http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html
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1. ローマ人の目に映ったイエスの虚像 _ 革命家イエス
イエスは山を下って平地に立たれたが、大ぜいの弟子たちや、ユダの全土、エルサレム、ツロとシドンの海岸地方などから大群衆が、教えを聞こうとし、また病気をなおしてもらおうとして、そこにきていた。
そして汚れた霊に悩まされている者たちも、いやされた。
また群衆はイエスにさわろうと努めた。
それは力がイエスの内から出て、みんなの者を次々にいやしたからである。
そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた
貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである
今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる
今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている
今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる
今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/042.htm
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歴史はイエスを抹殺した。
しかし、そのあとを完全に消し去ることはできなかった。
それで、今度はかかえ込んで骨抜きにしようとした。
そしてそれは、一応見事に成功してしまった。
大勢への反逆児が、暗殺されたり、抑圧による貧困の中で死んでいったりしたあと、体制は、その人物を偉人として誉めあげることによって、自分の秩序の中に組み込んでしまう。
マルクスが社会科の教科書にのった時、もはやマルクスでなくなる、ということだ。
こうしてイエスも、死んだあとで教組になった。
抹殺と抱え込みは、だから、本来同じ趣旨のものである。
キリスト教は、イエスの抹殺を継続するかかえ込みであって、決して、先駆者イエスの先駆性を成就した、というものではない。
イエスは相変わらず成就されずに、先駆者として残り続けている。
http://fanto.org/diary-new/archives/669.html
● イエスはなぜ殺されたのか
イエスは、侵略者であるローマの官憲により、ローマ皇帝に対する反逆者として、ローマ法に則り十字架刑に処せられた。これはキリスト教にとって最大の謎である。
なぜイエスはローマ帝国に対する政治犯として処刑されたのか。
独特な話術と奇跡的な治療行為により、民衆の間に絶大な人気があったイエスは、当時のユダヤ教支配層の腐敗堕落を厳しく批判した。
一方、そんなイエスを救世主と担ぐ民衆の動きは次第に高まり、これを危険視するローマ当局の介入がユダヤの自治権剥奪を招きかねない情勢であった。
そこでユダヤの宗教指導層は、姦計を弄してイエスを逮捕し、涜神罪による死刑を宣告したのだが、かれらは死刑執行権を持たなかったのでイエスをローマ当局に引き渡し、総督ピラトは不本意ながらも、イエスを十字架刑にせよとのかれらの執拗な要求に屈した。
これが古くからある学界の通説である。
イエス処刑の責任は全面的にユダヤの宗教的支配層にあるというわけだが、この見解はローマ帝国統治下において反ユダヤ・親ローマ的立場を装った、初期キリスト教徒たちの護教的意図を斟酌していない。
これに対し、イエスは初めからローマ帝国に対する政治犯とみなされていたと主張し、先の通説を批判する学者も多い。
イエスはユダヤ民族独立運動の指導者だった。いや、虐げられた貧しい人々との連帯を志向した革命家だった、云々。
いずれにしても、通説とその批判がともに全面的に依拠する福音書の受難物語は、文献学的研究により細部の記述の歴史的信憑性がほとんどすべて否定されている。
そこで進歩的な学者たちは、イエスの死の理由を「イエスの思想」に求めなければならない。
しかしかれらといえども、イエスの死をその思想の必然的結果とするのはどうしても無理なので(悔い改めの決断を呼び掛けるとなぜ殺されるのか?)、結局、それはイエスの思想に対する周囲の無理解と誤解の結果だったと説明する。誤解されたのは必然だった!
しかし、イエスは決して誤解されたのではない。少なくともユダヤとローマの支配権力には、きわめて正確に理解されていた。だから殺されたのだ。
そうして権力がイエスの肉体を抹殺したあとに、「弟子」たちはイエスを「救い主」とすることによりイエスの精神を抹殺し、現代の神学者たちはイエスを「先駆者」とすることによって、その精神的抹殺を継承しているのだ。
さて、「食い意地のはった大酒飲み」といわれたイエスとは、いったい何者だったのか。
http://www.ne.jp/asahi/wtnb/2000/opinion/tagawa_jesus.htm
ローマ史家の土井正興氏が『イエス・キリスト』(三一新書)で熱心党とイエスとの関係を詳しく論じ、またローマの重罪犯に対する正規の死刑法である十字架刑に絡めて、
イエスが「ユダヤ人の王」を僭称して、ローマの植民地支配への反逆者、「神の国」の到来を告げる黙示録的な政治的メシアとして処刑された
と主張しているのは、明らかに正しい。
土井正興氏は『イエス・キリスト』(三一書房)の149ページで、
「それ(イエスの歴史的性格)は、・・・・
彼が、ローマ支配をくつがえして『神の国』=『ユダヤ人の王国』を建設しようとしたメシアとして、この運動を鎮圧したローマの代官によって、ローマの刑罰たる十字架刑によって刑死した
ということである」と述べている。
また八木誠一氏は『イエス』(清水書院)の188ページで、
「十字架刑はユダヤ式の死刑ではなく、ローマのものであり、ローマに対して反乱を起こした者がこの刑に処せられた。
これは重要な事実である。
イエスはローマに対する政治犯として処刑されたのである」
と記している。
http://www.geocities.jp/toryon33/iesuotoko.html
パウロ書簡から史実のイエスを傍証する
ちなみに、パウロ書簡は現存する最古のキリスト教文書ですが、新約聖書の約3分の1を占める膨大な量であるにもかかわらず、そこには史的イエスの描写が「一切」といっていいほど存在しません。唯一つの例外は『コリント人への第一の手紙』(11:23〜26)で、そこに、
「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行ないなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」
という記述があります。たったこれだけです。
これでさえ、死の影にほとんど包み込まれたイエス、生身のイエスの消滅を前提とした最後の晩餐でのイエス、それもその教義的解釈の枠内でしか史実のイエスを記述していません。これを史実のイエスへの言及と言っていいかどうか?
パウロがイエスに触れるのはキリストとしてだけ、つまりその十字架の死と復活と栄光の来臨についてだけであり、それもそれぞれについての神学的意味づけに関してだけです。
パウロは「意図的に」史実のイエスには触れません。
イエスがどのような家庭に生まれ育ち、いかに成長し、いかなる目的で伝道を始め、どのような集団を構成し、どのようにして死に至ったかについては何も語りません。
つまりそこには肉のイエス論(生前のキリスト論)はなく、霊のキリスト論(死後のイエス論)しかありません。『コリント人への第二の手紙』第5章16節には、
「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方はすまい」
と記しています。手紙としてこれを記しているというのは、読む人々にも「そのようにしなさい」と薦めてもいるわけです。
肉のイエスに関わる「作り話やはてしない系図などに気をとられることのないように、命じなさい」とも記しています。
「もうそのような知り方はすまい」というパウロの態度は、史実のイエスへの単なる無視ではなく、むしろ拒否を意味しています。
しかし、もしマタイ、マルコ、ルカなどの共観福音書で描かれたように、十字架贖罪死へ意図的に歩むイエス像が史実として正しいならば、最強最大の十字架贖罪論者であるパウロがイエスの言行についてほとんど一言も触れないのは言語に絶する不可解なこととなります。
そこには当然十字架贖罪死へ向かう感動的なイエスの言行が数限りなく存在した筈だからです。
なぜパウロはイエスの言行について一切触れなかったのでしょうか?
この重大な問題については、ふつう、「史実のイエスと直接接触のあったペテロ・ヤコブ・ヨハネなど直弟子たちに対する劣等感からくる反撥や開き直りかもしれない」と解釈されて、納得が求められています。
しかしパウロ自身のそのような個人的な境遇が救い主の生涯そのものへの無視へと続くことは決してありえません。これはさも解答があるかのようにみせる一種の誤魔化しや誤導です。
とにもかくにもイエスは彼と全人類にとって「神の子」で「救い主」だから、そのイエスの生涯について一言も語らないというのは、本当は信じられないほど奇妙なことなのです。
その奇妙さを実感していただくために、ここでひとつ質問してみたいと思います。もしあなたの命の恩人がいて、その人がまた家族一人ひとりの命の恩人でもあり、さらに存亡の危機にあった国家をも救った恩人だったとしましょう。
これでもパウロが信じた「全人類を救ったイエス」という大恩人よりはまだもう一つスケールの小さい恩人ですが、それでも、もしこういう人物がいたとするなら、あなたはその人の生まれや成長や活動内容に全く無関心でいられるでしょうか?
そのようなことは人間として100%ありえません。
ところがパウロはそういうこと一切に対して拒否の態度を示し、事実上、積極的に「無視せよ」と薦めているのです。
これは非常に不自然です。言葉に尽くせないほど不可解です。
もしイエスが十字架死へ向けて意図的に生きたのが史実として正しければ、熱烈な十字架贖罪論者のパウロは彼一流のあの素晴らしい筆法で、十字架への道を歩むイエスの感動的な生き様を数多く紹介してくれたことでしょう。
むろんイエスの生き様に対するパウロのこのような度外れた無視と拒否は、事実上、史実のイエス・本当のイエスへの甚だしい侮辱に他なりません。
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パウロが、イエスの言行・史実のイエス・肉のイエス・生前のイエスに一切触れようとしなかったのは、「史実のイエス」と「彼の信じたもの」とがその質において正反対と言っていいほど全く違っていたからなのです。
それはイエスが自覚的に十字架贖罪死へ向けて生きたのでなかったこと、言いかえれば、イエスはこうした彼岸的・肉否定的な「宗教的メシア」でなく、本当はダビデ王の子としての、此岸的・肉肯定的な、栄光の「政治的メシア」を目指した者であったことを意味しています。
当時の主なメシア像には、
(1)ローマの植民地からユダヤを独立させる軍事闘争をやっていれば、必ず神からの助けがあるとする戦闘的で自力本願的なもの
(2)神の定めた時が来れば宇宙的な変動が起きて一切が転覆され神の国が到来するという待望的で他力本願的なもの
とがありましたが、積極的か非積極的かの違いはあるものの、ともかくどちらも直接的にはローマ支配の終焉によるユダヤの解放を意味していたわけですから、ともに政治的でした。
事実、ヨハネとヤコブなどイエスの直弟子たちは生前のイエスに、近く地上に建設される神の国でイエスの左と右の座を占めさせてほしいと頼み(マルコ10:35〜40)、あるいは、神の国では自分たちのうちで誰が一番偉いかと論議もしています(マルコ9:33〜37)。『マタイによる福音書』(21:20〜21)では彼らの母も同伴して頼み込んでいます。
福音書にあるような自己犠牲的な贖罪死を目指す「宗教的メシア」のもとでは、弟子たちのこういう世俗的野望は辻褄が合いません。
だから十字架の贖罪死を目指す「福音書のイエス」は彼らを強くたしなめます。しかしこれは史実のイエスがもともと「政治的メシア」だったことの痕跡なのです。
また四つの福音書全てに、処刑時、十字架の上に「ユダヤ人の王」という罪状の札があったことが記されていますが、「ユダヤ人の王」を決めるのはローマ皇帝の専権事項であったため、これはイエスが「政治的メシア」として「ユダヤ人の王」を僭称して活動したことで処刑されたことを示すもう一つの痕跡です。
また、イエスは自分を「人の子」と呼んでいますが、これは旧約聖書の中の「ダニエル書」7章13〜14節にある次のような預言を根拠にして使っている自称です。
みよ、人の子のような者が、
天の雲に乗ってきて、
日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
彼に主権と光栄と国とを賜い、
諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、
なくなることがなく、その国は滅びることがない。
その他にもイエスが「政治的メシア」だった証拠としては、
・ガリラヤの海の漁夫ペテロとアンデレ兄弟に「人間をとる漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)と述べている
・幹部弟子のなかに軍事戦闘派の熱心党員がいる(マルコ3:18 マタイ10:4 ルカ6:15 行伝1:13)
などもあります。 したがって、
神の力によって神の国を打ち立てローマの植民地支配からユダヤを独立させようとしていた「政治的メシア」としてのイエス
これが史実 (中川隆 注:実際は史実ではなくて、ローマ人にはイエスはこういう姿で捉えられていたというだけでしょうね) のイエスであり、そのためにローマ兵に捕らえられて、ローマ総督ピラトから「ユダヤ人の王」という罪名の死刑宣告を受け、ローマの処刑法である十字架に掛けられ、ローマ兵によって刑殺されたのです。
イエスが十字架贖罪死を目指して生きたのでないことが、すでに上記の五つの理由や史的イエスに対するパウロの徹底的な無視から明らかになっていて、しかもローマの官憲によって刑死した以上、彼は「政治的メシア」だったということです。
むろんこの「政治的メシア」はその独自の律法解釈やそれによる破戒行動を行なうため、必然的に既存のユダヤ教権力層とも宗教的対立関係に入ります。
イエスが軍事戦闘型の「政治的メシア」だったのか、それとも待望型のそれだったのか、福音書の捏造があまりにも甚だしいためどちらであるか決定するのは難しいですが、
弟子たちの中に軍事戦闘型の熱心党員のシモンがいることもあり、またイエスが逮捕される際に弟子たちのうちのある者(ルカ22:50では弟子たちのうちの誰か、ヨハネ18:10ではペテロ)が剣を抜き、イエスを捕らえに来た祭司長あるいは大祭司の僕(しもべ)の右耳を切り落としたとあるように、
私は闘争型の要素を持つ待望型だったのではないかと想像しています。
つまり戦闘性も多少持つが主に納税拒否などさまざまな反ローマのサボタージュを行なう非軍事的な性格のものです。熱心党員の弟子はシモンの他にも幾人かいたかもしれません。
「政治的メシア」としてのイエスは十字架死によって敗北しました。
これを弟子たちは「宗教的メシア」に仕立て直してイエスを勝利者とし、みずからも勝利者としたわけです。
そのとき史実のイエスは直弟子たちからも見捨てられ放棄されたわけです。
イエスが逮捕された後、直弟子筆頭とされているペテロが官憲などに三度尋ねられて、そのたび「自分とは関係ない」と告げ、雄鶏が鳴くまでに三度イエスを裏切ったという福音書の話も、ひとつはそういう事情を反映したものでしょう。
キリスト教は史実のイエスとは何の関係もありません。それは直弟子たちの創作物です。
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パウロはイエスを直接知っていた直弟子たちから、先ほど述べた「最後の晩餐」の様子(これについては、パウロは、十字架贖罪死信仰を前提とした「これは私のからだ、これは私の血」などのイエスの架空の言葉によって、すでにペテロなどに欺かれているか、あるいは、たぶん、自分自身を欺いている)だけでなく、イエスの言行について無数の事実を知らされていましたが、ほとんど全て「政治的メシア」に関する史実であったため、あえて「肉のイエス」には一切触れませんでした。
彼は過去の「肉のイエス」に触れないことを、
「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」
(『コリント人への第二の手紙』第5章17節)と神学的に正当化さえしています。
パウロが史実のイエス・肉のイエスに一切触れずに済ませることが「できた」ということは、すなわちイエスの直弟子たちも、「政治的メシア」と直結する部分は全て排除するという仕方で、イエスの生涯や生き様を無視したということを示しています。
現代聖書学ではルドルフ・ブルトマンの福音書に対する詳細な様式史研究などによって、
「史的イエス研究のための唯一の資料である福音書からは史実のイエスを再構築できない」
という結論が出されています。つまり福音書に書かれているイエスの記事はほとんど信用できないということで、これは福音書が非事実の塊だということに他なりません。
さて、「政治的メシア」から「宗教的メシア」へ転換することで、キリスト教はイエスの政治性から脱してローマ帝国と妥協可能になり、その成功とともに際限なく非政治化してゆき、帝国内部に広く浸透できることになりました。
しかしそのかわりローマ帝国との妥協の産物として、
「ローマ人でなくユダヤ人たちがイエスを刑死させた」
というありもしない罪が捏造され、それが史実とは異なる十字架贖罪論の福音書に描かれて、その後の二千年に及ぶユダヤ人迫害の土台を形作ることになりました。
キリスト教がイエス殺害の主犯としての罪をローマ人からユダヤ人に転嫁したのは、ローマ総督がイエスを殺害したという姿のままではローマ帝国内部での成功がとうてい不可能だったからです。
その姿はイエスがローマ支配に反抗する「政治的メシア」として処刑されたことを示すもので、ローマ人は帝国内にこういう敵性宗教が蔓延するのを絶対に許さなかったことでしょう。
また、「宗教的メシア」を強調するために治癒奇跡や自然奇跡(風を叱って止めさせる・水上を歩く・パンと魚を数千倍にする)など様々な奇跡を次々と行うイエス像が捏造されるに至りました。
http://www.geocities.jp/toryon33/syuukyoukaitou.html#hitonoko
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2. 奇跡の丘
1964年 製作:アルコ・フィルム リュックス・フランス映画会社
原案・脚本・監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ(「マタイの福音書」に基づく)
http://www.youtube.com/watch?v=Y5BmG6ZU8jo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=j5M7Qx9kSX8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=eV9SwyfPw2I&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Y7In5tL4HCo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=F9JHnweOkLc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=fnMa-rj4EFg&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=dayjdaOLhnU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=H6OgYdxMwJ8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=22JmBmjB1cI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=VJ4wpna3Zjo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=z3oVPnqJeVk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=EOo5QORzRas&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=4zR_Ih1h528&feature=related
Q資料...これがイエスの本当の辻説法
群集を見ると、彼は弟子たちに言った
何と幸運な者だ、貧しい者は。 彼らには神の王国がある。
何と幸運な者だ、飢えている者は。 彼らは腹いっぱいに満たされるだろう。
何と幸運な者だ、泣いている者は。 彼らは笑うだろう。
おまえたちに言っておこう。敵を愛し、呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈ってやれ。
おまえの頬をピシャリと打つ者には、反対の頬も向けてやれ。
上着を奪い取ろうとする者には、シャツもくれてやれ。
求める者には与えてやれ、おまえの持ち物を奪うものがいても、返してくれなどと言うな。
人さまにしてもらいたいと思うことを、彼らにもしてやれ。
おまえたちを愛してくれる者たちを愛したところで、それが何だというのだ。
徴税人たちでさえ、彼らを愛する者たちを愛しているじゃないか。
兄弟たちだけに挨拶したところで、ほかの者より何か善行でもしているというのか?
誰でもそうするじゃないか。
返してもらうことをあてにして貸すなら、それが何だというのだ。
悪人どもでさえ、返してもらうことをあてにして、身内の者に貸している。
しかし、おまえたちは、敵を愛し、よいことを行い、何も期待しないで貸してやれ、そうすれば、おまえたちの受ける報酬は大きく、おまえたちは神の子らとなる。
なぜならその方(神)は、邪しまな人間の上にも善良な人間の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨をお降らせになるからだ。
おまえたちの父が憐れみ深いように、憐れみ深い者になれ。
裁くな、そうすれば、裁かれないですむ
おまえたちが「裁きに」使う物差しが、逆におまえたちを裁く物差しになるからだ。
盲人は盲人の手を引けるか? 二人とも穴に落ちはしないか?
弟子は師にまさらない。師に似ていればそれで十分だ。
おまえは兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の中にある丸太に気づかないのだ?
自分の目の中にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、
「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」
と、どうして言うことができるのだ?
偽善者よ、まずおまえの目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目の中にあるおが屑を取り除くことができる。
よい木は腐った実を結ばず、朽ちた木はよい実を結ばない。
茨からイチジクが採れるか?
アザミから葡萄が採れるか?
どの木もその結ぶ実によってしられる。
善良な人間は倉から良い物をを取り出し、邪しまな人間はいかがわしい物を取り出す。
なぜなら口は、心から溢れ出るものを語るからだ。
わたしを「先生、先生」と呼びながら、なぜわたしの言うことを実践しないのだ?
わたしの言葉を聞き、それを実践する者はみな、岩の上に家を建てた者に似ている。
雨が降り、激流が襲っても倒れなかった、岩が土台だったからだ。
しかし、わたしの言葉を聞いても実践しない者は、砂の上に家を建てた者に似ている。
雨が降り、激流が襲うと、倒れてしまった。ぺしゃんこだった。
ある人が彼に向かって言った。
「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります。」
するとイエスは答えた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
別の者が
「まず、わたしの父を葬りに行かせてください」
と言うと、イエスは彼に言った。
「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせるがよい。」
また、別の者も言った。
「先生、わたしはあなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいをさせてください。」
イエスは彼に言った。
「鍬に手をかけてから振り返る者は、神の王国にふさわしくない。」
彼は言った。
「収穫は多いが、人手が足りない。だから収穫の主に、刈入れのために働き手を送ってくれるよう願うのだ。
さあ、行け。わたしはおまえたちを遣わす。
それは、小羊を狼の群れの中に送り出すようなものだ。
金も、バッグも、サンダルも、杖も携えてはならない。
道中では誰にも挨拶をするな。
どこかの家に入ったら、開口一番、(この家に平安があるように!)と言ってやるのだ。
もし平安の子がそこにいるのならば、おまえたちの挨拶は受け入れられる。
もしいなければ、その平安はおまえたちに戻ってくる。
同じ家にとどまり、そこで出される物を食べ飲むがよい。
働く者が報酬を受けるのは当然だ。
家から家へと渡り歩くな。
町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べるのだ。
病人の世話をし、そして彼らに、(神の王国はあなたがたに近づいた)と言ってやるのだ。
しかし町に入っても、迎え入れられなければ、出ていくときには、足についた埃を払い落として、
「だが、これだけは確実だ。神の王国は近づいた」
と言ってやれ。
祈るときは、こう言うのだ。
「父よ、あなたの名が崇められますように。
あなたの支配がありますように。
わたしたちに毎日、日々のパンを与えてください。
わたしたちの負債を赦してください。
わたしたちもわたしたちに負債のある者をみな赦しますから。
わたしたちを誘惑(試される状況)に遭わせないでください。」
求めよ、そうすれば、与えられる。
探せ、そうすれば見つかる。
叩け、そうすれば、開かれる。
求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者はには開かれるのだ。
おまえたちの中に、パンを欲しがるわが子に石を与え、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか?
おまえたちは、よい者でなくても、わが子にはよい物を与えることも知っている。
もしそうなら天にいる父は、どんなに多くのよき物を、求める者に与えてくださることか!
隠されているもので知られずに済むものはなく、明るみに出ない秘密はない。
わたしが暗闇で言うことを、光の中で言うのだ。
耳にささやかれたことは、屋根の上で言い広めるのだ。
体を殺すことができても、魂を殺すことができない者たちを恐れるな。
五羽の雀は二セントで買えないか?
だがその一羽でさえ、おまえたちの父が知ることなしに、地に落ちたりはしない。
おまえたちの頭髪までも、一本残らず数えられている。
だから、恐れるな。おまえたちはたくさんの雀よりもまさっている。
群集の一人が言った。
「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟にいってやってください。」
イエスは彼に言った。
「なあ、誰がわたしを、おまえさんたちの裁判官や調停人に立てたのだ?」
彼はたとえで彼らに語った。
「ある金持ちの土地が豊作だった。金持ちは、
(どうしよう、作物を蓄えておく場所がない)
と思いをめぐらし、やがてこう言った。
(よし、こうしよう。倉を壊してもっと大きなやつをつくり、そこに穀物や財産をみなしまい、わが命の君にこういってやる。
(命の君よ、おまえさんには何年分もの蓄えが十分にできたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして陽気にやれ。))
しかし、神は彼に言った。
(大ばか者!今夜おまえの命の君は取り上げられる。おまえが生産したものは、いったい誰のものになるのか?)
自分のために富を積んでも、神の目に豊かでない者は、これこのとおりだ。」
おまえたちに言っておく
。
何を食べようかと、命のことで心配などするな。
何を着ようかと、体のことで思い悩んだりするな。
命は食べ物よりも大切じゃないか。体は衣服よりも大切じゃないか。
烏のことを考えてみるのだ。
種蒔きもせず、刈入れもせず、納屋に穀物をためもしない。
それなのに、神は烏を養っておいでだ。
おまえたちは烏よりも価値がないのか?
おまえたちのうちの誰が、思い悩んだからといって、寿命を一日ひき伸ばすことができようか。
なぜ、服のことで思い悩んだりするのだ?
百合がどのようにして育つのか考えてみるがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
だが、栄華をきわめたソロモンでさえ、これほどには着飾っていなかった。
もし神が、今日は野にあっても、明日は炉に投げ込まれる草でさえこのように美しく装われるなら、信仰心の薄いおまえたちにはなおさらのことじゃないか。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかなどと考えて、思い悩んだりするな。
それは世の誰もが切に求めているものだ。
おまえたちの父は、おまえたちがこれらの物を必要としていることを知っている。
ただ、おまえたちへの神の支配を確信するのだ。
そうすれば、これらの物はすべておまえたちのものになる。
自分の持ち物を売り払って、施しをしてやれ。
自分自身のために、富を天の口座に積み立てるのだ。
そこでは虫が食うことも、錆つくこともなく、盗人が忍び込んで盗むこともない。
おまえたちの富のある所に、おまえたちの心もある。
彼は言った。
「神の王国は何に似ているか。それを何にたとえよう。
それは一粒のからし種に似ている。
これを取って庭に蒔くと、成長して木になり、空の烏がその枝に巣をつくる。」
彼はこうも言った。
「神の王国は、パン種に似ている。
女がこれを取って三升の粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
偉そうにふんぞり返っている者は赤恥をかくが、へりくだる者は褒められる。
ある人が盛大な宴会を催そうとして、大ぜいの人を招いた。
宴会の時刻になったので、彼は僕を客人のもとに遣わして言わせた。
「さあ、もう用意が整いましたので、お越しください。」
するとみな、言い訳を口にしはじめた。
最初の者は彼に言った。
「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」
別の者はいった。
「牛を二頭ずつ五組買ったので、しらべねばなりません。どうか、失礼させてください。」
また別の者は言った。
「新婚ホヤホヤなので、行けません。」
僕は帰ると、このことを主人に報告した。
すると、家の主人は怒りを爆発させて僕に言いつけた。
「さあ、すぐに町の通りに出て行き、見かけた者は手当たり次第連れて来るのだ。」
そこで、僕は通りに出て行き、見かけた者を集めて連れてきた。
こうして、その家は客人でいっぱいになった。
父や母を憎まない者は、わたしから学ぶことは出来ない。
娘や息子を憎まない者は、わたしの弟子になれない。
十字架を受け入れて(非難に耐えて)わたしに従わなければ、わたしの弟子の一人になれない。
自分の命を守ろうとする者は、それを失う。
しかし、わたしのために命を失う者はそれを保つ。
塩はよいものだ。
だが、塩味を失えば、どのようにしてもとの味にもどるのだ?
土地のためにも肥料のためにもならず、外に投げ捨てられるだけだ。
http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/cr_qtxt.html
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ヨーロッパ諸国の中でも特にカトリックの勢力が強いイタリアでは、パゾリーニがキリストを冒涜する映画を撮るに違いないと早合点し、激しい反対の声をあげ、撮影中から早くも妨害される。映画が完成してヴェネチア映画祭に出品されたときも、右翼の学生がパゾリーニに怒号を浴びせ、腐った生卵を投げたりした。
ところが映写が始まってみると、何と忠実なキリストの映像化…
満場はシーンと静まりかえった。 というエピソードがあります。
何故こんなに信用されなかったのか?
それはウルトラ左翼のパゾリーニだからです。http://blogs.yahoo.co.jp/legendofbenji/12024963.html
無神論者・パゾリーニが、キリストの生涯を新約聖書の「マタイの福音書」を元に映像化した作品。
マリアの懐妊に始まり、東方三博士の礼、ヘロデ王の嬰児大虐殺、パンと魚の奇跡の話、サロメが洗礼者ヨハネの首を所望した話、最後の晩餐、釈放されたバラバ、磔刑、そして復活と、絵画等の主題になるような内容はほとんど描写されているし、 「汝の隣人を愛せよ」というような、よく知られたキリストのことばも、作中に多数含まれている。
他のパゾリーニ作品に見られるような”毒気”はなく、敬虔なキリスト教信者の視点で描かれているといえるだろう。 飾り気のない映像も、キリストを語るにふさわしい。パゾリーニが無神論者であることを知らなければ、キリスト教信者によるキリスト教布教の為の作品にも思えるほどである。いったい、パゾリーニの意図はなんだったのか。
パゾリーニがアッシジ滞在中に時の法王、ヨハネ23世のアッシジ訪問に遭遇し、ホテルで街の喧騒を聞きつつ手にした聖書が、この映画製作のきっかけとなったらしい。しかし、「奇跡の丘」撮影前に発表したオムニバス映画「ロゴパグ」の第3話「リコッタ」で、キリストの磔刑映画のパロディーを描き、「宗教を侮辱した」かどで告訴された(判決は無罪であった)という経緯があったので、パゾリーニによるキリストの映画製作には反対も多かったという。
ところが、「奇跡の丘」が発表されると、国際カトリック映画事務局賞を受賞。ローマ法王庁がキリスト教徒に適した映画を選出する「ローマ法王のオスカー」と呼ばれるリストでも、「奇跡の丘」は上位に入っている。ヴァチカンのお墨付きになったわけである。
http://www.cinemaitalia.jp/primipiatti/primo-ka.htm
ヨハネパウロ二世の推薦する映画第二位の映画。
カトリック信者ならこれ以上の信頼できる評価は無いでしょう。
1位「シンドラーのリスト」(93)
2位「奇跡の丘」(64)
3位「ライフ・イズ・ビューティフル」(97)
4位「モダン・タイムス」(36)
5位「ナザレのイエス」(77)
6位「ベン・ハー」(59)
7位「わが命つきるとも」(66)
8位「2001年宇宙の旅」(68)
9位「8 1/2」(63)
10位「山猫」(63)
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/B001SSXXWA
パゾリーニはコミュニストであったにもかかわらずなぜにこの映画を作ったのか。
彼はこう語っている。
[パゾリーニの言葉]
私はアッシジのプロ・チヴィターテ・クリスティアーナに泊めてもらっていた。その後も何度か訪ねているが、そこは私のような人間にもいつも扉を開いている。1962年10月2日だった。アッシジはロレート・ジョヴァンニ(ヨハネ)23世の来訪を待っていた。
ヨハネ23世はヴァティカンを出て、宗教会議のさだめによって“貧しくつつましき者”と名付けられた聖フランチェスコの墓に祈るためにやってきた初めての法王だった。
私はベッドに横になり、町の音に耳を澄ました。町は人々の声や足音で沸き立っており、好奇心と幸福感で熱くなっていた。大聖堂に向かう道にはたくさんの足音が聞こえた。ありとあらゆる鐘が鳴り始めていた。
私は優しい農民法王のことを思っていた。彼は難しいと当時は思われた希望へと人々の心を開き、またレジーナ・コエリの扉も彼に開かせたのだ。そこで法王は《自分の目で》泥棒や殺人者たちを見たのである。厚い慈悲の心以外は何もまとわずに。
私も一瞬起き上がってそば近くで彼にまみえたいと思った。しかし、鐘が私の頭の上でも鳴り響いているあいだ、彼に会いたいという望みは突然鎮まった。自分がたくさんの人にとって苛立たしいはみ出し者になるのではないか、安易な宣伝をしようとしていると非難されるのではないかと思ったからだ。
私は自分のことを“放蕩息子”とは思わなかったが、多くの人にとってはそうした振る舞いは趣味の悪いシナリオのように映るだろう。
本能的に手をナイトテーブルの上にのばして私は福音書の本を手にした。それはすべての部屋に置いてあるものだった。私は最初のところから読み始めた。
つまり4つの福音書の最初、マタイ伝から。最初のページから最後まで、今でもよく覚えているのだが、祝典で沸き立つ町の喧噪から喜んで身を守るように私は読み耽った。ついに本を置くと、私は最初のざわめきから、鐘が巡礼法王の出発を告げるまで、自分がこの厳しいと同時に優しい、かくもヘブライ的で激しやすいテキスト、それこそがマタイ伝だーーを全て読んでしまったことに気づいた。
福音書を映画化しようという考えは何度も浮かんだが、この映画はまさにそこで、その日の、その時間に生まれたのである。
パゾリーニは「信者の中に入り込まずには神の子イエスを描くことが出来ず、無神論者である自分自身と信者との、2つの物語の間をきわめて難しい均衡をこの作品で実現せねばならなかった」と書いている。
これでなるほどと思い当たるのが、この映画の極めて客観的なイエスの描き方だ。俳優は素人であり、現代的な感情を込めた演技をしていない。
本作のすばらしさはその音楽によるところが大きい。聖書に書かれている事実は、淡々と語られていく。
ゴルゴタの丘にのぼる場面。このシーンを「パッション」と比べるといかに違うかわかります。
熱心なクリスチャンのメル・ギブソンが作った「パッション」と比較するとあらゆる面で対照的だ。パゾリーニ版のこの淡々とした進行が、彼の客観的な視点、信者でないという事実を如実に物語っているように思える。
信仰というのは理屈でないので、「パッション」ではメル・ギブソンの思い入れの深さが、時に執拗なまでに残酷な描写に行き着いたり、観ている私からするとうんざりしてしまったりするのだが、「奇跡の丘」には見事にそれがない。やはりパゾリーニは信仰心からイエスを語っているとは思えない。非常に冷めているなあと感じる。
ではこの淡々とした語り口が、なぜ数あるキリスト教映画の中でももっとも感動的であるといわれる作品といわれるようになったのか。
まず聖書を読んでみるとわかることだが、聖書が淡々としているのだ。現代的なストーリー展開に慣れている私たちにとっては、入りにくい文章である。
なにより、いつどこでだれとだれがどうした、という現代なら当たり前の歴史記述が聖書にはない。唐突に物語りははじまり、ある記述はとても長かったり、ある記述はあっさりしていたり、時系列であったりなかったり、そのときにその場に誰がいたりというのが定かでない。
そしてそのとき「と思った」という登場人物たちの思いは見事に省かれている。だからそれは文脈から汲み取るしかないので、そこにイエスを物語にするときの醍醐味があるといえるし、難しいところであるのだ。そしてこれが様々な聖書解釈、異端信仰を生む。
だいたい、どうしてユダがイエスを裏切ったのか、その理由は一切書いていないのが、私からすると本当にミステリアスだ。
では、キリスト教に興味がない私が、もし聖書のイエスの生涯を映画にするとしたら、どうするだろう?
そう考えると、この映画も非常にすっきり理解できる。
おそらく、パゾリーニが聖書を読んで最も共感できた箇所が、この映画でもっとも感動的な場面になっているのだと思う。だから「イエスの奇跡」といわれる処女受胎や湖の上を歩いたことや、病の治療、復活は淡々と描かれる。削ってはいないという点もミソだと思う。あくまでそれは事実として描いている。
この、ことさら奇跡を大げさに映像にしていないことが、信者でない多くの人がこの映画に対して拒否反応を示さなかった理由だと思う。
そして、コミュニストらしい解釈というか、お金持ちや権威ある階層に対しては戦いを挑むイエスが描かれる。
過ぎ越しの祭りのときに、イエルサレムに入城し、両替人の台や、鳩を売る者の腰かけをくつがえし、天使のような子どもたちが宮に入り、イエスを祝福する。その子どもたちが、ロケ地周辺から集められて演技させられてますっていう感じが非常にほほえましく、子どものたちの純粋さに溢れている感動的な、私の一番好きな場面。
「神の国はこのようなものたちである」と、そのかわいい子たちをいとおしく、優しい表情で見つめる人間としてのイエス。
こういったキリスト教の教えの根幹にあたる小さきものたちへの「愛」のシーンの普遍性こそが、この映画の素晴らしいところだと思う。
これこそキリスト教の教えがどうこうよりも、信者でないパゾリーニの心をも揺さぶった聖書の一場面であったろうし、同じく信者でない私が見ても感動する場面なのだ。
聖書に懐疑的な人間が、どうしても信じられない奇蹟は淡々と(鞭打ちもなければ、磔で苦しむさまも出てこない)、現代人でも共感できるエピソードはしっかり描く、このバランスが優れているのが、本作の素晴らしいところだ。
また、キリスト教の信仰では、「自らの罪を認める」というのが重要だが、この映画からはガチガチの罪悪感が感じられない。象徴的な場面としては、イエスがムチ打ちと磔で苦しむ場面で最もそれが強く表される。が、映画にこのシーンはない。人類の罪を背負ってイエスは磔刑にされた、というイエスの受難は、ぽっかり抜けているのが興味深い。
http://myvoyagetoitaly.seesaa.net/article/11038795.html
黒と白の対照を最大限に生かした美しい画面。黒の美しさ、白の美しさが心を動かす。
画面は動でなく、静を目指して構成されている。その静は石で作られ直線で象られた建物によってしっかりと支えられている。
そのような静かな美しさに充ち満ちた映像でイエス・キリストの生涯が語られる。
『奇跡の丘』でイエスの起す奇蹟は、ほとんど大道芸のように表現される。パゾリーニは奇蹟の中に聖なるものを示さない。パゾリーニの視線を追うとき、パゾリーニの視線が熱を帯び、炎をあげるのは、イエスが怒りを言葉に表す時だということに気付く。
パゾリーニは言葉の中にイエスを見ているのだ。
イエスの言葉は激しい。イエスの言葉はこう叫んでいる。全てを破壊せよ。私だけを見ろ。私だけを愛せ。
イエスの言葉は静かな美しさに充ち満ちた映像によって支えられている。映像の静かさの背後には激しさがある。その激しさが抑制されているところに生まれているのが『奇跡の丘』の映像の静かさなのだ。だからイエスの激しい言葉を支えることができる。
イエスは手に太い釘を打ち付けられるとき、苦痛の叫び声を上げる。それはキリストに対するパゾリーニの冒涜ではない。そうではなく超人でないイエスに対するパゾリーニの愛なのだ。
パゾリーニはイエスの中に一人の反逆者を見ていると言ったら、たぶん間違っているだろうが、パゾリーニのイエスに対する共感は怒れる反逆者という点にあるのだと僕は感じたことも確かなのだ。
『奇跡の丘』では常に鳥たちの鳴声が聞える。鳥たちの鳴声は、イエスという一人の人間の物語を、人間社会という閉ざされた所ではなく、世界という開かれたところに投げ入れる。イエスは世界と繋がり、人間を超える。いや人間たち全てが世界に投げ入れられているのだ。そこにおいてこそ神がその顔を見せる。
パゾリーニは神を信じていないとしても、絶対的なものを求めている。だからイエスに共感しこのように力の籠った映画を作るのだ
。
これは本当に僕の勝手な感想なのだが、パゾリーニは絶対的なものを求めているが、最後の最後のところで絶対的なものを信じていない。パゾリーニは信じていないものに必死に手を伸ばしている。そう僕は映画が終わったとき感じたのだった。
http://www.ne.jp/asahi/akira/flick/flick/movie/1999/9905.html
管理人
『奇跡の丘』は、『マタイによる福音書』を元に〈無神論者〉のパゾリーニが撮ったキリストの生涯です。日本で最初に公開された記念すべき作品でもあります。キリストはカッコ良かったですね。おいしんさんはよくわかんなかったみたいですけど。
BABA
いや、おいしんもああ見えてなかなか鋭いんだよ。
「にしてもこの役者さんはこんなテンションの高い役を演じてしまって、通常の生活に戻れたんかなあ?」
と書いてたけど、
この役者さん、撮影が終わった後に「自分はキリストだ!」とか言い出して精神病院に入っちゃったらしい。
管理人
……。それは凄いですね。
ヤマネ
この映画、カソリック教会とかは大嫌いだけど、キリストその人は愛しているパゾリーニの気持ちがよく出てますね。
オガケン
革命家としてのイエスだな。
BABA
説教がほとんどアジテーションだもんね。なんか教会から賞をもらった作品らしいけど、細かい事は抜きにしてそれくらいイエスがカッコ良かったってことかな。中盤のマシンガン・トークとかスゴかった。取りあえず眉毛がつながってるし。
管理人
……。それはどうでもいいでしょう。
オガケン
とにかくザックリ感がスゴイ。細かいところはどうでもいいっていうか。終わり方も全部スゴいし。『デカメロン』とか、パゾリーニ扮するジオットが、「夢の方が素晴らしいのに、なぜ絵を描き続けるのだろうか?」でバスっと終わる。
BABA
ホント。もう話終わってるんやから、とっとと終われや! っちゅう映画が多すぎるからね。
オガケン
アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』ってのを見たんだけど、パゾリーニの後に見るとやっぱり終わり方がダラダラしてて参った。
BABA
パゾリーニはとにかくスパッというか、バスッというか、ゴリゴリッとしたところがいい。
http://www.cafeopal.com/reviews/99/dec/reviews991214.html
パゾリーニが何故マタイ伝を基にしたキリストの映画を撮ったのであろうか。
彼が描きたかったのは素朴な民衆を導く者の姿ではないのだろうか。
それは田舎に生きる人々の生活習慣に関心を寄せ、またプロレタリアートの解放を訴え、左翼運動を続けていたパゾリーニ自身の反映――。
であれば『奇跡の丘』は、十二使徒や説教を受ける人々は、田舎の人々やプロレタリアートと見なし、その説教を説いているキリストはパゾリーニ自身として捉えられるのであろうか。
この映画のキリストはまるでアジテーションのように教えを民衆に訴えかける。
特に「山上の垂訓」といわれるシーンでの、たたみかけるような説教は他の介入を許さない。
カメラが捉えるのはアップで映し出されるキリストの険しい表情のみで、それが幾カットも力強く切り返し挿入される。パゾリーニの内面に秘められた熱き魂の叫びのようでもあり、また彼の生き方の姿勢とも見れる。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~satonaka/kiseki.htm
個人的なことになりますが、私がローマの・・・正確にはバチカンのサン・ピエトロ寺院に行ったときに一番驚いたのは、その壮麗さでもなく・・・周囲にお店がいっぱいあったことでした。
ご存知のように、新約聖書にはこんなエピソードが出てきます。
神殿の前で商売をやっていた屋台をキリストが打ち壊し
「ここは聖なる場所だ!金儲けをするところではない!」
有名なシーンですよね?
「よりにもよって、カトリックの総本山の寺院の前で商売かよぉ・・・何故にそんなことを許すの?」
私も絶句してしまったわけです。まさかバチカンの人が聖書を読んだことがないはずもないでしょうし・・・
まさに聖書の言葉ですと、「言葉は聞いたが、内容は理解しなかった。」ということなんでしょうか?バチカンも、なんと罪深い・・・
勿論、宗教だって現実と折り合いを付けないといけない。何といっても現実に存在する人間を救うのが宗教の目的の一つ。
しかし、ものには限度というものがあるはずです。
ということで、どのような宗教にも必ずある時点で原理主義的な運動が起こってくる。
「この宗教の本来の姿だった、精神的で厳しいスタイルに戻ろうよ!」というわけです。
カトリック圏ですと、ポール・ロワイヤル修道院を中心としたジャンセニストが活躍した時期がありました。
ジャンセニストは、今で言うと原理主義者の典型といえるでしょ?
禁欲的で、ある種、教条的。
そもそもイエス・キリストだって、ユダヤ教における原理主義者ですし・・・
「形を守っていればいいわけではないんだ!
周囲の人が許してくれるから、それでいいというものではないんだ!
一人一人の内面が重要なんだ!」
というわけですからね。典型的な原理主義者の発想です。
ロシア正教においても、分離派の運動がありました。
ロシア正教の主流から分離して精神的で厳しい宗教活動を行った一派です。
オペラ・ファンの方はロシアの分離派の問題を扱ったムソルグスキーのオペラ「ホヴァンスティーナ」でご存知でしょう。
分離派はロシア語でラスコリーニコフ。
ラスコリーニコフというとドストエフスキーの「罪と罰」の主人公の名前です。
つまり小説「罪と罰」は「宗教的原理主義者(=分離派)が、金の亡者(=質屋のばあさん)を惨殺するシーン」で始まるわけです。
19世紀のロシアの小説と全く同じシーンで21世紀が始まったことを考えると、
人類は全く進歩してない。昔も今も同じことをやっているだけ・・・
ということが実感できます。
・・・念のため申し上げますが、あの同時多発テロ事件について、アメリカ人が金の亡者だと申し上げているわけではありません。そう思っている人が起こした事件だということです。
さてさて、長い前置きですが、今回取り上げるのはパゾリーニ監督の「奇跡の丘」。
原題を直訳すると「マタイによる福音」で・・・新約聖書のマタイ伝の映画化といえます。
ストーリーはまさにマタイ伝そのもの。
では何故にマタイなの?
何故、ルカやマルコやヨハネではないの?
福音史家にも4人いるわけですからね。その選択における意味もあるでしょ?
どんな観点から、マタイを選択したの?
まずもって、ヨハネは文学的なので映画の原作には向かない。
ヨハネによる福音書は読むものであって、見るものではない。
あとマルコとかルカでもいいのでしょうが、マタイには大きなメリットがあるわけ。
バッハが音楽を付けた「マタイ受難曲」の音楽が使える。
あのすばらしい音楽を使えるのはメリットですよね?マルコやルカだとそういうわけにはいかない。
このパゾリーニ監督の「奇跡の丘」でも、当然のこととしてバッハの「マタイ受難曲」が使われています。 今回はその意図を考えてみたいと思います。
しかし、パゾリーニ監督が聖書のマタイ伝を映画化するに当たって、バッハのマタイ受難曲を使うってそんなにメリットなのかな?
何と言ってもバッハのマタイ受難曲はドイツ語の歌詞。イタリア人には理解できないでしょう。もうひとつ問題があります。バッハはプロテスタントであって、カトリックにしてみれば異端に属するもの。かつては長年にわたる戦争もやっていたわけですから、よりにもよって聖なるキリストを描くに当たって、使いにくい音楽でもあるわけです。
流行音楽だったら、その作り手がプロテスタントに属する人であっても、それほど問題にはならない。しかし、宗教的な題材を描く際には、その作り手の宗教的なバックボーンにも目を向ける必要があるわけ。だから、キリストの受難を、マタイ受難曲を使いながら描いていくスタイルを持つカトリック系の作品となると、ちょっと矛盾している。
しかし、どうやらパゾリーニはあえてプロテスタントの音楽としてバッハを使ったように見受けられます。というのはロシア正教圏からの代表?としてプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」も使われているからです。
プロコフィエフの音楽の使われ方は、ヘロデによる嬰児虐殺のシーンなどで使われています。確かに、その音楽は、死者累々の場面にはふさわしい音楽ですからね。
しかし、そのような場面でも別にプロコフィエフでなくてもいいわけですし、あるいは無理に音楽を付けなくても問題はない。むしろ、あえてプロコフィエフの音楽を使うことにより、ロシア正教圏代表のプロコフィエフと、プロテスタント圏代表のバッハ、そしてカトリック圏代表のモーツァルト(それにウェーベルンも?)の三位一体を狙っていたのでは?
単なるカトリックの範疇を超えて、キリストを描くこと。そのためにはカトリック,ロシア正教,プロテスタント・・・そしてアメリカのゴスペルと様々な文化圏のキリストに関わる音楽を使う・・・そのような魂胆があったように見受けられます。プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」はキリストとは縁がありませんが・・・ロシア圏では宗教曲って昔からあまりありませんものね。
プロテスタント陣営から参加したバッハの音楽ですが、マタイ受難曲のみを使っているわけではありません。ロ短調ミサのラストの部分「ドナ・ノヴィス・パーチェム」やヴァイオリン協奏曲も使われています。ロ短調ミサはプロテスタントのバッハの典礼音楽ということで、これもまた、ちょっと矛盾した存在といますね。
プロテスタントではそのようなミサ曲は使わないんですから。これはプロテスタントとカトリックの橋渡しくらいの意味もあるのでしょう。カトリック圏のウェーベルンがバッハの音楽を編曲したリチェルカーレも同じ意味もあるのでは?
とりあえずここでは「マタイ受難曲」を中心に考えてみることにいたします。
バッハの「マタイ受難曲」は新約聖書のマタイ伝に自由詩やコラールを追加したもの。全曲を演奏するには3時間はかかる超大作です。ですから、映画においてそのマタイ受難曲を使う場合でも「3時間の全曲の中からどの部分を選ぶのか?」という点に注目する必要があります。
パゾリーニはマタイ受難曲から2箇所使っている。
ひとつは「哀れみください。わが神よ!」。
タルコフスキーの作品では「ストーカー」と「サクリファイス」で使われています。
使われるもう一つが「マタイ受難曲」の最後「涙ながらにひざまずき・・・」
2つともマタイ受難曲でも自由詩に属する部分です。聖書の詩句でもなく、コラールでもない。イエスではない民衆の感情を歌った部分といえます。
「哀れみください。わが神よ。」では、イエスを否認したペトロの悲しみが歌われるわけですが、イエスの否認はペテロだけでなく民衆すべての問題ですよね?
そしてマタイ受難曲のラスト「涙ながらにひざまずき・・・」も民衆の感情を歌っているわけです。
ですからこのパゾリーニの「奇跡の丘」では、キリスト本人よりも、キリストを死に追いやった民衆の問題がテーマであるといえるわけです。聖なるものを認めない民衆。
この映画では、キリストが熱く説教するシーンが、長時間にわたって続きます。
「どうして人の目の中のチリを指摘するのに、自分の目に梁があるのに気がつかないのか?」
「彼らは重い荷をくくって、人の方に乗せ、自分は指一本さわろうとしません。」
「宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場で挨拶されたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」
・・・笑っていいのか?悲しんでいいのか?2000年前も21世紀の現在も、人類は全く変わっていませんね。
あるいはこのような言葉もあります。
「愚か者!あなた方は預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って
『私たちが先祖の時代に生きていれば、預言者たちの血を流すような仲間にならなかっただろう。』
と言います。こうして預言者を殺したものたちの子孫だと自分で証言しています。」
この言葉から、大昔より存在する創作する芸術家と、それを外から論評する評論家の関係を想起することは簡単でしょう。評論家っていつもこんな感じですよね?先代の評論家を否定し、同時代の芸術家も否定する・・・これって、典型的な評論家のスタイルです。
昔も今も、そして世界中どこも同じなんですね。パゾリーニ監督はそのような、創作する芸術家としての共感からこの部分を引用したのでしょう。
イエスと民衆の関係から、パゾリーニ監督は芸術家と民衆の問題が提起されているわけです。
実際として、パゾリーニは自分自身とイエス・キリストを重ね合わせている。
1. 父親との微妙な関係。
2. 周囲の人に混乱をもたらす。
3. 神から霊感を受けている。
勿論、最大の共通点は迫害と受難でしょう。
聖書に記述されたキリストの行動を読んでみるとお分かりになるでしょうが、キリストの行動は典型的なカルト宗教のもの。
それこそ、神殿の前で商売をやっていた人を妨害する威力業務妨害をやったり、マジメに漁師をやっている人たちを布教活動に引っ張り込んだり、「持っているお金を全部寄付せよ!」とか言ったり、「家族なんかと関わるな!」と言ったり・・・
しかし本来は宗教というものは現実社会を重視するのではなく、現実を超えた精神的な世界を重視するものですから、現実の生活と齟齬が出て来るのは当然なんですね。
では、それこそオウム真理教の麻原氏も何百年か後には聖人扱いになるの?
それはありませんよ。だって「この世のことより大切なことがある。」という言葉はいいとして、それについて、ちゃんと実行しないとね。
麻原氏のように、この世に富を蓄えたりしては言行不一致ですよね?
また、この世より大切なことがあるのですから、自分の命に拘っていてはダメなんですね。
堂々と・・・あるいは従容と死に赴かないとね。
死に赴くこと・・・受難を受け入れること、これこそ神を受け入れている証でしょ?
裁判でブツブツ言っているようではダメなんですね。ちゃんと黙って死なないと・・・
死んでこそ聖人への道といえるわけです。
これについては、パゾリーニ監督だって十分にわかっていたことでしょう。
パゾリーニ監督が「キリストにならいて」75年に撲殺されたのは、勿論意図的でしょう。
パゾリーニ監督は無神論者だったとか解説されています。
しかし、パゾリーニはキリストには共感を寄せていたわけ。
世の中の不正と戦う同志として・・・
そして聖なるものに殉じる芸術家として・・・
バッハのマタイ受難曲におけるイエスの否認の部分を取り上げることによって、2000年前の民衆がイエスを否認し死に追いやったように、今現在の我々が聖なるものを放擲していることを確認しているわけです。
パゾリーニ監督はデビュー作「アッカトーネ」でもマタイ受難曲のラストを使っています。貧民街の娼婦のヒモが主人公の「アッカトーネ」。あの作品では受難という面が強調されていました。
この「奇跡の丘」では、聖なるものの受難という面だけでなく、「哀れみたまえ、我が神よ。」も使うことにより、聖なるものを受難に追い込む民衆の問題も提起しているわけです。
そしてイエスが捕縛されてから映画の視点は、イエスからむしろ離れる傾向があります。意図的にペテロの視点になったり、ヨハネの視点になったりする。
ペテロやヨハネは12使徒としてキリストにつながるものとしての扱いではなく、精神的な弱さを持つ我々の代表としての扱いです。
この「奇跡の丘」という作品は、キリストを主人公とするより、民衆を主人公としているわけです。だからこそ「マタイ受難曲」で民衆の感情を歌った部分が使われているわけ。
あるいはこのようなセリフがあります。旧約聖書の言葉なのかな?
『耳で聞くとも理解できぬであろう。目で見るとも判別できぬであろう。
人々の心は感覚を失っている。彼らは耳を固くし、目を閉じた・・・』
ほぼ同じようなセリフがタルコフスキー監督の「ストーカー」でもありました。
タルコフスキーの「ストーカー」と、今回のバゾリーニは、同じ音楽を使っているだけでなく、同じようなセリフも登場するわけ。
民衆は神の言葉を聞く意思がなくなっている。
神の啓示を受けた芸術家の言葉を聞く意思がなくなっている。
パゾリーニは、聖なるものを受け入れない民衆に対して怒っている。
ニーチェ流にいう、「神は死んだ!我々が殺してしまった!」そのもの。
パゾリーニの行動と生涯は、神殿の前で商売をしている屋台を打ち壊したイエスと同じ。
彼もゴダールと同じように、聖なるものに殉じる伝統的な存在と言えるでしょう。
まさに「パッション」を受け入れる存在として自分自身を規定している。
昔も今も芸術家がやっていることは同じ。そしてそれを認めない民衆も同じ。
そんな何千年も変わらない人間の姿が、マタイ受難曲の中での選曲で示されているわけです。
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/04-07/04-07-20.htm
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3. 神の子とは古代ユダヤでは父なし子の俗称だった
マリアは「レイプ被害者」説の番組でBBCに抗議
【CJC=東京】処女でイエス・キリストを産んだとされるマリアは、実はレイプ被害者だった、との説を取り上げた英BBCテレビのドキュメンタリー番組『処女マリア』がクリスマス直前の2002年12月22日に放映された。
人気女優らを起用し、マリアの生涯をドキュメンタリー・ドラマ風に追ったもの。
マリアは貧しい無学な女性で、ローマ軍兵士にレイプされてイエスを身ごもったと受け取れる内容で、馬小屋で出産し3人の博士が立ち会ったなどの伝承は間違いとしている。
視聴者から翌日までに500件以上の抗議電話が殺到したという。
共同通信によると、BBC担当者は
「微妙なテーマだが、われわれは番組を支持する。マリアは好意的に描写されていると思う」
と述べた。
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イエスは私生児か?
・・・生前のイエスがユダヤ人からどう見られていたかについて、記そう。
当時のユダヤ人には姓がなかった。
通常は自分の名の次にベン(ヘブル語)もしくはバル(アラム語)をつけ、次に父の名を置いた。
正確ではないが、イエスがヨセフの子なら、イエス・ベン・ヨセフという言い方をする。
この点、ロシヤ人の父称とやや似ている。いわばイワン・イヴァノヴィッチ・イワノフとはイワンの息子のイワンで、もしイワノフという姓がなければイエス時代のユダヤ人と同じ言い方になる。
当然のことだが、私生児には父称はない。トルストイの『復活』で、カチューシャが法廷の人定尋問で父称をきかれ、顔を赤らめて「私生児でございます」という場面があるが、父称のある国では私生児であるか否かが名前を見ただけでわかる。・・・
父称が姓のかわりをする社会で私生児がすぐにわかるのはユダヤ人も同じであった。
ではイエスは一体なんと呼ばれていたのか。
マルコ福音書(六3)に
「・・・この人は大工ではないか。マリアの息子(・・・・・)で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここの私たちと一緒にいるではないか」
という言葉がある。この「マリアの息子」という言葉は私生児に対する軽蔑的な表現であると、シュタウファーはいい、この表現の例をタルムード(ユダヤ教文書)からあげている。
私生児でも敬虔な生活をしている限り、その出生について何も言わないのが彼らの習慣だが、しかしその者が、不敬虔なまたは背教的な生活をしたときは、公然とその出生について誹謗するという。
いわばイエスが普通の敬虔な大工であるときは何もいわないが、柄にもなく会堂で妙な説教などはじめると、途端に「マリアの息子ではないか」といった言葉が出てくる。
こういう誹謗の言葉を後代が福音書に付加するとは思えないから、これは真正の伝承であろう。
さらにシュタウファーはマタイ福音書十一章九節やルカ福音書七章三七節の
「食をむさぼる者、大酒を飲むもの」
というイエスへの誹謗の言葉も、私生児を表すと指摘している。
これらのことは、イエスがヨセフの実子ではなかったこと、いわばヨセフは自分の子と認めず、周囲もそう見ていたことを示している。・・・
では、イエスは私生児なのか。
ユダヤ教ははっきりとイエスを私生児とし、タルムードには
「姦淫の女の息子」
「娼婦の息子」
とさえ言われている。まことにこまったことにマリアは、聖母とされるか姦婦・娼婦とされるかどちらかであって、それ以外に呼びようのない対象になっている。・・・
イエスは終始母マリアに冷たかった。
聖母マリア信仰は、聖書の記述によるのではなく、後にキリスト教信者が作り上げたものである。
それは賛美歌と共に信者を集めるのに大きな役割をはたしたが、イエスの行いとは相容れないものだ。
http://www.kojintekina.com/monthly/monthly60704.html
セム族は「父系社会」で、その名前=アイデンティティは「父**の子」として現されるものでした。
ところがイエスは「ヨセフの子イエス」とは呼ばれないし、その父系もたどれない(マタイ1-16とルカ3-23の系図の不一致を見よ)。
ルカ3-23は「イエスは…人々の考えによれば、ヨセフの子であった」と微妙な言い回しをしています。さらにマルコ3-33は、イエスが「母や兄弟」を拒絶したとは伝えるが、父については何も言わない。
これら全てを考えるなら、イエスは「父なし子」だったのでしょう。「私生児」だったかもしれません。
父系社会の「父なし子」とは、きわめて厳しい運命です。
暮らしが苦しいだけでなく、人からもバカにされる。自己のアイデンティティさえ保持できない立場なのです。
ここで注目すべきことは、古代ユダヤでは、このような「父なし子」は〈天の子=バル・アッバ〉と呼ばれた−ということです。
〈アッバ〉には、天=父=神の意味があります。
想像すれば、人から「父なし子」と嘲笑されて育ったイエスは、「ちくしょう、オレは天の子なんだ!」と言い返していたのではないでしょうか? 劣等感が〈特別な自覚〉へ反転した−というのは、いかにもありそうだと思うのです。
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2006/10/post_77f1.html
●マリアは、ヨセフと結婚する前に、誰か他の男性と関係を持ってイエスを身篭った。つまり、マリアは未婚で私生児を身篭ったティーンエイジャーだった。
しかし、夫となったヨセフは、その子供を父親として認知した。
イエスの「処女降誕」を主張しているのは、マタイ・ルカ福音書のみで、新約聖書のほかの部分には全くない。マタイ・ルカの福音書はあくまでもイエスを神格化するために、「処女懐胎」の思想を生み出した
●マリアが関係したイエスの父親は、ローマ軍の兵士だった。(ギリシャの思想家ケルススが178年頃書いた『真理の言葉』)。
イエスの父親は、ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラという名前で40年間、ローマ軍の兵士として務め、61歳でドイツで亡くなり、墓が1859年にドイツのビンガーブリュックで見つかっている)
●イエスには、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの腹違いの弟四人とマリア、サロメの腹違いの妹二人がいた。
(マルコ福音書)みんなマリアの子であるが、イエスとは父親が異なるー父親はヨセフもしくはその兄弟のクロパと思われる。
ユダヤの戒律により、夫が亡くなった時にその兄弟が跡継ぎとなることが決まっていた。クロパは正式な名前ではなく「呼び名」の可能性が高く、クロパはギリシャ語形で(聖書の中で)何度も登場するアルファイである。
イエスの磔に立ち会い、埋葬に加わった女性三人は、@マグダラのマリアAイエスの母マリアBイエスの妹サロメである。
(ここで「腹違い」と書かれているが、原文か翻訳の間違いであろう。イエスも兄弟姉妹もすべて母親がマリアなら、イエスと「父親違い」が正しいだろう)
●マリアもヨセフも先祖を遡るとソロモンやダビデらイスラエルの王に辿ることができる。つまり、イエスも正統な王家として、王位継承を求めていたのではないか。(つまり、斟酌されるのは、イエスの行動は宗教家としてではなく、政治運動だったのではないか。そのために、反政府勢力として殺害されたのではないか。
弟たちもこの「政治運動」に使徒として参加し)イエスとシモンが磔刑、ヤコブが石打ちの刑というふうに、五人のマリアの息子のうち三人がむごたらしい死を迎えた。
「マルコによる福音書」では、12使徒は、
@ペテロと名付けられたシモン
A猟師ゼベダイの子ヤコブ(大ヤコブ)
Bヤコブの兄弟ヨハネ
Cアンデレ
Dフィリポ
Eバルトロマイ
Fマタイ
Gトマス
Hアルファイの子ヤコブ(小ヤコブ)
Iタダイ
J熱心党のシモン
Kイスカリオテのユダ
であることが書かれています。12使徒の12は必ずしも12人ではなく、イスラエルの部族の総称という説もありますが、イエスの異父弟のヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの四人が12使徒だとしたら、ヤコブはHのアルファイの子ヤコブ、Iのタダイは、ヨセかユダの別名、シモンはJの熱心党のシモンのことでしょう。
http://blog.goo.ne.jp/goo1956718/e/d36c199613e1dd41f56cd591aa4ae444
ドイツ(ビンガーブリュックの町)にはイエスの実父のお墓があるとも伝えられています。
イエスはタルムード(ユダヤの律法とその解説)によると、ローマ兵の射手(姓:Panthera)とマリアの間の私生児でした。
教会はそれを否認しましたが、パンテラのお墓が発見されたことにより、タルムードの中のこの話の信 憑性が高くなりました。
墓碑銘によると、パンテラは西暦9年までシドンというフェニキアの町(現在レバノン)に派遣されていて、その後ライン地方へ転勤させられたそうです。
http://kobe.cool.ne.jp/daini_densho/page010.html
新約聖書は、四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)と使徒行伝、パウロのロマ書とかれの書翰集からなっている。
実際には、現在にキリスト教は、イエスの死後の弟子であるパウロの解釈によって成り立っており、キリスト・パウロ教である。
しかもこれはローマ帝国で公認された内容(コンスタンチヌス大帝のニケーア会議)であり、このとき採択されず破棄または追放された文書を研究して原始キリスト教を復元しようとする研究もある。
福音書も矛盾だらけである。
イエスの父ヨハネの系図は、アブラハムからつづいているが、マタイ伝とルカ伝で大きく異なっている。しかもイエスは母マリアの処女懐胎によるものであれば、父ヨハネの系図はまったく無意味であろう。
わたしはこのことを中学生時代に気付き、大いに悩んだ。ただし、武者小路実篤か倉田百三の本で、当時ユダヤを占領しているローマ兵によってマリアは犯されたのだという説があることを知り、妙に納得した。
当時、わたしの町も進駐軍の支配下にあり(敗戦当初は英連邦軍もいた)、近くの進駐軍の集会所には、夕方ともなると、焼跡の娘たちが群がり、兵士から貰うパン、缶詰、ビスケットなどを代償として売春をしていた。
パンパン・ガールという。松本清張の『ゼロの焦点』の世界である。
当時、小学校2年生のわたしは、「鬼畜米英」の兵士たちに、なぜお姉ちゃんたちが嬌声をあげて群がっているのか意味が分からず、夕方になると見物に行っていた。駅前で書店を経営していた祖母は、どこの娘か分かるらしく、見に行っちゃあいけないと云っていた。
その集会所(敗戦前は帝国海軍の将校集会所)は空襲で全焼したが、幅50メートルの川を隔てた我が家は、被災を免れた。落下してきた焼夷弾を屋根に上っていた祖父がモップのようなもので叩き、庭の池に落下させ、不発に終わった。ただしこれは祖父の武勇伝で、どこまで本当か分からないが、その焼夷弾筒はながらく池の傍においてあった。
もしその焼夷弾で我が家が炎上すれば、20歳前後の3人の叔母たちは、パンパン・ガールになっていたかも知れない。焼け残ったから、我が家は母が娘時代の着物などを売って食糧を購入し、一家の飢えを凌いだのだが、もし焼けていれば、女は身を売るしかなかったのだ。
身を売ればやがて私生児が生まれる。混血児である。混血児はわが町にも多くいたと思う。
そのためか、イエスが占領軍のローマ兵とマリアとの私生児、混血児であり、だからこそ、狭いユダヤ民族主義を脱し、愛を基調とする新教を提唱したというのは、妙に納得できた。
http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/hikka100505.htm
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4. 魔術師イエス _ イエスの実像
キリストの実在を示す直接的史料、アレキサンドリアでキリストの名前が刻まれた世界最古の壷が発見【Technobahn 2008/10/2 21:04】
イエス・キリストに関して直接言及した記述が残されたものとしては世界最古の壷がアレキサンドリアの海中遺跡で発見されていたことが1日までに、この壷の発見に成功した発掘調査グループの発表によって明らかとなった。
この壷の発見に成功したの水中考古学の分野では世界的権威となるフランス人考古学者のフランク・ゴディオ氏を中心とする発掘調査グループ。
発掘調査グループはアレキサンドリアの海底遺跡の発掘の過程でこの壷を発見。その後の調査によりこの壷は紀元前2世紀から紀元1世紀のものであること、更に、壷の表面には古代ギリシャ語で
「DIA CHRSTOU O GOISTAIS(魔術師たるキリストによるもの」という意味)」
という文字が刻み込まれていることを突き止めた。
発掘調査グループではこの壷はキリストについて直接言及した史料としては世界最古のものとした上で、この壷によってキリストが実在した人物であること、更に、
キリストの同時代にはキリストは「魔術師(magician)」的存在として見なされていた貴重な史料だと述べている。
新約聖書「マタイによる福音書」には「東方のマギ(magi=magusの複数形、英語のmagicの語源)」と呼ばれる賢者達が壷を使って儀式を行ったという記述が残されており、発掘調査グループでは今回、発見された壷に刻まれた「GOISTAIS(magician)」という表現もこのマタイ伝にあるマギの由来する可能性を指摘、その上で当時のマギは壷にキリストの名前を刻み込むことで彼らの神秘的能力を正当化していたのではないかと見ている。
キリストと同時代のキリストに関わる史料の発見に成功したことは、キリスト教文明を知る上で近代考古学史上、稀に見る成果となりそうだ。
http://kurokamenews.blogspot.com/2009/06/blog-post_30.html
要するに、イエスは同時代人からはグノーシス派の始祖_魔術師シモンと同じ様に捉えられていたという事なのですね:
魔術師シモンの明暗
イエスの伝道時代から、十字架に架かって後弟子達がローマまで福音を述べ伝えた頃まで、ローマではイエスキリストは無名でした。当時有名な人物に魔術師シモンがいました。
シモン・マグス(偉大なシモンと言う意味)と呼ばれた人物は、サマリアの小さな村で生まれたと言われてます。洗礼者ヨハネの弟子だったとも言われますが、ヨハネが斬首された後、アレクサンドリアの町で哲学と魔術を学び、その後サマリアに戻り伝道活動を行い、後にフェニキアからローマに移動して活動した宗教家であり、魔術師シモンで知られます。
ローマ皇帝ネロから宮廷魔術師の地位を得たとも伝えられますが、真偽は不承です。ただし、ローマ帝国内では相当知られた人物であったのは、間違いないようです。
魔術師シモンと聞いてピンと来る人は、クリスチャンだけでしょうか?シモンはキリスト教の使徒たちと同時代人で、それゆえに新約聖書にも登場します。
使徒言行録著者ルカの記述では、シモンはフィリポから洗礼を受けた、ペトロに聖霊を授けられる力を金で売ってほしいと持ちかけて叱責され反省した事になっています。ルカらしい書き方で、魔術師シモンは悔い改めたように、やんわりとさりげなく説明を入れてますが、実際は少し違うようです。
シモンの教義は、様々な文書に断片的な形で残っているようです。
「エンノイア」と呼ばれると呼ばれる至高神が最初の流出を起こし活動を開始、その神より劣るものが世界を創造し支配している。
だからこの世界は悪に満ちたものであり、人間の魂が物質世界にとじこめられてしまった。
シモンは、こうした物質に閉じ込められた魂の解放者であり、解放のための「呼びかけ」を行った。
彼の信徒達は、彼を「至高の力」を示す神の体現者であったと伝える。
肉体に閉じ込められている霊が高まれば、人間は神と同等の力を持つという考え方を人々に説いた。
初期キリスト教史をかじった人ならすぐに分かると思いますが、グノーシス派の源流の一つと理解できます。
霊的に高次元であると自負した彼は、様々な魔術を見せます。
彼の魔術は、病気の癒し、死者の復活、悪魔の呼び出し、石をパンに変える、空を自由に飛ぶ、岩をくぐり抜ける、様々な獣に変身できたと言われます・・・
まさに奇跡のオンパレードですね。
シモンはヘレナと呼ばれる女性を常に随行させていました。
キリスト教界側の記録では、
「彼女はシモンによって売春宿から身請けされた女性である。
彼の信者達は、この女をシモンから生み出された第一の思考の流出、エンノイアであると言う。
この女はあらゆる人間の母であり、天使をも創造した。
そして天使たちは世界を創造したが、やがてヘレナを妬むようになり、彼女を人間の肉体の中に幽閉した。
こうして彼女は物質的な肉体に幽閉されたまま、何世紀もの間、転生を続けたが、売春婦として生まれ変わっていたところに、救済者となって天から降りてきた神であるシモンによって見出され解放された。
ヘレナを幽閉した天使たちは、世界を支配するためにこの世を悪く治めた。
彼ら天使の首長は、旧約聖書の神と同一である(デミウルゴス)。
そこで、こうした事態を正すために、至高神たるシモンは降臨した。
彼はまずヘレネを覚醒させ解放する。
そして、全ての人類に救いをもたらそうとしている。
この救世主をユダヤ教徒の一部は受難したと見なしているが、本当は受難したのではない」
と伝えます。
シモンの教義は弟子たちにも引き継がれ、2世紀頃にはその哲学も高度化していったと言われ、シリア・アレクサンドリア型のグノーシス思想に分類されるそうです。
この思想は一部キリスト教集団にも取り込まれ、異端宗教となります。
4世紀ごろまでには完全に消滅したと推測しますが、キリスト教界が危機感を持って排除した歴史でもあったようです。
その証拠に、新約聖書外典のペトロ行伝は、かなりの部分が魔術師シモンとペトロの対決で描かれてます。ただし、ペトロ行伝はほとんどが大衆読物の域を出ない、トンデモ系の書物ですが・・・
内容は、サマリアではシモンがペトロに聖霊を授ける力を金で買おうとして(聖職売買Simonieの言葉はここから生まれた)断られ、空中浮遊の魔術をシモンが見せれば、ペトロは祈りでシモンを落下させて骨折。
シモンがローマに渡ると、ペトロも追いかけて行き、最後は皇帝ネロの前で奇跡対決。
シモンが空中飛行を行うがペトロの力で塔から落ちて死んでしまう。
・・・キリスト教側の宣伝が入っている所がミソですが、お笑い系の話とも言えそうです。
結局、奇跡と区別される魔術に反対する宣伝材料として(キリスト教内部で)使われたのは間違いないと思いますが、魔術の時代は、シモン・マグスが聖なる道に落ちて滅びた時に葬られたと言えるのかも知れません。
結局、最後にキリスト教が残ったのは、書物志向としての聖書や文書類があり、貧者救済の教義が広く受け入れられた事にあったと考えます。
シモンが魔術を見せた事はかなり民間伝説では有名だったようですが、その真偽は調べようがありません。
しかし、当時の時代背景を考えると、奇跡や魔術が当たり前の時代と思われますし、福音書著者が奇跡伝承資料を盛り込んだ一部には、シモン教団との対決があったのかもと想像するのは、多少なりと根拠があると私は受け止めておりますが・・・
結局、魔術師シモンはキリスト教側の反感から付けられた名前かもしれません。
実際は、宗教家哲学者であったと思います。キリスト教のライバルであったのは間違いないでしょう。
余談ですが、ゲーテが書いた『ファウスト』に登場する魔術師ファウストは、魔術師シモンをモデルにしたという話も有ります。
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/appendix-01.htm
即ち、イエスは革命家でも大工でも教祖でもなかった。
トマス福音書やユダの福音書のイエスが本当の姿だったのです:
303 :神も仏も名無しさん:2008/11/15(土) 06:10:51 ID:tucU7Ix0
トマスによる福音書はなんだか哲学的で仏教にも通じる思想があるね。
キリストは仏教思想に触れえる文化圏に居たことが分かっているし
ユダヤ教に比べ仏教の影響臭い部分もあるし
本来の思想を色濃く残してるのかもしれないな。
仏教でもブッダ死後、理解の浅い弟子達は徐々にバラモン教的に教えを歪めたが
同じようにキリスト以後本来のユダヤ教的なものへの退化は程度のほどはあれ起こっているだろうし。
330 :神も仏も名無しさん:2009/04/01(水) 23:26:53 ID:tY2wbx3O
正典にも、天に上げられたとか書いてあるし、グノーシスの霊と物質の二元は仕方が無いと思うんだな。
現代のように人工衛星が太陽系の端まで行ってないし、物質も最小の単位はエネルギーとか知らないから
驚愕するのは、トマス福音書の説く迷妄の無さだよ。
物質と霊は一元、御国や新しい世は、天にも海にもなく自己を見出せば地上に拡がっていると説く。
インドの聖者、ラーマ・クリシュナやラマナ・マハルシの説く不二一元論の境地にも読み取れるところが凄い。
331 :神も仏も名無しさん:2009/04/02(木) 18:52:46 ID:CdQJdcon
よく読めば、トマス福音書はグノーシスとも違うよ。
グノーシスは物質界が悪で、旧約の創造主が否定されたらしいから
トマス福音書は、どちらかといえばヴェーダンタの不二一元の境地だと思うけど、
もし、仮にそうなら、正典が何故あそこまで外界に救いを求めるような教義なんだろう?
と不思議に感じるけど、最古のマルコ福音書が受難から40年も経てから記されたり、
その長い空白期間と大量に処分されたグノーシス文書にその答えがあるのかも知れない。
332 :神も仏も名無しさん:2009/04/03(金) 21:21:58 ID:LoXAcH/N
旧約とあまりに矛盾したり、ユダヤ教の改宗者や律法やら色々とあったのだろうけど、そりゃユダヤ教のメシアだったわけだからそれでも第三者が選別するべきではなかったね。
恐れ多いからと全ての資料を後世に残してくれる気概が欲しかった。
マルコ福音の記者がグノーシス文書の記者と同一人物かも知らないし、そんなことも現在なら色々とわかるから、宣教のために奇跡や奇抜なことを大袈裟に説いていただけかも知れないし
下手に選別して処分なんてしたから、終末論や再臨信じてカルトがのさばるわけだし、
トマス福音書が仮にイエスの真意ならカルト要素無いわけだから相当重要なことだと思うね。
333 :神も仏も名無しさん:2009/04/03(金) 22:16:05 ID:nrjuKGw9
この世界が完成された物なら人類は死ぬことも無く、飢えること無く、互いに憎み合うこともない 世界を造った者が意図した事なら、憎しみ故か、怠慢故か。造った者に人類の救済の責任を「媚びずに」当然の事として求めた形だと思う。
他の宗教が神に媚びるなかグノーシスの毅然とした対決姿勢は「神」に依存し過ぎる状況に決別を採択した結果だと考える。
334 :神も仏も名無しさん:2009/04/07(火) 13:06:08 ID:Iwgw2a/G
トマス福音書のイエス語録は本物っぽい
物質界には救いがないとしたグノーシス派の人たちが、ヨガマスターの真我意識、ニルヴィカルパ・サマーディなんて知ってるわけないから、語録で似たような境地を表現しているので本物ではないのかと思っている。
337 :神も仏も名無しさん:2009/04/08(水) 17:53:53 ID:7k58Tugo
ユダヤ教主流の地に、イエス降臨後なぜグノーシスのような禁欲的な仏教みたいなのが
不自然に一大勢力になるほどに現れたのか
トマス福音書はクリスチャンが思っている以上に外典どころか、貴重なイエスを知る一級資料だと思うけどね。
354 :神も仏も名無しさん:2009/07/28(火) 11:58:32 ID:1aBKH4bk
釈迦の周りに居たような求道者でもなく、寄せ集めの5,6千人くらいだから
トマス福音書やヨハネ福音書の使徒が記した梵我一如思想が難解すぎて理解されなかったのだろうね
ユダヤ教と違いすぎるのもあるから、グノーシスがいきなり現れた歴史がそれを証明してるような
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1147765258/
神の子の本当の意味は
マルコ3-33
わが母、兄弟とは誰ぞ
誰にても神の御心を行うものは、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり。
ヨハネ 10-34
われ言ふ、汝らは神なり。
かく神の言を賜りし人々を神と云えり。
本当の神の国は
トマスの福音書113
神の国は地上に広がっている。 そして、人々はそれを見ない。
トマスの福音書3
神の国はあなたたちの内側にある。
常に自分を認識する人は、神の国を見出すであろう。
ヨハネの福音書18-35
神の国はこの(外なる)世界には属していない。
ルカ17-20
神の国は汝らの中に在るなり。
トマスの福音書113
「どの日に神の国は来るのでしょうか。」
「それは待ち望んでいるうちはくるものではない。」
トマスの福音書22
イエスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。
そして彼は弟子たちに言われた。
”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。
彼らは彼に言った。
”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。
イエスは彼らに言われた。
”あなたがたがふたつのものを ひとつにするとき、
そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、
そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、
そしてひとつの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、ひとつの像の代わりにひとつの像をつくるとき、
あなたがたは神の国に入るであろう”。
http://ime.st/emikikuchi.exblog.jp/i40
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ユダの福音書
キリストはユダに対し、自分達を取り巻く圧迫が最終局面に至っている事を語り、それへの「最終的な打開策」を打ち明け、最も信頼する弟子と考える彼に対し「最後の助手としての役割」を果たす事を要求した。
「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」
これは秘密の啓示である・・・。
イエスは過越しの祭りの3日前にユダにこう語られた・・・
イエスは地上に出現されたとき、人々を救う奇跡を行われた。
正しい道を歩くものもいれば、誤った道を歩く者もいたので、12人の使徒を集められた。
イエスは時にご自身としてではなく、子供として姿をお見せになった。
福音書の初めの部分で、イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。 この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。
そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。
イエスがユダヤに居たある日の事・・・
12人の使徒たちは信心深く食事をしていた。
イエスは祈りを捧げている使徒たちに近付き笑い出した。
彼は使徒たちの間違った信仰を笑っていた。
使徒たちは世界の創造主を崇拝していた。
だが、ユダだけは違っていた
イエスは言う・・・
イエス「なぜ怒るのだ?あなたたちの中で強い心をを持つ者が立って私に示すがよい・・・・
己の内にある真の魂を」
ユダを除く使徒たち「私たちは強い心を持っています!」
しかし、言葉には出しても本当に立ち上がる者はいなかった。
・・・イスカリオテの『ユダ』を除いて・・・。
ユダはたった一人立ち上がってイエスに向かってこう言った。
ユダ「私は、あなたが何者か存じています・・・
あなたを送られた方の名は畏れ多くて申し上げられません。」
イエスはユダに近付きいて彼にこう言う・・・
イエス「他の者たちから離れよ・・・私はあなたに王国の秘密を教えよう。
そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の
心には想像さえ及ばぬ世界。その国に名前はない。」
■『キリスト』が『ユダ』に自分を『ローマ』に売るように諭す場面。
キリスト「You will ge greater than all athers. Judas, you will sacrifice the man that clothes me. 」
(あなたは誰よりも素晴らしい。ユダよ。犠牲にするのだ。私の魂の衣ある者を。)
■『キリスト』が『天国の秘密』を『ユダ』に明かす場面。
キリスト「Step away from the others, and I shall tell you the mysteries of kingdam. It is a great and boundless realm which no eye of an angel has ever seen, no thought of the heart has ever comprehended.」
(他の者から離れよ。あなたに教えよう。王国の秘密を。そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の心には想像さえ及ばぬ世界。)
http://wildoldboy.cocolog-nifty.com/wild_old_boy/2006/04/the_gospel_of_j_eab8.html
イエスはユダに語ります。
「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」
「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」
「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう
――そして彼らの上に君臨するだろう」
ユダは他の弟子たちから猛反発を受ける幻視を見たと語ります。
「幻視の中で、私は12人の弟子から石を投げつけられ、[ひどい]迫害を受けていました」
「ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった」
地上の人間たちは雲から聞こえる声を耳にします。
福音書の記述は、次のような場面で唐突に終わっています。
「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、
『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。
______________
マタイ28-13
その弟子ら夜きたりて、我らの眠れる間に彼(イエスの亡骸)を盗めリ
此の話ユダヤ人の中にひろまりて、今日に至れり。
イエスの復活については、ペテロら弟子たちがイエスの遺体を墓から運び出して、イエスの復活をふれ回ったとする解釈(自作自演説)もありますが、どうにも不自然です。
ペテロらの自作自演なら、福音書によって記述がかなり食い違う点も説明が困難です。目撃証言や伝聞をつなぎ合わせていったから、あのような食い違いが起きたのであり、自作自演なら矛盾なくきれいに話がつながったはずでしょう。
イエスの遺体を墓から運び出させたのは誰でしょうか。
イスカリオテのユダしか考えられません。
イスカリオテのユダは、他の弟子たちがイエスの真意をようやく悟り始めたことを知りますが、弱い彼らは時が経てば逃げてしまうだろう、そうなれば、イエスは忘れ去られ、その教えは地上から消滅します。
イスカリオテのユダにとって、それは耐えられないことでした。
彼は、イエスの復活を演出します。墓からイエスの遺体を密かに運び出させました。
早朝、空になった墓を見て、イエスの遺体に香油を塗りに来た婦人たちは悲鳴を上げて逃げ出します。やがてイエス復活の噂がエルサレムの街のあちこちで囁かれるようになりました。
それを見届けたイスカリオテのユダは首を吊って自殺したのではないでしょうか。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/juda.html
ユダの福音書解読
◎イスカリオテのユダは、最高位の弟子だった。
イスカリオテのユダの福音書が出ることになりました。
出版前なのでナショナルジオグラフィックの広告ページの情報しかありませんが、気がついたことを、挙げてみます。(【】内は、ナショナルジオグラフィックのプレスリリース和訳からの引用です。)なお、プロットだけからの考察なので、全体が出るとまた内容が変わるかもしれませんが。
私の見方では、イスカリオテのユダは、神を十分に承知していたし、イエスを官憲に引き渡すことの意義と結果を十分に承知していたし、それは単にイエスから指示されたから実行したというものではないように思います。
1.イスカリオテのユダの悟境
【イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。】
「お前たちの神」とは、自分とは別の存在として位置する神という認識のことを言っているのであり、自らのうちに神があるのを知らないと指摘しているのだと思う。
イエスがこの私を直視し、真の姿を理解せよと迫ったところは、バガヴァッド・ギータで、全能の聖者クリシュナが弟子のアルジュナに同じ言葉で迫ったのと同じ響きがある。全能の神の顕現として現れたイエスが、もう少しで覚醒しようとしている弟子たちに「神のありのままを目をそらすことなく見なさい」と詰め寄っているのである。
この話の中では、ユダが裏切り者でなかったことよりは、ユダの悟境が他の弟子より進んでいたことが確認されていたことのほうが意義は大きい。
【イエスがユダにこう語りかける場面もあります。「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」】
これは、長い講義が終わったから、一息ついて空の星を見ようというものではなく、ひとつの冥想状態の中で、見なさいと指示しているもので、「雲とその中の光」とは、神そのもののこと、それを囲む星々とは、実際の空の星に仮託された神々の一柱のことだろう。
「目を上げ」というのは、肉体の目を上げることではないだろう。いずれにせよこれで、ユダが13人の弟子の中で最上位であったことがわかる。
死海文書によると洗礼のヨハネはエッセネ派に属し、イエスもエッセネ派に属していたと推測されているが、イエスもクンダリーニ・ヨーガ系の技法が伝わるその集団のメンバーと見られる。
クンダリーニ・ヨーガ系では、神々の姿をありありとイメージするトレーニングがよく行われている。
星々とは、イメージ対象の神々であり、ここは、その冥想過程の中の出来事を書いたものではないかと思う。
師弟相承のルールというものは、師匠を超えるレベルの弟子を出すことが師匠の責務であるということ。禅の場合でも、一人でも半人でも本物の弟子を出すことが師匠の最低限の責務であり、かつ師家(老師)以上の力量の弟子を出さねばならないことになっている。
イエスの場合でも、その例外ではなく、自分が神を知っている師家である以上は、自分以上の力量のある弟子を育成することが、覚者としての責務であったと考えられ、イスカリオテのユダが正に力量ある弟子であったと考えられる。
また師匠を超える弟子を出すというのは、当時の考え方からすれば、革命的なことであり、一人一人が神の顕現であるニューエイジ(アクアリアン・エイジ)の考え方の先駆と見ることができる。
【ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった。】
光輝く雲は、例の荘子の見た混沌であり、神の姿であり、それに入って行ったというのは、神と合一したことを言うと考えられ、これは見神や見性などという軽いものではなく、神人合一を指しているように思う。これでユダの力量のほどが証明されている。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/99ffcbce33957c1622488284f1e54d21
◎ユダのカルマは昧(くら)まず
一度神を見るという体験をした者は、いかに師のいいつけとはいえ悪事を為すことはできない。そこで次の疑問が湧き起こる。イエスが「自分を官憲に引き渡せ」と指示したのは悪行であったのか、師に対しては絶対服従のユダがそれに従ったとしても、それは悪行ではなかったか。
【最も重要なくだりは、イエスがユダにこう語る部分です。「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」】
イエスが十字架にかかるが、それと同時にユダも裏切り者の汚名を甘受するとともに、聖者殺しのカルマという重荷を負った。裏切り者の汚名は1700年を経て晴らされようとしているが、聖者殺しの意義は別格である。
神を知る者でない限り、その重荷を受けることはできないと見て、イエスはユダにそれを指示し、ユダもそれを了解したのだろう。間接的ではあるものの、聖者殺しの引き金を引くというのは、その行為のカルマの重さを考えれば、創造主と同等の意識レベルにある人でないと、容易になし得る業ではない。自分というものが少しでも残っていたら、たちまち落ちてしまう。従ってユダも自らの残りの人生・転生を、この神業に捧げたと考えられるのである。
ここは、古代インドのバガヴァッド・ギータで、聖者クリシュナが王子アルジュナに、人(敵)を殺すことを勧めた場面を彷彿とさせるものがある。
全体の構図としては、覚醒者イエスが、その力量に匹敵するほどの弟子ユダを養成し得たこと、そしてユダも、イエスを官憲に引き渡すことの意義を十分に理解していて、それを行ったというものではないだろうか。
この福音書は、【彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。ユダは彼らが望むとおりのことを答え、いくらかの金を受け取ると、イエスを引き渡した。】で終わっている。
イエスが自らを官憲に引き渡せというような指示をしたというのは予想外であったが、ユダもある程度自らの意思によって官憲に引き渡したのだと思う。そしてユダは、師たるイエスの指示したとおり、官憲に引き渡し、その秘密の指示を生涯他に漏らすことなく守り切って死んでいった(自殺とされる)が、ユダの高潔さもまた並みはずれたものである。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/92d2b6b940b5e978ea3082e03f241177
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神とは何か?
ユングが、1920年頃だったかアメリカ・インディアンのところに行くと、みんな太陽を拝んでいるのです。
ユングは感心して見ていた。いろいろ訊きたかったもので、昼頃になって長老のところに行き、
「あなた方は太陽を拝んでいるけれども、太陽は神なのか」
と訊いた。そしたら長老が笑って、
「あんなのは神ではない」
と言ったらしいのです。ユングが
「朝、あなた方は太陽を拝んでいたじゃないか。 神様じゃないのに拝んでいたのか」
と言うと、インディアンの人々はユングの質問の意味がわからなくなってくる。
話をしていてだんだんわかってきたことは、要するに朝拝んでいるときだけは太陽は神様なのです。
「太陽は神であるのか、ないのか」という我々の考え方は、悪いところでもあり、いいところでもある。我々は、どうしてもそういう考え方をしてしまうのですね。
今の話で言えば、西洋の発想では「薔薇は神ですか、神ではありませんか」と訊いて、神だったら拝む、神でなかったら拝まないということになるというふうに、何でも二つに分けて考えようとするのです。
インディアンの話を聞いてユングがわかったことは、こういうふうに書いているのですが、
太陽が昇る瞬間のすべて、つまり、それを見ている私、共にいるみんな、それからおそらく雲など、そのすべてのものがものすごく内的な感動を生みます。
それこそが「神」だと言うのです。
だから、これが神だと指し示せるものではなく、生きているということが神の体験になっているから拝むのです。
それをどうしても近代人は、拝んでいる対象が神だと間違ってしまう。
ここが非常に大事なところです。
今でも日本人には名残が残っています。
山に登ったら大きな木にしめ縄がしてあったり、大きな岩にしめ縄がしてあったりする。
あれは、別に木や岩が神様なのではなく、大きい木や石に対面したときに感じるすべて、これが神なんです。
区別して考えるのは我々の癖であって、昔の人はそういう考え方ではなく、全体的なものを神と感じていたのです。
http://ime.st/www.geocities.co.jp/Milkyway/4017/meigen/kamisyu.html
C・Gユングは、人間の心というものは人それぞれ違うが、深層意識の中には万人共通のファクターがいくつも存在している、とした。
そのファクターのことを元型(アーキタイプ)と呼び、代表的な元型は影(シャドウ)、太母(グレートマザー)、アニマ、アニムス、老賢者(オールドワイズマン)の4つである。
大雑把に言えば、、これらの元型が外界の刺激を受けて互いに反応しあい、人の思考・行動パターンを左右する、というわけだ。
対馬の神は海の中に住んでいる。その姿は子ども、老人、そして蛇体の神として感得された。潜水漁法で生計を立てていた水人(海女、海士)たちの崇める神の名を海童磯良という。
磯良のイメージが老翁や童子の姿になるのは、ユングの深層心理学の立場から見ても老賢者(Old Wise Man)の元型に関連づけてみることができる。
それはわれわれの普遍的、集合的意識の表現されたものであると考えられる。 老賢者は自己性(Self)=超越的自己=神が人格化されてイメージされるもので、われわれに知恵を与え、その人の進むべき道を示唆する指導者的な役割を果たす元型である。
http://ime.st/homepage3.nifty.com/yahoyorodu/kaidoh.htm
http://ime.st/contest.thinkquest.jp/tqj2000/30110/ryu2.html
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イエスと弟子の会話
過ぎ越しの祭りの三日前、弟子たちが着席し感謝の祈りを捧げていると、
やってきたイエスが声を立てて笑う。
弟子たち「先生、感謝の祈りを捧げる私たちを笑うのですか?
正しきことを行っていたのですが。」
イエス「あなた方のことを笑ったのではありません。
あなた方は自らの意思によってではなく、
あなた方の神をたたえるために、祈りを捧げているのです。」
《注:生かされていることに対する感謝は、この世の低位の神に捧げる祈り。
グノーシスの叡智はこの世は低位の神が造ったものと考えている。
イエスは上位の神・世界から使わされた存在》
弟子たち「先生あなたは・・・・私たちの神の子です。」
イエス「どうして、あなた方は私をわかっているというのですか?
本当のことを言いますが、いかなる世代でも、
私をわかるという人はいないでしょう。」
弟子たちは怒りを覚えた。
イエス「なぜあなた方は怒りを感じるのですか?
あなた方の内にいる神・・・完全なる人を取り出して私の眼前に立たせなさい。」
弟子全員「私にはそれだけの勇気があります。」
口ではそういいながらも誰もイエスの前には立とうとしなかった。
そのときユダだけがイエスの前に立った。
しかし彼はイエスの眼をまっすぐに見る勇気は持たなかった。
ユダ「あなたが誰か、何処から来たのか私は知っています。
あなたは不滅の王国バルベーロー(あらゆるものの神聖なる母である)から来ました。」
「私にはあなたを遣わした方の名前を口にするだけの価値がありません。」
イエス「来なさい。
いまだかって何人も眼にしたことのない秘密をお前に教えよう。
それは果てしなく広がる永遠の地だ。
そこには天使たちでさえ見たことがなく、あまりにも広大で、
目に見えず、いかなる心の思念によっても理解されず、
いかなる名前でも呼ばれたことのない『み国』がある。」
二人だけになるとイエスはユダにこう告げる。
イエス「お前はそこ(み国)に達することは出来るが、大いに嘆くことになるだろう。」
ユダ「そういったことについてあなたはいつ私に教えてくれるのですか?」
イエスは謎のごとく立ち去ってしまう。
翌朝、戻ってきたイエスは弟子たちの前に再び姿を現す。
そしてユダに向かって言う。
イエス「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、
すべての弟子たちを超える存在になるだろう。」
弟子たち「今この地上の王国には存在しないが、私たちよりすぐれ、神聖なあの世代とは何を意味しているのですか?」
イエスは笑い出すとその秘密の場所と時に到達するのがいかに難しいか、詳しく語った。
イエス「死をまぬかれない生まれのものは、そこへはいけない。」
「あなた方が見た、生贄の牛は、あの祭壇の前であなた方に道を
誤らせる人々なのです。」
「恥知らずにも、私の名において実らぬ木々を植える人々がいる。」
「あらゆるものの主であり、命じることのできる主が、
最後の日にその人々を裁くであろう。」
ユダ「先生あの世代は一体どのような実りをもたらすのですか?」
イエス「人間の魂はやがて死んでしまうものです。
だが、み国の時を成就した人々の霊魂は彼らから離れます。
肉体は死んでも魂は生き続け、天に上げられるでしょう。」
ユダ「その他の世代の人々は何をもたらすのですか?」
イエス「実りを得たければ岩の上に種をまくことはできません。」
時が過ぎ、ユダは自分の見た幻について質問する。
ユダ「先生、(他の弟子たち)皆の話に耳を傾けるなら、私の話も聞いてください。 とても奇妙な幻を見たのです。」
イエスは再び笑う
イエス「13番目の聖霊であるお前が、
どうしてそんなに躍起になるのですか?
それはそれとして、さあ、話してごらんなさい。
私はお前の話を信じるでしょう。」
ユダ「あの12人の弟子たちが私に石を投げて(私のことをひどく)
虐げるのです。
(大きな家)を見ました・・・。
たくさんの人々がそこへ向かって走っていきます。・・。
家の中央には(大勢の)人がいます。
先生、私を連れて行ってあの人々の中に加えてください。」
イエス「ユダよ、お前の星はお前を道に迷わせてしまった。
死をまぬかれない生まれのものは、お前が見たあの家の中へ入るに値しない。
あそこは聖なる人々のために用意された場所なのだから。」
ユダ「先生やはり私の種(霊的な部分)は支配者たちの手中にあるというのですか?」
イエス「来なさい・・・。だが『み国』とその世代の人々を見れば、
お前は深く悲しむことになるでしょう。」
ユダ「私がそれを知るとどんな良いことがあるのでしょうか?
あなたはあの世代のために、私を特別な存在にしたのですから。」
イエス「お前は13番目(の聖霊)となり、後の世代の非難の的となり
-―そして彼らを支配するだろう。
最後の日には、聖なる世代へと(旅立つ)
お前を彼らは罵るだろう。」
イエスは自分を引き渡し犠牲となるようユダに求めているのだ。
そのわけは徐々に明らかになっていく。
イエスの地上における人としての生は、うわべだけのものに過ぎない。
その人間は内に存在する霊を、覆い隠す衣装のようなものである。
イエスは永遠なる存在であり、より高次の神の一部である。
人間とは異なる偉大な存在であり不滅なのだ・・・・・・・。
イエス「見なさい、前にも告げたように雲とその中の光、
それを囲む星星を見なさい。
みなを導くあの星が、お前の星だ。」
こうしてユダは自分の特別な立場を確信する。
そして重大な瞬間がやってくる。
新約聖書の四福音書の記述にも劣らない、強烈で劇的な瞬間だ。
――ユダは眼を上げると明るく輝く雲を見つめ、その中へと入っていった。――
http://mandalaya.com/juda.html
これも参考にして下さい:
独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!!
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html
リヒアルト・ヴィルヘルムと易
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/606.html
東洋ではどんな分野の達人でも超能力者
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/607.html
西洋の達人が悟れない理由
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/608.html
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http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html
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