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(回答先: たそがれのプロカメラマン物語 第六章 戦国時代へタイムトリップ(続) 投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 2 月 05 日 14:10:15)
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江戸の町は、徳川家康の横死後、亡命百済貴族末裔に乗っ取られていった。
オレは、昨日の田辺さんとのチャットで気になっていたことを思い出したので、浅草をトモスに乗り目指した。目的地は、奥浅草。浅草弾左衛門の支配地跡を見たかったのだ。
吉野通りから、山谷堀跡の遊歩道を少し歩くと、都立浅草高等学校へ着く。この遊歩道が、江戸時代中期には堀であって、仏寺で囲まれた弾左衛門の居住地を、「常民」から分離していたのかと想像した。
戦国時代末期、全国を平定した豊臣秀吉は、大阪秦王国の住民を湿地帯に追い遣り、「余部」とし、その地域に堀を巡らし、民族差別をしていたことを思い出した。
今戸町となっている地は、弾左衛門の面影を何一つ残しては居ないようだ。がっくりした。浅草高等学校の裏手に回ると、今戸神社があり、そのベンチで一休みをしていると、地元の住民と思われる老人が、さびた自転車をベンチ横に停めた。
オレは、巨大イチョウの樹を眺めながらボンヤリ弾左衛門のことを考えていると、その老人が話しかけてきた。
「どこから来なさった。」
「赤羽からです。」
オレは、思索のじゃまをされたくなかったので、ぶっきらぼうに答えた。
「もうすぐ、イチョウの葉もなくなると、今年も終わりだ。オニイさんお参りかい。」
「いいえ。少し休んでいるだけです。」
またも、ぶつきらぼうに返答した。余程暇のようで、その老人は、隣のベンチから立ち去ろうとしない。
「ワシャ。暇だから、毎日ここに来て、参拝者にこの辺の昔話をしているんだけどね。」
そう言って、自転車にくくりつけられた古びたバックから、よれよれの古本を取り出した。その本の題名は、浅草の歴史とあった。
「おじいさん。この辺の歴史に詳しいのですか。」
「地元だもの。曾ばあさんのころからこの地に居たわけよ。」
「少し聞いてもいいですか。」
「なんでい。言ってみな。」
「浅草弾左衛門の支配地跡を見にきたんですが、弾左衛門の屋敷跡は何処か知りませんか。」
老人は、浅草高等学校を指差して、
「矢野様のお屋敷跡だ。」
と言うと、自転車を押して去っていった。オレは、もう少し情報を知りたかったが、その老人の、「弾左衛門」を「矢野様」と言ってからの態度を見てから、その後の質問もできなかった。
その後、江戸歌舞伎発祥の猿若町と助六の碑を見学すると、帰途に着いた。期待はずれの一日だった。
田辺さんからのレポートは、年が明ける寸前にメールされてきた。オレは、そのレポートを正月休みにじっくり読んだ。その概要はつぎのようだった。
藤原日本史の江戸時代物語は、大きな戦闘記事もなく、歴代将軍の事績を並べるだけで、退屈極まりないようだが、この時代に、騎馬民族差別制度が確立していた。江戸時代とは、民族差別の制度が確立した時代であった。
日本列島で、民族差別がないのは、北海道と沖縄だ。その地域の共通点は、漢訳仏教の進出がなかったことだ。江戸時代の裏面史を知るには、その漢訳仏教について調べることが必要のようだ。
現在の上野公園には、多くの美術館と動物園が存在する。現在では上野の山は文化の森である。しかし、江戸時代の上野の山には、隠された歴史があった。
江戸時代、徳川家康が横死し、1623年二代目将軍徳川秀忠が、徳川家光に将軍職を譲った。その三代目将軍となった徳川家光に、天台宗僧侶天海は、上野の山に寺を建立することを願った。
その寺建立予定地は、元々は、藤堂、津軽などの諸大名の下屋敷に予定されていたが、天海の願は聞き入れられ、1625年(寛永2年)寺創建に着手した。
現在では、上野の山には、寛永寺がポッンと存在しているが、天海が企画した東叡山寛永寺は、境内36万坪、支院36坊を数える壮大な規模であった。
何故、天海の希望が、諸藩の下屋敷建設予定を覆し、徳川家光に聞き入れられたのか。それは、天海と徳川家光の血筋にあるようだ。
天海は、一説では、明智光秀である、と云われている。明智光秀の居城は、坂本城である。その坂本の地は、元は、比叡山延暦寺の支配地だった。
比叡山延暦寺は、一寺の名称ではなく、比叡山全域を境内とする数多くの寺院の総称だ。平安時代初期、百済系桓武天皇の命で、京都の鬼門を護る国家鎮護の道場として計画された。この平安時代、比叡山延暦寺が鎮護する国家には、藤原氏が興福寺により支配する奈良の都は入っては居ない。
漢訳仏教組織は、末社を各地に組織して、その勢力地(布教地)を各国に伸ばして行く戦略だ。平安時代の国家が、日本列島全土を意味するのではないことは、奈良の漢訳仏教の末社が、京都にはひとつもないことで分かる。百済系桓武天皇は、奈良時代に廟堂を漢訳仏教組織を使って支配していた、藤原氏の勢力を排除したのだ。
百済系桓武天皇は、藤原氏の奈良王国から独立するために、京都盆地に進出したのだ。京都を、亡命百済王国にしたかった。比叡山延暦寺は、亡命百済の都、京都国を鎮護するための寺院だった。
しかし、最澄率いるその比叡山延暦寺の僧侶は、正式な僧侶ではなく、私僧だった。
国家が認める正式な僧になるためには、「戒壇」で儀式をおこなう必要があった。日本列島に初めて戒壇が、755年に創られたのは、754年鑑真が渡来してからだ。鑑真は、奈良の東大寺、筑紫の観世音寺、下野の薬師寺に、肉食禁止・血の禁忌を戒める「大乗戒壇」ではなく、「小乗戒壇」を設けた。その「小乗戒壇」が設けられた三地域は、古墳時代、肉食する秦氏の支配地だった。
亡命百済貴族末裔が支配する京都を鎮護する比叡山での「大乗戒壇」の設立は、822年最澄の死後であった。
京都の比叡山延暦寺と江戸の東叡山寛永寺とには、多くの共通点がある。そのひとつは、「年号」を寺の名としていることだ。そして、百済系民族が、新羅系民族をその思想で貶める機関となっていることだ。その寺院の末路にも共通点がある。それは、戦国時代、比叡山延暦寺は、反仏教勢力の織田信長により壊滅されていた。そして、江戸時代末期、東叡山は、薩摩・長州の志士(官軍の下級武士は獣(シシ)と幕府軍に蔑称されていた。)により、徹底的に破壊されていた。寺院を破壊した織田信長も薩摩・長州の下級武士も、共に賎民の末裔だった。
その建立地にも共通点がある。上野の山は、古墳が多く築かれていた地だ。そして、比叡山に隣接する牛尾山の山頂には、磐座があって、先住民の信仰の地であった。その先住民である秦氏の神ミトラを抹殺するために、亡命百済貴族末裔は、唐の山東半島土着の神シャンワンを、山王として導入し、日吉大社とした。その日吉大社の神、大山咋神(おおやまくい)の使いは、猿だ。猿とは、秦氏のことで、秦氏を貶めるために藤原日本史には、多く登場する。
京都は、日本列島での民族差別の発祥の地で、そして、江戸は、民族差別を制度的に完成させた地だ。
では、江戸時代、天海は、どのような手法で民族差別を制度化したのだろうか。
天海は、1617年二代目将軍徳川秀忠が徳川家康の廟堂として建てた東照宮を、世良田の湿地帯に移した。そして、東叡山寛永寺建設着手前年、1624年その跡地に、日光東照宮陽明門を建てた。天海により、江戸の地と日光の地では、同時に新たな天台宗の宗教施設が築かれていた。それは、何故か。
天海は、古くから存在していた輪王寺に、法親王を迎えた。法親王とは、皇子か猶子を出家させ、これを「門主」の地位に据えた時の名だ。
この法親王を、「輪王寺門跡」といった。その「輪王寺門跡」に、天台宗を菅領して、比叡山、東叡山、日光をふくむ三山を統括し、絶大な権力を持たせた。
これは、奈良時代、藤原不比等が、人間であった天皇を現御神として、絶対の権力を持たせた戦略と同じだった。
これにより、天海の作文は、誰も逆らうことの出来ない「神の言葉」(平安時代、亡命百済貴族末裔により、藤原氏の創作した「神」は、騎馬民族を差別する漢訳仏教の「仏」の化身(僕)となる。)になった。
では、天海は、反仏教の騎馬民族末裔の源氏長者徳川家康の拓いた江戸幕府で、そして、騎馬民族末裔の重臣が多く暮らす江戸で、どのような戦略・戦術で、「神の言葉」を民衆に発したのか。
それを知るには、奈良時代、いかにして、藤原不比等が、人間天皇を唯一神の現御神にして、「神の言葉」を発した戦略・戦術を調べることにより分かる。
藤原不比等が、日本列島先住民を支配するために、まず考えたのは、如何にして4百年も続いていた日本列島古墳時代の歴史を消すことだった。そのためのひとつに、国史の編纂があった。
その日本列島国史の編纂のアイデアは、藤原不比等が歴史上突然現れた持統3年(689年)には、649年から690年までの唐帝国では、騎馬民族拓跋部の出自で漢族文化に染まった李世民と高宗父子は、「梁書」、「陳書」、「北斉書」、「周書」、「隋書」、「晋書」、「南史」、「北史」を編纂していた。これは、「史記」から「明史」までの中国正史24のうちの三分の一が、唐帝国時代初期に創作された。唐帝国で、北方の騎馬民族に蔑称を付けた多くの国史(偽書?)が編纂されていた時期に、藤原不比等は、日本列島史に突然現れたのだ。
日本列島古代史の基礎資料と云われる、藤原日本史では古来から万葉語が存在していたとするのに、漢字・漢文法による「日本書記」、「続日本紀」、「日本後記」、「続日本後記」、「文徳天皇実録」、「日本三代実録」、の六国史の編纂は、藤原不比等を租とする藤原氏一族が編纂したものだ。これらの、日本語(万葉語?)ではない漢文書籍は、誰に読ませるために創作したのか、不思議だ。
それらの史料だけではなく、古代新羅から渡来した秦氏を蕃族とした、平安時代初期に編纂された「新撰姓氏録」は、新羅国を憎む百済系桓武天皇の命により、藤原園人、藤原諸嗣等が編纂した。更に、南北朝末期に編纂された「尊卑文脈」は、左大臣洞院公定(藤原氏)が集成したものだ。これらの史料を基礎資料として、古代日本列島史は、編纂されている。
しかし、733年「出雲風土記」、812年「古事記」(712年太安万侶の編纂は誤り)の二書の編纂は、非藤原氏によるものだ。これらの二書は、藤原日本史の記述に逆らって編纂されている。
特に、平安時代、万葉語学者で「日本書記」の講義を生業としていた、古代新羅からの渡来民族秦氏末裔の多人長が編纂した「古事記」は、「日本書記」の或書に曰くの記述に沿って、反論的持論を展開している。そして、「古事記」最後の推古天皇の記述は、45文字の漢字のみだ。これは、「古事記」の序文にあるように、「ここに旧辞の誤りを惜しみ、先記の誤りを正す、云々。」を、サイファー式暗号で黙示したものだ。つまり、「日本書記」の推古天皇以前の記述を抹殺せよ、ということだ。
藤原不比等が歴史上現れた7世紀末以前の日本列島史は、藤原日本史が述べる、仏教文化黎明期の「飛鳥時代」や「白鳳時代」だったのか。
藤原日本史では、ヤマトタケルの東征伝で、東国の武蔵、上野は、天孫族の支配下となっていた、とする。そのヤマトタケルの活躍したとする年代を推測すれば、ヤマトタケルの父が景行天皇とするからには、その在位が4世紀前半からとすれば、4世紀中期から5世紀が考えられる。
「日本書記」でのヤマトタケルの侵略経路は、大和→伊勢→駿河→焼津→相模→上総→陸奥→日高見→常陸→甲斐→武蔵→上野→碓氷→信濃→尾張→近江(伊吹山)→尾張→伊勢、とする。
それに対して、多人長は、「古事記」で反論する。
「古事記」の侵略経路は、大和→伊勢→尾張→駿河→相模→足柄→甲斐→信濃→尾張→美濃→伊勢、とする。
ヤマトタケルの活躍したのが、4世紀中期から5世紀とすると、東国の武蔵には、古代新羅の漢字アルファベットのヒャンチャル(郷札/藤原日本史では万葉語)で、北方騎馬民族が使用するウラル語文法により表記された、辛亥年(471年)との金銘入りの鉄剣が出土した行田の稲荷山古墳のように、巨大前方後円墳が東国に築造されていた時期だ。
天孫族の墓制は、死者は「穢れている」とする思想なので、古墳を築くことはない。古墳を築く民族は、天孫族にとって異民族なのだ。
ヤマトタケルは、古墳を築く墓制を持つ、一種の独立国としての、武蔵、上野には入国できなかったことを、多人長は、「古事記」で黙示していた。
4世紀から5世紀の日本列島や東国には、どのような歴史があったのかは、藤原氏による焚書、歴史改竄や古墳破壊などで隠蔽されているが、奈良時代に藤原氏の創作した「中臣神道」の関連史料を斜め読みすることで、或程度推測できそうだ。
中臣神道関連の記述が歴史上登場するのは、「続日本紀」天平宝字元年(757年)「始めて制す。伊勢神宮の幣帛使は今より以後、中臣朝臣を差し遣わせ、他の姓の人を用いる事はならない。」、からだ。では、その伊勢神宮が創建されたのは、いつ頃なのか。
六国史によれば、伊勢神宮を皇祖神としたのは、持統天皇の時代、7世紀後半からだ。それは、持統天皇以前に、伊勢神宮に行ったとする、天皇の記述がないからだ。
藤原日本史によれば、持統天皇の前の、天武天皇は、壬申の乱(672年)の時、伊勢まで行ったが、伊勢の方面を遥拝したが、伊勢神宮には参拝していない、とする。それは、伊勢神宮に参拝しなかったのではなく、その当時まだ伊勢神宮など存在していなかったからだ。
伊勢神宮の創建時期は謎なのだ。その伊勢神宮に天皇として初参拝した持統天皇の出自も分からない。
藤原日本史によれば、持統天皇の母は、遠智娘、蘇我倉山田石川麻呂の娘(美野津古媛、またの名を造媛)との、三つの呼名を持っている。
藤原日本史では、歴史上架空の人物「聖徳太子」を厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳、法主王、豊耳聡聖、徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、上宮厩戸、厩戸皇太子など多くの呼名を創作したように、その創作人物の出自を隠すことが常套手段だ。
持統天皇の出自や事績にも、後人には知られたくない事績があるようだ。
持統天皇の和名は、「高天原広野姫」だ。藤原不比等が発明したアマテラスオオミカミの別名は、「大日霊尊(於保比ル燈崇q)」だ。「広野」と「比ル刀vとは、同音だ。
藤原不比等は、伊勢神宮を創建して、持統天皇をそこに参拝させ、何を企んだのか。
藤原不比等が創作した「日本書記」の神代の物語では、高天原→伊勢→天照→ニニギノ命、と祖母から孫への皇統譜が述べられている。つまり、母から孫への王権相続だ。これは、持統天皇→(草壁)→孫(文武天皇)への流れと同じだ。
藤原不比等は、文武天皇を「現御神」にすることを企んだ。
絶対神である「現御神」の歴史的初出は、「続日本紀」文武元年(697年)、「詔りして曰く、現御神と大八嶋国治しめす天皇大命(すめらがおおみこと)」、の記述だ。
藤原不比等が、日本列島の歴史上現れた、持統4年(690)年、唐帝国では、高宗が死去し、皇后武氏が、漢訳仏教組織を利用して政権を乗っ取り、則天武后となり、国号を「周」と称した。
そして、日本列島西国の奈良盆地での690年、持統天皇政権は、これより唐帝国の太陰太陽暦の儀鳳暦により朝廷儀式が執り行われて行く。これは、持統天皇政権が、「周」(唐帝国)の支配下に入ったことを示唆する。その根拠のひとつとして、唐帝国の律令が、大宝元年(701年)選定されたからだ。
律令の律は罰則で、令は法のことだ。しかし、この大宝律令が、どのような律令であったのかは分からない。それは、天皇をロボット化した藤原仲麻呂の時代、勝宝9年(757年)藤原不比等が刊修した養老律令に取って代わったからだ。この養老律令は、昭和20年(1945年)日本国の敗戦まで続くのだ。
藤原不比等は、その養老律令で、唐の律令にもない「神祇官」を創設し、太政官に並ぶ官を発明した。この神祇官の暗躍により、人間天皇は現御神と変身するのだ。
藤原不比等の日本列島乗っ取りの戦略は、政治は藤原氏、そして、神祇祭祀は中臣氏とし、カスピ海沿岸を祖国とする一族で、祭政両権を独占掌握することだ。
その神祇令一に、「凡そ天神、地祇は神祇官、常の典によって祭れ。」、とある。そして、以下官祭三十三項を挙げ「前件の諸祭、百官を神祇官に集め、中臣、祝詞を宣し、忌部、幣帛を班(わか)。」、とある。
この神祇令により、古墳時代の地方の氏神、氏ノ上は、「凡そ、天神、地祇は神祇官の管轄下」にはいることになった。その戦術のひとつが、班幣制度だ。
それまでは、古墳時代の各部族の氏人達が、その部族の氏神に物を供える風習を、律令国家側から諸部族の諸神を対象に班幣を「現御神である天皇」から授けるということだ。
しかし、この戦略・戦術が功を現すには、諸国3134座の主だった神社(もり)に幣帛を授けるまでに、大宝律令制定の701年から元慶元年(881年)まで、180年の歳月を要した。
そして、藤原時平が、古墳時代に土師器を造っていた者を租とする、反藤原氏である菅原道真を、大宰権帥として九州に左遷した、延喜元年(901年)から、27年を費やして、藤原時平以下藤原忠平等により、「祝詞」が集録された「延喜式」の法典が、927年に完成する。この法典により、神前で読む、「高天原」から始まり、「皇御孫命」(すめみまのみこと)に称えごと意(お)えまつらくと宣る、で終わる、現在に伝わる「祝詞」が完成した。中臣神道の祝詞は、神代の昔からではなく、平安時代に創作されたのだ。
更なる戦術として、古墳時代の氏神、氏ノ上を律令国家の管轄下におくための手段として、地方の神々に叙位、叙勲を与えた。世界広しといえども、神に階級を就けることを歴史上おこなったのは、日本律令国家だけだ。
その戦術の本意は、神々のものというより、古墳時代の神々を奉斎する氏神の元にある氏ノ上、氏人等の部族集団を、現御神天皇のもとに臣属させるところにある。現在では、この天皇からの叙勲は、有名人に対して授けられている。その本意は、古代も現在も同じだ。
現御神天皇から、古墳時代の神々に位を授け、勲位を与え、そして、神宝配布によって、古墳時代の諸国の神々は、天皇権威、権力に臣従した。しかし、その藤原不比等の戦略・戦術に乗らなかった神々や氏人もいた。それが、律令国家の世間から食み出た「芸能民」だ。
藤原日本史に登場する賎民とする芸能民とは、日本列島の古墳時代400年間も、古墳近辺の祭祀場で、太陽神の化身である鶏、鹿、牡牛を屠る犠牲儀式をおこなっていた祭祀者の末裔だ。
芸能民が遊行するのはあたりまえだ。それは、芸能民の租は、騎馬民族の遊牧民だからだ。遊牧民は、牧草を求めて夏営地の高地に、そして、冬は温暖な南面の山裾の冬営地に移動するからだ。そして、移動には物品を伴い移動先で交易する、商業民族でもあった。土地に定着しないからと言って、芸能民は、貧乏ではないのだ。
藤原不比等が、奈良時代に発明した「神祇官」の祭祀儀式は絶大で、藤原氏が政権から追い出された鎌倉時代の武家政権(武士政権は誤り)になっても、将軍の任命は藤原氏の手を経ずしては、その任に就くことはできなかった。
では、江戸時代の天海は、騎馬民族末裔が江戸幕府の重臣として存在していた江戸町で、如何にして、騎馬民族差別制度を確立したのか。それを知るためには、古墳時代を調べる必要がある。
騎馬民族とは、古墳時代の3世紀後半から7世紀まで、日本列島の西国を支配していた民族だ。しかし、7世紀末、唐進駐軍が、奈良盆地を支配下に置き、騎馬民族の日本海沿岸から南宋への交易路としての北陸道、東山道、東海道に「関」を設けたため、騎馬民族の支配地は、その三関の東側、つまり、東国だけとなっていた。
唐帝国は、騎馬民族突厥を歴史上抹殺したかった。
その理由は、唐帝国の前の隋の文帝は、東突厥の軍事力により、南北朝の動乱を鎮め、589年中国を統一し、隋とした。つまり、隋は、軍事大国の突厥にひれ伏していた歴史があったのだ。
藤原日本史で述べる、「飛鳥時代」とは、チュルク民族の突厥が、中央アジアとモンゴル高原を支配下におき、東ローマ帝国と、絹馬交易をおこなっていた時代だ。
古墳時代前期では、チュルク系突厥は、ペルシャ系柔然に製鉄民(タタールの製鉄→タタラ製鉄)として隷属し、日本列島にも渡来していたが、552年柔然に隷属していた突厥は、柔然を倒し、ユーラシア大陸草原地帯の中央に君臨した。その突厥帝国の庭には、東ローマ帝国の返使ゼマルクスが入っていた。この日本列島の古墳時代、西のローマ帝国と日本列島を含め東アジアとは、国際交易により繋がっていた。
しかし、601年、隋の陰謀により、突厥帝国は東西に分裂し、突厥からの隷属を解かれた隋は、突厥の騎馬軍団の一部を支配下に置いた。
明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍は、607年煬帝に手紙を送った。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」とは、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の族長のテングリ(天子)が、隋の漢民族文化に染まった騎馬民族拓跋部の煬帝を、テングリ(天子)と呼び、挑発したのだ。
それに対して、608年隋使裴世清は、小野妹子を伴い来朝し、藤原日本史では当時女帝推古天皇の時代であるが、明日香ヤマトで男王に謁見た。そして、同年小野妹子は、隋使を送り入隋した。古代では、中国大陸と日本列島との海路は安定していて、外洋交易船が頻繁に行き来していた。これにより、奈良時代の藤原氏が運営していた遣唐使船の度重なる遭難が疑われる。
587年、東西に分裂して軍事力を失っていた東突厥は、再び息を吹き返す。その流れで、日本列島では、美濃や伊勢に棲息していた騎馬民族突厥残留軍団は、新羅の皇子を擁立して、琵琶湖周辺を支配下においていた亡命百済王国との戦闘に軍事介入した。これが、672年藤原日本史で述べる、兄弟であるとする、天智天皇側と天武天皇側とによる戦争、壬申の乱だ。(史料によれば、弟の天武天皇は、天智天皇より4歳も年上だ。)
壬申の乱の実態は、兄弟争いではなく、朝鮮半島での軍事紛争の継続で、新羅対百済の戦争だった。
しかし、日本初の天武天皇が、686年死去すると、母親の出自が不詳の女帝持統天皇が、明日香ヤマトの政権を乗っ取った。その影には、唐帝国のエージェントである藤原不比等がいた。
藤原不比等が画策した国書では、東国の騎馬民族を貶める記述が多くある。「日本書記」では、東国の騎馬民族を蝦夷、つまり、海老のようなヒゲのあるエビス、と蔑称した。そして、蝦夷は、巣に棲み、穴に住む野蛮人で、土蜘蛛達は勇力を恃んで、尾ある人、或は国樔(屑)とも述べている。
「続日本紀」では、蝦夷を「性来強暴、侵ぎ犯すこと生業とし、村に長なく、主なし。界を争い互いに盗み、山には邪神、野に姦鬼、道を塞いで人々を苦しめる。東夷の中に蝦夷という者がいて頗る強し。男女・父子の別なく、冬は穴に住み、夏は樹に棲む。毛を敷いて血を飲み、兄弟互に疑う。山に登ること飛ぶ鳥のようで、原野を走ること獣のようだ。恩を受けては忘れ、恨みをみては必ず報復する。矢は常に髪にかくし、刀は衣の中に収め、仲間を集めては堺を犯し、或は農桑を伺って人民をかどわかす。撃てば草にかくれ、追えば山に逃げる。大昔から王化に従わず。」、とある。
この騎馬民族に対する記述は、中国の国書と同じだ。同じはずだ、日本の国書は、漢字・漢文の中国の国書を参考として編纂されているからだ。
藤原氏一族が編纂した国書には、騎馬民族を貶める記述に溢れているが、3世紀に創作された多くの漢訳仏教経典にも、騎馬民族を貶める記述が多くある。そのひとつに、菜食主義のバラモン教での遊牧民族を貶める言葉、「チャンダーラ」を「施陀羅」と漢訳した蔑称語がある。チャンダーラは、肉食する不可触賎民を指す言葉だ。
施陀羅の言葉がない漢訳仏教経典を見つけるのが困難なほど、漢訳仏教経典には、施陀羅の言葉に溢れている。
それは、紀元前2世紀頃、騎馬民族匈奴にひれ伏していた漢が、光武帝の時代、匈奴の経済・物流を支えていたオアシス国家を支配下に置き、匈奴を北南に分裂させた時代に、その農本国家の漢に、騎馬民族を貶める経典を持参して擦り寄った宗教者が、多くいたからだ。
奈良時代(552年又は538年仏教伝来は誤り)に唐帝国から日本列島に渡来して、多大の影響力を庶民に発揮した漢訳仏教経典の成立には、このような時代背景があったことを知らなければならない。
中国大陸で、漢訳仏教が弾圧されるのは、誇り高き騎馬民族のテングリが支配者となった時代だ。446年から452年、騎馬民族拓跋部の北魏王の太武帝は、風紀を乱す漢訳仏教を弾圧して、太陽神の化身である鶏の犠牲儀式をおこなう道教を保護していた。
この施陀羅の言葉を掲載する漢訳仏教経典は、奈良時代の漢訳仏教僧は、貴族相手であったので、庶民とは接触しなかったので、世間には、施陀羅の言葉は広まらなかった。
しかし、平安時代初期、国家公務員である漢訳仏教僧ではない、私僧の錬金術師空海は、「性霊集」で、「我および仏弟子にあらずば、いわゆる施陀羅悪人なり。」、と述べ、更に、蝦夷を「非人のともがらなり。」、とも述べている。
日本列島での民族差別発祥地の京都・亡命百済王国を鎮護する比叡山延暦寺が信奉する「法華経」の「安楽行品」にも、仏教経典を説こうとする者は、施陀羅と離れて(付き合いをしない)いるべきである、とする。
宗教の本質は、苦難に遭遇した難民を救済することだ。特定の民族を貶めるために、宗教があるはずはない。しかし、漢訳仏教では、その数多く創作された経典には、肉食する騎馬民族・遊牧民族を貶める施陀羅の言葉を掲載している。
現在では、「民族差別」を「部落問題」として摩り替えているが、藤原日本史の根底には、その騎馬民族の歴史を抹殺、或いは、改竄の流れが脈々と、現在まで続いている。
藤原不比等は、古墳時代に活躍した騎馬民族の宗教施設を破壊して、そこに、怨霊封印のために祠を造り、注連縄を廻らせた結界としての神社(もり/古代新羅で精霊が棲む処)を設置し、その神社を被征服民の長に管理させた。
神社(もり)は、征服者にとって怨霊の棲む処だ。しかし、被征服民にとっては、神社(もり)は、聖地だ。
奈良時代、藤原不比等は、神祇官をして、この神社(もり)を支配下に置き、先住民である騎馬民族末裔を管轄した。
江戸時代初期、天海は、その藤原不比等の戦略を真似た。しかし、それは、神社(もり)ではなく、寺社だ。その寺社とは何か。
平安時代、京都盆地を支配下に置いた亡命百済貴族末裔は、奈良王国を漢訳仏教勢力で支配する藤原氏による神社(もり)戦術を回避するために、そして、藤原氏の影響力を裂くために、日本の八百万の神は、実は仏が化身して日本の地に現われた権現(仮に現われた)であるとする、本地垂迹説を広めた。
そして、仏教の寺院と神道の神社(もり)を、仏主神従として、神社仏閣とした。そして、神前で仏僧が読経する神宮寺を創建して、藤原氏の影響力を宗教界から排除した。
奈良時代、藤原不比等により創建された伊勢神宮の境内には、神仏習合思想が広まった平安時代以降、多くの神宮寺が創建され、慶応4年(1868年)神仏分離令まで、伊勢神宮境内には、多くの仏像が安置されていた。
多くの人は、江戸時代初期から、民族差別がおこなわれていた、と信じているようだ。しかし、それは違う。
徳川家康が存命中、騎馬民族秦氏末裔の弾左衛門は、紋付袴二本指で、籠に乗り、江戸城の年賀に訪れていた。弾左衛門は、自らを、「穢多頭」ではなく、「長吏頭」としていた。「長吏」とは、中国では、役人を束ねる官僚のことだ。
しかし、車善七と訴訟を起こしていた6代目弾左衛門の集村の時代、正徳3年(1713年)弾左衛門支配地に近い浅草寺裏の山村座で、歌舞伎の「助六」が上演された。
その「助六」では、平家の残党伊賀平内左衛門とする、鬚の意休を、江戸の侠客である助六が、イジメるストーリーだ。実は、この意休は、平家の残党などではなく、弾左衛門のことだった。
1603年江戸幕府の成立から、1713年歌舞伎「助六」の江戸での初演までの110年間に、弾左衛門の処遇が、百八十度の転回となった。
それは、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉による、1591年全国の戸口調査と兵農分離を画策した、士農工商の身分法を手本として、1639年天海を顧問とした三代目将軍徳川家光が、キリスト教徒の排除を名目として、宗門改令を発した結果だ。
その宗門人別帳とは、信仰宗教を調べ、檀徒として属する寺社名を記載する民衆調査の台帳のことだ。この記載から外れると、無宿扱いとなり、「非人」と呼ばれた。6代目弾左衛門と訴訟を起こした車善七は、その非人頭だ。
日本全国の庶民は、何らかの仏寺に所属しなければならなかった。しかし、騎馬民族には、特別の寺が用意されていた。それが、「穢多寺」だ。その多くの「穢多寺」は、戦国時代に大阪秦王国を壊滅に導いた、浄土真宗本願寺派の枝寺だった。
天海は、この宗門改に先んじて、寛永12年(1635年)寺社奉行を設置していた。
寺社奉行の主な任務は、全国の寺社や僧職、神職の統制であるが、騎馬民族の宗教思想の流れにある修験道や陰陽師の民間宗教者や、古墳時代の祭祀者の末裔である芸能民らも管轄していた。
天台宗僧侶の天海による数々の宗教改革の裏には、京都の比叡山延暦寺、江戸上野の東叡山寛永寺、そして、徳川家康の霊が「眠り猫により封印」されている日光東照宮を統括する「輪王寺門跡」の「神の声」があった。
つづく
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- たそがれのプロカメラマン物語 終章 藤原日本史の闇へタイムトリップ 五月晴郎 2014/10/07 09:15:12
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