こした、と藤原日本史は述べるのだ。しかし、この神仏戦争の不思議は、父親に続いて蘇我馬子と物部守屋も続いて神仏戦争を起こした、とするのだ。そして、蘇我親子と物部親子との二度の戦争に、廃仏派として藤原鎌子が二度も登場していることだ。そして、その二度の神仏戦争のストーリーが、仏像を難波の堀江に捨てるなど同じなのだ。その二度目の神仏戦争の時に、少年「聖徳太子」が崇仏派として登場するのだ。その藤原日本史で二度も仏像を投棄したとする難波の堀江とは、唯の堀などではなく、河内湖の水を大阪湾に流し、海外からの大型外洋船を難波津(浪速←ローラン)に接岸するための大運河なのだ。そして、その堀江から取り出した仏像が、長野県善光寺にあるというのも不思議だ。その善光寺の仏像は、物部尾輿が投棄したものか、物部守屋が投棄したものか、その説明は無い。
No.47、では、この神仏戦争での、神とは何だ。一般的には、神道の神と信じられている。しかし、神道の神は、奈良時代に藤原氏により創作され突然現れた神だ。では、神仏戦争の神が、神道の神ではないのならば、一体、どのような神なのだ。
No.48、日本列島で、現在まで祀られていて、出自の分からない神が二神ある。そのひとつが、比叡山延暦寺の裏戸神である「魔多羅神」で、もうひとつが、ヤクザの的屋が祀る「神農皇帝」だ。その「神農皇帝=神農神」は、薬学部の生徒が祀る薬草学の神でもあるのだ。
No.49、比叡山の魔多羅神のルーツを辿れば、魔多羅神はミトラ神だ。その流れは、比叡山(平安時代、祭祀場跡に延暦寺)←三笠山(奈良時代、祭祀場跡に春日大社)←北九州(608年遣隋使が見聞した秦王国)←ギリシャ・ローマ文化の新羅(356年〜527年、新羅軍団は花郎騎士団=ミトラ騎士団)←秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)←ギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年、大月氏=弓月国)←アッシリア帝国(紀元前933年〜紀元前612年)←イスラエル国(紀元前932年〜紀元前722年)←ヘブライ(紀元前1230年〜紀元前932年)←古代エジプト(紀元前14世紀アメンホテプ4世時代)←ヒッタイト帝国(紀元前1900年〜紀元前1190年、日の出、天中、日没の三身一神の太陽神で契約神ミトラ)、となる。太陽のように再生を繰り返す、死者の復活を約束するミトラ神は、古代エジプトの土木建設と運河削掘技術を持つ秦氏と供に、死者の復活を信じる古代エジプトの埋葬形式を取り入れた石室・石棺を持つ古墳が現れた時代(5世紀半ば)に日本列島に渡来。
No.50、神農神のルーツを辿れば、神農神は道教の神のひとりだ。「神農皇帝」を祀る露天商の的屋(第三百済王朝の江戸時代中期、矢場で博打をおこなっていた。)←香具師(ヤシ。室町時代、役座が仕切る高市のバザールで香具類を商う。)←野士(ヤシ)←野武士(第二百済王朝の鎌倉時代、都を追われる。)←武士(平安時代、939年天慶の乱を騎馬武力で鎮圧したため、祭祀者の武芸者からガードマンの「武士」と王権から認められる。)←蝦夷(奈良時代、唐進駐軍に明日香ヤマトを追われ、陸奥国に逃れる。)←明日香ヤマトの武人(3世紀後期の古墳時代から645年まで、明日香ヤマトを軍事支配する。)←530年〜645年明日香ヤマトの花郎騎士団(ギリシャ・ローマ文化国新羅から渡来)+騎馬民族突厥帝国武人(フェニキアのアルファベットを利用し、漢字を使って明日香ヤマトの万国言葉を表記。カタカナの祖、カナクギ文字の楔形文字を持つ。突厥語語順は現在の日本語語順のルーツ。)、となる。
No.51、藤原日本史によれば、仏教伝来は538年か552年としている。しかし、明日香ヤマトが、唐進駐軍に壊滅された、645年に仏教興隆の詔が発せられている。これは可笑しい。藤原日本史によれば、593年聖徳太子は、女帝推古天皇の摂政となり、594年仏教興隆の詔を発しているではないか。そして、飛鳥大和には、聖徳太子が建立したとする七寺が存在していたのではないか。その謎は、588年着工したとする法興寺(飛鳥寺)跡の発掘物に、ガラス玉や埴輪など古墳埋蔵物と同じ物があることから、解明される。645年以前の明日香ヤマトには、仏寺など無かったのではないか。古墳が破壊された跡に、仏寺(法興寺=飛鳥寺)が、何処からか移築されたのではないか。蘇我馬子とされる古墳が破壊され、石室がむき出しにされた石舞台が現れた、奈良時代初期、明日香ヤマトは、藤原氏により仏教テーマパークにされたのではないか。それは、明日香ヤマトのオリエント文化と、蘇我氏とする騎馬民族突厥民族の歴史を抹殺するためではないか。
No.52、その推測が正しいとすると、蘇我氏と物部氏による、二度の神仏戦争とは何か。それは、藤原氏が、何かを隠す、或いは、消すために、親子二度の神仏戦争物語を創作したようだ。それでは、何故、藤原氏は、蘇我氏と物部氏を歴史上消そうとしたのか。
No.53、藤原日本史によれば、物部氏は587年に、蘇我馬子により滅ぼされ、そして、その蘇我氏は645年、中大兄皇子と中臣鎌足により滅ぼされた、としている。では、その物部氏と蘇我氏とは、何者なのか。
No.54、神仏戦争時の物部氏は、藤原日本史によれば、朝廷を護る軍事部族か祭祀部族で、河内を拠点とする豪族とする。そして、その出自を辿れば、河内←吉備←北九州となり、その先は不明だ。物部氏の九州支配時代とは、藤原日本史で云う倭五王の時代のようだ。藤原日本史では、その頃、飛鳥大和を支配する倭五王は、南朝の宋と交易をし、宋に替わり梁の時代、502年梁の武帝により倭王が征東大将軍とされたとする。その倭五王のひとりを、藤原日本史では、さいたま県稲荷山古墳から出土した剣にあるワカタケル大王を、雄略天皇とするのだ。つまり、5世紀の飛鳥大和を支配した雄略天皇は、倭王武で、梁から征東大将軍を賜った、とするのだ。しかし、倭王武が、478年宋の皇帝に出した上表文には、奈良の飛鳥大和には、倭王国が存在していなかったことを示すのだ。
昔より祖禰躬ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海の北を平らぐること九十五国。
この倭王武の上表文によれば、倭王の遠い先祖は、自ら甲冑で武装して周辺諸国を武力で制圧していたらしい。その文中で、倭国の位置を示す文章がある。それは、「渡りて海の北を平らぐる」の文章だ。奈良の飛鳥大和の北には、当然内陸の盆地なので、海などない。海の北の夷を平らぐことができるのは、北九州だ。その北九州には、弥生時代の倭族の先祖の埋葬形態を示す、甕棺に屈葬の遺跡が数多く発掘されている。弥生時代、その頃の奈良の盆地は、定期的に氾濫する河川により、ひとも住めぬ大湿地帯だったのだ。だから、古代エジプトの土木建築技術を持つ民族が、その大湿地帯を居住地にするために、奈良盆地に大運河を造り、巨大前方後円墳を築いたのだ。
No.55、五世紀の日本列島に、奈良の大和朝廷が支配する倭国などなかったことが、南朝である梁(502年〜557年)の「梁書」に記されている。それによれば、5世紀の日本列島には、倭国(北九州)、文身国(出雲)、大漢国(大阪)、扶桑国(東北)の国々の存在が示されている。もし、4世紀から奈良の飛鳥大和に、日本列島各地の豪族を支配下とし、日本列島各地に、巨大前方後円墳と同型の古墳を築かせ、そして、さいたま県の支配者に剣を贈るほどの大王が、奈良の飛鳥大和に存在したとするならば、当然、中国の史料にその王国の存在が示されているはずだ。
No.56、7世紀初期の奈良の王国の存在を示す中国史料がある。それは、608年隋使裴清(裴世清)の報告による「隋書」だ。それによると、都にて男王アマタリシヒコに謁見した、とある。藤原日本史によれば、その頃の飛鳥大和の朝廷は、女帝推古天皇(593年〜628年)と摂政聖徳太子とが支配していた時代とする。しかし、「隋書」によれば、飛鳥大和には女帝推古天皇など存在していなかったのだ。そして、隋使裴清は、北九州で中国ソックリの高度文化の「秦王国」を見聞していたのだ。藤原日本史では、3世紀の「魏志倭人伝」の卑弥呼については詳しく語るのに、7世紀の「隋書」による隋使の報告の存在を無視しているのだ。
No.57、中国の史料と藤原日本史の物語とには、整合性に多くの疑問が生じる。これは、どちらかが「ウソ」をついていることを示唆する。藤原日本史の基本史料は、720年「日本書記」だ。その720年「日本書記」の文章と、中国各帝国史料とを比べれば、記述の信憑性は、中国史料だ。
No.58、「日本書記」が、明日香ヤマトの歴史について「ウソ」をついているとすれば、明日香ヤマトの史実はどのように推測されるのか。藤原日本史による、538年蘇我稲目と物部尾輿、587年蘇我馬子と物部守屋との二度の神仏戦争とは、大阪湾に流れ込む淀川系水利の支配権を巡って、北九州から河内に侵攻した秦氏と、そして、日本海沿岸の東北→越前→琵琶湖まで侵攻した突厥帝国進駐軍との、20年間に及ぶ水利権戦争を消すための物語が示唆される。その淀川系水利権を支配すれば、内乱の中国北朝と朝鮮半島付け根を支配する高句麗を避けて、東ユーラシアと絹を生産する中国南朝との国際交易ルートが確保されるからだ。国際交易ルートの確保が必要なのは、秦氏も突厥帝国も、国際交易民族であるからだ。
No.59、秦氏が物部氏で、そして、突厥民族が蘇我氏(=継体天皇)であることは、北九州→吉備→河内への、秦氏と物部氏との侵攻ルートが、そして、突厥民族の明日香ヤマトへの侵攻が、越前→河内樟葉→山背筒城→山背弟国→大和磐余玉穂への、継体天皇(=蘇我氏)の侵攻ルートとダブルからだ。謎が多い継体天皇の存在は、「古事記」の継体天皇の年齢表示により否定できるのだ。「日本書記」では「57歳」で即位したとする継体天皇は、「古事記」の「享年47歳」で否定されるのだ。「古事記」は、「日本書記」の偽史を暴くために、平安時代初期、多人長が著した書籍なのだ。藤原氏による継体天皇の発明は、突厥民族の東北日本海沿岸から越前、そして、明日香ヤマトへの侵攻を歴史上消すためだった。
No.60、藤原日本史が述べる552年伝来とする仏教とは、突厥民族が、明日香ヤマトを支配した時にもたらした、漢訳仏教の敵である、神農神を祀る「道教」なのだ。つまり、藤原氏が述べる神仏戦争とは、秦氏により太陽を祀る「ミトラ教」(景教)と、突厥民族が祀る北極星(太一)を天神とする「道教」との戦いだったのだ。
第四章「消された明日香ヤマトの神々」
No.1、日本列島古代史を考察する時、考えなければならないことのひとつは、ユーラシア大陸を支配した騎馬民族の存在だ。その騎馬民族は、年がら年中戦争をしているわけではなく、平和時では、騎馬の輸送力を利用して、あらゆる困難を克服して国際交易をおこなう商業民族でもあるのだ。
No.2、藤原日本史が、「日本書記」で、552年仏教が飛鳥大和に伝来したとする時期に、中央ユーラシアに興った騎馬民族の突厥民族は、西はカスピ海沿岸から東は中国大陸北部の東ユーラシア全体までを支配する大帝国を、552年興しているのだ。そして、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていたのだ。そのため、国際交易品の絹を求めて中国南朝との交易をおこなうための交易路の確保に躍起になっていたのだ。しかし、中国北朝では、535年北魏が分裂して内乱状態にあり、そして、東ユーラシアから朝鮮半島を経て日本列島への最短経路には、強国高句麗が存在していたのだ。
No.3、騎馬民族突厥は、その祖はバイカル湖沿岸に興った民族だったので、海のようなバイカル湖を渡る航海術に長けていた。だから、東ユーラシアの極東のウラジオストク、ナホトカから、日本海を渡海して、日本列島に至ることは、騎馬民族突厥には困難なことではなかった。6世紀半ば、ユーラシアを支配した騎馬民族突厥は、東ローマ帝国との絹馬交易のため、日本列島を回廊として、絹を産する中国南朝との国際交易を望んでいたのだ。
No.4、589年中国を統一した隋に、突厥の可汗は「天子・テングリ」として隋の皇帝に書を致した。その提出時期は、藤原日本史が述べる、聖徳太子が隋の皇帝に「国書」を出したとする少し前だ。
天より生まれたる大突厥の天下聖賢天子のイリキュルシャドバガ・イシュバラ可汗、書を大隋皇帝に致す。
その国書を出した後、582年突厥は、隋に侵攻したが破れ、翌年、突厥は東西に分裂した。藤原日本史によれば、その頃の日本列島の明日香ヤマトでは、蘇我馬子(突厥進駐軍王)が、大臣として飛鳥大和朝廷を支配していたとする。そして、592年蘇我馬子は、崇峻天皇を暗殺した、とするのだ。
No.5、藤原日本史では、607年遣隋使小野妹子は、隋の皇帝に「国書」を提出した。その「国書」とは、
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや。
その返書はなく、その代わり、翌608年隋使裴清(裴世清)が倭国に派遣されたのは何故か。隋使裴清は、倭国の都で、女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒシコに謁見し、何を語ったのかは謎だ。そして、その年に隋使裴清は帰国した。
No.6、6世紀後半のユーラシア大陸を支配していた突厥帝国が、583年東西に分裂したことにより、突厥帝国軍団の一部が、日本列島に渡来した。そのことにより、明日香ヤマトは、隋帝国軍の侵入に備えて、軍事要塞化されたのだ。藤原日本史で述べる「聖徳太子の国書」とは、敗者復活を求める明日香ヤマトの突厥帝国残党による、隋皇帝に対する挑戦状であったのだ。しかし、その隋帝国は、高句麗侵攻の失敗により、618年滅んだ。
No.7、618年隋が滅ぶと、唐が興った。唐の国際都市長安には、各国の国際交易商人と供に、ゾロアスター教やネストリウス派キリスト教などの西域の僧侶が、571年ムハンマドにより興されたイスラム帝国から逃れるために、多数渡来していた。6世紀のユーラシアを支配した突厥帝国の国力が衰えたのは、中東に興ったイスラム帝国の商人が、東ローマ帝国との絹馬交易権を奪ったからだ。東ローマ帝国との国際交易ができなくなったため、突厥帝国の軍団の中には、進んで、唐軍団に走ったものも多くあった。その結果、東突厥は、630年唐帝国軍により散逸されてしまう。
No.8、母国東突厥を失った明日香ヤマトの支配者は、来るべき唐帝国軍の侵攻にそなえて、軍事施設の「ミヤケ」を畿内から瀬戸内海沿岸地域にかけて築き、北九州には大きな堀を築き「水城」とした。明日香ヤマトの防衛軍は、唐進駐軍は瀬戸内海からか、或いは、若狭湾からの侵攻を想定したので、軍事都市明日香ヤマトの備えは、北側と西側を強化した。南側は吉野山系により、唐軍団が侵攻しないと考えたわけだ。明日香ヤマトの南側を守るのは、多武峰の山城だけだ。しかし、唐進駐軍は意外なところから現れた。
No.9、645年この唐軍の明日香ヤマトへの侵攻の経緯は、「日本書記」の神武天皇東征物語に述べられている。その物語では、神武天皇軍が、九州から飛鳥大和を攻略するために、河内湾の西側から奈良盆地を攻めたが、ナガスネヒコの先住民族の抵抗に会い、撤退を余儀なくされ、紀ノ川河口まで逃れた。そこで、正攻法では勝利できないと悟った神武天皇軍は、飛鳥大和を護る宇陀のウカシ・オトウトカシ兄弟を仲違えさせ、オトウトカシに宇陀の情勢を密告させるのだ。そして、ウカシを殺害した後、神武軍は熊野の古道により、南側から明日香ヤマトに侵攻したのだ。この「日本書記」の神武天皇東征物語の登場人物を、神武天皇軍を「唐進駐軍」、宇陀のオトウトカシを「中臣氏」(藤原氏の祖)、ナガスネヒコを「新羅花郎騎士団」、ウカシを「突厥帝国軍」とすれば、645年明日香ヤマトがどのようにして壊滅したかを想像できる。
No.10、645年明日香ヤマトを追われた突厥帝国軍残党と新羅花郎騎士団残党は、秦氏が支配している、奈良盆地の北側の山背国に落ち延びるのだ。しかし、この明日香ヤマトの歴史は、645年の焚書で消されてしまった。この焚書事件を、藤原日本史では、645年蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を焚書した、とするのだ。しかし、書物は焚書できるが、言葉や風俗・文化は、為政者により人為的に消すことは出来ない。遺跡も破壊から免れることにより、物言わぬ資料となる。
No.11、645年明日香ヤマトを唐進駐軍が支配すると、その配下の中臣氏は、籐氏(藤原氏は正式文章では「籐氏」)と名乗った。686年日本国初の天皇である、新羅系天武天皇が崩御すると、藤原不比等は、女帝持統天皇を傀儡として、偽書編纂にとりかかった。701年奈良盆地を完全支配した唐進駐軍は、日本列島住民を法律と罰で支配するために、唐制にならい、大宝律令を発した。名実ともに唐進駐軍の傀儡として実権を握った藤原不比等は、律令にもとずく地方からの収税体制を確立するために、山陰道は伯耆国、山陽道は備後国、南海道は讃岐国、東海道は相模国、東山道は信濃国、北陸道は越中国の諸国の国司(ミコトモチ)達に、任国の「土風の歌舞」や「風俗の歌舞」を奏上させた。それは、偽書「日本書記」を創作するための資料集めだ。
No.12、古墳時代に敷設された各国に通じる道とは、唯の道ではないのだ。側溝を持ち、何層にも土固められた道幅は、狭いところで12mもあるのだ。そして、谷は埋められ、峠は切り通された直線道路だったのだ。それは、正に、ローマ帝国軍の軍事道路と、その敷設思想は同じだ。そのひとつの東山道は、東北の秋田までつづくのだ。藤原日本史によれば、東北の秋田は、801年坂上田村麻呂にアテルイが騙されて支配されるまで、未開の地ではなかったのか。そして、更に、713年藤原不比等は、各国の国司に、風土記撰上の詔を発した。そして、同年「畿内七道の諸国郡郷の名は、好字を著けよ。」の好字令により、古来からの日本列島各地の郡名・郷名が、騎馬民族の歴史と供に消されたのだ。
No.13、藤原日本史の不思議のひとつは、時代的に古いほど、飛鳥大和から距離的に遠いほど、大和政権や律令制度との係わり合いが深く整合的に整えられていることだ。これはどういうことだ。それは、地方の異民族に強制的に提出させた古い史料を基に、藤原氏に都合よく、歴史物語が創作されているからだ。「日本書記」は、藤原不比等により、各国の被支配者から集められた史料を参考に、創作されていたからだ。
No.14、「日本書記」が藤原氏による偽書である根拠のひとつとして、646年「大化の改新」の詔がある。その詔では、人民を統治するために「郡制」を施行したとする。しかし、郡制の施行は、646年ではなく、701年大宝律令以降で、それ以前は、評制であったことは、藤原京跡出土の木簡により証明されているのだ。
No.15、藤原日本史では、4世紀に飛鳥大和に天皇家による王権が存在していたとする。その根拠として、三輪山麓の傾斜地に巨大前方後円墳が築かれているからとする。つまり、藤原日本史では、巨大前方後円墳は、天皇家の墓とするのだ。しかし、巨大古墳の築造の目的は、その地域を支配した者の墓だけではないようだ。
No.16、4世紀から5世紀前半にかけて、能登七尾市域に、南側に径67m高さ14.5mの円墳と北側に全長70mの前方後円墳が築かれている。この地域には、政治勢力の並存は考え難い。では、同時期に築造された円墳と前方後円墳は、唯、死者を埋葬するだけの墓なのか。古墳文化の民族は、死者は再生すると信じられているので、分断して埋葬することはない。だとすると、二つの異なる形式の古墳は、唯の墓ではなく、あることを目的にする記念的営造物と考えられる。
No.17、巨大古墳は、藤原日本史で主張するように天皇家の墓として発明されたのではなく、異民族が暮らす地域での共同体を形成するために、そして、その結果としての、地域的専制体制を意図して、高度土木建築技術を持つ渡来民族により、その時代時代の情勢に合わせて築かれたものだ。
No.18、巨大古墳出現時には、前方後円墳と同時に、前方後方墳も築かれていた。その二つの巨大古墳を分解すると、前方後円墳=方墳+円墳だ。そして、前方後方墳=方墳+方墳だ。円墳は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅慶州に多く発掘されている。方墳は、騎馬民族が、ユーラシア大陸から日本海を渡海して訪れた、日本海沿岸の出雲、北陸に多く発掘されている。そして、4世紀初期の前方後方墳は、近畿地域よりも、北陸諸地域に断然多く発掘されている。その同時期に築かれていた二つの巨大古墳は、やがて、前方後円墳に統一されていき、そして、古墳時代後期には、前方後方墳はほとんど発掘されない。
No.19、では、前方後円墳が、唯の墓ではなく、記念碑的営造物だとすると、その場でおこなわれた儀式とは、どのようなものか。藤原日本史では、二度の神仏戦争で、祭祀民族とする物部氏が廃仏派で、日本列島古来の神を祀らず、蕃神の仏を祀ると祟りがある、と述べている。そして、その神は、神道の神とするのだ。しかし、藤原日本史による、この説明は可笑しい。それは、神道は、死を穢れとしているからだ。
No.20、巨大古墳を破壊し、穢れ思想が蔓延していた平安時代では、危篤状態のひとは、息のあるうちに外に放り出されていたのだ。死者が、家内にいると、その家自体もその家族も全て「穢れ」てしまうからだ。その穢れを祓うために、その喪の日数も規定されていたのだ。平安時代と異なり、死者の復活を信ずる古墳時代に、死を「穢れ」とする神道の神が、古墳を築いた民族に受け入れられていたはずはないのだ。このことからも、死者の復活を信じる古墳時代(畿内4世紀〜645年・畿外4世紀〜8世紀半ば)に、穢れとして死者を燃やしてしまう漢訳仏教が、646年薄葬令が出るまで古墳を築いていた明日香ヤマトに、552年伝来していたはずはない。天皇で初めて火葬されたのは、697年女帝持統天皇だ。その前686年崩御の天武天皇は、土葬だった。
No.21、騎馬民族が多く渡来した日本海沿岸の越前国、能登国を中心に、日本海沿岸地域には、カラカミ(漢神)信仰が、奈良時代から平安時代まで残されていた。その神は、官製の神ではないため、大和朝廷の神祇統制や仏教統制にも把握されていなかった。では、そのカラカミと大和朝廷から云われた神は、どのような神であったのか。
No.22、唐進駐軍を後ろ盾にしていた藤原氏が、国璽を私邸に持ち込んだり、勝手に貨幣を鋳造したり、天皇家の権威を排除したり、唐進駐軍傀儡から独立するために起こした、764年恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱により、薩摩ハヤトを中心とした藤原軍団は壊滅され、それに替わり、亡命百済貴族末裔の光仁天皇の息子桓武天皇が、唐進駐軍の傀儡となった延暦年間、791年(延暦10年)、801年(延暦20年)、越前に詔が発せられた。それは、牛を殺してカラカミを祀ることの禁止だ。(「続日本紀」による。)この牛の屠殺禁止は、越前だけではなく、それ以前の、奈良時代741年にも牛の屠殺禁止が、朝廷から発せられていたのだ。
No.23、では、大和朝廷は、何故、牛の屠殺を禁止したのか。藤原日本史で述べる552年仏教伝来により、殺生禁止の思想が広がっていたから、という答えは、答えにならない。もし、全ての動物の屠殺禁止であれば、何故、牛の屠殺だけ詔を出してまで禁止したのかを説明できないからだ。牛の屠殺とは、食肉を取るためではなく、蕃神のミトラ教の宗教儀式だったのだ。古墳時代の民族は、仏教・神道が伝来する以前に、ミトラ教の儀式により、日照りを解消するために、古墳近くの斎場で牡牛を屠っていたのだ。
No.24、太陽を神として祀り、牡牛を太陽の化身とするミトラ教では、太陽が冬至に死に、そして、再び復活することを、牡牛の犠牲儀式により再現したのだ。この儀式は、紀元前14世紀イクナトン4世の宗教改革が失敗し、そのことにより古代エジプトから脱出した民族が、シナイ半島で遊牧民族と出会ったときに発明されたようだ。
No.25、では、そのミトラ教を日本列島に、いつ誰が持ち込んだのか。考えられるのは、ギリシャ・ローマ文化国新羅からだ。ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、漢語ではなく、漢字をアルファベットとして使用していたのだ。もちろん、中国皇帝と漢語でコミニュケーションが執れなかったので、漢訳仏教が伝来していた高句麗や百済の通訳を必要としていたのだ。そして、527年まで、古代新羅は、仏教国ではなかったのだ。それは、古代新羅は女王国であったので、血の禁忌により女性を蔑視する漢訳仏教など受け入れるはずはなかったのだ。この古代新羅の軍団は、ローマ帝国軍と同じに、、ミトラ神を軍神として祀っていたのだ。そのため、古代新羅の軍団は、花郎騎士団と呼ばれていた。「花」とは、「ミトラ」の借字だ。このミトラ教は、秦氏と供に、古代エジプトの埋葬思想と同じ横穴式石室・石棺を持つ古墳が出現した頃、日本列島に伝来したのだ。その石室・石棺の古墳時代には、ミトラ教の他に、騎馬民族と供に、道教が伝来していた。
No.26、藤原日本史では、日本列島には、神道と仏教のみが、朝廷で認められていたとし、ミトラ教や道教の存在を認めていない。その明日香ヤマトのミトラ教と道教を歴史上消すための仕掛けが、「日本書記」による、蘇我氏(=突厥軍団)と物部氏(=秦氏)が登場する二度の神仏戦争物語だ。しかし、現在の伊勢地域には、「太一」信仰がある。太一とは、北極星のことだ。平安時代、「日本書記」の偽書性を暴くために、多人長は812年「古事記」を創作し、古墳時代の明日香ヤマトでは、「仏」ではなく、「北極星」を祀っていたことを暗示するために、「天御中主命=北極星」を神話の最初の神としたのだ。その北極星は、道教では神であるのだ。その道教の神である北極星を護るのが、北斗七星で、それは、真人と呼ばれた。その真人は、天皇を護る高官名だ。天皇による人民支配システムは、騎馬民族の支配システムから発明されたものだ。再生を信じる騎馬民族は、不老不死の神仙思想の道教を信仰していたので、その騎馬民族の支配システムには、道教思想が取り込まれていたのだ。それに、騎馬民族にとって、天の中心で不動の北極星は、目標が定かではない大草原を移動するには、現在位置を示すナビゲータでもあったのだ。騎馬民族は、「夜」北極星を眺め、現在位置を確認していたのだ。
No.27、古墳時代の明日香ヤマトで、ミトラ教や道教が支配者により祀られていたが、645年唐進駐軍に、明日香ヤマトが占領されてしまったため、ミトラ教徒や道教士は、山奥に逃れたのだ。そして、それらの祭祀者は、侵攻して来た漢訳仏教により、「鬼」と呼ばれて行くのだ。
No.28、古代の政治とは、「マツリゴト」と言い、政治は祭祀儀式と密接な関係でおこなわれていた。その「マツリゴト」の最高祭祀者が、その民族の支配者ということだ。だから、支配者は、その民族の宗教シンボルを祀るのだ。秦氏は、太陽神ミトラを祀るので、「日・太陽」を祀り、突厥民族は、「北極星」(太一)を祀る。だから、秦氏の祀りがおこなわれるのは、太陽がある「昼間」だ。そして、突厥民族の祀りがおこなわれるのは、北極星がある「夜」だ。645年以前の明日香ヤマトでは、秦氏と突厥民族とが、それぞれ「昼」と「夜」に分かれて政(まつりごと)をおこなっていたのだ。その二つの異なる民族による二重政治を意味するのが、「明日香ヤマト」の地域名だ。奈良県の530年から645年までの「明日香ヤマト」とは、突厥民族の都の意味のアスカと、秦氏の北九州「秦王国」の山台国(大分宇佐地域の山は台型山が多く存在している。)を合体させたものだ。それを、藤原氏は、713年の好字令により、「飛鳥大和」として、前政権の突厥民族と秦氏の歴史を消していたのだ。
No.29、日本列島の明日香ヤマトの「マツリゴト」を示す史料がある。それは、藤原日本史が、隠蔽した、600年遣隋使と隋文帝との遣り取りを記した文章だ。その文章には、遣隋使による倭国の政治についての説明がある。
倭王は天を以って兄とし、日を以って弟と為す。天未だ明けざるとき、出て政を聴き、跏趺して座す。日出づれば便ち理務を停め、倭が弟に委ねんという。
明日香ヤマトの600年とは、藤原日本史では、女帝推古天皇(593年〜628年)と摂政聖徳太子が政をおこなっていた時代だ。しかし、隋の国書である「随書」には、遣隋使の報告のによれば、政治は「昼夜」の二重体制となっていたことが示されている。その600年遣隋使の記事は、「日本書記」にはないのだ。そして、その「隋書」の文章には、倭王は騎馬民族であることが示されている。それは、「跏趺して座す。」の文章だ。その座り方は、「アグラ」だ。騎馬民族の正式な座り方だ。現在では、「アグラ」は下品な座り方と言うが、正座は、漢訳仏教が広めた罪人の座り方なのだ。
No.30、藤原日本史で云う推古天皇の時代、奈良盆地には、北側の飛鳥と、南側の斑鳩とに都があったとする。北側の飛鳥では女帝推古天皇が政をおこない、聖徳太子は蘇我氏の横暴を避けるために、南側の斑鳩に引越し、毎日、その20kmほどの距離にある飛鳥まで、愛馬黒駒により通勤していた、とするのだ。だとすると、馬が疾走できるのは昼間であるから、飛鳥大和での政は、藤原日本史によれば、「昼間」におこなわれていたことになる。すると、「隋書」との整合性が合わないことになる。それでは、「日本書記」か「隋書」とのどちらかが「ウソ」をついていることになる。
No.31、藤原日本史では、その聖徳太子が住む斑鳩に、607年法隆寺を建立したことになっている。しかし、その法隆寺は、670年落雷により全焼してしまった、と言うのだ。昭和の中頃、その法隆寺境内で発掘がおこなわれた。そこで、遺構が発掘されたのだ。その遺構は不思議なことを示していた。その遺構は、仏教寺院建築基準に合わないのだ。仏教寺院建築基準は、南北軸だ。しかし、その遺構は、南北軸より西に約20度傾いているのだ。この南北軸から西に約20度傾いている遺構は、古墳時代には秦氏の棟梁秦河勝の支配地であった、太秦の広隆寺跡(弥勒菩薩=ミトラ神が祀られていた。)からも発掘されている。これはどういうことなのだ。
No.32、太陽神ミトラを祀るミトラ教では、冬至は聖なる特別な日だ。ミトラ教では、太陽が最も低い位置にある12月25日(キリスト教は、ミトラ教の聖なる日を「クリスマス」として取り込んだ。)に、太陽神再生のため、太陽神の化身である牡牛を屠るのだ。そのための祭祀施設は、冬至の太陽が当たる、南北軸から西に約20度傾けて建設されるのだ。このことから、法隆寺境内から発掘された遺構は、ミトラ教の宗教施設であることが示唆される。斑鳩は、秦氏の祭祀者が、「昼」に政をおこなう都だったのだ。だとすると、飛鳥は、突厥民族が政を「夜」おこなう都と推測される。
No.33、藤原日本史では、崇仏派の蘇我氏は、仏像を安置するために、私邸を仏寺とした、とする。そして、588年法興寺(飛鳥寺)の建設着工をし、596年完成した、とする。しかし、その法興寺跡を発掘すると、古墳の埋蔵物と同じものが出土したのだ。そこから考えられることは、法興寺は、古墳を破壊した跡に移築されたということだ。この推測が正しいとすれば、法興寺の移築時期は、588年ではなく、畿内の古墳時代が終焉した645年以降が考えられる。この推測を証明するように、この飛鳥地域からは、仏教文化では説明できない、オリエント文化を示すような遺構・遺物・石物などか沢山発掘され「つづけて」いる。
No.34、奈良盆地では、明日香ヤマトのオリエント文化色の強い石造物、大路、大運河の遺構・遺跡が、今も発掘されつづけている。藤原日本史信奉者は、それらの遺構・遺跡の説明として、「日本書記」にある斉明天皇の業績に結び付ける傾向がある。「日本書記」によれば、皇極天皇(641年〜645年)が斉明天皇(655年〜661年)となって、飛鳥大和に、大運河、石積みの丘、多武峰に宮を建設していた、とするからだ。しかし、藤原日本史で言うところの飛鳥時代、つまり、古墳時代に敷設された大路と言われる幅広の直線道路は、南北軸ではなかったのだ。その斑鳩から飛鳥につづく大路は、藤原日本史では、「太子道」と云われている。それは、聖徳太子が通勤のため、愛馬黒駒で疾走したからという。その大路は、南北軸から西に約20度傾いているのだ。それは、斑鳩の都が、南北軸から西に約20度傾いているからだ。斑鳩は、ミトラ教の都だったのだ。
No.35、645年唐進駐軍が、明日香ヤマトの支配者を奈良盆地北の山背国に散逸し、694年唐の都を真似た藤原京に遷都する時、奈良盆地に大路を敷設するのだが、その敷設基準は南北軸だ。その南北軸の大路の下から、「太子道」が発掘されていることは、「太子道」は、藤原京遷都時代よりも古いということだ。
No.36、「太子道」を斉明天皇が敷設したとするならば、斉明天皇は、ミトラ教信者だったのか。斉明天皇の「斉明」とは、「あまねく照らす。」の意味だから、太陽天皇ということになる。しかし、藤原日本史では、「太子道」で飛鳥まで通勤していた聖徳太子は、622年46歳で死去したことになっている。それでは、655年に即位した斉明天皇は、「太子道」である大路を、奈良盆地に敷設することは不可能だ。だとすると、古墳時代(飛鳥時代)に、奈良盆地に、南北軸から西に約20度傾いた大路を敷設したのは、誰なのか。
No.37、奈良盆地の大運河にも疑問がある。それは、608年小野妹子に伴って来朝した隋使は、難波津で川船に乗り換え、都に至っていたからだ。奈良盆地の大運河は、655年即位した斉明天皇以前の、608年には存在していたのだ。そして、斉明天皇が建てたと言う多武峰の両槻の宮も、その地には、4世紀から石組で麓を囲った朝鮮式山城があったのだ。すると、結果的には、斉明天皇が大土木事業により造ったとするものは、それ以前から明日香ヤマトに存在していたものばかりだ、と言うことだ。藤原氏は、斉明天皇の大土木事業物語を創作して、明日香ヤマトの「何」を消そうとしたのか。
No.38、現代の考古学研究によれば、その発掘物から分類すると、4世紀から6世紀中頃までの日本列島には、いくつかの文化の異なる地域国家があったようだ。地域国家としての条件は、王権の存在と支配組織、支配地域、独自の文化的特徴の三っだ。その条件を満たすのは、九州のツクシ、瀬戸内のキビ、近畿のヤマト、丹後のタニハ、日本海西部のイツモ、関東のケヌだ。中国の「梁書」によれば、九州の倭国、出雲の文身国、大阪の大漢国、東北の扶桑国だ。藤原日本史が述べるように、4世紀に興った飛鳥大和の朝廷が、日本列島の四方を支配していたとする、考古学的証拠などないのだ。それらの、日本列島に並存していた地域国家が、交渉や競合の結果、6世紀半ばから7世紀にかけて、明日香ヤマトを中心に統合されていったようだ。その時の明日香ヤマトの支配民族が突厥だったので、日本列島各地の異民族地域国家との統合時に使われた言葉が、ウラル語系の突厥語だった。だから、現在の日本語の語順が、中国語語順の主語+述語+目的語ではなく、突厥語の語順の主語+目的語+述語となったのだ。
No.39、では、どのような民族が、日本列島の地域国家を統合したのか。奈良盆地のある地域をアスカと呼ぶが、アスカは奈良盆地だけではないのだ。日本全国には分かっているだけで、アスカの地名があるところは、東は山形県最上川下流のアスカ神社から、西は長崎県まで30から40ヶ所もあるのだ。そして、アスカの地名のある地域には、「蘇我氏の文化」が認められるのだ。「蘇我氏の文化」とは、オリエント文化と騎馬民族文化だ。その蘇我氏(突厥民族)が、明日香ヤマトに現れた、6世紀中頃から、日本列島に大変化が起こっていたのだ。
No.40、5世紀後期、中央ユーラシアに興った、騎馬民族突厥は、6世紀半ばには、西はカスピ海沿岸から、東はユーラシアの極東までを支配し、突厥帝国を興していた。その突厥民族は、日本海を渡り→佐渡→越後→越前→敦賀→琵琶湖の石山津・塩津→木津川・淀川の津→明日香ヤマトへと侵攻した。そして、6世紀半ば、明日香ヤマトを支配すると、国際交易品である絹製品を求めて中国南朝に至るため、西への交易路を確保するために、吉備と出雲を攻めたのだ。吉備は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地だ。そして、出雲は、国際海洋民族の安曇族の支配地だ。
No.41、出雲と言うと、「日本書記」の出雲の国譲り物語を想像して、4世紀の大和朝廷に支配された、と信じているひとが多くいるようだ。しかし、その「日本書記」の出雲の国譲り物語は、日本初の天皇であり、一世一代の天命を受ける大嘗祭を発明した天武天皇が、686年崩御した後、藤原不比等により、鎮魂祭のための天磐戸物語と大嘗祭のための天孫降臨物語を繋ぐために創作されたものだ。出雲王国は、藤原日本史の神話時代で大和朝廷に国譲りしていたのとは異なり、考古学的に4世紀末から7世紀中期まで独自の文化により存在していたのだ。
No.42、出雲王国は、東南アジアから北上する黒潮、黒潮が北上し朝鮮半島と北九州に分流する対馬海流、シベリアから南下するリマン海流を利用して、九州や太平洋諸地域、朝鮮半島、中国東北部、シベリア東部と国際交易をおこなっていた。特に、九州とギリシャ・ローマ文化の新羅とは頻回に行き来していた。この出雲を支配できれば、中国東北部と朝鮮半島との交易路が確保できる。出雲王国が、突厥民族に支配されたことを示す史料はない。しかし、6世紀後半から、出雲西部には、今までは方墳か前方後方墳であったものが、前方後円墳に替わっていくのだ。前方後円墳は、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の新羅円墳文化と騎馬民族の方墳文化の融合を示す。これは、今までの支配体制の変化を示唆する。そして、明日香ヤマトでは、大陸との交易が盛んになっていくのだ。その国際交易のために、河内湖を塞ぐ上町台地に大運河を通し、そして、その浪速津(ローラン)からの荷を明日香ヤマトに運ぶために、奈良盆地に、大運河と大路が造られたのだ。そして、国際交易民族でもある突厥民族は、明日香ヤマトの都で、国際交易のためにオリエントから渡来した貴賓をもてなすために、噴水のある庭園を造り、そして、中国諸国に売り込むための交易品のガラス製品、金属製品、医薬品を作る工場を建設していたのだ。これにより、東ユーラシアからの荷が、東北の秋田酒田津から、東山道を通り、明日香ヤマトに至り、そこから出雲或いは浪速津まで運ばれ、中国東北部・朝鮮半島へ運ばれたのだ。645年まで騎馬民族突厥が支配した明日香ヤマトには、藤原日本史が述べる、継体天皇も聖徳太子もいなかったのだ。 完
明日香ヤマトは国際都市だった。
オレは、田辺さんのレポートを読み終わると、体内のエネルギーが過剰放電したように感じられた。ボーッとして、意識が感じられなかったのだ。それは、田辺さんの日本列島古代史ストーリが、学校で学習した日本古代史を全て否定しているからだ。継体天皇の存在を否定するのは、まぁ、理解できる。が、聖徳太子の存在否定は疑問だ。聖徳太子が歴史上存在していないとすれば、仏教の伝来も、日本国初の大和朝廷の法律も一緒に否定されるからだ。つまり、聖徳太子の存在を否定することは、日本国の黎明期の飛鳥時代の存在も、否定することになるからだ。その飛鳥時代を、田辺さんは、古墳時代と言う。
学校で使用する歴史教科書は、偉い歴史学者が執筆したものだ。その歴史教科書は、官の検閲を受けているのだ。その日本国政府公認の歴史教科書には、「ウソ」など存在しない「はず」だ。それなのに、田辺さんは、教科書歴史を藤原日本史として否定している。何故、そんなことが言えるのか、オレには理解できなかった。でも、読み物としては面白かった。オレは、熱い紅茶を一杯飲み干すと、暗室に入った。
暗室に入っても、オレはタイマーのスイッチを素直に押せなかった。それは、田辺さんのレポートにより、以前から気になっていたことの糸口が掴めたように感じたからだ。ある本で、偽史作りの作家は、前政権の歴史を消すためのトリックとして、前政権の王族に蔑称を付ける、との文章を読んだことがあったからだ。
漢字は表意文字なので、同じ発音でも、貴賎の差別を付けることが可能だ。そして、蔑称を付けられた者は、賎民とされる。一度賎民とされた者は、感染魔術により、再び貴人にはなれないのだ。
オレが気になっていたのは、何故、蘇我氏一族の名前が蔑称で、稲目、馬子、蝦夷、入鹿なのかということだ。592年崇峻天皇を暗殺したとする「馬子」と、女帝皇極天皇の命令に逆らっていたとする「入鹿」との一文字を足すと、「馬鹿」になる。「馬鹿」とは、騎馬民族を侮辱するために発明された言葉だと云われている。
田辺さんのレポートにより、530年蘇我稲目が大和朝廷の大臣として突然明日香ヤマトに現れた時から、645年「大化の改新」で滅ぼされた蝦夷・入鹿親子までの学校で学習した歴史は、実際には違うのではないかと思えてきたのだ。
学校で学習した飛鳥時代の645年「大化の改新」で、蘇我氏一族が滅亡した原因として、
1.642年越の蝦夷(えぞ)が入朝した時、蘇我蝦夷が勝手に自分の家に蝦夷(えぞ)を呼んで宴会を開催した。
2.蝦夷・入鹿親子は、葛城に祖廟を造り、寿造の稜(天皇の墓)と呼んだ。
3.蝦夷は、天皇でしか舞うことの出来ないヤツラの舞を催した。
4.644年蝦夷・入鹿親子は、甘ヶ丘に並べて館を作り、蝦夷の館を上の宮門(みかど)、入鹿の館を谷の宮門(みかど)と呼んだ。
5.蝦夷は、病気を理由に朝廷に出ない。
6.蝦夷は、勝手に大臣のしるしの紫の冠を入鹿にさずけ、大臣の地位を与えた。
7.蝦夷は、息子や娘を王子と呼んだ。
蝦夷・入鹿親子は、それらの横暴の数々により、女帝皇極天皇(後に斉明天皇となる)の側近により、入鹿は暗殺され、蝦夷は自殺し、蘇我一族は、645年に滅んだ、と「日本書記」は述べている。
しかし、田辺さんの言うように、蘇我氏とは、実際は、突厥民族軍団の王で、明日香ヤマトの支配者であったとすると、それらの「日本書記」で述べる「横暴」の数々は、明日香ヤマトの王として当然の行為のはずと思われるのだ。
学校で学習した古代史を疑い始めると、「日本書記」では、継体天皇、欽明天皇、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇が、奈良盆地の北側の広々とした桜井市に宮都を営んでいたというのに、何故、女帝推古天皇から舒明天皇、女帝皇極天皇が、東西約800m、南北約2kmで、北側を開け、三方を山に囲まれ、中央に飛鳥川が流れる狭い土地に宮都を営んだのか、の疑問が湧く。そして、更に、その地は蘇我氏の支配地なのだ。明日香ヤマトでの発掘調査では、「日本書記」が述べるように、甘ヶ丘には、二つの館跡が発掘されている。しかし、その発掘調査によれば、その館跡は、石組みで防御され軍事要塞化されていて、その近くには武器庫らしき遺構も発掘された、との記事が最近の新聞に出ていた。
幻視を可能にするには、物語にのめり込まなければならない。今現在のオレには、田辺さんのレポートを全て信じるわけにはいかない。それは、あまりにも、日本古代史の「常識」からかけ離れているからだ。特に、645年の「大化の改新」が、唐進駐軍と突厥帝国軍+新羅花郎騎士団との戦いである、などは信じることができないのだ。オレは、幻視をする前に、直接田辺さんに疑問をぶつけることにし、夜を待つことにした。
「ナベさん、申し訳ない。まだ、幻視していません。幻視の前に確認したいことがあるのです。」
「レポート理解するのが難しかったですか。」
「ストーリとしては全て理解できました。しかし、どうしても納得できないことがあるのです。」
「それは、どこの箇所ですか。」
「二度の神仏戦争が、蘇我氏と物部氏との戦いではないことは理解できます。そして、蘇我氏が突厥帝国進駐軍で、物部氏が秦氏だとすることも理解出来ます。しかし、645年飛鳥大和が、唐進駐軍に侵攻され、そして、支配された、とするところが今一理解できません。」
「唐進駐軍のことが理解できないのは、無理ありません。藤原日本史では、唐の律令に支配され、唐の都をまねた藤原京、平城京、そして、唐と同じ暦を使っていた奈良時代を、唐に侵略されたとするのではなく、大和朝廷が、遣唐使により唐の文化を取り入れていた、と説明しているからです。しかし、一寸考えれば分かると思いますが、それらのことは、唐侵略軍の仕業です。」
「奈良時代の法律や文化が唐のものに替わったのは、その当時、唐の文化が高度だったからでは、」
「では、701年大宝律令により、何故、前政権の宗教形態を全て否定したのでしょう。その大宝律令の神祇令と僧尼令には、明日香ヤマトでの祭祀者についての規定があります。神祇令では、「凡そ天神地祇は、神祇官、皆、常の典に依り祭れ」とし、天つ神と国つ神とを初めて区別したのです。そして、僧尼令では、僧尼の活動を制限し、罰則を規定しているのです。」
「ちょっと待ってください。ナベさん、飛鳥時代に、仏教が伝来していたのですよね。仏教史によれば、その伝来仏教は、中国の高度文化文明を未開の日本列島にもたらしたのですよね。だったら、どうして大宝律令の僧尼令で、僧尼の活動を制限し、罰則を規定したのですか。僧尼は、飛鳥時代に悪事をしていたとでも言うのですか。」
「カメさん、鑑真を知っていますよね。」
「五度の遭難をおかして、やっと日本に渡来した時は、目が潰れていたと聞いています。それが、何か、」
「その鑑真の渡来について、720年「日本書記」に続く797年「続日本紀」には、鑑真の渡来についての記述がないのです。そればかりか、遣唐使の記述もほとんどないのです。そして、奈良時代のハイライトである、752年(天平勝宝4年)東大寺大仏開眼供養では、聖武天皇の姿はなかったのです。水銀中毒で病に臥せっていたのです。」
「それって、変ですよね。遣唐使は、唐の文化輸入のため何年か毎に唐に行っていたし、大仏開眼供養では、インド僧の指揮の下、聖武天皇や娘の孝徳天皇も参列して、宇佐八幡の民の御輿が繰り出され、盛大に開催された、と歴史書で読んだことがあります。」
「遣唐使についての多くの史料は、奈良時代ではなく、平安時代に書かれたものです。そして、カメさんが知っている天平文化のハイライトは、井上清の小説「天平の甍」の受け売りです。藤原氏が運営していた遣唐船については、藤原氏が唐の傀儡として支配していた奈良の王朝には、後のひとに知られたくないことがあったようです。そのひとつが、大宝律令の税制で、全国から集められた、干しアワビ、フカヒレ、昆布などの海産品、絹糸、綿製品、マムシ・ロクジョウなどの漢方薬原料、真珠、毛皮などを、遣唐使船で、唐へ運んでいたのです。つまり、遣唐使船とは、唐から高度文化を輸入するためだけではなく、唐の支配地の日本列島の物品を税として集めた物を、唐本国に貢ための船でもあったのです。これは、奈良時代の日本を独立国と偽る者にとって、後のひとには知られたくないことです。そして、天平文化のハイライトがなかったことは、「続日本紀」を読めばわかります。鑑真の渡来については、奈良仏教が隠蔽したのです。」
「何故、藤原日本史は、日本の仏教に多大な貢献をした鑑真の渡来について隠蔽したのですか。」
「その答えのヒントが、大宝律令の僧尼令です。645年唐進駐軍と供に渡来した漢訳仏教は、唐でおこなっていた「事」を飛鳥大和でもおこなっていたのです。」
「漢訳仏教徒が、寺でどんなことをしていたのですか。」
「それは、大宝律令の僧尼令で、罰則を規定しなければ、禁止できなかったことです。」
「それって、何ですか。」
「博打、売春、高利貸し、です。中国の戦乱時代、漢訳仏教組織は、自ら武装し、治外法権の仏閣を砦として、仏教ビジネスをおこなっていたのです。その仏教ビジネスに参加するために、得度も受けない私僧が、多く現れたため、唐の風紀は乱れたのです。その私僧が、飛鳥大和に現れて、風紀を乱したのです。反藤原氏の聖武天皇は、藤原氏が支配する興福寺の勢力を削ぐために、唐の高僧鑑真を招聘して、戒律に従わない飛鳥大和の仏教僧を正そうとしたのです。しかし、鑑真のもたらした戒律は、「南伝仏教」だったのです。藤原氏にとって、この「南伝仏教」は抹殺しなければならなかったのです。それは、藤原氏は、前政権の騎馬民族を貶めるために、漢訳仏教を思想武器として利用していたからです。その思想武器とは、「血の禁忌」と「肉食の禁止」です。その思想武器が「南伝仏教」により否定されてしまうのです。それは、南伝仏教では仏僧になるには、在家制度などなく、出家だけなので、信者から布施された食物は何でも食べなくてはならなかったので、「肉食の禁止」など明文化されていなかったからです。」
「それって本当ですか。仏教は、全て肉食禁止だと思っていました。」
「そのように、鑑真が渡来する前まで、出家者集団の形成がなかったのです。」
「では、鑑真の渡来前は、治外法権の寺で「悪行」をするために、庶民が勝手に在家僧になっていたのですか。」
「そうではないようです。祭祀氏族の藤原氏が、興福寺により、それらの正式な得度を受けず仏教戒律に従わない僧尼を支配していたのです。藤原氏の不思議は、中臣神道の神を祀る春日大社も運営していたのです。そして、興福寺の僧侶は、春日大社の支配を受けていたのです。祭祀権を乱用する藤原氏を排除するために、反藤原氏の聖武天皇は、「南伝仏教」僧の鑑真を招聘したのです。聖武天皇は、古代エジプトで、多神教の神々を創作して王権を犯す神官を排除するために、ヒッタイト帝国の太陽神ミトラから、唯一神アトンを発明したイクナトン4世のようです。そして、その鑑真の五度の遭難は、藤原氏の意図が感じられるのです。」
「そう言われれば、藤原氏の行動は不思議ですよね。藤原仲麻呂は、天皇が保管する国璽を私邸に持ち込み、私貨幣を作り、私邸を朝廷のようにしていたようですね。それだったら、飛鳥時代に天皇のように振舞った蘇我一族が天皇家側近により壊滅されたように、藤原氏一族が天皇家側近に抹殺されなかったのは、何故ですか。」
「645年突然現れた藤原氏とは、その出自が謎で、実態が分からないのです。日本列島史を「日本書記」で改竄した藤原不比等は、危機管理に長けていたようで、その息子達を、南家武智麿、北家房前、式家宇合、京家麻呂の四家に分けていたのです。家とは、現在の「家」ではなく、「公的な役所」のことです。この藤原氏の危機管理システムは、日本列島には存在していません。このことから、藤原氏は、同族が敵・味方に別れて戦うユダヤ民族の危機管理を学んでいたことが示唆されます。」
「それって、飛躍しすぎでは、」
「藤原氏が、遣唐使と大いに関係があったことは、万葉集巻19に、春日に神を祭る日に、藤原太后の作らす歌一首 「大船に ま梶しじ貫き この我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち」、の歌があり、これは、遣唐使の無事を祈って藤原光明子が、遣唐使として選ばれた藤原清河の無事を祈った時の歌と言われています。ここで注意してもらいたいことは、「春日社での祈願」ではなく、「春日に神を祭る日」とする題詞です。この天平勝宝2年(750年)頃には、三笠山、春日山付近には、春日大社が建立されていなかったのです。それを証明するように、天平勝宝8年(756年)の正倉院「東大寺山堺四至図」には、春日大社が建立する前の地は、「神地」と書かれた空地となっていたのです。これって、カメさん、どう思う。」
「中臣神道の神を祀る春日大社が、710年山背国から山階寺を奈良に移築して興福寺と改称した後の、756年以降、「神地」に建立されたのですね。不思議ですね。「日本書記」では、200年も前の飛鳥時代での神仏戦争の時、物部氏の神側は、蕃神の仏を祀ると、祟りがある、と言っていましたよね。だとすると、神仏戦争物語のその神とは何者ですか。」
「カメさん、「日本書記」の記述には、不可思議なことが多くあるでしょ。神道の神が宿る処が「社」とするならば、「社」が無い時代には、神道の「神」は存在しませんよね。」
「そうだと思います。だったら、やはり、ナベさんのレポートのように、神道の神が出現する前には、ミトラ神と道教の神が存在したことになりますね。」
「神道の神の出現には多くの謎がありますが、「仏」にも多くの謎があるのです。「仏」には、二つの読み方があります。ひとつは、中国語読みの「ブツ」で、もうひとつは、日本列島読みの「ホトケ」です。仏は、仏陀のことで、インド語のブッダを漢訳した語です。そのブッタの意味とは、覚者で、仏教の真理を悟った人のことです。それに対して、「ホトケ」とは、先祖とか死者の霊を意味しているのです。中国から伝来した仏教での「仏」は、正反対の意味である「ブツ」と「ホトケ」と、日本列島では読んでいます。これって変だと思いません。」
「ナベさんの言うとおり、変ですね。「仏」を「ブツ」と読む人には「覚者」がイメージされますが、「ホトケ」と読む人には「先祖・死霊」がイメージされますよね。だとすると、仏教伝来の時、日本列島の先住民は、当然「ホトケ」と読んだわけだから、仏教の真理など理解できるはずはないですよね。」
「「仏」には、ブツとホトケと読むと異なる意味があるように、「寺」も、中国語読みの「ジ」と、日本列島読みの「テラ」があります。その「ジ」とは、中国での外国人渡来者を取り調べる「宿泊できる役所」の意味です。「テラ」とは、「死者が眠る処」です。すると、「仏寺」を、中国語読みで「ブツ・ジ」と読めば、その意味は、「覚者のいる役所」となり、日本列島読みで「ホトケ・テラ」と読めば、その意味は、「死霊が眠る処」となるのです。本来の「仏寺」とは、仏像を安置する施設ではなかったようですね。これも変ですよね。」
「確かに。」
「仏教の不思議は、何故、先住民が理解できない、或いは、意味が分からない「梵語」でお経を読むのでしょう。先住民への布教が第一ならば、仏典を現地語に訳すのが普通ですよね。」
「仏教伝来時期が謎のように、仏教自体も謎だらけのようですね。唐進駐軍の存在は、少し理解できました。もうひとつ聞きたいのは、ミトラ教も道教も、漢訳仏教と中臣神道により、歴史上消されてしまった、とナベさんは考えていますよね。具体的に、説明できますか。」
「史料としては、説明できません。日本列島を支配した藤原氏や亡命百済貴族により、それらの民族に不都合な書物は、焚書されて、ほとんど存在していないからです。唯一、「古事記」は、「旧約聖書」の偽書性を、「666の謎」の暗号で暴いたパモス島のヨハネのように、秦氏末裔の多人長の知恵により、焚書を免れたのです。が、その多人長の暗号を解くには、知恵が必要です。ですから、消された歴史を復元するには、史料ではなく、遺跡や遺物によりおこなうしか方法はないようです。そのひとつが、地蔵です。地蔵は、古くはインドのバラモン教の大地の神だったようです。その地蔵が、バラモン僧が漢訳した仏教と供に、中国に伝来すると、土着の冥界信仰と結びつき、地獄の救世主となったようです。しかし、その地獄の救世主となった地蔵は、中国に根付くかなかったようです。その地蔵は、漢訳仏教と供に日本列島に伝来し、873年広隆寺に祀られたようです。」
「広隆寺の祖は、蜂丘寺で、秦氏の神である太陽神ミトラを祀る寺だったのでは。何故、バラモン教の地蔵が、秦氏の寺にあったのですか。」
「カメさん、それは良い質問です。ヒッタイト帝国からの秦氏の祖が、産鉄民族として馬具の轡を鉄で作る技術者として、騎馬民族とユーラシア大陸の大草原を彷徨っていた頃、チュルク系の騎馬民族は、大地母神として石人を、野原に祀っていたのです。その大草原の石人は、広域移動する騎馬民族にとっては、道標にもなっていたのです。つまり、チュルク系騎馬民族にとって石人は、道祖神でもあったのです。ですから、ユーラシア大陸から朝鮮半島を経由して、日本列島に渡来した秦氏は、支配地に、道祖神として石人を設置していたのです。」
「そう言えば、ナベさんが、527年ギリシャ・ローマ文化の新羅が、高句麗の南下により、漢訳仏教側勢力に押されて、朝鮮半島から北九州に亡命した時、戦い敗れた新羅武将の古墳には、埴輪の替わりに、石人・石馬が飾られた、と言っていましたよね。」
「そうですね。その秦氏の石人が、後に道祖神となり、そして、平安時代、秦氏のミトラ神を祀っていた蜂丘寺を、仏寺の広隆寺と改竄した時、藤原良房が摂政として権勢を振るっていた時、日本初の地蔵が京都に現れたのです。そして、秦氏の支配地であった山背国が、山城国となり、亡命百済貴族により、京都が支配されてしまった時、京の都への七街道にあった道祖神は、塞の神と貶められて、それに替わり、地蔵に置き換えられたのです。その地蔵が、王権側の神ではないことは、その設置場所により分かるのです。つまり、地蔵の歴史は、地蔵(平安時代)←道祖神(奈良時代)←石人(古墳時代・飛鳥時代)←石人(4世紀ユーラシア大陸)、となるのです。」
「石人を削って、地蔵に変身させたわけですね。」
「そうです。藤原氏や亡命百済貴族に擦り寄る仏教組織により、秦氏の神である石人が変身させられ、地蔵として、秦氏を排除するために、利用されていたのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「証拠はありません。でも、根拠はあります。1568年織田信長は、足利義昭を奉じて入京する前、京の荒れ果てた二条御所を改装した時、近隣の地蔵を集めさせ、それを砕いて基礎石としていたのです。そして、1868年神仏分離令により、廃仏毀釈運動が全国的に起こった時、役座は、地蔵の首を刎ねていたのです。この二つの行動の意味は、仏教による地蔵のまやかしの歴史を、賎民として貶められていた織田信長と役座は知っていたからです。」
「何故、そんなことが言えるのですか。」
「カメさんは、プロカメラマンでしたよね。風景の中に、地蔵を被写体として撮影をしたことがありますか。」
「昔、何度かありました。」
「その時を思い出してください。地蔵は、どのようなところにありましたか。」
「大抵は、村はずれの、ひとけのないさびしい処です。」
「その地蔵の近くに大きな木がありませんでしたか。」
「確かにありました。」
「その大きな木には、注連縄がありませんでしたか。」
「あったような気がします。その注連縄に何か意味があるのですか。」
「注連縄は、異民族を排除するための道具です。役座の縄張りは、その流れにあります。この世と異界との堺を示す道具が、本来の注連縄の意味です。その注連縄を張られた大木の下にある地蔵は、多くは、村はずれにあります。村はずれにあるのは、地蔵だけではありません。鍛冶屋も、大抵、村はずれにあります。何故だと思いますか。」
「槌音が五月蝿いから、ですか。」
「それもありますが、その二つには共通点があります。それは、異界との交通です。鍛冶屋の祖は、産鉄民族で、産鉄製鉄はタタラ製鉄と言われるように、ユーラシア大陸のタタールから渡来した民族を祖としていたのです。そのタタラ製鉄は、主に、中国地域の石見・出雲を中心におこなわれていたのです。「日本書記」が述べるような神話時代ではなく、8世紀の亡命百済貴族が支配した平安王朝に従順した産鉄民族は、村はずれの鍛冶屋となったのですが、山に逃げ込んだ者は、山伏となって「火治り・ヒジリ」と言われたのです。その山伏が祀る「山の神」は、平安時代の王権により、塞の神と言われ、忌み嫌われていたのです。それは、山伏の祖は、京を支配した亡命百済貴族の祖国百済を滅ぼした、新羅の流れにあったからです。その山伏が、平安時代に、錬金術師空海の山岳軍団に敗れると、山岳修験者となり、錬金術師軍団の支配下となり「火治り」から「聖・ヒジリ」となるのです。しかし、その支配は表面だけで、地獄の救世主としての地蔵信仰を広めるのです。その修験者は、仏教的な階層による冥界思想を破壊するために、地獄を極楽に替えてしまうのです。漢訳仏教思想では、ひとは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六道の内にあり、輪廻する存在であり、仏の真理を覚った者だけが、極楽へ行ける、と説いたのです。漢訳仏教は、徳を積めば極楽へ行けると、多大のお布施を信者に要求していたのです。その仏教組織の集金システムを破壊するために、修験道者は、仏教修行をしなくても、地獄から極楽へ行けると言う特製の経帷子を販売していたのです。それは、仏教組織により、日本初の地獄と喧伝された処が、越中富山の立山だったからです。その富山は、古墳時代に騎馬民族が支配していたところで、騎馬民族の産業のひとつである、薬草からの創薬業が盛んな地であったのです。その修験道者は、立山で採取した薬草を持ち歩いて、病人を癒していたのです。これが、「藪医者」の祖であったのです。ヤブ医者の本来の意味は、治療がヘタな医者の意味ではなく、煌びやかな都に対峙するヤブ(草原)である、反体制側の野医者のことです。この薬による治療行為は、念仏・祈祷で病気を治せるとする漢訳仏教には、商売敵であったのです。後に、その山伏(山武士)が、高市でのバザールで、野武士を祖とする香具師(ヤシ)により、馬油を止血軟膏としたガマの油売りとなるのです。そのガマの油売りの祖である「火治り」が、反体制者であったことは、平安仏教の砦である比叡山や高野山の近くに住まわされた、毛坊主の「聖」の居住地は、「別所」と呼ばれていたのです。別所とは、湯浅、散所、海渡と平安王権から呼ばれた、陸奥国の蝦夷の捕虜収容所だった処です。その捕虜収容所は、やがて、捕虜である落ち武者の武民が集う処ということで、「武落→部落」と呼ばれていくわけです。」
「すると、ナベさんは、530年から645年までの明日香ヤマトの祭祀者であった、ミトラ教や道教の思想や祭祀物は、奈良時代から平安時代にかけて、漢訳仏教に取り込まれて消されてしまった、という訳ですね。」
「漢訳仏教に取り込まれなくて、生き延びたものもあります。それは、道教思想を、仏教思想にアレンジした陰陽道です。しかし、オリエントの神は、ミトラ神が弥勒菩薩又は魔多羅神、そして、太陽神アトンが阿弥陀仏と変身させられてしまうのです。」
「すると、神社や仏寺にある牛像は、ミトラ教での太陽神の化身の牡牛だった訳ですね。神社で思い出したのですが、多くの神社には、丸石や奇岩があるのは何故ですか。」
「以前、カメさんは、信濃のわさび農園の八面大王の古墳を訪れていた、と言っていましたよね。そこには、直径50cm程の球体の石が、大石で造られた小山の上に祀られていませんでしたか。」
「確かに記憶しています。石室の隣の石山の頂上に石の球体が。あまりにも不思議なオブジェでしたから。その石の球体は、何を意味しているのですか。」
「古墳近くで、球体の石が発掘されるのは、日本海沿岸、それも、出雲地域に多いようです。はっきりとした球体石でなくとも、古墳近くからは大丸石が発掘されるようです。カメさんの質問は、神社には、丸石や奇岩があるのは何故か、ということでしたよね。藤原日本史での説明では、その石は、神や死霊が宿るシンボルとしたり、又は、荒れ狂う霊や悪霊を封じ込めるため、としています。しかし、その答えは、答えになっていません。藤原日本史では、神社は、神を祀る処であるはずです。しかし、王権側の説明で、神道の神を祀る領域の境内に、死霊や悪霊が居ると、白状しているのです。」
「その説明、ちょっと理解不能です。」
「もし、神社が神を祀る処であるのなら、死霊や悪霊を封じ込めるとする石は、死霊や悪霊の居る処に置かなくてはならないはずです。その石が、神社にあることは、神社は死霊や悪霊の棲家だということです。レポートにも書きましたが、神社(モリ)は、古墳を破壊した跡に、建立されたのです。」
「神社(もり)は、古墳時代が終わった時期に建てられたのですね。では、「シンジャ」と「モリ」は違うのですか。」
「ジンジャは、明治革命で国家神道のシンボルとして、明治天皇の神(藤原氏の神=ユダヤ教の神ヤハヴェ?)を祭るために建てられたのです。しかし、モリは、古墳時代の王族の神を封じ込めるために建てられたのです。神社には、読み方が二つあるのは、そのためです。明治革命以前には、神道の神を祭る「ジンジャ」など存在していなかったのです。」
「今一理解不能ですが、何故、神社に石があるのですか。」
「石には神が宿っていたのです。その神は、太陽神ミトラです。紀元前14世紀ヒッタイト帝国にあった契約の神、太陽神ミトラは、東の山から誕生すると信じられていたのです。その太陽神ミトラの誕生場所である東の山の頂上は、ミトラ教徒の聖地だったのです。そのミトラ教信者達は、シナイ半島からユーラシア大陸を東に進んだのです。その東の山の頂上のミトラ神の聖地が、やがて、岩山の洞窟となり、その洞窟が、やがて、大岩となり、鉄器の発達により、太陽を真似た石の球体が造られるようになったのです。そして、その石の球体にミトラ神が宿っていると信じたのです。そのミトラ神が誕生するという石の球体は、太陽神アトンを発明した古代エジプトの魂の再生装置の石室・石棺思想と供に、5世紀の日本列島にもたらされ、信濃のわさび農園にある八面大王の古墳のように、横穴式石室のある古墳近くに埋葬されたのです。645年明日香ヤマトの古墳時代が終わり、そして、古墳を破壊した跡に、710年平城京が遷都されると、三笠山のミトラ教の牡牛を屠る祭祀場は、破壊され、空き地とされるのです。奈良盆地から秦氏軍団である花郎騎士団や突厥帝国軍団を、奈良盆地の北側に駆逐すると、藤原氏は、ミトラ教祭祀場跡に、中臣神道の神を祀るために春日大社を建立したのです。しかし、中臣神道では、死霊や怨霊を信じていたため、前政権の神=悪霊を封じ込めるために、ミトラ神が宿る丸石に注連縄をかけるのです。注連縄は、神を祀る道具ではなく、その正反対の、悪霊を封じ込める、或いは、結界からの出没を阻止するための道具であるのです。つまり、神社にある、注連縄をかけられた丸石や奇岩とは、ミトラ神を死霊や悪霊として封じ込めるためであったのです。注連縄がある丸石や奇岩のある神社は、古墳跡に建てられたことを示唆します。」
「その説明、なんとなく理解できます。オレは、ヒネクレ者で、以前から、神社の建物よりも、境内にある丸石や奇岩に惹かれていたのは、もしかしたら、オレの血の流れに、騎馬民族の血が流れているのかもしれませんね。」
「カメさんが騎馬民族末裔か分かりませんが、多くの日本人が、普段は神道の神を信仰しているわけではないのに、特定の日だけ神社を訪れるのは、その意味かもしれませんね。」
「古代の歴史を知ることは、現在を知ることでもあるのですね。」
「そうですね。現在使われている「ホトケ」や「テラ」などの言葉の歴史背景が分からない場合、古代日本列島で使われていた、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、古代朝鮮語の高句麗語・百済語・ギリシャ・ローマ文化の古代新羅語、そして、突厥語など、645年以降に仏教専門用語により消される以前の、万葉言葉の語源を調べると、分かるかもしれません。ところで、カメさん、テレビの刑事物ドラマで、刑事が、死者を「ホトケ」と、何故、言うか分かりますか。」
「ホトケの言葉は、日本列島では、仏教が伝来する以前から、「死霊・死者」の意味で使われていたから、刑事さんが死者の成仏を願ってのことですか。」
「そうかもしれませんね。では、その「ホトケ」の言葉は、仏教伝来以前、どのような民族が使っていたのでしょうか。その民族を特定するには、日本列島の警察実務は、どのような民族がおこなっていたのかを調べれば、分かる訳です。現在の警察実務は、江戸時代の警察権を奪った明治革命から始まったのですが、実は、現在の刑事隠語と役座隠語とは、共通隠語が多くあるのです。」
「それって、どういう意味ですか。」
「源氏末裔の徳川家康の威光があった江戸時代から平氏末裔の北条鎌倉時代まで、役座が警察実務をおこなっていたからです。日本列島での公安・治安警察業務担当者の歴史をたどれば、公安・治安刑事(現在)←明治警察官(秦氏末裔の島津氏が支配する薩摩藩が、長州藩を排除して警察権を独占。薩摩藩を支配した島津氏と、北関東を支配した穢多頭(長吏頭)弾左衛門家の家紋は、丸に十の字のミトラ教の太陽のシンボルであるマルタクロス)←岡引(第三百済王朝の三代目将軍徳川家光時代より「目明し」からの蔑称)←目明し(騎馬民族末裔徳川家康が、同族の役座に、宿場の警察権を与えた役座の手下)←役座(第二百済王朝の平氏の北条鎌倉時代に神社(モリ)のバザール(座)を仕切る顔役)←放免(平安時代、京都を護る令外官である検非違使の支配下となった陸奥国蝦夷の捕虜。古墳を破壊した跡に建てられた神社(もり)で怨霊(古墳時代の神)を鎮めることも業務)で、その陸奥国の蝦夷とは、645年唐進駐軍に敗れるまで、奈良県の明日香ヤマト武人で、6世紀ユーラシアから渡来の騎馬民族の突厥軍団と、527年朝鮮半島から渡来の秦氏の新羅花郎騎士団の末裔だったのです。平安時代の公安警察実務は、今起こった事件を鎮圧する治安警察ではなく、事件を未然に防ぐのが任務ですから、反権力側勢力の情報を得るには、敵陸奥国の捕虜である元反権力側の者であった放免を使っていたのです。平安時代、放免は闇の警察業務をおこなっていたのです。そして、役座も、闇の警察業務をおこなっていたのです。「場所・バショ」を「所場・ショバ」のように言う役座の逆語は、平安時代の呪術として放免が使用したものを伝承していたのです。そのことから、役座隠語・刑事隠語の「ホトケ・死霊」の言葉は、オリエントから朝鮮半島を経由して渡来の秦氏か、ユーラシアから日本海を渡海して日本海沿岸の北陸・越・出羽に渡来の騎馬民族である突厥民族のものであったようです。」
「現在使われている言葉で、語源が不明な言葉の歴史を万葉言葉に辿るのも面白いですね。ところで、ナベさんは、明日香ヤマトは、国際都市だったと述べているけど、その根拠はあるのですか。」
「根拠はありますが、史料はありません。日本語の語源が多国語で構成されているのは理解できますよね。そして、日本語語順が、中国語語順ではなく、ユーラシア大陸の遊牧・騎馬民族の言葉であるウラル語系語順であることは理解できますよね。」
「理解できますが。」
「では、飛鳥大和への渡来文字が全て中国からのもので、その中国漢字の伝達者が漢訳仏教僧であるとすると、現在の日本語語順が、中国語順ではなく、遊牧・騎馬民族のウラル語系語順であるのは、何故ですか。」
「中国文化よりも影響力が強い文化を持った民族が、先住民として日本列島を実効支配していたからだと思います。」
「では、その民族とは。」
「ウラル語を話す民族です。」
「そう考えられますよね。そのウラル語系の言語を話す民族とは、騎馬民族の突厥です。そして、その突厥民族は、552年から630年、そして、682年から744年までユーラシア大陸に突厥帝国を興していて、北周、北齊、隋、唐と対峙して、交易や戦争を繰り返していたのです。その突厥民族が隆盛の二つの期間、日本列島での出来事を見てみると、
☆552年仏教伝来。ユーラシア大陸で突厥帝国興る。
587年蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす。
592年蘇我馬子、崇峻天皇を謀殺。
593年聖徳太子、摂政となる。
594年仏教興隆の詔。
603年冠位十二階を制定。
604年憲法17条を制定。
607年国ごとに屯倉を置く。
622年聖徳太子死去。
626年蘇我馬子死去。蘇我蝦夷が大臣となる。
☆630年遣唐使犬上御田鍬、唐に渡る。唐帝国軍により、突厥帝国散逸する。
645年蘇我一族滅亡。大化の改新始まる。仏教興隆の詔。そして、
☆663年百済、唐・新羅連合軍により滅ぶ。
671年亡命百済王朝、琵琶湖湖畔の近江に亡命政権を興す。
672年壬申の乱。日本初の天皇、天武天皇即位。
676年新羅王子入貢する。
☆682年東突厥が復興する。
683年浄御原令の撰修始まる。
686年天武天皇崩御。
689年新羅使の無礼を責める。
694年藤原京遷都。
☆698年渤海興る。
701年大宝律令制定。
710年古墳跡に平城京遷都。
712年出羽国を置く。
718年養老律令、藤原不比等により制定。
719年新羅、騾馬を献ず。
720年藤原不比等死去。「日本書記」完成。
727年渤海使、出羽国に着き、入京する。
729年天武天皇の孫左大臣長屋王、藤原氏により謀殺される。
738年新羅使を放還。
740年藤原広嗣の乱。
741年牛馬を殺すことを禁ず。
741年反藤原氏の聖武天皇、山背恭仁京に遷都。
742年新羅使を放還。
743年新羅使の無礼を責め放還。
☆744年聖武天皇、難波京に遷都。東突厥滅亡。
この簡略年表から推測すると、ユーラシアに帝国を興した突厥軍団は、552年明日香ヤマトに侵攻し、明日香ヤマトを支配したと思われます。しかし、明日香ヤマトを軍事支援していたユーラシア大陸の母国突厥帝国が、630年唐帝国により散逸されたため、645年奈良の明日香ヤマトも唐進駐軍により一時壊滅されたのですが、しかし、ユーラシア大陸で復活し始めた突厥軍団により軍事支援された、突厥帝国残党軍と新羅花郎騎士団残党軍連合は、672年亡命百済貴族により樹立された近江王朝を倒したことにより、突厥帝国進駐軍の後ろ盾を得た大海人皇子が、672年天武天皇として即位し、再び、旧明日香ヤマトに都を築いたのです。そして、突厥民族は、東ユーラシア大陸で、682年再び突厥帝国を興したのです。これが、東突厥帝国です。この東突厥帝国と唐帝国との、日本列島での戦いの時代が、古墳を破壊し始めた奈良時代ということです。近畿一帯での東突厥帝国進駐軍と唐帝国進駐軍との戦いは、744年東突厥帝国が滅んだことにより、唐進駐軍が有利となるのです。聖武天皇(724年〜749年)による、数多くの謎の遷都や奈良の巨像築造(大仏ではない)は、そのような東アジアの情勢を反映していたのです。」
「日本国の国史である「日本書記」の歴史とほとんど異なりますね。ナベさん説が、「日本書記」を否定する根拠は何ですか。」
「「日本書記」には歴史改竄の作為が多くあるからです。そのひとつが、厩戸王子(平安時代に聖徳太子となる)の存在です。厩戸王子の存在を否定すると、藤原日本史での、日本国の黎明期である、飛鳥時代全てが否定されるのです。カメさん、「日本書記」は、後の多くのひとにより改竄されているのですよ。」
「どこがですか。」
「「日本書記」は、720年完成ですよね。」
「そうです。」
「現在使われている「万世一系の歴代の天皇号」は、中世・近世では「○○院」と呼んでいたものを、過去の天皇を全て「○○天皇」と呼び変えたのは、1925年からです。その720年完成の「日本書記」には、和風諡号と漢風諡号とがあります。その本文で使われていない漢風諡号は、淡海三船が発明したのです。その淡海三船の生まれは、722年なのです。カメさん、これどう思う。」
「不思議ですね。722年生まれのひとが、720年完成の「日本書記」で、漢字アルファベット書かれた天皇の名前を、漢風諡号で著すことができるはずはないですね。すると、ナベさんの言うように、「日本書記」は偽書ですか。」
「「日本書記」の謎は、まだあるのです。797年完成の「続日本紀」には、「日本書記」は、全巻30、系図一巻とあるのです。しかし、その系図一巻がないのです。」
「紛失ですか。国史がそう簡単に紛失するものですか。」
「桓武天皇の797年までは、確かに系図一巻はあったことは「続日本紀」が証明しています。すると、平安時代に誰かが、その系図一巻を故意に紛失したことが考えられます。そのひとりとして、亡命百済貴族であった桓武天皇が疑われます。それは、反藤原氏であった聖武天皇の遺品を納めた、奈良の東大寺にあった正倉院にあった文・絵・史料を焚書していたからです。現在に残るのは、聖武天皇の遺品のほんの一握りです。」
「何故、桓武天皇は、前政権の奈良時代の貴重な史料を焚書したのですか。」
「それは、後のひとに知られたくない遣唐使の歴史、東大寺の大仏の歴史、そして、亡命百済貴族の悲惨な歴史を消したかったからです。それらの奈良時代の遣唐使や大仏の今日に伝わる歴史は、平安時代に創作されたものです。東大寺の「大仏」と言っていますが、その像は当初「遍照鬼」(太陽神→ミトラ神)と言われ、インド人を思わす巻き毛など像の頭になかったのです。その遍照鬼像の頭が、855年落ちてしまい、861年修復されたのです。ですから、当初の東大寺の像が「仏」であったかどうかを確かめることは出来ないのです。更に、東大寺の不思議は、初期の東大寺は、山の民(645年唐進駐軍により明日香ヤマトを追われた民族)が集う処であったのです。その奈良時代の東大寺の不思議は、東大寺を頂点に、741年聖武天皇が全国に国分寺を造らせ、仏像を祀った、と藤原日本史では述べるのですが、その各国の国分寺に安置されていたはずの仏像が一体も現存していないのです。歴史上存在していない神仏戦争物語で、難波の堀江に捨てられていたとする仏像が、長野の善光寺に安置されているというのに、国分寺に安置されていたとする「仏像」が、現在一体もないということは、藤原日本史は、「何」を消したのでしょうか。その国分寺の「仏像」の謎は、1180年源氏棟梁として、「平氏」(亡命百済貴族の子息)の北条氏により担ぎ出された源頼朝が、石橋山の戦いで、「平家」(アラブ系海洋民族末裔。織田信長はその子孫)に破れ、千葉の上総に逃れ、再起を期して、下総、そして、武蔵を周り、北関東の山奥に篭っていた源氏武将を集めた場所は、廃墟となっていた「国分寺」であったのです。北関東の国分寺は、古来源氏(祖は秦氏)の集う処であったのです。その源氏の祖は、明日香ヤマトの秦氏の軍団であった新羅花郎騎士団だったのです。その新羅花郎騎士団の神は、太陽神ミトラであったのです。このことにより、反藤原氏の聖武天皇により造られた奈良の仏像と云われる像は、太陽神ミトラであったことが示唆されます。藤原日本史の基礎史料は、奈良時代の淡海三船の「日本書記」改竄に加えて、平安時代にも、「日本書記」は改竄されていたのです。それは、神武天皇の発明です。」
「神武天皇って、「日本書記」では、紀元前660年即位の、日本初の天皇ですよね。」
「実際の日本初の天皇は、672年即位の天武天皇です。720年度版「日本書記」では、崇神天皇が、ハツクニシラススメラミコトと呼ばれていることから、藤原日本史の初期では、日本初の天皇としたのでしょう。それを、平安時代版「日本書記」に、神武天皇物語を挿入したのです。その神武天皇物語の創作作家が、手を抜いたのか、神武天皇の和風諡号は、ハツクニシラススメラミコトで、その九州から大和東征物語が、ハツクニシラススメラミコトである崇神天皇の大和東征物語ソックリなのです。更に、神武天皇稜は、江戸時代では見る影もなかったのです。その意味は、明治初期に創作されたからです。「日本書記」を否定する「古事記」では、神武天皇稜の位置を、「日本書記」の位置と異なる処としているのです。その神武天皇の享年は、「日本書記」127歳、「古事記」137歳となっているのです。そして、平安時代版「日本書記」の「神武紀」では、神武天皇を畝傍山の東北稜に葬ったのは、死亡の翌年となっていますが、「綏靖即位前紀」によると、紀元前585年崩御し、神武天皇を山稜に葬り終えたのは、紀元前582年となっているのです。古墳時代から150年後の平安時代ともなると、巨大前方後円墳の築造期間が分からなかったようで、神武天皇死亡後の翌年葬った、としてしまったようです。明治時代初期に創作された神武天皇稜もその完成には、数年の期間を必要としていたのです。「日本書記」とは、そのような書物であるのです。平安時代の系図一巻紛失の謎は、亡命百済貴族による神武天皇物語を、720年度版「日本書記」に挿入するためだったのです。」
「すると、現存する「日本書記」が偽書だとすると、聖徳太子の飛鳥時代はナシということですか。」
「そうです。ナシです。」
「では、飛鳥時代とは、誰が支配民族なのですか。やはり、突厥民族と秦氏ですか。「日本書記」の飛鳥大和時代を否定できる、納得できる資料はないのですか。」
「藤原日本史では、飛鳥時代としますが、それは古墳時代を消すためのに発明されたものです。その古墳時代の古墳は、ただ闇雲に築かれていたわけではないのです。地図上の古墳や遺跡、古来からある神社仏閣を結ぶと不思議な線が現れるのです。その線は、30度、45度、60度を示すのです。」
「その角度は、三角定規の角度ですよね。」
「そうです。しかし、明日香ヤマトの前政権の存在を示す古墳は、奈良時代から平安時代にかけて破壊され、歴史上抹殺されているものもあるから、現存した古墳や遺跡を全て発掘しているわけではないので、確かなことは言えません。それに、法隆寺や広隆寺のようにミトラ教施設遺跡が偶然発掘されているもの以外に、神社(もり)や仏閣が全て古墳破壊跡に建てられたことは確認できませんが、その30度、45度、60度の線が地図上に現れるのは確かなとこなのです。」
「古墳時代に、そのような三角定規の角度を知っていた民族が、日本列島に渡来していたのですか。」
「土地の測量法と幾何学とは大いに関係があるのです。幾何学の語源のゲオメトリーとは、ゲオ=土地+メトリー=測量を表しているからです。その土地の測量法は、古代エジプトで発達していたのです。それは、定期的に氾濫するナイル河沿岸の土地を、氾濫後、元の土地所有者のものとするためです。その古代エジプトでは、紐に結び目を付けての測量法がおこなわれていたのです。この紐による測量法は、結び目を調節することで相似形のものを造るには便利なものなのです。」
「すると、日本列島全国にある大小の相似形の前方後円墳は、古代エジプトの紐測量法により築かれたのですか。」
「それは分かりません。紐は、地中で腐るため、発掘することは困難だからです。しかし、民族言葉は、その民族の血が絶えることがなければ、永遠に続きます。日本語の語順について以前、6世紀に渡来した騎馬民族の突厥語がそのルーツであると話しましたよね。その突厥語が渡来した以前にも、日本語語順のルーツがあるのです。それが、ヒッタイト語です。」
「ヒッタイトと言えば、秦氏の遠い祖先が、紀元前14世紀に古代エジプトの新都アケトアテンの造営の建築技術者として、鉄器を発明したヒッタイト帝国から出稼ぎに行っていましたよね。そのヒッタイトですか。」
「そうです。そのヒッタイト帝国で使用の言葉の語順が、主語+目的語+動詞なのです。そして、ヒッタイト語の楔形文字には、万葉集時代の表記法と同じに、仮名的な音節文字と漢字的な表意文字から構成されていたのです。これは正に、ヒッタイト版「漢字仮名まじり文」です。」
「するとナベさんは、そのヒッタイト帝国から、古代エジプトで測量技術、巨石建築技術、大運河を掘削する技術を習得した民族が、3世紀後半に日本列島に渡来して、巨大前方後円墳を築いた、と言うのですね。」
「断言はできませんが、基本的にはそのように考えています。巨大前方後円墳が、日本列島の岩手県以南から九州まで築かれていたのに、その史料はひとつもないのです。唯一つの史料の「日本書記」では、天皇の墓としているのです。しかし、それが「ウソ」であることは、宮内庁が知っているのです。それは、宮内庁が指定する「天皇陵」は、いずれも「日本書記」成立後に、「日本書記」に合わせて、国威発揚のために造られたものだからです。」
「だから、宮内庁は、巨大古墳の発掘許可を出さない訳ですね。何が出てくるか分かりませんからね。」
「実は、日本語語順のルーツと思われるのがもうひとつあるのです。それは、タミル語を含むトラヴィダ語です。」
「トラヴィダと言えば、以前、ナベさんが仏教について話した時、インドのバラモン教に、不可触賎民チャンダラーとして貶められた民族ですか。」
「そうです。インドの先住民で、遊牧民族です。そのトラヴィダ語の「DED」の略称の辞典には、a・i・u・e・o、ka・ki・ku・ke・koの語順に並べられているのです。それは、日本語の五十音図と同じです。」
「何故、トラヴィダ語が「あいうえおかきくけこ」の順に並べられているのですか。」
「それは、平安時代初期、錬金術師空海が発明した真言宗の教えで、サンスクリット語の音韻論を広めたからです。その音韻を、成就とか吉祥の意味で、悉曇(しったん)と呼んで、その音の並べ方に倣って、日本の五十音図が作られたのです。仏教史により、錬金術師空海の「功」は広く知られていますが、「罪」については沈黙です。その罪のひとつに、インドの民族差別思想を日本列島に持ち込んだことです。その差別言葉が、チャンダラーの漢訳語の「施陀羅」と、ハンセン氏病を表す「カッタイ」です。カッタイは、中国語ではなく、トラヴィダ語系のタミル語の「kott−ai」からです。空海が、唐から持ち込んだこの二つの「言葉」は、後に、民族差別の思想武器となっていくのです。」
「空海は、真言宗を開発して、民衆を救済したのではないですか。何故、そのような民族差別語を、中国に居住していたインド僧に教わり、日本列島に持ち込んだのですか。」
「それは、空海のスポンサーである、藤原氏のためです。藤原氏は、古来の史料を集めて、それらの史実を改竄して「日本書記」を創作して、秦氏や突厥民族の歴史を消したかったのです。しかし、それらの民族は、農耕民族ではなく、秦氏は技術者集団で、突厥民族は「風の民族」であるので、土地により縛りつけ、支配することができなかったのです。そこで、藤原氏は、民族差別思想の武器により、それらの肉食民族を異界の民族として、常民から隔離することを図ったのです。そのための思想武器が、「施陀羅」と「カッタイ」です。この民族差別の歴史は、「中世篇」で述べますので、「古代」に話を戻します。そのトラヴィダ語系タミル語の語順も、主語+目的語+動詞なのです。そのタミル語は、水田稲作言葉として日本語となっているのです。」
「例えば。」
「ウネ、アゼ、カユなどです。そのタミル語を話す民族は、弥生時代に日本列島に渡来し、水田稲作技術を伝播したのです。」
「何故、南インドから日本列島まで渡来したのですか。その目的は何ですか。」
「南インドのタミル語圏の墓からは、多くローマ帝国の貨幣が出土するのです。それは、紀元前10世紀から南インドの西海岸マラバルの港コーチンから、国際海洋民族フェニキアの商人により、真珠、香辛料、孔雀、猿などを輸出していたのです。紀元一世紀になると、ローマ帝国では、絹の需要が起こるのです。その頃、絹は、南中国の特産品であったのです。日本列島の弥生時代には、タミル語を話す民族は、真珠を求めて、そして、古墳時代には、絹を求めて渡来していたのです。」
「その説の根拠はあるのですか。」
「古代から、日本列島は真珠の産地であったのです。「万葉集」には、真珠の産地として、珠洲の海(石川県)、奈呉の海(富山県)、伊勢の海(三重県)、近江の海(琵琶湖)、阿胡根の浦(和歌山県)、筑紫(九州)が記載されています。真珠は、縄文時代から、朱砂と同じに、国際交易品であったのです。そして、絹は、中国三国時代の魏は、北九州を絹生産地としていたのです。その絹生産地の女王が卑弥呼というわけです。弥生時代の遺跡から絹製品が出土するのは、北九州の古墳からだけです。」
「なるほど。では、タミル語を話す民族の渡来の証拠はあるのですか。」
「南インドの埋葬法は、甕棺に屈葬です。その甕棺は、佐賀平野、筑後平野、福岡平野が多く出土します。そして、その甕棺が納められた時期は、弥生時代から始まり、古墳時代には消えているのです。このことから、北九州では、タミル語を話す民族が、古墳を築く民族に取って代わったことが示唆されます。その民族移動のルートの推測として、濁音語のズーズー弁を話す民族の流れには、北九州→出雲→東北のルートがあるのです。」
「ズーズー弁にはそのような歴史があったのですか。ところで、ナベさんの説では、日本語の語順は、ヒッタイト語、タミル語、突厥語のどれなのですか。」
「最終的には、突厥語だと思いますが、その三つの言語を話す民族には、共通点があるのです。」
「その共通点とは。」
「それは、産鉄民族であることです。そして、石を切る技術を習得していることです。石を切るには、鋼鉄が必要です。」
「すると、その三つの民族の祖は同じということですか。」
「それは考えられますね。ヒッタイト帝国が滅亡したのが、紀元前1190年です。南インドでの製鉄の始まりは、紀元前10世紀です。突厥民族は、騎馬民族で、その騎馬民族の祖スキタイ民族が、ヒッタイト帝国があった東方のカスピ海沿岸に興るのは、紀元前8世紀です。産鉄技術は、ヒッタイト帝国が滅亡したことにより、南インドとユーラシア大陸に広がったようです。それとともに、石切りの技術も、産鉄民族と供に世界に広がっていったのです。」
「産鉄民族と石切りとは、共生関係にあったのですね。」
「そうです。江戸時代、秦氏の末裔である、関八州の闇の世界を支配していた弾佐衛門は、鎌倉時代からの特権を、江戸幕府に認めさせるために、源頼公の御朱印の史料を提出するのですが、その支配下に、鋳物師と石切があるのです。」
「その弾佐衛門配下の鋳物師と石切は、古墳時代に前方後円墳を築いた民族の末裔ということですか。」
「そのように考えています。日本語には、ヒッタイト語、タミル語、突厥語だけでは解けないことがあるのです。それは、日本語の単語が母音で終わることです。母音で単語が終わる言語は、東アジア地域にはないのです。」
「東アジア地域ではないということは、では、どこですか。」
「考えられるのは、環太平洋の海流を利用していた南方系海洋民族です。それらの民族の共通語は、ポリネシア語です。ポリネシア語では、単語は母音で終わるのです。現在でも、知多半島の伊良子岬には、南方からヤシの実が流れ着くように、日本列島の太平洋沿岸は、古来からポリネシア語を話す民族が渡来していたのです。その民族は、「ヤ・8」の言葉の愛用があったようです。日本神話と言われている物語にも、やわたのおろち、やたのかがみ、とか「や」のつく言葉が多くあるのは、先住民族としてポリネシア語を話す民族が、日本列島に渡来していたからです。戦国時代、織田信長は、出自不詳の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を「やの者」と蔑称していたのは、「や」を「南方民族」として理解していたので、「南方から来た者」の意味で使っていたのです。」
「すると、ポリネシア語民族、ヒッタイト語民族、タミル語民族、突厥語民族が、日本列島に渡来して、それらの民族の言葉を日本列島に残したのですね。」
「そう考えられます。しかし、藤原日本史では、日本列島は世界から隔離した孤島とし、渡来民族の元を中国と朝鮮半島だけとし、それ以外の世界を語らず、神代の世界から降臨した天皇の世界へと物語を創作して「日本古代史」を構成していたのです。そして、漢字伝来以前のそれらの飛鳥大和の人々により話されていたとする「言語」を、「万葉語」としてごまかしていたのです。万葉語とは、万国語で国際移民族の言葉のことなのです。「やまとことば」とは、単一民族とする大和民族の言葉のことではないのです。藤原日本史では、日本最古からあるとする「神」の言葉のルーツを辿れば、中臣神道で述べる、「かむから」(可牟加羅良/神の品格)、かむなから(可武奈何良/神そのままに)、かむさび(可武佐備/神々しく)などのように、古来の「神」は、「かむ」と言われていたのです。その「かむ」のルーツは、アイヌ語の「カムイ」です。因みに、古墳を破壊した跡に建てられた施設を、「モリ・神社」と呼ばれたのは、「モリ」とはアイヌ語で、こんもり盛り上がった地、つまり、古墳の小山のことだからです。漢語に対する「やまとことば」、と云われている「言葉」の多くは、藤原氏が創作した「日本書記」により「消された民族の言葉」を祖としていたのです。」
「「日本書記」により消された民族の言葉は、どのようにして生き残ったのですか。」
「民族言葉の根幹は、3歳位までに確立されるようです。」
「三つ子の魂百までも、ですか。」
「そうかもしれません。子供は、主に母親から民族言葉の根幹を学習するようです。その民族言葉は、永遠ではなく武力的、経済的、文化的、思想的に優位な民族の言葉が、劣位民族により取り込まれていくようです。しかし、優位の異民族の言葉が、劣位民族にとりこまれて、その異民族言葉により、思考するには、最低でも三代百年以上の期間を要するのです。」
「どのようなプロセスによるのですか。」
「例えば、第一世代の民族の国に、武力的、経済的、文化的、思想的優位な異民族が侵攻したとします。すると、先住民は、それらの侵攻民族の優位なものを手に入れようとして、身振り手振りによりコンタクトします。そして、カタコトの侵攻民族語を習得します。実例として、1945年日本国が連合国に破れ、連合国軍最高司令官のマッカーサーが厚木基地に到着し、日本国がアメリカ軍に占領されると、日本の子供達が最初に覚えた英語が、「ギブミーチョコレイト」だったのです。これが、第一混成語となります。その混成語を話す母親から生まれた子供は、先住民族語と混成語を話すことが出来ます。それが、第二混成語となります。その第二混成語を話す母親から生まれた子供は、侵攻民族の言葉を理解できます。そして、その第二混成語を話すことが出来る子供は、侵攻民族の文化、思想を習得し、新しい文化や思想を開発することにより、侵攻民族の言葉が定着するわけです。しかし、その侵略国における侵攻民族の言葉がそのまま生き残ることはないのです。ジャパニーズ・イングリッシュのように先住民族の音韻を引きずることがあるからです。」
「それでは、漢字を読むのに、呉音、漢音、唐音があるのは、中国三国時代の呉(222年〜280年)、五胡十六国時代を統一した中国の北朝を支配した北魏(430年〜534年)、隋を倒した唐(618年〜907年)の商人達か侵攻軍団が、日本列島に渡来していた可能性があるわけですね。」
「そう考えなければ、藤原日本史では、唐文化を輸入しいてたとする遣唐使はあっても、遣呉使も、遣北魏使も「日本書記」には記述がありませんから、それらの呉音、漢音は、呉・北魏のそれらの民族音韻を話す商人か軍団が渡来して、百年近く日本列島に存在していたことが示唆されます。因みに、呉音は、揚子江下流地域を支配していた呉の南方系発音で、行(ギャウ)、経(キャウ)と読んでいたのです。漢音は、中国の長安で話されていた北方系発音で、行(カウ)、経(ケイ)と読んでいたのです。唐音は、645年明日香ヤマトに侵攻した唐進駐軍が使った発音で、794年唐の傀儡である桓武天皇が、秦氏の山背国を乗っ取り、山城国とし、平安京を遷都すると、京の都は、唐音で話されて行くのです。しかし、平安時代、唐進駐軍が支配したのは、京を中心に、西国の近畿一帯だったので、唐音は、ズーズー弁の濁音を話す東国には伝わらなかったのです。唐音の特徴は、濁音が少ないのです。ですから、唐文化一色の平安時代に発明された初期の「ひらがな」には、古墳時代は漢字を使ったアルフアベットの万葉語には濁音が存在していたのに、濁音を表す文字がなかったのです。唐音では、行(アン)、経(キン)と発音していたのです。」
「中国といっても、時代によっては異なる民族が支配していたのですね。すると、藤原日本史では、552年仏教伝来以降、百済から医・易・暦など伝来し、593年聖徳太子が摂政となり、603年官位十二階を制定し、604年憲法十七条を制定していたならば、何故、日本語の語順は、当時先進文化国であった中国式の主語+動詞+目的語とはならなかったのですか。何故、仏教言葉が、「やまとことば」にはないのですか。飛鳥大和を詠っているとする万葉歌には、飛鳥大和を仏教文化とする「仏」についての歌がないのは何故ですか。ナベさんの説では、優位民族の言葉は、先住民により取り込まれることにより、劣位民族の言葉を駆逐する、ということですよね。」
「良い質問です。そこで、藤原日本史で述べる、大臣の蘇我稲目が突然登場した530年から、蘇我氏滅亡の645年までを、漢訳仏教僧による仏教文化の飛鳥大和と考えるのではなく、突厥民族が支配したオリエント文化と騎馬民族文化の時期と考えると、何故、日本語の語順が、突厥語の語順と同じ、北方遊牧民族のウラル語系の膠着語であるのかを、うまく説明できるのです。」
「その明日香ヤマトの115年間で、突厥語が、日本列島に伝播したというのですね。でしたら、どのようにして、南北に長い日本列島に伝播していくことができたのですか。」
「それは、前方後円墳を築造するときに併設された大路によるのです。日本列島に張り巡らされた大路は、藤原日本史では、五畿七道といわれていますが、それは、奈良時代ではなく、古墳時代に、飛鳥大和を中心にしてではなく、東北の日本海沿岸から西の九州に向けて敷設されていったのです。それは、対隋・唐との軍事目的と国際交易が目的です。この五畿七道により、ユーラシア大陸から、日本海を渡り秋田に上陸し、日本列島を縦断して、九州にたどり着くことができたのです。つまり、古墳時代に、日本列島に敷設された五畿七道とは、ユーラシア大陸と南中国とを結ぶ、国際交易の回廊であったのです。」
「すると、その五畿七道により、突厥語が、日本列島全域に伝播したことにより、突厥語が、日本列島語化したという訳ですか。」
「そうです。この推論からも、古墳時代には、先進国唐で流行っていた漢訳仏教など伝来していなかったことを示唆するのです。古墳時代に敷設された、幅12m以上もある大路が、古墳時代に渡来した民族により敷設されたのですが、唐進駐軍により、秦氏や突厥民族が畿内から東国へ駆逐された平安時代になると、その幅12mの大路は埋められて、幅6mにされてしまうのです。」
「そのことをもう少し詳しく説明してもらえませんか。」
「奈良時代末期、山背国(後に山城国)を防衛していた秦氏の花郎騎士団や突厥進駐軍団は、744年突厥進駐軍団の東ユーラシアの母国が、唐軍により壊滅されたため、奈良盆地に駐屯していた唐進駐軍が北上したことにより、山背国を追われるのです。山背国を侵略した唐進駐軍は、788年秦氏のミトラ神の祭祀場があった比叡山を乗っ取ると、砦としての延暦寺を建立するのです。そして、794年唐の傀儡である桓武天皇により、秦氏のミトラ神を祀る蜂丘寺(破壊跡に仏寺の広隆寺を建立)を破壊した跡に、平安京の都を築いたのです。桓武天皇が、何故、唐の傀儡かとの根拠は、781年唐服で、唐の儀式により、奈良時代は呉音であったものを、漢音の祝詞により即位をうけていたからです。そして、奈良時代では、藤原氏が発明したアマテラスオオミカミを皇神としていたものを、なんと、実父の光仁天皇を皇神として、即位儀式をおこなっていたのです。そして、桓武天皇の息子の代から、奈良時代は中臣神道であったものが、唐に居住していたインド僧から仕入れた思想を元に錬金術師空海が発明した真言密教のダキニの呪法で、平安時代から「○○院」と呼ばれていた百済系天皇は江戸末期まで祀られていくのです。そして、桓武天皇は、畿内から花郎騎士団残党と突厥進駐軍残党を、東国に追いやると、越前の愛発(あらち)、美濃の不破、伊勢の鈴鹿に関所を設けて、ユーラシア大陸と南中国とを結ぶ日本列島回廊網を閉鎖し、亡命百済王朝が支配する関西と、騎馬民族系軍団が支配する関東に分断したのです。そして、三関の東側で亡命百済貴族が支配する軍団に抵抗する東国の軍団を、蝦(えび)のようにヒゲをはやしている夷の意味で、「蝦夷」と蔑称したのです。そして、桓武天皇は、その騎馬民族軍団の機動力と、国際交易のための馬を利用した騎馬民族の物流権を奪う目的で、路幅12mを6mに狭めさせたのです。その三関所の東側が、亡命百済王朝と異なる民族であることは、平安時代初期に著された「東大寺諷誦文稿」に、東国には、「毛人方言」、「飛騨方言」、「東国方言」があると記されているからです。」
「蝦夷は、アイヌ民族ではないのですか。」
「蝦夷は、アイヌ民族ではなく、騎馬民族です。その根拠は、アイヌ民族は、騎射ができません。そして、蝦夷の武器は、動物の腸から作った弦を張った騎射用の短弓と、ユーラシアの騎馬民族と同型の蕨手刀です。」
「てっきり、蝦夷はアイヌ民族だと思っていました。」
「それは、蝦夷の歴史を知られたくない、藤原氏の陰謀によるのです。東国の武人である蝦夷の発生は、平安時代からです。それ以前には、日本列島には武人の蝦夷はいません。武人の蝦夷の祖とは、古墳時代の明日香ヤマトを支配していた秦氏の花郎騎士団と突厥民族の武人であったからです。藤原氏は、明日香ヤマトの「武人=蝦夷」の歴史を消すために、「日本書記」の「神武紀」で、「蝦夷を一人、百な人、人はいへども抵抗もせず。」と久米歌を記載して、紀元前から武人の蝦夷が日本列島に存在していた、とのトリックを仕掛けていたのです。更に、「景行紀40年」には、「蝦夷は是尤だ強し。」「撃てば草に隠る。追えば山に入る。故、往古より以来、未だ王化に染はず。」と記しているのです。神武天皇も景行天皇も、藤原氏が創作した架空の天皇です。すると、それらの東国武人の蝦夷の形態を正確に述べた文章は、平安時代初期のものです。それが、720年に完成したとする「日本書記」に記されていることは、謎です。」
「では、藤原日本史で述べる、飛鳥大和の朝廷で天皇のように振舞っていたとする大臣の蘇我蝦夷の「蝦夷」は、どのように説明が出来るのですか。」
「蝦夷は、ヒゲのある夷の意味の蔑称です。突厥とは、騎馬民族の「チュルク」(トルコ)を漢訳したものです。チュルク系民族は、ヒゲが濃いのです。チュルクとは、トルコのことで、現在のトルコ民族の男は、濃いヒゲを生やしているひとが多く見かけます。そのチュルク系民族を蔑称する言葉が、「蝦夷」であるのです。藤原日本史では、飛鳥大和時代の蘇我氏歴代の名前を、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の蔑称で呼んだ意味を考えてください。そして、平安時代では、東国の武人を「蝦夷」と蔑称していたのです。」
「ナベさんの古代史説の概要は、大分理解できました。少し整理してから、幻視をします。」
「よろしくお願いします。では、もう遅いのでこれでoffにします。お休みなさい。」
「お休みなさい。」
オレは、今日のチャットをもう一度、読むことにした。それは、田辺さんの古代史は、学校で学習したものと、ほとんど違うからだ。一度刷り込まれた情報を改めるには、オレの嫌いな「努力」が必要なようだ。
田辺さんによる数回のチャット古代日本史講義を「読んだ」おかげで、オレの古代史の認識が変わた。それは、学校で学んだ古代日本史は改竄されているということだ。そのひとつに、祭祀思想がある。民族の中心は「祭祀」だ。その古代の「祀り」が、明治時代になると「祭り」となって行く。何故、犠牲を伴う「祀り」が、明治時代に唄と踊りの「祭り」に替わったのか。
しかし、藤原日本史では、日本国は世界でも珍しい、天磐船から降臨した万世一系の天皇家による「祀り」が、神代の昔からおこなわれてきた、と述べているのだ。藤原日本史では、「祭り」には変更がない、と述べている。しかし、「祭り」に変更があったことは史実だ。「祭り」には、藤原日本史により消された歴史の謎があったのだ。
その謎解きには、「祭」の文字にヒントがある。「祭」の文字を分解すると、三つの文字から構成されていることが分かる。左上の文字は、肉を表す。右上の文字は、人間が手でする何かの動作を表す。下の文字は、神に物を捧げる台を表す。
すると「祭」の古来の意味は、明治時代以降の唄と踊りで神を楽しませるのではなく、肉を手に持って神聖な台に捧げることなのだ。明治時代に、この「祭」から、何故、犠牲が取り除かれたのか。その犠牲とは、神に捧げるため、動物を屠り捧げることなのだ。
このことから、古墳時代が終わった奈良時代から、犠牲の祭祀場であった古墳を破壊した跡に建てられて行く神社(モリ)が、明治時代に建てられて行く神社(ジンジャ)ではないことが分かる。神社(モリ)に、何故、結界を示す注連縄が張られているのか。何故、神社(ジンジャ)境内のジメジメした処に、みすぼらしい小さな祠があるのか。
現在では、「モリ」は、「森」と認識され、木がまばらな「林」に比べて、木が多く茂っている処と思われている。しかし、古代の「モリ」は、禁断の地の葬送地とされていた。その「モリ」を、漢字の「杜」にあてたのは、その意味には「ふさぐ」があったからだ。では、古墳を破壊した跡に建てられた「もり・杜→神社」では、「何を塞いでいた」のか。そのように、藤原氏は、漢字の「森」で、「杜」の本来の意味を消していたのだ。
それは、古墳時代以降の神社(モリ)と、藤原氏(近衛家)が復活した明治時代に発明された神社(ジンジャ)が、異なる目的で、645年突然日本列島に現れた中臣(ナーガ→へび)の神を祀る、祭祀氏族の藤原氏により企画されていたからだ。
田辺さんの古代日本史説を読んで、納得した。やはり、仏教が伝来する前には、「死」を穢れとし、祝詞の祓いによる神道儀式ではなく、犠牲による儀式により「祭り」がおこなわれていたのだ。
だとすると、最後の牛屠殺禁止の御触れが出た平安時代の804年までは、旱魃の解消を神に祈るための犠牲による「祭り儀式」がおこなわれていたのだ。その「祭り儀式」は、藤原日本史が述べる神道儀式の祝詞によるお祓い儀式ではなく、牡牛を屠ることだ。すると、その牡牛を屠る祭祀儀式を、日本列島に持ち込んだ民族は、誰だ。死の穢れ・血を禁忌とするお祓い儀式による中臣神道や、殺生禁止のお経を唱える仏教僧ではないことだけは確かだ。
しかし、藤原日本史では、飛鳥大和は、552年(一説には538年)に仏教が伝来する以前は、神道の神が祀られていた、とするのだ。そして、二度の神仏戦争により、最終的に、崇仏派の蘇我馬子が、廃仏派の物部守屋を滅ぼして、594年には聖徳太子により仏教興隆の詔が発せらた、とするのだ。
藤原日本史によると、594年以降、日本列島は仏教文化となっていった、と言うのだ。しかし、牛屠殺禁止の御触れが出た804年までは、牡牛の犠牲による「祭り儀式」は、バラモン教やヒンズー教の儀式を取り込んだ真言密教を鎮護宗教とする平安王朝の目を逃れて、山の民の間では公におこなわれ続けていたのだ。
古代日本史を復元するためには、「祭祀」は民族を結束するための中心的儀式であるから、牡牛を屠る儀式をおこなっていた民族を特定することが必要だ。その牡牛を屠るには、鋭利な刃物が必要だ。とすると、その二つを持った民族が特定される。それは、ヒッタイト民族だ。
太陽神ミトラを信仰し、ヒッタイト帝国から移住した古代エジプトでは、その時代、太陽の道である黄道は「牡牛の時代」だったので、ヒッタイト帝国からの移民達には、牡牛が太陽神の化身となった。そして、反宗教革命の神官の迫害から逃れるために、古代エジプトから逃れたシナイ半島では、メソポタミア出自の遊牧民族に出会い、そこで牡牛を屠る犠牲の儀式を学んだ。牡牛を屠る儀式と産鉄技術を持つ民族は、やがて、カナンの地でしばらく暮らしたが、隣国アッシリア帝国に、紀元前722年その民族の国は滅ぼされ、その民族はアッシリアの砂漠に消え、二度と歴史上に現れなかった、と言うのが田辺さんの説だ。
そのアッシリア帝国は、紀元前612年に滅んでいる。そして、その地は、はるか遠い西アジアだ。時代的にも、地理的にも、そのような遠大な時間・距離を経て、田辺さんが説くように、極東の中国大陸から離れた島国の日本列島に渡来できるのか。
そこで、田辺さんのレポートを再び読んでみると、少しの疑問は残るが、おおむね理解できる。やはり、ヒッタイト帝国で発明された鉄器を持った民族が、移住先のそれぞれの地域の文化を引きずって、南からの南海ルート、中央からの砂漠ルート、北からの草原ルートの三つにより、太陽神ミトラが誕生すると信じられた東方の山の聖地を求めて、弥生時代に日本列島に渡来したようだ。
日本列島には、古墳や古墳を破壊した跡に建てられた古神社(モリ)や古仏寺に、地図上で線を引くと、太陽の道が現れるのは、ミトラ教信者が、日本列島に太陽神の誕生地を求めたからのようだ。
その鉄器と牡牛を屠る儀式を持った先住民族と、645年侵攻してきた民族との興亡が、古代日本史の根幹だと、田辺さんは述べていたのだ。
そして、645年突然日本列島に現れて、仏教思想を支配武器とした民族が、日本列島の先住民を支配するために、その出自を隠すために、天磐船により降臨したなどの神話を創り、「日本書記」で、朝鮮半島の政変である「ヒドンの乱」を参考に、645年の「大化の改新」物語を創作して、先住民を洗脳していたのが藤原日本史なのだ。
だからと言って藤原日本史は、デタラメを記しているのではない。藤原氏は、唐進駐軍が奈良盆地から秦氏軍団である花郎騎士団と突厥進駐軍連合軍の残党を山背国へ駆逐すると、701年唐の律令制度ソックリの大宝律令を発して、支配下に置いた国々に国司を派遣して、その地域の歴史書を提出させて、古代日本の歴史を調べ上げていたのだ。そして、各国から提出された歴史書の史実を、713年以前には存在しない「物部氏」・「蘇我氏」など架空の氏族を創作して脚色したり、大和朝廷の出雲の侵略は7世紀以降であるのに神話時代として年代をずらして、藤原氏に都合よく、前政権の秦氏・突厥民族の歴史を消していたのだ。だから、各地で発掘される遺構・遺跡は、「日本書記」と符合するのだ。
この歴史改竄の手法は、一神教のユダヤ民族による、多神教のイスラエル民族の歴史乗っ取りと同じだ。だから、「日本書記」と「旧約聖書」の構成が似ているのは、そのためだ。
そして、奈良王朝は、713年各国に風土記撰上の詔を発し、そして、地名・人名を漢字二文字で表記させる好字令を発し、前政権の歴史を消していくのだ。このことにより、オリエント文化色のある地名・人名が消されてしまった。物部、蘇我、大伴、葛城、磯城、平群などの地名・氏名は、713年以降のもので、それ以前のものは消されていたのだ。そのような下地において、720年「日本書記」が完成するのだ。
701年以降、明日香ヤマトの前政権の文化遺産は徹底的に破壊され、その跡に、仏寺が北九州から移築され、その結果、明日香ヤマトに存在していたミトラ教の寺や道教の観を歴史上消すことができたのだ。が、しかし、巨大石造物、大運河、幅12mを超える大路、石垣を麓に張り巡らした吉野山の朝鮮式山城などは、完全に破壊できなかった。そこで、藤原氏は「日本書記」で、女帝斉明天皇(655年〜661年。皇極天皇の一人二役)の「たわぶれ心」により、それらの大土木事業がおこなわれた、としたのだ。
しかし、明日香ヤマト時代(古墳時代)の大土木事業は、藤原日本史が述べるように飛鳥大和近辺だけではなく、日本列島全島でおこなわれていたのだ。藤原日本史では、前方後円墳が、大和政権の権力を地方に示すための象徴だとするが、それは違う。巨大古墳築造は、古墳時代版ニューディル政策だったのだ。
「旧約聖書」では、モーセ率いるヨセフ民族は、古代エジプトで奴隷としてピラミッド築造のために鞭打たれ酷使されていた、とする。そして、その奴隷状態からの脱出が、「出エジプト記」とするのだ。しかし、奴隷の居住地とされていた処から子供の玩具が発掘されたのだ。古代の奴隷は結婚など出来ない。ましてや、子供など持てない。そして、「出エジプト記」では、奴隷が日干しレンガを作っていたとの描写がある。これらのことにより、「出エジプト記」が偽書ではないかと疑われている。それは、日干しレンガは、古代エジプトではなく、メソポタミアの文化なのだ。古代エジプトは、日干しレンガ文化ではなく、石の文化だったのだ。
古代エジプトのピラミッドは、雨季で農耕が出来ない民のためのエジプト版ニューディール政策により、築かれていたのだ。仕事ができない時期に、ピラミッド築造の仕事を与えることにより、王権は民生をコントロールしていたのだ。
そのような目で、4世紀から始まる日本列島の古墳分布を見てみると、岩手県以北には古墳が発掘されていない。何故か。それは、5世紀、ユーラシアの極東のウラジオストックから日本海沿岸に渡来した民族が、同族の騎馬民族が漢化した北朝を避け、絹製品を求め中国南朝の東晉との国際交易のため、ユーラシアと中国大陸との回廊である日本列島の東北の酒田津に上陸し、北ではなく、西を目指したからだ。
古墳が、日本列島に現れたのは、三世紀末からと云われている。そのころの東アジアの社会情勢は、北の騎馬民族鮮卑の南下により、ローマ帝国と絹馬交易で栄えた後漢が、220年滅んだ。
そして、後漢は分裂し、三国時代になり、魏・蜀・呉が中国の覇権を競っていたのだ。その呉の南方系音韻が、日本列島にもたらされていることは、呉の商人か軍団が、日本列島に、三代100年以上の長期滞在をしていたことを示唆する。そして、南方系の呉と覇権を争そう北方系の魏は、247年北九州の邪馬台国と狗奴国との戦争に、軍事顧問の張政を派遣していたのだ。
それは、邪馬台国は、魏に絹製品を貢いでいた「親魏倭王」を奉じられた属国だったからだ。そして、249年卑弥呼が死ぬと、「魏志倭人伝」によれば、巨大古墳に埋葬されたのだ。
そして、4世紀から始まる、チベット族とチュルク民族が支配者となっていた五胡十六国の内乱時代(317年頃〜439年頃)に、日本列島の奈良盆地に、巨大前方後円墳が出現するのだ。しかし、その前方後円墳は奈良盆地だけではなく、その相似形が、岩手県以南から九州まで、七世紀末まで築かれていくのだ。
この4世紀に、藤原日本史では、大和朝廷が存在していたとするのだ。その根拠のひとつが、大和盆地の三輪山麓の傾斜地に、巨大前方後円墳を築造できるほどの権力を掌握していたから、とするのだ。
しかし、巨大前方後円墳は、大和朝廷の指導のもと、先住民の奴隷により築造されていたのではない。古墳は、侵略民族が先住民に仕事を与えることにより、仲間として懐柔するための手段だったのだ。それは、前方後円墳が、異なる埋葬法による方墳民族と円墳民族の合体古墳であるからだ。
その前方後円墳築造のルーツは、2世紀の騎馬民族国の高句麗、5世紀の朝鮮半島南端から発掘されていることから、北方系騎馬民族による、被侵略国の異民族融合のためのアイデアであるようだ。
では、全国各地の古墳地域に併設された、幅広の大路は、どのような民族によるのか。それは、田辺さんのレポートによれば、ローマ帝国軍団によるようだ。ローマ帝国軍は、年がら年中戦争をしていたわけではなく、平和時には、ローマ帝国軍は、建物を建設したり、幅広の直線道路を世界各地に敷設していたのだ。
そのローマ帝国軍団は、紀元一世紀から始まる、ローマ帝国と中国との絹馬交易のために、度々中国と行き来していたのだ。166年には後漢に、568年には突厥帝国を訪れていた。
ローマ帝国軍は、392年以前まで、戦場に降臨するというミトラ神をローマ帝国軍の軍神として崇拝していたのだ。しかし、テオドシウス1世が、敵対するユダヤ教ヨシュア派が「ヨシュアはメシア」と唱えていたのを、「ヨシュアはメシア」のギリシャ語読みで「イエス・キリスト」とし、そのキリスト教を、392年ローマ帝国の国教としてしまったのだ。そして、テオドシウス1世が死去すると、ローマ帝国は、395年東西に分裂したのだ。
そして、東ローマ帝国では、キリスト教徒により、ミトラ教の抹殺が起こり、ミトラ教地下神殿が破壊され、その跡に、キリスト教の教会が建てられていくのだ。その動乱時期に、ローマ帝国軍の軍神ミトラを棄て、キリストの神を祀ることを拒否した一部のローマ帝国軍団は、東ローマ帝国を去り、どこともなく消えていったのだ。
更に、キリストを人間から神にしたい東ローマ帝国は、431年エフェソスの公会議で、キリストは人間だとするキリスト教ネストリウス派を異端として、東ローマ帝国から追放するのだ。そのキリスト教ネストリウス派は、絹馬交易路を辿り、635年唐帝国に現れたのだ。
568年東ローマ帝国軍のゼマルクスが、635年キリスト教ネストリウス派が、東ローマ帝国から中国へ渡来していたことから、395年東ローマ帝国から去った軍神ミトラを崇拝する元ローマ帝国軍団が、東アジアの国へ渡来したことが示唆される。
その国のひとつと考えられるのが、356年碧眼から異邦人とされる奈勿王に興された古代新羅(356年〜527年。528年から仏教文化国)だ。この古代新羅の文化は、東アジアでは異質だ。まず、東アジアでは、唐の女帝則天武后を除けば、ありえない女王国であり、高句麗や百済は漢字を使用しているのに、漢字を使用しない。その代わり、漢字文字をアルフアベットとして表記する、郷札(ヒヤンチャル)だ。この郷札は、藤原日本史が云う「万葉語」と同じだ。更に、372年高句麗が、384年百済が、仏教文化を受け入れていたのに、古代新羅では528年まで仏教文化を受け入れていなかったのだ。仏教文化を拒否していた古代新羅が祀る神は、その軍団が、花郎騎士団と呼ばれていたことから、ミトラ神が示唆される。それは、花は、ミトラの借字であるからだ。
古代新羅の異質性は、その都であった慶州の古墳から発掘された遺品により証明される。そられは、ギリシャ式三樹の金製の女帝用王冠、ローマ帝国軍と同型の冑や脛当て、カスピ海沿岸で作られたガラス製トンボ玉、金製ネックレス・腕輪、角杯、ガラス製品などなど、ギリシャ文化やローマ文化色のある遺品が多数発掘されているからだ。
その古代新羅が支配した朝鮮半島南端では、馬冑が発掘され、それと同型の馬冑が、和歌山県大谷古墳から、そして、さいたま県将軍山古墳からも発掘されているのだ。
以上のことから、日本列島には、4世紀以降にギリシャ・ローマ文化の古代新羅から、太陽神ミトラを祀る元ローマ帝国軍(=花郎騎士団)が渡来して、幅広の大路を敷設していたことが示唆される。
田辺さんのレポートを基に、オレの考えをまとめると、古代日本史は、そのようになる。後は、幻視をするだけだ。
古代日本列島にタイムトリップだ。
雲間からパラグライダーで下降するよに見えた映像が、その地形が北九州と認識できるまでにはそれほど時間がかからなかった。朝日を浴びて金色に輝く波が打ち寄せる岸辺の向こうには、無数の武装船が浮かんでいる。浜には槍と弓を構えている無数の兵士が確認できる。武装船は、大きな帆が付いた30人ほど乗船できる、艪の付いた大型外洋軍艦だ。長らく遠洋航海をしたのか、帆はボロボロだ。やがて、一艘の船が浜に着くと、船の側面から、上陸用の幅広の板状のものが浜に下ろされた。
武装船から見たこともないものが現れた。浜の兵士達は、一瞬退いた。キンピカの全面を覆う冑と、鎖で編まれた鎧、そして、手には鉄製の長槍だ。馬に装備された弓は短く曲がっている。それだけでも、長棒の先に青銅鉾を付け、長い竹製の弓で、木製の盾で武装して、全身に刺青をして、頭を保護するために布を巻いている浜の兵士を驚かすには十分だが、馬にもキンピカの冑と全身を覆う甲が装備されていた。
その武装船から下りた単騎の重武装騎士が、身構える浜の兵士達にゆっくり向かって行く。浜の兵士の大将と思われる者が、槍を天に向けて振ると、無数の兵士達は、重武装騎士を取り囲み威圧した。重武装騎士は、その威圧にたじろぎもせず、槍を天に向けて振っている大将に向けて、ゆっくり歩を進める。
大将が槍を重武装騎士に向けると、同時に、兵士達が槍で騎馬兵士を突き、矢を放った。しかし、槍も矢も騎士の鎧や馬の甲を通さなかった。激しく攻撃するが、それでも重武装騎士の歩みを止めることが出来ない。やがて、重武装騎士は、敵将の前まで進むと、鉄製の槍を馬上から敵将に突きつけた。それを払いのけようとした敵将の木製柄の長槍は、中ほどから折れた。それと同時に、重武装騎士を囲んでいた輪が崩れた。
それを船から観戦していた鎧冑で武装した兵士は、5mもの長槍を振り回しながら浜へ続々と上陸を開始した。もう、浜の兵士には抵抗する者はひとりもいない。やがて、その浜から、青銅の武器を持った集団が、帆の付いた船で出雲へ向けて脱出した。
「すると、この映像は、弥生時代から古墳時代に移る頃か。船から下船したのは、ロンギヌスの槍で武装したローマ帝国軍重騎兵で、木製の盾と青銅器で武装した浜の兵士は南方系アズミ族という訳か。では、その頃の飛鳥大和はどうなっているのか。」
広大な湿地帯を俯瞰して眺めると、小山の頂点を結ぶと三角形となる、湿地帯に浮かぶ三つの山が見えてきた。その三つ山の北側の小山の右手の台地に、無数の人たちが何かを商っている。
地上すれすれに行くと、それらの人達の風体がそれぞれ異なっているのが分かる。商人達は言葉が通じないのか、身振り手振りで商っているようだ。その市場も、夕暮れになると誰もいなくなるのか、常設の建物らしきものは何ひとつ見えない。その大湿地帯の東側の山と山の間を流れる川を掘削している一団が見える。そして、国際市場の北側の山の麓には、巨大前方後円墳が、大湿地帯に運河を造るために掘削した残土で築かれている。指揮者の指示により、集団がいっせいに動く。鞭打たれる者などひとりもいない。この奈良盆地の大湿地帯は、先住民族の支配地ではないので、その前方後円墳は、先住民と紛争している他の地域に比べて、特に巨大に設計されたようだ。
更に、海に向かって西に行くと、湖の西側の台地の中ほどを削って、大運河を完成させた大群衆がいた。その大運河へ湖の水が流れ出し、海に注がれたことにより、その湖の周辺は、湿地帯から平地へと変わっていった。その台地の先端には津を造り、砦が築かれ、その周辺に国際交易用の倉庫群が築かれていった。
「奈良盆地は、三世紀頃までは湿地帯だったようだ。その大湿地帯を平地に変えるために、湿地の水捌けをよくするために大運河を掘削し、その残土で前方後円墳を築いていたのか。でも、何故、そのような山に囲まれた大湿地帯にあるほんのわずかな台地に、国際交易商人が集まっていたのか。オレはその答えを見てみたい。」
高度を上げていくと、日本列島が眼下に見える。目を凝らすと、緑に塗られた日本列島の北九州から四国、そして、紀伊半島を縦断して伊勢までの「一本の筋」が見える。その筋を目がけて急下降すると、地表に転がっている栗のような赤い石を拾い集める集団がいた。その集団は、その筋道を通り、紀伊半島の中頃から北上している。そのたどり着いた先が、先ほどの国際交易場だ。
海外から国際交易商人が持ち込んだ布製品や鉄製品、鏡などの銅製品と交換に、その赤土と繭が求められている。国際交易商人達は、その赤土と繭を求めて、はるばる日本列島の盆地まで、紀ノ川を遡り、或いは、伊勢湾に流れ込む櫛田川を遡り渡来していたのだ。その大阪湾側の紀ノ川と、伊勢湾側の櫛田川との川筋は、和歌山街道となって、縄文時代から開発されていたのだ。
「紀元一世紀、ローマ帝国と後漢が始めた絹馬交易が盛んになると、国際交易商人は、絹を求めて西アジアから東アジアへ多数渡来していたのだ。それは、絹は、金と同量の価値がある高価な国際交易品であったからだ。その絹製品の素が、弥生時代に南中国から日本列島に持ち込まれた「繭」だ。
縄文時代の国際交易商人は、北九州から伊勢につながる中央構造線に転がる「朱砂」を手に入れるために、奈良盆地まで渡来していた。それは、医療技術が発達していない古代では、朱砂は「赤チン」として、消毒薬として呪術に使われた貴重品だったからだ。そして、「繭」を求める弥生時代の国際交易路は、縄文時代からあったようだ。では、北九州を侵略した重武装騎馬軍団のその後はどうなったのか。」
北九州の浜に上陸した騎馬軍団は、馬を動力として、先住民の支配地となっていない湿地帯に運河を掘り、幅広の大路を築いて行く。そして、整地された広大な地に、紐を使って測量すると、地上に円と四角を組み合わせた図形を描いた。その図形に沿って、土が盛られ、突き固められ、また土が盛られ、それを突き固める作業が繰り返されると、巨大な小山ができた。その小山は、石で被われた。太陽のまばゆい光を反射して、白く輝くその人工山は、形こそ異なるが、それは東洋のピラミッドだ。
近隣の山々から、先住民達が、その白く輝くピラミッドに、怖いもの見たさに恐る恐る近づいてくる。古墳築造の指導者とおぼしき者が、古墳を眺めている先住民に手招きをすると、ひとりの男がおずおずと近づいてきた。指導者は、手振りで隣の地区での作業への参加をうながし、鉄製の鍬を渡し古墳築造作業の中に入れた。夕方になると作業は終わる。先住民が鍬を指揮者に返すと、替わりに、布を与えた。男は、喜んで山に帰った。
翌日、男は仲間を大勢連れて、指揮者の前に立った。指揮者は、男達に作業道具を渡すと、作業仲間の所へ連れて行き、それぞれに作業指示を与えた。
その巨大前方後円墳が完成する頃になると、建設作業に加わった先住民達は、指揮者の命令言葉を多少認識するようになった。その指揮者の命令言葉に従う先住民に、前方後円墳が完成すると、鋤や鍬の作業道具に替わり、槍や弓の武器を渡した。こうして、前方後円墳を築く過程で、先住民は、指揮者の号令に従う侵略者の傭兵となっていった。
北九州で、かなりの傭兵を集めた軍団は、九州と本州を隔てる穴門から、瀬戸内海を抜けて、吉備に上陸した。ここには、上質な山砂鉄が産出される。しかし、ここにも青銅器を武器とする先住民がいた。その先住民は、侵略者のキンピカ装備の軍団と多数の傭兵軍を見て戦わずして、吉備の地から出雲に逃れた。
軍団は、吉備の加夜に砦を築くと、また古墳を築き始めて、傭兵を集めた。そして、その軍団は、陸路と海路から東を目指した。向かう先は、国際交易地のある奈良盆地の三輪山麓だ。ここを抑えれば、日本列島の産物が手に入るからだ。しかし、この軍団には別の行動法則があるようだ。それは、北九州から吉備、そして、河内へと東を目指していることだ。
「4世紀、奈良盆地に巨大前方後円墳が築かれ、その古墳から、東海、出雲、九州製の土器に混じって、多くの吉備製の土器が発掘されているのは、吉備が中心となって、古墳を築造していたことが示唆される。
藤原日本史では、何もかも飛鳥大和を中心に、日本列島物語を語っているが、こうして日本列島を俯瞰して見てみると、日本列島史の流れは、ひとつではないことが分かる。そして、4世紀の奈良盆地には、国際交易商人の存在は確認されたが、常設の建物など存在していなく、奈良盆地を支配した強力な大和政権など存在していないことが分かった。
藤原日本史では、紀元前660年神武天皇は大和の橿原で即位し、万世一系の天皇家が日本列島を支配した、と述べているが、その縄文時代の奈良盆地は、ひとも住めぬ大沼だった。では、明日香ヤマトは、どのような民族により支配されたのか。次は、日本国建国の黎明期を見てみよう。日本列島の明日香ヤマトを、初めて支配したのは騎馬民族のようだ。ではどのようにして、明日香ヤマトを支配した騎馬民族は日本列島に渡来したのだろう。」
日本列島から目を4世紀の東アジアに向けると、中国大陸は動乱の始まりの時だった。中国西方のチベット方面からはチベット民族軍団が押し寄せ、そして、北のユーラシア大陸からはチュルク系騎馬民族軍団が押し寄せて、魏・蜀・呉の三国を統一した晉を攻めて、316年滅ぼしている。
それらの二方向からの異民族軍団は、317年南方を支配した東晉を避けて、北方の漢民族などの先住民を支配し、それぞれの国を興している。中国北方のそれらのチベットやチュルクの異民族が支配する国々は興亡を繰り返し、130年間で16国を数えた。
その中国での異民族による騒乱は、朝鮮半島にも押し寄せている。朝鮮半島の付け根を支配している遊牧・騎馬民族の高句麗は南下を始めた。その中国五胡十六国の騒乱時に、高句麗の一部が独立して、346年朝鮮半島南側に百済、356年北側に新羅が興った。朝鮮半島南端の伽耶は、北九州と小船で行き来している南方系の倭族と同族の支配地のようだ。
五胡の北朝の前秦は、372年高句麗に北伝仏教を伝える。そして、百済には、384年南朝の東晉から南伝仏教が伝わる。東晉は、三国時代の呉の後裔だから、「呉音」を話す。その「呉音」が、南伝仏教と供に百済に伝播したようだ。古代新羅を除き、高句麗、百済に仏寺が、砦のように、軍事拠点に無数建てられて行く。
日本列島への最短ルートだった朝鮮半島の交易路は、軍事要塞化され、今や高句麗、百済、古代新羅による三つ巴の騒乱状態のため、行き交う国際交易商人の数もめっきり減っているのが分かる。
その中国大陸での絹馬交易権を巡る異民族による騒乱は、西アジアにも影響を与えている。異民族による紛争により中央の砂漠ルートの治安の悪化から、西アジアの国際交易商人達は、南インドのマラバル沿岸に集結し、外洋船による南海ルートにより中国を目指し始めている。そして、ユーラシア大陸では、騎馬民族の興隆により、草原ルートにより中国を目指す商隊が現れた。
「4世紀から5世紀にかけての日本列島の歴史が空白なのは、中国大陸がチベット遊牧民族やチュルク系騎馬民族の台頭により、騒乱状態であったからのようだ。それは、遊牧民族のチベット族やチュルク系騎馬民族は、基本的に、定着民族ではなく、放浪の「風の王国」を築くため、歴史書を持たないから、その頃の日本列島の客観的情報がないからだ。
そのことを良いことに、藤原日本史では、朝鮮半島南端と北九州を支配していた倭族(イゾク=韓族)の歴史を取り込んで、4〜5世紀を「倭の五王時代」とした。つまり、讃(仁徳天皇か履中天皇)、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、武(雄略天皇)とするのだ。
「宋書」で倭王武が皇帝に述べる内容には、倭の北側には、海がある。しかし、飛鳥大和の北側には、山はあっても、海はない。すると、4〜5世紀の飛鳥大和には、倭の五王が居なかったことになる。では、明日香ヤマトには、どのような民族が居たのか。
漢字の発音が時代順に、南方系「呉音」→北方系「漢音」→「唐音」と変化していくことから、日本列島に初めて漢字を持ち込んだのは、「呉音」を話す、三国時代の呉か、その後裔の東晉か、その東晉から南伝仏教を押し付けられた百済の商人か軍団が考えられる。
日本列島は、弥生時代から、東ローマ帝国が欲しがる絹製品の原料である「繭」の産地でもあるのだ。そして、「絹」生産本場の中国大陸は、4〜5世紀の騒乱状態のため、「繭」の供給に支障があったのだ。この状態は、中国清帝国時代、太平天国の乱で絹製品の生産が出来ないため、その代替として日本列島の絹を求めて企画された明治革命前夜の状態と同じだ。イギリスなどの諸外国の軍艦は、日本列島の絹を求めて渡来していたのだ。
南の外洋船による南海ルート、そして、北の馬による草原ルートから西アジアの国際交易商人が、軍団と供に日本列島に押し寄せてくるのが、五世紀からだ。この時期から、日本列島に分布する古墳の埋葬品が、祭祀道具から、実戦用の馬具や刀剣類となっていくのだ。そこには、日本列島での絹交易を巡って、先住民と異民族とにより騎馬戦がおこなわれていたことが示唆される。
それでは、日本列島の古墳に馬具が埋葬される時代、動乱の東アジアはどのようになっていたのか見てみよう。」
遊牧民族と騎馬民族が支配する五胡十六国のうちの北方の小国北魏に、東ユーラシアの草原から騎馬民族鮮卑が集結してくる。その結果、その北魏の勢いは強くなり、隣国を次々に倒して行く。そして、430年には中国北部を統一して、鮮卑族の太武帝が支配する北朝の北魏が興った。
その10年前の420年には南部は宋が統一していた。その南北朝の北側のユーラシアには、北方の鮮卑族を南に追い遣った、騎馬民族の柔然が東ユーラシアを支配して対峙していた。
北魏の太武帝が、431年夏を滅ぼし、長安に入城し、仏寺を調べると、そこに夥しい武器を発見した。五胡十六国の騒乱時代の治外法権の仏教寺院では、仏像を安置するだけではなく、武器も安置していたのだ。
その仏教組織の軍事力に脅威を持った、鮮卑族の太武帝は、北魏の全ての仏寺を破壊していき、全仏教僧を国外追放をした。その数200万人。その夥しい仏教僧は、北伝仏教が伝わっていた朝鮮半島の高句麗を目指した。その北魏での仏教弾圧は、騎馬民族文化を蔑視する漢訳仏教の敵である道教を保護した太武帝が暗殺されるまで、446年から452年までの6年間続いていた。
その北魏から亡命渡来して高句麗から朝鮮半島を南下した仏教軍団が、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅に、527年押し寄せて来たために、古代新羅の女王族は花郎騎士団と供に、玄界灘を船で渡り、北九州に大挙して渡来し、先住民と1年間に及ぶ戦争の末、国東半島の付け根に砦を構えた。秦王国の始まりだ。そして、戦死した武将の古墳に、ユーラシア大陸でのモニュメントとしての石人・石馬を飾り、弔っていた。
目を北九州から中央ユーラシアに向けると、その南朝の宋、北朝の北魏、東ユーラシアの柔然が対峙していた5世紀半ばに、中央ユーラシアにあるバイカル湖沿岸に、鼻が高くヒゲの濃いチュルク系騎馬民族の突厥が集結していた。突厥は、騎馬民族でありながら、バイカル湖を船で行き来できる航海術も持っている。馬と船により、瞬く間にその勢力を広げて行く。
その突厥は、始めは高車の傘下にあって轡や武器を作る技術部族としていたが、やがて高車を飲み込んで肥大化し、東西に勢力を伸ばして、東ローマ帝国との絹馬交易路である草原ルートの支配者となっていく。その東ローマ帝国と中国との絹馬交易路の西側に国際商業国エフタルが興り、北魏と交易を始めたので、西に勢力を伸ばしていた突厥と度々紛争を起こしていた。
国際商業国エフタルは、東ローマ帝国にも突厥にも、その存在が許されなかった。そこで、東ローマ帝国と突厥は協力して、エフタルを挟み撃ちをして攻撃をしたことにより、567年エフタルは滅んだ。そして、その突厥帝国の庭(朝廷)に、568年東ローマ帝国の返使ゼマルクスが入っていた。
552年ユーラシア大陸を支配した突厥帝国は、534年北魏が滅び翌年東西に分裂して騒乱の北朝を避け、そして、朝鮮半島の付け根の強国高句麗を避け、絹織物の生産地である南朝と交易をおこなう目的で、ユーラシア大陸の極東港ウラジオストックから、日本海を渡り、日本列島の野代(能代)、酒田津(秋田)、佐渡、珠洲(能登)、佐利翼津(越前)、松原(若狭)など、日本列島沿岸を目指した。6世紀の日本海には、夥しい軍船や商船が、中国大陸東北から日本海を渡り日本列島沿岸の東北の港を目指している。
何故、突厥軍団は、縄文時代からの日本海沿岸の国際中継港である出雲ではなく、越前や東北の東国を目指したのか。それは、西国には、朝鮮半島の高句麗、百済、古代新羅のコロニーが無数あり、そして、出雲・石見などの沿岸の斜面は棚田としてタミル語を話す南方系民族の支配地であるからだ。
この頃の日本列島を俯瞰して見てみると、東北から九州までつながる国際交易のための陸路や海路に沿うように大小の前方後円墳が築かれていき、出羽国、越王国、河内王国、明日香王国、出雲王国、吉備王国、九州の秦王国などの黎明期であることが分かる。まだ、6世紀の日本列島を統一できるほどの権力集団の存在を、飛鳥大和にも見ることができなかった。
「藤原日本史によれば、4世紀から5世紀にかけての大和朝廷は、朝鮮半島の紛争に積極的に介入し、そして、南朝の宋(420年〜479年)には、「飛鳥大和の倭国?」の五王が朝貢をしていた、とする。そして、大和朝廷がその朝鮮半島へ派遣した兵隊数も万単位だ。しかし、そのような大軍団を、船団を組んで派遣できるような軍事力が、奈良盆地の大湿地帯を大溝や巨大古墳築造工事により平地に変えたばかりの「飛鳥大和の朝廷?」にあったのか。
南朝の梁(502年〜557年)の国書「梁書」によれば、日本列島には、倭国(九州)、文身国(出雲)、大漢国(大阪)、扶桑国(東北)の四国がある、と書かれている。倭国が飛鳥大和にあるとは書かれてはいない。「梁書」によれば、その当時の日本列島には、飛鳥大和朝廷による統一王朝などなかったようだ。
そこで、藤原日本古代史の基礎資料「日本書記」の物語と遺跡・遺物とを照合してみると、そこには、「日本書記」のウソが現れてくる。そのひとつが、「出雲の国譲り物語」だ。
出雲の古墳は、不思議な遍歴を示している。それは、出雲の初期古墳は、方墳と四隅突出型方墳であったものが、6世紀から7世紀にかけて前方後方墳から前方後円墳に替わっていた。そして、日本列島各地での前方後円墳築造が終了しても、出雲地域では築き続けられていたのだ。
藤原日本史の「日本書記」での出雲神話物語では、神代の昔に、悪役スサノウの息子大国主命はアマテラスオオミカミの息子に国を譲ったことになっている。すると、大和朝廷の祖の支配地に、誰によりそのような方墳→四隅突出型方墳→前方後方墳→前方後円墳への古墳遍歴が指示されたのか。古墳は、それぞれの民族のシンボルを現している。だとすると、出雲には、4世紀から7世紀にかけて、異なる民族が渡来していたことになる。
そして、藤原日本史の神話物語の時空が狂っているのは、女神アマテラスオオミカミの弟とされるスサノウが、「新羅」を訪れていることだ。「新羅」の建国は、356年なのだ。それ以前に、「新羅」と言う国はない。これらのことにより、「日本書記」の出雲神話物語は、「旧約聖書」の創世記が後から挿入されたように、前方後円墳を作り続けた出雲王国が7世紀まで存続していたことを抹殺するために、出雲王国を歴史上消すために、「日本書記」の神話物語の始めに「出雲神話」が挿入されたようだ。
日本列島の古代では、ウラル語系の突厥語を話す騎馬民族が6世紀以降渡来する前に、藤原日本史が述べるように「万葉語」を話す紀元前660年に即位した神武天皇が支配していたのではなく、日本語の言葉の歴史的構成から、ポリネシア語を話す民族、アイヌ語を話す民族、タミル語を話す民族、朝鮮半島の高句麗語・百済語・古代新羅語を話す民族、中国語の「呉音」で話す民族が、日本列島の各地に存在していたのだ。
その騎馬民族の突厥語を話す民族により支配されていた明日香ヤマトの古墳時代は645年に終わり、奈良時代から平安時代にかけて破壊され、その跡に前政権の霊を封じ込めるために神社(モリ)が設置されていたことは、奈良時代以降は古墳時代と異なる民族が支配者となったからだ。では、古墳時代を支配した民族が、どのようにして明日香ヤマトの支配者となったかを見てみよう。」
6世紀に入り、高句麗から南下してきた漢訳仏教軍団により、527年朝鮮半島を追われたギリシャ・ローマ文化の古代新羅からの亡命民は、北九州の国東半島付け根に秦王国を築ずいていた。
この秦王国は、先遣部隊が築いていた吉備砦、紀ノ川河口砦、吉野砦と連絡を取りながら、淀川河口の大治水工事を計画していた。それは、淀川を支配できれば、山背国の物流の拠点である樟葉津を攻略でき、その結果、その先の宇治川を押さえることにより、琵琶湖に到達でき、琵琶湖から若狭湾に至り越前から海を渡り、中国大陸の北朝と国際交易できるからだ。騎馬民族の「シノギ」は、交易か戦争なのだ。
更に、淀川上流の樟葉から木津川を遡れば、縄文時代から日本列島の国際交易地である奈良盆地のツバキ市に平底の河船で到達できる。そうすれば、今までの紀ノ川河口から遡り、吉野の山道から危険を冒して奈良盆地に行くこともない。それに、その吉野のルートにおいての、三輪山後方の宇陀の山奥に棲息する先住民との交戦もない。
淀川河口から上昇して俯瞰して見ると、秦王国の先遣部隊が上町台地に大運河を通していたことにより、もう、河内湖は干上がり大湿地帯となっており、周辺では大運河を奈良盆地に向けて掘削中だった。
海岸からそれほど遠くない平地には、大路に沿って巨大な前方後円墳が数基築かれていた。その周辺では、水田稲作がおこなわれている。
日本列島への亡命を意図していたのは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅王族だけではなかった。535年北魏が東西に分裂し、その騒乱に乗じて、突厥が東魏を攻撃することにより、550年東魏は滅び、西魏も557年滅んでいた。西魏を倒した北周は、北朝の北魏を興した太武帝のように漢訳仏教を弾圧していた。北周を追われた漢訳仏教軍団は、高句麗に押し寄せていた。高句麗は山岳国家なので、国際交易には不向きであり、そして、砦としての仏寺を建てる平地がそれほどない。仏の道を広めるだけではなく国際交易もおこなう漢訳仏教軍団は、砦である仏寺の拠点を移しながら、更に、朝鮮半島からの南下を目指していた。
視野を河内平野から日本海沿岸に向けると、東北沿岸の酒田津、新潟、能登に、軍馬と供に上陸した突厥進駐軍団は、布や食料を「労働対価」に先住民を道路建設労働者として取り込みながら、縄文時代からの路を、騎馬軍団が疾走できるほどに広げながら、谷は埋め、峠は切り通して西を目指して行く。そして、突厥民族のユーラシア大陸の故国にあるバイカル湖に似た湖に広がる大平原に、馬を放ち「牧」とした。そして、絹馬交易のために馬を繁殖させる牧場を、会津盆地→諏訪盆地へと西に向けて広げていった。
渡来した突厥進駐軍団には、東ローマ帝国軍団が参加しているのが、鎧兜と長槍の装備で分かる。その東ローマ帝国軍の指揮の元、大路は西に向けて造られていく。日本海沿岸から西への大路は二つ。山道を行く東山道と日本海沿岸に沿って行く北陸道だ。
その東北沿岸に沿って秋田から琵琶湖に続く北陸道の越前に、30騎ほどの軍団が見える。ズームアップすると、その騎兵は、スボンのベルトには柄先が蕨のように丸くなった短刀を差し、筒袖服の背には短弓と数十本の矢があった。鎧兜で武装してはいない。偵察部隊のようだ。
その偵察部隊が、琵琶湖の西岸に沿って南下していくと、北上して来る騎士に遭遇した。騎士は、突厥偵察隊の数を見届けると、急いでその場を南に去った。偵察部隊は、後を追ったが追いつけなかった。逃げ去った馬はアラブ種のように大きく、偵察部隊の馬はロバのように小さかったからだ。
偵察部隊が一昼夜南下していくと、湖にたどり着いた。その湖の対岸に津があった。津とは船が係留できる港のことだ。津には大勢の人影が見える。偵察部隊は引き返した。
やがて、その湖の岸に突厥進駐軍団が現れた。その数100騎。もちろん、東ローマ帝国軍騎士も10騎いる。先住民により組織された歩兵は500程だ。対岸の津にも無数の兵隊の影が見える。
騎馬民族は、商業民族でもあるので、いきなり戦争はしない。戦闘の前に交渉事をおこなう。しかし、交渉は決裂したようで、この地での戦いは20年も続いた。決着は単騎戦だ。淀川河口を支配する民族からは、元東ローマ帝国軍末裔の花郎騎士で、越前からの突厥進駐軍からは、現役の東ローマ帝国騎士だ。キンピカのメッキが少し剥げた冑に鉄線で編まれた鎧で武装した騎士と馬冑と全身を鉄網の甲で武装した馬の動きは、軽装備で武装した騎士の動きにはついていけない。長槍で胸を突かれたキンビカ騎士が落馬したことにより、突厥進駐軍の勝利となった。
秦王国の花郎騎士団は、突厥進駐軍の配下となり、供に樟葉から木津川を遡り、奈良盆地を囲む山々にある高句麗や百済進駐軍の砦を壊滅しながら奈良盆地に入った。6世紀の日本列島は東アジアや朝鮮半島のように異民族の紛争地であった。
明日香ヤマトの支配者となった突厥進駐軍は、奈良盆地に入ると南端の、突厥語で「連なる山々」の意味である「タフノミネ」の麓の、北側に開口した東西約800m南北2kmの真ん中に川が流れる地に砦を設けた。
それに対して、秦王国軍団は、奈良盆地の北端に砦を築き、南北軸から西に約20度傾いた建物を建てた。そして、その地から突厥進駐軍の砦の地まで、南北軸から西に約20度傾いた幅12mの直線道路を敷設した。そして、大阪湾に注ぐ大和川の川幅を河船が通れるように広げ、更に、奈良盆地に突厥進駐軍の砦まで大溝を作っていく。
秦帝国の民族は高度土木建築技術を持つ、そして、突厥民族は製鉄技術を持つ。この両民族の協力により、明日香ヤマトには、輸出用製品の鉄製品、ガラス製品、医薬品を製造する工場が建設されていく。
それは、カスピ海沿岸から輸入するガラス製品が、西アジアにユダヤ・キリスト教から派生した新宗教を信じる遊牧民族によりサラセン帝国が興ったため、極東に届かなくなっていたからだ。
突厥帝国の経済基盤は国際交易による収入だ。西アジアから仕入れたガラス製品、金装飾品、工芸品を、中国南朝にもたらし、その交易の帰りに、中国南朝で絹製品を仕入れ、西アジアで売り捌く。明日香ヤマトは、西アジアと中国南朝との国際交易の中継基地だけではなく、生産基地として期待されていた。そして、その明日香ヤマトに、国際交易商人が訪れた時、歓待するために、噴水のある庭園や、異民族との交易で不正がないように神の下でおこなうための交易施設であるミトラ教や道教の宗教施設を建設していた。古代の宗教施設は、交易所も兼ねていたのだ。勿論、騎馬民族を蔑視する思想を持つ漢訳仏教施設や神社・宮などはなかった。
そして、明日香ヤマトの奈良盆地には、支配者としての騎馬民族の墓制である死者の再生を信じて埋葬する方墳や八角墳が築かれていき、6世紀半ば頃まで秦王国の先遣隊により築かれていた前方後円墳は、奈良盆地以外で築かれてく。その前方後円墳には、九州阿蘇の石で造られた石棺が、古代エジプトの埋葬思想と同じ横穴式石室に収められていく。
死者を穢れとし、燃やしてしまう漢訳仏教も、死を穢れとし息のあるうちに家から排除してしまう中臣神道の存在の欠片も、6世紀の明日香ヤマトにはなかった。
こうして、明日香ヤマトの石文化が拓かれていき、それと同時に、ユーラシア大陸と中国南朝との、中国北朝と朝鮮半島を避けて、日本列島を回廊とした国際交易路が完成した。
ユーラシアを支配した突厥帝国が、日本列島を回廊として南朝の陳や西梁との交易を望んでいたが、589年隋が中国を統一してしまっていた。隋の文帝は、漢民族化した騎馬民族だった。突厥帝国は、交易を求めて隋の文帝に、突厥帝国の「天子・テングリ」からの国書を送ったが、色よい返事はなかった。
そこで、600年日本列島の明日香ヤマトのコロニーから隋の文帝に遣隋使を派遣した。そして、607年には、「日の昇る地の天子から、日没の地の天子に挨拶をする。つつがなきや。」の国書を隋の文帝に提出して交易を依頼した。その返答に、608年偵察として隋使裴世清が渡来した。その時隋使裴世清は、北九州で中国文化ソックリの秦王国を目撃していたのだ。隋使一行は、船で浪速に到着すると、河舟に乗り換え、その河舟は人馬に引かれて、明日香ヤマトに到着し、男王アマタリヒシコに謁見し、その翌年隋に帰っていった。
その隋帝国は、高句麗攻撃の失敗により、618年滅び、唐帝国が興った。唐帝国の高祖も、漢民族化した騎馬民族だ。騎馬民族出自を皇帝とする唐帝国は、630年東突厥を散逸させた。この突厥進駐軍の母国が散逸してしまったことにより、明日香ヤマトの情勢も変化していく。それは、明日香ヤマトの軍事要塞化と、各軍事道路に設けられた軍事施設のミヤケの要塞化だ。北九州には、大堀に水をためた水城を造り防衛体制を整えた。瀬戸内海の防衛も、ミヤケの要塞化により完璧だった。
時間を6世紀に戻し、西アジアを眺めると、そこにイスラム教のサラセン帝国が、571年に興り、たちまち周辺諸国に、その勢力を広げていった。イスラム教を信じる遊牧民も、騎馬民族と同じに、商業民族でもある。そのことにより、西アジアの非イスラム教徒の国際交易商人は、陸路ではなく、海路で中国を目指して行く。
その海路で中国を目指す船団の中に、南インドのマラバル沿岸から、南九州の坊津にたどり着いた商船があった。その船には、トラヴダ語(タミル語の仲間)を話す兵隊がいた。その兵隊は、南九州を支配していたとする熊襲で、薩摩ハヤトの祖だ。その国際商人は、南九州の坊津から、瀬戸内海ではなく、四国を太平洋側に回り、紀伊半島から北上して、紀ノ川河口から、和歌山街道を吉野に抜け、或いは、熊野古道を抜けて奈良盆地に渡来して、交易をおこなっていた。この南インドからの商業民族の渡来が、明日香ヤマト滅亡の始まりだった。
「藤原日本史によれば、6世紀から7世紀にかけて日本列島は、飛鳥大和朝廷により、仏教文化による日本国の黎明期、とされている。では、何故、日本神話から飛鳥時代まで続いているとされる出雲大社が幻視できなかったのか。それは、田辺さんの古代史の講義により、オレは藤原日本史の呪縛から解放されていたからのようだ。
そこで、出雲の歴史を語る720年「日本書記」、733年「出雲国風土記」、812年「古事記」を調べると、不可解なことが分かった。それは、733年完成の、各国の風土記の完本が現存していないのに、唯一完本が現存する「出雲国風土記」には、「日本書記」、「古事記」に登場の大国主神ではなく、大穴持命が登場する。そして、出雲大社ではなく、杵築大社(キズキタイシャ)なのだ。
「キズキ」とは、社(ヤシロ)を建築する際、地盤を杵で突き固めることを指す。そして、藤原日本史によれば、その「キズキ」の始まりは、天照大神に出雲の国土を譲られた大国主神のために天日隅宮(杵築大社)を建てたことによる、と云う。
「古事記」では、国譲りのための相談が、最初の八百万の神々を集いて、天安河の「河原」でなされた、と言う。「河原」とは、この世ではなく、「異界」を表す処だ。これは、何かおかしい。
そこで、宮の造営の歴史を「日本書記」と「古事記」で調べると、全国に無数ある古代神社の中で唯一、その造営の経緯が述べられているのは「出雲大社」だけなのだ。その造営の経緯も、「日本書記」と「古事記」とは逆だ。「日本書記」では大社造営の申し出は高天原側からなのに、「古事記」では大国主神からの申し出だ。どちらかが「ウソ」をついていることになる。
そこで、「古事記」は、「日本書紀」の「ウソを暴く」ために、奈良時代ではなく、平安時代に秦氏末裔、「日本書記」の講釈師の多人長により著されたものであることを思い出せば、「古事記」の方が正しいことが分かる。
一般的常識では、「古事記」は、舎人の稗田阿礼の暗誦をもとに太安万侶が撰述し、和銅5年(712年)に女帝元明天皇に献じたもの、とされる。しかし、その内容が不可解だ。
「古事記」は、女帝元明天皇に献じた「帝紀」で「先代の旧辞」であるとするならば、先代の天皇についての内容でなければならないのに、上中下の全三巻の上巻は、天皇が登場せず、ほとんどが神話の世界だ。そして、その神話が語る地域は、朝廷があるはずなのに、大和などの畿内が10%にも満たないのに、僻地の九州と出雲を中心とする山陰がほとんどだ。多人長は、「古事記」の暗号で、何かを訴えかけているようだ。
その「暗号」のひとつが、「キズキ」の言葉だ。この「キズキ」による行為は、ある「モノ」を地下に封じ込めるための動作の意味でもあるのだ。そこで、出雲大社での特徴を調べると、出雲大社には、他の社には見られない、高橋、浮橋、打橋の橋が三つもあるのだ。
古代では、「橋」は、異なる世界を結ぶ堺の空間を呈し、霊のこもる空間、特殊な開放された聖空間とみなされていた。そのことは、穢れ思想がはびこっていた平安時代では、「橋に禁忌なし」、とされていたように、「異界」を結んでいたため、死穢には無関係な空間だった、ことで分かる。
更に、出雲大社の不可解は、「心の御柱」が、床、天井板を突きぬけ、梁まで達していることだ。藤原日本史では、神代の昔から皇神を祀っているとされる伊勢神宮の「心の御柱」は、床まで達していない。何故だ。
「柱」とは、ハシ(橋)、ハシタテ(梯子)、ハシラ(柱)などが同義語であるように、異界の二点を繋ぐ媒介物という意味がある。つまり、「柱」は、地下の異界と地上を繋ぐモノでもあるのだ。そのように「心の御柱」は、社殿自体の構造には不要なものであるのだ。
更に、出雲大社の不思議は、その本殿内の「心の御柱」の許には、牛飼神像と伝わる、大国主神の御子とする和加布都奴志命(ワカフツヌシ)が牛を引き鎮座しているのだ。「牛」は、太陽を祀るミトラ教では太陽神の化身で、犠牲の聖獣だ。その牛を引く和加布都奴志命の「布都・フツ」とは、邪悪なるものを退ける剣や横刀を振るときに発する擬音のことだ。そのような「牛」を屠る時に横刀が発する擬音を持った和加布都奴志命と牛が、何故、「心の御柱」の許にあるのか。
一寸史料を調べただけでも、出雲の不思議がこれだけでてくる。更に、不思議は続く。
出雲は、「古事記」の神話では「黄泉の国」とされている。その出雲から出土する遺跡や遺物が、日本神話の年代に合わないのだ。例えば、神武天皇が即位する紀元前660年以前の神話物語に登場するスサノウは、356年建国の新羅を訪れているのだ。そのスサノウの娘婿の大国主神の時代に、天照大神の息子に国譲りがあり、出雲大社が建てられたと、藤原日本史では説明しているのだ。これでは、出雲地方の古代史についての史実が、ほとんど分からない。
そこで、資料に載る出雲大社の造営時期について調べると、「日本書記」に、神武天皇から11第目の垂仁天皇23年に「兎上王をして宮造営させる。」とある。そして、970年「口遊」(くちずさみ)に第一の大厦が出雲大社とある。そして、1110年藤原家保の日記「寄木の造営」で、漂着した巨木で本殿を造営した、とある。1190年寂蓮法師の歌で出雲大社が詠まれている。つまり、奈良時代から平安時代初期まで、出雲大社造営の史料は空白なのだ。そこで考えられるのは、出雲大社は、平安時代初期以降に、前政権の宗教施設を破壊した跡に、前政権の霊を、祀るのではなく、封じ込めるために建てられた施設なのではないか、ということだ。
古墳時代初期の出雲地域は、飛鳥大和地域と異なる文化圏であったようだ。出雲地域の古墳形態は方墳か四隅突出型墳であるのに対して、飛鳥大和では丸墳か前方後円墳だ。そして、6世紀半ばから飛鳥大和では、前方後円墳に替わり方墳や八角墳になっていたのに、出雲地域では、前方後方墳から前方後円墳が築かれて行くのだ。このことからも、古墳時代初期では、飛鳥大和の文化は、出雲地域に伝播していなかったことが示唆される。
その前方後円墳が出雲地域に出現する6世紀から7世紀に、山砂鉄を精錬するタタラ製鉄が出現するのだ。タタラ製鉄とは、騎馬民族が支配するユーラシア大陸のタタールでおこなわれていた製鉄技法のことだ。
実は、出雲地域は、縄文時代から、その地理的形状から、九州→出雲→北陸→東北への日本海沿岸航路の大きな結節点であり、情報の集散地でもあったのだ。その根拠のひとつは、出雲地域では、勾玉、管玉、切子玉の加工地で、遠く九州を経て中国まで出荷していたのだ。その玉の材料は、新潟県糸魚川付近で産出する翡翠だ。遠方地を繋ぐとするもうひとつの根拠は、出雲大社の東方の巨石下から、北部九州と係わり合いのある銅戈と、新潟県糸魚川から産出する翡翠で造られた勾玉が出土していることだ。ミトラ教思想では、巨石には、太陽神ミトラが宿っているとされていたのだ。
そのようなことから推測できるのは、西国で最後まで飛鳥大和朝廷に抵抗していた国が、出雲地域で、7世紀まで存続していたようだ。
飛鳥大和朝廷に追われた出雲民族の逃避先が、「古事記」には記されてある。それは、ユーラシア大陸のバイカル湖沿岸に似た大草原から突厥民族により「トルファン」と呼ばれていた、信濃の諏訪だ。
諏訪にも、出雲にも増して、不思議が多くある。それらは、巨木を立てるだけの御柱祭り、拝殿から神山が見えなくて拝めない本殿がない空き地のある社、鹿の断首を祀る祭壇などなどだ。そして、その諏訪(トルファン)の地は、北九州から渡来していた海洋民族安曇族と、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族突厥の合同支配地だった。
平安時代、桓武天皇軍団の坂上田村麻呂と戦ったあの八面大王の古墳もその近くにある。同族は、移住先でも同じ祀りをする。このことにより、出雲から諏訪に逃避した信濃安曇族の祖は、逃避元の出雲の古墳の近くで、「諏訪の祀り」をおこなっていたことが示唆される。つまり、古代出雲では、古墳近くで牛を屠り「祭」をおこなっていたのだ。
その7世紀の日本列島の出雲の史実を消すためのトリックが、「日本書記」の出雲神話物語で、その「日本書記」の「ウソ」を暴くためのヒントを述べたものが、平安時代初期に著された、上中下の全三巻のうち上巻のほとんどを使って、藤原氏に覚られないように、ギリシャ神話を素材として、暗号を駆使して出雲の歴史を述べたのが「古事記」の上巻だ。だから、7世紀以前に存在しない出雲大社(杵築大社=怨霊を封じ込めた大社)を、オレは幻視できなかったのだ。
それでは、「日本書記」では継体天皇が飛鳥大和に入京し、聖徳太子が仏教文化の華を飛鳥大和(6世紀南インドから南九州坊津に渡来した商業民族のシンジケートにより奈良時代に創作された架空の都。)に咲かせていたとするが、石文化とオリエント文化の明日香ヤマト(6世紀中頃ユーラシアから東北の日本海沿岸に渡来の騎馬民族の突厥進駐軍と、527年古代新羅から日本列島に亡命渡来したギリシャ・ローマ文化の秦王国の花郎騎士団が支配した都)を約100年間(530年〜645年)支配していたことにより日本語の語順を確立した騎馬民族の突厥進駐軍と、平安時代の遊芸者の祖であるギリシャ・ローマ文化の秦王国の花郎騎士団が支配していた明日香ヤマトが、どのようにして壊滅したのかを見てみよう。」
紫色の闇が天と地に別れ、山の稜線がかすかに見える頃、山の麓に点在する小さなかがり火が見えた。やがて、冬至の太陽が、霞がかる東の山頂から弱弱しく昇ると、大きな石の祭壇の上に牡牛を曳いた男達が見えた。その中のひとりが白い一息を吐き、太刀を振り下ろすと、牡牛は膝から崩れ落ち、牛首が湯気を立てて転がった。
その牛首が石壇に捧げられると、松明を持った多くの男達の歓声が上がった。そして、男達は、角杯に注がれた牛の生血を回し飲みし、切取られた生肉を食べた。この不思議な儀式は、ヤマト国では飛鳥、三輪山、春日野だけではなく、奈良盆地の北側にある山背国の鹿背山でも見られた。
やがて、太陽が山の頂から完全に上りきると、その祭祀場の西側近くには、巨大な石葺きの前方後円墳が確認できた。朝日を浴びた前方後円墳は金色に輝き、その後方墳の上では祭祀者が、石の祭壇に牛首を捧げ、大声で何かを唱えた。前方後円墳を囲む多くのひとたちは、その祭祀者の行動を畏怖を持って見守っていた。
太陽が金色から白色に変わると、その地域の全貌が確認できた。盆地にある多くの巨大前方後円墳は、幅広の直線路に沿って築かれている。その大路は、盆地から大阪湾の津まで続いている。そして、その大路に沿うように、河船が行き来できる大運河も、盆地にはある。その大路と運河とにより、盆地南側の都と北側の都が繋がり、馬車や河船により多くのひとや荷物が行き来している。行き交うひとの風体は、白人、黄色人、黒人と様々だ。
三方を小山に囲まれた南側の都には、中央に川が流れていて、その北側入口には厳重に造られた柵があり、ズホンと筒袖の兵隊が槍を掲げて守備をしている。その柵の内側には、巨大な丸石が多くあり、緊急時には、その川を丸石で塞ぐことにより、その盆地全体が「水城」になるように設計されていた。そして、2kmほど奥まった傾斜地には、鉄製品、ガラス製品、薬品を作る工場群や銅銭製造工場の建物もあった。中央の狭い平地には、噴水のある池が作られ、石を敷き詰めた公園もあった。
この狭い盆地内には、無数の建物があり、その建物内で異国の国際商人達が商いをしている。異国からもたらされる交易品は、金装飾品、ガラス製品、螺鈿工芸品などで、ヤマトから出荷されるものは水銀、朱砂、繭、真珠、宝石、薬品、鹿・熊皮、フカヒレ、アワビ、昆布などだ。
この国際交易都市も、630年母国東突厥帝国が、唐軍団により散逸させられると、軍事都市に変貌して行くのだ。盆地の北側が、3世紀末から始まった大運河掘削工事や巨大前方後円墳築造により、大湿地帯から平地に改良されていたため、自然の要塞であった盆地へは容易に侵攻できるようになってしまっていた。
弥生時代までは、盆地北側は大湿地帯だったので、護りは南側の吉野だけでよかったが、古墳時代後期になると、盆地の護りは、南側よりも北側に重点が置かれた。東アジアでの唐の勢力が東突厥帝国を散逸させた結果、盆地の南側である、紀ノ川河口から伊勢に続く街道の拠点である吉野の山城の護りがうすれていた。
東アジアの情勢の影響で、盆地の山の麓のイワレやツバキの国際交易場は廃れて行く。そこに、南インドから南九州坊津へ渡来した国際商業民族が紀ノ川河口に現れ、その吉野の朝鮮式山城を国際交易所としてしまったのだ。
「古代日本史の謎のひとつは、「アスカ・ヤマト」の語源が分からないことだ。この「アスカ・ヤマト」の語源が分かれば、古代日本史の謎は解明できる。しかし、今もって言語学者にも分からないのだ。
その原因のひとつに、713年藤原不比等による好字令の漢字二文字により、信濃の騎馬民族の地「トルファン」を「諏訪」としたように、近畿地域への先住渡来民族の突厥騎馬軍団を蘇我氏、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した土木建築民族を物部氏(=秦氏)としたように、アスカ・ヤマトの前政権の地名・人名の隠蔽・抹殺がある。
「アスカ」という地名は、東北から九州まで分かっているだけで30程ある。その全国にある「アスカ」には、騎馬民族文化のニオイが今でも微かに残っている。「アスカ」の意味は分からないが、騎馬民族の突厥語のようだ。そこで、「アスカ」の地に、古代では渡来騎馬民族が暮らしていたことが示唆される。
それでは、「ヤマト」とは何か。その「ヤマト」の語源のヒントが、「古事記」にある。それは、自分の出身地の家を見たいと詠った、仁徳天皇の磐姫皇后の歌だ。
つぎねふや 山城川を宮上り 我が上れば 青土よし 奈良を過ぎ 小盾 大和を過ぎ 我が見欲し 国は葛城 高宮 我家のあたり
この歌に詠まれた地域を辿れば、大和は狭い範囲だったことが分かる。そして、小盾から葛城の間に大和の地があることが分かる。その地には、黒塚古墳や箸墓古墳などの巨大前方後円墳のある地で、その大和の地を南下すると三輪山の山麓に突き進む傾斜地である。
このことから、「ヤマト」とは、「河辺」、「海辺」と同じように、「山のへり」の意味であることが分かる。つまり、古代の「アスカ・ヤマト」とは、「騎馬民族が暮らす山の傾斜地」という意味だった。初期の「ヤマト」とは、三輪山の麓に興った弥生後期の大規模集落の地に築かれた巨大前方後円墳遺跡を中心とした傾斜地域であったようだ。
この「アスカ・ヤマト」が、奈良時代になると藤原氏により、「日本書記」で、4世紀から奈良盆地を大和朝廷が支配したとする、意味不明の「飛鳥大和」に改竄されていくのだ。
藤原日本史により創作された飛鳥大和の謎解明は、また「古事記」に記載してある。「古事記」の暗号によれば、603年初めて飛鳥に小墾田宮を営んだのは、女帝推古天皇だと述べる。それ以前は、天皇家の宮は、奈良盆地を転々としていた、と述べる。そして、「古事記」の物語は、天武天皇のお言葉が序にあるのに、突然女帝推古天皇を最後に終わってしまう。この意味は、女帝推古天皇までの「日本書記」の歴史物語を否定せよ、という「古事記」のサイファー式暗号だ。
しかし、「日本書記」では、その後、100年間飛鳥が天皇家の宮となっていたと述べている。では、その奈良盆地では、どのような民族により「祭」がおこなわれていたのか。「日本書記」では、漢訳仏教が552年伝来する以前は、死を穢れとする中臣神道により、「神」が祀られていたとする。その「日本書記」の記述は本当なのか。
古代、カミの居る処は、「カムナビ」と云われていた。そして、カミが来臨する場所を、「ミモロ」と云っていた。しかし、その「ミモロ」は、元来ある種の建物や洞穴であったものが、奈良時代なると「社・モリ」へと変換してしまっていた。
カミの居る処の「カムナビ」は、奈良時代には「モリ」となってしまう。そこで、古代の飛鳥大和時代の歌を詠っているとされる「万葉集」で調べると、「飛鳥のカムナビ」はあっても、「飛鳥のモリ」はない。その「万葉集」での「カムナビ」の用例は、大和では飛鳥、三輪山、春日野とあり、山背国では鹿背山とある。古墳時代、それらの処が、「カミ」の居るところだった。
しかし、古墳時代が終わり奈良時代になると、その「万葉集」にある「カムナビ」の地がどこであったかの定説がなくなってしまう。だが、平安時代になると、「飛鳥のカムナビ」が、鳥形山に遷したとし、その処を飛鳥坐神社(アスカニイマスモリ)とするのだ。これは不可思議だ。考えられることは、古墳時代の「カムナビ」は、奈良時代に、巨大古墳と同時に「消されて」いたようだ。では、どのようにして消されたのか。
「万葉集」の「カムナビ」の地として、飛鳥、三輪山、春日野、鹿背山とあるが、それらの「カムナビ」の地には、奈良時代になると、平城京、三輪山麓の神地である空地、春日大社、恭仁京となっている。
4世紀以降、キリスト教国となったローマ帝国では、前政権のミトラ教を歴史的に抹殺するために、ミトラ教地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教の教会を建設していた。このため、後世のひと達には、ミトラ教は歴史的に存在していない、空想上の宗教として認識されてしまった。
このキリスト教の戦術が、645年以降の明日香ヤマトでも、南インドから南九州坊津に渡来した民族により、実行されていたのだ。だから、明日香ヤマトに、ミトラ教や道教の宗教施設が存在していたことを知るひともいないし、その存在を肯定するひともいない。しかし、中臣神道を発明した藤原氏が暗躍する奈良時代になると、それらのミトラ教や道教の宗教施設は徹底的に破壊され、その跡に、平城京、三輪山麓の神地である空地、春日大社、恭仁京が建設されていくのだ。
では、ミトラ教や道教が信仰されていた明日香ヤマトは、どのようであったのか。その奈良盆地の風景は、「日本書記」の斉明天皇(655年〜661年)の土木工事の記述により窺い知ることができる。この土木事業は、斉明天皇が在位したとする年代より、125年前の530年頃の明日香ヤマトの土木工事を描写したものだ。
時に、事を興すことを好みたまひ、廼ち水工をして渠を穿らしめ、香山の西より石上山に至る。舟二百隻を以って、石上山の石を載みて、流の順に宮の東の山に控引き、石を累ねて垣とす。時人謗りて曰く、「狂心の渠、損費すこと功夫三万余。造垣功夫七万余。宮材爛れたり。山椒埋れたり」といふ。又謗りて曰く、「石の山丘を作り、作る随に自ずからに破れてなむ」といふ。又、吉野宮を作る。
「日本書記」によれば、明日香ヤマトの土木事業は、舟を二百隻使ったり、溝の功夫三万人、石垣の功夫七万人を使った、大規模土木工事であったことが分かる。しかし、それらの高度土木工事は、飛鳥大和の朝廷ではなく、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅からの民族や、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の突厥民族の技術者達によりおこなわれていたのだ。
そして、明日香ヤマトでは、太陽神を祀るミトラ教では、冬至の日、牡牛を屠る儀式を巨大前方後円墳近くでおこない、又、北極星(太一)を祀る道教では、天文台を設けた道観で、星祭をおこなっていたのだ。そして、どちらの宗教も犠牲の「祭」をおこなっていたため、その聖獣の肉を食していたのだ。
肉食が公に禁止されていくのは、古墳を破壊していた奈良時代の天平宝字2年(758年)、藤原氏の傀儡淳仁天皇からのようだ。「続日本紀」には、
天下の諸国をして、今日より始めて今年12月30日に迄るまで、殺生を禁断せむべし。また、猪、鹿の類を永く進御ることを得ざらしむ。
とあるように、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅系の天武天皇系最後の天皇である、東大寺の遍照鬼像(平安時代に大日如来と改竄)を鋳造した聖武天皇の娘女帝孝謙天皇までは、猪、鹿の肉を食していたようだ。その藤原氏の傀儡淳仁天皇を追い落とし、女帝孝謙天皇は女帝称徳天皇として復活するのだ。そのように、藤原氏が朝廷で暗躍できたのも、645年明日香ヤマトを、唐進駐軍と供に滅ぼしていたからだ。その布石は、吉野にあった。
吉野の山は、縄文時代から、宇陀の朱砂を交易するための道筋にある交易中継地であった。弥生時代になると、紀ノ川河口を遡りその吉野を経たタミル語を話す民族により、奈良盆地の湿地帯に水田稲作と桑の栽培技術がもたらされていた。古墳時代になると、その吉野の山に朝鮮式山城が築かれ、奈良盆地の山裾には古代エジプトの土木技術により巨大前方後円墳が築かれ、湿地帯には大溝が造られていく。この時代を「日本書記」では、斉明天皇の狂心の土木事業として描いたのだ。
その前方後円墳が築かれていた奈良盆地に、530年突厥進駐軍が侵攻し、支配者となっていく。奈良盆地の北側は、河内を支配した民族と奈良盆地を支配した民族により開拓され、大阪湾へ至る大路や大溝が築かれて行く。それに伴い、南側の要所であった吉野の山城の存在がうすれていった。しかし、南インドから南九州坊津に渡来した商業民族により、その吉野の山は、明日香ヤマトから独立したクニとなっていた。このことは、「万葉集」の高市黒人の持統太上天皇の吉野行従駕歌には、
大和には 鳴きてか来らむ 呼子鳥 象(さき)の中山 呼びそ越ゆなる」
とあるように、吉野から大和に行くと表現されている。更に、柿本人麻呂の吉野讃歌には、「御心を吉野の国」とあり、吉野をクニと呼んでいる。古代のクニとは、独立した小地域をさす言葉だ。
645年以前には、坊津から渡来の民族は、紀の川を遡り、吉野のクニの支配者となっていたのだ。そして、吉野は、南インドから渡来の国際交易商人による、一大国際交易地となっていたのだ。その吉野は、山をひとつ越えれば、明日香ヤマトへ侵攻できる地でもあるのだ。
藤原日本史では、大和朝廷で横暴を極めた蘇我蝦夷・入鹿親子は、中大兄皇子と中臣鎌足により滅ぼされ、その結果、蘇我一族が壊滅したと言う。それでは、藤原日本史で云うところの「大化の改新」がどのようなものかを見てみよう。」
6世紀末、西アジアに興ったサラセン帝国の急速な勢いにより、その支配地が東西に拡大しているのが見える。その結果、ヨーロッパと中国を繋ぐ砂漠ルートが、サラセン帝国の管理下となっていた。
その影響で、中央アジアを布教地として求めていた、拝火のゾロアスター教徒や、キリストの神聖を認めないネストリウス派・キリスト教徒が東を目指し、唐に亡命してきたため、唐の長安や洛陽は、儒教、道教、漢訳仏教に加え、ゾロアスター教寺院やキリスト教教会が林立する国際宗教都市となっていた。
そして、ヨーロッパから唐への陸路がサラセン帝国に抑えられているため、ヨーロッパ諸国の国際交易商人も、南インドを中継港としての南海ルートにより、唐を目指していた。この南海ルートにより、インドのカースト制度を広めるバラモン教やヒンズー教が、国際交易商人と供に、唐に伝来した。
海運は陸運よりも多量の物品を安全に運べる。その結果、唐の交易経済が拡大し、国力も増していた。その結果、唐は、周辺諸国への侵略を始める。
それに対して、ユーラシア大陸を、東西に分断して支配していた突厥帝国は、ヨーロッパと中国との交易陸路を、サラセン帝国に支配されてしまったため、交易経済が衰退することにより国力も衰退し、軍事力も衰えていった。その国力の衰えた東突厥帝国を、唐が攻撃することにより、630年東突厥帝国は、散逸してしまっていた。
その唐の軍事力により、北方の雄であった東突厥帝国の脅威が取り除かれたため、隋帝国を疲弊さ、滅亡させた原因であった高句麗に攻撃目標を定めた。それに対して、高句麗は、唐軍団の侵攻を阻止するために、631年から16年もかけて、長城の建設をおこなっていた。
この唐の高句麗への侵攻は、朝鮮半島三国の情勢を混乱させる。高句麗が南下することにより、防衛上、百済、新羅も南下した。その結果、朝鮮半島の軍事情勢は、玄界灘を超えて日本列島にも及んでいた。
中国の動乱を避けて朝鮮半島へ避難していた漢訳仏教も、玄界灘を超えて、北九州に渡来していた。そして、宇佐の秦王国中枢が、吉備、河内へ移動したため、北九州には無数の仏寺が朝鮮半島から移築されていた。しかし、明日香ヤマトには、仏寺の存在は確認できなかった。
630年母国東突厥帝国が散逸してしまったので、同年の630年明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍は、唐に使節を送る。それに対して、632年唐は、高表仁を唐使として明日香ヤマトに派遣した。唐は、東ユーラシアに残存する東突厥帝国残党軍の殲滅を目指していたのだ。当然、東突厥帝国のコロニーのある、日本列島にも目を向けていたのだ。
散逸した東突厥帝国軍の一部は、壊滅したのではなく、唐の西隣の吐蕃(トボット)に亡命していた。641年その吐蕃に、唐軍団は侵攻し、突厥残党軍を攻めた。唐軍団は、その国力の増大を背景に、天敵の東突厥軍団の逃避先の周辺諸国と思われる、高句麗、日本列島の平定も意図していた。
そして、644年唐軍団は、吐蕃の他に、高句麗にも遠征を始めた。しかし、山岳国の高句麗は、631年から築いていた長城の他に、北側は高い山々が連なる自然の要塞になっているので、大軍団の唐遠征軍の攻撃も思うようにならないでいた。そこで、唐軍団は、南側からの攻撃準備のために、高句麗の武器・食料の補給基地がある日本列島にも目を向けるのだ。
日本列島には北から南まで、ヨーロッパ→ユーラシア大陸→中国大陸→朝鮮半島→北九州へと交易路がつながっていたため、古来から高句麗、百済、古代新羅の商人達のコロニーが無数存在していたのだ。その日本列島に散在する朝鮮半島のコロニーを、6世紀半ばから7世紀にかけて支配したのが、東北日本海沿岸に渡来し、ローマ帝国軍式幅広の直線道路を敷設しながら西進し、越前→琵琶湖→樟葉→奈良盆地へと侵攻し、530年明日香ヤマトを軍事支配した突厥進駐軍だった。
644年唐軍団が、高句麗を攻撃したことは、北九州から明日香ヤマトへつながる大路により、疾走する伝令馬が伝えていた。その大路には、30kmごとに、軍事施設である「ミヤケ」が設けられている。そこで、伝令馬は交換されるため、突厥進駐軍の司令部がある明日香ヤマトへは、海外情報が短期間で伝えることが出来る。
日本海沿岸に目を向けると、国際海路の中継港のある出雲地域には、方墳に替わり、前方後円墳が築かれている。巨木により組み上げられた灯台には、狼煙台があり、その煙は、越から能登、そして、東北へと緊急事態を知らせる。日本海には、無数の舟が、中国大陸と日本列島を行き来しているのが見える。
明日香ヤマトの南側の都では、その狭い盆地を流れる川を、北口の柵に設置していた無数の巨大丸石を川中に移動させると、川の流れが堰き止められ、その狭い盆地にある建物群が、徐々に水に沈んで行く。岡の上には、巨大建物が、石垣で囲まれている。武器庫からは、槍や弓矢が搬出され、兵隊が武装準備を始めている。
早朝、奈良盆地を防衛する明日香ヤマトの司令部に、河内軍司令部から伝令馬が着くと、多くの騎馬軍団や歩兵が、河内に向けて急速に移動した。緊急事態が発生したようだ。
河内平野にある多くの巨大前方後円墳の彼方の海原には、唐の軍旗をなびかせた、多くの軍船を確認できる。中国の唐から、日本列島の大阪湾に至るには、瀬戸内海ルートが最短だ。そこで、唐の侵攻を阻止するため、明日香ヤマトの司令部では、山陽道の「ミヤケ」には、屈強な騎馬軍団を常備させ、そして、瀬戸内海に浮かぶ島々の要所には、アズミの海洋民族に組織された水軍で防衛線を引いていた。
632年唐使高表仁が来朝し、帰国すると直ぐに、明日香ヤマトでは、陸海の瀬戸内海ルートに完全なる防衛線を引いたのだ。この防衛線は、明日香ヤマトに気付かれず、唐軍でも簡単には突破することは不可能だ。では、唐水軍船団は、何処のルートから渡来したのか。
時代を戦国時代に合わせた。南インドを発った、日本列島に産出する「銀」を狙うイエズス会の船団は、中国沿岸を北上し、台湾海峡を東に抜け、南九州坊津に至り、種子島から四国沖を通り、紀伊半島を北上して紀の川河口の根来寺に渡来していた。更に、時代を江戸末期に合わせる。南インドを発った、日本列島の「絹製品」を狙うイギリス東インド会社の艦隊は、香港・マカオを経由して、南九州坊津に至り、四国沖から紀伊半島に至り、北上して堺の港に渡来していた。これらの映像により、中国大陸から船で、大阪湾に至るコースは、瀬戸内海ルートの他にあることが分かる。
河内平野の沿岸は広い。ここを防衛するには、淀川河口を支配する秦王国の花郎騎士団だけでは無理だ。そこで、明日香ヤマトの突厥軍団の応援を、伝令馬で頼んだのだ。
沖に浮かぶ唐水軍船団は、小隊が上陸のそぶりを見せて小競り合いがあっても、本隊は半月しても動かない。沿岸を防衛する花郎騎士団や突厥軍団の兵士達にも疲労が増す。沿岸の防衛軍司令部が、これはおかしいと思った時には遅かった。
太陽が西の峰に沈みかけた時、「水城」で完璧に護られていた、明日香ヤマトの軍事都市は、南側の山奥から射られる弩の矢の攻撃を受けた。唐軍の弩の矢は、突厥軍の矢よりも数倍太く長い。明日香ヤマト軍が、防戦のために矢を放っても、南側の山頂に陣を引く唐進駐軍には届かない。やがて、水城も岡も区別が付かなくなった頃、南側の山奥から岡に侵攻した軍団により、火の付いた矢が一斉に射られると、岡の北側端にある石垣に護られている砦や倉庫群に炎が上がった。
その炎は、逃げ惑う突厥軍団の影を写した。翌朝、日が昇ると、水城に護られていた砦が焼け爛れて、唐軍の矢を受けた多くの兵士が横たわっていた。南側の山奥から、唐軍旗を掲げて、多くの兵士が、明日香ヤマトに入った。そして、明日香ヤマトの砦にあった燃え残った突厥軍旗に替わり、唐軍旗が掲げられた。
「オレの今までの古代日本史の知識では、7世紀の飛鳥大和のイメージは、各地に仏教寺院が立ち並ぶ、平和でのどかな田園風景を思い浮かべただろう。でも、田辺さんの東アジアを含む古代史の講義により、イメージが一変していた。
7世紀の明日香ヤマトは、仏教文化の花が咲くのどかな地域などではなく、東アジアの動乱に巻き込まれていて、南海交易により国力が膨張する唐帝国からの侵略を免れるために、国際交易都市から軍事都市へと変貌していたのだ。
その騒乱の明日香ヤマトの歴史は、藤原日本史によれば、645年飛鳥大和で横暴を極めていた蘇我蝦夷・入鹿父子は、中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターにより滅ぼされたとし、皇極天皇が退位し、孝徳天皇が即位し、646年改新の詔が発せられ、公地公民、薄葬令により古墳築造が禁止させられたとする。
そして、4世紀から始まる天皇家が支配していた大和朝廷が、明日香ヤマトに存続していたと述べる。しかし、天皇が日本列島に現れるのは、672年天武天皇からなのだ。では、実際の、7世紀の明日香ヤマトの支配者は、誰なのだ。
一般的に、7世紀の明日香ヤマトを知るには、「日本書記」、「万葉集」、「古事記」、「風土記」が参考書として使用される。その中でも、国史とされる「日本書記」の信頼度は抜群のようだ。その「日本書記」では、6世紀から7世紀の飛鳥大和について色々述べている。
その藤原日本史での飛鳥大和時代のハイライトは、「日本書記」で述べる、552年仏教伝来物語だ。その仏教伝来物語では、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾興が争そう神仏戦争についての経緯が詳しく述べられている。しかし、その「日本書記」の仏教伝来物語で語る経緯は、中国の「高僧伝」巻九の仏図澄伝の後趙王の石虎と中書の王度との対話を引用して創作されたのだ。
藤原日本史での、仏教伝来物語の主人公である聖徳太子(厩戸皇子)の実在性はどうだろう。藤原日本史では、聖徳太子が、622年死去すると、その往生した天寿国の様子を、王妃橘大郎女が描かせたとする、「天寿国繍帳」がある。これを証拠に、聖徳太子は、飛鳥大和時代に実存した人物だ、とされている。しかし、そこに記されている干支が、儀鳳暦によっているのだ。儀鳳暦とは、中国の唐で、665年から728年まで使われていた太陰太陽暦だ。何故、「天寿国繍帳」が完成した43年後の、665年から中国唐で使われて暦が、「天寿国繍帳」にあるのか不思議だ。
更に、「日本書記」での、百済の聖明王の「是の法は諸の法の中に、最も殊勝れている。解り難く入り難し、云々。」との表文は、「金光明最王経」の如来寿量品の文からの租借だ。その「金光明最王経」が漢訳されたのは、「日本書記」で仏教が日本列島に伝来したとする552年から「151年後」の703年だ。703年に唐で漢訳された表文が、何故、「日本書記」での、552年仏教伝来物語にあるのか不思議だ。
そして、645年中大兄皇子と中臣鎌足による「大化の改新」のクーデター物語は、朝鮮半島の648年「ヒドンの乱」を基に創作されている。これらのことから、「日本書記」が述べる飛鳥時代が始まる531年欽明天皇から、飛鳥時代が終わる645年「大化の改新」までの明日香ヤマトの歴史物語は、南インドから南九州坊津に渡来した「死を穢れとする」宗教思想を持った民族により、中国と朝鮮半島の史料を基に、720年に創作されたことが示唆される。
7世紀初期、中国を統一した唐帝国は、南朝の外洋軍船による海軍力と、北朝の騎馬軍団と弩(いしゆみ・古代の大砲)による陸軍力により、海外も含めた周辺諸国を圧倒していた。
その海陸の軍事力増大の影には、国を治めるための法律を整備していたからだ。それは、624年に定めた均田法と租庸調の税法だ。これらの法律で、軍事力により侵略した蕃国の人民から税を搾り取ることにより、唐帝国の国力と軍事力が増大して行ったのだ。それらの海外を含めた遠方の支配地からの租庸調の税は、武力を持った役人により厳しく取り立てられ、陸は馬車で、海外は外洋船により、遥々長安に運ばれていたのだ。
藤原日本史で、唐文化を輸入するために大和朝廷から発していた、とする「遣唐使船」の任務も、日本列島の人民から、唐帝国の税制である租庸調で取り立てられた産物を、唐帝国の長安へ定期的に運ぶための船だった。
このことは、奈良時代の歴史を述べた「続日本紀」に、遣唐使の記述が見られないことからでも推測できる。遣唐使船の「真の任務」は、唐に支配されていた奈良朝廷には知られたくないことだったのだ。一般的に知られる、大和朝廷が唐文化を輸入していたとする「遣唐使船物語」は、唐進駐軍の傀儡である桓武天皇から始まる平安時代に創作されたものだ。
では、奈良時代、唐帝国の租庸調の税制により日本列島の近畿一帯が支配される過程を、明日香ヤマト壊滅後の日本列島の歴史から見てみよう。」
645年の唐進駐軍団による動乱は、明日香ヤマトだけではなかった。唐帝国軍団が、644年の高句麗一次攻撃が失敗したため、二次三次と何度も波状攻撃する度に、朝鮮半島からの多くの亡命民が、日本列島各地にある高句麗、百済、新羅のコロニーを目指し、玄界灘を船で渡り、北九州沿岸や日本海沿岸に渡来している。
527年朝鮮半島の古代新羅から渡来し、北九州の宇佐に秦王国を興していた王族や貴族達は、度重なる唐帝国軍団の攻撃により朝鮮半島の高句麗の南下の影響により、玄界灘を渡り朝鮮半島からの亡命民が大勢渡来して来たため、治安が日々悪化する北九州の地を避け、日本列島本島にある衛星国の吉備や河内に、そして、九州を南下して大隈半島へ大移動を始めている。
その秦王国の一団が移動している大隈半島は、南九州の東側にある。南九州の西側には、灰色の噴煙をたなびかせる桜島を挟み、坊津がある。その坊津は、南インドから渡来した「死を穢れ」とする思想を持った商業民族の支配下にある、犬の遠吠えを真似て遠隔地とのコミニュケーションを取る、トラヴイダ語を話す軍団により支配された地だ。
その坊津には、南インドから渡来していた商業民族により、中国大陸から先導された唐帝国海軍の多くの軍船が係留されている。
インドネシアから北上する黒潮が沿岸を洗う南九州坊津は、縄文時代から江戸時代末期まで、南方諸国からの渡来民族の漂着地となっていた。
北魏の太武帝の仏教弾圧を避けるために朝鮮半島に渡来していた仏教教団とその軍団も、北九州の秦王国が放棄した宇佐の地に、朝鮮半島から持ち込んだ仏寺を移築している。仏寺は、移動を可能にするために、クギで木材を固定するのではなく、組み立て式となっている。漢訳仏教教団は、国際交易民族と供に、異国にその布教先(侵略先)を求めていた。
古代の仏寺は、仏像を安置するだけではなく武器も安置する、異民族との国際交易のための砦なのだ。その仏寺は、中国製武器である長刀と甲冑で武装する僧兵により護られている。その僧兵の武力により、太陽神を祀っていたミトラ教徒の宇佐は、今や、無数の仏寺が建つ、仏教文化の地となってしまっている。
北九州宇佐からの秦王国の移民により、瀬戸内海沿岸を支配していた吉備の国力も軍事力も増した。そして、ユーラシア諸国と中国唐との国際交易施設のある河内平野を支配する秦王国を護るため、日本海沿岸側から侵攻を意図する唐進駐軍を阻止するために、吉備と河内の「ミヤケ」から、国際港のある出雲国に向けて、花郎騎士団と突厥進駐軍との合同軍団を侵攻させた。
6世紀半ば、ユーラシア大陸から東北日本海沿岸に渡来し、越前から侵攻して来た突厥進駐軍との20年間に渡る抗争の結果、突厥進駐軍の指揮下に入った、河内平野を支配していた秦王国の花郎騎士団は、吉備から中国山脈を越えて出雲に侵攻し、その地を支配した。
その結果、古代エジプトから伝わる高度土木建築技術や石切技術を駆使して、秦王国の民族の指導により日本列島全土に築いていた前方後円墳が、古来からの出雲の方墳に替わり、築かれていく。
その出雲にある巨木で組み上げられた灯台の見晴台からは、沿岸に押し寄せて来る、唐帝国海軍の船団が見えてきた。日本列島西国を支配する明日香ヤマトの突厥進駐軍司令部が、瀬戸内海突破と想定していた唐帝国の侵攻経路は、意外な方面から押し寄せて来た。
唐帝国軍が、出雲から若狭湾へと攻略するには、それほど時間が掛からなかった。それは、日本列島の西国に点在していた、高句麗や百済民のコロニーが、全国に張り巡らされた大路の情報網により、唐進駐軍により明日香ヤマトが壊滅したことを知って、吉備や河内の秦王国や突厥進駐軍に対して反乱を起こしていたからだ。日本列島の西国は、縄文時代から、騎馬民族ではなく、中国や朝鮮半島からの農耕渡来民族が多く住む地であったのだ。
日本列島の東国は、突厥進駐軍による万全な支配体制により、高句麗や百済民のコロニーの反乱は起こらなかった。それは、6世紀半ばから西国の近畿一帯の支配地に対して、5世紀初期にユーラシア大陸から東北日本海沿岸に渡来した騎馬民族は、5世紀末北関東のシキの宮に支配者としてワカタケル大王が存在していたように、ユーラシア大陸に似た気候と湖を囲んだ広い草原がある北関東や東北に、その本拠を築いていたからだ。
若狭湾に上陸した唐帝国進駐軍は、琵琶湖に点在する百済コロニーの民による先導により、琵琶湖の西側に砦を築いた。そこに日本列島に散在していた百済民を集めた。
西国を護る突厥進駐軍と花郎騎士団は、琵琶湖南端にある百済のコロニーにより、越に至る琵琶湖ルートを遮断されてしまったため、突厥進駐軍の本拠がある東国と分断されてしまった。が、しかし、日本海沿岸から侵攻する唐帝国進駐軍は、花郎騎士団の砦である比叡山の山城と山科の山城により、京都盆地への侵攻を阻止されている。
目を、日本列島から、東アジアに向けてみよう。
唐帝国軍は、645年第二次高句麗攻撃を行って、高句麗の山城である安山城を囲んだが、その強固な高句麗軍の守りにより陥落させることができなかった。そこで、唐帝国軍は、高句麗の武器・食料の補給路を分断するために、高句麗に南接する弱小国の新羅に目をつけた。
新羅は、527年仏教教団とその軍団が高句麗から南下してきたのに対して、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の軍団である花郎騎士団が、仏教文化受け入れを拒否し、玄界灘を船で渡り、北九州へ移住していたため、高句麗軍や百済軍に対抗するだけの軍事力がなかった。
そのため、新羅は、唐帝国軍による同盟の威圧に対して、648年「日本書記」の645年大化の改新物語の素材の「ヒドンの乱」が起こり、王権が転覆し、649年新羅の王族や貴族は、唐服を着用し、臣下となり、650年には唐の年号を用いた。
新羅が唐帝国の支配下となった結果、659年唐帝国・新羅連合軍は、高句麗の横山砦を、660年には、百済の扶餘も陥落させた。朝鮮半島は、唐進駐軍と新羅軍とにより完全制覇される寸前となっていた。
朝鮮半島からは、日本列島の北九州、出雲、若狭湾、越前、能登などへ、亡命民を乗せた無数の船が渡来していた。明日香ヤマトが唐進駐軍により陥落していたため、西国を支配していた突厥進駐軍や花郎騎士団には、最早、それらの亡命民の渡来を阻止する勢いはない。
それらの高句麗や百済からの亡命民は、各国のコロニーに受け入れられた。その結果、日本列島の高句麗や百済のコロニーの勢力が増した。そのひとつ、琵琶湖の南端の百済のコロニーは、正に、亡命百済王朝となっていた。663年その近江の亡命百済王朝は、本国百済の復活を目指して、越前の若狭湾や北九州の博多湾から救援軍船を派遣した。
その当時の明日香ヤマトを見てみよう。
明日香ヤマトは、645年唐進駐軍の急撃により壊滅し、水城に護られた軍事都市として要塞化された甘樫岡の砦は、今や、唐進駐軍により占領されていた。明日香ヤマトを放棄した突厥進駐軍は北側に撤退し、防衛線を北側の香具山、畝傍山、耳成山に設けた。
最早、国際交易商人が渡来した、オリエント文化を誇っていた明日香ヤマトと、水田稲作の耕作地となっていた奈良盆地は、南側に吉野の山城を本陣とし布陣する唐進駐軍と、北側に斑鳩を本陣とし布陣する突厥進駐軍と花郎騎士団との連合軍が対峙する戦場と化していた。
縄文時代から国際交易地であった三輪山麓のイワレやツバキが、戦場地となってしまい、更に、淀川系から琵琶湖を繋ぐ河川が、京都盆地を防衛する秦王国の花郎騎士団と、琵琶湖南端に砦を構える亡命百済王朝とが対峙する地となってしまっていたため、日本列島の西国と東国との交易地は、紀ノ川と伊勢湾を結ぶ街道の中継地の吉野が国際交易地として繁栄していった。その吉野を仕切るのが、南インドから南九州坊津に渡来していた商業民族だった。
663年日本列島の百済のコロニーから発進した百済援軍の船団は、唐帝国の圧倒的な海軍力により壊滅された。その結果、百済の豊璋は高句麗に亡命した。ここに百済は歴史上消滅した。しかし、その百済の王族や貴族の多くは、日本列島の琵琶湖南端の近江に集結していた。664年百済を壊滅させた唐帝国軍の劉仁願将軍は、次の標的である日本列島の状況を知るために、明日香ヤマトを占拠していた唐進駐軍に使者を送った。
670年唐帝国軍と新羅連合軍は、高句麗を壊滅すると、平壌に安東都護符を置いて、支配した。しかし、高句麗は、古代新羅と同じ騎馬民族国であった。騎馬民族は、土地を護るためだけでは、命を賭してまで徹底的には戦わない。戦況が不利だと、支配地から一時撤退する傾向がある。高句麗残党軍の一部は、騎馬民族が多く居る新羅軍団の指揮下に入った。
唐帝国の天敵は、ユーラシア大陸を支配していた突厥騎馬民族だった。唐帝国軍は、その東ユーラシアを支配していた東突厥帝国を、630年に散逸させ、645年には、その日本列島のコロニーである明日香ヤマトを陥落させた。そこで、朝鮮半島を支配下にした次の征服地は、絹、水銀、銀、、金、琥珀、翡翠、真珠、毛皮、フカヒレ、昆布などを産出する資源大国の日本列島の東国だ。その東国には、突厥帝国進駐軍の本拠地が健在している。
明日香ヤマトと琵琶湖畔に駐留する唐進駐軍の動きがおかしい。一部の部隊を残し、撤退を始めている。
視点を、日本列島から中国大陸に向ける。東ユーラシアには、騎馬民族が再び集結を始めている。周辺諸国に散逸していた突厥軍団残党が、再集結を始めていたのだ。それに対して、唐帝国軍は、各地から兵力を集め、ユーラシア北側の防衛線の強化を図っている。
その唐進駐軍が支配する明日香ヤマトと琵琶湖畔の軍事力が弱まった状況を読んで、山背国を護る突厥進駐軍と花郎騎士団合同軍は、百済亡命民の渡来により琵琶湖畔の亡命百済の支配地が膨張していき、それにより、近江の亡命百済王朝の勢力が増大となるのを封じ込めるために、近江朝への攻撃を意図した。
672年秦王国の斑鳩の砦から突厥進駐軍と花郎騎士団合同軍が出撃すると、まず、吉野の山城を攻めた。そして、そこを占拠すると、和歌山街道から伊勢湾に抜け、伊勢から北上して、琵琶湖を軍船で渡り西側沿岸にある近江の亡命百済王朝の本陣を攻撃した。ユーラシアのバイカル湖沿岸に興った突厥民族は、騎馬民族なのに、渡海の技術も持っていたのだ。
亡命百済王朝軍団は、京都盆地方面からの攻撃を想定して布陣していたため、背後の琵琶湖側からの攻撃に対しての防衛が手薄であったため、簡単に壊滅した。
近江の亡命百済王朝を壊滅させると、突厥進駐軍と花郎騎士団は、新羅の皇子を日本列島の王とし、突厥進駐軍の支配地であった明日香ヤマトに、再び砦を築き、騎馬民族の王号である「天子・テングリ」を、「天皇」号とし、国号を「日本」とし、古墳時代に騎馬民族突厥が支配していた明日香ヤマトの地に、672年日本初の天皇、天武天皇が出現した。
一方、朝鮮半島を見ると、日本列島から唐進駐軍が一部撤退していたように、東ユーラシアに再集結している突厥軍団からの攻撃を防衛するために、朝鮮半島全土を統一寸前の状態で、撤退を始めている。
それに対して、高句麗軍残党を支配下に置いて軍事力が増した新羅軍は、朝鮮半島に残留する唐帝国進駐軍を全て、朝鮮半島から駆逐した。676年唐帝国は、朝鮮半島の支配を放棄したため、新羅が朝鮮半島を統一した。統一新羅王朝は、同族の明日香ヤマトに王権を樹立した天武天皇王朝に、統一新羅の王子を派遣した。日本と統一新羅は、ほぼ同時に、唐帝国のクビキから解放され、独立を果たした。
東ユーラシアでは、682年東突厥帝国が復活した。その東突厥帝国の度重なる攻撃により、ヨーロッパとの国際交易経済が停滞したため、唐帝国内部に混乱が生じていた。そのような唐帝国内が混乱していた時、684年高宗皇帝が死去すると、その皇后の武氏が、漢訳仏教組織を動員して政権を乗っ取り、国号の唐を「周」とし、690年女帝則天武后として実権を握った。
前政権の貴族全てを残酷な刑で謀殺し、傍若無人の則天武后は、漢訳仏教を篤く保護したため、治外法権の仏寺の「内道場」を経営するために、金儲けを考えた商人達が、金を使って私度僧となることで、「周」の風紀の乱れが始まって行く。
中国大陸での内乱を治めた「周」は、騎馬民族を「施陀羅」として蔑視する思想を多く含む漢訳仏教を思想武器として、再び周辺諸国への侵略を始めていく。
672年唐進駐軍を駆逐し明日香ヤマトを再び都として、突厥進駐軍と花郎騎士団合同軍の奮闘により、近畿一帯を支配した天武天皇は、騎馬民族が崇拝する道教と、花郎騎士団が崇拝するミトラ教を取り入れて、支配体制をかためていく。
その制度のひとつとして、日本列島に土着した高句麗、百済、古代新羅、突厥などからの渡来民の各部族の族性を改めるために、684年八色の姓の制度を採用した。その八色の姓とは、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置だ。
真人とは、北極星(太一=天皇)を護る北斗七星のことで、そして、道師とは、道教の指導者のことだ。天武天皇は、漢訳仏教ではなく、北魏の時代から漢訳仏教と敵対していた道教思想を取り入れていたのだ。
そして、近江の亡命百済王朝を壊滅した戦争の時、古来から騎馬民族が支配していた越前と交易のあった伊勢湾沿岸のアラブ系海洋民族の支配地に、685年天命を知るための天文台と、神仙思想の道教の神を祀る観を建てた。その地には、伊勢神宮などまだ存在していない。
そして、ミトラ教の太陽神の復活日である冬至に、天武天皇は、天神(北極星)と地神(天皇)とが一世一代において交流するための儀式、大嘗祭を発明した。
そのように、日本列島を再び支配した突厥進駐軍が、ユーラシアに復活した東突厥帝国からの軍事支援を受けているので、唐帝国はうかつに明日香ヤマトを、645年のように奇襲攻撃することが出来ない。
そこで暗躍したのが、明日香ヤマトの裏山の吉野の国際交易地を支配する、南インドから渡来していた商業民族だ。明日香ヤマトでは、死者が眠る古墳で犠牲による「祭」をおこなっていたのに、その商業民族は、死を穢れとし、「お祓い」という不可思議な宗教儀式をおこなっていた。
唐帝国は、その商業民族の祭祀氏族を傀儡として、武力ではなく、騎馬民族を「施陀羅」として民族差別をする漢訳仏教思想と租庸調の唐の税制により、道教とミトラ教により騎馬民族が支配する明日香ヤマトを乗っ取ることを意図した。
再興した明日香ヤマトは、国際交易を標榜していたので、奈良盆地には再び諸外国からの国際交易商人が訪れていた。その中には、漢訳仏教徒もいた。漢訳仏教は、騎馬民族が好む金をメッキした仏像を、明日香ヤマトに持ち込んだ。そして、そのキンピカ仏像を安置する仏寺を、奈良盆地に建てるのだ。しかし、奈良盆地には、道教の観とミトラ教の寺がある。中国大陸では、北魏の時代から漢訳仏教と道教とは犬猿の仲だった。
天武天皇が健在の時には、動かなかった祭祀氏族は、686年天武天皇が死去すると、百済の血が流れる皇后を女帝持統天皇とし、そして、祭祀氏族の傀儡として、都を、明日香ヤマトから、藤原京へと遷都する。
新羅系天武天皇が、686年死去すると、689年女帝持統天皇は、統一新羅使の無礼を責めて、放逐した。唐進駐軍は、統一新羅と明日香ヤマトとの交流の分断を図っていたのだ。これ以降、統一新羅の使者は、唐進駐軍に間接支配された奈良王朝から排除されていく。
天武天皇の時代、明日香ヤマトには漢訳仏教が未だ根付いていない。それは、天武天皇の葬儀で遺体を燃やされることなく、騎馬民族の墓墳である八角墳に葬られたからだ。漢訳仏教が、明日香ヤマトの貴族に受け入れられていたならば、葬儀は、仏式でおこなわれていたはずだ。
日本初の火葬の天皇は、697年の持統天皇からだ。天武天皇が統治する以前には、死者を燃やす仏教も、死を穢れとする神道も、天武天皇の明日香ヤマトには存在していなかった。
唐帝国進駐軍の傀儡となった祭祀氏族である民族により、漢訳仏教の寺は、貴族達の文化・娯楽施設として奈良盆地に建てられていくのだ。日本歴史上で最初に賭博をおこなった天皇は、天武天皇だ。
唐帝国から渡来した漢訳仏教の私度僧は、ユーラシア大陸の騎馬民族の遊戯であった「駒」を使った双六を、賭博ゲームとして日本列島に持ち込み、治外法権の仏寺で双六ゲームを開催し、奈良盆地の貴族を取り込んだ。賭博は、古来から、未来を予測する、神殿で行う神事であった。
そして、漢訳仏教と結託した奈良王朝は、騎馬民族軍団を奈良盆地から山背国に排除した奈良時代になると、日本列島宗教史を改竄し、古墳を破壊し、その跡に都を建設し、そして、明日香ヤマトの道教の観とミトラ教の寺を破壊し、その跡に、北九州から仏寺を移築し、騎馬民族によるオリエント文化の「明日香ヤマト」を、仏教文化の「飛鳥大和」と改竄して、歴史上抹殺していくのだ。
オレの幻視は、ここで終わった。オレは、今見た映像をレポートするために、暗室を出た。時計を見ると、10分も経っていなかった。パソコンの前に座ると、キーボードを叩いた。かなり長いレポートになってしまった。オレは、添付ファイルで、田辺さんに送った。後は、田辺さんからのリターンを待つだけだ。
古墳時代に騎馬民族は渡来していた。
長文レポートを送信してから5日目に、田辺さんとコンタクトできた。
「カメさんゴメンなさい。学会で出張していて、忙しくてメール読んでいませんでした。今読み終わりました。明日香ヤマトの歴史が手に取るように理解できました。ご苦労様でした。」
「お礼を言うのはこちらの方です。ナベさんの古代日本史の講義がなければ、一生、藤原日本史に騙されるところでした。そして、書店で「偽書」を買い込んで、無駄な時間を費やすところでした。」
「それは言い過ぎですよ。歴史には、「正解」はありませんから。歴史とは、あくまでも、個人の歴史観による推理を交えた物語ですから、百人いれば、百の歴史物語があるわけです。」
「それにしても、藤原日本史はひどすぎますよね。考古学資料と藤原日本史を照らし合わせれば、藤原日本史の「ウソ」が簡単に見破れるのに、何故、藤原日本史を疑うひとが多くないのでしょうか。」
「それは、批判能力のない子供の頃から学校で、藤原日本史を教えているからです。一度刷り込まれた情報を換えることは、非常なエネルギーを必要とするからです。」
「明日香ヤマトの前方後円墳が、歴代の天皇の墓で、その巨大古墳が現れる4世紀に、大和朝廷が存在していたという物語は、傑作ですよね。」
「そうですね。藤原日本史信奉者は、自分で自分の首を絞めてしまっていますからね。」
「それって、どういうことですか。」
「藤原日本史の基本史料である「日本書記」によれば、河内平野の百舌鳥の地には、年代順に、仁徳天皇→履中天皇→反正天皇の3巨大古墳が築かれた、としています。しかし、それらの古墳や近くから出土した遺物や遺構からの年代測定では、履中天皇(5世紀前半)→仁徳天皇(5世紀後半。須恵器出土)→反正天皇の順となるのです。これは、「日本書記」か、「遺物か遺構」のどちらかが「ウソ」をついていることになります。でも、今更、「日本書記」を改竄できませんよね。」
「そうですね。」
「その仁徳天皇稜とされる、墓域面積が世界最大の巨大前方後円墳にも不思議があるのです。藤原日本史では、その巨大古墳が、仁徳天皇を葬った墓であるとするのです。その発掘された円筒埴輪や須恵器は5世紀前半だと考えられています。しかし、その巨大古墳の前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後半のものと考えられています。カメさん、これって変ですよね。」
「そうですよね。築造から副葬品が埋葬されるまで、約50年もの間があるわけですから。すると、その巨大古墳は、オーダーメイドではなく、既製品と言うわけですか。」
「既製品とは、面白い表現ですね。私も、巨大前方後円墳は「既製品」だと思っていました。前方後円墳は、オーダーメイドの「墓」ではなく、「ある目的」を持って築かれていたのです。」
「ある目的とは。」
「それは、カメさんのレポートにありますよ。」
「土地改良と傭兵軍集めですね。」
「そうです。歴史を眺める角度を固定されてしまうと、河内や奈良盆地の巨大古墳は「天皇家の墓」だと信じてしまうのです。しかし、角度を変えて古墳を眺めると、違う「見方」があるのが分かるのです。巨大前方後円墳を天皇の墓だと信じるのは、藤原日本史により、眺める角度を固定されてしまっているからです。つまり、呪縛です。」
「呪縛ですか。でも、何故、藤原氏は、騎馬民族文化の歴史を消すことが出来たのでしょうか。」
「それは、漢訳仏教徒の活躍があったからです。」
「その活躍って何ですか。」
「漢訳仏教は、日本列島に渡来する前に、唐で「仏教経典」を道具として国を乗っ取る技術を習得していたのです。649年唐帝国の太宗が死去すると、皇后は、太宗の息子の高宗の皇后となったのです。唐帝国は、漢化した騎馬民族が支配した国であっので、騎馬民族は、父の未亡人を息子が妻とする習慣があったからです。そして、684年唐帝国の高宗が死去すると、皇后武氏は、騎馬民族文化を蔑視する漢訳仏教と接近するのです。それは、漢訳仏教の経典「大雲経」に、「浄光天女が南天竺の王位に即く」、とあるからです。その「大雲経」を漢訳仏教徒に命じて、唐帝国全土の仏寺に備えさせるのです。そして、その「大雲経」の教えを民衆に広めさせ、皇后武氏を女帝とする請願運動を起こさせるのです。そして、漢訳仏教徒のさまざまな祥瑞を利用して、690年皇后武氏は唐帝国の女帝として即位するのです。そして、女帝として即位すると、国号を「唐」から「周」に替えたのです。この仏教経典を利用して漢訳仏教徒が活躍した、国乗っ取りを「武周革命」というのです。この中国大陸での「武周革命」から約50年後、日本列島では藤原氏の暗躍により聖武天皇の皇后となった光明皇后が、則天武后の戦略にならって、唐から渡来した漢訳仏教徒の暗躍により、道教を信仰していた天武天皇系王朝の乗っ取りを進めるのが、奈良時代のハイライトです。そのひとつが、漢訳仏教徒の力を借りて、720年漢語により編まれた、南インドから渡来していた祭祀氏族の藤原氏による「日本書記」です。」
「ナベさんの古代日本史説では、「大化の改新」などは史実ではなく架空の物語で、645年突厥進駐軍の軍事都市の明日香ヤマトを倒したのは、唐進駐軍ですよね。そして、その唐進駐軍団は、中国大陸から南九州坊津を経て四国沖を通り、紀伊半島に上陸し、熊野古道を抜け、吉野から明日香ヤマトを奇襲した、と推測するのですよね。」
「そうです。その進軍経路は、「日本書記」の神武東征記の道筋と同じです。大阪湾から生駒山を攻撃したが、防衛線が堅いので撤退し、紀ノ川から船で熊野へ行き、熊野古道から吉野へ抜け、飛鳥大和の地へ奇襲した、とするのです。神武東征記は、唐進駐軍の侵攻経路を素材として創作されたようです。」
「疑問に思うのは、明日香ヤマトを壊滅させるだけの軍団を、中国大陸から日本列島の紀伊半島まで輸送する軍船が、漢族化した騎馬民族が支配する唐帝国にあったのか、ということです。実際、奈良時代の遣唐使船は、4隻に2隻は沈没していますよね。」
「藤原日本史での「遣唐使物語」は、奈良時代ではなく、平安時代に創作されたフィクションです。奈良時代の遣唐使船の役割については、藤原日本史では先進国の唐から文化を日本列島に輸入するためと述べていますが、実は謎だらけなのです。その遣唐使船の謎の解明は、次の「中世篇」で行う予定です。ところで、カメさんの幻視では、南九州坊津沖に唐帝国の軍船を見た、とレポートしていますね。その幻視は正しいのです。」
「それがですね、オレが幻視した唐帝国の軍船は、全長120mもあり、大型投石器をいくつも装備して、船の側面は毛皮で覆っていたのです。あまりにもその船が異様だったので、レポートには書きませんでしたけど。」
「その描写は、唐帝国海軍の「楼船」そのものです。船体を覆う毛皮は、海水を含ませて、敵からの火矢を防ぐための工夫です。唐帝国は、「南船北馬」の海洋王国の南朝を併合したことにより、南朝の海軍力により、諸外国を侵略できるほどの軍船を多く保持できたのです。唐帝国の軍船は、動く砦で、甲板を馬で疾走できるほど大きかったのです。ですから、東シナ海を渡航することは訳のないことだったのです。」
「すると、ユーラシアに突厥騎馬民族が再集結し始めて、北方から、そして西側からは遊牧民族の吐蕃が、唐帝国の国境を攻撃していなかったら、645年明日香ヤマトに侵攻した唐帝国海軍により、日本列島全土が侵略されていたかもしれなかった訳ですね。」
「そうかもしれません。それに、649年太宗皇帝が死去し、帝国内に混乱が生じ、明日香ヤマトを占領した唐進駐軍の本体が本国に撤退したこともありますね。そして、唐帝国の侵略順序が、日本列島よりも、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅が先であったこともラッキーだったようです。なにしろ、固定した国境ができたのは、1776年アメリカ合衆国の独立宣言以降からです。固定した国境など無い時代、軍事力のある国は、無限に国境を広げ、無い国は、百済や高句麗のように、滅亡するだけです。藤原日本史で述べるように、四海に囲まれている日本列島は世界から孤立していて「海外の影響」など受けていないとするのは「ウソ」で、島国ほど遠方の異民族が外洋船で容易く渡来することができるため、古代の日本列島も例外ではなかったのです。奈良時代、藤原氏は、自民族が南インドから渡来していた史実を隠すため、天磐船で「九州の山奥」に降臨したとの神話物語を「日本書記」で創作し、そして、縄文時代以降、諸外国から日本列島に渡来していたポリネシア語やタミル語を話す海洋民族を賎民「余部」としてイジメ、その文化・歴史を抹殺していたのです。」
「ところで、藤原日本史では、4世紀の奈良盆地に大和朝廷が存在していた、としていますね。では、天皇は、大和朝廷で何語を話していたのですか。」
「藤原日本史では、「やまと言葉」の万葉語としていますね。しかし、その万葉語は、平安時代には解読できなかったのです。古墳時代に使われていた万葉語には、二つの異なる音声の母音と、子音に硬子音と軟子音があったからです。そして、平安時代初期には、濁音が使われていなかったのに、古墳時代の万葉語には、濁音が使われていたからです。現在に繋がる「万葉集」ができたのは、鎌倉時代に仙覚というひとが、「色々な言葉」で綴られた「万葉集」を参考に整理し直したからです。」
「古墳時代の万葉語と、平安時代以降の万葉語は、異なっていたのですね。」
「そうです。ですから、「古事記」が、奈良時代の712年ではなく、平安時代の812年完成という根拠のひとつとして、「古事記」に載る「万葉歌」が古墳時代の万葉語ではなく、平安時代の万葉語で著されているからです。」
「すると、古墳時代と平安時代とでは、異なる言語を話していたため、支配民族が替っていたということですね。」
「そうです。言葉は、民族を構成するための基本要素です。」
「だったら、古墳時代の万葉語を話した民族は、どのような民族が考えられるのですか。」
「その古墳時代の万葉語に当て嵌まる言語を使う民族は、突厥民族です。突厥民族は、中国史では、丁零、勅勒、鉄勒などの漢字で表現さていますが、チュルクの音声を漢字にあてはめたものです。この突厥語が、日本列島に定着するためには、少なくとも、三代百年の年月を必要とします。」
「すると、蘇我稲目が明日香ヤマトに登場した530年から、645年蘇我蝦夷・入鹿父子が滅んだ、115年間に、突厥語が日本列島に定着したことが考えられますよね。」
「そうです。」
「だったら、何故、突厥語が、日本語とならなかったのですか。」
「突厥民族が、明日香ヤマトの支配者となったのは、530年以降です。それ以前に、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、朝鮮半島の高句麗、百済、新羅語、中国の呉音を発音する民族が、日本列島に存在していたからです。特に、紀元一世紀以降、中国王朝の繭生産地として九州が植民地化されていたので、漢語が呉音により使われていたのです。言葉は、生活に密着しています。ですから、6世紀半ばに支配者として君臨した突厥民族も、漢語を抹殺できなかったので、漢語を突厥語で読むために、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅のヒャンチャル(郷札)を真似て、漢字をアルファベットとして「訓読」を発明したのです。」
「訓読とは、「やまと言葉」読みではないのですか。」
「「やまと言葉」とは、古墳時代の万葉語です。万葉語とは、奈良盆地固有の言葉ではなく、あらゆる民族の言葉の意味です。「やまと」とは、岸辺、川辺の意味と同じに、山の近辺のことです。「あすか」とは、騎馬民族が暮らす地で、「あすかやまと」とは、三輪山麓の騎馬民族が暮らす地、という意味です。そのことからすると、「やまと言葉」とは、「騎馬民族の言葉」とも言えるかもしれませんね。」
「では、呉音発音の漢語が、何故、日本語にならなかったのですか。」
「漢語の呉音を話す民族、呉の興りは、ローマ帝国と絹馬交易で栄えた後漢が、北方騎馬民族鮮卑や烏桓の攻撃により、220年滅び、魏、蜀、呉に分裂した三国時代からです。この呉の文化が、明日香ヤマトに伝来していたのですが、280年に呉が、西晋により滅ぼされてしまったのです。三代百年の条件を満たしていなかったので、呉の漢語が、日本語として定着しなかったのです。」
「呉の文化が、明日香ヤマトに伝来していた証拠でもあるのですか。」
「後漢は、ローマ帝国との交易のために、青銅鏡を製作していたようです。その鏡は、そのデザインが花びらを内向き(内向)に連なれていたために、内向花文鏡と呼ばれています。その後漢の内向花文鏡が、220年後漢が滅んだことにより、三国時代になると、北方の黄河流域を支配した魏と、揚子江流域を支配した呉とでは、デザインが異なっていくのです。北方の魏の鏡デザインは、コウモリのツマミがあるため、蝙蝠鈕座内行花文鏡とよばれています。そして、南方の呉の鏡のデザインは、神獣がデザインされているため、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡とよばれています。この魏鏡と呉鏡との、日本列島での出土分布が異なっているのです。」
「古代中国の鏡に、魏と呉により、そのようにデザインが異なる鏡が存在していたのですか。」
「魏鏡は、北九州から出土しています。それに対して、呉鏡は、明日香ヤマトから出土しています。このことは、中国大陸で覇権を争そう魏と呉との、日本列島の植民地が異なっていたことを示唆します。」
「そういえば、239年魏は、邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王に封じ、金印紫綬を授けていましたよね。」
「そうです。魏は、北九州の邪馬台国に軍事支援をして、邪馬台国を繭生産地としていたのです。247年邪馬台国と狗奴国との戦争では、魏は邪馬台国に軍事顧問の張政を派遣したほどです。」
「北朝の魏は、朝鮮半島を経て、玄界灘を渡れば、北九州には直ぐに渡来できますよね。それに比べて、南朝の呉は、東シナ海を渡らなければならなかったわけですよね。」
「中国南朝は、紀元前の呉越時代から、中近東や南インドとの大型外洋船による国際海洋交易国だったのです。ですから、東シナ海を渡ることは、それほど困難なことではなかったのです。」
「すると、ナベさんは、呉が西晋に滅ぼされた、280年以降、呉の民族が、呉鏡と供に、魏の植民地がある北九州を避け、明日香ヤマトに渡来していた、と言うわけですね。」
「そう考えています。奈良盆地の南方の三輪山麓にある4世紀に築かれたとするホケノ山古墳からは、その呉鏡の神獣鏡が出土しているのです。だからと言って、呉から渡来した民族が、奈良盆地の巨大前方後円墳を築いていたわけではありません。その根拠として、農耕民族の中国南朝には、前方後円墳の遺跡が、未だ発掘されていないからです。日本列島の前方後円墳のルーツは、朝鮮半島の高句麗からと考えています。高句麗は北方系遊牧・騎馬民族の国家だったのです。南方系の埋葬は、甕棺による屈葬です。そのホケノ山古墳がある地域は、纏向遺跡と言われ、4世紀以降、甕棺の墓ではなく、北方系の巨大古墳群が築かれていたのです。」
「纏向遺跡と言えば、邪馬台国畿内説の根拠地ですよね。テレビや新聞マスコミなどには、纏向遺跡から遺構や遺跡が発掘されると、「卑弥呼」の文字が踊りますよね。」
「纏向遺跡にある遺跡・遺構の出土により、卑弥呼の邪馬台国が畿内にあった、とすることは疑問です。その根拠のひとつとして、魏志倭人伝によれば、卑弥呼は親魏倭王に封じられ、金印紫綬を授けられていたとするならば、ホケノ山古墳からは、魏鏡の蝙蝠鈕座内行花文鏡が出土しなければならないのです。しかし、出土したのは、北朝の魏と敵対している、南朝の呉の鏡の三角縁神獣鏡です。更に、纏向遺跡に搬入された土器が、日本列島各地からもたらされていることです。このことは、色々と推測できます。ひとつは、奈良盆地は、日本列島各地からひとを集める魅力があったことで、もうひとつは、支配者が存在していない未開拓地であったことです。」
「4世紀に奈良盆地に巨大前方後円墳が出現したのは、強力な権力が存在していたからではないのですか。」
「そうとも考えられますが、その搬入土器の比率をみると、東海49%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%、近江5%、西部瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%、となるのです。単純には言えませんが、搬入土器の比率が大きければ、それだけ人口の流入が多かったことが示唆されます。すると、一番多いい比率は、49%の東海ですから、東海からの民族が、纏向遺跡に居住していたことが示唆されます。」
「そのことから、何が分かるのですか。」
「その比率によれば、その纏向遺跡への道筋は、瀬戸内海と伊勢湾を結ぶ和歌山街道が、メインルートだったことが示唆されます。つまり、河内からのルートでは、奈良盆地が大湿地帯であったので、困難な行程を強いられたことが、その搬入土器の比率から読み取れます。」
「それでは、漢字を呉音で話す民族は、どのようになったのですか。」
「恐らく、畿内に定着して、呉鏡を製作していたのでしょう。その根拠として、魏鏡とも呉鏡ともつかない「踏み返し鏡」が、日本列島各地の古墳から出土しているからです。そして、呉音は「踏み返し鏡」と供に日本列島に残存したわけです。」
「では、漢音はどのようにして伝来したのでしょうか。」
「漢音は、魏などの中国北方系の発音です。そこで考えられるのが、北伝の漢訳仏教です。南伝の仏教は、漢訳仏教から、小乗仏教と蔑視され中国南朝で布教されていました。それに対して北伝仏教は、372年北朝の前秦(351年〜384年)から高句麗に伝来したのです。当然、前秦は、北朝ですから、漢字を漢音で発音したわけです。6世紀初期に北魏で内乱が起こると、東アジアの動乱を避けるため、高句麗の仏教徒が南下するのです。その高句麗の仏教徒の南下により、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の王族が、527年北九州に亡命し、宇佐に秦王国を興すのです。新羅に伝来した漢訳仏教は、その勢力を北九州に広げるのです。」
「その流れは、645年突厥進駐軍と花郎騎士団連合軍の軍事都市明日香ヤマトが、唐進駐軍により壊滅することに繋がるわけですね。」
「そうです。中国本土からの唐進駐軍の防衛のため、北九州の宇佐の秦王国の中枢が、吉備に移動すると、その跡に、朝鮮半島から漢訳仏教が侵攻してくるのです。そして、漢訳仏教は、その北九州福岡県朝倉郡を中心に、多くの仏寺を建設していくのです。そして、突厥進駐軍と花郎騎士団を奈良盆地から山背国に追い遣っていた奈良時代になると、その北九州の仏教施設を地名ごと、飛鳥大和に移築して、明日香ヤマトのオリエント文化を抹殺してしまったのです。その北九州から伝来した漢訳仏教により、漢音が近畿に伝来したのです。」
「その話、飛躍しすぎていませんか。」
「藤原日本史の基本史料である「日本書記」を否定する「古事記」に、出雲の国譲りで、大和朝廷のアマテラスオオミカミの使者による国譲りの交渉の時、出雲の神々は「天安河」の河原で合議する物語があるのです。この「国譲り物語」で、秦氏末裔の多人長は「古事記」の暗号で、明日香ヤマトが、仏教文化に乗っ取られたことを知らせていたのです。」
「ちょっと理解できないのですが。」
「その「古事記」の国譲り物語の「天安河」とは、福岡県朝倉郡の安川村を探れとの暗号なのです。」
「北九州の安川村に、何かあったのですか。」
「この北九州の安川村と、畿内の飛鳥大和との24地区の地名が、ほとんど重なるのです。
北九州安川村を中心に、時計と逆回りに、笠置山→春日→御笠山→住吉→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美→朝倉→久留米→三潴(みづま)→香山→鷹取山→天瀬→玖珠(くす)→鳥屋山→上山田→山田市→田原→笠置山、とあります。
畿内の大和郷を中心に、笠置山→春日→三笠山→住吉→平郡→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→加美→朝倉→久米→水間(みづま)→天の香山→高取山→天ヶ瀬→国樔(くず)→鳥見山→上山田→山田→田原→笠置山、とあります。
カメさん、これってどう思います。」
「北九州の地名と、畿内大和の地名が、ほぼ一致しますよね。そのことを英語で「コピー」って言いますね。ナベさんが、以前言っていた、北九州から仏寺を移築して、オリエント文化の明日香ヤマトを、仏教テーマパーク飛鳥大和とした、という説の真実性が証明されますよね。」
「歴史上、日本列島の地名と、そして、人名が、漢字二文字で表記されるのが、藤原不比等による713年好字令からです。713年以前の諸外国から渡来していた民族が付けた地名・人名は、その好字令による漢字二文字により消されてしまったのです。つまり、「日本書記」にある飛鳥大和の地名が、漢字二文字で表記されたのは、古墳時代ではなく、奈良時代からなのです。
平安時代、桓武天皇が、騎馬民族の流れにある天武天皇系王朝の歴史を、百済仏教物語を「日本書記」に挿入するために「厩戸皇子を聖徳太子」などとして抹殺・改竄していたのを憂いた秦氏末裔、万葉語学者の多人長は、その改竄「平安時代版日本書記」を否定するために、812年「古事記」を著したのです。そこで、「古事記」が、直接「日本書記」の物語を否定してしまえば、桓武王朝により焚書されてしまうため、「暗号」を用いたのです。その暗号のひとつが、奥付の「和銅5年」(712年)です。」
「何故、「和銅5年」(712年)が暗号となるのですか。」
「日本列島で、漢字二文字により地名・人名が著されたのは、713年好字令からです。しかし、「古事記」では、712年以前には存在していなかった漢字二文字の地名・人名が多く登場するのです。「日本書紀」に登場する出雲大社は、733年完成の「出雲国風土記」には登場しないのです。その「イズモタイシャ」は、「出雲国風土記」では、「キズキタイシャ」なのです。その「日本書記」を否定する「古事記」の出雲国譲り物語では、イズモ民族は、大和朝廷に武力で「イズモ国」を奪われたことにより、「科野の国の洲羽海」まで逃げた、と記しているのです。騎馬民族と海洋民族アズミの支配地は、713年以前は「トルファン」とよばれていたのですが、藤原氏が活躍する713年以降、「トルファン」は、「信濃の諏訪」に改竄されて、「科野のトルファン」の騎馬民族や海洋民族の歴史が消されていたのです。」
「と言うことは、古墳時代の飛鳥時代に「日本書記」の物語で活躍した、蘇我氏や物部氏なども存在していなかったのですね。」
「古墳時代、つまり、飛鳥時代には、蘇我氏も物部氏も、そして、女帝推古天皇も聖徳太子も存在していなかったのです。それらの藤原日本史で活躍する登場人物は、713年以降に、中国大陸から渡来した漢訳仏教徒と藤原不比等により創作されたのです。」
「すると、「日本書記」は古代日本列島史を改竄して「ウソ」を述べていたのですか。」
「そうではありません。「日本書記」は、中国史料、朝鮮半島史料、そして、古墳時代の日本列島史料を集め、綿密に精査し、藤原氏に都合よく創作され、突厥進駐軍と花郎騎士団の軍団を保持して、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族を消していたのです。」
「だから、明日香ヤマトから出土の遺跡や遺構が、「日本書記」の物語と整合性があるわけですね。それって、「旧約聖書」と同じですね。「旧約聖書」もユダヤ民族が、イスラエル民族の歴史を消すために、中近東の周辺諸国の歴史やフォーククロアを精査して創作されていますからね。」
「「日本書記」と「旧約聖書」との共通点は、昔から言われていましたね。藤原氏の出自を辿れば、その中臣神道の儀式がユダヤ教儀式に酷似していることなどから、8世紀にユダヤ教に改宗した、カスピ海沿岸を支配していたカザール王国の白系チュルクの民族が疑われていますね。その東西の国際交易立国カザール王国の民族は、ユーラシア大陸を支配していたチュルク系突厥民族と、国際交易で度々紛争を起こしていたのです。」
「藤原氏が活躍する日本列島の8世紀も謎だらけですよね。百済系桓武天皇の即位では、古墳時代から使われていた南朝系呉音ではなく、北朝系漢音で儀式が行われていたのです。藤原日本史で言う、天皇家は万世一系であるならば、何故、桓武天皇の即位で、呉音から漢音に変える必要があったのか。やはり、古墳時代も謎だらけですけれども、奈良時代にも多くの謎があるようです。」
「桓武天皇の即位では、皇祖を、アマテラスオオミカミではなく、父光仁天皇としていたのですよね。藤原日本史では、天皇家の皇祖は、アマテラスオオミカミとなっていますよね。すると、日本初である天武天皇と、桓武天皇とは、血筋が異なっていることになりますね。」
「そうですね。そして、桓武天皇が遷都した平安京では、唐音で漢字を読んでいたのです。漢字の読み方だけでも、呉音→漢音→唐音と時代と供に替わっているのがわかります。それは、日本列島には、古来から、色々な言葉を話す民族が渡来していたからです。」
「では、何故、そのような色々な言葉が日本列島にあったのに、騎馬民族の突厥語が、日本語の語順、主語(私は)+目的語(本を)+述語(読む)、となったのですか。」
「突厥民族は、騎馬民族ですが、国際交易民族でもあったからです。6世紀半ば、日本列島の東北沿岸に渡来して、そこを拠点に日本列島全土に幅広の直線道路を敷設して、30kmごとに、軍事・交易施設である、「ミヤケ」を設けて、先住民族と交易をおこなっていたからです。530年から645年までの115年間にも及ぶ先住民族との交易で、先住民の各民族言葉を消すことが出来なかったけれども、突厥語の語順だけは定着していったのです。」
「奈良時代に君臨したさすがの藤原氏も、古墳時代の日本列島各地に広がっていた騎馬民族が残した突厥語の語順までは改竄できなかったのですね。」
「ところで、カメさんの明日香ヤマトのレポートには、仏寺の描写がありませんでしたね。」
「ええ、仏寺などありませんでしたから。明日香ヤマトの入り口にあったのは、仏寺などではなく、巨大な砦でした。その砦は、岡の上にある山城とにより、川を挟んで明日香ヤマトの都市を防衛する施設のようでした。」
「藤原日本史では、その明日香ヤマトの入り口近くに、推古天皇4年(596年)、蘇我馬子により法興寺が建てられた、とするのです。それが、通称飛鳥寺です。法興寺とは、仏法が興った寺という意味で、日本最古の寺と云われているのです。しかし、この飛鳥寺には、多くの謎があるのです。」
「ナベさんの説では、古墳時代の飛鳥時代には、蘇我氏などいなかった、とするのですよね。すると、その仏寺とおぼしき建物は、誰により建てられたのですか。」
「530年明日香ヤマトに侵攻して来た突厥進駐軍が考えられます。」
「その根拠は何ですか。」
「勿論、突厥進駐軍側の史料などありません。しかし、「日本書記」のトリックが、その飛鳥寺の謎解きのヒントを与えてくれたのです。」
「飛鳥寺は、710年平城京遷都で移築され、元興寺となっていたのですよね。」
「そうです。藤原氏の歴史改竄のテクニックのひとつは、「移築」です。移築により、前政権の歴史を消してしまうのです。しかし、その移築には不思議があって、大仏だけは飛鳥大和に残されていた、と云うのです。これって不思議ですよね。」
「仏像を安置するのが仏寺であるのに、仏像を飛鳥大和に置いて、奈良盆地の平城京に建物だけを移築するのは、何か他の目的があったのですか。」
「考えられることは二つあります。ひとつは、元々明日香ヤマトには法興寺などなかった、もうひとつは、奈良時代の寺は、仏像を安置する施設などではなく、砦として機能していた、と言うことです。」
「でも、「日本書記」推古天皇元年(593年)には、「法興寺の刹柱の礎の中に仏舎利を置く」との記事がありますよね。」
「そうですね。1957年その飛鳥寺遺跡を発掘調査した時、塔跡の地下に埋まっていた仏舎利容器が埋蔵されていたのが確認されたのです。」
「すると、記述通り仏舎利容器が出土したことにより、「日本書記」は史実を述べていたことになりますよね。」
「出土したのが仏舎利容器だけであったならば、「日本書記」の記述は史実を伝えていたことになります。しかし、仏舎利容器と供に出土したものは、古墳に埋蔵される勾玉、菅玉、ガラス玉などもあったのです。その飛鳥寺跡の古層には、古墳が築かれていたことが示唆されるのです。」
「古墳を破壊した跡に、砦か、若しくは飛鳥寺が築かれていたのですか。」
「奈良盆地では、6世紀半ばから、古代エジプトの埋葬思想に通じる石室・石棺を納める前方後円墳に替わって、騎馬民族系の方墳や八角墳が築かれていくのです。しかし、奈良盆地以外では、依然前方後円墳が築かれていたのです。そこで考えられることは、530年明日香ヤマトに進駐した突厥軍団は、先住民が築いた前方後円墳を破壊して、その跡に、軍事施設や方墳など築いていた、と言うことです。」
「すると、オレが見た明日香ヤマトの入り口にあった巨大建物は、突厥進駐軍の砦であった可能性がありますよね。」
「そうです。藤原日本史では、日本列島には諸外国の軍団が進駐していない、としています。でしたら、5世紀から古墳に埋葬されていた馬具や鉄器は、どのようにして日本列島にもたらされたのでしょうか。3世紀の日本列島を記述する魏志倭人伝には、馬牛などいない、とするのです。その記述が伝聞ではないことは、247年魏の軍事顧問の張政が邪馬台国を軍事支援に渡来し、265年魏が滅ぶと帰還していたからです。」
「そうですよね。藤原日本史では、藤原氏が近衛家として復活する明治革命は、薩長を支援するイギリス・フリーメーソン組織対、江戸幕府を支援するフランス・フリーメーソン組織の軍事援助により行われていたのに、外国人軍事顧問が出演しませんよね。」
「古代日本列島では、「突厥進駐軍+花郎騎士団(秦氏)」対「唐進駐軍+藤原氏」、ということですかね。いづれにしても、藤原日本史では、アマテラスオオミカミを祀る大和民族が中心となっているのです。しかし、藤原日本史で述べる大和民族のルーツは、騎馬民族なのです。この騎馬民族の歴史が、奈良時代から、「日本書記」の国史により消されて行くのです。」
「ナベさんの説では、古代とは、古墳時代までとするのですか。」
「そうです。」
「すると、奈良時代は中世ですか。」
「そう考えています。カメさん、中世篇もお付き合いしていただけますか。」
「喜んで。」
「では、中世篇を整理したら、史料をメール致します。それでは、お休みなさい。」
「お休みなさい。」
オレの古代史観は、田辺さんとのチャットにより、大変化を起こしてしまったようだ。藤原日本史に呪縛されているひとに、オレの古代歴史物語を語って、その反応を見たいと思ったが、変人扱いされるのが落ちだから、暫くは、黙っていることにした。
でも、田辺さんが言っていた、騎馬民族研究会とは、何を目的に、藤原日本史の欺瞞性を暴いているのか興味を持った。
オレは、パソコン環境に馴染んでいないのか、チャットが終わると、暫く虚脱状態に陥る。今が、正にそうだった。深いため息を付くと、睡魔が襲ってきた。
- たそがれのプロカメラマン物語 第二章 奈良時代へタイムトリップ 五月晴郎 2013/9/12 15:40:26
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- たそがれのプロカメラマン物語 第三章 平安時代へタイムトリップ 五月晴郎 2013/9/12 15:56:59
(6)
- たそがれのプロカメラマン物語 第四章 鎌倉時代 五月晴郎 2013/9/12 16:05:18
(5)
- たそがれのプロカメラマン物語 第五章 室町時代へタイムトリップ 五月晴郎 2013/9/12 16:09:33
(4)
- たそがれのプロカメラマン物語 第六章 戦国時代へタイムトリップ 五月晴郎 2013/9/12 16:17:54
(3)
- たそがれのプロカメラマン物語 第六章 戦国時代へタイムトリップ(続) 五月晴郎 2014/2/05 14:10:15
(2)
- たそがれのプロカメラマン物語 第七章 江戸時代へタイムトリップ 五月晴郎 2014/2/05 14:20:28
(1)
- たそがれのプロカメラマン物語 終章 藤原日本史の闇へタイムトリップ 五月晴郎 2014/10/07 09:15:12
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