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たそがれのプロカメラマン物語   終章 藤原日本史の闇へタイムトリップ
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投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 10 月 07 日 09:15:12: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: たそがれのプロカメラマン物語   第七章 江戸時代へタイムトリップ  投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 2 月 05 日 14:20:28)

http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html

終章 藤原日本史の闇へタイムトリップ

京都の歴史は謎だらけだった。

何だこの暑さは。オレは、7月17日午前8時京都の四条通りにいた。もちろん、祇園祭の山鉾巡行を見るためだ。
田辺さんとの最後のチャット後、しばらく気力が失せていたが、旅会社のキャッチコピーではないが、頭の片隅に、「そうだ、京都に行こう。」のセリフが浮かんだ。
京都の歴史で気になることが、頭の片隅から離れないことも、京都行きの要因のひとつだ。それは、何故、日本列島での民族差別の発生が、京都であったのか。そして、全国の稲荷社の総本山が、伏見にあるのか。藤原日本史では、この疑問に答えてくれない。それだったら、オレ自身で答えを出してやろうと思ったからだ。オレには、秘策がある。
つづく  

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01. 2014年11月24日 22:27:39 : Y7DCGUFcdQ
四条通りは、観光客で溢れて思うように歩けない。旅行代理店から購入した有料観覧席のチケット番号によれば、御池通・12ブロック・F列・27が、オレの指定席だ。

オレが席に着いた時には、先頭の生稚児の乗る長刀鉾が通り過ぎようとしていたところだ。

生ぬるい湿気のある気候の夏の京都での朝陽は、たまらなく熱い。席の入り口で貰った団扇では、快適にはなれない。しかも、その席は、露天なのだ。席に座ってノンビリ祇園祭を観賞しようとの思惑が外れた。席を立って、歩道の木陰に避難したのは、オレだけではない。

それにしても、次の函谷鉾が来るのが遅い。京都市役所の角で、人だかりがあるようだが、そこで立ち往生でもしているのか、ここからでは分からない。
オレは、ポケットから観光案内所で入手したパンフレットを取出した。そのパンフレットには、祭の歴史が次のように書かれていた。

今からおよそ1100年前の清和天皇の貞観11年(869年)に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が多数出ました。これは、牛頭天皇(ごずてんのう、素盞鳴命ともいわれている。)のたたりであるとし、そのご機嫌をとるため神をまつり、祇園社(八坂神社の前身で、祭神は素盞鳴命)を信仰し、病魔退散を祈願したといいます。
その方法は、日本全国の国の数に準じて66本の鉾をつくらせ、それを神泉苑(中京区御池通大宮)におくり、悪疫を封じ込む御霊会をおこなったのがはじまりであると伝えられています。

、とある。以前のオレだったら、その説明文に疑問を持たないだろうが、今は違う。日本列島騎馬民族史の田辺説を知ったことにより、その説明文の矛盾が分かる。

まず、「牛頭天皇のご機嫌をとるための神をまつる。」とあるが、この日に限り、天皇は巡幸する神輿の霊威と、それを運ぶ災気を避けるため、一時的に京の街から避難をしていたのだ。天皇は、神をまつるどころか、牛頭天皇を避けていたのだ。何故だ。

どうもこの祭には、裏があるようだ。

カメラマンバッグから、田辺説をまとめたメモを取出し、貞観11年(869年)近辺を調べると、その時代は、866年藤原良房が摂政、そして、清和天皇が15歳で元服すると、関白になって廟堂を支配していた時代だ。

古墳時代末期に、突然歴史上に現われた藤原不比等は、藤原氏に対抗する氏族を、「夷を以って、夷を制す」戦術により、「逆賊」の汚名を着せ、「法」による裁きの下で「死罪、流罪、左遷」という形で歴史から消していった。その藤原不比等の血を受け継ぐ藤原良房も、多くの対抗する豪族を、その手段で消していった。

その消された部族末裔の多くは、土蜘蛛、鬼、天狗、河童などと蔑称され、境界地へ追い遣られていた。その多くは、京の東に流れる鴨川の東岸で暮らしていく。その地が、死者が流れ着く、髑髏ヶ原(後に、六波羅と改名)の無縁地(=交易地)だからだ。

祇園会が始まったとされる、清和天皇の時代とは、古墳時代の豪族で、最後まで生き残っていた大伴氏(奈良時代に、藤原氏により伴氏とされた。)を歴史上抹殺していた。

清和天皇は、嵯峨天皇の娘潔姫と藤原良房との子、明子が生んだ惟仁親王で、生後9ヶ月で皇太子となり、天安2年(858年)9歳で天皇となった。

そのチビッコ天皇は、藤原良房が、承和13年(846年)右大臣に任命されて以来、太政大臣、摂政太政大臣となり、幼年の皇太子を立てて即位させ、清和天皇として、国家権威、権力の頂点に位置していた。しかし、その天皇をロボット化する権力者ができなかったことは、廟堂から、古墳時代からの武人末裔の母から生まれ、嵯峨天皇から賜姓された、日本列島初の嵯峨源氏一族の追い落としだった。

嵯峨源氏一族の醍醐源氏左大臣源高明の廟堂からの追い落としは、安和2年(969年)、歴史上突然現われた中年男の満仲(「清和源氏の租」)なる者の登場まで待たなければならなかった。

祇園会が始まる3年前、貞観8年(866年)廟堂で左大臣、そして、源氏長者である源信は、応天門の変で、最初に放火の容疑をかけられたが、密告者の大納言伴善男が真犯人であることが分かり、大納言伴善男は伊豆に流罪となり、古墳時代からの名門豪族の最たる伴氏(大伴氏)は、藤原氏の権門に降った。

武力を持てない藤原氏は、日本列島を乗っ取るために、宗教を武器とした。元々、藤原氏の租、南インドから渡来した中臣氏は、祭祀氏族だったからだ。藤原不比等は、古墳時代からの各部族を支配するため、その各部族が祀る神々を、天皇の権威のもとに臣従させる戦略を考えた。それが、班幣制度だ。

班幣制度とは、古墳時代から在来の神々への供物供進の風習を、天皇権威の名の基に在来の神々に幣を班って、官位勲等を授けることだ。これにより、授ける者(天皇)と授かる者(古墳時代の豪族)との上下関係が発生する。

この班幣制度により軍門に下った在来神は、大宝元年(701年)から天長11年(834年)までは、年30社ほどに過ぎなかったが、藤原良房の時代には、爆発的に増加した。

このことは、「日本三代実録」に、貞観元年(859年)清和天皇即位、「是の日、初めて天下の緒社の神宝を作り奉る。よって建礼門前で大祓いをした。」、とある。このことにより、古墳時代からの歴史を持った氏族の誇りや伝承は、歴史上消し去られる結果となる。

しかし、その天皇の権威を利用する藤原氏に対抗する勢力は、日本列島の結界地で生き延びていた。そのひとつが、祇園と呼ばれる地だ。祇園と名の付く地は、日本列島各地にある。そして、その祇園会は、中世、京都だけではなく、鎌倉、博多(博多どんたくは博多祇園会の別称)、奈良、平泉などでおこなわれていた。

それらの地で共通することは、古墳時代では、産鉄民族が活躍していたことだ。

祇園とは、仏教発祥のインドの祇園と思っているひとがいるようだが、祇園とは、スサノウの借字だ。では、スサノウとは、何か。藤原日本史の「日本書記」神話によれば、スサノウは、イザナギとイザナミとの間に生まれたアマテラスオオミカミ、ツキヨミノミコトの末っ子だとする。しかし、「古事記」神話とでは、物語が異なる。

スサノウとは、産鉄民族の棟梁のことだ。「日本書記」の欺瞞性を暴く「古事記」では、スサノウは根の国(地下)へ旅することになっている。

では、何故、牛頭天皇が、スサノウと同じなのか。スサノウの事績は、古代新羅との関係が深い。古代新羅では、産鉄・製鉄をおこなっていた。古墳時代、古代新羅から渡来した産鉄民族は、出雲地域でタタラ製鉄をおこなっていた。

そして、古代新羅では、ミトラ神を祀っていた。ミトラ神は、太陽神で、その化身は牡牛だ。そして、その儀式では、牡牛を屠っていた。奈良時代では、旱魃の神を鎮めるために、滝壺に、太陽神の化身である牛頭を投げ入れていた。

牛頭は、太陽信仰民族では聖なるものだ。しかし、死を穢れとする中臣神道では、牛頭は、穢れそのものだ。だから、祇園会で牛頭を乗せた神輿を避けるために、天皇や亡命百済貴族末裔は、京の街からその日だけ避難するわけだ。

そんなことを、とりとめもなく考えていたら、次の鉾がやってきた。
オレの頭の中の祇園祭と、現実の祭とのギャップが大きすぎる。穢れ神の牛頭天皇を祀る祭とするからには、もっとギラギラした祭を想像していたからだ。オレは、祇園祭発祥の地である八坂神社へ行くことにした。現在は、八坂神社となっているが、江戸時代までは、感神院祇園社といって仏教僧が神前で読経する神仏習合の神宮寺だった。

パンフレットでは、祇園会は、疫病退散のための祭として説明しているようだが、平安時代当初は、藤原氏の数々の陰謀により祇園に追い遣られた民族が、中臣神道の死穢思想を逆手にとって、牛頭を神輿に乗せて洛中を練り歩き、藤原氏一族に祟りをおこなう儀式ではなかったのか、とオレはふと思った。

やはり、八坂神社も、観光客でごった返していた。

八坂神社には、取材で何度か来ていたが、田辺説を学習した今、別の視点で観察、思考するようになっていた。

カメラマンバックから鎌倉時代の古地図のコピーを取出して、中世の京都を想像した。それによると、鎌倉時代には、鴨川の西にあった平安京は、完全に消えていた。平安京だけではなく、平安時代の栄華を誇った都市全体が消失し、そこには田畑や荒野となっていた。何故だ。

それは、平安京は、藤原日本史で述べるように、古代新羅からの渡来民である秦氏の支配地を、秦氏が進んで百済系桓武天皇に寄進したのではなく、桓武天皇が武力により、巨大古墳群を破壊した地に、平安京を築いたからだ。だから、その地は穢れていて、その地主神の祟りにより、平安京は、当初から呪われた地であった。

平安時代末期には、洛外と言われた、鴨川東岸の髑髏ヶ原は、六波羅と改名され、芸能だけではなく、商業の中心地となっていた。中世の鴨川の河原は、藤原日本史や歴史著述家が述べるように、貧民の河原乞食の住む地ではなく、繁華街となっていたのだ。中世の京は、鴨川を挟んで東西に開けていた。

古代や中世の鴨川も、現在とは異なり、流路は一定せず、広くなったり、狭くなったりしていた。その河原には、住宅地が密集していたり、田畑となっていたように、河も河原も、現在よりも広大だった。その古地図で気になるのは、感神院祇園社の鳥居が、鴨川の西岸にあることだ。

鳥居とは、現在の一般常識では神の聖なる領域を示すモノだとするが、田辺説によれば、被征服民の神を結界に封じ込める装置とする。その装置が、鴨川の東西の堤防を基準として、洛中の東側、そして、洛外の西側にあることは、感神院祇園社の霊を洛中に入れないために、洛中の東側に設置していたことが読み取れる。

もし、中世での鳥居が、藤原日本史が述べるように神の聖なる地の領域を示す装置ならば、中世では穢れ地とされる祇園領域は、聖地になってしまう。やはり、祇園の神は、亡命百済移民末裔が多く住む洛中の人々にとっては、怨霊神であったようだ。

その中世の洛外は、三条大路末を南北に、白河院の領地と祇園社領・清水寺領に二分されていた。

この洛外の南地域は、鎌倉幕府の警察権が及ばない不入地だった。それは、その地域には、古墳時代の王域の観念が未だに残っていて、鎌倉幕府軍に対抗できるほどの武装集団、神社(もり)での座を仕切る役座、が存在していたからだ。中世の鴨の河原は、日本列島最大の武器製造・販売所でもあった。それにより、河東の祇園社と清水寺の既得権を、鎌倉幕府には崩せなかった。

その既得権が崩されたのは、出自不明の「清和源氏」とする足利氏一族、南宋から亡命して来た禅宗勢力、そして、日本列島各地の為替業務などをおこなう総合商社のような大山崎油座勢力により擁立された、室町幕府の登場を待たねばならなかった。

それにしても、本殿の裏には、各種の神々の祠が多くあるのは、明治革命政府による、神仏分離政策と国家神道政策のためであったのか、疑問が湧く。

境内は、歩く隙間が無いほどだ。オレは、裏の円山公園を目指した。ここも、観光客でいっぱいだった。この時期の京都では、閑静な場所など無いようだ。

田辺説によれば、丸山と付く地には、以前、円墳があった、ということだ。すると、この円山公園の地下には、古墳時代の豪族の霊が眠っているのか、とオレは、ふと思った。でも、この喧騒では、霊も静かに眠ることも出来ないだろう。

そういえば、円山公園に隣接して、浄土宗を拓いた法然を祀る知恩院があるはずだ。オレは、ひとごみをかき分けるように、知恩院へ向かった。知恩院の前の駐車場は、観光バスで満車だ。脇の道路にも順番待ちの観光バスで身動きできない。

知恩院は、意外と静かだった。それは、御影堂の大修理が、多少は影響しているのかもしれない。無料送迎車も空いていた。オレは、御影堂の裏手の高台の方へ歩を進めると、眼上に御廟を見た。一気に階段を登りきると、爽やかな風が火照った頬をなぜた。この廟堂は、法然上人の遺骨を奉安している。拝殿入場は、「無料」だ。高台にある拝殿からは、祇園の町並が、木陰の間から見える。爽やかな風に吹かれるオレに、睡魔が襲ってきた。

人の気配でオレが目を開けると、大男が立っていた。その男は異様な風体だ。革のブーツ、革のズボン、金のバックルのベルト、革のベスト、異様な形のヘルメット、腕には金のブレスレット、金の指輪、金のネックレス、金の耳飾、そして、鬚が濃く目色はブルーだ。太刀を杖のようにして、オレを凝視している。
威圧的に発した言葉は、オレには理解できない。しかし、その動作によれば、ここから立ち去れ、と言っているようだ。周囲を見渡すと、オレは、古墳群の中にいた。
オレは、二三歩行き、振り向くと、その大男は草原馬に乗り、古墳へ消えていくところだった。

これは夢だ、と思ったら、目が覚めた。それにしても、変な夢だった。
つづく


02. 2014年12月24日 00:03:37 : Y7DCGUFcdQ
夢と幻視とは、幻想を知覚することだが、異なるところがある。そのひとつが、時系列の問題だ。夢の場合、画像の場面場面の連続性がなく、時空が支離滅裂に飛んでいる。

しかし、オレが見る幻視は、時系列に沿って、流れの速さは一定しないが、整然と画像が展開する。

以前、田辺さんから送られた脳関係の書籍によれば、夢とは、大脳皮質に現われる現象で、鮮明な夢を見ている時は、大脳の視覚野が活発になっているそうだ。個人的な記憶や、道順の記憶を定着させ、そして、取出す機能を持つ海馬が活性化していると、最近起こった出来事が夢に現われるようだ。そして、その海馬からの情報伝達で、脳幹や視覚町から警戒信号を送る経路、補足運動野と視覚連合野が活性化すると、夢の「バーチャルリアリティ」の感覚をもたらすようだ。

では、何故、あのような夢を見たのか。
現在の研究では、思考と記憶とには、厳密な境界線がないことが、明らかになったようだ。
ひとは、目でものを見ているのではなく、目から入った情報を、大脳の視覚野で認識し、その情報を、前頭葉に送り、そこで、各脳部位の情報保管場所から送られた情報を総合して、「意味のある画像」として認識しているようだ。つまり、前頭葉が、プロデュースすることにより、「見る」ようだ。
前頭葉には、古来より神秘主義者が唱えていた、「第三の目」である、意識の最高点の入り口があるようだ。
夢を知覚するには、情報としての記憶が関係する。記憶とは、かならず同じパターンで活性化するニューロン集団のことだ。そのニューロンを経由する情報は、そのときどきで増えたり、減ったりするが、その仲介役を務めるのが、ドーパミン、セロトニン、アドレナリンなどの神経伝達物質だ。これらの物質の増減により、考え方、感じ方、行動に決定的な影響を与える。
オレの幻視が、赤色光のある周波の点滅により、脳の視覚野が活性化するのは、どうも、その神経伝達物質が影響しているようだ。

では、夢は、何故、睡眠中に現われるのか。
思考と記憶とには、境界線がないということは、夢は、記憶の映像化だから、ある物事を深く思考していくと、その思考が記憶として脳の情報庫に保管される。その思考が記憶となり、記憶が多くの要素で構成されれば、そのひとつひとつの保管庫から記憶を引っ張り出す取っ手となり、それぞれが関係しあい、意味記憶と呼ばれるものとなる。

オレは、田辺さんと知り合ってから、日本列島騎馬民族の田辺説を学習することにより、脳の保管場所に、古墳時代の情報が刷り込まれている。その情報の一部が、祇園の街、円山公園、知恩院を散策したことが刺激となり、あの夢となって現われたようだ。

映画のような記憶を、エピソード記憶という。その記憶は、海馬に記号化されて皮質に貯えられる。最終的には、大脳皮質のいろいろな場所に散らばり、意味記憶と同じように、前頭葉の皮質の働きにより蘇る。

エピソード記憶は、完全に定着するまでは、長くて2年はかかる。海馬は、しょっちゅう各要素を集めてはエピソードをリプレイしており、それはもっぱら睡眠中に行われる。睡眠中に、生活で体験した出来事を夢に見るのはそのためだ。
そんなことを思考していると、階下のざわつきが聞こえてきた。旅行社の旗に先導された一団が、階段を登り始めるところだ。時計を見ると、1時を回っていた。祇園祭が終わったようだ。

知恩院を出ると、駐車場には観光バスがまばらだ。それに代わって、客待ちタクシーがあった。オレは、次の目的地の本能寺に行くために、タクシーを物色した。タクシーは、駐車場に何台もあるのだが、運転席には、運転者がいない。

木陰で、本を読んでいた初老の運転手に話しかけると。今の時刻、京都の街は、観光客で溢れているから、本能寺だったら、歩いたほうが、早いと言われた。オレは、歩き疲れているからと、懇願すると、運転手はしぶしぶ承知した。
「ところで、お客さん、どちらの本能寺ですか。」
「どちらって、本能寺ですけど。」
「本能寺は、ふたつありまして、下本能寺前町の、現在の本能寺と、四房堀川町の本能寺跡とがあります。」
「歴史に出てくる本能寺跡をお願いします。」
「見るべきものは、ありませんけど、いいですか。」
「どういう意味ですか。」
「行けば分かります。」
運転手は、そう言うと、エンジンをかけた。運転手が、行くのをいやがるのが、駐車場を出ると直ぐに分かった。知恩院の横道は、八坂神社、円山公園、清水寺に至るルートだから、徒歩の観光客や旗の後をゾロゾロ歩く団体客で、車が思うように走れない。

運転手は、バックミラーでオレを凝視すると、
「お客さん、カメラマンですか。」
「まあ一応。」
オレは、一眠りしたかったので、言葉少なく返事した。
「懐かしいですね。マスミのバックですよね。」
「昭和時代のものです。先輩のカメラマンからのもらい物です。」
「私もね、カメラマンにあこがれていたのです。団塊の世代では、プロカメラマンは、あこがれの職業だったんですよ。」
「そうですか。」
車は、思うように走らないが、運転手の口数が走り出した。
「当時、昭和時代のテレビ番組には、どこかのチャンネルには、プロカメラマンが登場していましたっけ。」
バックミラーに、運転手の昔を懐かしむような顔が写った。
「ところで、お客さん、京都取材ですか。」
「そのように見えますか。」
「本能寺に取材に行くには、あまり京都のことを知らないようで。これは、失言です。気を悪くなされたらお詫びします。」
「運転手さんは、京都のひとですか。」
「いいえ。関東です。定年退職後、第二職場として、ドライブが趣味だったので、東京のタクシー会社に再就職したのですが、私が史学科卒なので、会社が歴史知識があると勘違いして、京都転勤で、3年になります。」
オレの脳は、「史学科」に反応した。
「すると、京都の歴史に詳しいのですか。」
「いいえ。先ほども、武澤秀一著「伊勢神宮と天皇の謎」を読んで、古代、中世の歴史の勉強中です。選科は、近代史です。幕末以後の歴史です。」
「すると、明治革命、いや、明治維新近辺の歴史を学んでいたのですか。」
「学んだなんていうほどでもないですが、一通りです。ところで、お客さん、タクシー賃送ではなく、観光に替えませんか。」
「替えると、どうなるのですか。」
「この人波の渋滞だと、目的地に着くまで、相当の料金が掛かります。観光だと、時間制で、3時間14000円です。」
「では、観光にしてください。」
「学校の歴史授業では、古代、中世は、詳しく教えるのですが、江戸時代末期から明治時代までは、ほんのおさわりで、通り過ぎる傾向があります。お客さん、何故だと思いますか。」
「確かに、中学、高校でも、江戸時代から明治時代までの歴史を、飛鳥時代ほどの熱心さで教師は、教えていなかったように思います。」
「お客さん、私が述べることは、あくまで教科書を元にした私論です。気を悪くしたらゴメンなさい、です。」
「どうして、そんなことを言うのですか。」
「この間、京都の本当の歴史を話したら、観光のお客さんが怒り出したのです。現在の京都の原型は、1120年前の平安時代の建物は、なにひとつもなく、1467年(応仁1年)の応仁の乱以降のもので、現在の寺の多くは、豊臣秀吉の時代のものだ、と説明したら、怒り出したのです。後で気づいたのですが、観光客は、史実をもとめているのではなく、歴史にロマンをもとめているようですね。」
「オレは、違います。史実が知りたいです。」
「そうですか。分かりました。」
運転手は、人波を避けるようにノロノロ走りながら、述べたことは、次のようだ。

江戸時代の徳川家康の時代が終わると、仏教各宗は、事実上の国教となった。それは、三代将軍徳川家光が、1623年征夷大将軍並びに、源氏長者となってからだ。
1629年、キリシタン追放のための踏み絵の始まり。
1635年、幕府の寺社に対する支配権を確立するために、寺社奉行の設置。
1637年から1338年、島原の乱。
1639年、キリシタン追放を理由に、宗門改め。実際は、山の民の追放。
キリシタン禁制にはじまる宗門改め、寺請制度により、すべての人民は、寺院に属することを強制された。徳川家康の死後、寺院は、全人民を掌握する封建支配の末端機構としての役割を果たしていた。
江戸時代後期、腐敗した仏教各宗に対して、国学の流れから医師の平田篤胤が出て、復古神道を唱えた。平田篤胤の復古神道は、「古事記」、「日本書記」等の古典を根拠として、天皇崇拝の絶対化を主張した。
それに対して、本居宣長は、漢字漢文で著わされた「日本書記」は「唐ごころ」に染まっているからと排斥し、「古事記」は、日本列島本来の神代からの歴史を述べていると勘違いして、
1778年、「古事記伝」上巻
1792年、「古事記伝」中巻
1798年、「古事記伝」下巻
、を著わした。
平安時代、812年多人長が著わした全3巻「古事記」は、「古事記」の註釈書として、全44巻「古事記伝」となってしまった。この「やまとことば」で創作された「古事記伝」により、漢字和文で著作された、「日本書記」の「ある文に曰く」に反論する「古事記」の、「日本書記物語」の「出雲の国譲り物語から、聖徳太子の飛鳥時代まで」の欺瞞性(ウソ)を暴く、「暗号」としての存在が消されてしまった。
明治新政府は、1868年(慶応4年)、祭政一致、神祇官再興を布告した。
内閣最高幹部は、左大臣藤原道孝、右大臣藤原家信、同藤原実美、内大臣藤原実徳、同藤原忠順、同藤原宗弘、同藤原資宗、同藤原雅典、同藤原光愛、同藤原胤保、等等となって、明治維新により、藤原一族が明治革命政府の廟堂に復活した。
この明治維新政府の廟堂の藤原氏の独占は、正に、古墳時代の歴史を壊滅した、藤原不比等一族の再来だ。
1869年(明治2年)神祇事務局は、太政官の下位にあったが、祭政一致を官制上で実現するため、太政官から独立して、全官衛の最高位に置かれ、奈良時代初期、藤原不比等が創作した、神祇官が、1200年の時を経て再興した。
この年、明治天皇は、女帝持統天皇以後、初めて伊勢神宮に参拝した。この祭政一致の復古政策に対して、江戸幕府に仏教思想支配により、民衆を弾圧したことや、そして、退廃した仏教各宗の現実に反感を燃やしていた民衆、特に、山の民は、各地の神職や復古神道家と共謀して、廃仏毀釈の実力行動を開始した。
1871年(明治4年)、奈良時代からの呼称であった神社(モリ)は、すべて国家の宗祀であるとの太政官達が出され、神社(ジンジャ)と呼ばれ公的性格が確立した。そして、伊勢神宮は、全神社(ジンジャ)の本宗と定められ、新しく創り変えられていた。伊勢神宮は、神代の昔から存在していたのではない。現在の伊勢神宮は、明治維新後に、藤原氏一族と伴もに復活したのだ。
1871年(明治4年)、神祇官は、太政官所管の神祇省に格下げされ、そして、1872年(明治5年)、神祇省は廃止され、新たに、大教(国家神道)宣布のため、教部省が置かれた。
神仏分離の維新当初の大方針は、わずか数年で崩れた理由は、神道側の教義、布教技術、組織が、「ウソ」を「方便」とし地獄話で人民のこころを呪縛する仏教勢力よりも、脆弱であったからだ。
教部省は、神道、仏教、民間緒宗教、落語家、役座などを動員して、神道国教主義に立つ統一的、組織的な国民教化を、「敬神愛国、天理人道、皇上奉載、朝旨遵守」の「三条の教則」を進めることを目的とした。
その年、全国の神社(ジンジャ)が、神宮、官幣社、国幣社、府県社、郷社、村社、無格社の7段階に格付けされた。その頂点には、伊勢神宮が座った。
明治維新後に創建された伊勢神宮以前の領域内には、仏像を安置する神宮寺が無数存在していたが、それらの仏像、神宮寺を全て排除し、針葉樹林の森とするために巨木を植え、古代からの環境を創造した。しかし、黒潮が沿岸を洗う紀伊半島は、古代から温暖系広葉樹林の領域で、北方系の針葉樹林の杉などの生態系地域ではない。伊勢神宮の森は、古代からのものではなく、明治革命後に創られたことが、生態系域からもわかる。
そして、外宮と内宮との間にあった遊郭街は撤去され、外宮が上位であったものが、内宮が上位に位置された。
古墳時代の祭祀場を隠蔽する神社(もり)の受難は、まだ続く。
1905年(明治38年)日露戦争の戦争終結のため、ポーツマス条約を締結した。この不可解な戦争に対して、明治政府には、ロシアと闘うための充分な戦費がなかった。そこで、イギリスの斡旋で、国際金融組織から、莫大な戦費を調達した。
戦費が底を付いた明治政府は、国際金融組織の拠点があるアメリカ合衆国に調停を依頼した。この条約で、明治政府は、国家予算の1年分の4倍の20億円を埋め合わせるため、賠償金をロシアに求めたが、ロシアはそれに応じなかった。満州南部の租借権と大韓帝国に対する排他的指導権を獲得しただけだった。
国際金融組織の拠点が存在するイギリスの後押しで開戦した日露戦争は、何を目的としたものか、今考えても不可解な戦争だ。
そこで軍部は、1906年(明治39年)、官有財産を得るのに、規模が不十分であったり、政府や軍部に対して奉仕の態勢ができていない小神社の土地を没収するため、適宜に近隣の神社に合併させ、原則として村社は行政府ごとに1社、無格社は、旧村に1ないし数社に減らす方針を強行した。
この軍部の神をも恐れぬ行為により、大正年初までに、明治初期の約19万社から、一挙に11万余社に激減した。この軍部の強行措置により、全国各地の由緒ある神社(もり)が破壊され、民間神道、習合神道、古墳時代からの祭祀伝承・神事や行法が失われた。
そして、明治新政府は、「神国ニッポン」を演出するため、
1879年(明治12年)、靖国神社(前身は招魂社)
1881年(明治14年)、吉野神宮
1890年(明治23年)、橿原神宮
1895年(明治28年)、平安神宮
1920年(大正9年)、 明治神宮
、を創建した。

「お客さん、もうすぐで、人波から抜け出ますが、このまま本能寺跡まで行きますか。」
「どれくらいで行けますか。」
「祭が終わって、規制が解かれたから、10分位です。観光時間は、まだたっぷりありますが。どうします。」
「何かお勧めの場所でもありますか。」
「御土居って、ご存知ですか。」
「何ですか、その御土居って。」
「豊臣秀吉が、1591年から築いた京都の街を囲う土塁です。現在は、数箇所しか現存していませんが、発掘調査によれば、基底部が20m、頂部が5m、そして、高さ約5mの台形状の土塁です。そして、土塁の外側には堀があったそうで、幅10数m、深さは約4mもあったそうです。」
オレの前頭葉は、1591年に素早く反応した。1591年の前年、1590年豊臣秀吉は、宿敵徳川家康の尾張など中部の所領を取り上げ、旧北条氏の所領であった関東へ追放していた。そして、1591年豊臣秀吉は、日本全国66各国の国人を追放し、士農工商そして、戸口調査で漏れた山の民を被差別民とする、身分法を定めていた。
国人とは、歴史上、北魏の時代に現われた呼称で、「都市に住むひと」の意味だった。
「その御土居の東側はどこまでですか。」
「鴨川の西岸です。」
「鴨川の河原は入らないのですね。」
「ええ。その御土居の中が、豊臣秀吉時代の洛中です。」
鎌倉時代の祇園差別が、豊臣秀吉の時代に蘇ったようだ。
「運転手さん、歴史に詳しいですね。」
「いえね。3年前京都への転勤時には、会社から渡された観光案内書により、通り一遍の京都の歴史知識しかありませんでしたが、2年前ですか、あるお客さんを乗せたんです。そのお客さんに啓発されて、別の角度からの歴史勉強となったのです。先ほど読んでいた「伊勢神宮と天皇の謎」の本も、歴史著述家ではなく、建築士が本業のひとが書いたものです。」
「そのお客さん、どのようなひとでした。」
「京都駅で乗ったのですが、京都の地図に行く先をマークしたものを渡されて、そのコースを回った先々で、色々勉強させていただきました。」
「どんなコースでした。」
「松尾社→上賀茂神社→八坂神社→白鬚神社→伏見稲荷です。」
またしても、オレの前頭葉が反応した。
その各地は、969年安和の変で、「清和源氏」の租となる満仲なる中年男の密告により、嵯峨源氏の流れにある醍醐源氏の源高明が廟堂から追放され、そして、淀川系の猪名川上流の猪名野を、満仲一族に奪われた秦氏一族が、石清水、松尾、賀茂、祇園、深草へ逃れていた地だ。それらの地には、かっては巨大古墳が築かれていた。
「そのお客さんの行動が、ちょっと変わっていたので、鮮明に記憶しています。」
「変わった行動とは。」
「行く先で、一般のひとなら、まず本殿にお参りします。しかし、そのお客さんは、本殿の前で磁石で方位をとり、その本殿の裏へ回るのです。松尾社の時は、その裏山を一気に駆け上っていきました。その質問も変わっていましたね。神社か寺の裏庭に、注連縄を廻らせた石があるところを知らないか、ということです。」
「磐座のことですね。」
「後で調べたのですが、磐座は、アニミズム時代の神のより代などではなく、考古学によれば、その発生は、古墳時代からだそうです。」
オレは、喉の先から出かかる言葉を押しとどめた。古墳時代の日本列島を騎馬民族が支配していたなどの歴史を語っても、今の時代では、変人扱いされるだけだ、と思ったからだ。
「運転手さん、3年も居れば、現地のひとから京都の詳しい歴史を知ることができますね。」
「いいえ。京都のひとは、関東のひとと異なる性格があるようです。微妙な質問すると、「○○でおま、」で一端止め、上目遣いにチラッと表情を観察した後、「おます。」か「おません。」と言う傾向があるようです。その一瞬が、なんとも言えずイヤなので、微妙な歴史的質問もできません。」
「例えば。何ですか。」
「鴨川を挟んで、西側と東側のひとの顔かたちや生活態度が、微妙に違うように感じられるのです。そこで、関西弁を話す初老の紳士に、何のためらいも無く、「穢多」の言葉を発したら、そのお客さんが怒りだして降りてしまったのです。後で、京都在住の同僚に聞いたら、「穢多」の言葉は、近畿一帯では禁句だ、ということです。関東では、それ程の反応がない言葉も、近畿一帯、特に、京都と大阪では、禁句で、ひと前で言うと殴られる、と言われました。」
「そうですか。ところで、先ほど話していた、松尾社などの神社廻りをしていたお客さん、口元にホクロがありませんでしたか。」
「確か、あったように思いますが、お知り合いですか。」
やはり、そのお客さんは、田辺さんだ。オレと同じことを考えていたのか。そうではない。オレが、田辺説を真似して、こうして調査しているだけだ。
運転手さんが指差す方向を見ると、そこは、オレが想像していた御土居ではなく、こんもりとした小型古墳跡のようだった。
堀川通を京都駅方面へ、車は走った。
「お客さん。本能寺跡に着きました。」
「どこですか。ここは。」
運転手さんが指差すところに学校があった。
「ここが、本能寺跡です。織田信長が、明智光秀の謀反により殺害された場所です。」
弾左衛門の居住地跡も学校となっていたのを思い出した。やはり、本能寺の歴史は、消されていたのだ。本能寺は、幅広の深い堀がめぐらされていた。本能寺内へは、細い橋が一本あり、それを落とせば、本能寺は、堀に囲まれた要塞となる。数十分の余裕があれば、堀の下をくぐるトンネルにより、200m先の南蛮寺に行き着く。
織田信長が、本能寺を訪れる時、少人数の護衛しか伴わなかったのは、そのような仕掛けがあったからだ。その本能寺跡を、学校としてしまった。
オレは、運転手さんに、田辺説を解説することをやめた。運転手さんの言葉が、確信をもっていたからだ。ひとは、一度信じたことは、なかなか変更できないことは、出版社カメラマン時代に思い知らされていたからだ。
「最後にひとつ聞いてもいいですか。南蛮寺の跡はどこですか。」
「今は、史跡はないですが、中京区姥柳町あたりです。ここから約200mほどです。これから、どちらまで行くのですか。」
「深草です。」
「伏見稲荷ですか。奈良線で行くといいでしょう。三条駅まで送ります。」
奈良線の稲荷駅を降りると、たそがれ時となっていた。小さな駅の前が、伏見稲荷の参道となっている。紫色の空に、赤い巨大鳥居。それを見ただけでも、霊気を感じた。オレは、今夜の宿、アーバンホテル京都へ向かった。
15分ほど歩くと、ホテル前だ。コンビニで夕飯用の野菜サンド、野菜ジュース、ベビーチーズを買い、フロントで宿泊手続きの時、フロント係りに聞くと、夜明けは、4時一寸過ぎだと言った。
オレは、部屋へ入るなり、ユニットバスでシャワーを浴びた。京都の街歩きで、体中が汗でベトベトだったからだ。部屋着に着替えると、バックの荷物をベッドにあけ、ICレコーダーを取り、机に向かった。
出版社カメラマン時代、取材で聞き漏らすことが多かった。ひとは、他人の言葉を全て聴いているわけではない。自分に興味が無いことは、耳に入らない。入ったとしても、記憶には残らない。
このことを知ってから、取材の時、ひとの話を録音することにした。それに、自分で気づいたことも、メモを取るより、後で再生した時、記憶が鮮明に蘇るからだ。
再生して分かったことは、タクシーの運転手さんは、かなりの早口で、色々な歴史話をしていた。オレは、京都の蒸し暑さで疲れていたので、生返事をして、自分に興味があることだけしか聞いてはいなかったようだ。なにしろ、3時間近くもタクシーに乗っていたのだ。その話をまとめると、

「日本書記」によると、日本の年号が永続的に続くのは、文武天皇(697年〜707年)の時代、701年大宝元年から、現在の平成までだ。
701年以前にも、年号は存在していたが、継続はしていない。
歴史本の古代史や美術史によく出てくる「白鳳」という年号は、大和政権で使った記録はない。「日本書記」にもない。しかし、朝鮮半島で、年号の使用が始まった522年から700年まで途切れることなく続いていた。
その522年とは、「日本書記」によれば、欽明天皇の時代、百済王から、仏像経論を献じられた、とする。
何故だか分からないが、701年以前の日本史に使われていた年号の多くは、古代暦や年号を集めた南北朝時代の本である「二中暦」、「和漢年代記」、「興福寺年代記」、「万葉緯」などの暦法書や、ポルトガル人宣教師ジョン・ロドリゲスの「日本大文典史」、朝鮮史書の「海東諸国記」などに記載がある。
教科書歴史では、4世紀の大和政権を中心に、日本国の領土が日本列島に広がっていったとするが、どうも、古代の日本列島には、7世紀から9世紀まで、奈良盆地の政権だけではなく、「九州政権」、「関東政権」、「東北政権」など、複数の政権が存在していたのではないか。
教科書歴史では、712年「古事記」、720年「日本書記」を基本史料とするが、それ以前に各国の「日本列島史」があったことを窺がわせるのは、797年奏上の「続日本紀」の706年の記述に、元明天皇が年号を「慶雲」から「和銅」に改元し、「山沢に亡命して、禁書を隠しもっているもので、百日以内に自首しないものは、罪は初めのようにする。」、とあるからだ。その禁書とは、何か。
更に、840年奏上の「日本後記」に、平城天皇は、大同4年(809年)詔勅まで出して、「倭漢惣歴帝譜図」を禁書扱いし、「提出しない者は厳罰に処する。」、と述べているからだ。
「倭漢惣歴帝譜図」とは、中国の魯、呉、漢や朝鮮の高句麗の各王家の出身であることを証明する系図をもった家を紹介した書籍だ。
本当の日本列島の歴史を知るには、近隣諸国の歴史も学ぶことで、教科書歴史に書かれていることだけを学習していては、だめだ。

、と、オレの記憶にはないが、熱っぽく述べていた。
オレは、備え付けのポットから湯を注ぎ、紅茶を一飲みすると、京都取材の目的のひとつ、「何故、日本初の民族差別が京都で発生したのか。」、の纏めにはいった。
多くの歴史本では、被差別民である「穢多」の蔑称は、鎌倉時代からだとする。しかし、鎌倉時代は、その幕府税制が不明なように、どのようにして幕府が、人民を統制していたのか分からない。
幕府と武士との経済的関係を、御恩と奉公で鎌倉時代を説明するが、この時代、純粋農耕民の村など、日本列島のどこにも存在してはいない。
その純粋農耕民の村が出現するのは、1591年豊臣秀吉による、士農工商の身分制度により、居住地を限定するまで待たなければならない。
多くの歴史本は、平安時代、天皇家、貴族、寺社に隷属する、被差別民の「芸能者」が発生した、とする。そして、鎌倉時代中期には、天皇家、貴族に替わって、寺社が、軍事力を背景に勢力を伸ばしていく。その寺社に、隷属するのが、被差別民の行人、神人だ、とする。藤原日本史では、「芸能民」や行人、神人は、被差別民の奴隷だとするのだ。
本当に、そうなのか。
田辺説によれば、鎌倉時代とは、モンゴル帝国による国際海洋交易の時代ということだ。モンゴル帝国のフビライは、南宋のアラブ・インドとの国際海洋交易システムを吸収して、国際海洋交易立国を目指した。もちろん、鎌倉時代の日本列島も、その国際海洋交易国のひとつだ。
多くの歴史本が、鎌倉時代は、関東は武士が、関西は朝廷が支配していた、とする。しかし、本当に、武士や朝廷が、日本列島を二分して支配していたのか疑問だ。それは、フビライのモンゴル帝国が興る5年前、鎌倉幕府の記録書である「吾妻鏡」が、1266年不自然なかたちで、記述が終わっているからだ。
藤原日本史での不思議のひとつは、天皇を中心とした政治史をとうとうと述べ、ひとびとの暮らしを支える経済史を述べていないことだ。奈良時代の律令時代は、租庸調の税制で人民を支配していたことは分かる。しかし、平安時代後期から、その律令制度が崩れ、私領の荘園制が広まるが、鎌倉時代になると、その荘園制も崩れて、暴力団まがいの、藤原氏の私兵であった「清和源氏」の末裔が、守護地頭となって、その荘園制が崩壊していく。
そのような時勢に、寺社にも「清和源氏」とは異なる武装勢力が存在していた。それらの武装勢力には、平安時代、藤原氏の陰謀により廟堂を追われ山の民となった、嵯峨源氏、醍醐源氏の末裔も存在していた。その嵯峨源氏の母方の多くは、古墳時代の騎馬民族末裔であった。古墳時代に活躍した騎馬民族の突厥進駐軍は、タタラ製鉄により、各種の鉄製品を製作する産鉄民族でもあった。そして、交易民族でもあった。
鎌倉時代の寺社内は、学僧が寝起きする処だけではなく、武器製造工場、各種生活必需品を生産する工場でもあった。そして、門前市をなす交易所でもあった。それは、朝廷や鎌倉幕府の権力が及ばない、治外法権の不入地だったからだ。
中世の寺社は、イエズス会の傀儡大将、藤原氏の傀儡関白である豊臣秀吉が、1585年、高野山、根来寺、粉河寺を壊滅するまで、それらの寺社が武器製造工場であったことは、1582年イエズス会と藤原氏との武器弾薬取引の場でもあった本能寺で織田信長爆殺と同時に、堺で徳川家康の暗殺を失敗した後、1584年イエズス会の羽柴秀吉(翌年に豊臣秀吉)が、小牧・長久手の戦いで、徳川家康軍を攻めた時、徳川家康は、高野山へ鉄砲製造の依頼をしていた。
この戦いでは、徳川家康軍団が、羽柴軍団を圧倒していたが、何故か、和睦した。
中世の寺社内で、それらのことをなすのが、学僧ではなく、行人、神人と呼ばれる者だ。武器製造や交易などで、寺社の経済を支えていたのは、読経する学僧などではなく、行人、神人、或いは、聖と呼ばれた、僧形の者達だ。
それらの行人、神人は、戦闘時には、甲冑姿で武装勢力の構成員ともなる。そして、平和時には、各地の寺社に物資を運ぶ交易人ともなる。
寺社への国家権力の不入を武力で護り、そして、モンゴル帝国との国際海洋交易で、寺社の経済を支えていた行人や神人が、藤原日本史が述べているように、寺社に隷属していた、とは考えられない。
つづく


03. 2015年1月07日 00:36:38 : Y7DCGUFcdQ
藤原日本史では、鎌倉時代は、元寇などの対外危機により、社会が混乱し、それにより庶民は疲弊し、そこで、疲弊した遊行する庶民を救うため、鎌倉新仏教が興った、とする。

しかし、田辺説では、元寇は、モンゴル帝国軍団の来襲ではなく、1274年文永の役は高麗残党軍で、1281年弘安の役は南宋残党軍の亡命大船団だったとする。

オレは、教科書歴史で習得していた知識により、初めは、田辺説を信じることはできなかったので、古本屋漁りにより、元寇の謎を調べた。
元寇という言葉は、鎌倉時代には、南宋から亡命して来た禅宗組織や貴族の一部しか知られていなかったようだ。元寇の言葉が庶民に広まったのは、対外危機の深まる幕末維新の時期だ。そして、明治以降の歴史教育のなかで、国家意識を高揚させる恰好の教材として利用された。それが、「神風」により、外敵からの危機が救われる「神国ニッポン」の誕生だ。

藤原日本史によれば、1274年(文永11年)蒙古軍が、対馬、壱岐を侵し、肥前、筑紫に上陸したが、大風雨により船が遭難したことにより、一夜にして大船団は消えた、とする。

鎌倉幕府の記録書「吾妻鏡」は、1266年突然、不自然なかたちで記述が終わっている。しかし、鎌倉幕府は、その後、77年間も存続していたのだ。1266年以降の記録を掲載できなかった事情があったはずだ。

その1266年、モンゴル帝国のクビライは、日本国に使者を派遣したが、目的を達せず帰国した。1268年クビライは、朝鮮国王に日本への使者派遣を命じ、来日した。その詔書には、「兵を用いるに至っては、夫れ孰れか好む所ならん。」、とあった。

藤原日本史では、そのモンゴル帝国の使者を追い返したり、そして、斬首した、とするが、毎年のように使者が来日していたようだ。そこで、1274年モンゴル帝国軍が、日本列島征服のため来襲した、とする。

1266年から、第一次元寇までの8年間、何故、モンゴル帝国軍は、来襲してこなかったのか。

その謎解きは、古文書「高麗牒状不審条々」にある。その古文書は、高麗国王の書簡、1268年と1271年との記述内容の食い違いを列記したものだ。それによれば、1268年の国書では、蒙古の徳を讃えていたが、1271年には、「韋毳は遠慮なし」、「被髪左衽は聖賢の悪む所」、と述べている。更に、「江華に遷宅して40年に近く、、、、仍ちまた珍島に遷都す。」、云々とある。

1271年高麗残党軍は、日本国に援軍を頼んでいたのだ。モンゴル帝国軍と闘うために。
1258年高麗は、クーデターにより崔氏政権が倒れると、元に降伏の意思を示した。しかし、江華島を実効支配する高麗王室は、武臣の金氏、林氏に支えられていた。
1270年林惟茂(イムユム)が倒れて武臣政権が完全に終わりをつげたが、三別抄の部隊が決起し、モンゴル帝国軍への抵抗をつづけた。

三別抄とは、武臣政権時代に創設された高麗の正規軍で、30年間のモンゴル帝国軍との戦争を担ってきた軍事力の中核だ。
三別抄を率いる「仲孫(ペジュンソン)は、1、000艘の兵船で江華島を脱出し、王族のひとりを推戴して正統政府を自称した。そして、全羅道の珍島に本拠地を置いて、全羅道一帯を制圧した。

しかし、1271年モンゴル帝国軍の攻撃により、珍島が陥落すると、三別抄は、済州島へ移って抵抗をつづけた。古文書「高麗牒状不審条々」の1271年国書は、この時の亡命高麗国の書簡だった。

1273年三別抄の軍団が、完全に鎮圧された。この翌年、1274年、対馬沖に亡命高麗大船団が現れた。これが、藤原日本史が述べる、第一次元寇の実態だ。第二次元寇の実態は、田辺説と同じだった。

モンゴル帝国は、土地の支配などには興味がない。モンゴル帝国は、国際自由交易により、関税や交易民の移動の安全を保証するための税や塩税を国税の基盤としていたのだ。

鎌倉時代にあったとするモンゴル帝国の「二度の元寇物語」に真実性がないのは、もし、北九州に、二度もの蒙古来襲があったとするならば、北九州地域に民間伝承として、今日まで残っているはずだ。

しかし、北九州から遠方の秋田地方では、昭和の時代まで、子どもの躾として、「モッコが来るドー」、と脅していた。「モッコ」とは、蒙古のことだ。何故、日本海沿岸の秋田地方に「蒙古来襲」の史実がないのに、そのような躾言葉が、昭和時代まで続いていたのか。

それは、蒙古来襲を逃れるために、高麗や南宋から亡命して来た、農機具や種籾を満載した大船団が、対馬海流に乗り、日本海沿岸の秋田地方に漂着していたからだ。
鎌倉時代には、藤原日本史が述べるように、被差別民も、それらを救済する鎌倉新仏教も、存在していなかったようだ。すると、被差別民や鎌倉新仏教が現われるのは、室町時代なのか。
つづく


04. 2015年1月17日 17:30:38 : gOL2w1nHMI
田辺説によれば、室町時代とは、「清和源氏」とする足利氏が、武力により全国を支配していたわけではなく、近畿一帯、それも京都を拠点としていた地方武家政権だとする。その足利政権は、足利氏一族の単独ではなく、多くの武人氏族による連合体組織だとする。室町時代も、鎌倉時代と同じに、武力により、日本列島全土を統一支配していたわけではないようだ。

被差別民が発生するには条件がある。それは、「誰」が「誰」を被差別民とするのか、ということだ。
イジメの原則として、イジメる者は、イジメられる者よりも、武力的に絶対的有利な立場にいなければならない。その武力を保持するには、経済的な支えが必要だ。つまり、武力的・経済的弱者は、武力的・経済的強者をイジメることは、絶対的にできないのだ。
公の場で、「穢多」などの差別語をヘイトスピーチする者は、武力的・経済的強者のバックアップが存在していなければ、できることではない。

では、平安時代末期の洛外での院政政権樹立から始まり、戦国時代末期の豊臣秀吉による士農工商の身分制度による兵農分離で終焉する中世では、「誰」が経済的強者だったのか。

それは、天皇家でも、貴族でもなく、藤原氏や亡命百済貴族末裔の「日記」、そして、寺社史料により、賎民とされた、行人と呼ばれた寺社内で、経済活動をしていた者達だ。その行人は、戦闘時では、各地の寺社と連携する組織を持ち、鎧兜で武装する武人ともなっていた。

1089年、白河上皇による院政により、中世が始まると、藤原氏によるロボット天皇の権威が失墜し、藤原氏の私領である荘園からの収入が激減し、藤原氏一族の経済も疲弊していく。では、中世、藤原氏などの貴族は、どのような経済活動により生活費を稼いでいったのか。

1093年僧明範が、中国北辺を支配する、漢族の宋から毎年大量の絹と銀とを貢がせていた、騎馬民族の契丹族の遼(916年〜1125年)に、武器を売却していたとして逮捕された。後の調べにより、僧明範は、太宰権帥の藤原伊房の手先として、死の商人の役を勤めていたことが判明した。

藤原氏の租は、古墳時代末期から南インドと南九州の坊津とにより、南海交易をおこなっていた。そして、戦国時代では、イエズス会の拠点マカオとの交易により、種子島→根来→本能寺のルートにより、武器弾薬の密貿易をおこなっていた。

では、その遼に売却していた武器は、何処で製造されていたのか。
律令国家の後ろ盾となっていた唐帝国の軍事力が疲弊していくと、鎮護国家を唱える国家公務員である僧の経済も疲弊していった。
平安時代初期から、寺院では、生活費を稼ぐため、金融活動が行われるようになった。主な金融拠点は、比叡山、熊野、高野山だ。その金利は、100%を超えていた。しかし、寺院により、貴族や民衆に地獄思想を吹き込んでいたことで、仏罰、神罰があたるという恐怖により、遅滞なく取立てができた。

1078年頃、藤原氏の私兵である「清和源氏」という盗賊団が、東北、関東を荒らし回る藤原時代、寺僧による金融活動から、比叡山に行人組織による金融活動が台頭してきた。それは、寺社が、その清和源氏という盗賊からの攻撃を防衛するため、行人を寺社内に招いたからだ。藤原日本史では、その行人を、僧兵と述べる。

鎌倉時代の世となると、「私権断」により、権断得分による私有地の簒奪を目論む、盗賊のような守護・地頭の台頭により、天皇家や貴族と同様に、私領である寺領からの収入が激減することに対し、守護・地頭からの武力による防衛と、新たな収入源を求めることになる。

中世の寺僧は、悟りを求めるために出家した個人の集合体なのではなく、僧の家(生活費を稼ぐための集団)という世襲の職業集団となっていた。
国家警察としての任務を遂行できない鎌倉時代では、自分の身は自分で守る(現在の建設業界のスローガン)こととなっていた。ここに、金ピカの衣装で武装する騎馬武者、私設武装警備隊の「悪党」の出現となる。企業体としての武装集団は、それぞれのシンボルマークを考案した。それが、武家の家紋だ。武家とは、武力により生計をたてる職業集団のことだ。

中世、武器は、生活を護る必需品であった。その流れにより、武器製造と備蓄は、寺院の産業の主要となった。平安時代初期、金融活動で生計を立てていた熊野も例外ではない。熊野の鍛冶は、頬当を製造していた。
室町時代以降、高野山、根来寺周辺地域の文献には、行人という語が多く現われるが、学侶などの言葉は、ほとんど現われない。
1450年、山伏を殺害したことにより、諸国の山伏が集まり、和泉守護細川常有の邸へ押し寄せ、新熊野の神輿を振りたてる準備を始めると、細川常有は屈服し、下手人二人、罰金120貫、田地16ヘクタールを渡して決着をみた。

藤原日本史が述べる山伏とは、白装束でほら貝を吹く修験者のように描写するが、仮にも、室町幕府の御家人が、そのようなただの宗教者集団に屈服するわけがない。
山伏とは、平安時代に、百済系桓武天皇や藤原氏の陰謀により、京などの平地を追われ山に逃げ込んだ嵯峨源氏や醍醐源氏である武士の末裔で、甲冑で武装する山に居住する武士のことだ。
藤原日本史では、賎民とされる山伏に守護が屈服する室町時代には、「穢多」のヘイトスピーチなど、公には言えない。せいぜい、「日記」に書き留めるのが関の山だ。

すると、騎馬民族を「穢多」とする民族差別の始まりは、戦国時代なのか。
戦国時代、三大武将が出現した。それが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だ。しかし、不思議は、その三武将の姓だ。藤原信長、藤原秀吉、藤原家康、と名乗っていた時代があるからだ。何故か、疑問だ。

つづく


05. 2015年3月24日 00:09:13 : dQkfubUk3E
一息つくために、ティカップを口に運んだが、干からびたティバッグがあるだけだった。ポットから湯を注ぐ間に、デスク上のテレビにリモコンでスイッチした。

「、、、京都でのヘイトスピーチ行動が、東京、大阪につづいて波及していることに対して、識者は懸念の声を上げています。次のニュースです。スイスの世界的製薬メーカーの日本法人N社で、治験データの改竄があった模様です。昨年暮れ、厚生労働省の機関に、外部から告発があり、極秘に調査を行っていましたが、うつ病治療薬の製造販売承認の申請で、データの改竄があった模様です。この申請に携わっていた世話人を補佐していたのは、N社の社員で、現在、海外に出張中で、帰国次第、事情聴取する予定です。では、これで今夜の最終ニュースを終わります。」

オレは、うつ病の言葉に反応した。そして、田辺さんのことを思い出した。田辺さんとのコンタクトの不自然な終わり方は、この事件に関係があるのか。
そういえば、田辺さんは、「日本書記」物語は、上町台地を拠点とする大阪秦王国の存在を抹殺するために、藤原不比等が創作した、と言っていた。
それは、古墳時代の6世紀、上町台地を掘削して、中国ニンポーの内陸港湾都市を真似て、国際港湾都市を築いていたことが分かると、突然、4世紀に奈良盆地に大和政権が誕生したとする物語が、根底から崩されることになるからだ。
藤原日本史では、大阪の歴史を、古代の灘波宮の政治都市、そして、中世の石山本願寺の寺内町の宗教都市、近世では、大阪城下町の政治都市から商業都市へと変換して行った、とする。
この歴史的流れを説明するため、藤原日本史では、古墳時代の終わりごろに形成された灘波津は、飛鳥時代に孝徳天皇が灘波に都を遷してからは、住吉津に替わって、畿内の海の玄関口となったが、793年灘波の都が廃されると、淀川系の水路開発のため、灘波津は衰退し、歴史上忘れ去られた、とする。
しかし、大阪の中心地の地下から発掘される遺跡や遺物によれば、平安時代末期から室町時代末期までの中世の灘波津(渡辺津)は、繁栄していたことが分かる。何故、藤原日本史は、平安時代からの灘波津(渡辺津)の歴史を消していたのか。
灘波津(渡辺津)の遺跡では、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代の中国大陸との交易品遺物が多数見つかっている。
その中でも、輸入陶磁器は、8世紀の終わりごろから、古代が終わる11世紀前半まで、都や地方の役所、寺院など、限定された交易体系の中で流通していた。
しかし、中世になると一変し、中国産の青磁器や白磁器を代表例とする輸入陶磁器は、日本列島の広範域に出土するようになる。それは、国際交易民が、日本列島を行き来していたからだ。中世は、河原者の貧民が流浪する時代ではなく、河原(河岸=河の港)での交易民が活躍する、国際交易時代だった。
国際交易には、外洋船が使われる。その外洋船から運ばれた国際交易品は、外洋船が停泊することが出来る港湾を必要とする。浸水の深い外洋船は、底が浅い河を遡れないため、内陸に運ぶための荷捌き地が必要なためだ。当時の日本列島には、外洋船と河舟とが交流できる、内陸型港湾都市は、灘波津(渡辺津)しか、存在していない。
大阪の大川に隣接する天満の発掘では、梅瓶(メイピン)の破片が見つかっている。梅瓶は、当時、一種のステイタスシンボルとして輸入されていた。
梅瓶は、朝鮮高麗王朝時代の13世紀後半に焼かれた高麗青磁器だ。13世紀後半とは、日本列島では、鎌倉時代で、1274年文永の役、そして、1281年弘安の役の「元寇」があったとされる時代だ。
その元寇来襲物語は、中国南宋から亡命して来た、律宗の西大寺叡尊が、元寇の来襲を、神々に命じて、「神風」を吹かせて防いだからだ、とする吹聴により後世に広まっていった。
中国大陸から、海を渡ってきた陶磁器の破片は、13世紀後半から14世紀中頃にかけて、天満の地に、特別な器を持つことが出来る階級の人物が住んでいたことが示唆される。
中世、この付近に住み、渡辺津の内陸湾の管理をするかたわら、付近の水軍を統率していた、嵯峨源氏を租とする、渡辺氏の存在が示唆される。渡辺綱から4代目源正から、北九州を本拠地とする水軍、松浦氏が現われる。
15世紀後半、室町時代末期、渡辺を訪れた興福寺の僧尋尊の日記に「渡那部」(わたなべ)に着いて、「浄土堂」に詣でた、との記述がある。堂とは、古代新羅では、「タン」と言い、神社(モリ)の原型だった。
その渡辺の地が、近年まで特定できなかった。しかし、発掘の遺跡、遺物により、船場の北端部から東横堀川を東に越えた坐摩神社御旅所付近までが、渡辺の集落範囲と考えられる。
中世までは、その港湾都市渡辺は、大川を下ると大阪湾から瀬戸内海や東日本へと通じ、更に、北九州の松浦から、中国大陸、東南アジアへとつながる、国際交易港湾都市だった。しかし、16世紀、豊臣秀吉により、渡辺の地は、上町台地を削り取られた残土により埋められ、大阪城下町が造成された。それが、船場だ。
何故、藤原秀吉と名乗っていた豊臣秀吉は、渡辺の地を、残土で埋めなければならなかったのか。
田辺さんのレポートでは、織田信長は、1549年頃、藤原信長を名乗っていた。そして、松平元康は、1560年桶狭間の合戦後、藤原信長と同盟し、今川氏真と絶交し、名を家康と改めた。この戦国二武将を仲介した人物が居た。それが、近衛前久(さきひさ)だ。近衛前久は、松平元康から、徳川家康を命名した人物だった。
近衛前久は、1554年関白太政大臣となり、藤原長者に就任していた。その近衛前久の姓は、藤原氏だ。
奈良時代には、天皇をロボット化して、政治を牛耳っていた藤原氏も、平安時代中期から末期にかけて律令制度が崩壊した、武力が正義である中世では、需要の多い武器を、各国の戦国武将に販売して、生計を維持しなければならない存在となっていた。
武器の販売先を求めて全国を流浪する貴族が、近衛前久だった。
藤原氏の日本列島支配の戦略は、絶対神である現御神の天皇の存在を利用して、人民を支配することだった。それには、宗教による人民の「呪縛」が必要だった。しかし、政治と宗教とが分離した中世では、武力が人民を支配する時代だ。平安時代末期からの中世では、政治の中心であった「院」も、巷では「いぬ」と蔑称されていたのだ。
藤原長者の近衛前久は、天皇に替わる、武人を物色していた。その手始めが、1559年越後国から上洛してきた長尾景虎(後に上杉謙信)だった。
戦国時代の京都は、日本列島最大の武器市場の地だ。しかし、ザビエル渡来以前には、武器としての銃は、販売されてはいなかった。
その6年前、1553年後奈良天皇は、長尾景虎に与えた論旨に、「弥よ勝を千里に決め、宜しく忠を一朝に尽す。」べし、と命令を与えていた。これにより、長尾景虎は、関東、信濃への侵略行動にでた。
1561年近衛前嗣(後に近衛前久)は、長尾景虎の関東平定を助けるために、上野、下野に赴いていた。その上野は、奈良時代では、上毛野と呼ばれ騎馬民族が多く暮らす地で、古墳時代では、東国最大数の古墳が築かれていた地だ。そして、太陽信仰民族である阿弥一族の血を引き継ぐ徳川家康の租地、群馬秦王国があった地だ。
しかし、長尾景虎は、武田氏と北条氏との二面作戦により、関東平定とはならなかった。
そこで目に付けたのが、親族をもだまし討ちで消滅させ、尾張一帯を支配していた伊勢のゲリラ隊の大将、織田信長だった。
鎌倉時代からの武器商人でもある藤原氏は、戦国時代末期には、イエズス会との接触により、戦国武将に、京都本能寺を拠点として、銃・弾薬を売りさばいていた。
1494年ポルトガルとイスパニア王国は、世界を二分して支配する、トルデシリャス条約を結んだ。ポルトガルは、インド、中国、そして、日本の西国を領土として支配することを、バチカンの教皇から許された。
1543年ポルトガル船が種子島に漂着と、藤原日本史は述べるが、その船には、ポルトガル人と伴に、明の儒生と倭寇の王直が同乗していた。種子島は、鍛冶職人の地で、そこでは鍛造による武器を製作していた。
そのポルトガル船は、種子島に漂着などではなく、武器商人である藤原氏の貿易基地がある、南九州坊津を目指していたのだ。
その鹿児島の坊津は、古墳時代末期、藤原氏の交易居留地で、平安時代、藤原氏の荘園である島津荘があったところだ。藤原氏の租は、古墳時代から、南インドとの南海交易をおこなっていた民族だ。
倭寇の拠点のひとつが、日本の五島列島であったので、倭寇=日本人、と捉えられているが、倭寇の構成人種は、中国、朝鮮、日本、ポルトガル、スペイン人の混成だ。その五島列島には、長崎県で最大幅の直線道路があるのは、古墳時代、五島列島は、宋のニンポー港への中継地であったからだ。
1549年国際商人の裏顔を持つ、ザビエルが、鹿児島を訪れた。
ザビエルが鹿児島から送った手紙には、「大阪港町にポルトガルの出張所をかまえ、大阪へ集まる日本産出の金銀と、ヨーロッパの品物とを交換するならば、多くの利益があり、これは国王にとっての大きな利益になる。」と、あった。
ヨーロッパの国際商人には、鎌倉時代の日本列島は、ジパングとして「黄金の島」として認識されていたが、室町時代には「銀の島」として認識されていた。
それは、モンゴル帝国の海洋国際交易から引き継ぐ、ヨーロッパと中国大陸との交易では、通過として、中国古来からの通貨であった銅銭ではなく、銀が使われていたからだ。
その銀と金との交換比率は、中国大陸では「12対1」に対して、ヨーロッパと日本列島では「10対1」であった。この差益は大きく、ヨーロッパの国際商人は、「銀の島」=日本列島に押し寄せてきた。イエズス会もその中の一員だ。
日本列島は、古墳時代から銅の産出国で、ローマ帝国との絹馬交易をおこなっていた騎馬民族は、その日本列島産出の銅を、幅広の直線道路や河船を利用して、朝鮮半島や中国大陸に、国際交易品として、絹製品を得るために持ち込んでいた。古代から近世にかけて、朝鮮半島や中国大陸では、極わずかしか銅が産出されていなかったからだ。
このことにより、古墳時代の、北陸道、東海道、東山道の幅広の直線道路が、東国の日本列島から、西国を経て、北九州から五島列島まで敷設されていた「意味」が分かる。日本列島の東国の山脈の尾根麓に敷設された東山道は、東国の各地の山々から産出された荒銅を運び出す幹線道路だった。その根拠のひとつは、その東山道近辺からの古墳から発掘される「馬の骨」だ。
奈良時代、奈良の三笠山の古墳を掘りぬいて巨大銅像、「遍照鬼」(平安時代、空海が大日如来と改竄)が鋳造されたのは、日本列島が、東アジア最大の銅産出の地であったからだ。
平安時代初期、錬金術師空海は、唐に渡り、銅、銀、水銀の探鉱技術を学んでいた。四国の霊場の近くには、銅鉱山があるのは、そのためだ。空海が開発した高野山の地には、中央構造線の鉱脈がある。空海が拓いた四国の霊場の多くは、その中央構造線に沿って築かれていた。
室町時代、日本列島に、荒銅から銀を取出す、南蛮吹きが伝えられた、と藤原日本史は述べる。
しかし、異なる金属を含んだ鉱物から、金を溶出する技術は、紀元前7世紀のスキタイ帝国により開発されていた。そのスキタイ帝国は、黄金文化国だった。
騎馬民族の租スキタイ帝国では、アマルガム法という金メッキの技術を開発して、金銅製の装飾品を多く製造していた。その技術は、水銀と金との融合物を、銅に塗布して、過熱する。すると、水銀が蒸発して、金だけが銅に付着するのだ。
その金メッキされた金銅製品は、紀元前3世紀に興った、東北アジアの匈奴の古墳からも発掘されている。そして、紀元4世紀に興った、古代新羅の慶州の古墳からも、多くの金銅製の装飾品が発掘されている。
その古代新羅から渡来した民族が、日本列島各地に円墳を築いていく。そして、古墳時代中期の6世紀、上町台地の北端を開掘した大川に、宋の内陸型港湾都市を真似て、内陸型港湾を築いていた。それは、中国大陸との国際海洋交易のためだ。
室町時代に伝わったとされる南蛮吹きとは、銀を含む荒銅の合金を加熱して、銅とその他の金属とを分離する精錬法だ。鉛と銀とは結び合う。しかし、鉛と銅とは結び合わない。その性質を利用して、銅が溶ける前の温度で加熱して、銀を含んだ鉛を溶出する。銀を含んだ鉛は、貴鉛という。
その貴鉛を、炉中に灰を敷いて、その上で貴鉛を加熱すると、鉛が酸化されて灰中に染込み、銀が灰の上に残る。これが、灰吹き法だ。
この灰吹き法により、石見の銀山近くの港には、ポルトガルや中国大陸の商船等が多く渡来した。しかし、その石見一帯には、外洋船と河船とが交流できる港がない。
大阪の内陸型港湾都市渡辺の地下からは、銅の精錬所跡が発掘されている。渡辺は、古墳時代から戦国時代まで、国際交易湾であった。
平安時代末期、アラブ系国際海洋交易民族を租とする「平家」も、この上町台地の難攻不落の渡辺の地を、攻略できなかった。だから、福原の大輪田泊を、日宋交易の港とした。しかし、そこは、瀬戸内海と接した港で、嵐を防げる内陸港ではなかった。
平安時代末期の「源平合戦」で、アラブ系「平家」と、ユーラシア大陸から渡来した源義経との「屋島の合戦」では、近畿一帯の武力援助が得られなかった源義経軍は、渡辺津から出撃していた。
藤原日本史では、屋島の合戦で、源義経は、渡辺の漁村から、数隻の小さな釣り船で出撃したように描写している。
しかし、史実は異なるようだ。それは、北魏源氏を租とする源義経と、日本列島源氏を本流とする嵯峨源氏の渡辺氏とは、騎馬民族の同族だからだ。そして、その渡辺党には、同族の水軍、松浦党がいたからだ。
ポルトガルが、日本列島の西国(イスパニア国の支配予定地は、日本列島の東国)を支配するには、その国際交易の中心である渡辺の地を簒奪する必要がある。
ここに、大阪の港を支配下に置きたいイエズス会と、大阪秦王国の歴史を消したい藤原氏との共同行動が開始される。
そのイエズス会は、右手に聖書、左手に武器を持つ、聖俗併せ持つ、戦闘的宗教団体だった。
ポルトガルの世界戦略の第一候補地のインドも征服(布教)に手間取っていたが、1542年ザビエルが渡来すると、瞬くうちに、ゴアがイエズス会の支配地(布教地)となった。
それは、1540年イエズス会を創設した、騎士団の前歴を持つイグナティウス・デ・ロヨラのスローガン、「私の意図するところは、異教の地をことごとく征服することである。」、を、イエズス会が圧倒的な武力で実現したものだ。
東インドを制圧したザビエル一行は、次の布教地(征服地)日本列島へと向かう。その中継地マカオで、日本国の情報を入手する。
インドは、ヒンズー教やイスラム教、更に、人民を分離統治するカースト制度で、国を護る強力な武力も思想もなかった。このような国は、銃や大砲で武装する100名ほどの軍団で、簡単に制圧することが出来る。しかし、日本列島は、インドとは事情が異なっていた。ヴァリニャノの「東インド巡察記」には、日本列島の政治情勢が次のように報告されていた。

日本は、その全域が様々な島嶼からなっている地域で、三つの地方もしくは主要な島々に分かれており、以上の全域を合わせると国内には66の小国がある。最も重要な地方は一つの巨大な島で、53の王国がある。その島の中央には日本全土で最も重要な都市があり、日本全体の支配者であった国王が居を定めている。この都市はミヤコと呼ばれている。この国王は、かって、日本全土の唯一にして真の王であり、上述の諸国に自分の総監たちを置いていた。ところが今や、国王は日本全土に一つとして領国を持ってはいない。その理由は、国王の総監たちが謀叛を起こし、その誰もが自分のために手に入れられるものは悉く手に入れてしまったからである。国王には、一切のものの上に立つ威厳と優越性、それも現実的なものというよりはむしろ形だけのものしかのこらなかったのである。

オレは、この報告書にある、「日本列島が66の小国に分かれている。」、との記述にヒッカカル。それは、京都祇園会が、平安時代の869年発祥したとする時期、日本全国66ヶ国にちなんで66本の鉾を作らせた、とあるからだ。
日本列島は、平安時代から戦国時代まで、66ヶ国の小国で構成されていたのか。すると、大阪秦王国も、その66ヶ国のひとつである可能性も否定できない。
通説では、浅草弾左衛門の租は、平正盛の配下の秦左衛門尉武虎で、平正盛の逆鱗を逃れ、鎌倉へ落ち延びた、とする。その武虎は、鎌倉長吏の棟梁となり、秦氏を弾氏と改めた、とする。その流れに、藤原弾左衛門頼兼がいた、とする。
しかし、田辺説では、弾左衛門の一族は、平安時代ではなく、戦国時代末期、1591年豊臣秀吉による全国66ヶ国の国人払いにより、大阪秦王国が壊滅し、関東に逃れた、とする。
藤原信長、藤原秀吉、藤原家康、そして、藤原弾左衛門頼兼、何故、藤原の姓を名乗っていたのか、不思議だ。
律令制度が崩壊した平安時代末期以降、天皇家や貴族たちの経済基盤が崩れた。
鎌倉時代、モンゴル帝国の国際海洋交易時代には、国際物流の媒体として「銀」が貨幣として流通していった。その貨幣の媒介者のひとりとして、座頭がいた。座頭は、表芸としては、座頭琵琶を演奏して「平家物語」を語るが、裏芸としては、高利貸しを行っていた。
そこで、官職の肩書きが欲しい座頭と、生活費が欲しい貴族とが共生することとなる。その貴族の一つが、久我家だ。久我家は、全国を遊行する座頭集団を統率する当道座を開いて、本所となった。生活費を得るためだ。
戦国時代になると、貴族は、生活費を得る手段として、猶子制度を利用した。
猶子とは、相続を目的とせず、官位などの昇進上の便宜のため、仮親の権勢を借りることだ。このことにより、経済的に困窮した猶子親は、経済的に裕福な猶子から、経済援助を得られる。
藤原弾左衛門頼兼の猶子親は不明だが、藤原信長、藤原秀吉、藤原家康の猶子親は、ある目的のために全国の戦国大名を訪問する貴族、藤原氏の姓を持つ、近衛前久だ。
近畿一帯を支配した尾張のゲリラ大将織田信長の軍事的勝利から、姓も苗字もない出自不明の豊臣秀吉による大阪秦王国抹殺までの軍事活動の裏には、日本イエズス会のキリシタン大名高山右近を「夷」として利用する、近衛前久の影があった。
近衛前久は、徳川家康に対しては、その存在の抹殺を謀っていたようだ。
1564年三河一向一揆が勃発した。この一揆の影には、浄土真宗本願寺派が暗躍していた。徳川家康の家中には、本願寺門徒が多くいた。吉良義昭、酒井忠尚、そして、徳川十六将に数えられる蜂屋貞次、渡辺守綱、本多正信らが、反旗を翻した。
この合戦は決着せず、和議となった。しかし、徳川家康は、帰順した武士に寛大な処置をとり、多くは再び召抱えられた。
その一方、徳川家康は、浄土真宗本願寺派の禁教だけは徹底して行い、以後20年間、羽柴秀吉が関白豊臣秀吉に変身するまで、三河では浄土真宗本願寺派の存在を許さなかった。
藤原日本史では、一向宗は、浄土真宗本願寺派のように説明する。しかし、田辺説では違う。
田辺説では、藤原日本史では浄土真宗本願寺派を一向宗とするが、一揆の中核は一向衆だ。一向とは、ひとびとが何かの目的に向かって、心をひとつにすることだ。本来、これは、一味同心とすることだ。一味同心とは、同心を誓う際に神水をくみかわすことをさす。この流れに、役座の兄弟仁義の「水杯」の儀式がある。
その一向衆の歴史的登場としては、奈良時代の行基集団がある。一向衆の行基集団は、河川の土木建設事業を行う集団で、宗教集団ではない。古代から近代まで、河川は物流の主流だった。
藤原日本史は、一向衆の本質を、宗教団体の一向宗として改竄しているのは、何故だ。
この三河一向一揆の原因は、宗教問題ではなく、経済問題だった。
徳川家康は、三河三カ寺の本証寺、上宮寺、勝曼寺の不入権を否定した行動に出た。その三カ寺では、金融活動の中心地だった。戦国時代の寺院での経済活動は、無税であったからだ。その対岸、西三河は、浄土真宗本願寺派教団により物資流通が掌握されていた。
戦国時代の武士は、専業武士ではなく、副業として各種の経済活動を寺院を拠点としておこなっていた。この時代、武士の主従関係は未成熟で、主君個人に属していた、人格的結合関係だった。これは、現在の役座の親分子分の主従関係と同じだ。
このような時代、徳川家康の家人が、浄土真宗本願寺派の門主の命令に従って、一揆を起こしていたわけではない。
この寺院での副業を否定する徳川家康の行動に対して、一向衆が行動を起こしたのが、三河一向一揆だ。
では、何故、徳川家康の家人が、浄土真宗本願寺派となっていたのか。
藤原日本史や中世の歴史本では、鎌倉時代、遊行する貧民を救済するために、鎌倉新仏教が興った、とする。では、その貧民を救済していたとする仏教僧は、何語で説教をしていたのか。
鎌倉時代中期、モンゴル帝国に敗れた南宋から、多くの禅僧が亡命して来た。その結果、漢字の発音が混迷した。漢字の発音は、奈良時代の呉音、平安時代の漢音、唐音があったが、南宋の禅僧は、杭州音で漢字を発音した。塔頭をタッチュウ、典座をテンゾ、法堂をハットウ、そして、和尚をオショウと発音していた。因みに、比叡山では、和尚をカショウと発音していた。
更に、日本列島では、明治初期まで、一山越えれば、言葉が通じなかった。しかし、文章だけは、全国各地で通用した。明治政府初期の会議は、発音では通じないため、込み入った議論は、筆談でおこなっていたほどだ。
そのような日本列島で、漢訳仏教の思想により、「言葉」により、庶民を救済できるはづはない。では、何故、浄土真宗本願寺派は、騎馬民族末裔の徳川家康の家人に布教できたのか。
それは、悪人正機説などの教義ではなく、葬儀だ。
古代では、死体遺棄に近い葬法だったが、鎌倉時代に亡命して来た禅宗により、漢訳仏教も、送葬、葬祭への傾向を深めた。
禅宗の修行の戒律は厳しく、動物性蛋白の接取を禁止されていた、ヒンズー教の流れにある菜食主義の禅修行僧は、若くして死ぬ者が多く居た。そこで、禅寺では、その修業途中の若い有髪の修行僧を、剃髪して葬った。
モンゴル帝国との国際海洋交易により、日本列島の住民の生活も豊かになっていた。それまでは、死者は死体遺棄だったのが、庶民に、禅僧の葬儀儀式が受け入れられていった。
室町時代、死のケガレを嫌う天台宗、真言宗は、次第に衰退していった。ここに葬儀と造墓(漢訳仏教勢力から賎民として垣内に押し込められていた租を持つ織田信長が破壊していた阿弥陀地蔵の「石仏」は、鎌倉時代中期から登場)を積極的に行う、室町新仏教の勢力が伸びていった。そして、その室町新仏教は、権威付けのために、鎌倉時代での開祖物語を創作した。その一人が、浄土真宗本願寺派の開祖とする、親鸞だ。
では、騎馬民族末裔の徳川家康の家人の多くが、何故、浄土真宗本願寺派に属していたのか。
それは、浄土真宗本願寺派は、従来の漢訳仏教思想を全面的に否定し、更に、藤原氏が発明したアマテラスオオミカミを祀る中臣神道も否定し、そして、死者は剃髪せず、燃やさず、生前のままで土葬する儀式を開発していたからだ。
騎馬民族は、勇者は再生すると信じていた。だから、古墳は、土の家で、塚とよばれていた。その土の家で、死者は、再生するまでの時を待つのだ。
しかし、漢訳仏教では、死者はケガレで、不浄物だから、燃やして、成仏(浄物)させる。
この葬儀法により、蓮如が発明した葬儀法が、騎馬民族末裔の徳川家康の家人に広まっていった。しかし、賎民とされる阿弥一族末裔の徳川家康は、その浄土真宗本願寺派の真の目的を知っていた。
浄土真宗本願寺派の信者は、門徒と呼ばれていた。その門徒には、二種類あった。それは、「門徒」と「カワラ門徒」だ。浄土真宗本願寺派では、血縁で教団を繋ぐ門主側では、騎馬民族末裔を、影では、「カワラ門徒」として差別していたのだ。
だから、近衛前久は、河原者である賎民の流れにある、阿弥一族の徳川家康に接近し、その抹殺を企画していた。
1582年織田信長の本能寺での爆殺と同時に、イエズス会のミヤコ地区の拠点である堺での暗殺未遂。お庭番の情報により、徳川家康・家人一同は、伊賀越えで難を逃れた。
1584年猶子藤原秀吉による小牧・長久手の戦い。劣勢の豊臣秀吉軍は、近衛前久の仲介で、徳川家康軍と和睦した。
1590年太閤豊臣秀吉による、中部支配地・駿河、遠江、三河、甲斐、信濃から、徳川家康一族の関東強制移封があった。この強制移封には、藤原氏の陰謀があった。
それらの延長線上に、京都洛中を囲む、城壁の建造が、1591年から始まった。この京都洛中を囲む城壁により、藤原氏が、古来より望んでいた、古墳時代を築いていた騎馬民族末裔を洛中から排除し、そして、限定地に隔離することにより、その騎馬民族の歴史を抹殺する空間が完成した。

日本列島での民族差別のイジメの歴史的発祥は、戦国時代の京都だった。

その根拠は、「イジメの原理」である、武力的・経済的強者と武力的・経済的弱者との差別が実質的・空間的に確立したのが、戦国時代の京都だからだ。
1588年、関白太政大臣となっていた豊臣秀吉による、刀狩令により、騎馬民族末裔の武士の武器が、強制的に取り上げられた。これにより、騎馬民族末裔は、武力的弱者となった。
1591年、豊臣秀吉により、全国66ヶ国で戸口調査をおこない、騎馬民族末裔を民衆から洗い出し、そして、66ヶ国の都市国家から国人(騎馬民族末裔)払いをし、更に、インドのカースト制度を真似た身分制度、士農工商を定めた。
しかし、騎馬民族末裔は、この豊臣秀吉が定めた身分制度の埒外に置かれた。つまり、アウト・カースト(賎民)だ。これにより、騎馬民族末裔は、庶民と精神的に隔離され、経済的弱者となった。
藤原日本史では、刀狩令により、戦いのない平和が、日本列島に訪れた、とする。そして、身分制度の確立は、戦国時代ではなく、徳川家康が拓いた江戸時代からだ、とする。
しかし、史実は、1587年日本イエズス会のキリシタン大名に棄教を強制し、その日本イエズス会軍団組織を解体した後、1592年と1597年の二度にわたって、朝鮮を武力侵略しているのだ。
そのような時期、1590年7月半ばに、徳川家康・一族は、関東に幽閉されていた。だから、徳川家康一族の武士は、朝鮮半島の武力侵略には、参加してはいなかった。
それは、豊臣秀吉が、その侵略戦争に、参加させなかったからだ。豊臣秀吉は、徳川家康一族の武士の出自の歴史を知っていたからだ。平安時代、武芸者から興った武士の租は、新羅花郎騎士団と騎馬民族突厥の末裔だと。
その1ヶ月前、1590年6月10日から、豊臣秀吉の忠臣である石田三成は、武蔵国忍城の水攻めの準備を行っていた。そして、豊臣秀吉は、何回も、石田三成に、忍城の水攻めの方法などを、細かく指示していた。それは、何のためか。
それは、武蔵の忍城は、豊臣秀吉から徳川家康に与えられた関東の新領地・伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の一部は、後北条氏の旧領だったからだ。
この徳川家康の新領地は、豊臣秀吉政権からすれば、賎民を常民とから隔離するために堀の内に押し込めたのと同様に、徳川家康一族郎党を、豊臣秀吉家臣団が囲い込む、関八州の「垣内」(かいと)だ。
石田三成が、武蔵にある忍城を、豊臣秀吉のこまごまとした命令により、水攻めをおこなったのは、後北条氏五代にわたってなれ親しんだ旧領民が、「垣内」の新領主の徳川家康に対して、必ず、一揆を起こす、と企んでいたからだ。
しかし、藤原氏の流れにある日野家の血が流れる浄土真宗本願寺派の門主が、三河一向一揆を起こした陰謀を、事前に知っていたのと同様に、お庭番の情報により、豊臣秀吉による石田三成の忍城水攻め計画の陰謀は、事前に、徳川家康は知っていたのだ。徳川家康は、他の戦国武将と異なり、賎民と差別されるお庭番から直接情報を入手していた。
だから、1590年7月半ばに、徳川家康は江戸に入ると、戦いの準備などせず、城の修復などせず、近隣の民のために、平川の河口から江戸城に通じる道三堀を掘り、日常生活に必要な水を確保するために、神田上水の工事に着手したのだ。
しかし、徳川家康は、隠密に、豊臣秀吉軍団からの攻撃に対して、江戸防衛のために、有力な譜代大名を、上総、下総から、関東平野を南下して江戸湾に流れ込む利根川以西に配置し、そして、甲州側からの攻撃を予想して、千人同心を八王子に配置していたのだ。
672年近江の百済亡命王朝軍と、尾張の騎馬民族に支援された新羅系軍団との「壬申の乱」を再現した、1600年百済系豊臣軍団と、騎馬民族に支援された秦氏末裔の新羅系徳川軍団との「関が原の戦い」は、その10年前から準備されていたのだ。結果は、情報戦に優れた東軍が勝利した。
しかし、徳川家康が横死し、三代将軍徳川家光の時代以降からは、江戸でも騎馬民族末裔は、京都、大阪と同様に、「穢多」と蔑称されていく。
徳川家康が存命中は、江戸城に羽織袴で二本差しで従者を随え籠に乗り登城していた長吏頭弾左衛門が、戦国時代末期に豊臣秀吉により国際港湾都市渡辺の住民を湿地帯に強制移住させたように、江戸町の中心地日本橋室町から浅草裏の湿地帯「新町」に強制移住させられ、穢多頭弾左衛門として蔑称されていくのだ。
その戦国時代の京都で発祥した、民族差別のヘイトスピーチが、現在の東京、大阪、京都でおこなわれているのは、その影に「現在の藤原氏」がいるためか。

オレは、田辺さんと出会っていなかったならば、京の都で、洛外に暮らす新羅系や騎馬民族末裔の河原者を貶める時に使う、ヘイトスピーチ「くだらぬヤツ。」(「百済人ではない野郎。」、の意)の歴史的発生も知らず、藤原日本史の民族差別をする歴史観に呪縛されたままで、このような敗者からみた史観を持てなかっただろう。
オレは、さめた紅茶を一飲みすると、時計を見た。夜明けまで、約一時間だ。オレは、急いで、ある計画のために準備していたモノを点検した。

ヲアケ、かく語りき。
ホテルを出ると、ひんやりした空気が頬をなぜた。オレは、闇夜に、そこの一角だけ輝いているコンビニで、「翼をさずけてくれる。」という、ドリンクを一飲みした。
昨夜、ホテルでもらった伏見稲荷までの地図を頼りに、オレは急いだ。なんこめかの角を曲がると、前方に、明るい光が見えた。昨日降りた駅だ。
昨日とは違い、暗闇に佇む、朱色の巨大鳥居は、更に異様だ。伏見稲荷は、一般の神社と異なり、あちこちに点在する電球が、その一角だけ照らしている。それは、まるで霊界に迷い込んだようだ。
本殿の裏に回ると、そこには、朱色の千本鳥居が密集して林立している。それは、冥界へ導く洞窟のようだ。何の目的か、洞窟は二本ある。オレは、左利きだから、左の洞窟に入った。ボツン、ポツンと点在する明かりを頼りに、オレは、一の峰へ急いだ。夜明け前にたどり着くためだ。

つづく


06. 2015年4月18日 10:39:57 : sn1I8eOXZM
洞窟は左に曲がっているようだ。遠くから見ると、赤い壁の行き止まりのように感じられる。左に折れると、二本の洞窟は一本の洞窟となった。
少しゆるい参道を見上げると、遠方に、左右にゆれる灯りが目に入った。
オレは、とっさに、鬼火が出たと思った。しかし、ここは稲荷だから狐火かと思った瞬間、背中にゾックとする感覚が走った。時計を見ると、午前4時前、つまり、丑の刻だ。
あの遠方の小さな左右に揺れる灯りの主は、丑の刻詣りの帰りなのか。オレの頭の中に妄想が浮かんだ。
それは、怪奇小説や映像によく描写されるものだ。丑の刻、貴船神社の参道を白装束に胸に鏡をかけ、高下駄をはき、頭に五徳を逆さにつけ、その五徳の足に三本のローソクを立て、髪を振り乱した青白い女の姿だ。
その伝承によれば、丑の刻詣りの者と遭遇した者は、その者に殺される、ということだ。オレは、素早く、大きな鳥居の裏に身を潜めた。灯りは、左右にゆれながら、かなりの速さで、オレの方に向かってきた。
足音が、かすかに聞こえてきた。それは、下駄の音ではなく、運動靴のようだ。足音が通り過ぎるのを確認して、オレは、鳥居の柱の影から、そっと覗いた。
オレの妄想は、一変に吹き飛んだ。裸電球に映し出された後姿は、ジャージ姿の中年男だった。
空を見上げると、星の光りが薄くなっていた。磁石で東を確認し、その方向に目をやると、紺色の輪がせり上がっていた。
夜明けは、時間の問題だ。目的地までには、時間がない。オレは、計画を変更した。参道を小走りに、それらしき場所を物色した。あった。山なのに、人工的に平地とされた場所に着くと、カメラマンバックから、例のモノを取出した。
それは、スキーのゴーグルを改良した、幻視装置だ。赤色LEDを、田辺さんから送られた点滅装置と合体させたものだ。何回かの実験で、オレは幻視だけではなく、幻聴も可能なことが分かった。つまり、幻視はバーチャルリアリティとなる。
オレの頭は文科系だから、科学的なことは分からないが、オレの脳には、テレビ受像機のような働きをする機能が内在しているようだ。つまり、微弱電波のオーラを映像として再生できることだ。
スイッチをオンすると、赤色の点滅が闇となり、霧が晴れるようにフェードインした映像が現われた。

小山のような円墳の前に、例の男がいた。知恩院での夢で遇った男だ。
その夢では、その男が何を言っているのか分からなかったが、今は違う。男の唇の動きとは異なり、日本語となってオレの耳に届いた。外国映画の日本語吹き替えのようだ、とオレは思った。
「ワシは、この古墳に眠るテングリを護る、ヲワケだ。お前は、誰だ。何しに来た。」
「オレは、しがないカメラマンで、ちょっと調べたい事があって、ここに来ました。」
「何を知りたいのか。」
「稲荷神社の歴史です。何故、稲荷神社の元締めが、伏見であるのか、ということです。ところで、先ほど牛の刻に、お詣りをするひとを見たのですが、伏見稲荷でも、牛の刻詣りがあるのですか。」
「ワッハッハ。お前は牛の刻詣りの、実態や歴史を知らないようだな。それで、伏見稲荷の歴史を知りたいと。もう一度、勉強し直して来い。」
「牛の刻詣りも調べましたが、多くの資料では、呪いの儀式として述べられていますが。」
「困ったことだな。牛の刻詣りが、呪いの儀式と信じられているのか。」
そう言うと、大男は、牛の刻詣りの歴史を語り始めた。その要約は、

漢訳仏教が、日本列島に唐進駐軍の手先として侵攻してくる以前、古墳時代では、騎馬民族が信仰する道教の神と対面するための時間は、夜におこなっていた。それは、道教の神は、北極星の太一だったからだ。星は、昼間には見えない。
この時代、昼詣りは、やむをえない仮式だった。
オカリヤという民俗神事がある。その意味は、簡略で粗末な「お仮屋」でおこなう神事のことだ、とされてしまっているが、その実態は、昼間に行う、やむをえない仮式の神事ということだ。
古墳時代なかば、円墳と方墳の墓制を持つ、二つの民族が共生することにより、前方後円墳が、日本列島の岩手県以南から九州にかけて、築かれていく。
方墳の墓制の民族は、北極星の太一を祀り、円墳の墓制の民族は太陽神を祀っていた。太陽神信仰民族は、太陽神の化身を牡牛としていた。その二つの民族の儀式では、犠牲を伴う。
北極星を祀る民族は、朝を告げる鶏を屠る。太陽神を祀る民族は、牡牛を屠る。そして、その頭を、それぞれの神に捧げるのだ。
道教では、北極星を「天皇大帝」として崇拝していた。日本初の新羅系天武天皇の「天皇」の呼称も、その道教思想からのものだ。だから、天武天皇は、天文台を造り、夜空の北極星を観察することを日常としていた。
「隋書」で、倭国からの使者が、「倭国の政治は、兄が夜マツリゴトを行い、夜が明けると、弟が昼マツリゴトを行う。」と述べた、と記録されている。それは、騎馬民族の突厥進駐軍のテングリが、道教思想で、夜マツリゴトを行い、そして、古代新羅から渡来した民族が、太陽神信仰儀式により、昼マツリゴトをおこなっていた、ということを描写したものだ。
かくして、北極星の天皇大帝の呼称と、太陽神の化身の牡牛の頭が合体して、「牛頭天皇」となった。
明治革命以前、一般庶民の暮らしの日々に、「天皇」なるものを意識することなどなかった。特に、東国では、全くなかった。だから、庶民の間では、「テンノウ」と言えば、それは「ゴズテンノウ」に決まっていたのだ。
この二つの民族の儀式が合体して、牛の刻に、犠牲の牛頭を神に献上する。太陽神の化身、牛頭天皇は、古墳時代の民の願いを聞く神となる。
7世紀のなかば、日本列島に侵攻した唐帝国に支援された律令政権は、先住民が祀る宗教を抹殺するために、天つ神を創作し、そして、漢訳仏教を経世統治の手段とした。つまり、先住民が畏敬していた牛頭天皇を、陽の当たる社会的場所から追い立てて、日陰の世界に追い込んだ。
その先住民の儀式の場である古墳や、日本列島を縦断する古代高速道路の北陸道、東山道、東海道の道路網に「関」を設けられ、破壊されるのが、唐帝国の制度により支配される律令時代が開始される奈良時代からだ。
律令時代、牛頭天皇詣りは、人目のつかない夜中詣りに追い遣られ、オカリヤも禁止され、牛の刻だけとなった。しかし、牛の刻詣りとなった牛頭天皇詣りは、不便な時間帯にもかかわらず、広く先住庶民に根強く続いていた。
平安時代以降、百済系天皇家が君臨する律令王権側は、夜中の牛の刻詣りを、いかがわしい魔性の烙印を押すように仕向けた。王権側は、夜中は、モノノケ、鬼や土蜘蛛の妖怪、幽霊の時間帯と決め付けるため、多くの物語を創作させた。
能の「鉄輪」は、室町時代に創作された物語だが、その時代設定は平安時代だ。その物語には、「牛の刻詣り」をする女が登場する。女の呪いで、男が死にそうになるが、安部清明の呪力で救われるのだ。因みに、安倍清明の母は、狐とされる。


「ところで、お前、牛頭天皇が、スサノウに変わったり、スサノウの息子を牛頭天皇としたり、祇園の神や稲荷の神、そして、水神や竜王に変形するのは、何故だと思う。」
「分かりません。」
「それは、天皇を「神」として日本列島の支配を企む藤原氏が、先住民の歴史を消すためだ。消す対象に、色々な名前を付けることにより、その実態があやふやになるからだ。ところで、牛頭天皇、スサノウを祀る祇園会は、日本列島各地でおこなわれているが、その発祥は、何処か。」
「京都の祇園社ですか。」
「牛頭天皇詣りは、畿内各地でおこなわれているから、畿内の中心地、祇園だと思うのは、王権側の歴史隠蔽操作の成功例だ。」
「京都ではないのですか。」
「その発祥は、平安時代の京都ではなく、古墳時代の伊賀(三重県)と山添(奈良県)とを流れる木津川系がL字に曲流する内側にある、山添村大字中峰山にある、カム・はたのモリ(神波多神社)だ。」
「カム・はたのモリとは、古代新羅から渡来した秦氏の宗教施設ということですか。」
「古墳時代以前から順次渡来していた秦氏は、木津川上流の仙山の木材や宇陀の朱砂を、国際交易品として、淀川系の大阪一帯を支配していたのだ。牛頭天皇信仰が、近畿一帯に広く布教されたのは、巨椋池(おぐらいけ)を中心として、桂川、賀茂川、宇治川、木津川水系に権益を保有していた、国際的な交易をおこなっていた秦氏が、存在していたからだ。その巨椋池一帯を、山背国といっていた。しかし、平安時代になると、山背国は、山城国と変名され、その地の歴史が消されていったのだ。お前の今居る稲荷山は、その巨椋池一帯を見下ろすことが出来る地だ。」
「すると、山背国の歴史は、平安時代に消されたわけですか。稲荷社は、その歴史を消すための装置だったのですか。」
「京都や大和の牛頭天皇の原動が、奈良盆地や大阪ではなく、木津川源流の宇陀川一帯の、さんちゅうの山奥から発信している不思議は、各種技術集団を支配する秦氏と牛頭天皇との習合にあったからだ。牛頭天皇は、スサノウとも言う。スサノウとは、水銀化合物の朱砂(しゅさ)を採掘する民族の王ということで、産鉄民族の棟梁の意味なのだ。」
「でも、「日本書記」の神話では、スサノウは、古墳時代を壊滅した天孫族の神となっていますが。」
「先住民族の歴史を消すために、先住民の神を、自民族の物語に取り入れて消すのは、世界共通の歴史改竄の技術だ。「日本書記」の神話では、スサノウは、「まつろわぬ悪神」で、天上界から、鬚や爪をはがされて、雨の夜、菅笠姿で、地上に追放されているのだ。」
「そういえば、スサノウは、暴れ神だったようですね。」
「縄文時代(約8000年前)の遺跡が出土した、大川(おおこ)遺跡のある中峰山の神波多神社(カム・はたジンジャ)の祭神は、「スサノウ」なのだ。「日本書記」によれば、日本初とされるジンム・テンノウは、紀元前660年奈良盆地で即位したことになっているが、その頃の奈良盆地は、水捌けの悪い湿地帯で、一雨振れば、湖と化す地だったのだ。古墳時代、秦氏の土木建設技術者達が、その奈良盆地に、運河を掘り、大路を敷設し、巨大前方後円墳を築くことで、奈良盆地は土地改良され、ツバ市などの、朱砂の国際交易地となったのだ。」
「すると、奈良盆地の文化の源は、その裏山である宇陀のさんちゅうにあったのですね。」
「そうだ。お前、やっと稲荷社の歴史を解く糸口に辿り着いたようだな。」
「スサノウは、日本神話での天孫族の神(カミ)ではなく、律令軍に滅ぼされた先住の産鉄民族の棟梁だったのですね。その産鉄民族の棟梁を祀る宗教施設が、木津川系に築かれた古墳だということですか。」
「お前、今「カミ」と言ったな。「カミ」は、新来のもので、それ以前では、「カム」と言っていたのだ。秦氏の中峰山の古代宗教施設が、「カム・はたのモリ」と言っていたのは、律令軍の「カミ」が侵攻する以前から存在していたことを示す。」
「カミの古語が、カムですか。」
「日本神道の「カミ」は、仏教伝来よりも古く、神代の昔から日本列島に鎮座していたとするが、その祝詞に使われている単語、可牟加良(カムカラ・神の品格)、可武奈何良(カムナカラ・神そのままに)、可武佐備(カムサビ・神々しく)など、神(カミ)が複合語の一部となっている場合、すべて「カム」となっている。言語学では、古形は複合語に残るという法則があるのだ。つまり、「カミ」は新語で、「カム」が古語なのだ。」
「そうですか。知りませんでした。」
「本来、「カム」は、姿や形を持たなかった。だから、玉や鏡を御神体として祀っているのは、新しく日本列島に渡来した「カミ」を祀る神社(もり)だ。「カミ」が、社殿を持つのは、仏教の寺院を模倣して、奈良時代に南方系建物を建てるに至つてからだ。」
「では、仏教や神道が日本列島に普及する以前、どのような処で、どのようにして「カム」を祀っていたのですか。」
「古墳時代以前は、分からない。古墳時代では、古墳は、豪族の墓としてではなく、古墳がひとが多く集まる所に築かれていたことでも分かるように、祭祀場でもあった。「祭」とは、肉を手に持って、神聖な台に捧げることを表わした象形文字だ。」
「すると、その肉とは、牛頭であり、鶏頭ということですか。」
「鹿や魚もあった。アイヌ民族では、熊だ。アイヌ民族の神は、「カムイ」だ。」
「奈良時代、それらの犠牲の祭が、死をケガレとする仏教や神道に否定されるわけですね。犠牲の儀式は、いつから始まったのですか。」
「弥生時代以降の古墳時代からだ。弥生時代とは、南方系水田稲作と養蚕技術が日本列島にもたらされた時代だ。それ以前の狩猟生活文化とは異なる、農耕生活文化が渡来した。農耕民族の文化には、牡牛を屠る犠牲儀式などはない。」
「弥生時代に、南方から渡来したとされる民族は、特定できるのですか。」
「その水田稲作関連用語から、タミル語を話す民族が特定できる。」
「タミル語は、南インドの地方語ですよね。」
「タミル語には、水田稲作用語と農業用語と共通するものが多くある。タンボ(泥地)、アゼ・クロ(畔)、シロ(泥)、ハタ(畑)、コバ(焼畑)、ニ(稲)、アハ(粟)、コメ(米)、クマ(神米)、アレ(餅粉)、カス(粕)、ツク(搗く)、ヌカ(糠)、カユ(粥)、モチ(餅)など、これらの言葉は、狩猟時代の縄文時代にはなかった。」
「人工的に泥地を作る水田稲作は、南方からの技術ですか。」
「弥生時代、織物の技術も渡来していたのだ。縄文時代では、織るではなく、編むだった。大阪府池上遺跡から、平織の布が出土した。そして、紡錘車も出土している。これらのことから、弥生時代、繭や綿から糸を紡ぎ出していたことが示唆されるのだ。」
「すると、弥生時代には、大阪一帯から、縄文人が駆逐されていたのですか。」
「河内湖のある大阪一帯は、奈良盆地から流れ出る大和川の出口の亀の瀬渓谷の、定期的な崩落による鉄砲水により、その一帯は、約90年間隔で壊滅状態となっていた。だから、南方系弥生人による、大阪一帯の完全制圧とはならなかった。」
「宇陀のさんちゅうが、弥生時代中期まで、縄文人の居住地だったのは、内陸侵攻の基地としての河口の完全支配ができなかったからですか。」
「渡来文化は、河口部から内陸部へ伝播することから、そのように考えられる。「カミ」を祀る天孫族が、4世紀の「カム」を祀る奈良盆地に、大和政権を樹立していたとの物語などは、考えられないのだ。」
「でも、現在の歴史教科書には、そのように記述されていますが。ところで、稲荷社の歴史は、どうなっているのでしょうか。」
「まあ、そう急ぐではない。言葉は、それを使用する民族を特定する。タミル語がそうだ。では、日本語は、タミル語だけか。そうではない。日本語には、色々な民族が使用していた言葉がある。では、言葉をつなぐ文法は、タミル語文法なのか。日本語の文法構造は、ユーラシア大陸の北方系のツングース語、モンゴル語、チュルク語と極めて類似した共通点がある。それらの北方騎馬民族語を一括して、ウラル緒語と呼ぶ。しかし、日本語の単語には、ウラル語と対応するものが乏しいのだ。」
「平安時代に始まったとされる祇園会では、日本列島には66ヶ国があったとしていますよね。それに、フォッサマグナを接点として、西国と東国とでは、アクセントが異なっていますよね。」
「ウラル語文法、騎馬民族、前方後円墳、大路、運河、宇陀を拠点としての国際交易品の朱砂、木津川水系などか流れ込む巨椋池を望む稲荷山、これらのことが、稲荷社の歴史を解くヒントだ。お前には解けるかな。」

つづく


07. 五月晴郎 2015年5月24日 01:10:55 : ulZUCBWYQe7Lk : q4MbXpzKeM
オレは、田辺説を学習していたから、ウラル語文法、騎馬民族、前方後円墳、大路、運河、そして、国際交易品の朱砂との関連性は、理解できる。しかし、木津川と巨椋池と稲荷山との関係が分からない。藤原日本史にも、田辺説にも出てこなかったからだ。
オレの思案態度を見ていた大男は、
「ワシは、あそこの丘の木の株に座って一休みしている。謎が解けたら来い。最後のヒント言おう。恭仁宮だ。」
オレの前頭葉は、「恭仁宮」に素早く反応し、記憶の倉庫がフル回転した。
カメラマンバックから、ボロボロになった日本歴史年表・地図を取出し、古代の畿内地方の地図を開いた。
恭仁宮は、おかしな都だ。木津川を挟んで立地する都である。その遷都の歴史は、学生時代のオレには、理解できなかったが、田辺説により、なんとなく分かったような気がしていた。それと、稲荷社の歴史と、どんな関係があるのか。
740年藤原広嗣が、僧正の玄ム法師と吉備真備を追放するように聖武天皇に上表したことが原因により、大宰府周辺で起こったクーデターの時期、聖武天皇は、400名の軍団と伴に、平城京を脱出した。
藤原日本史では、何が原因で、聖武天皇が、都を、平城京→740年恭仁宮→743年近江紫香楽宮→744年難波宮→745年再び平城京へ遷都したかの理由が述べられていない。
しかし、田辺説では、この度重なる遷都が理解できる。
藤原不比等のロボットとして育てられた聖武天皇は、民間人である藤原不比等の娘を后とした。これに反対した新羅系天武天皇の孫、長屋王は、左道を学んで聖武天皇を倒そうとしたとの密告により自害させられた。
この事件を予測していた藤原氏一族は、長屋王と親しい東国の蝦夷が反撃してくるのを防ぐ目的で、東海道の伊勢国鈴鹿、北陸道の越前国愛発、東山道の美濃国不破の関を閉じる措置を取っていた。
聖武天皇の母藤原宮子は、遣唐使僧として帰国した玄ム法師の内道場での治療(?)により、病が回復し、産後一度も会わなかった聖武天皇と再会を果たした。その結果、藤原不比等による日本列島簒奪の謀略を知り、自身がその手先であることを悟った聖武天皇は、反藤原氏勢力と結託して、行動を起こしたのが、度重なる遷都のバックグラウンドだ。
恭仁宮は、橘諸兄の支配地にある。そして、玄ム法師は、橘諸兄のブレインだ。その橘諸兄の母県犬養橘三千代は、藤原不比等の後妻となっていた。
この740年から745年の5年間、藤原日本史の闇が存在した。
藤原日本史では、天平12年(740年)聖武天皇は、新羅系民が多く暮らす河内国知識寺のルシャナブツを参拝して、大仏造立を発念した、とする。そして、その大仏は、金鐘寺(後の東大寺)に造立された、とする。その金鐘寺を仕切るのは、新羅系の僧だ。
古代新羅は、漢訳仏教国ではない。そして、藤原不比等が創作した「日本書記」では、新羅は、反大和だ。
では、何故、反藤原氏の河内国の知識寺で、反藤原氏となった聖武天皇は、ルシャナブツを参拝していたのか。それは、ルシャナブツ(遍照鬼=太陽神)が、反藤原氏のシンボルだからだ。そのルシャナブツは、藤原氏の氏寺である興福寺を見下ろす丘に造立された。そして、そのルシャナブツは、仏像ではなく、太陽神ミトラ(遍照鬼)だった。その遍照鬼は、平安時代初期、錬金術師空海により、仏像の大日如来に改竄され、今日に至る。
日本列島は、古代から産銅地として周辺諸国に知られていた。それは、東アジアの大国、中国大陸や、そして、高句麗を除く朝鮮半島では、銅の鉱山が少なかったからだ。中国大陸では、現在に至るまで、世界産銅統計上、上位にランクされたことはない。古代銅山遺跡の報告でも、銅山の規模は大きくはない。そして、朝鮮半島では、高麗時代(918年〜1392年)、高麗青磁と引き換えに、日本から盛んに銅を輸入していた。
江戸時代、元禄10年(1697年)日本は、世界第一位の銅産出国だった。明治以降も、日本は世界産銅統計上、ベスト10に入っていた。それは、明治時代の小学校の地理の教科書には、日本は気候温暖にして、物資豊富だと記述されていたことでもわかる。
古墳時代前期、中国の洛陽のある華北地方にはない、直径21cm〜22cmの大型鏡、三角縁神獣鏡を、奈良盆地で造っていた。
古墳時代後期、金銅仏が、河内国で造られていた。藤原日本史での、仏教伝来物語で、崇仏廃仏の2度の戦争で、538年(552年)百済から伝来したとされる仏像が難波の堀江に捨てられる物語は、金銅仏製造所の所在地隠蔽のためだ。因みに、古墳時代前期の明日香ヤマトの富本銭が出土したコンビナート遺跡は、平成13年万葉文化館の建設地として破壊されてしまった。
恭仁宮の地、難波宮の地は、反藤原氏の勢力圏だった。これらの地は、朱砂の産出地がある宇多川を源とする木津川から巨椋池そして、淀川を通れば、行き来できる。
古代、川は、重要な物流ルートだった。その諸外国との物流を担うのが、平底の川舟と竜骨のある外洋船だ。
オレは、カメラマンバックから世界年表・地図を取出し、8・9世紀の東アジアを開いた。そこには、渤海国の日本列島への海路が赤線で描かれていた。
陸路をウイグルに阻止された渤海国の交易船は、ウラジオストックから、日本海を横断して、直接敦賀に着き、そこから琵琶湖を経て、宇治川→淀川→難波→唐・ニンポウへ航海していた。このウラジオストックから敦賀への海路は、第一次国際海洋交易時代の古墳時代から続いていた。
因みに、第二次国際海洋交易時代は、モンゴル帝国時代で、日本列島では、「二度の元寇物語」が、モンゴル帝国に敗れ南宋からの亡命禅僧により、語られていた鎌倉時代だ。
そこで、疑問が起こる。日本列島の河川が、運河でつながれていれば、外洋船からの荷を港で河舟に乗せて、目的地に着ける。しかし、日本海沿岸の敦賀と琵琶湖とには、運河がない。
そういえば、田辺さんは、お祭の山車は、もともとは河船だった、と言っていた。船は、川を下るだけではなく、引船といって、川上に向かって、人馬で引いていた。その河舟を引くことが、祭での山車となった、と言うことだ。
河船は、川路が途切れると、陸の道に乗り上げて、人馬に引かれて、目的地を目指していく。その作業が、祭りでの山車の原形のようだ。祇園会での山車の転回は、割り竹を敷いていた。突き固めた古代高速道路に、丸太や竹、笹を敷けば、河舟は陸路を人馬で引いて行ける。
祭りの引船を、山の車(山車)とは、言いえて妙だ。
だとすると、宇治川、木津川、桂川、賀茂川が流れ込み、淀川となる湖の巨椋池は、河舟の物流センターだったのか。その物流センターを見下ろす深草の山(稲荷山)は、物流の支配者の送葬地として相応しい。
そうだ、深草の山は、朱砂の産出・物流を支配した、ギリシャ・ローマ文化の継承国である古代新羅から出雲に渡来したスサノウ(朱砂の王)の眠る地だった。だから、深草の山の神を、全国のスサノウの配下が祀ることになったのだ。オレは、そう結論付けた。
オレは、大男の前に行き、持論を述べた。
大男は、不敵な笑いをして、
「では、何故、深草の神を祀る処を、スサノウ社、或いは、祇園社とは言わないのか。稲荷が、農耕神で、稲生り(いねなり)が転じて、「稲荷」になった、などの説明はナシだゾ。ヒントは、漢字二文字による人名・諸事の表記は、713年以降だ。それ以前に、「稲荷」の文字は、存在しない。」
「すると、古墳時代ではなく、律令国家となった奈良時代以降ですね。」

つづく


8. 五月晴郎 2015年7月10日 23:36:09 : ulZUCBWYQe7Lk : itgZIwqRys
「奈良時代は、闇の時代だ。オマエ、手品のトリックの基本を知っているか。」
「手品のトリックと、稲荷社の歴史に、何の関係があるのですか。」
「手品のトリックの基本は、ひとの気を逸らして、目的の術を披露することだ。藤原不比等が創作した、女帝推古天皇が統治していたとする「飛鳥時代」というトリックを見破れば、稲荷社の歴史の謎が解ける。そこに立っていないで、その切り株に腰を下ろして、そのトリックを解いてみろ。因みに、その切り株の本体は、あそこの寺に収まっている。」
大男が指差す方向に、東寺があった。
その東寺とは、平安時代初期、百済系桓武天皇に疎まれて、九州に隠棲していた錬金術師空海が、平城天皇政権を薬子の乱で勝利し平安王朝政権を手に入れ、反藤原氏となった嵯峨天皇に取り入って、未建築状態の東寺の再建許可を得て建立したものだ。
では、東寺と深草の山の木と、そして、稲荷の歴史が、どのように結びつくのか。
オレは、手品のトリックの基本を考えた。その基本は、すり替えだ。
そういえば、オレは、学生時代にコインマジックの手品に凝ったことがあった。オレが得意としたものは、コインにタバコを通すマジックだ。
そのマジックのネタは、秋葉原の露天マジック師から買ったものだ。道すがら、何度かそのマジックを見たが、その手品のトリックが解けなかった。そこで、大枚をはたいて、そのマジックを買い求めた。厳重に包装された袋に入っていたのは、二枚のハーフドルだった。一枚は、正常だが、二枚目には、中央にタバコが通る穴が開いていた。
露天マジシャンは、その二枚のコインをすり替えることにより、正常なコインにタバコが通る、と観客に錯覚させていたのだ。
ひとは、最初に刷り込まれた情報を替えることはないようだ。
露天マジシャンは、観客に正常コインを手に持たせ調べさせ、刷り込みをおこなう。つぎに、観客の気を逸らせて、正常コインと改造コインをすり替える。そして、改造コインにタバコを通す。最後に、改造コインを、観客の気を逸らせて、正常コインにすり替えて、その正常コインを観客の手にとらせ、調べさせることで、タバコがコインを通り抜けるマジックが完成する。
オレの思考回路が、動いた。
日本列島史のすり替えマジシャンであった藤原不比等は、数々の改造コインを創作して、騎馬民族が活躍していた古墳時代の歴史を、神代の昔から継承する天皇が4世紀に大和を支配していたとする藤原日本史にすり替えていたのか。その最初のネタ(改造コイン)が、720年完成の「日本書記」だ。
この藤原日本史の基礎となる「日本書記」に続いて、日本国の正史とする六国史は、藤原氏一族により編纂されていた。
720年「日本書記」は藤原不比等、797年「続日本紀」は藤原継縄、840年「日本後紀」は藤原冬嗣、869年「続日本後記」は藤原良房、879年「日本文徳天皇実録」は藤原基経、901年「日本三代実録」は藤原時平、らによって編纂されていた。
不思議は、この日本国の正史とされる漢文書物は、唐帝国が滅亡すると、その後編纂されることはなかった。
「飛鳥時代」が、藤原不比等により、突厥進駐軍が明日香ヤマトを支配していた古墳時代を消すために創作された、ということは、田辺説により理解できた。
それは、「日本書記」と、「隋書」(煬帝紀・倭国伝)との記述の相違だ。
田辺さんが言っていたが、「出展が異なる史料で、記述が合わない事柄を証明することは、できない。」、ということだ。
「日本書記」では、遣隋使の初めは、推古天皇15年(607年)小野妹子が派遣された、とする。
それに対して、「隋書」(倭国伝)では、開皇20年(600年)日本からの遣使について、その大使名は不明であるが、遣使との問答が記録されている。それによると、

開皇20年、倭王有り、姓は阿毎、字は多利思比弧、阿輩鶏弥と号す。使いを遣して宮城に詣らしむ。上、所司をして其の風俗を訪ねしむ。使者言う。倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏跌して座す。日出ずれば便ち理務を停めて、云う、我が弟に委ねんと。高祖曰く、此れ太だ義理無しと。是に於いて訓して之を改めしむ。

田辺説では、その「隋書」倭国伝の記述は、明日香ヤマト支配の突厥進駐軍からの使者が、北極星を祀る突厥軍が、奈良盆地先住の太陽神を祀る新羅花郎騎士団を支配下に、奈良盆地を、昼夜の二制度で支配していた政を説明したものだ、ということだ。
「日本書記」での最初の遣隋使は、推古天皇15年(607年)であるが、この遣隋使の記述は「隋書」(倭国伝)にもある。それによると、

大業3年、倭王多利思比弧、使いを遣して朝貢す。使者曰く、聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に、遣して朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ばしむと。其の国書に曰く、日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々と。帝、之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂いて曰く、蛮夷の書、無礼なる有らば、復た以って聞かする勿れと。

この記述は、学校の歴史授業では、聖徳太子が唐と対等外交をした証だ、と説明していた。
が、しかし、田辺説では、589年、西梁、陳、北周を、文帝が、チュルク系騎馬民族東突厥軍団の軍事支援で滅ぼし、中国を統一し、隋国とした。
隋の文帝は、騎馬民族鮮卑の拓跋部の出自だ。その隋を統一王朝としたのは、騎馬民族東突厥だ。初代文帝の時代、隋は、東突厥にひれ伏していたのだ。
しかし、二代目煬帝の時代、東突厥は内部分裂して、一部は隋の支配下となっていた。
この時代、明日香ヤマトを支配していた東突厥残党が、隋に送った国書がそれだった。
天子は、「てんし」ではなく、騎馬民族の王である「テングリ」と読む。テングリは、宇宙の支配者である北極星から、地上の支配を委任された者だ。だから、地上には、二人と「テングリ」は存在できないのだ。
煬帝は、その翌年608年、明日香ヤマトの「テングリ」の情報を得るために、小野妹子を送る使者として、裴世清を派遣してきた。
この年608年帰国した裴世清は、煬帝に報告書を提出していた。その報告によれば、都への旅の途中で、中国に匹敵する文明都市国家(秦王国)を確認し、そして、都では、「男王」に謁見した、と報告していた。
「日本書記」では、608年は、女帝推古天皇の仏教黎明期で、摂政として聖徳太子が活躍していた、とする。
この日本列島の明日香ヤマトの608年は、「隋書」による男王が支配していたのか、それとも、「日本書記」による女帝推古天皇が支配していたのか、どちらなのか。
「日本書記」に分が悪いのは、600年と607年の「隋書」倭国伝にある倭王阿毎多利思比弧は、「アマタリシヒコ」と読めば、「男王」のことだからだ。もしも、倭王が女帝だとしたら、「アマタリシヒメ」となるはずだ。
オレは、「日本書記」が改造コインだと思った。
だとすれば、「飛鳥時代」は、日本列島の歴史から消滅する。
それは、飛鳥時代とは、女帝推古天皇が、603年飛鳥の地に小墾田の宮を定めたことを初め、とするからだ。藤原日本史では、それ以降の約100年間を、飛鳥時代とする。
そうか、オレの脳の片隅がヒラメイタ。
「飛鳥時代」とは、国際海洋交易時代を繁栄して、近隣諸国からの渡来宗教組織が、奈良盆地で活躍していた歴史を消すために、創作された仏教黎明期とする時代だった。そのトリックのシンボルが、イエス・キリストのイメージを彷彿させる、歴史上架空の人物「聖徳太子」だ。
藤原不比等監修の「日本書記」による、漢訳仏教黎明期「飛鳥大和時代」のすり替えマジックのターゲットは、新羅花郎騎士団が崇拝する太陽神を祀るミトラ教(=景教)と、突厥進駐軍が崇拝する北極星信仰の道教だ。
この藤原不比等のすり替えマジックにより、ミトラ教や道教による明日香ヤマトの歴史は抹殺され、今日に至っている。だから、よほどの歴史通以外は、ミトラ教も道教も知ることはない。しかし、弥勒菩薩(=ミトラ神)や陰陽道(=道教)は、知っているようだ。
突然、オレの思考は、稲荷社の歴史探求から、思わぬ方向に突き進んでしまった。
すり替えマジックの基である「日本書記」を改造コインと断定すれば、「日本書記」に、600年の遣隋使の記事を掲載していないことの意味が分かる。
田辺説では、「日本書記」は、色々な書籍を利用、引用して創作された、ということだ。それらは、「聖書」、「ギリシャ神話」、朝鮮半島史(特に、百済史)、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」、「梁書」、「芸文類聚」、「文選」、「金光明最勝王経」、「淮南子」、そして、「隋書」だ。その「隋書」の一文を見逃すことはないはずだ。
「隋書」の「倭王有り、姓は阿毎、字は多利思比弧」の一文は、万世一系とする天皇家の闇(=藤原氏の闇)を照らしてしまうからだ。
藤原日本史では、天皇には姓がない、とする。それは、天皇は、神として絶対者であり、臣下に姓を賜える存在であるから、とする。
では、600年の遣隋使を派遣した倭王は、天皇ではないことになる。それとも、「倭王有り、姓は阿毎」の一文を掲載する「隋書」は、偽書なのか。
「日本書記」の改造コインの製作過程を知ると、騎馬民族が、日本列島一帯に巨大古墳、大路、運河の三点セットを造り、活躍していた歴史が現われるようだ。
「日本書記」は、二つのグループにより、創作されたようだ。それは、日本列島の風俗を知らない中国語に堪能なグループと、日本列島の風俗は知っているが中国語が得意ではないグループだ。
「日本書記」は、30巻で構成されている。その30巻は、その二つのグループにより創作されたのだ。
最初に創作されたのは、巻14の「雄略紀」からだ。この巻14から巻29までは、唐人の続守言と、出自不明の薩弘格によって創作された。そして、巻1から巻13までは、663年百済滅亡後、日本列島に亡命して来た、漢訳仏典に詳しい亡命百済貴族末裔により創作されたようだ。
何故、巻14から「日本書記」物語が書き始められたのかは、その文脈に使用された「暦」により証明できる。
巻14「雄略紀」の前史となる安康元年以降は、「元喜暦」が用いられているからだ。それに対して、巻3「神武紀」から巻13「安康紀」までは、「儀鳳暦」が用いられているからだ。
「元喜暦」とは、宋の元喜22年(445年)に施行され、まもなく、宋の絹製品を求める国際交易商人達により、中国では貴重品である銅を産出する、倭国へも伝えられていた。
藤原日本史では、倭の五王時代とするが、ユーラシア大陸の中央草原一帯を支配していた騎馬民族に伴って、ウラジオストックから日本海を渡り、日本海沿岸に渡来したソグドなどの、国際交易商人が、宋との国際交易を行っていた時代だ。
ソグドの商人は、その行動から「役・えん」と呼ばれていた。役行者とは、役、つまり、物品を伴って各地を行商する者のことだ。国際商人は、商売上「暦」を知らなければ、交易もできないのだ。しかし、藤原日本史では、「役行者」を、妖術を使う宗教者と説明している。
「儀鳳暦」とは、本来は「麟徳暦」と呼ばれ、唐の麟徳2年(665年)に施行された。儀鳳年間(676年〜679年)に新羅に伝わり、その新羅から日本列島に伝来した。
その儀鳳暦は、686年新羅系天武天皇が崩御し、藤原不比等が歴史上現われた、百済系女帝持統天皇の690年に施行された。それまでは、「元喜暦」だったが、697年までは、「元喜暦」と「儀鳳暦」とが、併用されていた。しかし、藤原不比等のロボットである文武天皇の698年からは、「儀鳳暦」が単独で施行された。
つまり、「日本書記」は、「古い暦」を使った史料を基に、巻14「雄略紀」から、書き始められたのだ。そして、謎の多い「万葉集」の最初の歌は、「雄略天皇」であるのだ。更に、822年完成の「日本霊異記」も、雄略天皇の話から始まる。それは、何故か。
「日本書記」によれば、雄略天皇は、安康天皇3年(456年)に即位した、とされる。
「日本書記」が創作された8世紀以降のひとびとには、日本列島の5世紀の中期は、国土統一の時代と認識されていたようだ。
それは、5世紀の日本列島の西国にも東国にも、規格が統一された横穴式石室と石棺を伴う巨大前方後円墳が多く築かれていたからだ。そして、その埋蔵品の多くは、それまでの祭祀用具や日用品類ではなく、実戦に使う鉄製の戦闘具や馬具が埋葬されていたからだ。
686年新羅系天武天皇が崩御後、突然歴史上に現われた藤原不比等は、日本列島史を簒奪するために、日本列島統一の英雄を創作しなければならなかった。そのために、「古い暦」を使用した史料を収集したようだ。それは誰からだ。
「万葉集」の巻頭歌が、5世紀後半の「雄略天皇」の歌だとすると、次の二番目の歌は、7世紀前半の舒明天皇の歌だ。舒明天皇からは、歴代の天皇の歌がある。5世紀後半から7世紀前半まで、天皇の歌がないのは、何故だ。
その謎解きのヒントは、「万葉集」の元となる歌集の編纂が始まったのは、藤原不比等が歴史上現われた、女帝持統天皇の時代だ。そして、「万葉集」二番目の歌の作者は、持統天皇の祖父舒明天皇だ。
「万葉集」の歴史区分は、
第一期 舒明天皇の即位629年から壬申の乱(672年)まで。
第二期 壬申の乱から平城京遷都(710年)まで。
第三期 平城京遷都から737年まで。
第四期 737年から大伴家持の万葉終焉歌が歌われた759年まで。
その「万葉集」を編纂したのが、大伴家持とされている。
「万葉集」は、大きく二部に分かれる。
一部は、巻1から巻16までは、だいたい天平16年(744年)以前の歌が収められている。
二部は、巻17から巻20までの4巻では、天平18年(746年)以降の歌が収められている。この二部は、大伴家持の歌を中心に、ほぼ年代順に並べられている。
この一部と二部との間に、廟堂を乗っ取った、藤原不比等の孫藤原仲麻呂(恵美押勝)が存在していた。
「万葉集」編纂には、藤原仲麻呂が関係していたようだ。
誰が、雄略天皇を創作するために、古墳時代の「元喜暦」史料を、藤原氏一族に提供したのか。それは、古墳時代の軍事部族の大伴部(軍事集団の「トモ」の族長)が疑われる。
「万葉集」の編纂者とされる大伴家持は、一般的に歌人と認識されているが、平安時代、866年藤原氏が暗躍した「応天門の変」の密告事件でその一門が没落したが、古墳時代から続く、軍事部族の出自だった。
「続日本紀」によれば、大伴家持は、養老2年(718年)に生まれた、とする。その大伴家持が、官人として始めて登場する肩書きは、「内舎人」だ。
内舎人とは、天皇の側で仕えながら、日常の宿衛や行幸の警備をおこなう軍人だ。その内舎人時代、天平12年(740年)藤原広嗣の乱が九州で起こった。
大伴家持は、天平12年(740年)から天平17年(745年)まで、反藤原氏となった聖武天皇に随って、恭仁京、紫香楽宮、難波宮、そして、再び、平城京への旅を、内舎人として行動していた。
そして、天平18年(746年)、聖武天皇より僧玄ムが左遷された翌年、越中国守に任命された。そして、天平勝宝7年(755年)、越中国守の任務を終えて、少納言として帰京した大伴家持は、兵部少輔として、難波に赴任した。
兵部省とは、軍政に携わる役所で、特に兵士などの人事を担当する。その難波で、大伴家持は、東国からやってきた防人たちと出会う。
防人とは、「崎の守り」のことで、つまり、上町台地の北端の岬(古代エジプト語で、ワタ・ナーベは、713年「渡辺」となり、720年「日本書記」により、「難波」にすり替え。)を警護するひとの意味だ。
大伴家持は、軍人として働くと同時に、それらの防人の歌を採集していた。その歌集は、「万葉集」巻20に纏められている。
各国から徴発された防人たちは、防人部領使(さきもりがことづかい)によって、東国から難波まで引率されてきた。その防人部領使たちが、それぞれの国の防人歌を「進」(たてまつ)ったらしい。その166首の中から、大伴家持は84首を採録した。
「続日本紀」によれば、大伴家持は、延暦4年(785年)死去した、とされる。一説では、最後には、陸奥按察使鎮守将軍および、持節征東将軍となって、陸奥国多賀城に赴任した、とされる。
「万葉集」は、天平宝字3年(759年)大伴家持が、因幡国庁の宴席で詠んだ歌を最後に終わっている。
何故、軍事部族の出自である大伴家持が、歌を詠むだけではなく、東国の防人の歌を採録していたのか。それは、大伴家持の父、大伴旅人の履歴を知ることにより分かる。

つづく


9. 2015年7月19日 01:26:08 : itgZIwqRys
大伴旅人の歌、64歳から66歳にかけての3年間の大宰帥時代に詠まれたおよそ70首の歌は、「万葉集」に載っている。その3年間とは、728年から730年だ。この間、729年左大臣長屋王の政変があった。
大伴旅人の大宰帥時代とは、その長屋王抹殺のため藤原氏兄弟達により、平城京から九州に遠ざけられていたのだ。何故か。
大伴旅人は、養老4年(720年)4月、山背摂官から、九州の隼人の乱鎮圧のため、征隼人時節大将軍に任命された。それは、大伴氏は、古墳時代からの軍人部族であったからだ。
しかし、養老4年(720年)8月3日に、日本列島史改竄の首謀者である藤原不比等の死去にともない、隼人鎮圧半ばにして、京に呼び戻された。
則天武后が支配する唐時代(=周・690年〜705年)の進駐軍のエージェントであった藤原不比等の死去は、新羅系天武天皇の孫、長屋王の権力回復を意味した。
それは、平城京の宮に隣接する長屋王邸跡から発掘された多くの木簡から、近畿一帯からだけではなく、蝦夷の支配地である東国からも多くの貢物が贈られていたことで証明できる。
祖父天武天皇も孫長屋王も、東国とは友好関係にあったのだ。それは、二人とも、都を東国の諏訪(トルファン)に遷す計画を持ち、実地調査を行っていたことでもわかる。
大伴旅人は、在京時代、聖武天皇の吉野行幸に従駕していたことでも分かるように、都の警備だけではなく、貴人邸の警護もおこなっていたのだ。
藤原不比等の死後、九州から隼人鎮圧なかばにして呼び戻された大伴旅人は、長屋王邸の警護も任されていた。
それが、突然、神亀5年(728年)中納言の大伴旅人は、兼任の大宰帥として、都から遠くの九州筑前国にある大宰府へと下向させられた。
この翌年、729年、長屋王邸を警護する大伴旅人が留守の時、東国と西国をむすぶ経済・軍事のための北陸道、東山道、東海道の三関が、藤原氏により閉鎖された。
それは、長屋王と友好関係にある東国の蝦夷軍団の長屋王への救援を絶つためだ。長屋王邸を見下ろす三笠山では、無防備な群集が見守る中、長屋王邸は藤原氏の軍勢に囲まれ、長屋王一族だけが抹殺された。
大伴旅人が大宰帥として筑紫にいた時、息子の大伴家持は11歳から13歳まで筑紫にいた。そして、藤原氏による長屋王の抹殺後、天平2年(730年)大伴父子は帰京した。
この大伴旅人が、神亀5年(728年)から天平2年(730年)筑紫ですごした3年間を、「筑紫歌壇」と称された。それは、きわめて特徴的な、漢詩文と和歌(漢字アルファベットによる歌)の融合となったからだ。
中国の文学である漢詩文と、日本列島の文学である和歌とでは、動詞と述語が真逆の文法だからだ。この当時の日本列島の文法は、古墳時代に渡来した北方騎馬民族が使用していたウラル語文法だった。
和歌というと、一般的に、国風文化の平安時代、「ひらかな」を発明して詠まれた歌だと認識されている。しかし、その平安時代では、「万葉集」の歌を読むことが出来なかった。それは、平安時代では、「鼻濁音」の音がなかったからだ。しかし、「万葉集」の歌には、「濁音」の音が多く使われていた。
「万葉集」は、奈良時代にある程度まとめられていたものを、平安時代に、菅原道真が編集した可能性が指摘されているように、謎が多く秘められているのだ。
「万葉集」巻14には、「東歌」の総題のもと、238首の歌が収められている。それらの歌は、都に近い国から遠い国へという順序で配列されている。それらは、東海道の8国、遠江、駿河、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸だ。そして、東山道の4国、信濃、上野、下野、陸奥となっている。
藤原日本史では、奈良時代の未開地で詠われた、大伴父子が集めた「東歌」の不思議は、奈良時代の中央の貴族が宴席で詠んだとされる和歌(漢字アルファベットの歌)と同じ定型で、5・7・5・7・7、でおさまっている。何故だ。
伝説では、最初に和歌を詠んだのは、「スサノウ」だとされている。

やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやえがきに

そういえば、出雲弁は、東国の東北地方と同じに「鼻濁音」を使用している。スサノウ伝説では、スサノウは、新羅へ赴いていた。
古代新羅では、歌を文字で表わすのに、漢字アルファベットが使われていた。ヒャンチャル(郷札)という。ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅では、東アジアの国際語である漢語を使用していなかった。
「古事記」の出雲神話では、朝廷から派遣されたタケミカヅチは、唯一抵抗した、オオクニヌシの息子タケミナカタを武力で諏訪の海に追いつめ、出雲の国を差し出す約束をさせた。
諏訪は、713年以降の地名で、それ以前は、騎馬民族の居留地であった、トルファンだ。
言葉は、ひとと伴に伝播し、そして、言葉は、その民族が絶えるまで続く。
では、現在の出雲に「鼻濁音」(ズーズー弁)が残っているのに、出雲神話での移住先の諏訪では消滅したが、東北地方に色濃く「鼻濁音」が残っているのか。それは、騎馬民族の武器である蕨手刀の伝播で証明できるようだ。
蕨手刀は、奈良時代の律令軍が、金を産出する陸奥国を略奪するために、多賀城の軍事拠点での戦闘で、蝦夷軍が使用していた武器だ。
その蕨手刀のルーツは、東北ではなく、日本列島中部の福島、群馬(くるま)、長野地方に出現した。その蕨手刀は、ユーラシア大陸の中央草原を支配した騎馬民族が使用していた同型の短刀だ。
初期の蕨手刀には、ソリがなく、直刀だったが、8世紀ごろ東北北部へ伝播するうちに、刀身にソリが加わった。このソリのある蕨手刀が、日本刀のルーツだ。
そうか、大伴父子は、東国の言葉、北方騎馬民族の言葉、夷語が理解できたのだ。それは、大伴父子のルーツが、東国の騎馬民族であったからだ。
そこで、オレの思考回路が正常に戻った。稲荷社の歴史探求だ。
奈良時代までは、騎馬民族の歌、東歌が、東国では詠まれていた。ということは、東国では、奈良時代まで騎馬民族文化も健在だった、だろう。
それが、平安時代になると、東国の歌が読めなかったのは、支配民族が替わったからだ。「鼻濁音」のない文化を持つ民族は、百済だ。百済語には、鼻濁音がない。そして、京都弁にも鼻濁音がない。
鼻濁音で歌を詠むスサノウは、非鼻濁音民族にとって、「夷」なのだ。
平安時代初期、スサノウを祀る古墳祭祀場を破壊して、「夷→いなり→稲荷」としたのは、錬金術師空海以外は考えられない。それは、東寺建設のため、スサノウの霊が眠る深草の山の木を切り倒したのは、錬金術師空海だからだ。
空海の日の当たらない事績を調べると、その仮説に確信がもてる。
オレは、目の前にいる大男をチラリと見ると、まだ居眠りをしている。
オレは、バックから空海に関するメモを取出した。

つづく


10. 2019年7月02日 14:49:24 : bsgOlDN0SM : cy5JbDV2bkF1VEU=[11] 報告
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