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(回答先: たそがれのプロカメラマン物語 第五章 室町時代へタイムトリップ 投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 16:09:33)
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第六章 戦国時代へタイムトリップ
徳川家康は、藤原氏の戦術、夷(イエズス会)を以って、夷(秦氏・騎馬民族)を制す、を知っていた。
オレは、東京・北区王子の飛鳥山の古墳を見てから、ここ二三日変な夢を見続けている。
その夢の概略は、こうだ。
オレが赤羽台の古墳建設場に立って、眼下に広がる草原を流れる荒川を眺めている。すると、場面が変わり、オレは河舟に乗って、上流を目指す。途中、荒川と利根川に挟まれた大洲に、巨大前方後円墳群を見つける。更に遡り、毛野の国(群馬)で上陸すると、そこには、巨大前方後円墳がいたるところに点在し、多くの馬が生息していた。そして、馬を乗りこなす集団が、幅広の直線道路を闊歩していた。馬車は、多くの商品を満載していた。それらの多くは、絹の原料の繭玉だった。
この夢を、オレなりに分析すると、こうだ。
オレが夢で存在した時期は、赤羽台の古墳は後期築造だから、6〜7世紀頃だ。そして、途中で見た巨大古墳群とは、行田のさきたま古墳群だ。さきたま古墳群は、5〜7世紀頃に築造された。そして、群馬の古墳群は、4〜7世紀頃に築造された。
その東国古墳の特徴は、馬具の出土品が、畿内古墳よりも多いことだ。畿内380基に対して、東国760基。そして、古代馬牧場遺跡数、畿内0、関東27。
古墳時代前期の3〜4世紀、前方後円墳と前方後方墳が並存していた。その前方後方墳が集中していた国は、出雲と群馬だ。その出雲と群馬との共通点は、供に、鼻濁音系で会話をすることだ。このことは、出雲と群馬との人的交流を示唆する。
しかし、前方後方墳は、古墳中期の5世紀になると、築造されなくなり、前方後円墳のみ造られ続ける。この頃、竪穴式石室に替わり、古代エジプト式埋葬法の横穴式石室に石棺が現われる。このことにより、新しい土木建築技術を保持した民族の渡来が示唆される。
群馬の宝塔山古墳は、石切組積室構造の横穴式石室に、玄室には精巧な加工を施した家形石棺が安置され、さながら、古代エジプトの墓を思わせるほどだ。
3世紀の日本列島には、馬が生息していないと、魏志倭人伝にある。すると、馬は、海を渡れないから、当然、ひとが馬を日本列島に持ち込んだ。
外洋航海術は、紀元前14世紀には開発されていた。だから、穏やかな日には、小船でも、日本海を渡りきることは可能だ。小船には、子馬を乗せればよい。
では、4世紀以降、馬を日本列島に持ち込んだのは、誰か。
その候補のひとつとして、騎馬民族の柔然があげられる。紀元300年頃、柔然は、鮮卑から分かれた、ペルシャ系民族を中心とする集団だ。柔然は、東ローマ帝国が求める絹を入手するため、その生産地である南朝の宋との通交を求めた。しかし、宋の北には、柔然の宿敵である騎馬民族拓跋部が支配する、北朝の北魏が存在していた。
そこで、柔然は、北魏を迂回して、宋に至る回廊としての、日本列島を目指す。しかし、朝鮮半島の付け根には、高句麗が存在する。朝鮮半島を迂回するには、日本海を船により渡ることだ。沿岸のナホトカから出港し、リマン海流に乗れば、自然と南下する。朝鮮半島の先で、対馬海流に乗れば、行き着く先は、出雲だ。出雲では、砂鉄が多く産出する。馬具生産のためのタタラ製鉄を行うには、うってつけの地域だ。
騎馬民族は、馬具の生産・修理のため産鉄民族を配下においていた。この頃、騎馬民族の突厥は、産鉄民族として、柔然に隷属していた。
日本列島は、魏の時代(220年〜265年)には、養蚕の植民地となっていた。卑弥呼は、魏に絹製品を貢いでいた。魏は、絹を産出する卑弥呼の国を護るため、将軍までも派遣していた。その頃、日本列島で養蚕が盛んとなっていた地域は、桑の育成に気候的に適した、群馬だ。そのため、群馬は、シルクロードの東限となった。
柔然の騎馬民族は、出雲に上陸すると、繭玉産地の群馬を目指した。群馬で、鍛冶が盛んとなったのは、柔然の産鉄民族が渡来したからだ。そして、前方後方墳が、出雲と群馬に築かれたのは、このためだ。
しかし、6世紀、アルタイ山脈麓に、チュルク系の突厥国が興ると、柔然の勢力は衰え、壊滅した。突厥は、ユーラシア大陸を支配下に置くと、東ローマ帝国と、絹馬交易をおこなった。その東西交易の主人公は、ペルシャに拠点を置く、ソグド国際商人だ。その突厥の庭には、東ローマ帝国の返使としてゼマルクスが訪れていた。
突厥は、朝鮮半島の一部を支配下に置くと、絹を求めて、日本列島に進駐した。この突厥がユーラシア大陸を支配したことにより、日本列島には西域国際商人が訪れ、国際自由交易の時代となる。明日香ヤマトから噴水の遺構が発掘されたのは、国際交易商人達により、西域の文化が持ち込まれていたからだ。
突厥進駐軍は、縄文時代からの国際交易地である、奈良盆地の三輪山麓のツバ市を支配するため、北陸道から奈良盆地を目指した。しかし、その盆地には、巨大前方後円墳を河内や奈良盆地に築いていた、古代新羅から渡来していた花郎騎士団が駐屯していた。
戦いの末、突厥進駐軍は、花郎騎士団を支配下に置いた。突厥進駐軍は、明日香ヤマトを砦とし、花郎騎士団は、イカルガを基地とした。そして、古代新羅からの渡来民が築いていた前方後円墳に替わって、奈良盆地では、北方騎馬民族系の方墳が築かれていく。
しかし、645年唐進駐軍が、突厥進駐軍を奈良盆地から駆逐し、支配を完了すると、日本列島西国では、巨大前方後円墳が築かれなくなる。
西国の古墳時代が終わり、奈良時代になると、死者は古墳に生前の姿で埋葬されるのではなく、死者は穢れとして燃やされてしまう。日本列島の西国での死者の埋葬法が替わるということは、西国の支配民族が替わったということだ。
その奈良時代初期に、藤原日本史の基礎史料となる「日本書記」が、唐進駐軍の通訳(史・ふひと)であった藤原不比等(正式の姓は籐氏・トウ氏)により、明日香ヤマトで使われていた万葉仮名(租語は古代新羅の漢字アルファベットの郷札)ではなく、唐帝国で使われていた漢字・漢文で創作された。
藤原日本史では、「騎馬民族日本列島征服説」を否定するが、古墳時代の400年間、騎馬民族は支配者として、日本列島に、確かに存在していた。それは、岩手県以南から九州まで、馬具と武器を埋葬する同型の前方後円墳と、そして、幅広の直線道路網により各国の前方後円墳群地域を繋いでいたことでわかる。
氏族とは、血縁、擬似血縁関係で結ばれた小集団だ。部族とは、その氏族同士が政治的関係で結ばれた大集団だ。そして、その部族が集団で暮らす集落が、部落だ。その部落が、藤原日本史では中世の歴史を歩むと、日本列島西国の秦氏や騎馬民族末裔の集落が、何故、被差別部落となってしまうのか。
騎馬民族が、平安時代以降から江戸幕府の徳川家康まで、源氏長者として支配していた日本列島東国では、今日でも、部落は部落なのだ。
藤原日本史による、奈良の藤原氏と京都の亡命百済貴族末裔とが支配する日本列島西国での被差別部落の布教は、たんなる民族差別などではなく、大阪に拠点を持つ秦氏の歴史抹殺ではないか、と考えられる。それは、秦氏を、不可蝕賎民「穢多」とし、常民といわれる農耕民からの「隔離」が目的と思われるからだ。
そして、藤原日本史では、鎌倉時代、秦氏や騎馬民族は、肉食することで、穢多の蔑称をつけらた、とする。動物を殺し、その肉を売ることが、穢多の定義のようだが、では、動物を殺し、その肉を売ることを生業とする、マダギはどうなのか。しかし、日本列島で千年以上の歴史を持つマタギは、穢多とは呼ばれない。マタギはマタギなのだ。
すると、特定の動物を殺し、その肉を食べる民族が、穢多なのか。だとすれば、古墳時代、太陽信仰民族は、牛を屠り、その生き血と肉を食べていた。それは、ミトラ教の儀式だからだ。
ミトラ教は、太陽信仰民族の宗教だ。そのミトラ教では、牡牛は太陽の化身だ。太陽は、死と再生を繰り返すと信じられたため、再生の神、復活の神と、ミトラ教では信じられた。
その牡牛を屠るミトラ教の儀式は、太陽信仰民族が困難に陥った時、おこなわれた。そして、太陽神と一体となり再生・復活するため、その屠られた牡牛の血を飲み、肉を食べる。
古墳時代に行われていた、そのミトラ教の儀式は、645年以降、漢訳仏教を掲げる、唐進駐軍により禁止された。そして、ミトラ神は、弥勒菩薩・摩多羅神として改竄され、歴史上抹殺された。
漢訳仏教は、東アジアで、バラモン僧によりギリシャ語仏典から漢訳された宗教だ。バラモン教は、肉食ではなく、菜食主義だ。そして、牛は聖牛として大事に保護されていた動物だ。その牛を、ミトラ教では屠り、そして、食べる。
そのミトラ教を信仰していた民族が、秦氏だ。秦氏は、太陽を神として信仰する。そのシンボルは、太陽光を意味するマルタクロスだ。鎌倉時代から、マルタクロス(+字)を家紋とするのは、秦氏末裔の穢多頭の弾家と、南九州薩摩藩を支配した島津家(←惟宗氏←秦氏)だ。
江戸の鎖国時代、島津藩では、東南アジア諸国との密輸で、その船に白地に赤丸の太陽旗をつけていた。今の、日の丸の旗は、明治革命以前は、島津家の密輸船の認識旗だった。
その島津家が支配した薩摩藩では、浄土真宗は厳禁されていた。浄土真宗は、漢訳仏教で崇拝する釈尊ではなく、阿弥陀を唯一のホトケと信じ、「南無阿弥陀」(ナンマイダ。私はアミダ様を信じます。「ナムアミダ+ぶつ」の呪文は、後の江戸時代に創作された。)の念仏を唱える宗教だ。その阿弥陀とは、本来は、太陽神のことだ。
では、何故、太陽信仰民族の末裔である島津家が支配する薩摩藩で、その浄土真宗が厳禁されたのか。それは、島津家では、浄土真宗が、室町時代に藤原氏の蓮如により発明された、真相を知っていたからだ。
その真相を知っていた人物が、もうひとりいた。それが、関東の世良田部落出自の、後に源氏長者となる、徳川家康だった。
オレは、こんなことを、取りとめもなく考えていた。パソコンにスイッチを入れると、メールの知らせが表示されていた。今回は、意外と早かった。オレは、プリントアウトすると、田辺さんのレポートを一気に読んだ。その概略は、こうだ。
1615年徳川家康は、大阪夏の陣により、豊臣家を滅ぼした。そして、敵対する、平安時代からの「武士」ではなく、鎌倉時代に新登場した「武家」を支配するために武家諸法度13条と、鎌倉時代に衰退していた天皇家が室町時代中期に藤原氏と供に復活した天皇家と、平安時代には「神族」であった藤原氏が鎌倉時代に「公家」となり、その公家とを取り締まる禁中並公家諸法度17条を制定した。
更に、徳川家康は、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を粉々にしていずこかへ撒布した。だから、現在の豊臣廟には、苗字も姓もない出自不明の豊臣秀吉の遺骨はない。
1616年徳川家康は、急死する。享年75歳。藤原日本史では、テンプラを食べ過ぎての食中毒説をとっている。
何故、徳川家康は、豊臣秀吉の墓を暴いたのか。その答えを知るには、イベリア半島の歴史を知る必要があるようだ。
1368年国際自由交易を行っていたモンゴル帝国が、朱元樟により壊滅した。そして、農耕主義の漢民族による儒教国家の明が興った。
国際警察国家としてのモンゴル帝国が存在しないユーラシア大陸は、現在の国際警察国家のアメリカが衰退したため西アジアのアラブ諸国で紛争が勃発しているように、各民族の興亡により分裂と統合を繰り返していた。
その中で、特殊兵器を武器として領土を拡大していた小国があった。それが、イスラーム文化のオスマン・トルコだ。トルコとは、古代名ではチュルクのことだ。そのオスマン・トルコの支配地は、紀元前14世紀、鍛造鉄器を発明した古代ヒッタイト帝国が君臨していた地だ。そして、その特殊兵器とは、青銅製ではなく、鍛造製の鉄製銃だ。オスマン・トルコ軍団の主兵器の銃の威力は、騎馬民族軍団の騎射をはるかに凌いでいた。この鉄製銃の出現で、古代から騎馬民族が世界を支配した時代が終わった。しかし、その銃は重く、玉をこめるには時間がかかった。
銃の基本は、モンゴル帝国と戦った南宋で開発されていた。しかし、その銃身が青銅製のため、強力な爆発力には耐えられなかったため、せいぜい、爆発音でひとや馬を驚かせるほどの武器だった。
南宋で銃が開発されたのは、玉を飛ばすための黒色火薬が発明されたのが、紀元前220年ギリシャ文化継承国のバクトリの衛星国である秦の始皇帝時代だからだ。黒色火薬は、錬金術師の道師により、硝石、硫黄、木炭を調合することにより、発明された。硝石は、南米のチリでイスパニア商人により、鉱山から掘り出される以前、動物の小水から作られていた。
産鉄民族は、鉱脈を求めて洞窟に入る。その洞窟のコウモリの巣の下の土壌に、白く結晶する物質が、火に反応し燃焼を起こすことを経験的に知ったのだ。日本列島の戦国時代、小水を集める集団が存在した。藤原日本史では、農作物の肥しのための「小水」集め、と説明する。しかし、その集められた「小水」は、硝石を作るための原料だった。現在、越中白川や五箇山の合掌造りの観光家で、その「小水」溜を見学できる。古来から山奥では、火薬を製造していたのだ。
騎馬民族国家モンゴル帝国により滅亡する以前の南宋は、インドやその先のアラブ諸国と、国際海洋交易をおこなっていた。そのため、その青銅製のテッパウ(鉄砲の租)も、アラブやインドの国際交易商人により、海外に持ち出されていた。
鉄製の銃を持つ国が、イベリア半島にもあった。それが、1375年建国のポルトガルと、1479年建国のイスパニア王国だ。そのイベリア半島国には、イスラームの国際交易商人に領土を追われた国際交易商人達が集まっていた。
イスラームの国際交易商人に支配された、イベリア半島の市場の拡大を求める国際交易商人は、俗界と化した新たなる布教地を求めるカトリック教会との共同作業に入っていった。それが、異教世界を二分割して征服する事業である、「デマルカシオン」だ。
1494年ポルトガルとイスパニア王国は、排他的な航海領域の設定と新発見地の領有や独占権を認めるトルデシーリャス条約を締結した。この条約により、世界の東側全域がポルトガル領となり、西側全域がイスパニア王国領となった。
つまり、このトルデシーリャス条約により、インド、中国、日本列島の西国は、ポルトガル領となり、その結果、征服、貿易、布教を独占的におこなえることになってしまった。しかし、この条約では、京都は東国に属し、イスパニア王国領だった。
日本列島の東国は、イスパニア王国領だ。日本列島が、ポルトガルとイスバニア王国により二分割されたのは、国際自由交易時代のモンゴル帝国を訪れていたヨーロッパの国際交易商人たちにより、黄金、銀、絹を産出する島として知られていたからだ。一般的には、その情報提供は、マルコポーロの「東方見聞録」が知られているが、マルコポーロは、実在の人物ではない。
因みに、戦国時代の伊達氏が支配する港に、チリ硝石を満載したイスパニア商船が出入りしていたのは、日本列島の東国は、イスパニア国王の領地だからだ。
そこで、ポルトガル王国は、征服の尖兵としてドミニコ会などの修道師をインドに送り込んだ。しかし、インドには、ヒンズー教や諸の宗教が存在していた。肉食するキリスト伝道師と、菜食主義のヒンズー教とでは、水と油だ。更に、インドでは、身分差別のカースト制度で国民はがんじがらめで、新思想のキリスト教宣教師の伝道による布教だけでは思うように成果を得なかった。
そこで、ポルトガル国王ジョアン三世は、ポルトガル領東インドにおける征服、貿易、布教の停滞を解決するために、1534年創立のイエズス会と、ローマ教皇を介して接触を持った。
イエズス会は、イグナティウス・デ・ロヨラを筆頭に7名の同志たちによって創立された修道会だ。しかし、この修道会は、他の修道会と異なっていた。
1585年羽柴秀吉は、1580年ポルトガル王国がイスパニア王国により併合されたことを知り、ポルトガル人宣教師とイスパニア人宣教師とが対立・内紛している日本イエズス会を裏切り、天皇制復活を画策する藤原氏の傀儡関白・太政大臣となると、1587年キリシタン大名高山右近などと供に、薩摩の島津氏を倒し、九州を平定すると、キリスト教宣教師の追放令を発した。しかし、このキリシタン追放令により、日本イエズス会が壊滅したわけではない。
1590年「第二回日本イエズス会全体協議会」で、武器や弾薬の保有、要塞建築の請負が全面的に禁止された。ということは、イエズス会のザビエルが渡来の1549年から1590年まで、それらのことを、トルデシーリャス条約によるポルトガル領の日本列島の西国でおこなっていたということだ。
イエズス会が、他の宗教組織と異なるところは、その創始者イグナティウス・デ・ロヨラが、「私の意図するところは、異教の地をことごとく征服することである。」、との強い信念を持っていたことだ。それは、ロヨラの前歴は、騎士団の軍人だったからだ。
更に、イエズス会が、他の宗教組織と異なるところは、「商人」の顔を持っていることだ。
1556年ポルトガル人の商人ルイス・デ・アルメイダが、日本イエズス会に入会すると、私財400ドゥカドを寄付し、これを生糸貿易に投資した。そのアルメイダは、宇陀の銀鉱山にも触手を伸ばした。ポルトガル商人の渡来は、日本列島で産出する銀鉱山開発もその目的のひとつだった。その結果、南米の銀山が開発される16世紀末まで、日本列島は世界一の銀産出国だった。特に、石見銀山のある日本海には、多くの国際船団が渡来していた。
宇陀の沢城主は高山飛騨守(右近の父)で、その彼を、盲目の日本人琵琶法師の修道士ロレンソとアルメイダは説得し、キリシタンとしたのは、山奥でのキリスト教布教のためだけではない。その宇陀の地は、古来から銀鉱脈があることが知られていたからだ。
日本イエズス会は、マカオとの生糸交易により布教費を捻出するようになったことにより、マカオではイエズス会会員は、「商人」と見なされていた。
日本イエズス会は、貿易以外にも、「貿易の斡旋と仲介」をおこなっていた。その依頼者の中には、江戸幕府を拓いた徳川家康もいた。
この徳川幕府への貿易斡旋により、日本イエズス会の交易収入は、1601年7,000クルザドであったものが、1605年25,000ドゥカドに増加した。
この頃の日本イエズス会の構成メンバーは、ポルトガル人よりも、イスパニア人宣教師が多数を占めていた。1581年から1589年まで、イスパニア人が日本管区長となっていた。このイスパニア人が日本管区長となった翌年、1582年織田信長の本能寺での爆殺事件が発生した。その事件発生時、徳川家康の支配地は、東国の三河で、その地はイスパニア王国領だった。
1603年徳川家康が、征夷大将軍となっても、対キリシタン政策を追加しなかったのは、そういうわけだ。
しかし、1612年徳川家康は、家臣の岡本大八と九州日野江城主有馬晴信との贈収賄事件により、キリシタン禁教令を出した。それは、その2名共にキリシタンだったからだ。そして、イスパニア人が支配する日本イエズス会は、イスパニア王国領のフィリッピンに常駐するイスパニア海軍を日本列島に派遣し、日本列島を軍事力で制圧する計画をしていたからだ。しかし、イスパニアの無敵艦隊は、1588年イングラント王国の海軍により敗れていた。その結果、イスパニア王国の世界征服計画が縮小していたので、日本列島の軍事征服は計画だけで終わった。
これらのことから分かることは、日本イエズス会は、俗人の手になる典型的な、対プロテスタント教会に対抗する、修道会であった。つまり、日本イエズス会は、自ら進んで世俗社会に入り込み、現世的事業に携わり、そして、その資金により、禅宗・浄土宗などの信徒武装集団が各地を支配する日本列島で、織田信長や徳川家康などの反仏教武装集団に接近し、それを日本イエズス会の傀儡軍団として育成して、これを日本イエズス会の勢力拡大の為に利用した。
ポルトガル王国ジョアン三世は、ポルトガル領東インドにおいて、征服、貿易、布教の拡大のため、ザビエル一行をゴアに派遣した。右手に「聖書」、左手に「銃」を持つイエズス会は、たちまちの内にヒンズー教徒軍団を蹴散らした。
異教徒の国の領土獲得は、「ゼウスの国」の建設としてのイエズス会であるため、「福音の宣布による霊魂の救済」の美名の下に浄化され、征服(=布教)は「正当性」を持つことになる。かくして、ザビエル一行は、第二の征服地(布教地)日本列島の西国を目指した。
1549年ザビエル一行は、南九州の鹿児島を訪れた。何故、鹿児島なのか。
鹿児島のある南九州は、平安時代まで、藤原氏の島津荘があったところだ。しかし、騎馬民族が支配者となって再登場し、太陽神信仰民族の阿弥一族が活躍した国際自由交易の鎌倉時代中期から、島津荘は、秦氏末裔の惟宗氏(後に島津氏)の支配地となって、藤原氏末裔はその地に隠棲していた。
樹木の藤は、自立できない。だから、大木に絡みつく。藤の蔓を伸ばし、大木に絡みつくと、その藤の枝葉を広げる。やがて、大木を覆うほどの枝を伸ばした藤により、その大木は朽ち果て倒壊する。室町時代、藤原氏の日野家のおんなを娶らされた足利家は、平安時代に藤原薬子が暗躍したように、日野富子の暗躍により滅亡した。南九州を支配していた秦氏末裔の島津氏は、この頃まだ、その藤の習性を知ってはいなかったようだ。
イエズス会会員は、日本列島に渡来する以前に、日本人に接触していたらしい。その地とは、南インドのマラバル沿岸のゴアか、生糸交易地のマカオが推測される。その地での日本人は、「日本人は、我々ヨーロッパ人と同じように色が白い。」、「日本人は皆色が白く、洗練されており、しかも極めて礼儀正しい。」、との印象だ。
日本人は、中国の歴史書では、「倭人」と記述される。倭とは、小さくて醜い、という意味だ。その倭人を祖とする日本人が、白人種のわけはない。すると、外地でイエズス会と接触した日本人は、黄色人種の日本人ではないのか。
この南海の日本人に関係がありそうな事件がある。それは、遣唐使船の遭難(?)だ。奈良時代に始まる遣唐使船の主な運営は、藤原氏により行われていた。その遣唐使船で、奇妙な事件がある。
第十回遣唐使船には、遣唐大使の藤原朝臣清河がいた。四船の内の、日本から唐帝国への貢物を満載した第一船が、暴風雨でベトナムに漂着し、180名の乗船員は、十数名だけが殺されず、その中でも、藤原清河と阿倍仲麻呂だけが、長安に戻った、というのだ。
藤原清河は、反藤原氏となって遍照鬼の大像(平安時代錬金術師空海により大日如来とされた。)を鋳造した聖武天皇の后で、聖武天皇の死後、光明皇太后となった甥だ。そして、従兄弟が、新羅系天皇家(平安時代から百済系天皇家)の御璽を私邸に持ち込んだ藤原仲麻呂だ。その遣唐使船の南方への漂流は、一度だけではなく、何度かあった。
何故、藤原氏が、四船のうち何船かが沈没する遣唐使船の運営をおこなっていたのか。
それは、藤原氏は、古来から南九州の坊津を港にし、南海交易をおこなっていたからだ。因みに、坊とは、居留地のことで、坊津とは、居留地の港の意味だ。その坊津からも、何回か遣唐使船が出港していた。その遣唐使船とは、唐から日本へ最新知識の文物や文化財をもたらすのではなく、日本列島の産物を唐に貢ための船だった。その根拠のひとつとして、唐からの帰国者の多くは、日本から出港した遣唐使船ではなく、新羅商船を頼っていたからだ。
すると、イエズス会会員が、南インドかマカオで会った白人種の日本人とは、藤原氏の一族が疑われる。
7世紀末、突然歴史上に現われた藤原不比等が創作した「日本書記」物語と「聖書」物語、そして、藤原氏の神アマテラスオオミカミを祀る中臣神道儀式とユダヤ・キリスト教儀式とが酷似するのは、藤原氏の租が、紀元1世紀にユダヤ・キリスト教伝道師のトマスが居た、南インドのマラバル沿岸から渡来したからだ。
因みに、カスピ海沿岸で東西のシルクロード交易で立国していたハザール王国人は、白人種だ。そのハザール王国の民は、キリスト教徒軍団とイスラーム教徒軍団に挟まれ、8世紀、その両国の紛争から逃れるため、アラブ原住民と共生して細々と暮らしていたユダヤ教の徒に改宗していた。
ザビエルは、鹿児島から長崎を経て、山口を訪れた。そこで、盲目の琵琶法師と会い、彼を修道士とした。その名をロレンソと言う。
琵琶法師は、敗者の歴史を語ることで生計を立てる者だ。しかし、鎌倉時代から室町時代中期には、歴史的に実在しない「清和源氏」を租とする武家により、その敗者の歴史を語ることを禁止され、5柱の平家琵琶により「平家物語」の語り部とされたが、「清和源氏」の足利氏の勢力が衰えると、山々を歩き、敗者の歴史を語り継ぐ者となっていた。
これにより、イエズス会は、日本列島の敗者の歴史を知ることになる。そして、その布教者対象として、山の民を選んだ。
山の民とは、古墳時代の支配者であったが、漢訳仏教を保護する朝廷の律令軍に敗れた末裔であるからだ。つまり、阿弥一族に経済的に支えられていた室町幕府三代将軍足利義満が横死したため、清和源氏の武家・禅宗・大山崎油座の三位一体支配体制の室町時代中期から、同業組合である「座」の全国ネットワークを活用して活躍していた山の民は、イエズス会が述べる「悪魔の宗旨」である仏教・菜食主義の禅宗により、農業主体のカマド文化の西国では、放浪・遊行するイロリ文化の穢れ多い民として差別・隔離されていたからだ。
そして、ザビエルは、山口から堺を訪れた。1549年ザビエルは、アントニオ・ゴメス宛ての書簡で、「堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町である。日本の他の地方よりも銀や金がたくさんある。」、「もしも、閣下が私を信頼して、送る商品の管理を私に一任くださるのなら、私は、「一」から「百」以上に増やすと断言する。」、と述べている。そして、ザビエルは、ポルトガルから胡麻を堺に持ち込み、高額の利益を得ていた。
ザビエルは、ポルトガル領日本列島西国滞在の2年間で、色々見聞したようだ。そのひとつが、「日本人が武器を非常に大切にして尊重し、よい武器を持っていることが何よりも自慢である。私は、これほどまでに武器を大切にする人たちをいまだかって見たことがない。」、と書き残していた。
ザビエルに、そのような印象を与えたのはどのような武器だったのか。ザビエルが会ったのは、反仏教徒の九州、長門、近畿の武人だ。鉄砲伝来が1543年だから、ザビエル滞在期間に、コピー銃がそれ程出回ってはいないはずだ。だとすると、その武器は、弓矢・槍・日本刀が考えられる。
ザビエルが会ったのが、山の民だとすると、山武士(藤原日本史では山伏と改竄)か野武士が考えられる。それらの武士の租は、武芸者の祭祀者だ。
武芸の、武は「戈」(ほこ)と「止」で構成される。つまり、武とは、騎馬民族の戦車戦闘用の長柄武器の「戈」で「止」めることだ。武芸の芸は、「技術」のことだ。では、その武芸で何を止めたのか。
武芸者が、歴史上現われたのが、平安時代初期だ。砂金を簒奪するために陸奥国の多くの蝦夷だけではなく、実弟までをも謀略で抹殺した、百済系桓武天皇は、それらの怨霊により苦しめられていた。古代から、横死した者は、祟りをもたらす怨霊として現われると信じられていた。その怨霊の荒魂を鎮めるために、蝦夷の捕虜を怨霊退治のために武芸者として起用した。
武芸者となった蝦夷捕虜は、冑に牛(太陽神の化身)の角や鹿(騎馬民族の租スキタイのシンボル獣)の角を付け、そして、蝦夷の武器である、手元で刃が反る蕨手刀を改良して、「日本刀」(刃全体が湾曲するのは鎌倉時代から)を開発した。戦国武士の武者姿の原型は、平安時代の武芸者の祭祀者装束だった。その怨霊の魂を鎮める日本刀は、荒魂を鎮める霊力を持つと信じられていた。つまり、日本刀は、只の武器などではなく、武芸者(天慶の乱後、公から武士として認められる。)の魂なのだ。
因みに、鎌倉時代に登場した「役座」が、日本刀を大切にするのは、役座は、武芸者(武士)の流れにあるからだ。任侠道と武士道とに、「弱者救済」(弱気を助け、強気を挫く)の共通思想があるのはそのためだ。
1551年ザビエルは、豊後の府内を訪れた後、日本を去った。このザビエルが訪れた、長崎、堺、府内が、下区、都区、豊後区として、日本イエズス会の拠点となっていった。
日本イエズス会は、1549年ザビエルの日本開教以降、1570年までに、約3万人の改宗者を獲得した。そして、ポルトガル領日本列島の西国の畿内から九州まで、40ほどの教会を設立した。
キリスト者でないひとは、教会は牧師が祈る建物だけだと考えるが、イエズス会の宗教施設には、喜捨だけで生計をたてる会員のためのカーサ、高等教育機関のコレジオ、修道会士としての適性を究明する施設の修練院、パードレ・イルマンの養成のためのセミナリオ、会員の駐在所のレジデンシア、などがある。
その教会の中のコレジオは、一種の集金機関として経済構造の一端に編入されていた。つまり、コレジオは、聖俗両面の機能を併せ持っていた。そのコレジオを中心に、日本イエズス会は、さまざまな収入を手にいれ、その資本力で、教勢の拡大を図っていた。
しかし、右手に「聖書」左手に「銃」を持つ日本イエズス会により、日本列島西国の征服(布教)は、インドを火縄銃と大砲により短期間に制圧(布教)したことと、状況を異にしていたのだ。
藤原日本史によれば、日本列島での火縄銃の伝来は、1543年ポルトガル人の種子島上陸からで、そのコピー銃が、その後、日本列島に拡散した、とする。だとすると、日本列島に拡散したコピー銃は、種子島式銃を基本設計としているはずだ。しかし、現存する同時代の火縄銃の多くの構造は、統一されてはいない。何故だ。
1521年マゼラン率いるイスパニア軍団は、火縄銃と大砲などの武力で、フィリッピンの小島を一時制圧したが、イスラーム軍団の反撃により、マゼランは殺害された。その結果、マゼラン軍団は指揮官不在のためフィリッピンの小島から退去した。
何故、火縄銃と大砲を装備したマゼラン軍団は、イスラーム軍団に敗れたのか。それは、南米諸国を、200人のイスパニア軍団で制圧できたのは、南米諸国の軍団には、火器の武器がなかったからだ。
しかし、マゼラン軍団の渡来時には、東南アジアには、欧米の火縄銃と構造が異なる、火縄銃が存在していたのだ。その東南アジア製の火縄銃は、戦争のためではなく、狩猟のために使用されていた。東南アジアで火縄銃が開発されていたのは、銃の基本構造は、騎馬民族国家のモンゴル帝国と戦った南宋の炸裂弾の「テツパウ」によるからだ。
1494年トルデシリャス条約で取り決められたポルトガルとイスパニア王国との二分割領土の線引きは、イベリア半島の裏側、モルッカ諸島の香料争奪戦の回避のため、1529年サラゴサ協定が結ばれた。この協定により、モルッカ諸島は二分割された。その結果、日本列島も、二分割された。
1543年ポルトガル人が種子島に上陸した。そして、1549年イスパニア人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、その後、堺を訪れたのは、サラゴサ協定により、堺はイスパニア王国領だったからだ。
ザビエルは、イスパニア人であり、そして、ポルトガル国王により軍事援助された日本イエズス会の会員でもあり、宣教師の他に国際商人の顔を持っていた。国際商人の思想には、国境などは存在しない。
では、何故、ザビエルは、古来から日本列島最大の国際交易都市の大阪ではなく、堺に上陸したのか。
大阪の歴史は、藤原日本史では、飛鳥時代に聖徳太子により四天王寺(境内の石橋は、古墳の石室の石を使用している。)が建立されていたとするが、史実は、飛鳥時代などではなく古墳時代では、国際自由交易のための国際港湾都市で、ユーラシア大陸からの物品を、日本海を渡り、北陸道から琵琶湖経由で淀川系河川を利用して、シナ海を渡り、華南へ送る、太陽神ミトラを信仰する秦氏が支配した物流拠点だった。平安時代末期、ユーラシア大陸から陸奥国奥州を経由して渡来した、笹竜胆の軍旗をなびかせた源義経の騎馬軍団は、四国屋島に陣取るアラブ系海洋民族軍団の平家壊滅のために、大阪の嵯峨源氏末裔の渡辺党が支配する渡辺津から出陣していた。モンゴル帝国の国際自由交易時代では、太陽神信仰民族である阿弥一族などが活躍し、アラブ・インドからの国際交易船も渡来する国際交易都市として栄えた。
しかし、阿弥一族に経済的援助を受けていた足利義満が横死し、日明貿易が勘合貿易となり、更に、1467年応仁の乱以降となると、大阪の交易港に替わり、細川氏の支配地である堺が国際交易港として栄えていく。しかし、大阪は、南海との密貿易港として、依然、栄えていたのだ。
戦国時代、その堺の街は、堀を巡らせた、藤原日本史では自治都市とするが、実際は、九州の豊後を国際交易中継点とする、国際軍事都市国家であった。ザビエルが、堺から豊後府内を訪れていたのは、豊後と堺とは、南海交易ルートで結ばれていたからだ。
戦国時代、その大阪は、縦横に流れる河川を利用した、要塞軍事都市国家だった。日本列島の政治の中心が京都とすると、経済の中心は大阪だった。この大阪を軍事支配するには、日本イエズス会の軍事力だけでは、叶わぬことだった。
室町時代末期、1467年足利連合軍の内紛や後継者争いを原因とする応仁の乱により、禅宗・大山崎油座・新興武家による支配体制が崩れると、その三位一体により圧政を受けていた旧勢力の武士・座商人・船馬による運送業者が、その室町幕府の権益を奪い取る行動にでた。この全国的に起こった軍事行動を、藤原日本史では百姓・宗教者集団による一揆とする。
この戦国時代の日本列島の状況を、イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、「東インド巡察記」に記している。「東インド巡察記」は、1580年長崎で、全40巻の書籍として完成した。その第15章、第16章、第17章に、日本情報として報告されているには、「日本国は、三つの主要な島々に分かれていて、以上の全域を合わせると、66の小国がある。巨大な島には、53の王国がある。」、「その島の中央にミヤコと呼ばれてた都市があり、かって日本全国を領国として真の王がいたが、今や、国王は一つとして領国を持ってはいない。」、とある。
室町時代末期の日本列島には、66の王国があったのだ。王国は、支配者により、その被支配者の住人の安全を図るため、軍事力を保持していた。その王国の支配地は、堀・柵・土塁などの防御構造で囲まれていた。藤原日本史で述べる中世の村とは、農村のことではなく、都市国家のことなのだ。純農耕民の構成による村の出現は、1591年藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉による、兵農分離のための、66カ国の人払い(古墳時代の支配者であった騎馬民族・秦氏の隔離)の戸籍調査開始からだ。
その支配地の運営基本は、ユーラシア大陸の農耕民族、商業民族、交易民族、手工業民族などを支配していた騎馬民族スキタイや匈奴の経営形態だ。その構造施設が、日本列島では、山城であり、平城であった。
1576年イエズス会の傀儡軍団長の織田信長が、ヨーロッパの築城技術を利用しての安土城が完成するまで、日本列島には、石垣の上に郭が乗せられた天主閣(イエズス会が忠誠を示すデウスに替わり、神として振舞う織田信長の爆殺後に、天守閣となる。)のある城は存在しなかった。
大阪の要塞軍事都市国家の地は、古墳時代には日本列島各地に巨大前方後円墳を築いていた秦氏の拠点のひとつだったから、多くの巨大古墳が築かれていた。だから、地面を掘り下げると、巨石が無数に出土した。その古墳の巨石の壁で、その大阪の都市国家は護られていた。この要塞軍事都市国家を壊滅させるには、その国家の内部に間者を潜入させる意外に方法はない。
室町時代中期、商業から金融業までも幅広く営む大山崎油座と結託した、モンゴル帝国時代に国際交易商人として活躍した禅宗は、武家の世界に入り込んだ。その結果、質素な禅寺の建築構造を真似て、床の間、雪隠を装備した武家屋敷が発明された。床の間には、中国の山水画が掛軸として飾られ、座敷での茶の湯が武家社会に広まった。日本伝統文化の租は、南宋の禅宗文化であった。
一方、新興勢力に追い遣られた武士は、粗末な掘っ立てイロリ小屋の屋形に住み、そして、同業者組合の座は、簒奪王権に対しての怨霊の封じ込めの施設である、結界地(古墳跡)に建つ神社(モリ・古代新羅語で神の住まう処)の境内で細々営業をしていた。その神社(モリ)での営業も、鎌倉時代に出現した長槍で武装する大山崎油座の商人により妨害を受けることになる。この妨害を防ぐため、日本刀で武装する、弱者救済思想を持つ役座が活躍した。
騎馬民族国家のモンゴル帝国が国際警察国家として君臨していた鎌倉時代、肉食する騎馬民族や、牛肉を食べる秦氏も、その生活形態を蔑視されることがなかった。しかし、菜食主義の、肉食を蔑視する、ヒンズー教と漢訳仏教との融合で発明された禅宗の思想が、武家社会に広まる室町時代中期、西国の肉食する民族である騎馬民族と秦氏末裔は、穢れ多いとの意味の穢多の蔑称を付けられた。
しかし、古墳時代から肉食している、大山崎油座や禅宗組織の勢力が及ばない東国では、その蔑称は広まらなかった。因みに、農耕主義の漢民族国家となった、豚肉を常食する明では、儒教が国教となり、漢訳仏教も禅宗も弾圧・排斥された。
この民族差別された都市国家の富を狙って接近してきた宗教者がいた。その名は、苗字は日野、姓は藤原氏である、天台宗の門跡寺院である青蓮院の末寺にすぎなかった本願寺の蓮如だ。この頃、本願寺は、宗派として独立などしていなかった。
蓮如は、肉食民族の仲間の設定として、2世紀以上前の鎌倉時代(室町時代の応仁の乱により、鎌倉時代の史料のほとんどは焼失していた。依って、藤原日本史の鎌倉時代の歴史には疑問符が付く。)に肉食・妻帯したとする、浄土教の法然の愛弟子とする親鸞(シンラン)という人物を発明した。そして、その親鸞物語を語り、「南無阿弥陀」の名号を本尊として、神祇不拝の思想を、武士の屋形を道場として、阿弥一族の暮らす村(都市国家)や船馬運送業の集落に広めた。
室町時代まで、神祇を中心に成立していた村(都市国家)を、蓮如が、阿弥陀中心に組み替えたトリックにより、反仏教徒集団である阿弥一族を、蓮如が開祖の真宗組織に取り入れることが出来た。
この蓮如のトリックは、江戸時代までは広く知られていたようだ。1837年大阪の貧民救済のための乱を起こした大塩平八郎の言葉として、「咬菜秘記」には、蓮如の布教トリックを次のように述べていた。
この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存ずる処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし、信仰の者は今世こそ穢多なれ、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。死亡後の有るとも無しともしかと知らぬことさえ、人間並みの仏にすると言うを、かくかたじけなく存ずるからは、ただ今直に人間に致してつかわすと申さば、この上なく有り難がり、火にも水にも命を捨て働くべし。さすれば、何事ぞある時は、五百や千の必死の人数はたちまち得らるる事にて、それを以ってよく指揮を致して、きっと一方を守禦すべき心得なり。
この「咬菜秘記」は、大塩平八郎の著作ではなく、玉造組の与力坂本鉉之助の著書だ。その坂本鉉之助は、大塩平八郎のことを「天満組風の我儘学文」と見下しているのだ。更に、東組与力の大塩平八郎が退役後、私塾洗心洞主人となり、奉行所役人の不正により貧民が困窮していることに対して、幕府転覆のために大塩平八郎が起こした軍事行動の出鼻を挫いたのも、坂本鉉之助だ。
藤原日本史では、大塩平八郎の乱として、庶民蜂起の暴動のように記述しているが、大塩平八郎は、与力瀬田籐四郎・小泉淵次郎、同心渡辺良左衛門・庄司義左衛門など、東組与力同心を糾合し、更に、砲術家梅田源左衛門など組み入れて、決起におよんでいたのだ。この大塩平八郎の軍事行動は、庶民の暴動などではない、クーデターだ。
しかし、大塩平八郎の幕府転覆計画は、第三百済王朝での江戸幕府の密偵により筒抜けだった。決起出鼻を、「大筒丁打ち」(大砲)の萩野流砲術家の坂本鉉之助が放った砲弾が、大塩平八郎軍勢の砲術家梅田源左衛門を討ち取ったため、大塩平八郎の軍勢は総崩れとなって、半日で鎮圧されてしまった。その後、坂本鉉之助は幕府鉄砲方の譜代として出世した。
この大塩平八郎によるクーデターの失敗により、大阪での、弱者救済思想を持つ、表世界の武士組織が壊滅したが、裏世界の役座組織は生き延びた。このことにより、大阪では、武士の成れの果てが役座だと云われる。
因みに、江戸でも、1651年南朝側の楠木正成の流れにある由比正雪の、三代将軍徳川家光から始まる秦氏・騎馬民族を寺請制度、宗門改め、檀家制度でイジメる、第三百済王朝の幕府転覆計画も密告により失敗し、江戸の武士組織が壊滅したが、関八州の秦氏・騎馬民族末裔が暮らす「風の王国」(秦王国)を支配する、弾左衛門の組織は明治まで生き延びた。
そのような人物による「咬菜秘記」のなかの大塩平八郎の言葉をそのまま信じる訳にはいかないが、浄土真宗による、秦氏・騎馬民族(穢多と蔑称)攻略の戦術を簡略に述べていることは史実のようだ。
藤原日本史の浄土真宗教祖の系図は、範宴(親鸞)→善鸞→如信→宗昭(覚如)→慈俊→俊玄→時芸→玄康→円兼→兼寿(蓮如)→光兼→光教→光佐(顕如)となっている。この宗昭(覚如)が、1321年東国の門徒(浄土真宗では、信徒ではなく、門徒)の経済的援助により建てられた廟堂を寺院化して、本願寺と号した、とする。
しかし、この頃の本願寺は、施陀羅(肉食民族の蔑称)を排除していることは、1346年(貞和2年)覚如による13箇条の「禁制」により明らかだ。その文には、法をもて施陀羅を歓化する者がいる、はなはだもて不可思議の悪名なり。本所において、ことにいましめ、沙汰あるべし、とあるからだ。この文は、被差別民(施陀羅=肉食民族=穢多)に布教することを禁止するものだ。浄土真宗3世とする覚如の本願寺では、肉食民族はオフリミットだった。
しかし、戦国時代に突然歴史上に現われた、浄土真宗8世とする蓮如が、布教で使用する、親鸞の著とする「唯信鈔文意」では、
屠は、よろずのいきたるものを、ころし、ほふるものなり。これは、りょうしというものなり。沽は、よろずのものを、うりかうものなり、りょうし、あき人、さまざまのものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかいをふたごころなく信楽(しんぎょう)すれば接取のひかりのなかにおさめとらせまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまう。
とある。この3世と8世との、一世紀を越えての思想の断絶は、何を意味するのか。
戦国時代に現われた蓮如は、布教地を東国にもとめ、主に、武士の屋形や船馬の運送業集落を布教に定めたのは、経済的援助を求めたからだ。
東国は、藤原日本史で述べているように、貧民の遊行民が群れなした、文化的、経済的に劣勢ではなく、特に、モンゴル帝国統治時代の鎌倉時代中期以降は、国際自由交易により、阿弥一族の経済援助を受けて、京に金閣寺だけではなく、110mの高さを誇る七重の塔を建設していた室町幕府三代将軍足利義満の例を出すまでもなく、経済的に潤っていた。
経済的に寺を持てない蓮如は、武士の屋形の軒を借りて、母屋を乗っ取っていった。蓮如は、漢字を使用しなかった。それは、漢訳仏教の常用漢字は、反仏教徒の武士にとっては敵性語であるからだけではなく、秦氏末裔の武士に取り入るためのトリックだ。
蓮如が発明した、法然の信仰思想を真似した「じょうどしんしゅう」を漢字で書けば、「浄土真宗」となってしまうが、ひらがなでは、秦氏末裔の武士は、「浄土秦宗」と勘違いするからだ。
この戦術は、百済王朝の平安時代、古墳時代に京都盆地を支配していた秦氏の芸能である「秦楽」を、秦→しん→申→さる→「猿楽」と、蔑称に貶めたことと同じだ。
蓮如は、武士の住居である屋形を「じょうどしんしゅう・秦宗」の道場として、その武士を世話役とするのだ。武士の租は、武芸者で、その武芸者は祭祀者でもあった。その世話役は、他宗教者から毛坊主と言われ蔑称されていた。
その武士の屋形の道場で、蓮如は、鎌倉時代に親鸞という破戒僧が、「じょうどしんしゅう」を拓いた、と説いた。
室町三代将軍足利義満が横死後、禅宗・大山崎油座・「清和源氏」を名乗る新興武家により、南宋渡来の菜食主義の禅文化思想により、民族差別を受けていた武士・船馬輸送業民は、蓮如が語る「唯信鈔文意」にこころを奪われ、更に、武士は、鎌倉時代の法然が唱えていた「善人は往生できる。勇者(悪人)ならなおさらだ。」を搾取した蓮如が、「親鸞の思想」としてのアジ演説に酔いしれた。
「しょうどしんしゅう」(浄土秦宗)の思想は、漢訳仏教のシンボルである仏ではなく、太陽神の阿弥陀を唯一の本尊とし、全ての仏典を否定、天皇制思想を支える神祇思想の不拝を強く主張し、そして、太陽神信仰民族思想と同じに「全民の平等・再生・復活」を保障する。これらのことは、反体制派の太陽神信仰民族末裔の武士や船馬輸送業民には、そのまま受け入れられる思想だ。それは、阿弥陀思想の源は、太陽神ミトラであったからだ。
藤原日本史の全国統一半ばで織田信長が明智光秀に謀殺され、忠臣の豊臣秀吉が全国統一に成功し、そして、豊臣秀吉の死を待って徳川家康が豊臣家を滅ぼした、とする戦国時代物語では、東国の「秦王国」の歴史を隠蔽している。そのトリックは、一向一揆という歴史用語だ。
歴史書には、戦国時代突入前に、声聞師や馬借に指導されて、土一揆や一向一揆が東国各地で多く起こった、と述べている。その一向一揆は、浄土真宗と深く関係している、とも述べている。だったら、何故、一向一揆などといわないで、浄土真宗一揆と言わないのか。
足利家の家督相続に端を発した応仁の乱(1467年〜1477年)により、京都の街は焼け野原となった。寺院のほとんどが焼けて、僧侶の多くが、東国に逃れてきた。その結果、イロリ文化の東国で、生活が豊かな武士や船馬運送業民の部落に、多くの貧僧が生活のため西国から訪れた。「じょうどしんしゅう」は、そのような背景で発明された。
「じょうどしんしゅう」は、東国各地でそれぞれの門徒を、武士の屋形を道場として、武士を世話役として門徒を獲得していく。
そのなかで、高田門徒や荒木門徒が、武士の屋形を拠点として勢力を伸ばし発展し、京都東山に佛光寺を建立するまでになった。しかし、蓮如が発明した「じょうどしんしゅう本願寺」は、弱小集団だった。
ここで不思議が確認される。それは、一向一揆を起こしたとされる一向宗門徒とは、本願寺の門徒のことだからだ。東国で、多くの派閥があるなかで、何故、「じょうどしんしゅう本願寺」派が、他の組織を退けて台頭したのか。
その謎解きのヒントは、浄土真宗の葬儀の際に読まれる、「白骨の御文章」(お文)にある。
そのお文では、朝に紅顔のものも無常の風がふけば、夕べには白骨となるのが人間であり、だからこそ阿弥陀への信心を獲得して、無常にして苦なる世界を乗り越えてゆかねばならない、と述べる。このお文は、浄土真宗の開祖とされる親鸞ではなく、蓮如の作だ。
日本仏教史では、鎌倉新仏教は、仏典の「施陀羅」(肉食民族)の魂は救われないとする差別的仏教理解に疑問を持った比叡山延暦寺で修行していた宗教家、親鸞、日蓮、一遍などが、差別された人びとに積極的に布教し、人間的な覚醒を刺激を与えていた、と述べる。そのなかで、親鸞は、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」、との悪人正機説を述べていた、と説く。
しかし、その鎌倉新仏教という宗派が教団としてのまとまりをもつのは、室町時代以降だ。更に、仏教の各宗派が固定化するのは、第三百済王朝の江戸時代で、本山と末寺との関係が寺請制度で明確化されたことによる。それ以前は、さまざまな事情から宗派を変える寺院が多く存在していた。
混乱がつづく室町時代、禅宗もそのひとつだ。禅宗の曹洞宗は、教団の疲弊した経済を支えるため、道元の教えから離れ、紹瑾(しょうきん)により、他宗の儀式である加持祈祷の密教を取り入れ、更に、神祇に対する祭祀も導入した。そして、一般信徒相手の葬式も始めた。
日本列島では、仏教寺院では、仏教組織が渡来した奈良時代から室町時代まで、一般人の仏式葬儀は行われていなかった。
多くのひとは、寺を「じ」と「てら」と呼ぶことに、あまり意識をしていないようだ。しかし、「じ」と「てら」とでは、意味が異なる。「じ」とは、役所のことだ。だから、「○○じ」とは、○○の役所の意味だ。それに対して、「てら」とは、死者の骨が埋められた場所を意味する。
室町時代に、多くの「○○てら」(寺)が創建されていく。それは、教団の経済を支えるために、曹洞宗が、僧侶のための「尊宿葬儀法」ではなく、修行で亡くなった雲水のための「亡僧葬儀法」を、一般信徒の葬儀に応用したことにより始まった。
「亡僧葬儀法」の葬儀では、亡くなった雲水を剃髪して出家(得度)したことにし、その上で、戒律を授け、更に、戒名を授けた。この儀式次第を、経済的に困窮していた他宗派が真似をして導入して、今日に至る。
しかし、蓮如の本願寺では、反仏教の武士や船馬運送業民に取り入れられるように、反仏教色を出すために、僧侶は出家しない、在家だ。そして、その葬儀法でも、戒名ではなく、法名を授け、焼葬ではなく、古墳時代の埋葬形式を取り入れ土葬とした。この葬儀法により、「じょうどしんしゅう本願寺」派は、他の「じょうどしんしゅう」各派を取り込むことにより巨大教団として勢力を、「ある目的」を秘めて東国に伸ばして行く。
秦氏末裔の東国武士が信仰した「浄土秦宗」(じょうどしんしゅう)が、藤原氏の蓮如が発明した「浄土真宗」に変貌していく歴史を眺めてみよう。
1175年 法然、専修念仏(浄土宗)を唱える。
1207年 朝廷、専修念仏を禁じ法然を土佐に配流。親鸞越後に配流。(?)
1262年 親鸞90歳で京都で死す。(?)
1321年 武士の屋形の廟堂を寺院化して、本願寺(比叡山延暦寺末寺の支配下にあり、宗派として独立していない。)と号す。
1343年 覚如、親鸞上人伝絵巻創作。
1479年 蓮如、山科寺(やましなてら)を創建。(葬式ビジネスの開始。)
1488年 加賀一向一揆、守護富樫氏を滅ぼし、国中を制圧。(室町幕府加賀守護富樫幸千代側には、じょうどしんしゅう高田門徒が加勢、それに対して、富樫政親側には、じょうどしんしゅう本願寺門徒が加勢した。これをどのように解釈すればよいのか。)
1496年 蓮如、大阪の隠居所であった石山(古墳群跡地)に石山道場を拓く。(大阪秦王国拠点に潜入。軒先を借りる戦術。)
1499年 蓮如、85歳で死す。
1531年 一向一揆、越前朝倉教景を破る。
1532年 山科本願寺、法華宗徒に焼かれる。証如が山科本願寺から大阪の石山道場に移り、石山寺(いしやまてら)とする。(葬式ビジネスの開始。)
1533年 摂津一向一揆勃発。
1570年 織田信長、顕如に石山本願寺退去を命じる。戦国時代最大の1O年戦争が始まる。
1573年 織田信長、伊勢長島の一向一揆を討つ。
1580年 顕如、公家の策謀で、石山本願寺から退去。織田信長、石山本願寺の虐殺。(大阪秦王国拠点崩壊)
1583年 石山本願寺の跡地に、豊臣秀吉が大阪城を築く。(大阪秦王国の歴史抹殺。)
1921年 京都西本願寺の宝物庫から、恵信尼が末娘覚信尼に宛てた10通の書状が発見される。(真宗側は、この書状を以って、親鸞が実在したとする。)
浄土真宗の歴史では、開祖は、鎌倉時代の親鸞だとする。その親鸞は、太陽神(阿弥陀)信仰の一神教の浄土宗開祖の法然の愛弟子とする。しかし、法然の弟子には、親鸞はいない。すると、真宗側は、その当時、親鸞は、僧綽空を名乗っていた、とする。
僧綽空は、確かに法然の弟子のなかに存在した。法然は、比叡山延暦寺との対峙を避けるため、多くの弟子たちに過激な行動をしない誓いとして「七箇条制誡」に署名させた。その署名には2日を要した。1日目には79名が署名した。しかし、僧綽空の名前は2日目にあった。階級社会の仏教組織は、序列により事を行う。2日目に署名した僧綽空は、法然の高弟か、愛弟子か疑問だ。
藤原日本史によれば、1207年既成の仏教経典、仏教儀式、仏教思想を全て否定し、阿弥陀唯一に頼むことにより往生できると唱えた法然は、朝廷により、遠流(おんる)の土佐に流され、そして、愛弟子の親鸞は、越後に流された、とする。しかし、法然の弟子達は、流罪や死罪に処せられていた。
鎌倉時代、越後は、遠流でも、中流(ちゅうる)でも、近流(こんる)でもない。
そして、親鸞は、4年で許され、20年間北関東一帯で、救済を求める貧民部落で、「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」、と唱えて廻っていた、とする。そして、その後、京都に戻り、90歳で没した、とする。
14世紀前半、法然の誕生から入寂までを綴った、48巻伝の「法然上人行状絵図」が作成された。それは、文字や言葉が異なるひとびとに、往生を視覚化して理解させるためだ。広告業界用語では、ビジュアルと言う。
1343年親鸞、如信に次ぐ本願寺三世とする覚如は、「法然上人行状絵図」を真似て、親鸞の生涯を15段の文章と絵による、「親鸞伝絵」を創作した。その「親鸞伝絵」では、親鸞の宗教活動のハイライトとも言うべき北関東での大活躍場面は、2段だ。親鸞は、20年間、本当に北関東で流浪の旅を続けていたのか、疑問だ。
1271年法華経を唯一の教えと信じる日蓮は、鎌倉幕府の逆鱗に触れて、遠流の佐渡に流された。その後、許されると北関東で、「南無妙法蓮華経」(私は法華経を信じます。)の題目により法華経の布教をして、1282年61歳で没した。日蓮は、親鸞が実在していたとすれば、20歳年下だ。
日蓮は、他宗教の存在を許さず、「四箇格言」により、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」、と誹謗していた。更に、個人攻撃も行い、念仏宗の法然も弟子も含めて誹謗中傷をしていた。しかし、その中に、僧綽空も親鸞も居なかった。
昭和生まれの人は、学校の歴史の時間、「歎異抄」は親鸞の著作と教わったはずだ。しかし、今では、「歎異抄」は、親鸞の死後、弟子の唯円が、親鸞のことばを書き記したもの、とする。
これって、誰かに似ていると思われる。画期的な宗教活動をしていたと伝わるのに、その時代の史料には、その痕跡すらもないのに、その弟子が、書き記したとする人物は、イエス・キリスト(「ヨシュアはメシア」のギリシャ語)だ。そのキリストの物語を語るのが、パウロだ。親鸞の場合、本願寺八世の蓮如だ。
キリストの実在性を示すのは、内縁の妻マクダラのマリアただひとりなのだ。親鸞の場合、妻の恵信尼の手紙だ。
何故、蓮如は、親鸞を発明したのか。それは、応仁の乱により復活した、太陽神ミトラを祭る秦王国の中枢に潜入し、壊滅するためだ。
戦国時代に復活した秦王国の歴史的存在が知れたら、藤原不比等が企画創作した「日本書記」による、藤原日本史が偽書であることがバレるからだ。その「日本書記」では、400年も続いていた、死者は蘇るとのエジプトの埋葬思想で築かれた、古墳時代の歴史を抹殺・無視しているのは、秦王国が、前方後円墳を発明したからだ。
相似形の前方後円墳を岩手以南から九州まで築くには、ユークリッド幾何学を知らなければならない。更に、湿地帯の土壌改良から高度測量技術、石切り技術、版築の技術、鉄製器具の製作までの高度土木技術を保持していなければならない。これらの巨大古墳築造の経緯は、「日本書記」には、何一つ記されてはいない。でも、巨大古墳は、天皇の墓だとするのが、藤原日本史だ。しかし、日本列島で、天皇が登場するのは、672年新羅系天武天皇からだ。藤原日本史で、紀元前660年に即位したとする日本初の神武天皇の時代、奈良盆地は一雨降れば、湖となっていた地帯だ。因みに、神武天皇の墓(古墳墓)は、明治時代に創作された。
秦王国など、藤原日本史には登場しない。だから、余程、日本列島裏面史を探索しているひとにしか、秦王国のことは理解できないかもしれない。
しかし、「隋書」では、608年明日香ヤマトを訪れた隋使裴世清は、北九州で華夏の文化と同じ「秦王国」の存在を皇帝に報告していた。そして、源氏長者となった徳川家康と供に、湿地帯であった関東の河洲を、土壌改良して「えどの街」を築いた、秦氏末裔の弾左衛門の「風の王国」(秦王国)が、1871年賎民廃止令と供に歴史から消え去っていた。この1263年間、秦王国は、日本列島で、確かに、存続していたのだ。それが、復活したのが、戦国時代の東国と西国の大阪だ。大阪(上町台地)は、古墳時代では、秦氏の拠点のひとつだった。
秦氏が活躍していた日本列島史を隠蔽したトリックは、藤原不比等が発明した、仏教黎明期の「飛鳥時代」からだ。聖徳太子を発明して、上町台地の秦氏の祭祀場である巨大古墳を破壊して、その跡に、聖徳太子が四天王寺を建てたとして、秦氏の上町台地の歴史を消していた。
仏教伝来は、538年か552年か、未だに論争しているが、その当時、仏僧は渡来しては居ない。実は、753年中国人僧鑑真が渡来するまで、日本列島には、正式な仏僧が存在していなかった。
正式な仏僧になるためには、授戒をしていなければならない。その授戒とは、戒壇という施設で10人の有資格者の僧から具足戒を受けなければならない。具足戒とは、完全にそろった戒のことだ。その戒とは、自分を律する内面的な道徳規範を意味する。
正式な仏僧になる前の雛僧は、沙弥と言う。その沙弥は、不殺生、不倫盗、不淫、不妄語、不飲酒、不塗飾香髪、不歌舞観聴、不坐高広大牀、不食非時食、不蓋金銀宝、の10戒を守らねばならない。しかし、鑑真の渡来以前では、僧らしからぬ仏僧が存在していたようだ。
「続日本紀」養老元年(717年)女帝元正天皇の詔には、「近ごろ、人民は法律(僧尼令)に違犯して、自分の気ままな考えで剃髪し、勝手に僧服を着ている。見かけは僧侶のようであるけれど、心は邪まな盗人のものである。」、と記してある。
724年女帝元正天皇の後を継いだ聖武天皇は、初めは藤原氏のロボットであったが、母宮子が僧玄ムと親密になってからは、反藤原氏となった。
藤原氏は、祭祀氏族で、平城京の興福寺を拠点に、天武天皇の孫で、藤原氏の娘光明子を聖武天皇の后にすることに反対していた、左大臣の長屋王を、密告により抹殺していた。
聖武天皇は、母宮子からの情報で、藤原氏が、天武天皇の孫達を謀殺していたことを知ったのだ。
鑑真の渡来を阻止していたのは、第10回遣唐使として渡唐途中で、ベトナムに漂着し、乗組員の多くは現地人に殺されたのに、唐の長安まで戻っていた、聖武天皇の后、藤原氏の娘である光明の甥藤原清河だ。
何故、藤原氏が、鑑真の来日を阻止しなければならなかったのか。それは、鑑真がもたらすのは、大乗仏教ではなく、南伝仏教の小乗戒であるからだ。
南伝仏教の小乗戒では、肉食の禁止は明文化されてはいない。藤原氏は、「施陀羅」(肉食民族)は救われないとする漢訳仏教の「肉食蔑視」の思想を利用して、古墳時代の支配者であった、肉食民族である秦氏や騎馬民族である突厥進駐軍を貶めていたからだ。
しかし、紀元1世紀北インドのガンダーラ(旧名アレキサンドリア)においてギリシャ語で著わされた大乗仏教経典類には、「施陀羅」などの差別語などなかった。騎馬民族匈奴にひれ伏していた漢帝国が、匈奴を貶めるために、肉食民族を貶めるために、菜食主義のヒンズー教で不可触賎民を表わす「チャンダーラ」の言葉を「施陀羅」と漢訳し、挿入したのだ。
藤原氏は、藤原氏の氏寺である興福寺を拠点に、僧服を着た者をして、漢訳仏教の肉食蔑視の思想を広めていたのだ。その僧服の者は、女帝元正天皇が述べているように、見かけは僧侶のようであるけれど、心は邪まな盗人のものであるのだ。
このことが理解できれば、何故、鑑真が、奈良の東大寺、九州の筑前観世音寺、東国の下野薬師寺に戒壇を設けたのかが分かる。それらの地域は、古墳時代、秦氏の支配下にあったところだ。九州には、608年「秦王国」があった。東大寺は、三つの古墳のひとつを破壊した跡に建てられた。東国の下野を流れる利根川上流は、シルクロード東限の繭玉生産地の群馬で、古墳時代では、東国で最も多く巨大前方墳が築かれた地だ。
奈良時代、日本列島西国を拠点に、繭玉と砂金を求めて、武装した仏教組織が東国に進駐し、「肉食蔑視」の漢訳仏教思想を布教して、秦氏や騎馬民族をそれらの地から追い出し、支配下においていたのだ。
その見かけは僧侶のようであるけれど、心は邪まな盗人の僧を追い出すために、反藤原氏となった聖武天皇は、肉食禁止を明文化していない小乗戒を授ける鑑真を、日本に招いたのだ。
すると、741年聖武天皇が、各地に像を安置する国分寺を築かせたが、現在でもその像が何一つ存在していない謎も分かる。
藤原日本史では、聖武天皇の大仏鋳造発願は、難波の知識寺で見た仏像をヒントとした、とする。聖武天皇が、仏像を安置させたのが、各地の国分寺であるならば、その仏像のひとつでも、現存していても良いはずだ。しかし、その仏像が、仏像ではなく、遍照鬼であったならば、どうだ。
初期の奈良の大仏(?)の頭が、855年に落とされた。現在の大仏の頭は、江戸時代に鋳造されたものだ。だから、初期の大像が、仏像であったことを証明できない。奈良の大仏は、江戸時代まで、庶民には祟り神の「遍照鬼」として恐れられていた。
藤原日本史の歴史改竄のトリックは、ユダヤ・キリスト教が、ミトラ教を歴史的に抹殺した手法ソックリだ。その手法とは、ミトラ教の儀式や思想(12月25日の太陽再誕日・マルタクロス・牡牛の生血と生肉を食べる儀式・日の出神、天中の神、日没の神の三位一体)をキリスト教の儀式や思想(12月25日クリスマスの日・十字架・赤葡萄酒と種無しパンを食べる儀式・父と子と精霊の三位一体)とする。そして、宗教施設は徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教教会を建てる。
日本列島宗教史では、再生・復活思想のミトラ教の思想は、阿弥陀により往生できるとする浄土教として隠蔽した。しかし、浄土教は、仏教ではない。一神教であることが根拠だ。それに、仏教の究極は、悟りを得ることだ。しかし、浄土教では、太陽神(阿弥陀)により、浄土で往生することだ。
その一神教の太陽神が、戦国時代の東国の屋形に住む武士(武家ではない。武家屋敷に住む武家は、禅宗信仰。)の間で信仰を集めた。太陽神ミトラは、ローマ帝国軍団の軍神で、そして、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の花郎騎士団でも軍神だ。日本の武士は、その花郎騎士団の流れにある。その太陽神を唯一の神とするのが、浄土真宗ではなく、浄土秦宗(じょうどしんしゅう)だ。
戦国時代、武士が信仰した「浄土秦宗」が、大阪の秦王国の拠点が織田信長軍団に壊滅されると、藤原氏の蓮如が発明した「浄土真宗」に摩り替わったのだ。
戦国時代の一向一揆を、浄土真宗の蓮如が指導していたとする、藤原日本史での記述では、室町幕府加賀守護富樫幸千代(弟)側には、「じょうどしんしゅう高田門徒」が加勢、それに対して、富樫政親(兄)側には、「じょうどしんしゅう本願寺門徒」が加勢したことを説明できるのか。
藤原日本史での一向宗(浄土真宗本願寺派)の説明を拾い集めると、そこには多くの謎が生まれる。
★戦国時代、一向宗は全国に多数の門徒組織を持ち、膨大な寺領を抱えた領主の側面を持っていた。
★一向宗の寺内町には、多数の商工業者が集まっていた。
★一向宗の寺領は、天皇の長久祈願を行う勅願寺の資格が得られていたため、特権として不入権を与えられ、自治権を行使していた。
★穢多の多くは、本願寺の門徒となっていた。
★本願寺には、家老などの職もあり、武家と変わらない体制を作り上げていた。
★門徒集団では、意思決定のため、話合いの「衆議」が実践されていた。
★本願寺は、各地域集団とのネットワークを結び、指示を発していた。
★本願寺は、室町幕府と密接な関係を持っていた。
★蓮如の孫証如は、藤原氏摂関家の九条家の猶子となって、公家社会と密接な関係を結んでいた。
★本願寺で集めた金で、経済的に疲弊していた朝廷や公家を経済的に支えていた。
★一向宗の門徒には、「渡り」と呼ばれる非農耕民が多く参加していた。それらは、街道や河川の交通業者、鉱山師、さまざまな職人、商人、海や川の漁民などだ。
★関東での門徒のリーダー格となったのは、武士階級の出身者が多かった。
藤原日本史での記述は、戦国時代、蓮如が組織した本願寺に、多くの民が集まり、寺内町を形成して、そこを拠点に一向一揆が発生していた、とする。しかし、実際は、蓮如は、秦氏や騎馬民族が暮らす軍事都市国家内の武士の屋形を借り、それを隠居所とし、そこで葬儀ビジネスを開業し、そこを拠点に→道場→山科寺・石山寺→山科本願寺・石山本願寺と規模を発展(樹木の藤の蔦による、軒先から母屋を乗っ取る戦術。)させていたのだ。
一揆は、南北朝時代以降、多く発生した。
藤原日本史では、鎌倉時代末期には荘園制が崩れ、そこからはじき出された百姓が、自治的、地縁的結合により共同組織を作った、とする。それを、惣(すべて)民を集めた惣村とする。その惣村が、南北朝時代、更に広域に結集して惣荘、惣郷となり、自治権を獲得していた、とする。この惣荘・惣郷を拠点に、徳政を求めて暴動を起こしたのを、土一揆だとする。
しかし、足利氏連合軍が下野一帯を支配することにより、勢力を増し、京都に室町幕府を拓くと、守護の権限が強化され、惣村の自治権も奪われた、とする。しかし、足利連合軍各氏族の家督相続での内紛により応仁の乱が発生すると、国人による集団が発生し、その国人を中心に国一揆が発生した、とする。
その国人とは何か。
一揆とは、揆(みち)を一つにすることだ。つまり、皆の考えや行動が一致することだ。そして、人々が何かの目的に向かって心を一つにすることを、一味同心と言う。一揆での一味同心では、同心を誓う際に、神水を酌み交わす。この儀式は、後に、役座の水杯の儀式として引き継がれ、今日に至る。一揆におけるこの水杯の儀式からも、浄土秦宗が仏教ではないことがわかる。この儀式のルーツは、擬似血縁関係を結び結束を図る、騎馬民族の文化だ。
藤原氏の氏寺である興福寺大乗院の尋尊が記した「大乗院日記目録」では、1428年京都での「日本開白以来、土民の蜂起はこれ初めなり。」、とある。この土民とは、近江坂本、大津周辺の馬借たちであった。更に、1486年「今日山城国人、平等院に会合す。国中の掟法、猶以てこれを定むべしと云々。」、とある。国人たちは、「36人衆」によって指導されていたが、かれらは月行事と呼ばれる毎月交代の代表者を選んでいた。
「大乗院日記目録」では、土民と国人とは区別されて記述されていた。この国人とは、幕府にまつろわない、架空の清和源氏ではなく、日本版源氏本流である源氏長者の初めである嵯峨源氏末裔と、同族の醍醐源氏末裔の武士のことだ。
藤原日本史では、平安時代中期まで廟堂で左大臣まで勤めていた嵯峨源氏と醍醐源氏の歴史的存在は、藤原氏が発明した、出自不明の満仲なる人物を租とする清和源氏により隠蔽されている。
武士の中には、幕府に就職して「サムライ」になる者もいたが、非職の輩として生活していた武士もいたのだ。その非職の輩を、体制側では国人と蔑視していた。
藤原日本史では、惣村は農耕民族の集落のように記述しているが、惣は、畿内や近江の荘園村落では、商業、漁業、手工業などと関わりの深い地域で成立していた。惣村は、今で言う農村ではないのだ。そこに、武装する国人組織が存在していれば、それは、もう立派な都市国家だ。そのひとつが、大阪上町台地を支配する「秦王国」の軍事都市国家だ。
では、その国人である非職の輩の武士は、一向一揆でどのようなことをしていたのか。
モンゴル帝国による国際自由交易の鎌倉時代、非職の武士は、中世最大の高利貸し組織を持つ比叡山延暦寺の僧形の商人の護衛を生業としていた。それが、金ぴか衣装に派手に装飾した馬に乗る悪党(勇者の集団の意味)だ。この頃、武士の家紋が登場した。武士の家紋とは、言わば、武装騎馬警備企業のシンボルマークだ。
その悪党の生業も、室町時代になると、禅宗と大山崎油座の商人と結託した、「清和源氏」を租とする新興武家に取って代わられた。その新興武家の中核である足利氏も、将軍職をくじ引きで決めていたほど組織としては脆弱だった。それにより、足利連合軍各氏では、内紛が絶えなかった。そこで新しい武士の営業が始まった。それが、寄騎だ。その寄騎は、源氏長者となった徳川家康が開いた江戸幕府では、騎馬による警察業務をおこなう与力となる。江戸時代、大阪天満橋を拠点として乱を起こした大塩平八郎は、与力だった。
天満橋付近は、源氏長者となった徳川家康により、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により賎民穢多として貶められ、堀の囲い地に移住され常民の生活圏と「隔離」されていた秦氏末裔の国人が、大阪町奉行の役人与力・同心として採用されたことにより、秦氏末裔の居住地となっていた。
戦国時代の寄騎とは、武装騎馬による傭兵業だ。金を払えば、誰にでも加勢する。加賀の富樫兄弟の内紛で、両側に加勢したのが、その寄騎だ。寄騎を護るのが、太陽神の軍神阿弥陀だ。
禅宗は、新興武家に取り入られるように、地蔵を軍神として宣伝していたように、蓮如も阿弥陀を軍神として宣伝していた。蓮如の合戦前の演説では、「念仏して往生を遂げるのも、苦難に遭って死ぬのも同じことで、前世の業にまかせればよいのであって、しかる上は仏法のために惜しむべからず合戦すべき。」、とある。そこで、「善人は往生できる、勇者(悪人)ならなおさらだ。」、と念を押されれば、一揆勢は、死をためらうことなく合戦に赴く。その戦いで戦死した者の財産は、十字軍を遠征させてその軍人の財産を獲得して宗教勢力を増したバチカンと同じように、本願寺に転げ込む算段だ。
蓮如が、大阪の秦王国拠点に潜入したのが、1496年、そして、その拠点がイエズス会傀儡軍団長の織田信長により壊滅するのが、1580年。その間、94年間に、日本列島には、イベリア半島国の征服者が渡来していた。
藤原日本史での戦国時代物語では、イエズス会などは脇役で、敬虔な牧師は殉教者だったように記述している。そして、織田信長が、日本列島統一半ばで、本能寺で明智光秀により謀殺された、とする。しかし、史実は異なる。戦国時代を終焉させた、イベリア半島国の手先であるイエズス会の日本列島征服(布教?)の真の目的は、何だったのか。
その目的を知ることは出来ない。それは、イエズス会を軍事的・経済的に支えていたイベリア半島国のポルトガルは、1580年イスパニアに併合され、そして、そのイスパニアの無敵連合艦隊も、1588年イングランド王国の戦艦に敗れてしまったからだ。
しかし、外国勢による日本列島征服は、イエズス会撤退から約300年後の明治革命で完成した。
この明治革命から、織田信長が活躍した戦国時代を眺めると、イエズス会が、「誰」の道先案内で、何を目的に日本列島で活動していたのが分かるようだ。
それにしても、明治革命は、不思議な革命だった。
左大臣藤原道孝、右大臣藤原家信、右大臣藤原実美、内大臣藤原実徳、内大臣藤原忠順、内大臣藤原宗弘、内大臣藤原資宗、内大臣藤原雅典、内大臣藤原光愛、内大臣藤原胤保らが、明治元年(1868年)内閣最高幹部となっていた。そして、奈良時代の唐帝国の律令制度を思わせる、神祇官(唐帝国にはなく、藤原不比等が発明した役職。)と太政官が復活したのが、明治革命だった。
藤原日本史では、明治維新と述べているが、史実は、明治革命だ。その根拠は、北朝の天皇が暗殺され、それに替わって、南朝の天皇が明治天皇として登場しているからだ。
革命とは、人民に徳政を行わなかったことにより、北極星の天帝が、地上の帝の交代を命じることだ。
明治革命の戦いの発端は、「尊皇攘夷」のスローガンのもとに、日本全国の下級武士(国人)たちの間で始まった。それが、まもなく、「倒幕運動」に替わり、更に、「攘夷」(外国人を追い払うこと。)が、いつの間にか、「開国」(外国文化を取り入れること。)に方針が変わっていった。その経緯の説明が、藤原日本史には、一切ない。
この革命活動方針の180度の変更は、革命を成功させた下級武士からすれば、明治革命の結果に誕生した明治新政府が、攘夷をおこなわずに、開国を実現させたことは、裏切り行為のなにものでもない。
更に、明治新政府は、下級武士の働きを労うことなく、「廃藩置県」を行い、「徴兵制度」を実現させ、中央集権政府の軍隊を組織した。それまでの江戸時代の各藩は、独自の軍団を組織していて、各藩は独立国家の性格を持っていた。
この中央軍団の創設は、下級武士たちを失業に導いた。
その明治革命を推進した薩摩、長州、土佐、肥前は、明治革命後、その地元は発展するどころか衰退していく。しかし、明治革命で敵側だった地域、例えば、室町時代に足利氏が支配していた下野は、江戸末期には寒村となっていたが、明治革命後、急速に発展しているのだ。何故だ。
この明治革命の意図のひとつは、明治革命を推進した藩を衰退させ、それに反対した藩側の国勢を強めることだった、ようだ。
このことは、明治革命後の士族の反乱が、何処で起きたかで分かる。
明治7年 旧肥前佐賀藩の士族たちは佐賀の乱を起こす。
明治9年 旧長州藩の士族たちが萩の乱を起こす。
明治10年 旧薩摩藩の士族たちが西南戦争を起こす。
更に、明治新政府は、その明治革命を推進した各藩を文化的に差別していた。
明治6年 官立の「外国語による中学校」を全国に7校設立することになった。その7校は、鹿児島、山口、高知、佐賀の4県にはない。それらは、東京、宮城、新潟、愛知、大阪、広島、長崎だった。
明治19年 全国に5校の官立高等中学校を設立することになった。その5校は、鹿児島、山口、高知、佐賀にはない。それらは、東京、仙台、京都、金沢、熊本だ。
以上の事柄から考えられるのは、明治革命の目的のひとつは、下級武士(国人=嵯峨源氏末裔武士=ラストサムライ)が勢力を持つ藩の壊滅だ。
戦国時代のイエズス会が織田信長に軍事援助をし、そして、爆殺し、出自不明の豊臣秀吉に天下をとらせた目的を知るには、明治革命の登場者を戦国時代にリンクすることが最良のようだ。
国際金融資本に支配されたイングランド王国=イベリア半島国家、
軍隊を保持する死の商人達のイギリス東インド会社・フリーメーソンの軍事援助により第三百済王朝の江戸幕府が壊滅=イエズス会の軍事援助により大阪秦王国(藤原日本史では石山本願寺とする。)が壊滅、
山の民を奇兵隊として組織し明治革命軍に送り込んだ長州藩=織田信長軍団と10年戦争を戦った大阪秦王国を軍事援助をしていた毛利軍、
日本列島侵略企画立案者のトーマス・グラバー=巡察師ヴァリニャーノ、
秘密諜報員の坂本竜馬=盲目の琵琶法師ロレンソ、
北朝天皇を暗殺し「尊皇攘夷」派から「開国」派に変身し、後に暗殺された伊藤博文=イエズス会の「デウスの神」を差し置いて「自ら神」を宣言し、後に爆殺された織田信長、
明治革命の信念(尊皇攘夷)を貫いた西郷隆盛=山の民の棟梁でありデウスを信じた高山ジュスト右近、
明治新政府軍に壊滅された各藩の勤皇の志士(嵯峨源氏末裔)=国人のキリシタン大名、
明治革命の表も裏も知る役座と親交のある勝海舟=源氏長者となり東海道宿場の治安警察を役座に依頼した徳川家康、
そして、明治革命の黒幕藤原氏=戦国時代の黒幕藤原氏、となる。
300年の時を隔てて、イングランド王国を中心とする欧州連合艦隊と、イエズス会のザビエルが訪れた地域、鹿児島、長崎、山口がダブルのは、偶然か、それとも、意図したことか。
藤原日本史をナナメから読み解くと、そこには、ある歴史的事件や反藤原氏勢力の事績を隠蔽・改竄している、と思われることがある。そのひとつに、藤原日本史の戦国時代物語では、イエズス会の水面下での軍事行動の隠蔽がある。
1583年、織田信長の本能寺での爆殺1年後、ルイス・フロイスは、書簡、報告書を史料として、「日本史」を編纂した。その中に、「われらの主なるデウスは、彼があの群集と衆人の参拝を見て味わった歓喜が19日以上継続することを許し給うことがなかった。」、とある。彼とは、織田信長のことだ。
この織田信長の本能寺爆殺時に、徳川家康は堺にいた。
徳川家康と主だった家人一行は、織田信長の招きで、安土城を訪問した後、堺で遊行のため宿泊していた。未明、その事件を間者が知らせることにより、伊賀越をして三河に逃げ帰り、一命を取り留めたのだ。この間者の知らせが、一刻でも遅れていたら、徳川家康の軍団は壊滅状態となっていたはずだ。その堺は、イエズス会と火薬、鉛球、鉄砲、大砲などの軍事物資の取引で潤う、豊後のキリシタン大友宗麟(ドン・フランシスコ)の出先機関のある地だ。
藤原日本史によれば、徳川家康の略歴は、三河城主松平氏の幼名竹千代は、守護大名今川氏に忠誠を示す人質として差し出された、とする。その今川氏の、1560年桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれた後、元康(後の徳川家康)は、今川氏と決別し、織田信長と同盟を結び、1567年松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった、とする。そして、1616年駿府城で死去し、久能山に葬られ、1年後に下野国日光に改葬され、日光東照宮に祀られた、とする。
藤原日本史によれば、徳川家康は、1560年桶狭間の戦いで勝利した織田信長と同盟を結んだ、とする。しかし、不思議なのは、この頃の徳川家康は、戦国大名としての強固な地盤を確立してはいない。
徳川家康が、西三河全域を掌握するのは、1563年家臣の半数以上が「浄土秦宗軍」(藤原日本史では、蓮如の孫空誓が「三河浄土真宗軍」を指揮していたとする。)に友軍していた西三河一向一揆を鎮圧してからだ。
では何故、織田信長は、西三河の弱小武将の徳川家康と同盟を結んだのか。
その西三河の対岸東三河には、室町幕府の全国45カ国中、29カ国までもの守護職を独占していた仁木氏、細川氏、畠山氏、吉良氏、今川氏、斯波氏などの三河出自の武家を支えていた禅宗の曹洞宗軍事勢力が存在していた。
日本列島の支配(布教)を企むイエズス会には、三河湾を支配下に置く、浄土秦宗軍団も禅宗軍団も壊滅する必要があった。
織田信長は、1560年今川義元の上洛を阻止するために、その前年1559年、堺を訪れていた。その堺は、イエズス会の都地区の拠点だ。
織田家の家系は、織田久長→敏定→信定→信秀→信長、とされる。しかし、三代先の墓は、賎民居住地である垣内にある。南北朝の14世紀末、織田家の租は、斯波氏に従って尾張に進出したとする。その斯波氏の出自も明らかではない。斯波氏は、鎌倉時代には、清和源氏を租とする足利氏を名乗っていたが、室町時代に斯波氏と称した。清和源氏など、藤原氏が創作した「姓」で、歴史的に実在しない。藤原氏が、陽成源氏を清和源氏とする意図は、今も謎だ。
室町時代を支配した足利家の家臣の多くは、三河からの出自だ。三河湾には、南の島から椰子の実が流れ着くだけではない。
907年唐帝国が滅びると、アラブ海洋交易民は、中国沿岸での虐殺を逃れるため、その一部は、東シナ海を北上し、伊勢湾、三河湾へ上陸した。伊勢湾や三河湾には、南方からの黒潮が流れ着く。そのアラブ海洋交易民の末裔が、平安時代末期に「平家」として、日本列島の三分の一を支配した。織田信長は、その末裔だ。
1560年桶狭間の戦いから、織田信長の戦闘が変化した。
それ以前の戦いは、秋から春にかけて行われていた。その戦いの主な原因は、国境の領地争いと水利権の争いだった。秋から春にかけて戦いが行われていたのは、春から秋にかけての農繁期を避けたからだ。一人の兵士が戦場で戦うには、5〜6人の従者が必要だ。戦いは、武人だけではできない。多くのひとの動員がなければ、戦は出来ない。それらの戦いでは、国境での紛争で、日本列島を支配下に置くとの「天下統一」意思などなかった。その当時、イエズス会に出会うまでは、織田信長の思想にもなかった。
戦国時代、織田家が濃尾平野を支配できたのは、ゲリラ的策略と身内でも滅ぼす暴力で他領を侵略し、伊勢神宮の、「内宮」ではなく、「外宮」仮殿の造替費や禁裏修理費などを献上し、朝廷の伝統的権威を利用して他領制圧を正当化する手法だった。
この手法は、平安末期、後に、「平氏」ではなく、「平家」となる平正盛・忠盛親子の得意とする手法だった。そのアラブ系海洋民族末裔の「平家」は、日本古来の宗教的権威を否定し、比叡山の神輿や春日社の神木に矢を射掛けていた。更に、東大寺の大像にも火を点けた。
イエズス会が、日本列島支配(布教)の停滞を打開するために、尾張の弱小ゲリラ武将の織田信長を候補として選んだ基準のひとつは、その日本伝統宗教を否定する「平家」の血筋だったようだ。フロイスの「日本史」によれば、「信長が、仏僧や神仏の寺社に対しての特別の権勢と異常な増悪を抱いていたことは、彼の治世の間における行動が顕著に物語るとおりである。」、と記している。
織田信長軍団は、今川義元軍団2万5千を、2千の兵力で討ち取れたのは、何故か。それは、鉄砲と弓矢との武器の差と、今までにない軍団組織による。その軍団組織とは、傭兵軍団だ。今川義元軍団には、戦い専門の武人よりも、その従者が多かった。その多くは、農耕民だ。しかし、織田信長軍団の全ては、銃撃者の傭兵だ。兵士数の問題ではない。
不思議なのは、その織田信長軍団の2千名の鉄砲隊員を何処から調達して、何処で射撃訓練をしていたのか、ということだ。この答えは、藤原日本史にはない。
後に藤原氏傀儡関白となった豊臣秀吉は、自らの出自を隠蔽するために、「信長公記」を創作し、戦国時代の歴史を隠蔽・改竄した。この「信長公記」を史料とするのは、「平家物語」と「吾妻鏡」を史料として平安時代末期から鎌倉時代初期までの歴史を復元するのと同じに、藤原氏の歴史改竄トリックに引っかかる可能性が大だ。
では、尾張のゲリラ隊長織田信長に、その鉄砲隊の傭兵軍団を送り込んだのは誰だ。
イエズス会東インド管区の巡察師ヴァリニャーノは、1580年長崎で「東インド巡察記」を著わした。日本は、東インド管区の東端に位置する。その全40章のうち、15章、16章、17章に日本情報として報告された。その中には、「日本人たちは、彼らの領主に依存するところが大きいので、領主たちからの好意と援助がなければ、キリスト教徒たちが保持され、進歩することはなく、改宗も拡大が不可能である。」、「戦争の時には、巨額の費用をかけて幾人かのキリスト教徒領主たちにも援助をほどこさねばならない場合があった。」、と記している。しかし、ヴァリニャーノが、初来日したのは、1579年で、桶狭間の戦いより、19年後であった。
織田信長が、桶狭間の戦いで頭角を現すのは、1549年フランシスコ・ザビエルが渡来して、11年後の1560年だった。その織田信長は、桶狭間の戦い前年に堺を訪れていた。その堺は、イエズス会の都地区の拠点で、豊後地区の拠点とは密接な関係を持っていた。
豊後地区は、豊前と豊後地方から構成される。中核地域は、府内と臼杵だ。その地を支配する大友宗麟は、1551年(天文20年)年豊後府内を訪れたフランシスコ・ザビエルを歓待し、府内での布教を許可した。
大友宗麟は、ザビエル訪問以前から、ポルトガル商人と友好的交流を持っていた。堺の死の商人日比屋了桂(ディオゴ)の父クンドをザビエルに紹介したのも大友宗麟だ。ザビエルを近江坂本(馬借の本拠地・騎馬民族の都市国家)に案内したのは、堺の豪商小西隆佐(ジョウチン立佐)だ。
その大友宗麟は、1553年肥前守護を要請し、その見返りとして将軍足利義輝に、ポルトガル商人から買い受けた南蛮鉄砲を贈っていた。その足利義輝は、1559年(永禄2年)から1561年(永禄4年)にかけて、諸大名に対して室町幕府権力の回復への協力を積極的に働きかけ、その報奨として鉄砲を贈呈していた。その鉄砲は、イエズス会豊後地区を支配する大友宗麟から堺に送られたものだ。
イエズス会の都地区の拠点のひとつである堺は、死の商人の都市国家だが、堺の港は、巨石の壁に護られた大阪の港より、防御機能が貧弱だった。イエズス会との武器交易を、今以上に発展させるには、大阪の港を乗っ取る必要がある。それは、大阪の港は、古墳時代から東アジアと日本列島との国際交易港だったからだ。
その大阪(難波←浪速←ローラン・上町台地の先端は、ワタナーベ(波が打ち寄せる小山=岬の意味)と呼ばれていた。)は、古墳時代からギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏末裔の支配地だ。それが、大阪秦王国だ。しかし、藤原日本史には、何処を探しても、大阪秦王国の記述はない。
藤原日本史の古代史では、大阪(上町台地一帯)を軍事部族とする物部氏の拠点としている。神仏戦争を戦ったとする物部氏とは、古代新羅から渡来した花郎騎士団を隠蔽するために発明されたものだ。古墳時代の日本列島には、奈良時代の歴史に登場する、漢訳仏教も中臣神道も存在しない。それは、漢訳仏教思想でも、中臣神道思想でも、「死者はケガレている。」、からだ。
しかし、奈良時代以前の古墳時代の400年間、北は岩手県以南から南は九州までの日本列島では、死者は、再生すると信じられ、4〜5世紀頃からは生前の鎧兜の武装勇姿で着飾れ、宝物と供に鄭重に古墳に葬られていたのだ。このことからも、藤原日本史では飛鳥時代とする古墳時代後期の奈良盆地での、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との神仏戦争などありえない。
そして、戦国時代の大阪秦王国の歴史は、応仁の乱後、蓮如(姓は藤原氏)が、鎌倉時代の法然の浄土宗思想を真似て、開祖シンラン(親鸞・シンラ新羅と擬似音)を発明し、じょうどしんしゅう(浄土秦宗→浄土真宗)の石山本願寺(蓮如の時代では石山寺・テラ)の歴史で隠蔽されている。
ここにイエズス会、大友宗麟、堺(細川氏の支配地)の死の商人との三者の思惑が一致した。その三者の黒幕に、南九州の島津氏に絡みつく藤原氏(流浪貴族である近衛前久の暗躍)が存在する。その三者の思惑とは、大阪の港を支配している大阪秦王国の壊滅だ。
そのためには、三河を支配する徳川家康を敵に回さないことが必須だ。何故ならば、大阪秦王国と徳川家康とには、古墳時代から同じ血が流れているからだ。それは、騎馬民族の血だ。
日本列島で巨大前方後円墳が存在する地域は、近畿と群馬(上野・毛野)だ。その近畿でも、河内平野には巨大前方後円墳が存在する。その河内平野が、河内湖としていた時代では、上町台地には巨大前方後円墳が存在していた。しかし、上町台地の古墳群は、奈良時代の唐進駐軍に破壊され、架空の聖徳太子の創建七寺物語により、隠蔽されているのだ。
そのひとつが、大阪上町台地にある四天王寺だ。四天王寺は、藤原日本史で言う飛鳥時代ではなく、西国で古墳時代が終焉した奈良時代に創建された。その根拠は、四天王寺は、古墳跡に建てられているからだ。四天王寺の石橋は、古墳の石室の石を再利用したものだ。
藤原日本史が、大阪の歴史を改竄・隠蔽しているのは、何故だ。改竄・隠蔽は、古代史だけではない。藤原氏が復活した明治革命後も、大阪の歴史を隠蔽・改竄しているのだ。
明治36年(1903年)国定教科書で、「いまも太閤さんが建てた大阪城がある。」、と記述しているからだ。
豊臣秀吉が創建した大阪城は、1615年大阪夏の陣後、騎馬民族末裔が支配していた東国の棟梁である源氏長者となる、徳川家康の命令で、藤原氏の猶子となった豊臣秀吉が創建した大阪城だけではなく、石垣のひとつも残らず粉砕し、平地とした。その平地上に、徳川家康により大阪城が再建された。
だから、大阪城の史実を述べるのなら、明治の国定教科書は、「いまも徳川家康による石垣の上に、豊臣風の天守が載っている。」、とするのが筋だ。更に、藤原日本史の戦国時代物語では、大阪の歴史改竄・隠蔽だけではない。徳川家康の出自・事績・死後の祀り処も、改竄・隠蔽されているのだ。
それらの藤原日本史の徳川家康に関する「ウソ」の数々は、死後祀られたとする日光東照宮の「ウソ」から逆に、出自まで辿れば明白だ。
藤原日本史では、元和2年(1616年)4月、病の床に伏した徳川家康は、死後のことを「遺体は久能山に葬り、葬儀は増上寺で行い、位牌は大樹寺に納め、一周忌が過ぎたら日光山に小堂を建て勧請せよ、関東の鎮守になろう。」と遺言した、とする。
そして、死後、浄土宗の増上寺に霊廟が造営され、「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」の法号が贈られた、とする。しかし、元和3年(1617年)3月、徳川家康に禁中並公家諸法度でイジメられていた朝廷は、徳川家康に「東照大権現」の神号を贈られた、とする。この法号から神号の交換は、何を意味するのか。
唐進駐軍が日本列島の西国から騎馬民族突厥進駐軍を駆逐し、奈良盆地を占領した時代、漢訳仏教を思想武器に、秦氏の太陽信仰民族や騎馬民族の北極星(太一)信仰民族を殲滅していた。そして、唐進駐軍の通訳藤原不比等は、藤原氏の神アマテラスオオミカミを発明し、神仏習合を発明して、奈良の興福寺の仏と藤原氏の神とを同列とし、伊勢の太陽神(太一)を祀る道観を破壊し、その跡に、アマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮とした。
奈良時代末期、反藤原氏の百済系桓武天皇は、興福寺を支配する春日社の祭祀者である藤原氏の支配力を京都盆地から排除するために、788年最澄に比叡山延暦寺を創建させた。そして、唐から移民させた亡命百済貴族が廟堂の支配者となった平安時代に、藤原氏の春日社の神が興福寺の仏を支配する体制を覆す、本地垂迹説を発明した。
その思想では、仏の化身として日本に現われたのが神(権現・ごんげん)である、とする。その平安時代に発明された本地垂迹説思想によると、徳川家康の神号「東照大権現」は、仏の仮の姿だというのだ。
仏は、中国音で「ブツ」、和音で「ほとけ」と読まれる。しかし、「ブツ」と「ほとけ」とは、その意味が異なる。「ブツ」は、ブッダのブツで、覚醒した者(悟りを会得した者)の意味だ。それに対して、「ほとけ」とは、古代新羅語の「ふとけ」から転化した言葉で、死者の霊のことだ。だから、現代の刑事ドラマで、刑事が死者を「ほとけ」と言うのは、その意味が古代から現在まで続いているからだ。
その本地垂迹説は、平安時代から、1868年伊勢神宮の境内から無数の仏像を排除するための神仏分離令が発令されるまで、日本列島で生き続けていた。
江戸時代は、神が仏に支配される、神宮寺の時代だった。その徳川家康が、「東照大権現」とされたのは、仏の支配下となったのだ。では、その仏とは、何か。それは、百済系の仏を祀る天台宗の仏だ。
一般的歴史常識では、徳川家康の霊は、日光東照宮に祀られている、とされる。しかし、その日光東照宮では、徳川家康の霊は祀られてはいない。百済系の仏を祀る比叡山延暦寺の天台宗により、徳川家康の霊(ほとけ)は封印されているのだ。
現在、徳川家康の霊は、日光東照宮(栃木県日光)ではなく、世良田東照宮(群馬県太田)に祀られている。
世良田東照宮は、2代目将軍徳川秀忠が創建した元和年間造営の奥社を、寛永21年百済系3代目将軍の徳川家光により、日光から世良田に移築されたものだ。何故、移築されたのか。それは、百済系天台宗の天海の、騎馬民族が支配する、江戸の乗っ取りの陰謀による。それは、江戸幕府第3百済王朝の始まりだ。
天海は、1623年2代目将軍徳川秀忠が、3代目将軍徳川家光に譲位すると、江戸の町の改造に取り掛かった。それは、徳川家康が寵愛していた新羅系秦氏末裔の弾左衛門一族の日本橋・人形町からの排除だ。
そのためには、江戸を、日本列島での騎馬民族差別発祥の地である京都を真似て、小京都とすることだ。その手段として、1625年上野の山に天台宗の「寛永寺」を創建した。京都の東にある比叡山延暦寺は、百済系移民の仏を祀る施設だ。その江戸の東にある「寛永寺」の山を、東叡山とした。
因みに、江戸の上野山は、京都の比叡山と同じに、巨大古墳群が存在していた。その巨大古墳を破壊した跡に、上野寛永寺が建立されたのだ。京都の比叡山と江戸の上野山の寺が、「延暦」と「寛永」の年号名を付けられたのは偶然ではない。それは、亡命百済王朝の始まりだからだ。
寛永16年(1639年)天台宗僧侶の天海は、徳川家光に、東照社を世良田に移築し、唐風の新たな社を創建することを提案した。それは、江戸の町から真北の北極星へのラインにある、騎馬民族の血を引く徳川秀忠が創建した東照社の排除だ。北極星は、騎馬民族が崇拝する神(太一)であるからだ。
この日光の東照社の世良田への移築に、世良田の住民は、拒む行動に出た。すると、天海は、源氏長者となった徳川家光の意向をもって、天台宗寺院としての法度により、客殿や東照社の造営を進めた。
移築工事は、寛永18年(1641年)秋から始められた。その世良田への移築が、徳川家康の霊を祀るところではなく、天海の陰謀によるところであることは、その移築地が、利根川近くで、日中でも日が差し込まない大小の樹木に囲まれた藪の窪地で、しばしば水害にあう環境であるからだ。
寛永21年(1644年)天台宗関東総本山「寛永寺」の僧侶をはじめ、上野国(群馬県)の天台宗寺院や末社の僧侶達により、世良田東照社の正遷宮がおこなわれたことも、徳川家康が浄土宗に帰依していたことを否定する、天台宗僧侶の天海の行動だ。
藤原日本史では、徳川家康の出自を三河として隠蔽しているのは、その本来の出自を辿れば、東国は騎馬民族支配地であることが、バレるからだ。徳川氏の系図では、
初代徳川義季(よしすえ)→頼氏(新田三河守)→教氏(世良田次郎)→家時→満義→政義→親季→有親→親氏(室町時代初期に交易で活躍した阿弥一族の流れに有る徳阿弥、松平郷に入り、松平姓をおこす。)→信光(源姓を称す)→親忠→長親→信忠→清康(世良田次郎三郎)→広忠(松平次郎三郎)→家康(徳川初代将軍、後に、将軍を辞し、源氏長者として君臨する。)→2代目将軍徳川秀忠(東照社創建)→3代目将軍・源氏長者徳川家光(東照社を世良田に移築し、日光東照宮を創建。)
藤原日本史では、徳川氏の祖先徳川義季は、新田荘の下司職に任命された新田氏の始祖新田義重から、同荘内の地を譲り受けた、とする。そして、徳川義季は、鎌倉幕府に出仕するとともに、世良田郷を開発し、地頭職に補任された、とする。
しかし、鎌倉幕府が、1333年滅ぶと、徳川郷は、その後、天野氏らが知行したが、文和2年(1353年)足利尊氏により没収された、とする。
南朝方を終始一貫して支援していた新田義貞の流れにある9代目新田親氏は、室町幕府による新田一族の追補から逃れるため、三河の松平郷に土着し、新田の姓から、松平へと改姓した、とする。この新田親氏から、9代目の後裔にあたるのが徳川家康だ、とする。
新田一族が、三河の地へ逃亡したのは、南北朝の戦乱で新田一族と供に行動した南朝遺臣が多数三河の各地に潜居していたからだ。その後、世良田氏の遺臣は、室町幕府の今川軍と戦い、敗れると、以後、歴史の舞台から消えた。
徳川家康は、天文11年(1542年)三河国岡崎城内にて、松平広忠の長男として誕生した、とする。そして、幼少時は、織田氏や今川氏のもとで人質生活を強いられていた、とする。
徳川家康が、25歳の時(1567年)三河守の任官依頼を、誓願寺の泰翁上人に相談した、とする。その泰翁上人は、関白近衛前久(藤原氏)に斡旋したが、国人(野武士・山武士の呼称)の松平の名字で朝廷に執奏したが、「先例なき事は公家にはできない」と勅許がおりなかった、とする。そこで、知恵者が、「松平の儀は徳川の由」とし、徳川氏は本来源氏であるが、二流に分かれ、その総領の筋に藤原氏になったとする系図を創作し、徳川家康は官位を得た、とする。
律令制が崩壊していた鎌倉時代から戦国時代にかけて、経済的に貧困な貴族や公家は、成金の新興武家に「猶子」(書類上の養子)を条件に、経済的援助を受けていた。平安時代まで優雅を誇っていた藤原氏も、その例外ではない。その後、流浪貴族の近衛前久は、出自不詳ではなく、出自不明の羽柴秀吉(藤原秀吉→豊臣秀吉)も猶子とした。
徳川家康は、松平氏→徳川氏→源氏→藤原氏→源氏、とコロコロとタイトルを替えていたのは、戦国時代の多くの武将の出自が、歴史的に不明だからだ。特に、南海から暖流が流れ着く三河・伊勢・美濃出自の戦国武将の出自は謎だらけだ。そして、それらの武将の多くは、歴史上存在しない「清和源氏」を租とするのは、何故か。
正保2年(1645年)朝廷より「宮号」(ぐうごう)が宣下された。これにより、東照社は、「東照宮」と称された。
明治革命以前の神社(もり・精霊の住む処)の名称には、神宮、宮、大社、神社(もり)、社などがあるが、一般に、神宮、宮は、皇室の祖先神を祀る神社(もり)だ。歴史上、皇室ではない者を祀る施設に「宮号」を授けられたのは、菅原道真の天満宮と徳川家康の東照宮のみだ。
その菅原道真の租は、騎馬民族が活躍していた古墳時代には、土師器を創っていた土師氏だ。出雲国の出自である菅原道真の一族は、廟堂の独占を企む藤原氏の陰謀により、抹殺された。そして、無念により死去した菅原道真の霊は、雷神の怨霊になったと信じられた。その菅原道真の怨霊の祟りを鎮めるために造られたのが、天満宮だ。現在では学問の神様として祀られているが、平安時代の天満宮は、菅原道真の霊を祀るためではなく、怨霊としての雷神を封印するための施設だった。
百済の血の流れにある3代目将軍徳川家光が創建した唐風の日光東照宮も、徳川家康の霊を祀るのではなく、封印するために、母国百済国を滅ぼした新羅国を憎む、天台宗僧侶の天海により企画された施設だ。
その根拠のひとつとして、何故、宗教施設の「神宮寺」に、猫の彫刻があるのか。騎馬民族が信仰する道教での干支には、「猫」は存在しない。「猫」は、漢訳仏教の無数に創作された経典を「ネズミ」の被害から護るため、神社(もり)ではなく、仏寺で飼われる動物だ。その漢訳仏教と敵対する、北極星を祀る道教思想では、「猫」は、禁忌動物なのだ。その猫が、日光東照宮には彫刻として、徳川家康の霊廟の入り口にいるのは、徳川家康の霊を護るためではない。
徳川家康の日光東照宮霊廟の謎を知ると、藤原日本史で述べている徳川家康像が崩れる。そのひとつに、徳川家康が、幼少時、松平竹千代であったとする「ウソ」だ。
松平竹千代は、藤原日本史では、幼年期から織田家や今川家の人質として暮らしていた、とする。織田家の租は、アラブ系海洋民族だ。今川家は、太陽神信仰民族の阿弥一族を抹殺した禅宗組織に取り込まれた足利家の家臣だ。その竹千代が、1567年徳川家康となったのならば、創薬の技術は何処で学んだのか。
徳川家康の創薬の趣味は尋常ではなく、身内だけではなく、郎党に具合が悪い者がいると知ると、自ら薬を調合して飲ませていたのだ。
薬草による創薬は、騎馬民族の技術のひとつだ。現在でも、富山で薬屋が多いのは、飛騨山脈から採取される薬草を原料として、古墳時代から供給されていたからだ。
徳川家康の租の9代先の新田親氏が、勧進坊主の徳阿弥であったことを知れば、1563年三河一向一揆鎮圧後での、徳川家康の反逆家臣への対処の意味が分かる。
戦国三武将の織田信長と豊臣秀吉との、一向一揆での戦い後の対処では、老若男女全てを惨殺していた。特に、織田信長の残虐性は、一向一揆衆だけではなく、漢訳仏教徒に対しても、尋常ではない。延暦寺、東大寺、石山本願寺、天王寺、播磨の書写山、梶尾寺、上京の全社寺、住吉神社(もり)、堺と兵庫の諸寺院、近江の百済寺など建物の破壊と住人の虐殺をおこなっていた。
それに対して、徳川家康は、家臣が「じょうどしんしゅう」(浄土秦宗→浄土真宗)のプロパガンダに染まり、反旗を翻して襲ってきた者を説き伏せ、その反逆行動を不問にしただけではなく、家臣として再び召抱えたのだ。
1584年豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いでも、軍事的に優勢な徳川家康軍は、豊臣秀吉軍を殲滅せず、和解しただけではなく、その家臣となったのだ。何故か。
このような徳川家康の謎の軍事行動は、戦わない軍団である、騎馬民族モンゴル帝国軍と通じるところがある。モンゴル帝国軍の戦法は、情報戦で、敵側の有力武将の寝返り作戦が主だ。どうしても戦わなければならない以外、軍事的圧力により敵側を威圧する。
徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉と異なることがある。それは、間者(スパイ)から直接情報を聞き出すことだ。この当時、間者の多くは庭師として存在していた。
庭師の租は、室町時代に現われた善阿弥だ。その阿弥号を持つ庭師の多くは、南北朝時代、禅宗組織と新興武家連合軍との戦での敗残者であった。足利氏連合軍が支配する室町時代は、禅宗と大山崎油座と新興武家が支配する時代だった。古墳時代からの太陽神信仰民族や北極星信仰民族である騎馬民族は、賎民として貶められていた。徳川家康の租も、時宗教団に身を寄せて、勧進坊主として生き延びていたのだ。
阿弥一族の流れにある徳川家康は、当然、日本列島で活動する庭師から多くの情報を得ることができた。
阿弥一族は、モンゴル帝国による国際交易の鎌倉時代、日本列島と東アジアとの国際交易で活躍していた。1392年南北朝の合一を果たした足利義満の財政を支えたのも、阿弥一族だった。だが、足利義満が横死すると、禅宗・大山崎油座・足利連合軍により、阿弥一族は表舞台から排除された。しかし、足利連合軍の内紛により、阿弥一族は復活した。
戦国時代、国際交易のルートにより、各地の情報は阿弥一族の知るところであった。阿弥一族が経済的支援をしていた足利義満と徳川家康とには共通点がある。それは、両者とも征夷大将軍を息子に譲り、自らは源氏長者として君臨していたことだ。
征夷大将軍とは、奈良時代、騎馬民族の蝦夷が支配する東国の資源を簒奪するための律令軍の大将の意味だ。それに対して、源氏長者とは、平安時代初期、廟堂独占を企む藤原氏の勢力を排除するための嵯峨源氏一族の棟梁の意味だ。藤原氏を体制とすれば、征夷大将軍は体制側で、源氏長者は反体制側の大将となる。
尾張のゲリラ大将が、最新式武器の鉄砲隊により、急速に頭角を現した背景も、そのルートにより、徳川家康の知るところであった。その結果、徳川家康は、織田信長とは、戦わない。そして、織田信長の死後の、豊臣秀吉とも、戦わない、ことにした。それは、その織田信長と豊臣秀吉のバックには、聖俗併せ持つイエズス会と近衛前久(姓は藤原氏)がいるからだ。
戦国時代の徳川家康の不可解な軍事行動は、経済的に疲弊していた百済系(奈良時代までは新羅系天皇家)の天皇家をロボット化して支配する藤原氏による「夷(イエズス会)を以って、夷(秦氏、騎馬民族=阿弥一族)を制す。」戦略を知っていたからだ。
戦国時代の戦いに敗れた嵯峨・醍醐源氏末裔の部落が、藤原氏傀儡関白豊臣秀吉の策謀で、被差別部落となった。
徳川家康の、藤原日本史で述べているのとは異なる、素性を知ると、江戸の町の不思議が湧いてくる。そのひとつに、江戸の町のメインストリートともいえる日本橋に、何故、京都を本店とする支店が開かれたのか、ということだ。
徳川家康の9代先の租は、徳阿弥の号を持つ新田親氏だ。その太陽神信仰の阿弥一族は、平安時代、亡命百済貴族末裔により、支配地であった京都盆地から追われた秦氏の末裔だ。そのような歴史観からは、徳川家康にとって、京の商店は、敵側であるため、江戸の町から排除されるべきものだ。
しかし、その京都支店の日本橋の店では、京から取り寄せた物品を多く販売していた。そして、京都支店の日本橋店では、関東で製作された物品を、「くだらぬ物」と言って蔑視していた。
その「くだらぬ物」の意味を、藤原日本史では、京が「上」で、江戸が「下」だから、京から来る物品は、「下ってきた物」で上品だが、「下ってこない物」、つまり、江戸の物品は「取るに足りない物」との意味だ、と説明する。
その説明に対して、「くだらぬ物」の意味を、「百済の物ではない」、とする考えもありえるのだ。「くだらぬヤツ」とは、「取るに足りない下賎者」の意味だ。この「くだらぬヤツ」を、藤原日本史的意味で解釈すると、「京から来た者ではない。」との意味になる。しかし、この言葉は、京でも使われていたのだ。すると、「くだらぬ」とは、「京から来た」との意味などではなく、「百済ではない」の意味が正解のようだ。
江戸の町の中心に、百済(京都)の物品を売る店が出来たのは、どのような経緯があったのか。
源氏長者の徳川家康が存命中、その日本橋や人形町には、関八州から江戸の町を造るために来た一族がいた。しかし、その一族は、百済系亡命貴族を庇護する天台宗の僧天海の陰謀により即位した三代将軍徳川家光(徳川「家」康+明智「光」秀。二代目将軍徳川秀忠以外の歴代の将軍の母は正室ではない。)から始まる第3百済王朝の江戸幕府により、浅草寺の裏の地に堀を巡らされ、仏寺に囲まれた処に追い遣られた。その一族とは、秦氏末裔の騎馬民族だった。
江戸の町は、大阪や京都と同じに、河川の治水事業により、人工的に造られた。大阪の地は、古墳時代初期に、上町台地の北端を掘削(藤原日本史では難波の堀江)して、河内湖の水を大阪湾に流して、造成された。そして、湿地帯であった京都の地は、盆地中央を流れる加茂川を東に流れる高野川に合流させ、造成した。それでは、誰が、江戸時代にその治水事業を行ったのか。
藤原日本史では、江戸は、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が小田原の北条氏直を倒し、その戦果で功のあった徳川家康に、関東を与えたことにより、拓かれた、とする。そして、太田道観が築城した江戸城を居城とした、とする。
しかし、豊臣秀吉から、江戸に移封を命じられた時、徳川家康は、江戸城を居城とすることを、初めは拒んで、第一候補を足立郡浦和とした。何故か。それは、江戸城の歴史を知れば分かる。
江戸城は、長禄元年(1457年)鎌倉菅領上杉定正の老臣である太田持資(もちすけ・入道して道灌を名乗る)が築いた、城郭というよりも新居館の風で、現在の海抜10mの小山の上ではなく、海抜5m前後の崖の上にあった。
文明18年(1486年)太田持資(道灌)は、主人の上杉定正に、相模国糟屋の館で暗殺された。これにより、江戸城は、上杉氏が領有した。
大永4年(1524年)江戸城は、上杉朝興が小田原の北条氏綱と高輪原で戦って敗れ、その結果、北条氏の領有となった。その北条時代の江戸城は、屋根はそぎ葺、玄関は船材の古木材を使っていたほどの荒屋だった。それは、江戸城は、堀を巡らせた城郭としての造りではなく、波が打ち寄せる高台の館であったからだ。
その江戸城のある地形も、徳川家康の意とする処ではなかった。
土地は、不動産と言われているように、不動のものと一般に思われている。しかし、土地は、長い年月で眺めれば、不動ではなく、動いているのだ。
いまから2万年前の最終の氷河時代では、海面は現在よりも、100m以上低かった。だから、日本海は、湖だった。日本列島は、孤島ではなく、大陸と続いていた。それは、旧石器の時代だった。
1万8000年位前から、氷河が溶け始めた。そのため、海面がじょじょに上がってきた。
6000年位前になると、海面が一番高くなった。それは、現在の海面よりも、3m位高かった。この海面の上昇を、縄文海進という。
4000年位前になると、現在とほぼ同じ海面の高さとなった。その後、海面の上昇は起こらなかった。この頃、海水が引いた跡に、潟や沼が多く出現した。
2000年前の関東平野には、無数の河川が流れ、房総では、香取海の内湾があり、海水が北関東の内陸部まで進入していた。
1000年位前まで、上野国を水源とする古利根川と、後に江戸川と呼ばれる、奥多摩を水源とする太日川は、北関東を平行して、江戸湾に流れ込んでいた。さいたま県行田の古墳群は、その古利根川と太日川とに挟まれた大洲に築造されていた。
江戸時代前までは、奥多摩を水源とする入間川は、荒川と呼ばれ、古利根川と合流し、隅田川として江戸湾に流れ込んでいた。
承応3年(1654年)、徳川家康が始めた、江戸湾に北から南に流れ込む古利根川を、下野国を流れる赤堀川から常陸川に合流させ、東方向の太平洋に流れを変えた大治水事業が完成した。
徳川家康が見た、江戸の地は、無数の河川が流れ込む、大湿地帯で、人が住めるような処ではなかった。何故、このような僻地に、天下を統一した豊臣秀吉は、徳川家康を移封したのか。その豊臣秀吉の陰謀を、徳川家康は間者からの情報で知っていた。
徳川家康は、それらの情報により、芝浦から船に乗って浦和へ行った。隅田川を遡って入間川(後の荒川)に入り、戸田から陸路で浦和へのルートだ。この時代、太日川(後の江戸川)と入間川とは合流していなかった。
この時代、古利根川は、東方の太平洋ではなく、関東平野を北南に流れ、江戸湾に至っていた。この古利根川は、暴れ川で、坂東太郎と呼ばれ、上流では利根川、下流では住田川(隅田川)と呼ばれていた。
徳川家康は、浦和を実地検分した上で、居住地を江戸城と決定したものの、その時点では、江戸城を全国の諸大名参観の地にする意思は持っていなかった。徳川家康は、北条時代の荒屋の江戸城を改修したが、後の江戸城のような大規模なものではなく、砦のような館であった。
徳川家康は、浦和の実地検分から帰ると、上水施設を造らせ、江戸の飲み水を確保した。それは、戦いに備えるためだった。
藤原日本史では、徳川家康の江戸移封は、北条氏滅亡の功労としての褒美としているようだ。しかし、その史実は違う。
豊臣秀吉は、徳川家康に後北条氏の旧領、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の一部を論功行賞として与えた、とする。しかし、徳川家康のこれまで支配していた駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の五カ国を取り上げているのだ。これはどういうことだ。
それは、豊臣秀吉、その黒幕の藤原氏、の陰謀だ。
豊臣秀吉は、常陸に佐竹氏、下野に宇都宮氏、安房に里見氏へ安堵状を与えていた。更に、徳川家康へ領国として与えられた、下総国結城郡結城に結城氏、下総国印旛郡岩富に北条氏、上野国利根郡沼田に真田信之へも安堵状を与えていたのだ。つまり、徳川家康への江戸移封地は、常陸、下野、安房の豊臣家臣団に囲まれていたのだ。
徳川家康は、その江戸包囲陣に対して、古来からの家臣である譜代大名を上総、下総から古利根川以西に配置した。それは、貧弱な砦である江戸城防衛のためだ。
それに対して、1591年豊臣秀吉は、京都全体を取り囲む、高さ3mの土塁を築き、そして、京都を取り囲む山々に多くの仏寺を建立させた。山寺は、戦闘時では、山城となるからだ。この措置は、豊臣秀吉の陰謀により左遷させられた、徳川家康の反撃に対してだ。
しかし、徳川家康は、豊臣秀吉の戦略を見抜いていた。だから、江戸防衛施設は構築しても、何もしないでいた。
徳川家康が江戸に入府した時点で、ふたりの訪問を受けた。
ひとりは、関八州の秦氏末裔の棟梁である、初代弾左衛門である、集房だ。これにより、関東の情報が手に入った。そして、集房の配下には、古墳時代から、河内湖を河内平野に開拓したり、京都盆地の湿地帯を土壌改良したりした、古代エジプトの高度土木建築技術を保持していた者が多く居た。
そして、もうひとりは、川越の喜多院から江戸に入った、随風と名乗っていた天台宗の僧だ。随風は、徳川家康に謁見した時、天海と名乗った。この天台宗僧天海により、京の公家や朝廷の情報を手に入れた。しかし、徳川家康は、権謀術策の師である天海の本性を見抜けなかった。徳川家康の死後、この天海の陰謀により、江戸は、京都の支国となった。つまり、上野山の東叡山の天台宗が庇護する、第三百済王朝の江戸文化の始まりだ。
藤原氏は、徳川家康抹殺計画を二度も失敗していた。一度目は、織田信長爆殺と同時に、堺(日本イエズス会都地区の拠点。「一服を盛る」千利休の活動拠点。)での暗殺計画だ。そして、二度目は、大軍団の羽柴秀吉による小牧・長久手の戦いだ。この戦いでは、小軍団の徳川家康軍が優勢だった。
何故、藤原氏は、徳川家康の命を二度も狙ったのか。それは、徳川家康が、古墳時代からの太陽神信仰民族である阿弥一族の血を引いているからだ。
太陽神を信仰する阿弥一族は、奈良時代に藤原不比等が創作した、4世紀の奈良盆地に大和朝廷を樹立していたとする「藤原日本古代史」を覆す歴史を持った一族の末裔だからだ。その古代日本史の改竄の根拠は、大阪の歴史にある。
大阪の歴史の謎は、713年以前、上町台地北端の地が、ワタ・ナーベ(岬の意味。713年以降に「渡辺」と表記)と呼ばれていたのに、「灘波」(ローラン→浪速→灘波)と改竄されたことだ。そのワタ・ナーベの地は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した、前方後円墳を築造した、太陽神ミトラを信仰する民族の支配地だった。
古墳時代、内陸の奈良盆地への道は、そのワタ・ナーベの津(大型の船が着岸できる港)からつながっていた。上町台地は、古墳時代、奈良盆地の入口だった。
藤原日本史での戦国時代の歴史改竄トリックは、「石山本願寺10年戦争」(?)での、古墳時代から続いていた大阪秦王国の歴史抹殺だ。明智光秀謀反の「本能寺の変」物語は、大阪秦王国の歴史を抹殺するためのトリックのひとつに過ぎない。それは、浄土真宗開祖とする親鸞を発明した蓮如が、基礎を築いたとする大阪石山本願寺は、本当に実在したのか、疑問だからだ。
豊臣秀吉が、大阪の歴史を抹殺するには、徳川家康を大阪から遠ざける必要があった。それは、大阪秦王国と徳川家康とには、同じ血が流れていたからだ。騎馬民族の血だ。
それら集房と天海からの情報を分析すると、豊臣秀吉による徳川家康の江戸への強制移封は、後北条氏の遺臣による武装蜂起により、防衛不備な江戸の地で、徳川家康一族郎党を抹殺する戦略だった。
そして、豊臣秀吉が、イエズス会の世界戦略を継承するという情報も知った。
イエズス会の世界征服戦略は、手始めにインドを征服(布教)すると、次に日本を征服(布教)し、そして、明国を最後に征服(布教)することにより、イエズス会の世界征服(布教)が完成するという計画だった。
しかし、徳川家康江戸移封の1590年、イエズス会は、長崎で第二回日本イエズス会全体協議会を開き、「要塞建築を引き受けたり、大砲、弾薬、銃、諸他の武器、戦争資材を有したり、それらを調達することを禁じる。」、と表明した。これは、1587年、1585年藤原氏傀儡関白となった豊臣秀吉による、伴天連追放令に対する日本イエズス会の対応だった。
イエズス会は、豊富な軍事資金や傭兵銃撃隊の提供により、尾張の弱小ゲリラ大将の織田信長に、「天下布武」の思想を吹き込んで、近畿一帯を征服(布教)したが、織田信長は自ら神として君臨する行動をしたことにより、日本イエズス会の怒りに触れ、本能寺で爆殺された。
そして、日本イエズス会の指令により、その織田信長の後釜は、出自不明の、残虐性は織田信長よりも勝る、羽柴秀吉だった。しかし、イエズス会を軍事的、経済的に支援していたイスパニアは、1588年イングラント海軍によりイスパニア無敵艦隊が敗れると、世界征服の計画が頓挫してしまっていた。それにより、羽柴秀吉は、イエズス会から藤原氏に寝返った。これが、関白豊臣秀吉の誕生の史実だ。
徳川家康は、関白豊臣秀吉の寄せ集め軍団による世界征服の失敗を待っていたが、1598年関白豊臣秀吉は突然死亡した。
これにより、徳川家康は、江戸城と江戸町の開発に乗り出した。
慶長5年(1600年)徳川家康は、石田三成を盟主とする西国の大軍を関が原に破った。白兵戦では歩兵数の多い軍団が絶対有利とするランチェスターの法則では、東国の徳川家康軍団は、西国軍団に勝てるはずはなかった。しかし、モンゴル帝国軍と同じに、情報戦では、戦う前に、東国軍団の勝利は決まっていた。西国軍団の多くの武将が、徳川家康の書状により寝返っていたのだ。この頃、江戸の新橋、芝口は埋め立ててはいなかった。現在の日比谷公園は、入り江となっていた。江戸城への荷揚げ場も、町人の揚場も、川の対岸にあり、大名の屋敷らしきものは、本多殿、尾張持分など二三であった。
慶長6年(1601年)徳川家康は、東海道に伝馬制をたてた。その各宿場の運営は、役座に依頼した。この流れにより、東海道の駿河、伊豆、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐には、博奕打ちが多く排出された。
役座は、鎌倉時代に「座」が興ることにより、その座の顔役として登場した。しかし、役座と同義語とされる侠客は、紀元前の漢の時代から存在していた。
紀元前97年司馬遷の「史記」には、韓非子が、「儒者は文をもって法を乱し、侠者は武をもって禁を犯す。游侠は、その行為が正義の道に悖ることはあるが、自分の発言は必ず守り、その行いは果敢で、ひとたび約束したことは、おのれの生命の危険なぞかえりみずに果たそうとする。しかも、その才能をほこらず、その徳にほこることを恥じとしているから、称讃すべき人物が多い。」、と述べていた、とある。
徳川家康は、東海道の各宿場の警察・警備を「二足草鞋」の役座(昼は警察・警備業、夜は博打・売春・高利貸業)に無償で依頼したのは、韓非子が述べていた任侠者の性格を知っていたのかもしれない。
慶長8年(1603年)徳川家康は、征夷大将軍に任ぜられた。江戸幕府を拓くことにより、外様大名等70名に対して、高千石について役夫一人を出すことを命じ、この人夫を使って、今日の日本橋、京橋を埋め立てさせた。
慶長9年(1604年)から、あばら屋の江戸城の修築を始めた。外様大名に石材の運送を命じ、諸国から木材も運送させた。その為に、徳川家康は、古墳時代に軍事・交易の為に敷設されていた、東海道、東山道、北陸道の諸街道を修理し、一里塚を築かせた。その三道は、奈良時代に、愛発、不破、鈴鹿の三関で、日本列島の東西を分断される前の古墳時代、ユーラシア大陸と華南とを結ぶ日本列島回廊を形成していた。
慶長11年(1606年)江戸城の増築を、西国の大名に命じた。
慶長12年(1607年)江戸城の修築を東国の大名に命じ、石材を上野国から運ばせたので、古利根川の水路は江戸廻漕に利用されるようになった。因みに、古墳時代、上野国は、東国で最多の前方後円墳が築かれた地だ。
慶長16年(1611年)江戸城修築工事に、関東諸国の日雇い人夫を募集したため、関東の住民が、多く江戸に集まった。
慶長17年(1612年)天台宗僧天海の暗躍により、京都および西国の富商を江戸に招いて、日本橋に移住させた。そして、その日本橋が、江戸町文化の中心となっていく。
このように、江戸城と江戸の町の概略歴史を知ると、江戸文化といわれる本質が分かる。それは、1625年上野山に寛永寺が創建された以降、徳川家康の三河文化を否定し、京(百済)文化をベースにし、その仏教思想を騎馬民族支配の武器とした、第三百済王朝文化が、江戸文化の本質だった。
徳川家康が拓いた三河文化の江戸町の騎馬民族の歴史が、藤原日本史により改竄され消されたように、大阪の騎馬民族の歴史も改竄され消されていたのだ。それは、古墳時代からだった。そして、戦国時代に、大阪秦王国の歴史が、石山本願寺と大阪城により消されていた。
藤原日本史によれば、1570年織田信長による、石山本願寺からの一向宗勢力の退去命令に対し、顕如が拒否したために、織田信長軍団による10年戦争が始まった、とする。その10年戦争では、武闘では決着せず、顕如が正親町天皇の和睦を呑んで、石山本願寺に火をつけて退去したことにより、篭城していた一向宗全員が虐殺され、1580年石山本願寺勢力が壊滅した、とする。
ここで腑に落ちないのは、1571年天台宗比叡山延暦寺の僧侶全員が、織田信長により虐殺されているのに、一向宗の武力勢力を指揮していたとされる、蓮如も顕如も、そして、浄土真宗の僧ひとりも、時の権力者から虐殺されてないのだ。何故だ。
第三百済王朝の江戸時代に創作された「太平雑話」によれば、「今の川口番所、寺山島の南の崎、三間屋の小島へ取り付けた所に穢多が城これあり。是れは信長の時、渡辺の穢多共本願寺へ篭る。」、とある。そして、「菅窺武鑑」にも、「此の所に穢多が城あり。是れはその昔織田信長の時、本願寺門跡、大阪に篭城のことあり、此の刻、渡辺住所の穢多共が門跡方を仕り、楯篭もる。」、とある。
大阪の歴史改竄の謎の解明ヒントは、どうも「渡辺」にあるようだ。
ひとの名前は、他と識別するために付けられる。それは、古代では姓は(かばね)だ。姓発生の歴史はよく分かっていない。それは、4世紀に大和朝廷(?)が拓かれた時に始まるとされているからだ。初期の姓は、在地の首長や部族団体に付けられた名称だった、ようだ。
姓が歴史上現われるのが、日本初の天皇である、新羅系天武天皇が、684年、真人、朝臣、宿禰、忌寸、導師、臣、連、稲置の「八色の姓」を制定したことによる。この「真人・導師」の姓名により、天武天皇が、漢訳仏教ではなく、道教に傾倒していたことが分かる。
しかし、唐進駐軍支配の、日本列島東西を「三関」で分断する奈良時代になると、その八色の姓は消滅し、朝臣の姓が残ることになる。この時代、藤原朝臣の姓が歴史上に現われる。そして、藤原不比等の陰謀により藤原朝臣一族が、朝廷運営の舞台に現われると、「家」の名称が現われる。
「家」とは、特定の家業と家産を伝える社会組織名だ。このことにより、血筋としての天皇から賜った「姓」と、そして、家業組織の「家」の呼称が共存する。つまり、「藤原氏の九条家」などだ。
更に、時代が下ると、地域名を名称とすることになる。それが、「苗字」だ。前出の大阪の「渡辺」は苗字で、そして、姓は、清和源氏ではなく、嵯峨源氏だ。
清和源氏が、鎌倉時代の出自不明の武将達の姓とされるが、それは誤りだ。清和源氏は、清和天皇→陽成天皇→元平親王→源経基→満仲→頼信の系図を改竄して、清和天皇→貞純親王→源経基→満仲→頼信、として発明された。この清和源氏系図の謎は、因みに、子である満仲は、父である源経基より3歳年上なのだ。
渡辺の地名歴史は、古墳時代まで遡る。それは、古墳時代初期、上町台地の北端の運河を掘削する高度土木事業を行っていた民族が、渡辺の租であるからだ。
渡辺の苗字発生が大阪上町台地北端であるならば、その子孫も大阪に多く暮らしているはずだ。しかし、現在、渡辺苗字のひとは、大阪に多く暮らしてはいない。何故だ。
渡辺苗字は、全国的に、鈴木、佐藤、田中、山本に続いて、第五位に入る。東京では、鈴木、佐藤、高橋、小林、田中に続いて、第六位に入る。しかし、大阪では、渡辺苗字は、第二十位鈴木以下だ。
渡辺苗字の発生が大阪であるのに、大阪には多くなく、関東や中部地方に多くあるのは、何故だ。それは、地名による苗字の伝播は、武士団の移動と供に各地に伝播したからだ。
平安末期、苗字の各地への伝播は、藤原氏による「清和源氏」(?)の源満仲の密告による、嵯峨源氏の流れにある、醍醐源氏左大臣源高明の廟堂追放により、その源氏一族郎党が京を追われたことにより、各地の勢力地に武士団が移動したことにより始まる。
嵯峨源氏の源綱は、母方の生地大阪に戻り、武士団の渡辺党を興し、渡辺綱を称した。藤原日本史は、その渡辺綱の嵯峨源氏の歴史を隠蔽するため、「源頼光四天王」の物語を発明して、渡辺綱を、「清和源氏」の血筋に溶け込ませた。
しかし、それにより、渡辺の地が消されたわけではない。武士団の軍事基地渡辺は、平安末期にも、ユーラシアから渡来した、北魏禿髪氏を租とする源義経軍団が、アラブ海洋民族の「平家」軍団が陣取る屋島襲撃の出陣地として存在していた。
その渡辺の地は、藤原日本史が述べるような、貧民が暮らす寒村などではなく、外洋船が何隻も停泊できる軍港だった。それは、大阪上町台地北端の港は、古墳時代から、国際船が渡来する国際港だったからだ。
「日本書記」推古天皇16年の条に、「客等灘波津に泊まれり。是の日に、飾船三十艘を以て、客等を江口に迎へて、新しき館(むろつみ)に安置(はべ)らしむ。」、とある。これは、608年隋使一行を大阪湾ワタ・ナーベの内陸港に迎えた描写だ。しかし、「隋書」では、隋使は、女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒコに謁見したと、隋帝に報告していた。これは、どちらかが「ウソ」をついていることになる。
この古墳時代の国際港の渡辺津の歴史が知れると、藤原日本史が述べる、4世紀の大和盆地に大和朝廷が拓かれ、日本列島各地を支配していたとする物語の構成が瓦解する。
一寸考えただけでも、4世紀の奈良盆地に、西は九州熊本、東はさいたま県行田の酋長を隷属させていた大和のワカタケル大王(雄略天皇ではない。ワカタケルは一般名詞)などが支配する大和朝廷が、存在していないことは分かる。4世紀の奈良盆地は、古墳時代以前では、外部から閉ざされていた地だからだ。
奈良盆地は、20万年前に約300mの陥没によって出来た穴に、周辺の山地から流出した土砂で埋められ形成された窪地だ。その奈良盆地へ入るルートは、三つ。
ひとつは、大阪湾から河内湖(古墳時代以前)の奥に流れ込む大和川を遡行して、亀の瀬渓谷に至り、川筋から離れて竜田山へ登り、竜田大社の処で再び大和川に戻り、川伝いに三輪山を目指す。もうひとつは、淀川を遡行して木津川、宇陀川に入り、そこから一山越えて三輪山を目指す。そして、最後のコースは、紀ノ川を遡行して吉野川・高見川に至り、一山越えて三輪山を目指すものだ。いずれにしても、太古の奈良盆地は、外部から閉鎖された地であった。だからと言って、奈良盆地には、人が住んでいなかったわけではない。
奈良盆地からは、唐古・鍵遺跡が発掘されている。直径600mの円形で五重六重の環濠を回らせた唐古・鍵遺跡が示すのは、紀元前3世紀から紀元4世紀まで栄えた、日本列島で最大規模の弥生村だった。
海がない奈良盆地の唐古・鍵遺跡からは、海洋船や二階建楼閣が描かれた土器が発掘されている。この弥生村では、絵画銅鐸を製造して、諸国に輸出していた。
この弥生村が放棄・廃村となったのは、周辺の山々から流れ込む川による水害のためだった。だから、古墳と運河が築かれ土地改良される以前、奈良盆地の標高線60m以下の土地には堅固な構築物が造られなかった。
この閉ざされた地である奈良盆地に、周辺諸国の国際商人が現われた訳がある。それが、赤い砂だ。赤い砂は、朱砂と呼ばれる。中国大陸では辰砂と呼ばれていた。硫化第二水銀を辰砂と呼ぶのは、中国湖南省の辰州で産出されるものが質量で重きをなしていたからだ。
その朱砂が、奈良盆地の三輪山麓のツバ市に、国際交易商人を呼び寄せた。それは、道教の不老神仙の実現としての水銀薬を、中国皇帝が熱望していたからだ。
水銀薬の成果品の調合薬を、金液丹という。その処方の研究は、錬金道(術)と呼ばれた。西洋では、卑金属を金や銀に変化させて、ひとを騙すインチキ師のことを、錬金術師というが、古代中国では、不老不死を約束しない小乗仏教(3世紀、ギリシャ語仏典から、「施陀羅」の差別語を挿入した漢訳仏教が発明された。)は人気がなく、その術を使う土着道教は、権力者に受け入れられていた。
当時、良質の水銀は、蓬莱山のものがよいとされていた。しかし、蓬莱山が何処にあるか、当時のひとは知らなかった。そこで、代用として、海の向こうの島(日本列島)の辰砂がよいと、誰となく話が広まっていた。
紀元前221年、戦国時代を統一した、ギリシャ文化継承国バクトリアの衛星国である秦の始皇帝は、不老不死を実現するために蓬莱山の神仙薬を求めるために、武装兵士や技術者、そして青年と娘2000名を徐福に与えて、日本列島に向かわせた。
この徐福物語は、一般的に史実ではなく、伝説としているが、日本列島各地、熊本、佐賀、鹿児島、熊野、丹後半島、熱田、男鹿半島、津軽、小泊岬などが上陸地として知られている。
古墳時代以前から、奈良盆地には、辰砂を商う国際商人が、三輪山麓に集まっていく。この交易の中心が、やがて纏向になっていった。大陸からは、医薬品、布製品、播種用の稲籾、雑貨品がもたらされた。それら舶来品を求めて、日本列島各地からひとが纏向に集まっていった。
大陸の国際交易商人は、莫大な利益を得られる辰砂の交易のために、奈良盆地から効率よく流通できる方法を考え出して行く。そのひとつが、湿地帯である奈良盆地の土地改良と、交易路だ。
大阪の町も、江戸の町と同じに、人工的に造られた。
2万年前、最終氷河期時代、現在の大阪湾の最も深いところが50m位なので、氷河期時代には大阪湾はなかった。この頃は、旧石器時代で、大阪府と奈良県の堺にある二上山のサヌカイトは、近畿一帯で使われていた。大阪湾も瀬戸内海もない時代、北から流れる明石川と淀川とが、土佐湾に流れ出ていた。
9000年位前から、大阪湾の海岸線が、だんだん前進し、JR大阪駅あたりにきた。そして、河内平野に海水が入って、いわゆる河内湾がしだいに広がっていった。
6000年位前、いちばん海面が高くなり、河内湾も南に広がっていった。大阪府八尾市の亀井遺跡のあたりが、河内湾の奥となっていた。河内湾が広がった時、東大阪、八尾、寝屋川、大束、吹田、茨木、高槻、牧方の各一部位まで海水面がきていた。
4500年位前、現在と同じ海面となり、上町台地の北端から北に伸びる砂堆(さたい)が生まれた。大阪の基本地形は、上町台地の西および北に台地を伸ばしていく砂堆だ。
上町台地にある大阪城は、縄文海進の現在より3m海面が高いときでも、水没しない。それは、大阪城の地は、現在の海面よりも20m前後の高い段丘だからだ。その上町台地の北端を流れる大川は、人工川だ。
古墳時代前の3世紀頃、上町台地の北から砂洲が伸びていて、河内湾と大阪湾との間の防波堤の役目をしていた。
これらの大阪の町が出来る以前の歴史は、藤原不比等の創作した「日本書記」により、改竄・隠蔽されている。しかし、その大阪の歴史を描写する「日本書記」の物語により、その大阪の地形が、有る程度分かる。
「日本書記」安閑天皇2年(535年)9月の条に、「牛を難破の大隅嶋と媛嶋松原とに放て。」、とある。「媛嶋」とは、西淀川区の姫島のことで、現在でも、この付近の地名に、歌島、竹島、加島、大島、御幣島と島名が多くあるのは、古墳時代以前、淀川がこのあたりで河口洲を形成していたからだ。河口洲とは、デルタの前身で、それが島のように点々とあったことを描写している。
「大隅嶋」とは、今では、大隅神社(もり→明治革命後じんじゃ)がある地だ。応神天皇の都が、「大隅宮」となっている。
嶋に宮(都市)があるのは、歴史的に、小さな島が政治支配の拠点的な場や、軍事的な拠点となっているのは、攻め難いし、護り易いからだ。
「日本書記」仁徳天皇22年(5世紀初期)の条に、「押照る、灘波の崎の並び浜、並べむとこそ その子は有りけめ。」、とある。押照とは、灘波の枕詞。「並び浜」とは、海岸線と平行してラグーンの水面が幾重にも並んでいる様子を表している。今の大阪に、東横堀川のように、南北に流れる川が多くあるのは、そのラグーンが原型だ。
「日本書記」仁徳天皇11年(5世紀初期)の条に、「宮の北の郊原を掘りて、南の水を引きて、西の海に入る。因りて、其の水を号けて堀江と曰ふ。」、とある。この記事は、「灘波の堀江」の工事描写だ。
河内湾の水の排水は、まず淀川の水は茨田堤で河内湾に流れ込まないようにしてから、大和川の水は水路を掘って、大阪湾に流すことにより、可能となった。
このような大土木治水事業を、どのような技術者や民族がおこなったかは、「日本書記」にはない。因みに、藤原日本史では、古代の土木建築工事は、仏教僧の技術によりおこなわれていたと、記述している。しかし、漢訳仏教勢力が、日本列島に、唐進駐軍の手先として組織的に現われたのは、古墳時代末期から奈良時代初期なのだ。
藤原不比等は、「古墳時代」を仏教黎明期の「飛鳥時代」と改竄して、大阪を支配していたとする「物部氏」などと言う軍事部族を発明し、大阪を開拓した、古代エジプトの高度土木建築技術(石切・運河掘削等)とギリシャ・ローマ文化を継承していた部族の歴史を隠蔽しているが、そもそも、漢字二文字の「物部」(花郎騎士団を隠蔽)・「蘇我」(突厥進駐軍を隠蔽)などの部族名や、「浪速」(ローランを隠蔽)・「灘波」(ワタ・ナーベを隠蔽)などの地名は、713年好字令以前には、存在していなかった。
では、そのような、多くの川が流れ込む河口にある上町台地の北端が、何故、古墳時代の6世紀頃から開発されたのか。
藤原日本史には、相似形の前方後円墳が、北は岩手、南は九州まで無数に築造されていた古墳文化の記述はない。そして、日本列島を縦貫する幅12mの古代高速道路網敷設の記述もない。更に、古代には万葉語があったとするが、その文法が北方騎馬民族のウラル語であることの説明もない。
日本列島の古墳時代は、4世紀から7世紀までとするのが一般的だ。その400年間、隣国の朝鮮半島、中国大陸、そして、ユーラシア大陸では、色々な民族が勃興しては、時代の流れに流されて衰退していった。その原因の一つに、軍事力を支える経済力がある。その経済力は、国際交易により増強される。
紀元1世紀、ローマ帝国では絹の需要が増大した。その絹は、アラム語を話すソグドの国際交易商人により東方からもたらされた。そして、東方の漢では、草原馬を乗りこなす騎馬民族匈奴の軍事力に対抗するために、アラブ種馬の重要が増大した。これにより、ローマ帝国と漢との絹馬交易が盛んとなっていった。
この東西交易時代に、ギリシャ文化を継承していた、旧名アレキサンドリア、ガンダーラで大乗仏教が発明され、西に向かったのがローマ帝国内で崇拝されていたミトラ教や土着宗教を吸収してユダヤ・キリスト教となり、そして、東に向かったのが菜食主義のバラモン教思想を吸収して漢訳仏教となった。
その二宗教に、イエス・キリスト(ヨシュアはメシアのギリシャ語)とブッダ(覚醒者)の酷似する教祖物語があるのは、共に、ガンダーラ(旧名アレキサンドリア)で発明されたギリシャ語経典が基礎思想だからだ。ユダヤ・キリスト教と漢訳仏教は、一卵性双生児なのだ。
教科書歴史では、この東西交易路をシルクロードと教えている。しかし、その東西の交易路は、シルクロードだけではない。もうひとつの交易路は、北方の草原地帯を通過していたので、ステップ・ルートと名付けられていた。
このステップ・ルートの租は、紀元前7世紀に現われた、カスピ海沿岸地域を支配していた、騎馬民族国家のスキタイの交易路であった。紀元前3世紀、この草原路は東に伸び、極東の騎馬民族国家の匈奴の勃興をもたらした。
紀元1世紀、その交易路の西端は、黒海沿岸のヘラクレアから、ヴォルガ川を遡上して、ウラル山脈の南端エカテリンブルグを通り、バイカル湖沿岸のイルクーツクに至り、そして、極東の港ウラジオストクまで、東西交易路を結んでいた。
ステップ・ルートの国際交易商人は、絹製品を求めて、更に、中国大陸の華南を目指した。それは、華南が、絹製品の一大生産地であることを知っていたからだ。
日本列島の古墳時代前期、そのウラジオストクの港から、日本海を渡り、多くの国際交易商人や交易民族でもある騎馬民族が、日本海沿岸に渡来した。それは、日本列島と沖縄諸島を、華南に至る国際交易回廊としていたからだ。
このステップ・ルートの国際交易商人は、シルクロードの交易商人とは異なる商品を極東の国にもたらしていた。そのひとつが、ローマン・グラスだ。
ローマン・グラスの特徴は、亀甲文があることだ。その制作地は、ステップ・ルートが通過するカスピ海沿岸だ。このローマン・グラスが極東で発掘されたのは、古代新羅の都慶州の古墳だけだ。
日本列島の古墳時代、朝鮮半島では、高句麗、百済、古代新羅の三国が覇権を争そっていた。では、そのローマン・グラスが、高句麗、百済の古墳から出土していたかといえば、そうではない。ローマン・グラスは、古代新羅の古墳からしか出土例がないのだ。
古代新羅の地へは、ウラジオストクの港から漕ぎ出せば、南下するリマン海流に流され、朝鮮半島南端にたどり着く。
ステップ・ルートの極東の地ウラジオストクから、陸路で華南を目指すも、その隣接地には、強国の高句麗軍団が存在していた。多額な関税を免れるためには、陸路より、海路が国際商人により選択された。
このため、古代新羅の文化は、中国、高句麗、百済系のペルシャ・中国文化(シルクロード文化)とは異なり、ローマ文化をベースに北方騎馬民族のスキタイ文化(ステップ・ルート文化)を混入した非中国系文化だった。
藤原日本史では、朝鮮半島から渡来した民族を秦氏とする。応神天皇14年(283年)百済より百二十県の人を率いて帰化した弓月君を秦氏の租、とする。その民は、養蚕や機織に優れた文化を持っていたので、ハタ織から、秦氏となった、とする。
しかし、百済と古代新羅とは、その文化が全く異なっていた。このことにより、藤原日本史の基礎資料である「日本書記」の、百済から秦氏渡来とする歴史物語は、信用できないのだ。
縄文時代、日本列島の奈良盆地に、国際交易商人を集めたのは、奈良の宇陀から産出する水銀と朱砂(辰砂)だった。
古墳時代、日本列島の各地に、国際交易商人を集めたのは、繭玉だった。
日本列島の弥生時代以前、植物繊維は大麻、苧麻(ちよま)、木綿(ゆう)、葛布(くずふ)だった。
弥生時代になると、絹が現われた。それは、福岡県飯塚市の立岩遺跡から出土した鉄製品に、目の粗い絹織物が付着していたからだ。しかし、弥生時代では、絹製品は、北九州に限られていた。
紀元前後では、絹を作っていたのは、中国の版図だけに限られていた。漢代から、絹はシルクロードとステップ・ルートにより、西に運ばれていた。しかし、養蚕技術が、ヨーロッパに伝播したのは、6世紀以降だ。
中国から、他の国に養蚕技術が伝播される前、日本列島の弥生時代の北九州には、養蚕技術が伝播していた。何故だ。
紀元前3世紀、周辺諸国から雲南に逃れていた、水田稲作技術を持つ南方少数民族は、揚子江の下流地域に住んでいた。しかし、ギリシャ文化継承国のバクトリアの衛星国となった秦が、中国本土を支配下に置くと、その文化に馴染めない民族や部族は、中国大陸から脱出した。
ギリシャ文化を継承していた秦帝国は、郡県制度の中央集権的専制君主制(秦の始皇帝)を制定し、度量衡・貨幣制度を定めた。そして、それまでの中国土着文化を否定するため、焚書坑儒をおこなった。
縄文時代末期から弥生時代初期、その揚子江河口から脱出した民族の一部は、黒潮に乗って、北九州に上陸した。その少数民族は、日本列島になかった、水田稲作技術と養蚕技術を保持していた。
藤原日本史では、養蚕技術は、紀元3世紀、朝鮮半島から伝播した、とする。しかし、それ以前に、養蚕技術は、日本列島の北九州に伝播されていたのだ。
その根拠は、蚕の種類だ。蚕には、大きく分けて三種類ある。三眠蚕、四眠蚕、五眠蚕だ。三眠蚕とは、三回の成長期の後、繭玉をつくる種類の蚕だ。
朝鮮半島の蚕の種類は、古来、三眠蚕が主体だった。その朝鮮半島に三眠蚕が入ったルートは、中国の山東省から楽浪郡を通じたものだ。
紀元前108年、楽浪郡は、漢帝国により、衛氏朝鮮が滅ぼされ、設置された。その当時の漢帝国は、ギリシャ文化を継承していた騎馬民族国家匈奴にひれ伏していた。匈奴の圧倒的な軍事力に対抗できなかった為、漢帝国は匈奴に、金、銀、絹を貢物としていた。その絹の需要を満たすため、楽浪郡へ養蚕技術を持ち込んだ。その蚕の種類が三眠蚕だ。
しかし、北九州から出土した絹は、その絹糸の分析から四眠蚕と分かった。四眠蚕の絹糸は、三眠蚕の絹糸よりも、太い、そして、四眠蚕の生息域は、華中や華北ではなく、華南だ。楽浪系蚕種が、日本列島に入る以前、養蚕技術を持った雲南系の少数民族が、青銅製と鉄製武器を携えて北九州に入っていたからだ。
弥生時代、その少数民族は、水田稲作の適地である河口の湿地帯を生活区域とし、縄文文化を駆逐しながら、日本列島に水田稲作技術と養蚕技術を伝播させていった。
魏、蜀、呉の中国三国時代(3世紀)、日本列島の女王卑弥呼は、239年魏に献上品を贈り、その見返りに銅鏡百枚、丹砂、鉛丹それぞれ五十斤を貰ったのは、その献上品の奴隷(生口)に対してではないだろう。その根拠は、魏よりの使者は、240年、243年、245年、247年、248年と、卑弥呼の処を訪れていたことだ。これは、魏との絹・繭玉の官船交易のためだった。この頃、日本列島は、繭玉の一大生産地となっていた。
日本列島の古墳時代になると、絹遺物の出土地が、九州から日本海沿岸、更に、奈良や関東あたりまで、広がっていった。その絹遺物の出土地の多くには、前方後円墳と幅12m道路が敷設されていた。
どのような民族が、何を目的に、そのような高度土木建築技術を駆使して、巨大古墳を築造し、そして、山の奥を貫通する幅広の道路(東山道)を敷設したのか。
その問いの答えのひとつは、繭玉だった。
古墳時代の6世紀、河内湖の水を抜くためだけに、上町台地の北端に、大運河を掘削したのではない。それは、中国大陸、朝鮮半島、ユーラシア大陸との国際交易のためだった。
巨大前方後円墳と幅広の直線道路とが、セットで造られたのは、巨大前方後円墳が、天皇の墓として造られたわけではないことを示唆する。そもそも、日本列島での天皇出現は、古墳時代末期、672年即位の新羅系天武天皇が、初めだからだ。
古墳時代前期、奈良盆地では巨大前方後円墳が築かれていった。それと同時に、奈良盆地には運河が掘削され、そて、南北軸に対して約20度西に傾いた幅広の直線道路がイカルガから明日香ヤマトへ敷設された。明日香ヤマトの裏山を一つ越えると、そこは、水銀、朱砂の産地宇陀の地だ。
この奈良盆地から生駒山系を越えて、物品を海外に輸送するには、港までの道路が必要だ。そのために造られたのが、磯歯津路、大津路、丹比道の東西の直線道路だ。この三路は、国際港の住吉津につづいていた。
その大津路付近には、日本一大きい前方後円墳の大仙古墳があり、そして、丹比道の生駒山側には、古市古墳群があり、海側には百舌鳥古墳群が存在する。
古墳に武器や馬具が埋葬され始めた5世紀頃、堺から住吉あたりの、海岸から1kmほど奥に入った入江状の地形を、国際船の停泊地として利用していた。しかし、大風や大雨があると、この南北に長く伸びる住吉の国際港の海からの通路が埋まりやすかった。
藤原日本史では、この5世紀を、倭の五王の時代とする。南朝の宋(420年〜479年)へ、讃(履中天皇)、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、武(雄略天皇)が、朝鮮半島での倭の軍事行動権を主な目的に、朝貢していた、とする。
因みに、藤原日本史では、倭とは、日本列島の国内限定とするが、倭人は、朝鮮半島南端や中国大陸内部にも、一勢力として存在していた。倭とは、「小さくて醜い」との意味だ。
その頃、大阪湾河口の湿地帯には、川舟を巧みに駆るアズミ族(安曇)という南方系海洋民族末裔が暮らしていた。この民族と異なる、金の耳飾・ネックレス・腕輪・指輪を身につけ、金ピカの馬具で着飾った馬に乗る民族が大阪湾に現われると、その港湾関係者は、華南の江南へいった。それは、華南は、絹製品の一大生産地だからだ。その江南の港が、寧波(ニンポー)だった。寧波は、絹製品の輸出港だった。
倭の五王が、中国南朝の宋へ十数回遣にいった港が、寧波だった。藤原日本史が述べるように、倭の五王は、朝鮮半島での倭の軍事行動権を目的ではなく、絹製品の交易のために、宋を訪れていたのだ。
藤原日本史が述べるように、倭の五王の目的が朝鮮半島での軍事行動権の獲得であるとすれば、朝鮮半島から遠く離れた宋ではなく、朝鮮半島に直接軍事影響力を持つ北魏に朝貢するのが道理だ。
この寧波の港は、河口から約15kmさかのぼった左岸にあった。この寧波の港と、灘波津(ワタ・ナーベ津)とは、立地が大変よく似ていた。灘波津(ワタ・ナーベ津)は、灘波の堀江(大川)の左岸にある、内陸港だった。
その左岸は、江戸時代、そのまま各藩の蔵屋敷が集中していて、全国の富が船により集められていた。
この内陸港周辺は、固い洪積層を掘り込んだので、5〜7mの崖状の地形が人工的にできていた。大川は掘削後、上町台地の東側の森の宮や玉造も港として利用され、灘波津だけではなく、多くの港が存在し、何十艘という船も同時に泊めることが可能だった。
5世紀、住吉津から灘波津への移行とは、日本海沿岸の「自然潟湾」の利用から、中国の江南の寧波型の「人工内陸港」への切り替えだった。大阪のワタ・ナーベ(灘波津)の内陸港は、中国華南の港築造の影響を強く受けていたのだ。このことは、古墳時代の大阪と宋との国際交易が盛んであったことを示唆する。
この内陸港が完成すると、その津から、南北に直線の大路が敷設されて行く。それが、灘波大路だ。当然、その大路付近、特に路初めの上町台地北端には、巨大古墳が築かれていた。
藤原日本史では、奈良時代、その上町台地北端の巨大古墳群を破壊し、その跡に、灘波宮や四天王寺などを創建して、古墳時代の大阪の歴史を改竄、隠蔽した。勿論、灘波津、灘波宮、灘波大路などは、古墳時代の名ではなく、713年以降に発明されたものだ。
では、古墳時代、上町台地の北端の固い崖を、古代エジプトの石切技術を駆使して掘削して大運河を造り、そして、国際交易のために内陸港を造り、上町台地を縦貫する大路を敷設し、その台地に巨大前方後円墳を築いていた、金ピカに着飾る民族は、何者で、何処から渡来したのか。その答えは、前方後円墳から出土する遺物を分析すれば分かる。
大阪府堺市堺区大仙町には、日本最大の前方後円墳が存在する。以前は、その巨大古墳を仁徳天皇稜、と学校では教えていた。しかし、近年では、古墳時代に天皇など存在していないことが知られてしまったため、大仙古墳と呼ばれている。
その古墳から出土したと伝えられている遺物には、古代新羅王墓出土の遺物と強い関連性が認められる。それらの遺物とは、車や馬、騎馬人物、琵琶や琴、上衣とズボン姿で表現された土器類とローマン・グラスだ。
ローマン・グラスとは、紀元前27年ローマ帝国が誕生してから、紀元395年ローマ帝国が東西に分裂し、そして、476年西ローマ帝国が滅亡するまでに、ローマ帝国支配地で造られた特徴有るガラス器を総称したものだ。
更に、前方後円墳の埋葬施設の作りからも、その民族の出自を知ることが出来る。古い時代の古墳は、竪穴式で、後に、横穴式となった。その竪穴に、小石を敷き詰めた上に、木槨を安置し、その上に川石を積み重ねた積石木槨墳は、ステップ・ルートにより、中央アジアのサカ族→スキタイ→匈奴→古代新羅→日本列島へと伝播していた。そして、横穴式石室・石棺墳は、シルクロードにより、古代エジプト→ペルシャ→高句麗→日本列島へと伝播していた。
古墳時代、上町台地北端周辺一帯の川の流れを変えて、大阪の町を開発したのは、古代新羅から渡来した民族、秦氏だ。
江戸時代初期、その秦氏末裔の弾左衛門一族は、徳川家康の命により、江戸の湿地帯を流れる古利根川の流れを変えて、江戸町を開発していた。何故、弾左衛門一族が、そのような大土木事業がてきたのかは、その配下には、各種の専門技術者がいたからだ。
鎌倉時代、弾左衛門の配下には、長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋などがいた。これらの技術者を系統別にまとめると、武器や防具を作る者、石垣・城造りをする者、生活道具を作る者、山・川を警備する者、戦況を占う者、伝達を司る者、芸能民として各地の情報を集める者など、都市国家を構成する要人となる。
この弾左衛門を棟梁とする「風の王国」と、古代新羅との統治方法には、共通点がある。それは、その構成員の推挙により、統治者が選ばれるということだ。統治者は、藤原氏や亡命百済貴族末裔や浄土真宗本願寺派を支配していた日野家のように世襲ではなく、構成員から選ばれるのだ。
この構成員(国)による合議で統治する方法は、古代ギリシゃの都市国家運営や古代ローマの共和制の政治形態に相通じる。因みに、ギリシャ・ローマ文化を受け継いでいた北方騎馬民族国匈奴の統治形態も、族長会議や君主の推戴・承認制だった。
古代新羅の歴史を調べると、その朝鮮半島での統治時代と、日本列島の古墳時代とは、時代的に重なるのだ。
古代新羅の統治時代は、第13代味鄒王時代(261年〜284年)から、第23代法興王時代(514年〜540年)までだ。
古代新羅は、528年漢訳仏教を受け入れるまで、ギリシャ・ローマ文化国家だった。この528年、ギリシャ・ローマ文化国古代新羅の民の一部は、朝鮮半島から去っていった。では、何処へ去ったのか。それは、北九州だ。
藤原日本史では、527年〜528年新羅と結んだ筑紫国造磐井の反乱とするが、それはウソだ。その物語に、磐井を討つ「物部氏」や継体天皇が登場するからだ。それらの人物は、713年以降に創作されたからだ。
磐井とする者が、古代新羅から渡来した者であるとの根拠のひとつは、その磐井の墓とする古墳には、石人・石馬が飾られたからだ。この石人・石馬で飾られた古墳は、北九州から熊本に多くあるのは、朝鮮半島から古代新羅の民が、その地に渡来していたからだ。
その熊本の古墳からは、ワカタケル銘の鉄剣が発掘されている。そのワカタケル銘の鉄剣は、東国のさきたま古墳群からも発掘されている。ワカタケルが、雄略天皇でないとすれば、どのような民族が埋葬されていたのか。
因みに、石人の像は、ステップ・ルートの古代道路脇に、今でも存在しているように、北方騎馬民族のモニュメントなのだ。
藤原日本史では、古代朝鮮半島の高句麗、百済、古代新羅を、中国文化に染まった国として述べている。しかし、奈良時代、反騎馬民族の漢訳仏教思想により、近畿地域一帯の支配を目論む藤原氏は、その高句麗や百済よりも、古代新羅を特別に意識していたようだ。
それは、藤原不比等が日本列島を乗っ取るために創作した「日本書記」に、最初に登場する外国名が、高句麗や百済ではなく、新羅だからだ。その「神代 上」で、「韓国の嶋には、是れ金銀あり」、とあり、神功皇后の新羅征討の物語があるからだ。
古代新羅は、確かに、隣接する高句麗や百済とは、まったく異なる文化・風習があった。
南朝の梁(502年〜557年、)の国史「梁書」には、「新羅には文字がない」、と記されている。「文字がない」とは、「漢字」の使用がない、ということだ。このことは、古代新羅は、漢字を駆使して隣国と交易をしていた、北魏(386年〜534年)、宋(420年〜479年)、斉(479年〜502年)、梁などの中国大陸諸国との、国際交易がなかったことを示唆する。
古代新羅が、中国大陸諸国とに交流がなかったことは、1145年「三国史記」、1280年「三国遺事」の朝鮮古代誌の史料のなかに、6世紀中頃まで、対中国関係の記録がないことでも分かる。このことは、古代新羅の都慶州の古墳からの遺物からも分かる。
古代新羅の古墳からは、青銅鏡や鎮墓具や墓誌銘のような中国系のものは皆無だ。そのかわり、中国系墓から出土例がない、金冠、指輪、釧(くしろ・ネックレス)、耳飾、首飾などの金銀製装身具が多く出土している。
確かに、古代新羅の古墳からの出土品の多くは、東洋的ではない。それらは、カスピ海沿岸で製作されたローマン・グラス、ギリシャ・ローマの伝統を踏まえた細線粒金細工の装身具、金銀製品、馬頭を模った角杯(リュトン)、把手付カップ、そして、ギリシャ神話の森の神ディアーナ崇拝の聖樹信仰を形式化した樹木形王冠などなど、非東洋系遺物なのだ。非東洋系出土品は、装身具だけではない。武器類もそうだ。
古代新羅の武器は、青銅製ではなく、ほとんどが鉄製だ。脛甲(けいこう)は、ギリシャ・ローマ兵士たちが着けていたものと同似の構造となっている。騎馬戦用の鉄製闘斧、鉄鉾、騎射用の弓は短弓だ。短弓は、騎馬民族の弓だ。源義経が短弓を使用していたのは、その出自が北方騎馬民族だからだ。刀類は、鍛造で作られた。鋼鉄製の刃をもった剣や環頭太刀などは、金メッキが施されていた。
古代新羅が、騎馬民族であることは、馬を手厚く埋葬した馬塚が作られていたことで分かる。馬を模った角杯や金銀宝石で飾った鞍や玉虫飾りの鞍が作られていたことからも、馬を大切にしていたことが分かる。
馬は、日常的に使われていただけではなく、戦闘にも使われていたことは、鉄製の馬冑や馬鎧が出土していることからも分かる。馬冑や馬鎧は、北方騎馬民族に源流があり、古代ヨーロッパに取り入れられた。
この古代新羅の騎馬武者が、古墳時代に日本列島に渡来していたことは、和歌山県大谷古墳から古代新羅の馬冑に類似した馬冑や馬鎧小札が出土していることからも分かる。
古代新羅の冑鎧や脛甲が、中国系とは異なっていたことは、古代新羅の戦闘術が、中国系高句麗や百済と異なっていたことを示唆する。因みに、鎌倉時代に現われた悪党の騎馬武者は、金ピカの衣装で金ピカに着飾った馬に乗っていた。その悪党の騎馬武者は、室町時代になると、傭兵の寄騎となり、そして、江戸時代に騎乗により警察業務を遂行した与力となっていた。
古代新羅の経済では、鉄廷が貨幣として使われ、市場経済が発達していた。貨幣の使用は、ユーラシア大陸の広域をステップ・ルートで移動する交易民族でもある、騎馬民族が発明したものだ。
古代新羅が、物品だけではなく、文化的にも中国系とは異なっていた。そのひとつが、国を統治する「王」を、「麻立干」(まりつかん)、「居西干」(きょせかん)、「尼師今」(にしきん)と称していた。その「○○干」は、北方騎馬民族の族長を表す語だ。
カンの称号の初出は、東は朝鮮の地、西はカラ・シャフル、北はバイカル湖までを支配した柔然(315年〜552年)の族長社崙が、丘豆伐可汗(きゅうとうばつかかん)とみずから名乗ったことのようだ。
古代新羅が、「麻立干」に替わって、「新羅王」の称号を使い始めたのは、智証王(500年〜514年)からだ。
古代新羅の古墳からバックルが出土することは、ズボンをはいていたことを示唆する。5世紀頃、ズボンに皮製ベルトをする習慣をもっていたのは、騎馬民族の匈奴人、古代新羅人、および、中部ヨーロッパのケルト族だけのようだ。
日常生活を管理する暦も、非中国的だ。朝鮮半島の高句麗や百済は、干支によって表記する中国暦が使われていたが、古代新羅では、干支暦は一切使われず、「○○王○年○月○日」と、ローマ暦に近い表記法をしていた。古代新羅では、中国諸国のように、王が交替するごとに、新しい年号を建てることはなかった。新羅が、中国式の年号や干支を導入するのは、ローマ世界と交流を断って、中国と国交をもち、漢訳仏教の導入を始めた、第23代法興王(514年〜540年)の時代となってからだ。
更に、6世紀、古代新羅には、氷を貯蔵する設備である石氷庫があった。このことからも、古代新羅は、南方系民族ではなく、北方系であることが分かる。7世紀前半には、新羅には、天体観測を行う瞻星台(せんせいだい)があった。因みに、日本初の天皇である新羅系天武天皇は、天文台を造り、夜空の星を観察していた。
では、朝鮮半島の東端の小国である古代新羅に、ギリシャ・ローマ文化が伝播し、そして、6世紀中期に北九州に移動してきたのは、何故か。
藤原日本史では、奈良時代までは、東国は無文化の野蛮人が棲む未開の地のように描写している。しかし、奈良時代前の古墳時代、東国の上野(群馬県)には、無数の巨大前方後円墳が造られ、エジプトの王墓を思わせる、石室・石棺を持つ前方後円墳も造られていた。因みに、群馬県は、古代も近代も養蚕が盛んな地だ。
それと同様に、漢民族の歴史書では、北方のステップ・ルートの存在を無視している。そして、その広大な、ヨーロッパから極東まで続く大草原地に暮らす騎馬民族を、蛮族、野蛮人、破壊者と見なし、その居住地を非文明の地、として語っている。それは、匈奴、鮮卑、鳥桓、丁零、柔然、突厥などの国名をみれば、漢民族が北方の騎馬民族をどのように見ていたか分かる。
しかし、紀元1世紀から、ローマ帝国と匈奴とは、絹馬交易をおこなっていた。その前の中国戦国時代(紀元前403年〜紀元前221年)では、東西文化の大交流があった。それらの国の各支配地から、40万平方mもの製鉄工場、製塩工場、そして、繊維産業、木漆工業などの大工場遺跡が多く発掘されている。その中国戦国時代を、終わらせたのは、ギリシャ文化継承国のバクトリアの衛星国となった、秦だ。
柔然と対峙していた北魏(386年〜535年)は、493年洛陽に遷都する前、平城に都を置いて、東ローマ帝国と密接な関係を持っていた。その根拠は、北魏が初めに本拠地を置いた盛楽城址や平城都城址から、多数の東ローマ帝国の金貨、銀器、ダイヤモンドを象嵌した指輪など出土していたことだ。
430年五胡十六国をほぼ統一した、北魏の太武帝は、道教を保護し、それに対して、漢訳仏教を弾圧(446年〜452年)した。弾圧の理由は、風紀が乱れたことと、仏寺(ブツジ・漢訳仏教の役所。「てら」は、死者が眠るところ。漢訳仏教は、葬儀をおこなわない。)に、多くの武器を保管していたことだ。しかし、452年太武帝が横死すると、漢訳仏教は、勢力を盛り返した。
東と西とは、古代からステップ・ルートで繋がっていたのだ。その媒介者は、交易民族でもある、騎馬民族だ。北方の騎馬民族が強大な国家を拓いた背景には、その東西の交易によるところが大だった。
古代新羅は528年まで、そのステップ・ルートの極東であるウラジオストクの港からの海路で、東西交易商人の華南諸国との中継地として機能していた。
古代新羅は、日本列島をユーラシアと華南との回廊とするために、前方後円墳を発明し、先住民をその工事のために雇うことで懐柔し、幅広の道路で日本列島を縦貫させた。九州の五島列島の島にも幅広の道路を敷設していたのは、華南との交易が余程の利益をもたらしたのだろう。慶州の古墳からの出土品からも、そのことが分かる。
日本列島の古墳時代と、古代新羅の時代がダブルのは、そういうことだ。
そのステップ・ルートの東西交易も、エフタルとササン朝ペルシャが台頭したことにより衰退した。
エフタル(420年頃?〜563年)の起源はよく分からない。イラン系の言語を話すさまざまな種類の人間を取り込んだ軍事集団だ。この軍事集団により、東ローマ帝国と柔然、北魏、古代新羅の経済が疲弊することにより、国も疲弊した。北魏は、534年滅ぶ。柔然は、552年滅んだ。ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅は、528年漢訳仏教国となった。
527年、漢訳仏教を受け入れられない古代新羅の民は、朝鮮半島から北九州へ脱出した。これは、東ローマ帝国で、431年エフェソスの公会議で、キリストを神とすることに反対したネストリウス派を異端として追放したことに似ている。その前にも、392年キリスト教をローマ帝国の国教にしたことにより、ミトラ教を信仰する軍人や民が、ローマ帝国を去ったことに似ている。
宗教は、ひとを縛る、目に見えない武器だからだ。
古代新羅は、六村で構成されていた。この村とは、農耕民だけが暮らす村ではなく、都市国家のことだ。その六村の長により、カン(王)が推挙された。古代新羅は、東洋では珍しく、女王が統治者になれる国だった。女性蔑視の漢訳仏教の国ではありえないことだ。
しかし、奈良時代までの日本列島では、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇=称徳天皇などの女帝が存在していた。漢訳仏教の比叡山延暦寺が政治舞台に勢力を伸ばす、百済系天皇家の平安時代からは、女帝の出番はなくなった。
その六村(都市国家)は、九州に上陸すると、日本列島に分散した。後に、北九州秦王国、吉備秦王国、奈良秦王国、群馬秦王国、出雲秦王国、そして、大阪秦王国となった。608年来朝の隋使は、北九州で遭遇した、華夏と同じ文化を持つ秦王国の存在を、隋帝に報告していた。
6世紀、アズミ族が暮らす大阪の河口地に、土木建築技術者として現われたのは、古代新羅から渡来の民だった。
藤原日本史では、大阪の歴史がよく理解できない。それは、ベールに覆われた記述が多いからだ。
物部氏と蘇我氏との二度の神仏戦争で、仏像が投棄された「灘波の堀江」。聖徳太子が建立したとする「四天王寺」。聖武天皇が、奈良の大仏鋳造の発願を思い立った寺とする灘波の「知識寺」。織田信長と10年戦争を戦って消滅したとする「石山本願寺」。その「石山本願寺」跡に、豊臣秀吉により創建された「大阪城」。江戸の武士の町に対する、「大阪の町人の町」。大阪城から中之島へ移された「豊臣秀吉の立像」。大塩平八郎が居た天満川崎の与力町を破壊して建てられた「大阪造幣局」などなど。それらの事績をナナメから眺めると、そこには、藤原日本史が述べるのと異なる世界が現われる。
戦国時代、本当に、石山本願寺が、大阪に存在していたのか。
1580年日本イエズス会は、準管区として、行政機関を設置した。初代日本準管区長は、ガスパル・コオリョだった。この年、東洋一の貿易港を持つ、大阪秦王国は滅亡した。
1569年フロイスは、岐阜で織田信長と面会した。そして、織田信長は、二条城築城現場で、フロイスと二度目の会見をおこなった。
その前年、1568年大友宗麟は、マカオ滞在中の司教宛てに、大砲の贈与を求める書状を送っていた。戦国時代のその当時、銃はあっても、大砲はなかったからだ。大友宗麟は、日本イエズス会豊後区のある豊後の支配者だ。
フロイスが、執拗に織田信長に面会を求めたのは、織田信長が、仏僧や神仏の寺社に対して特別の権勢と異常な増悪を抱いていることを、盲目の琵琶法師ロレンソから聞いていたからだ。
フロイスが、二条城築城の現場に赴いたのは、その目で織田信長の行状を確かめたかったからだ。その基礎石の多くは、近畿一帯から集められた石地蔵だった。織田信長は、その石地蔵を砕いて、基礎石としていた。
織田信長の石地蔵破壊は、フロイスとの出会いよりも2ヶ月も早く、その頃まだ、本願寺や一向一揆との対決は起きていなかった。
フロイスと織田信長は、一体何を語ったのだろうか。
それは、1570年野田、福島での対大阪秦王国(藤原日本史では石山本願寺)戦闘と、1573年伊勢長島一向一揆攻めの海上からの攻撃に、大砲が使われていたことで、分かる。
1578年大阪秦王国・毛利氏連合軍と、九鬼水軍との海戦でも、織田信長配下の九鬼水軍は、大船に大砲を積んで毛利水軍の船を砲撃していた。それらの大砲は、日本イエズス会豊後区から送られてきたものだった。
日本イエズス会のその目的は、東洋一の港を、1580年までに、手に入れる(布教地にする)ことだった。その理由は、巡察師ヴァリニャーノが、日本列島の布教状況を視察するため、都区に上陸するからだ。そのために、ヴァリニャーノは、1579年に、長崎に来日することになっていた。
しかし、その大阪の港町は、多くの島に囲まれ、その島々は石壁で守られていた。島は、攻め難いが、守り易い。その島々は、橋により連絡網が築かれていた。このことは、「石山合戦図」からでも分かる。大阪の渡辺津(藤原日本史では灘波津)は、その形態は、古墳時代から変わってはいなかった。
織田信長が、大阪秦王国と戦いたくなかったのは、その地形と、その砦内の工場で作られる鉄砲の威力だった。秦王国の砦は、大川に護られ、そして、砦の周囲には、大石の壁が築かれていた。織田信長の銃撃隊では、その砦を攻めることは困難だ。しかし、日本イエズス会が、大砲を提供してくれるのならば、話は別だ。
かくして、1570年織田信長は、大阪秦王国に戦闘を布告した。しかし、陸上からでは、大砲の弾も秦王国の砦まで届かなかった。
1571年織田信長は、比叡山延暦寺を攻撃して、短期間のうちに、殲滅した。そして、捕虜とした延暦寺の僧全員、稚児、おんな(女人禁制の寺に本当に居たのだ。)、下僕まで全員を惨殺した。
織田信長は、実戦では効果がないのを知って、兵糧攻めをおこなったが、毛利水軍が秦王国の島々に補給をおこなっていた。
毛利氏と渡辺氏の家紋は、よく似ている。それは、毛利氏の家紋が、ロンギヌスの槍をデザイン化した一文字の下に、オリオン座の三ツ星とするのに対して、渡辺氏の家紋は、三ツ星の下に、一文字だ。
それは、嵯峨源氏源綱を租とする渡辺党から、九州の水軍となる松浦党が枝分かれしていたからだ。松浦党の水軍は、源平合戦の時、渡辺津から出陣した源義経軍に加勢した。その松浦水軍は、室町時代、明の勘合符による貿易規制により、大陸との交易から外されたことにより、一部は倭寇となって各地に出没していた。
そうこうしている内に、1579年になってしまった。その巡察師ヴァリニャーノは、長崎に上陸していた。
奇策を講じないと、巡察師ヴァリニャーノが都区に上陸してしまう。そこで、藤原氏の顕如は、動いた。後は、藤原日本史が述べるとおりだ。しかし、石山本願寺が存在していたことは、否定も肯定もできない。客観的史料がないからだ。
1581年巡察師ヴァリニャーノは、京都での布教状況の観察と安土での協議会開催のため、堺に上陸した。
その大阪秦王国の廃墟は、織田信長爆殺後に、日本イエズス会の傀儡軍団長となった羽柴秀吉により、徹底的に破壊され、その跡に、大阪城を築いた。そして、羽柴秀吉は、大阪の一等地にキリシタンの教会建設を許可し、キリスト教宣教師たちを衆国の中で厚遇した。
不思議なことに、血の世襲を誇る浄土真宗本願寺派の僧侶は、延暦寺の僧全員が惨殺されているのに、その10年戦争の戦後処理で、誰一人惨殺されてはいない。もっと不思議なことに、藤原氏傀儡関白となった豊臣秀吉により、大阪秦王国の支配地だった天満に、「本願寺」が造られたのだ。何故だ。
更に、架空の親鸞の生誕絵図が存在するのに、石山本願寺の史料も絵図も、当事者以外の、客観的史料の何もかもが存在していない。だから、現在でも、石山本願寺が大阪の上町台地のどこにあったのかも分からないのだ。
藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉は、大阪城築造で、大阪秦王国の遺跡を消滅させたが、漢訳仏教思想を武器として、その民族の社会的抹殺も謀った。それが、「穢れが多い」の意味である「穢多」の蔑称だ。
民族浄化作戦のために、豊臣秀吉は、1588年刀狩令を発した。この刀狩は、大仏を造るためだとするが、それはウソだ。大仏は、木製で造られたからだ。真の目的は、武士のシンボルである日本刀を、武士から取り上げることだ。その武士とは、武士←武芸者←陸奥国の蝦夷捕虜←古墳時代の明日香ヤマト支配の突厥軍人(藤原日本史では蘇我氏)+奈良イカルガ支配の花郎騎士団(藤原日本史では物部氏)の流れから派生していたからだ。
豊臣秀吉は、1591年全国の戸口調査をおこない、国人(武人)のひとばらいをして、大阪の都市から騎馬民族を追い出した。そして、バラモン教やヒンズー教のように、身分法の士農工商を定めた。そして、アウトカーストとして、穢多・非人を置いた。この制度は、歴史的に、制度としての民族差別の始まりだった。
その身分法を発する1年前、1590年豊臣秀吉は、阿弥一族の血を引く徳川家康一族郎党を、関東の河口のひとも棲めぬ湿地帯の江戸(穢れた土→穢土→えど)に強制移封した。
藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉は、大阪秦王国の残民を、大阪の中心地(大阪城周辺一帯)から囲い地の湿地帯に強制的に、何度も移動させ、その部落を被差別部落の穢多村と蔑称した。そして、豊臣秀吉は、その大阪の中心の町船場に、百済系の民を移住させた。
これは正に、藤原氏得意の、「夷(百済系)を以って、夷(新羅系)を制す。」、戦略だった。
船場コトバが、コテコテの大阪弁らしくなく、いやに京都弁に似ているのは、そのためだ。そして、船場の町並も、京都の町並に似ているのも、そのためだ。
大阪の中心部に豊臣秀吉統治時代から住むひとが、今でも、豊臣秀吉を太閤さんと呼んで親しみを感じるのは、そのためだ。
それに対して、豊臣秀吉の建てた大阪城を徹底的に破壊して、その跡地に大阪城を再建し、そして、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を粉々にして散骨した徳川家康を、狸ジジイと呼んでいる。
この騎馬民族隔離政策は、第三百済王朝の江戸時代にも再現された。
徳川家康が死去し、その実権を、百済の血の流れにある徳川家光が継ぐと、源氏長者と征夷大将軍のタイトルを翳し、江戸町の中心地の日本橋、人形町の先住民である秦氏末裔を、北関東に追い遣り、その日本橋に、京都の店を招いた。そして、弾左衛門一族を浅草裏の湿地帯の囲い地に移動させた。
その江戸町乗っ取りの黒幕である天海は、上野山に百済系天台宗の東叡山を創建し、忍ばずの池を、琵琶湖と呼んでいた。
何故、キリシタン大名高山右近は、江戸時代初期まで生き延び、マニラで死んだのですか。
オレは、田辺さんのレポートを読んでから、無性に世良田東照宮に興味を持った。それで、ネットで情報を集め、訪れたのだ。
バイクを無料専用駐車場に停めると、林を通って東照宮を目指した。それらしき建物を遠めに見た時、複雑な気持ちが心の底から沸き起こった。
日光東照宮へは、取材で何度も訪れていた。それに比べて、世良田東照宮の建物は、あまりにもみすぼらしい。本殿の塗料も所々剥げ落ちている。その規模も、想像をはるかに下回っていた。「ちいさ!」、と思わず呟いたほどだ。
何故、徳川家康の霊廟が、徳川三代目将軍家光の時代に、日光から世良田に移されたのか。そのことを、田辺さんに聞きたいと、ひたすら、連絡を待ち続けた。
- たそがれのプロカメラマン物語 第六章 戦国時代へタイムトリップ(続) 五月晴郎 2014/2/05 14:10:15
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- たそがれのプロカメラマン物語 第七章 江戸時代へタイムトリップ 五月晴郎 2014/2/05 14:20:28
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- たそがれのプロカメラマン物語 終章 藤原日本史の闇へタイムトリップ 五月晴郎 2014/10/07 09:15:12
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