01. 2014年11月24日 22:27:39
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四条通りは、観光客で溢れて思うように歩けない。旅行代理店から購入した有料観覧席のチケット番号によれば、御池通・12ブロック・F列・27が、オレの指定席だ。オレが席に着いた時には、先頭の生稚児の乗る長刀鉾が通り過ぎようとしていたところだ。 生ぬるい湿気のある気候の夏の京都での朝陽は、たまらなく熱い。席の入り口で貰った団扇では、快適にはなれない。しかも、その席は、露天なのだ。席に座ってノンビリ祇園祭を観賞しようとの思惑が外れた。席を立って、歩道の木陰に避難したのは、オレだけではない。 それにしても、次の函谷鉾が来るのが遅い。京都市役所の角で、人だかりがあるようだが、そこで立ち往生でもしているのか、ここからでは分からない。 オレは、ポケットから観光案内所で入手したパンフレットを取出した。そのパンフレットには、祭の歴史が次のように書かれていた。 今からおよそ1100年前の清和天皇の貞観11年(869年)に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が多数出ました。これは、牛頭天皇(ごずてんのう、素盞鳴命ともいわれている。)のたたりであるとし、そのご機嫌をとるため神をまつり、祇園社(八坂神社の前身で、祭神は素盞鳴命)を信仰し、病魔退散を祈願したといいます。 その方法は、日本全国の国の数に準じて66本の鉾をつくらせ、それを神泉苑(中京区御池通大宮)におくり、悪疫を封じ込む御霊会をおこなったのがはじまりであると伝えられています。 、とある。以前のオレだったら、その説明文に疑問を持たないだろうが、今は違う。日本列島騎馬民族史の田辺説を知ったことにより、その説明文の矛盾が分かる。 まず、「牛頭天皇のご機嫌をとるための神をまつる。」とあるが、この日に限り、天皇は巡幸する神輿の霊威と、それを運ぶ災気を避けるため、一時的に京の街から避難をしていたのだ。天皇は、神をまつるどころか、牛頭天皇を避けていたのだ。何故だ。 どうもこの祭には、裏があるようだ。 カメラマンバッグから、田辺説をまとめたメモを取出し、貞観11年(869年)近辺を調べると、その時代は、866年藤原良房が摂政、そして、清和天皇が15歳で元服すると、関白になって廟堂を支配していた時代だ。 古墳時代末期に、突然歴史上に現われた藤原不比等は、藤原氏に対抗する氏族を、「夷を以って、夷を制す」戦術により、「逆賊」の汚名を着せ、「法」による裁きの下で「死罪、流罪、左遷」という形で歴史から消していった。その藤原不比等の血を受け継ぐ藤原良房も、多くの対抗する豪族を、その手段で消していった。 その消された部族末裔の多くは、土蜘蛛、鬼、天狗、河童などと蔑称され、境界地へ追い遣られていた。その多くは、京の東に流れる鴨川の東岸で暮らしていく。その地が、死者が流れ着く、髑髏ヶ原(後に、六波羅と改名)の無縁地(=交易地)だからだ。 祇園会が始まったとされる、清和天皇の時代とは、古墳時代の豪族で、最後まで生き残っていた大伴氏(奈良時代に、藤原氏により伴氏とされた。)を歴史上抹殺していた。 清和天皇は、嵯峨天皇の娘潔姫と藤原良房との子、明子が生んだ惟仁親王で、生後9ヶ月で皇太子となり、天安2年(858年)9歳で天皇となった。 そのチビッコ天皇は、藤原良房が、承和13年(846年)右大臣に任命されて以来、太政大臣、摂政太政大臣となり、幼年の皇太子を立てて即位させ、清和天皇として、国家権威、権力の頂点に位置していた。しかし、その天皇をロボット化する権力者ができなかったことは、廟堂から、古墳時代からの武人末裔の母から生まれ、嵯峨天皇から賜姓された、日本列島初の嵯峨源氏一族の追い落としだった。 嵯峨源氏一族の醍醐源氏左大臣源高明の廟堂からの追い落としは、安和2年(969年)、歴史上突然現われた中年男の満仲(「清和源氏の租」)なる者の登場まで待たなければならなかった。 祇園会が始まる3年前、貞観8年(866年)廟堂で左大臣、そして、源氏長者である源信は、応天門の変で、最初に放火の容疑をかけられたが、密告者の大納言伴善男が真犯人であることが分かり、大納言伴善男は伊豆に流罪となり、古墳時代からの名門豪族の最たる伴氏(大伴氏)は、藤原氏の権門に降った。 武力を持てない藤原氏は、日本列島を乗っ取るために、宗教を武器とした。元々、藤原氏の租、南インドから渡来した中臣氏は、祭祀氏族だったからだ。藤原不比等は、古墳時代からの各部族を支配するため、その各部族が祀る神々を、天皇の権威のもとに臣従させる戦略を考えた。それが、班幣制度だ。 班幣制度とは、古墳時代から在来の神々への供物供進の風習を、天皇権威の名の基に在来の神々に幣を班って、官位勲等を授けることだ。これにより、授ける者(天皇)と授かる者(古墳時代の豪族)との上下関係が発生する。 この班幣制度により軍門に下った在来神は、大宝元年(701年)から天長11年(834年)までは、年30社ほどに過ぎなかったが、藤原良房の時代には、爆発的に増加した。 このことは、「日本三代実録」に、貞観元年(859年)清和天皇即位、「是の日、初めて天下の緒社の神宝を作り奉る。よって建礼門前で大祓いをした。」、とある。このことにより、古墳時代からの歴史を持った氏族の誇りや伝承は、歴史上消し去られる結果となる。 しかし、その天皇の権威を利用する藤原氏に対抗する勢力は、日本列島の結界地で生き延びていた。そのひとつが、祇園と呼ばれる地だ。祇園と名の付く地は、日本列島各地にある。そして、その祇園会は、中世、京都だけではなく、鎌倉、博多(博多どんたくは博多祇園会の別称)、奈良、平泉などでおこなわれていた。 それらの地で共通することは、古墳時代では、産鉄民族が活躍していたことだ。 祇園とは、仏教発祥のインドの祇園と思っているひとがいるようだが、祇園とは、スサノウの借字だ。では、スサノウとは、何か。藤原日本史の「日本書記」神話によれば、スサノウは、イザナギとイザナミとの間に生まれたアマテラスオオミカミ、ツキヨミノミコトの末っ子だとする。しかし、「古事記」神話とでは、物語が異なる。 スサノウとは、産鉄民族の棟梁のことだ。「日本書記」の欺瞞性を暴く「古事記」では、スサノウは根の国(地下)へ旅することになっている。 では、何故、牛頭天皇が、スサノウと同じなのか。スサノウの事績は、古代新羅との関係が深い。古代新羅では、産鉄・製鉄をおこなっていた。古墳時代、古代新羅から渡来した産鉄民族は、出雲地域でタタラ製鉄をおこなっていた。 そして、古代新羅では、ミトラ神を祀っていた。ミトラ神は、太陽神で、その化身は牡牛だ。そして、その儀式では、牡牛を屠っていた。奈良時代では、旱魃の神を鎮めるために、滝壺に、太陽神の化身である牛頭を投げ入れていた。 牛頭は、太陽信仰民族では聖なるものだ。しかし、死を穢れとする中臣神道では、牛頭は、穢れそのものだ。だから、祇園会で牛頭を乗せた神輿を避けるために、天皇や亡命百済貴族末裔は、京の街からその日だけ避難するわけだ。 そんなことを、とりとめもなく考えていたら、次の鉾がやってきた。 オレの頭の中の祇園祭と、現実の祭とのギャップが大きすぎる。穢れ神の牛頭天皇を祀る祭とするからには、もっとギラギラした祭を想像していたからだ。オレは、祇園祭発祥の地である八坂神社へ行くことにした。現在は、八坂神社となっているが、江戸時代までは、感神院祇園社といって仏教僧が神前で読経する神仏習合の神宮寺だった。 パンフレットでは、祇園会は、疫病退散のための祭として説明しているようだが、平安時代当初は、藤原氏の数々の陰謀により祇園に追い遣られた民族が、中臣神道の死穢思想を逆手にとって、牛頭を神輿に乗せて洛中を練り歩き、藤原氏一族に祟りをおこなう儀式ではなかったのか、とオレはふと思った。 やはり、八坂神社も、観光客でごった返していた。 八坂神社には、取材で何度か来ていたが、田辺説を学習した今、別の視点で観察、思考するようになっていた。 カメラマンバックから鎌倉時代の古地図のコピーを取出して、中世の京都を想像した。それによると、鎌倉時代には、鴨川の西にあった平安京は、完全に消えていた。平安京だけではなく、平安時代の栄華を誇った都市全体が消失し、そこには田畑や荒野となっていた。何故だ。 それは、平安京は、藤原日本史で述べるように、古代新羅からの渡来民である秦氏の支配地を、秦氏が進んで百済系桓武天皇に寄進したのではなく、桓武天皇が武力により、巨大古墳群を破壊した地に、平安京を築いたからだ。だから、その地は穢れていて、その地主神の祟りにより、平安京は、当初から呪われた地であった。 平安時代末期には、洛外と言われた、鴨川東岸の髑髏ヶ原は、六波羅と改名され、芸能だけではなく、商業の中心地となっていた。中世の鴨川の河原は、藤原日本史や歴史著述家が述べるように、貧民の河原乞食の住む地ではなく、繁華街となっていたのだ。中世の京は、鴨川を挟んで東西に開けていた。 古代や中世の鴨川も、現在とは異なり、流路は一定せず、広くなったり、狭くなったりしていた。その河原には、住宅地が密集していたり、田畑となっていたように、河も河原も、現在よりも広大だった。その古地図で気になるのは、感神院祇園社の鳥居が、鴨川の西岸にあることだ。 鳥居とは、現在の一般常識では神の聖なる領域を示すモノだとするが、田辺説によれば、被征服民の神を結界に封じ込める装置とする。その装置が、鴨川の東西の堤防を基準として、洛中の東側、そして、洛外の西側にあることは、感神院祇園社の霊を洛中に入れないために、洛中の東側に設置していたことが読み取れる。 もし、中世での鳥居が、藤原日本史が述べるように神の聖なる地の領域を示す装置ならば、中世では穢れ地とされる祇園領域は、聖地になってしまう。やはり、祇園の神は、亡命百済移民末裔が多く住む洛中の人々にとっては、怨霊神であったようだ。 その中世の洛外は、三条大路末を南北に、白河院の領地と祇園社領・清水寺領に二分されていた。 この洛外の南地域は、鎌倉幕府の警察権が及ばない不入地だった。それは、その地域には、古墳時代の王域の観念が未だに残っていて、鎌倉幕府軍に対抗できるほどの武装集団、神社(もり)での座を仕切る役座、が存在していたからだ。中世の鴨の河原は、日本列島最大の武器製造・販売所でもあった。それにより、河東の祇園社と清水寺の既得権を、鎌倉幕府には崩せなかった。 その既得権が崩されたのは、出自不明の「清和源氏」とする足利氏一族、南宋から亡命して来た禅宗勢力、そして、日本列島各地の為替業務などをおこなう総合商社のような大山崎油座勢力により擁立された、室町幕府の登場を待たねばならなかった。 それにしても、本殿の裏には、各種の神々の祠が多くあるのは、明治革命政府による、神仏分離政策と国家神道政策のためであったのか、疑問が湧く。 境内は、歩く隙間が無いほどだ。オレは、裏の円山公園を目指した。ここも、観光客でいっぱいだった。この時期の京都では、閑静な場所など無いようだ。 田辺説によれば、丸山と付く地には、以前、円墳があった、ということだ。すると、この円山公園の地下には、古墳時代の豪族の霊が眠っているのか、とオレは、ふと思った。でも、この喧騒では、霊も静かに眠ることも出来ないだろう。 そういえば、円山公園に隣接して、浄土宗を拓いた法然を祀る知恩院があるはずだ。オレは、ひとごみをかき分けるように、知恩院へ向かった。知恩院の前の駐車場は、観光バスで満車だ。脇の道路にも順番待ちの観光バスで身動きできない。 知恩院は、意外と静かだった。それは、御影堂の大修理が、多少は影響しているのかもしれない。無料送迎車も空いていた。オレは、御影堂の裏手の高台の方へ歩を進めると、眼上に御廟を見た。一気に階段を登りきると、爽やかな風が火照った頬をなぜた。この廟堂は、法然上人の遺骨を奉安している。拝殿入場は、「無料」だ。高台にある拝殿からは、祇園の町並が、木陰の間から見える。爽やかな風に吹かれるオレに、睡魔が襲ってきた。 人の気配でオレが目を開けると、大男が立っていた。その男は異様な風体だ。革のブーツ、革のズボン、金のバックルのベルト、革のベスト、異様な形のヘルメット、腕には金のブレスレット、金の指輪、金のネックレス、金の耳飾、そして、鬚が濃く目色はブルーだ。太刀を杖のようにして、オレを凝視している。 威圧的に発した言葉は、オレには理解できない。しかし、その動作によれば、ここから立ち去れ、と言っているようだ。周囲を見渡すと、オレは、古墳群の中にいた。 オレは、二三歩行き、振り向くと、その大男は草原馬に乗り、古墳へ消えていくところだった。 これは夢だ、と思ったら、目が覚めた。それにしても、変な夢だった。 つづく |