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(回答先: 足利義満と金 (八切史観) 投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 16 日 17:22:02)
http://www010.upp.so-net.ne.jp/ya-fuian/newpage11.html#銀本位制と金本位制との争い
=転載開始=
“八切止夫論”への糸口
■八切止夫氏の「本能寺の変」論を鳥瞰する(草稿から)
八切止夫氏の「本能寺の変」論とは何だろうか? 一般に、その主著『信長殺し、光秀ではない』というタイトル名から、漠然と持ち前の反発精神から、単に定説を弄んでいるに過ぎないのだろう≠ニ思われているのではなかろうか。
ところで、八切氏は「本能寺の変」について何冊もの本を出している。通常の作家であれば、一、二冊書けばそれでもう十分、となるのであろうが、八切氏は違った。氏は自分自身を納得させようとするかのように、何度も懲りずにトライした。そうであるがゆえに、氏の論述内容は 錯綜し、多くの読者は八切氏の所説を一点に絞り込めぬため、その論点構造を捉え損ねているのではなかろうか。
『歴史読本<完全検証 信長襲殺>』(1994.07)を見ると、氏の「本能寺の変」論は家康犯人説≠ノ分類されている。また、鈴木眞哉・藤本正行共著『信長は謀略で殺されたのか』(2006.02)でも八切止夫氏が真犯人としたのも家康で、齋藤内蔵助に依頼して信長を殺させたとしている≠ニ八切説を総括している。
この項目は本来は、この『ノート』が扱う範囲を超えているけれど、八切氏の「本能寺の変」論を総体的に論述される方が現れそうにないので、ここに一項を設け、鳥瞰的に述べさせてもらいます。導入として次の一文を引用します。
【テキスト】『徳川家康は二人いた』(1970.10)
この物語は、単なる読物ではないからそうすらすらとはゆかない。ここでひと息いれていただきたい。かつて私の書いた『信長殺し、光秀ではない』は自分のみた目から、これまでの史料といわれたもののでたらめさをつき、絶対に光秀ではないことを解明したものだったが、続の『謀殺』は春日局と江与の方の対立をエリザベス女王とメアリ・スチュアート女王との対決において信長殺しを説こうとしたものである。『信長殺し、秀吉か』では信長の弟の有楽の立場から、織田一門はあくまで秀吉こそ本能寺の変の黒幕ではないかとみていたのを書いた。だからすぐ続けて、この『信長殺し、家康か』〔『徳川家康は二人いた』の当初のタイトルであったらしい〕でしめくくりをつけねばならなかったが、これを書くと従来の徳川家康像が一変してしまうので、書き出してから二年経過してしまい、途中明智光秀の立場で、『正本織田信長』をエンタテーメントとして、これまでの総ざらえのように判りやすいものを書いた。
八切氏の主著『信長殺し、光秀ではない』は信長殺しは光秀ではない≠アとを論証づけるものであってでは、誰が信長を殺したのか≠ノついては論じられていない。ただ一箇所、ケネディー暗殺事件を述べている箇所で誰が家康なのかは、州警察か連邦検察しか判っていないのだろうが・・≠ニいう字句がそれと判らぬように忍び込まされているだけである。たしかに、八切氏は信長殺しの真犯人は、徳川家康である≠ニ書いた。けれども、これは低次(認識)レベルでの叙述であって、八切氏の本当の狙いはそれではない。「本能寺の変」勃発の本質は【銀本位制と金本位制の争いである】というのが八切氏の積極的な主張であった。このことは幾つもの本で述べられているにもかかわらず、一般読者も八切論§_者もこれを捉え損ねている。
以下、極めて煩雑になるので、八切氏が「本能寺の変」について、どのように述べていったのかを年譜的に整理してみたい。
●「反骨」(『話の特集』1967.06。2ページの文章)
春日局の権勢の一端を示しつつ、その姻戚関係を略述する。具体的には、春日局とその父(齋藤内蔵助)、内蔵助の母(蜷川道齋の妹)、蜷川一族の本家としての角倉家である。この姻戚関係が何を意味するかはここでは明らかにされていない。仄めかされているだけである。八切氏の秘めた狙いはここにあるのだが、論者たちは一向に気づかないらしい。
●『信長殺し、光秀ではない』(1967.08)
信長殺しに係わりのある諸実体として以下の存在が考察の対象にされる。
(1)御所の女御 (2)宮廷勢力 (3)信長の妻である奇蝶 (4)家康と齋藤内蔵助の連係プレイ (5)イエズス会(オルガンチーノ)。
そしてこれらの諸実体について次のように述べられる。
これらが共同謀議をするわけではないが、結果的にはそうなってしまい、信長殺しの直接の実行兵力は、齋藤内蔵助の指揮する丹波亀山衆。内訳は、丹波船津桑田の細川隊(指揮者は加賀山隼人正)、福知山の杉原隊(指揮者は小野木縫殿助)、亀山内藤党(指揮者は木村弥一右衛門)と認定される。
この本の中では、信長殺しの下手人として、可能性のある人物(実体)を列挙したのであって、いわば「本能寺の変」考察の土台作り≠ニなっている。だからこの本の中では、その当時の客観的な諸事象が記述され、疑念性のある諸実体≠ェ列挙されているだけなのである。
●『信長殺しは、秀吉か』(1967.12)
先に引用した文にあるように、この本では、
信長の弟の有楽の立場から、織田一門はあくまで秀吉こそ本能寺の変の黒幕ではないかとみていた
ことが述べられる。つまり、この本に盛り込まれている内容は、有楽斎が四十年の余りもかけて調べ上げ、心血を注いで書き上げたもの、という設定になっている。最後のほうで有楽斎の死が述べられ、次のように締めくくられる。
・・・正伝院如庵居士。と名を改めた有楽の骨壷は、えい(妻)の壺と一緒に、塔頭の墓地へ改めて埋葬された。
京都所司代は板倉勝重から、その伜の重宗の代になっていた。だが、かねて先代からの申次ぎでもあったのか、有楽の死が伝わると、すぐさま所司代役人がきて、有楽の残していった書き綴りの文書は一切押収していった。そして直ちに早馬によって、江戸城へ、そのまま厳封したままで送り届けられた。
徳川家康が死んで五年目になっていた。二代将軍秀忠は、眼を暗く光らせ、声を吃らせ気味に、
・・・なに、なんとかいてあるぞ。
と、気になるらしく、せかして革文筥をあけさせた。ひったくるように腕をのばして、有楽の書き残していった綴りを掴みとった。が、ぱらぱらと、めくったきりで、
・・・信長殺しは、秀吉か・・・か。これはいい。すぐさま権現様(徳川家康)ご霊前にお供え申し、直ちに火中に投じてしまえ。といい、ふふっと、異様な笑いを響かせた。
・・・つまり織田有楽が、四十年の余りもかけて調べあげ、心血を注いだものも、そのときの徳川家からみれば、一笑にしか値しなかったようである。
●『謀殺<続、信長殺し、光秀ではない>』(1968.06)
この本は、おそらく『信長殺し、光秀ではない』の中で、〔この春日局については〕<正説・徳川夫人>という本で解明するつもりである≠ニ予告された本であろう。先の引用文にあるように、
春日局と江与の方の対立をエリザベス女王とメアリ・スチュアート女王との対決において信長殺しを説こうとしたものである。
●『正本織田信長』(1968.11)
先の引用文にあるように、エンタテーメントとして、これまでの総ざらえのように判りやすいものとして書かれた。
●「稲葉佐渡守」(『戦国宿六列伝』収録、1969.09)
おそらく、この作品の中で初めて八切氏の狙いが披瀝されたのではないかと思う。初出掲載誌紙が判らないのでなんともいえないが、この本が発行される数ヶ月前に『日本経済新聞』あたりに掲載されたものであろう。
次のように八切氏の「本能寺の変」論の核心部分が述べられている。
・
室町御所はなやかりしころ、今の大蔵大臣の仕事を世襲でもつ者に、「蜷川」という家があった。その蜷川大和守道齋の妹が、美濃の名家(土岐の家老の名門)の滅びたのを幸いに齋藤姓を名乗るものに嫁した。
この長男が内蔵助。蜷川一族には京の銀を一手に握るという角倉がいたから、信長が京へ進出する時には重宝がられ、その金融方をした。しかし、信長の勢力が伸び、金ぐりが楽になると、齋藤内蔵助は軽く扱われ、金融がへたな明智光秀へ、軍さ目付けに廻されていた。ところが上方はもともと銀本位制なのを、信長は金本位制に通貨の切り替えをし一本だてにしようとした。
そこで切り替えられて銀の値打ちが下落したら大損をする吉田神道や角倉一族が、内蔵助に軍資金を出し、これに家康や秀吉、そして細川忠斎らが加担して、「六月二日の本能寺クーデター」を敢行させた。しかし秀吉が天下を取ると、天正大判小判は作ったが、これは貨幣としては強判流通させず、勲章代わりに諸大名に配るにとどめた。
●『徳川家康は二人いた』(1970.10)
先の引用文にすぐ続けてこの『信長殺し、家康か』でしめくくりをつけねばならなかったが・・≠ニあるように、当初のタイトルは『信長殺し、家康か』であったらしい。しかし、家康の生い立ちから書き始め、村岡素一郎の『史疑徳川家康』に沿った内容になっている。肝心の“本能寺の変”は埒外になっている。本来、この本は本能寺の変究明の書≠フ系列には属さない。ただしこれは私の主観的判断であって、八切氏にあっては信長殺し§_の枢要に属する。この本の要点を単純化して図式的に記すと次のようになる。
徳川家康は松平元康になりすまし、信長に従属する形で従っていた。
→ところが本能寺の変の起る直前、この秘密(徳川家康と松平元康は別人)が信長の知るところとなった。
→天正十年五月、信長は上洛するや一左右次第ご出馬≠ニ触れ回っていた。
→家康は一左右〔八切氏はこの語を「一掃」と解釈された〕されるのは自分であろう≠ニ驚愕した(成りすまし≠ェ発覚したと直観した)。
→慌てた家康はこの絶体絶命のピンチを乗り切ろうと齋藤内蔵助(蜷川=角倉一族)らと共同謀議を謀る決断をした。蜷川・角倉氏側からの働きかけもあった。
この事態=発覚≠ェ八切氏の信長殺し§_の中で大きなモメントとして位置づけられる。私がこの本は本能寺の変究明の書の系列には属さない≠ニ位置づけるのは、こうしたプロット展開を信(う)け入れることが出来ないからです。
● 「信長殺しの犯人は家康」(『日本裏がえ史』に収録された節文、1971.07)
この本は『歴史読本』に連載された作品を時系列に並べた本である。判明する限りでは、ほとんどが『歴史読本』(1966.05〜1967.08)に連載されたものだが、ここで紹介しようとしている肝心の「信長殺しの犯人は家康」の節文が『歴史読本』に見当たらず、初出誌が判らない。あらたに書き下ろされた可能性もあるのでとりあえずこの場所に置いた。
この節文がどういう趣向(論点)の叙述なのかは
小見出し【<本能寺の変 ><光秀にはアリバイ> <夫殺しの悪女> <家康と松平元康は同一人か>】
から想像して頂きたい。<夫殺しの悪女>とは信長の内室である奇蝶(齋藤氏)のこと。<家康と松平元康は同一人か>という小見出しがあることから判るように、上記の『徳川家康は二人いた』(1970.10)を踏まえた論述になっている。
●『織田信長殺人事件』(1972.12)
これまで、示唆的に述べられてきた諸実体の具体的な諸相が叙述されている。『信長殺し、光秀ではない』で犯人の可能性ありとして数え上げられた諸実体について、もう一歩踏み込んで描かれた作品といえる。諸実体として、齋藤内蔵助、徳川家康、細川幽斎、その他。
●『若き日の明智光秀』(1973.07)
「本能寺の変」論の総括として次のように語っている。
蜷川一族の中の角倉了意が、大坂城攻略の際の功によって、角倉船とよぶ朱印船を一手に握って、安く入手した金を海外で高価に売って、貿易独占したのは知られているけど、信長殺しの真因たるや、実は銀本位制と金本位制との争いだったことは、これまで書くべきかどうか迷って未発表にしていたのだが、この<若き日の明智光秀>の末尾をかりて、はっきりさせておきたいと思う。
だからもし、京在住の篤学者で、蜷川、角倉、吉田の家系を調べようとする方は、日本にもロスチャイルド家にも匹敵する大財閥があったことをよく研究してほしいものである。
光秀にしても、やはり(北条早雲や斎藤道三のような)変革の意思は有ったのだろう。でなければ第十五代将軍足利義昭の猶子になってまで、あわれ何日間だけの征夷大将軍になどなりはしなかったろう。が、光秀には、斎藤道三や北条早雲のごとき組織票もなく、これといった地盤がなかった。唯、光秀としては、「天皇制護持」という旗印だけで世直しを意企したにすぎないのである。が当時は、そうした権威よりも、足利体制が作りだした銀本位貨幣制度の動揺期だった。
(上の文の中に未発表にしていた≠ニ書かれているが、捉えかたの趣旨は既に作品「稲葉佐渡守」の中で示唆されていた)。
●八切日本外史』(1975.04)
この本の中の「銀の為にはなんでもやる」の節は次の叙述から始まる。
「これまでの銀本位制が金に取り代ったら、蜷川一族は破産するしかない」と親族会議。
「なんとかせな、わやくちゃでおす」となり、蜷川財閥の総裁である道齋は、妹の子で北国攻めの武勇で鳴り響いていた、美濃三人衆の稲葉一族の姪を嫁にしている齋藤内蔵助をよび、
・・・主君信長へ弓をひくのやで気いすすまんは判るが、一族の死活問題でおす」と説得した。惜しみなく軍資銀をだし、かねて銀のクツワをかませてある細川幽斎らを引き合わせた。
以下、八切氏が心に描く真実の像≠ェ腹蔵なく語られる。先に引用した『若き日の明智光秀』の示唆的文章をもう一歩掘り下げた叙述となっている。ある意味で、極めて図式的な叙述になっているので、判りやすいといえる。八切氏の「本能寺の変」論の核心が述べられている。
(ここに引用した節文の初出は「日本列島東西金銀対決」(『歴史読本<特集=東西対決の日本史>』1974.07)である)。
●『信長殺し、家康』(1976.05)
先の『徳川家康は二人いた』と重なり合う部分の多い作品である。純粋な「変」論の系統には属さない。理由は『徳川家康は二人いた』と同じ。
以上、年譜的に鳥瞰してみた。八切氏は当初から「本能寺の変」勃発の真因を銀本位制と金本位制との争い≠ニ捉えていた。この観点から『信長殺し、光秀ではない』は書下された。読者はこのことに留意しなければならない。このことに気付けば、同書(講談社版)の232ページに引用されている「蜷川家古文書」が単なる引用でないことが判ると思う。ここに八切氏の秘められたネライが埋め込まれている。
八切氏の認識構造を描くと次のようになる。先頭に(従来の「本能寺の変」にまつわる諸言説を超克したところの)【銀本位制と金本位制との争い】が据えられる。ここから、八切氏の「本能寺の変」論が流出する。
1)「本能寺の変」勃発の真因は銀本位制と金本位制との争いである(結論)。
2)その実体として蜷川・角倉一族(銀本位制護持派)があり、対立するところの織田信長(金本位制への転換を意図する変革派)が措定される。
3)信長の金本位制移行への策動≠阻止するために、蜷川・角倉一族は縁者である齋藤内蔵助に白羽の矢を立てる。
4)彼等は齋藤内蔵助だけでなく、徳川家康、細川幽斎らにも働きかける。
5)天正十年六月二日、『信長殺し、光秀ではない』で列挙された諸実体が期せずして共同謀議の様相を帯して、「本能寺の変」が勃発した。
八切氏の「本能寺の変」論はこのような認識構造をなしている。つまり、『信長殺し、光秀ではない』、『信長殺しは秀吉か』、『謀殺』で論じられているのは、以上、五つの(認識)レベル(階層構造)のうちの一番最後の第五層にあたる、ということを押さえておかなければならない。八切氏の「変」論への批判・解体作業はここから始まる。
<1,2,3>の論点構造を視野に入れず、八切は信長殺しの真犯人を徳川家康と考えた≠ニ要約しても、およそ無意味なのである。
では、どこから銀本位制と金本位制との争い≠ネどという発想が出てきたのか? その認識の根拠は二つある。一つは「蜷川家古文書」。もう一つは戦前の中国国民政府による幣制改革への視点である。
それともう一つ、これは憶測になるが岩生成一氏の『鎖国』(中央公論社、日本の歴史<14>、1966。現在は中公文庫)に教えられたものがあるだろう、ということ。
■“銀本位制と金本位制との争い”という発想
八切止夫氏の“本能寺の変論”の核心は「変」勃発の本質を“銀本位制と金本位制の争い”と捉えたところにある。このことを述べた『若き日の明智光秀』を読んだ時、私は少なからぬ衝撃を受けた。その後、小葉田淳氏の『金銀貿易史の研究』(1976)を読み、八切氏の論点に大きな誤認があることを教えられたのだけれど、それでも“こういう発想はどこから来るのだろうか?”という問いはずっと生き続けた。よく判らないままになっていたのですが、最近になって、こうした発想から創作された作品が『犯罪雑誌』(創刊号、1948.06)に載っているのに気づいた。この作品との出合は私の“八切止夫探究”全体にとって大きな転機となった。
「シルバー殺人事件<上海実話>」(筆名:大木栄三)この作品(二ページ分)の出だしの部分を取り出しておきます。
・「シルバーラッシュって御存知ですか? これからお話しようと思う、美人ダンサー殺害郵送事件は、まずこの時代的な背景から説明しなければなりますまい」
と語りだしたのは、上海で長年新聞記者をしていた岡崎順平で、彼は当時を追憶するように、眼を細くしながら、
「・・・昭和九年の夏・・・丁度中国では蒋政権が一応確立され、政府の英断で銀本位制が金本位制に切換えられるといった、政治的にも経済的にも大きな胎動期にありました。だがこの画期的な経済政策の断行で、中国銀貨の価値がグングン下り始めたことはいうもあでもありません。上海の為替相場は、大洋と呼ばれる一ドル貨幣が、銀本位当時には日本圓一圓五十銭で取引されていたものが、金本位になって見る見る一圓四十銭、三十銭と崩れ終いにはパーパーの一圓まで下落したのですが、その上良貨の中国銀貨に目をつけた人間が、秘かに銀貨の回収をはじめ、一ドル相場を一圓二十銭から三十銭に引上げる操作をやったので、中国銀貨はドンドン日本にも流入しはじめました。上海で一ドルを一圓十銭で買って日本に持って来れば二十銭から三十銭のサヤ稼ぎになる。廿銭として一千ドルで二百ドルで二百圓、五千ドルなら一千圓、いまでこそインフレで、千や二千の金は何の役にも立ちませんが、当時一千圓といえば、上海で享楽本位な生活を半年は続けられたものです。勿論、表面的な国際信義から日本にも「銀貨輸入禁止令」といったものもあったのですが、長崎や神戸の税関などでは、(臭い?)と睨んでも表面にさえ現品が現われなければ見て見ぬ振りで黙認していたようです。だから密輸入は物凄い勢いで増えて行き、女でも一人でも、三千枚から四千枚のドル銀貨を身につけて運んだものです。一ヶ月も航海もすればたちまち銀成金になりました。密輸の方法ですか? 主に銀貨入れの穴を一面作ったチョッキを着物の下に着込んで運んだようです。長崎などは、銀貨専門に買う仲買人が、上海航路の船が入港すると、ドッとタラップに駈け付けて、降りて来る密輸入者と契約を結び、税関を済ませて取引に移る、といった具合で、ちょうど最近の東京や大阪駅などでよく見るヤミ屋風景と全く同じなのです。少し前書きが長過ぎたようで、退屈されたかと思います。そろそろ本題に入りますかな。(以下略)
【写真:「シルバー殺人事件」、『犯罪雑誌』1948.06掲載】
ここで扱われている国民政府による幣制改革は、一般には忘れ去られているが、専門家にとってはとても興味の湧くテーマであるようです。私たち素人には把握不可能な事象と考えられます。とりわけ“香港上海銀行(現HSBC)、サー・フレデリック・ロス(英、ユダヤ人)”が関わっているらしいとなるとなると、素人にはもうアウトです。“公式見解”として『蒋介石秘録<11、真相 西安事件>』がある。この事象には次の事項が係っている。
中国の銀行(中央銀行/中国銀行/交通銀行)
中世のマニラ交易による大量の銀流入以来、中国では銅貨にかわって銀貨が流通していた。当時、中国は世界に比類のない銀保有国だった。中国のほかに銀本位制をとっていた国にアルゼンチンがある。
上海租界・・・英系の香港上海銀行(現HSBC)
サー・フレデリック・ロス(英、ユダヤ人)
1934年から1941年までの八年間に、米国が中国から買い入れた銀の量は合計で5億7180万2000オンス(1万6210トン強)。当時の購入金額にして2億6266万ドルにのぼった。米国が中国から買った銀の総額は邦貨にすると9億円以上。その前後で日本があげた貿易黒字の最高額(1939年、6億5800万円)をゆうに上回る。
この項目に書き込んだデータはほとんどが【検索】(複数)による。ある識者は次のように語る。
この幣制改革の問題の本質とは、1941年12月8日の開戦より何年も前から、日本と米・英は見えない戦争を始めていた、ということ∞これらの大方は忘却の彼方に葬り去られてしまった=B
インターネット【検索】その他を整理して年譜を作ってみた(→年譜【下記に転載:投稿者】)。そこまでしなくていいんじゃないの、といわれる方がおられるかも知れないが、“八切止夫探究”をするというなら年譜をつくってニラメッコぐらいはしておきたい。
(2007.1.10)
=転載終了=
【年譜】
http://www010.upp.so-net.ne.jp/ya-fuian/14_nenpu_heisikaikaku.html
=転載開始=
◎ 国民政府による幣制改革(略年譜)
【1927年(昭和2)】
4月18日、中華民国の国民政府が南京を首都として成立する。蒋介石、胡漢民。
イギリスの金本位制放棄
アメリカ、金本位制放棄
日本、浜口内閣による金解禁
【1933年(昭和8)】
10月29日、孔祥熙(銀行家、エール大卒。孔子75代目の子孫)、蒋介石ひきいる国民党の財政部長に就任。孔は市中の銀を回収し、元銀貨を発行するという廃両改元政策(本位貨幣の発行)を実施する。→中国、交通両行に国債引受を求めたが両行は首を縦に振らなかった。
【1934年(昭和9)】
6月20日、ルーズベルトのニューディール政策の一環として銀買上法が制定される。→銀急騰→中国銀が米へ流出→中国での金利高騰・物価暴落。
/ルーズベルトの行った強行対策のニューディール政策の一つに銀政策があった。彼は、銀を基礎とする通貨の大量発行を行って恐慌で急落した諸物価の引上げと、それによる景気の回復をはかろうとした。また低迷する銀貨を引き上げて、当時世界最大の銀本位国中国の購買力を増進し、アメリカの輸出を促進することで景気を回復しようとした。そのために彼が行ったのが銀政策であった。米国は1934年に銀買上法と銀国有令を出して、国内外で大量の銀の買上げに乗出した。この政策の背景にはアメリカの銀業者の利益を代表する「銀ブロック議員」の圧力が働いていたといわれる。
/アメリカの銀買上げが始まると、世界市場で銀貨は急騰し、中国銀が大量にアメリカに流出し、中国の幣制は混乱して、深刻な銀恐慌をもたらした。結局、ルーズベルトの銀政策は、その意図を実現することが出来ずに失敗に終った。
10月15日、国民政府の財政部は、銀輸出税の強制徴収などによって銀の流出を喰いとめようとした。これは一時的に効果をあげた。しかし一方では、大規模な密輸入を招いた。銭荘(両替屋)や商店などはつぎつぎに倒産した。
【1935年(昭和10)】
3月、孔は政府による中国、交通両行の経営掌握を宣言する。中国国内での国債消化には限界があった。
8月1日、中国共産党「八・一宣言」(抗日救国)を発する。
9月6日、英、財政顧問リース・ロスを東京へ派遣し(東京着、6日)、共同での中国援助を提案した。彼は外相・広田弘毅、外務次官重光葵らと会談、中国への共同借款の意向を打診するとともに、中国に幣制改革を進言する計画であることを明らかにした。これにたいし、日本側は「時期尚早である」といって反対した。蔵相高橋是清はこれを断る。ロスは孔に借款の供与ではなく通貨制度の改革をアドバイスする。
/一方で、英・米・仏・独などは日本とは対照的に多額のクレジットを設定して、中国に経済的進出をしており、これは日本の資本主義の弱さを露呈する出来事だった。
9月22日、リース・ロスは南京に入り、財政部長・孔祥煕、中国銀行理事・宋子文らと協議を重ねた。彼は、当面の財政危機救済策として、英国は一千万ポンドの借款に応じる用意があることを明らかにした。その結果、幣制改革(→11月3日)は断行されたものである。
10月、国民経済建設運動が展開される。
10月、11月の銀廃貨に先立って国民政府は駐米大使にある要求を出していた。時の米国財務長官ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアに会って「一億オンスから二億オンス、中国手持ちの銀を買ってくれ」と要求することだった。引き換えに得るドルと金を、中国通貨防衛に必要な介入資金とするためである。
11月3日(日)、国民政府は銀貨流通を禁止し、中央・中国・交通の三行の銀行券を銀と交換させるという法幣改革を行った。以後、中国はドルとポンドにリンクした管理通貨制度をとることとなる。孔は同時に銀国有令を発布し、天津銀行公会に対し華北における銀を上海に輸送するよう命じた。孔は国民から莫大な銀をかき集めた。圓ブロックを確立することにより国家経済を守ろうと考える日本は、幣制改革を妨害する方針を採るようになる。
民国政府は、銀を政府に集中させるとともに、通貨を金や銀の裏打ちを持たないペーパーマネー(無制限法貨)とした。この措置は日本の機先を制したもので、日本の計画はひとまず封じられた。
これ以後、中国通貨は米ドルと英ポンドに対する一定交換比率を参照する管理フロート制となり、戦いは為替市場を舞台としてその信用を巡る攻防へと転換する。
/別途、リース・ロスは次の意向を中国へ伝えた。@上海を基点とする中南部中国横断鉄道計画 A沿線各地の開発。この話しにサッスーン財閥(英)、オットー・ウルフ財閥(仏)、ユダヤ系各財閥(米)が参加したという。/この結果、銀貨の大部分が英米系財閥に集まり、彼等は銀相場操作で六割以上の利益を上げたといわれる。また、蒋介石政権もこれを軍用金として利用し、浙江財閥を率いる宋子文も大いに儲けた。
11月8日(金)、駐華大使館付武官磯谷廉介少将は、「現銀輸送防止に実力発動を辞せず」「出先軍としては国民政府のこんどの幣制改革には断然反対である。日本政府は反対の態度を内外に明らかにし改革を中止させるべきである」と声明する。銀国有令に基づき外国銀行に対しても手持ち銀の引渡しを要求してきたのを阻止しようとしたものである。日本は銀の密輸出を積極的に奨励した。
11月9日(土)、日本外務省は、中国幣制改革およびリース=ロスの対華共同借款等に反対を非公式に声明する。
陸軍中央も非公式見解として「幣制改革は必ずや失敗に終るであろう。銀の国有は中国民衆に不幸をあたえるもので、とくに英国の援助に頼ったことは売国的である」という立場を明らかにする。英国の意図やそれを受けての通貨防衛を進めようとする中国の動きが、さすがに当時の日本にも見えていたようである。
11月11日、為替市場が開くと同時に、日本は横浜正金銀行(外為専門銀行)を通じて大規模に中国通貨を売り浴びせる(大規模オペレーションを発動)。
/これが米国要路の意見を大きく動かしたらしい。継続中だった米中交渉は打開され、米国は直ちに中国から銀5000万オンスを買うことに同意した。
/買入価格は市場実勢を大きく上回るものだった。そして為替安定化基金の原資として中国政府に売り渡された米ドルと金はそのままニューヨークに留置された。つまり基金は物理的に米国に置かれ、しかもその介入オペレーションは米国の助言の下で実施されることになった。このとき、中国を代理戦争の場として、日本と米国は正面から戦う布陣になっていた。真珠湾攻撃に先立つこと6年のことである。
/〜これに対して孔は米国とのコンタクト・ラインを維持していた。彼は10月の間に、通貨防衛に必要な資金を確保すべく米財務長官モーゲンソーに銀購入を要請していた。結局米国は中国から銀5000万オンスを、市場実勢を大きく上回る値段で購入する。代金はそのままニューヨークに留められ、米国の助言の下で為替介入が実施された。こうして日本の通貨攻撃は撃退された。
/さすがアメリカで、ニューヨークにおかれた基金は当初こそ為替介入にその用途を厳しく制限されたものの、じきに軍事費として使われるようになった。つまり、米国は中国から銀を買うことで、対日戦争を文字通り支えていたわけである。
11月25日、為替戦争に勝つことが出来なかった日本は、軍事力で華北を国民党の支配から切り離すという北支分離工作を展開する。この日、冀東防共自治政府がつくられた。
11月30日、冀察政務委員会という傀儡政権がつくられる。
【1936年(昭和11)】
2月、黄元淋著『白銀国有論』(1936年2月)
【1937年(昭和12)】
7月7日、盧溝橋事件勃発。日本は武力だけでなく、銀密輸、法幣偽造などあらゆる手段を講じて国民党政府の経済基盤に攻撃をかけた。孔は必死に応戦する。やがて銀の在庫が底をつくと、孔は英国に助けを求めた。
/日華事変を契機に国民政府は法幣を乱発するインフレ政策をとった。通貨発行量は1937年を100とすると1944年には131万8559となった。実に1・3万倍の量であった。これは、第二次世界大戦後、国民党が急速に国民の支持を失っていく大きな要因の一つであった。
【1939年(昭和14)】
3月8日、(中国に売るべき銀がなくなり→)英国は中国と法幣安定借款協定を調印する。内容は、中国、交通両行に、香港上海、麦加利の英系銀行を加えた四行が、香港に新設された基金へ1000万ポンドを融資する、というものであった。各行の融資は英国政府の保証つきであった。さらに1941年4月25日、平衡基金協定が調印される。
【参考】『蒋介石秘録<11、真相・西安事件>』
【幣制改革という外科手術】 もう一つの(日本政府による)内政干渉は、中国の幣制改革にたいするものである。これは(1935年)11月4日から、(南京政府により)抜き打ち的に実施されたもので、その内容は、まちまちに流通していた銀貨の使用を禁止し、中央・中国・交通の政府三銀行の発行する銀行券だけを法定通貨とするものであった。これと同時にそれまでの銀本位制を管理通貨制へ移行させ、一元を英ポンド当たり一シリング二ペンス半と設定した。これは当時のロンドン銀市場相場からみて約四十パーセントの元の切り下げに相当する。幣制改革の直接の契機となったのは、わが国から外国へのとめどもない銀の流出と、それにともなう経済の停滞である。
中国は南京に政府を樹立(1927年)していらい、幣制の混乱と財政難に悩まされていたが、それに拍車をかけたのが、1934年6月20日、米国が定めた銀購入法であった、米国はこの法律によって国庫の準備金を追加しようと、大量の銀の買い入れをはじめたのである。
その結果、国際市場の銀価格がたちまち高騰、中国国内の銀は急激に外国へ流出しはじめた。その勢いはすさまじく、銀購入法施行直後から10月中旬までの3ヵ月半の間に、海外へ流れた銀は2億元以上にも達し、国内の通貨(銀貨)にさえこと欠くようになった。財政部は10月15日、銀輸出税の強制徴収などによって銀の流出を喰いとめようとした。これは一時的に効果をあげた。しかし一方では、大規模な密輸入を招いた。銭荘(両替屋)や商店などはつぎつぎに倒産した。幣制改革はこうした中国の経済危機を救う思いきった外科手術であった。と同時に、わが国の金融上の全国統一≠ニいう画期的な意義をもつものであった。しかし日本はこれにもくちばしをはさんだのである。
【深刻な金融危機を回避】 国民は新貨幣制度の実施を一致して支持した。内外の銀行もこれまでの銀貨をすすんで国民政府に提出した。暴落を続けていた上海為替市場は日増しに平静化し、相場は安定に向った。輸出は増加し、産業活動は活発化し、景気は目に見えて好転していった。
幣制改革の成功によって中国は、深刻な金融危機を一応回避できた。そのうえ政府が緊急時に対処できる能力を身につけていることを内外に示した。このあと長期の抗日戦から戦後の経済混乱を乗り切り、さらには最近のオイルショックに至るまで、常に金融を調整し、物価を安定させ、今日の中華民国に堅実な経済繁栄をもたらしたのも、このときの経済が下敷きになっているのである。
このような幣制改革に、日本は終始反対し、妨害しようとした。その理由は、一つには通貨の統一によって、中国の統一がますます強化され、華北分離工作がやりにくくなることを恐れたためであり、二つには幣制改革が英国の協力のものとに行なわれたため、中国にたいする英国の発言力が強大化するのを防ごうとしたのである。
英国は改革に先立って、中国政府に財政上協力する意思があることを表示し、英国政府主席経済顧問・フレデリック・リースロスを経済使節として派遣することを決めた。すると、日本政府は駐英、駐華両大使を通じて、これを中止させようと働きかけた。リースロスは、日本の了解をとりつけるため、中国訪問に先立ち、9月6日(1935年)東京に立ち寄った。彼は外相・広田弘毅、外務次官重光葵らと会談、中国への共同借款の意向を打診するとともに、中国に幣制改革を進言する計画であることを明らかにした。これにたいし、日本側は「時期尚早である」といって反対した。このためリースロスは英国が単独で中国と交渉するほかないと判断し、9月22日、南京にはいり、財政部長・孔祥煕、中国銀行理事・宋子文らと協議を重ねた。彼は、当面の財政危機救済策として、英国は1,000万ポンドの借款に応じる用意があることを明らかにした。その結果、幣制改革は断行されたものである。
【露骨に妨害する日本】 日本の軍部は露骨な干渉に出た。改革実施直後の11月8日、大使館付武官・磯谷廉介(少将)は「出先軍としては国民政府のこんどの幣制改革には断然反対である。日本政府は反対の態度を内外に明らかにし改革を中止させるべきである」と声明を発表した。翌9日、陸軍中央も非公式見解として「幣制改革は必ずや失敗に終るであろう。銀の国有は中国民衆に不幸をあたえるもので、とくに英国の援助に頼ったことは売国的である」という立場を明らかにした。
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中国国民政府による幣制改革 葫廬島からの帰国運動
◎ 錦県葫廬島からの引き揚げ(年譜)
■ 年譜(敗戦直後の奉天と邦人帰国運動)
資料として福田實著『満洲奉天日本人史』、丸山邦雄著『なぜコロ島を開いたか』を手引きとした。
両著は同じ奉天事情およびコロ島からの邦人帰還運動を述べているにも関わらず、不思議なことに系統を別にするためであろうか、記事が重なり合わず、接触がない。そのため、双方の活動を区別できるようにと考え、丸山氏らの邦人帰還運動≠ノ関する記事の頭に●印を付した。
◎福田氏の『満洲奉天日本人史』は、奉天日本人居留民会、日僑善後連絡所の立場から邦人の帰還運動が述べられている。
◎丸山氏の『なぜコロ島を開いたか』は在満同胞救済陳情代表部(東京在。丸山、新甫、武蔵の三氏が中核となる)の立場からコロ島経由邦人帰国運動が述べられている。丸山氏は昭和21年3月13日に帰国してより日本で政府機関その他に救援の要請活動を行った。同部の武蔵氏が再度満洲へ向い、救援活動を行うが、武蔵氏は筆(状況記述)を執らなかったので、肝心な満洲での活動の実情は不明となっている。
【1944年】
12月7日午前11時50分、中国の成都・昆明を飛び立った米B機約七十が、大連・奉天空襲。奉天市内の損害は軽微だった。
12月21日午前10時30分、重慶を飛び立った米 機、奉天空襲、被害大。鉄西の満州飛行機製造会社の工場、城東飛行場、奉天造兵所などが被爆。
【1945年】
(ソ連軍側の動きについて(→クラフチェンコ副司令官)
1月13日、米 機、大連・奉天空襲、被害大。
ソ連、日ソ中立条約の不延長を通告。
8月8日午後11時、ソ連邦、日ソ不可侵条約を無視し、日本に宣戦布告する。
8月9日未明、宣戦布告から一時間後の未明、ソ連軍、ソ満国境を突破して北満各地に侵入。
8月12日、関東軍司令部通化に移駐。
8月15日、天皇の終戦詔勅が放送される。
満州国の武部六蔵総務長官、大栗子に飛び張景恵国務総理以下各部大臣らと最後の重臣会議を開き、皇帝の退位,満洲国の解散、蒋介石政権の中華民国の支配下に移ることなどを決議して、裁可を得る。
/詔勅を受けて省・県公署、警察その他の行政機関は一斉に日系官吏が退去する。
8月15日、終戦にあたり蒋介石、「以徳報怨」の訓諭を全国に放送。
8月16日、関東軍司令部の山田乙三総司令官の裁断で聖旨にそい無条件降伏を決定。この日、この旨を申し入れて日ソ両軍の間で停戦交渉が開始される。
8月18日、満州国皇(溥儀)帝退位。
8月19日、通化で、皇帝退位の詔旨と満洲国の解体が発表される。そこで張景恵ら満系要人は新京にとってかえし、改めて東北地方暫時治安維持会を結成し、国民党政府代表の到着までの満州の治安を維持することを決定する。同時に、新京を長春に改める。日本側の一部要人もこの治安維持会に加わり、日本人が築き上げてきた文化的遺産を国民党政府に引き継ぐよう準備が進められた。
/皇帝、日本に亡命途中、通化より空路奉天飛行場に到着。日本飛行機に乗り換える寸前、連軍先遣隊に逮捕さる。
/この頃、一般中国人は国民党政府軍の進駐を待望し、在留邦人はソ連軍の手により治安が維持されることに期待をつなぎ、むしろソ連軍の進駐を望んでいた。
/ソ連軍先遣隊、奉天に進駐。
/終戦後、満洲の各地に日本人居留民会ができたが、これとは別に、8月19日、長春に東北地方日本人居留民救済総会が結成された(会長:高碕達之助=旧満州重工業会社総裁)。直ちに救済および既刊計画を樹ててソ連軍当局に提出したが、何ら回答はなされなかった。
8月20日、ソ連軍本隊、奉天に進駐。司令部を東拓ビル、宿舎をヤマトホテルに定める。
/中国人の一部が暴徒化し無防備の日本人に対する略奪暴行が始まる。
/満蒙毛織社長・椎名義雄ら射殺さる。
8月21日、ソ連軍戦車隊が奉天に入城。この日からソ連軍将兵の邦人に対する略奪、婦女暴行が相次ぎ、日本人は有史以来の大受難を迎える。ことに最初に進駐したソ連兵は北シベリアの囚人部隊だけあって凶暴そのもので,性に飢えた彼らから猛烈な梅毒を感染されたりして、日満人を問わず戦々恐々の日が続いた。
/この頃から、中国人一部により、邦人住宅街までが襲われ始める。
8月23日、奉天日本人居留民会結成(9月11日、改組)。
/奥地の日本人開拓団や一般邦人が着の身着のままの姿で続々奉天に流れ込んできた。こうした人々に対する住居の世話や衣類寝具の手当てが緊急の課題となった。そのため民間人の力で自治機関を作ることとなり、8月23日、満洲医科大学学長・守中清を会長とする日本人居留民会を結成。事務所を平安広場の明治ビルの中に置いた。
◎組織構成は、会長/副会長/総務部/厚生部/保護部/保険部/運輸部。
8月25日、居留民会の任務は、まず暴力対策と避難民の救済であった。度重なる暴行略奪にたいし、直ちにソ連軍司令部(当時,東拓支店跡)に赴き、暴兵暴民の取締りを要請した。そのため八月二十五日頃より中国人の暴徒もようやく鎮定されるに至る。しかし、ソ連軍の略奪はなかなか収まらず、撤兵するまで続く。
9月2日、長春の東北地方日本人居留民救済総会、旧日本大使から日本政府あてに窮状を訴え、資金の交付を要請したが、その回答は然るべく現地で解決せよ≠ニいうものであった。
9月7日、ソ連軍衛戍司令官が日本人の生命財産の保護を令するにおよび、一抹の望みをつなぐ。
9月11日、居留民会は守中清にかわって宇佐美喬爾(もと、満鉄、満洲車輌会社社長)を代表として改組し、ソ連軍衛戍司令官コフトン・スタンケウィッチ少将により正式に認定される。爾来、部内で毎日分区長会議を開き、各地の情報を持ち寄り、進駐軍との交渉や難民救済、防衛対策を協議して、できることから逐次実行に移していった。
◎改組後の組織構成:代表委員/委員/総務処長/副処長/救済処長/衛生処長/分室処長/(救済金)
◎当初、居留民会が最も苦心したのは,ソ連軍将兵の暴行にたいする予防措置であった。これには界隈の三業・遊郭組合と相談し、娘子軍を侍らせた。それでも需要に応じきれず、商売女のほか避難民からも希望者を募り店舗を増やすなどさまざまな措置を講じ対処した。
9月23日、終戦以来、奉天は遼寧市、瀋陽市と改称され、范培忠が市長に就任していた。ソ連軍の日本人にたいする物資徴発と重要施設の撤去はすさまじく、この難は中国人にもおよび、范市長自身がソ連軍の無法な物資調達の要求に苦しみ、居留民会に協力を求めるほどであった。9月23日、ソ連軍は居留民会に武器弾薬の回収を指示し、次いでラジオ、タイプライター、カメラなどの供出を命じた。次に重要産業施設の撤去ならびにこれらのソ連本国向け貨物積み出しのため、使役の差出を命令してきた。
/ソ連軍の真意不明のまま、うっかり出頭した邦人はそのまま北陵の捕虜収容所に抑留され、使役に使用されたあと、すべてシベリアへ送られた。奉天だけでもその数二万と称せられた。
/重要施設については、ソ連軍は当初、満洲工業会理事長・野添孝生を逮捕し、ソ連将校が拳銃を突き付け、工業施設の無償譲渡の契約書に著名させようとしたが、野添は、これらの施設は中国に帰属すべきであるとして断固拒否した。まもなくソ連軍は実力で鉄西その他の工場の機械器具類を取り外し、後には倉庫内の食糧、被服類はもとより、事務所・住宅内の家具調度品・絨毯までも日本人を駆使して搬出した。撤去された工場は、満洲住友金属/満洲電線/満洲機械製作所/満洲日立/満洲車輌/満洲計器/満洲飛行機など鉄西を中心とする諸会社など軒並みであった。
10月、この月から翌年春にかけて懸念されていた悪疫が流行。富士青年学校内の難民を発生源に、当時「敗戦病」と呼ばれていた発疹チブスが蔓延する。12月から1月が最盛期で、確認できた患者は二千百名であったが、実数はその三倍とみられた。
10月上旬、中共軍、瀋陽(旧奉天)に進駐。
/ソ連軍は進入してきてよりわずか二週間で全満洲の要地を占領。これに付随して中国共産党もいち早く満洲進出を企てた。元来、戦後の満洲は蒋介石・毛沢東間のいわゆる双十協定により、国民党政府の領導下にあるべきはずであったが、満州が国民党の手の届きにくい地点であること、中共軍が関東軍の兵器を入手せんとしたこと、ソ連軍も占領処理のあとを国民軍に引き継がず中共軍を誘導したことなどが原因で、ソ連軍に続いて入城したのは中共軍であった。/10月上旬、錦州方面から李運昌中共軍司令が奉天に進駐し、司令部を奉天市公署に置いた。次いで遼寧省政府首席に張学良の弟・張学恩が任命された。入城当初、抵抗する旧満州国警察署を襲撃、数人の警察官を殺し、中国人若干を民衆裁判にかけ処刑したが、ソ連軍治下にあるためか、それ以外に大事件は起きなかった。
10月8日、終戦後の未曾有の混乱で日本人の初等・中等学校は休校し、校舎もおおむね中国側に接収された。したがって再開するにしても建物がなく、やむなく寺院・民家・倉庫などを物色して仮の教室とし、10月8日から授業を開始した。この混乱期に平時の如く熱心に教育するのを見た中国人は日本人恐るべし≠フ感を抱かせたほど真剣だった。教育の内容については、中・ソ両当局ともあまり干渉しなかった。ただ国府側が孫文の三民主主義を原則とすること、武道・教練・地理歴史の科目を廃することなどの原則を示しただけだった。
10月中旬、ソ連軍より営業を開始すべし≠ニの指令が出される(再度、下旬にも出される)。
10月下旬、中共軍が入城するまで(10月上旬)、すでに満洲各地で国共軍の鍔迫り合いがあり、奉天にも国府軍の工作員が潜入、ひそかに旧日本軍人や在郷軍人に募兵が行われた。狙いは、奉天に日本人を主体とする反共ゲリラ部隊を結成し、国府軍を有利に誘導しようとする一種の建軍運動だった。その現れの一つが、旧日本憲兵隊本部の焼討事件であった。10月下旬の夜半、三経路義光街の元日本憲兵隊本部が一大音響とともに爆発。次いで家事となり本館を全焼した。当時空き家であったが、近く中共軍が司令部を市公署よりここに移すことになっていた。明らかに日本人グループの仕業であったが確証があがらず、間もなく入城してきた林彪将軍により居留民会にたいし厳重な戒告がなされた。林彪は、東北解放軍総司令として全満の中共軍を統括し、総司令部を博物館に置いた。
/入城してきた中共軍は一般に邦人にたいしては比較的寛大な態度を示した。ことに外事庁官・李初梨は日本人にたいして暖かい態度で臨んだ。むしろ中共軍は将来の東北建設に日本人の知識技能を活用する考えで、邦人をなるべく多く満洲に轢き留める方針であった。
/奉天の中共軍は軍紀厳正で、民衆とのトラブルはほとんどなかった。
/邦人市民は各町ごと隣組で夜警をし、輪番で附近の警戒に当った。二階や塀越しに見張りを立て、不審の者が現れたら鐘を打ち鳴らし大声を発して相手を退散させるのが精一杯であった。
/10月から11月初旬にかけて大広場前の三井ビル近くで交番襲撃事件があった。これは三井ビル地下室に共産軍のために逮捕抑留された日本人を助け出そうとして失敗したものである。これには国府軍に共鳴した若い日本人が参加したものと思われる(座談会での発言、『満洲奉天日本人史』316ページ)。
11月中旬、ソ連軍、撤退始まる。
11月26日、関東軍部隊の旧将校の一団が白頭山を中心とする東辺道を本拠にゲリラ戦を展開。彼等はひそかに在奉旧軍人に働きかけ、ソ連軍の暴状にたまりかねたグループがテロを企画。11月26日、大広場の東拓ビル(ソ連軍司令部)および警察局(ゲペウ本部)の建物を狙って手榴弾を投げつけるという事件が起った。この結果、日本人の反共分子にたいする取締りが一層厳しくなった。
12月15日、発疹チブスの蔓延に対処するためソ連軍の尽力で鉄西の奉天工業大学跡に八百人収容の病院を開設。居留民会の衛生処では、市内の医師や看護婦を総動員し、旧日本軍医療品の入手、軍病院の活用に全力を尽くした。検病・戸口調査・患者隔離・予防注射・蚤駆除などの防疫工作を実施し、旧満州医科大学内に予防ワクチン製造班を設け、三十五万人分を作った。この防疫活動で石川精一医師のほか、南満洲医学堂出身の亀山正雄、阿部浅吉の両医師が感染して殉職するに到った。
12月末、ソ連軍の命令で奉天に日ソ友好協会ができ、日本側の文化関係者・技術者の対ソ協力が要請された。
【1946年】
1月7日、瀋陽の中共軍撤収。
1月にはいってから、国府軍の地下部隊が奉山線を経て次第に奉天に進入し、次第に勢力を拡大する(1月末には奉山線の地区は殆んど国府軍の勢力下におかれる)。
1月下旬、米・中・ソ三国間の交渉により、各都市に進駐した中共軍は撤収することとなり、1月下旬、奉天の中共軍は撤退、以後、ソ連軍の手により治安が維持された。
2月、奉天の南市場に肺ペストが発生、3月末までに羅患者20名を発見。うち17名が死亡。
2月3日、通化の日本人、多数殺害さる(通化事件)。
2月8日、●丸山、新甫、武蔵の三氏、国府軍の奉天地下部隊の総司令部を訪ねる。
2月26日、●奉天を出発。国府軍総司令部の厚意により二名の更衣の青年将校に護衛され奉天の次の小さな駅で乗車し、錦県からコロ島に寄る。場所確認のため(大連・栄口・鴨緑江などはソ連軍・中共軍で押さえられていて、コロ島だけが国府軍の勢力範囲だった)。山海関へ向う。
3月9日、●丸山氏ら、大沽港にて急遽、米上陸用舟艇(邦人引揚船)に便乗(13日に山口県仙崎に上陸)。
3月11日、ソ連軍、瀋陽(旧奉天)撤収を開始。
/3月11日、奉天市内の十字路にあったソ連軍の大型戦車が夜半のうちに姿を消し、将兵の大部分もいずこへか撤退した。それから数日の間、遠雷のような砲声が運河方面から聞こえた。もともとソ連軍は国民政府に対して三ヶ月以内に(=前年10月まで)満洲より撤収する約束をしたのであるが、奉天の重要工場の施設略奪とその輸送に日時を要したことと、中共軍に日本軍の兵器引渡しなどその兵力増強に時間をかけたため、七ヶ月も長期駐留したのであった。
3月12日、国府軍先遣隊、瀋陽に入城(3月17日、本隊入城)
3月13日夜、●九州小倉市の朝日新聞西部本社で記者会見を行う(報道は一切隠蔽された。ソ連を配慮したため)。
3月15日、●丸山氏ら、東京品川駅に着く(丸山氏宅を代表団の帰国運動の本拠とする。「在満同胞救済陳情代表部」東京都杉並区久我山二の六〇九)。
3月16日、●丸山氏ら、各種関係機関、GHQ民間引揚者団体等を訪れる。幣原首相にも面接し在満同胞の救済方途を要請する。
3月17日、国府軍本隊、正式に奉天に入城。東北接収を目的とする東北行轅の本部を鉄道総局の建物に置き、主任の熊式輝が着任した。
/撤収していた中共軍はその後、勢力を盛り返した鉄道沿線背後地の農村地帯を逐次掌握し、国府軍の駐屯する都市を包囲し始める。国府軍はこれに対抗し、米国式の近代装備を整えた新鋭の新一軍、新三軍、新六軍を東北に投入。合せて19師団、十五万五千の兵力をもって中共軍の包囲陣の切り崩しにかかり、各地で国共間の戦闘が繰り広げられた。
/奉天に進駐した国府軍の将兵は服装こそ米国兵並で立派であったが、共産軍と異なり生活が派手で、日本人居留民に対する物質的要求も大きかった。中共進駐期の張学恩も厖大な要求をして居留民を困却させたが、こんどの国府軍将兵は米を主食とする中華・華南の出身であり、生活様式も満洲と異なるところから、その要求は過大だった。ソ連軍の撤退で愁眉を開いた居留民会は、ひと息つく間もなく国府軍将兵にたいする歓迎・接待・家屋の接収改造・使役の供出・工場の修理再開など目まぐるしい忙しさであった。
/元満洲日日新聞および康徳新聞の社員たちが中心となり瀋陽の同社工場を利用し、3月7日より『東北導報』が発行される。
3月20日、●丸山氏ら、HGQ総司令部を訪問。一日も早く引揚船を送ってもらいたい。コロ島一港だけが完全に国府軍の勢力下にあるからマッカーサー司令官から国府軍に諒解を求められればトラブルなく引揚が開始できます≠ニ要請。
3月23日、●丸山氏ら、引揚援護院を訪問。
3月26日、●丸山氏ら、鉄道省を訪問。国有鉄道全線二ヵ年無料使用の乗車証を発行してもらう。
3月30日、●丸山氏ら、外務省を訪れ、吉田外相に面接。
3月30日〜4月3日、●丸山氏ら、長野県下の主要都市で開催された満鮮同胞救出県民大会に出席。
4月5日、●丸山氏ら、マッカーサー元帥と面接。ご理解とご同情と断固たる決意によって、一日も早く引揚船を出して頂きたい≠ニ要請。
4月6日、国府軍、日本人取締機関として保安司令長官邸に日僑俘管理処(略称:日管)を設置。初代処長に李修業が就任。事務所を奉ビル前の旧土木事務所においた。
4月7日、●学生同盟の主催により、京都植柳国民学校で京と市民大会が開催される(学生同盟は留守家族の中の学生によって海外同胞の救済を目指す組織)。
4月14日、長春で国共市街戦。翌日、中共軍占領。
4月15日、日僑俘管理処の訓令で、従来の奉天日本人居留民会は、瀋陽市日僑善後連絡処に改められた。
4月17日、●丸山氏、東京中央放送局から「在満同胞の実情を訴う」というラジオ放送をする。
4月18日、●楢橋書記官長の斡旋により、在満同胞の救済を目指した各省合同の次官会議が開催され、席上、丸山氏らは満州の実情を報告し、同胞の救済と引揚船の配備を訴える。
4月19日、●丸山氏ら、警保局長に面接。同局長の斡旋で警視庁交通課より救済代表部の活動に要する自動車、ガソリンの配給を受けることになる。
4月20日、●丸山氏ら、HGQより呼び出しを受け、本部へ向う。そこで、近く引揚船を出すことに決まったことを告げられる。
4月23日、米国は人道上の問題として早期解決に努力した結果、米軍の国府軍側にたいし指導督励がなされ、4月23日、国府軍当局から錦州からの日僑あて遣送開始の命令が発せられた。すでに瀋陽駐屯の国府軍部隊の中に米軍将校団が加わっており、その周到緻密な計画に基づき引揚が実行される段取りとなった。引揚者は分区・町内ごとに大・中・小の軍隊式編成とし、これに医師、看護婦がつき、無蓋車の貨物列車に積み込まれ、北站(北奉天駅)を出発、錦州を経て葫廬島港に輸送されることになった。持帰金は一人一千円を限度とし、携帯品は見回り品と当座の食糧・常備薬品に限られ、刃物はもちろん書籍・地図・外国通貨・証券類などの携帯は一切許されなかった。日僑総処では、全員に身分証明書、退去証明書を支給し、コレラ・発疹チブスの予防注射や種痘を実施するほか、出発駅における諸段階・乗車(船)前の待避所として錦州、錦西、葫廬島に集中営の設営など、眼の廻るような忙しさであった。(→五月十五日、最初の引揚列車が瀋陽北站を出発)。
4月25日、●マッカーサー総司令官の命令で待望の引揚船第一号が急にコロ島に向け出航することになる。
4月25日、●武蔵氏、満州へ渡るため佐世保より引揚げ船に乗船(5月2日、コロ島に到着)。
5月7日、●在満日本人引揚第一陣、コロ島港を出港。
5月14日、●コロ島からの在満引揚げの第一船が、一般邦人1,219人を乗せて佐世保港に入港。これに引き続いて、15日、16日、17日、18日、26日と、次々と13隻で2万人余が祖国に帰還した。舞鶴、博多に上陸する人々もあったが主に佐世保港から上陸した。
◎【右写真:葫廬島に避難する邦人(丸山邦雄著『なぜコロ島を開いたか』より)】
5月15日、奉天からの最初の引揚列車が瀋陽北站を出発(この第一期遣送は10月までに一応完了。遣送員数は瀋陽を含め全満で、国府軍地区約七十七万三千、中共軍地区約二十三万七千、計百一万人に達した。
6月、奉天にて、錦西方面からコレラが侵入。7月11日、柳町に患者を発見したので防疫体制にはいった。その間、121名の患者を発見。うち68名が死亡。
6月15日、●パンフレット『在満同胞を救え』発行される。【目次】 一、無政府状態の現出/二、物売り児童の憐れな姿/三、特筆すべき悲劇/四、関東軍の無能/五、病に斃るる者、激増する難民/六、強盗防衛のサイレン/七、難破船を彷彿せしむ/八、百七十万人同胞の魂の叫びを提げて/九、先ず現地の救済を/十、速やかなる救済の方法(急速に引揚船をコロ島に出すことを強調)/十一、平和国家再建の一大試練/十二、同胞愛の純情。
6月末、連合国司令部の斡旋で、当時の金額で三億五千万円を中国政府から東北日本人代表に供与されることが政府間ベースで決定され、6月末、満州国幣一億円の貸与が通知された。その後、貨幣価値の下落に伴い金額も上昇し、総計百十余億円に上る金額が供与され、昭和23年8月15日の最終遣送まで充当された。
7月10日、●丸山氏ら、宮内省を訪問。
7月、東北日僑善後連絡総処が瀋陽に設置され、各地の日僑善後連絡処の統括機関として、東北全体の邦人の救済・引揚準備にあたることとなった。
7月13、●17、19日、三回にわたり衆議院内で在外残留者の帰還問題について懇談。
9月10日、大学の授業は九月十日より再開し、日・中・ソの各学生が引き続き受講した。このうち日系の学生は、予科・本科・薬専とも約三百名が大学に残り、手分けして広大な学園を守るとともに、市内各所に診療所や薬局を開設し、巡回施療も行って難民に対する診療奉仕と防疫に従事した。
10月3日、●4月25日に渡満した在満同胞救済陳情代表・武蔵正道氏が、その任務を果たして無事帰国。
◎【右写真:葫廬島全景(丸山邦雄著『なぜコロ島を開いたか』より】
10月5日、●各方面の有力人士の協力を得て、大陸同胞救援連合会を結成。
10月11日、●日比谷公会堂にて朝日新聞社主催の海外残留同胞家族および関係者大会が開催される。
11月7日、●丸山氏ら、永田町の首相官邸を訪れ、吉田総理に面接。
11月初旬、第二期遣送は安東方面その他の地区を加え11月初旬から12月下旬にかけて約4,300人余となった。
11月末、●五月から始まった満州からの引揚は11月には殆んどの同胞は帰国した。
12月に入り、全国民待望のソ連領土および同占領地区よりの邦人送還に関する基本協定が、ソ連代表とGHQの間に成立し、樺太、千島、大連、北朝鮮、シベリアなどよりの引揚げが開始されることになる。
/12月、、邦人の大連港からの帰国が始まる。この月から23年7月まで、大連港から約25万人近くが遣送される。
12月8日、ソ連進駐軍の占領管理下の大連から、同地区同胞の引揚第一船永徴丸、辰春丸が六千名の同胞を乗せ佐世保港に入港する。
【一九四七年】
1月10日、●佐世保で業務を遂行していた丸山氏のもとに、氏の家族と思われるグループがいる、との連絡を受ける。ようやくにして大連に避難していた家族と再会する。
1月、この月、大連から16隻の引揚船で5万人が引揚げる。
2月、この月、大連から15隻の引揚船で4万人が引揚げる。
3月、この月、大連から23隻の引揚船で6万人が引揚げる。
3月10日、代表団の新甫氏の家族が佐世保入港の引揚船で帰国。
4月1日〜、大連からの引揚げは4月1日に大瑞丸・第一大和丸、3日には高砂丸を最後として合計6,000人の同胞が引揚げられ、大連からの引揚げはこれを最後とし殆んど完了した。
5月、この月から8月末にかけて約一万八千人の遣送が行われた。これをもって一応国府地区の遣送が完了した。
6月28日、「残留同胞急速帰還実現全国連盟」を結成し、本部事務所を東京杉並区久我山の在満同胞救済陳情代表部に併置する。
8月、熊式輝に代って東北行轅主任となった国民政府の陳誠将軍はみずから東北剿匪総司令として中共軍を迎え、頽勢挽回を図る。
9月、この月から10月にかけて遣送が続けられ、約一万一千人が日本へ帰還した。葫廬島経由で日本に帰還した員数は合計百四万六千五百五十四人に及んだ。このほか関東州では、昭和21年12月から23年7月まで、大連港から約25万人近くを遣送する。これに北鮮または華北経由で帰国した5万人を加えると、ソ連抑留者を除き、満洲から130万人ないし135万人の日本人が内地に帰還したことになる。
11月6日、コロ島からの最後の引揚船・大安丸が佐世保に入港。
【1948年】
4月3日、大連港からの最後の引揚船・高砂丸が佐世保に入港。
夏、国民政府の陳誠将軍(東北剿匪総司令)は、夏から秋にかけて三次にわたる遼瀋作戦において中共軍と戦う。林彪に率いられ、すでに農村を確保した中共軍は国府軍(15万)に壊滅的打撃を与える。
10月、日僑善後連絡所が閉鎖され
10月、国府軍の勢力範囲だった長春が陥落する。
11月2日、国府軍の勢力範囲だった瀋陽・栄口が陥落。国府軍の敗因として次のことが挙げられる。
◎中共軍の包囲で兵站の補給が絶たれたこと/国府軍の将兵に南方人が多く、満洲の現地人と摩擦を生じ、その協力を求められなかったこと/国府軍の南方人は東北の気候に慣れず、また東北に執着がなかったのでその復興建設に熱意を持たなかったこと/国府軍将兵は奢侈にふけり軍費を乱用したこと/軍人官吏の貪汚堕落と内部の不統一が目立ち士気が奮わなかったことなど。
1949年10月1日、東北を手中に収めた中国共産党は中華人民共和国を創立、全満洲をその版図に収めた。
(2007.1.10)
=転載終了=
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