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ダンマパダ
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投稿者 富山誠 日時 2013 年 1 月 21 日 13:12:56: .ZiyFiDl12hyQ
 

(回答先: 釈迦の本当の教え 投稿者 富山誠 日時 2013 年 1 月 20 日 07:31:26)

【真理のことば】ダンマパダ<中村 元訳>

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【 第一章 ひと組みずつ 】
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1 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。──影がそのからだから離れないように。

3 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(ヤ)むことがない。

4 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。

5 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

6 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

7 この世のものを淨らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。──弱い樹木が風に倒されるように。

8 この世のものを不淨であると思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。──岩山が風にゆるがないように。

9 けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制が無く真実も無いのであるから、黄褐色の法衣にふさわしくない。

10 けがれた汚物を除いていて、戒律をまもることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。

11 まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(マコト)に達しない。

12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことでないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実(マコト)に達する。

13 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。

14 屋根をよく葺いてある家には雨が洩れ入ることが無いように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することか無い。

15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。

16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が淨らかなのを見て、喜び、楽しむ。

17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦悩のところ(=地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。

18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。

19 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。──牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。

20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る。

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【 第二章 はげみ 】
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21 つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22 このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。

23 (道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。これは無上の幸せである。

24 こころはふるい立ち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法にしたがって生き、つとめはげむ人は、名声が高まる。

25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流もおし流すことのできない島をつくれ。

26 智慧乏しき愚かな人々は放逸(ホウイツ)にふける。しかし心ある人は、最上の財宝(タカラ)をまもるように、つとめはげむのをまもる。

27 放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。

28 賢者が精励修行によって怠惰をしりぞけるときには、智者の高閣に登り、自から憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下す。──山上にいる人が地上の人々を見下すように。

29 怠りなまけている人々のなかで、ひとりつとめはげみ、眠っている人々のなかで、ひとりよく目醒めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いてかけるようなものである。

30 マガヴァー(インドラ神)は、つとめはげんだので、神々のなかでの最高の者となった。つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることはつねに非難される。

31 いそしむことを楽しみ放逸におそれをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでもすべて心のわずらいを、焼きつくしながら歩む。──燃える火のように。

32 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。

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【 第三章 心 】
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33 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする。──弓師が矢の弦を直くするように。

34 水の中の住居(スミカ)から引き出されて陵の上になげすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。

35 心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。

36 心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。

37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛からのがれるであろう。

38 心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されないならば、さとりの智慧は全からず。

39 心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。

40 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城廓のように(堅固に)安立して、知慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。──しかもそれに執著することなく。

41 ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木片のように、投げ棄てられて。

42 憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。

43 母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらにすぐれたことを、正しく向けられた心がしてくれる。


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【 第四章 花にちなんで 】
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44 だれがこの大地を征服するであろうか? だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか? わざに巧みな人が花を摘むように。善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?

45 学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。わざに巧みな人が花を摘むように、学びにつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。

46 この身は泡沫(ウタカタ)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへいくであろう。

47 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、──

48 花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。

49 蜜蜂は(花の)色香を害をずに、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村に行くときは、そのようにせよ。

50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。

51 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。

52 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りあるものがあるよえに、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。

53 うず高く花を集めて多くの華鬘(ハナカザリ)をつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。

54 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。

55 栴檀、タガラ、青蓮華、ヴァッシキー──、これら香りのあるものどものうちでも、徳行の香りこそ最上である。

56 タガラ、栴檀の香りは微かであって、大したことはない。しかし徳行ある人々の香りは最上であって、天の神々にもとどく。

57 徳行を完成し、つとめはげんで生活し、正しい知慧によって解脱した人々には、悪魔も近づくよし無し。

58 大道に棄てられた塵芥の山堆の中から香しく麗しい蓮華が生ずるように。

59 塵芥にも似た盲(メシイ)た凡夫のあいだにあって、正しく目ざめた人(ブッダ)の弟子は知慧もて輝く。


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【 第五章 愚かな人 】
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60 眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。

61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。

62 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

63 もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。

64 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙(サジ)が汁の味を知ることができないように。

65 聡明な人は瞬時(マバタキ)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。──舌が汁の味をただちに知るように。

66 あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(カタキ)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(コノミ)を結ぶ。

67 もし或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

68 もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。

69 愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。

70 愚かな者は、たとい毎月(苦行者の風習にならって一月に一度だけ)茅草の端につけて(極く小量の)食物を摂るようなことをして、(その功徳は)真理をわきまえた人々の十六分の一にも及ばない。

71 悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。

72 愚かな者に念慮(オモイ)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮はかれの好運(シアワセ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。

73 愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行って供養を得ようと願うであろう。

74 「これは、わたしのしたことである。在家の人々も出家した修行者たちも、ともにこのことを知れよ。およそなすべきことなすべからざることとについては、わたしの意に従え」──愚かな者はこのように思う。こうして欲求と高慢(タカブリ)とがたかまる。

75 一つは利得に達する道であり、他の一つは安らぎにいたる道である。ブッダの弟子である修行僧はこのことわりを知って、栄誉を喜ぶな。孤独の境地にはげめ。


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【 第六章 賢い人 】
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76 (おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。──隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。

77 (他人を)訓戒せよ。、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人から疎まれる。

78 悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ。

79 真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。

80 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。

81 一つ岩の塊が風に揺るがないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。

82 深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。

83 高尚な人々は、どこにいても、執著することが無い。快楽を欲してしゃべることが無い。楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。

84 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。

85 人々は多いが、彼岸(カナタノキシ)に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。

86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。

87 賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独のうちに、喜びを求めよ。

88 賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。

89 覚りのよすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。

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【 第七章 真 人 】
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90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆をのがれた人には、悩みは存在しない。

91 こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれはあの家、この家を捨てる。

92 財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

93 その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの足跡は知り難い。──空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。

94 御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人──このような境地にある人を神々でさえも羨む。

95 大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎しみ深く、(深い)湖は汚れた泥がないように──そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。

96 正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人──そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。

97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。

98 村でも、林にせよ、低地にせよ、平地にせよ、聖者の住む土地は楽しい。

99 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれは快楽を求めないからである。

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【 第八章 千という数にちなんで 】
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100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。

101 無益な語句よりなる詩が千もあっても、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

102 無益に語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。

103 戦場において百万人に勝つよりも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、じつに最上の勝利者である。

104、105 自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。

106 百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。

107 百年のあいだ、林の中で祭祀(マツリ)の火につかえる人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。

108 功徳を得ようとして、ひとがこの世で一年間神をまつり犠牲(イキニエ)をささげ、あるいは火にささげ物をしても、その全部をあわせても、(真正なる祭りの功徳の)四分の一にも及ばない。行ないの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている。

109 つねに敬礼を守り、年長者を敬う人には、四種のことがらが増大する。──すなわち、寿命と美しさと楽しみと力とである。

110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。

112 怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。

113 物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。

114 不死(シナナイ)の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

115 最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きるほえがすぐれている。


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【 第九章 悪 】
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116 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。

118 人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことがつみ重なるのは楽しみである。

119 まだ悪い報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときは、悪人はわざわいに遭う。

120 まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときは、善人は幸福(サイワイ)に遭う。

121 「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。

122 「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。

123 同行する仲間が少ないのに多くの財を運ばねばならぬ商人が、危険な道を避けるように、また生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。

124 もしも手に傷が無いならば、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。傷の無い人に、毒は及ばない。悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。

125 汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。

126 或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。

127 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。

128 大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。


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【 第十章 暴 力 】
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129 すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

130 すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

131 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

132 生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。

134 こわれた鐘のように、声をあららげないならば、汝は安らぎに達している。汝はもはや怒り罵ることがないからである。

135 牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。

136 しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。──火に焼きこがれた人のように。

137、140 手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう、──(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡(ホロビ)と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

141 裸の行も、髻(マゲ)に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲(ウズクマ)って動かないのも、──疑いを離れていない人を浄めることはできない。

142 身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。

143 みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか? 144 鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。

145 水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。


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【 第十一章 老いること 】
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146 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか?──世間は常に燃え立っているのに──。汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?

147 見よ、粉飾された形体を!(それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。

148 この容色は衰えはてた。病いの巣であり、脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。

149 秋に投げすてられた瓢箪(ヒョウタン)のような、鳩の色のようなこの白い骨を見ては、なんの快さがあろうか?

150 骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。

151 いとも麗しい国王の車も朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々の徳は老いることがない。善い立派な人々は互いにことわりを説き聞かせる。

152 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知慧は増えない。

153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

155 若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、魚のいなくなった池にいる白鷺のように、痩せて滅びてしまう。

156 若い時に、財を獲ることなく、清らかな行ないをまもらないならば、壊れた弓のようによこたわる。──昔のことばかり思い出してかこちながら。

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【 第十二章 自 己 】
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157 もしもひとが自己を愛しいものと知るならば、自己をよく守れ。賢い人は、夜の三つの区分のうちの一つだけでも、つつしんで目ざめておれ。

158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。

159 他人に教えるとおりに、自分でも行なえ──。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのええるであろう。自己は実に制し難い。

160 自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

161 自分がつくり、自分から生じ、自分から起った悪が知慧悪しき人を打ちくだく。──金剛石が宝石を打ちくだくように。

162 極めて性の悪い人は、仇敵がかれの不幸を望むとおりのことを、自分に対してなす。──蔓草(ツルクサ)が沙羅の木にまといつくように。

163 善からぬこと、己れのためにならぬことは、なし易い。ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。

164 愚かにも、悪い見解にもとづいて、真理に従って生きる真人・聖者たちの教えを罵るならば、その人は悪い報いが熟する。──カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。

165 みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

166 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の目的を熟知して、自分のつとめに専念せよ。


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【 第十三章 世の中 】
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167 下劣なしかたになじむな。怠けてふわふわと暮らすな。邪な見解をいだくな。世俗のわずらいをふやすな。

168 奮起てよ。怠けてはならぬ。善い行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

169 善い行ないのことわりを実行せよ。悪い行ないのことわりを実行するな。ことわりに従って行なう人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

170 世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

171 さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺(タンデキ)するが、心ある人はそれに執著しない。

172 また以前は怠りなまけていた人でも、のちに怠りなまけることが無いなら、その人はこの世の中を照らす。──あたかも雲を離れた月のように。

173 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。──雲を離れた月のように。

174 この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。

175 白鳥は太陽の道を行き、神通力による者は虚空(ソラ)を行き、心ある人々は、悪魔とその軍勢にうち勝って世界から連れ去られる。

176 唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。

177 物惜しみする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人は分かちあうことを喜んで、そのゆえに来世には幸せとなる。

178 大地の唯一の支配者となるよりも、天に至るよりも、全世界の主権者となるよりも、聖者の第一階梯(カイテイ)(預流果)のほうがすぐれている。


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【 第十四章 ブッダ 】
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179 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。ブッダの境地はひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

180 誘なうために網のようにからみつき執著をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘い得るであろうか?

181 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は世間から離れた静けさを楽しむ。神々でさえもかれを羨む。

182 人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。

183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。

185 罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しいところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。──これがもろもろのブッダの教えである。

186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」としるのが賢者である。

187 天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ。

188 人々は恐怖にかられて、山々、林、園、樹木、霊樹など多くのものにたよろうとする。

189 しかしこれは安らかなよりどころではない。これは最上のよりどころではない。それらのよりどころによってはあらゆる苦悩から免れることはできない。

190、191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知慧をもって、四つの尊い真理を見る。──すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、(3)苦しみの超克(チョウコク)と、(4)苦しみの終減(オワリ)におもむく八つの尊い道(八聖道)とを(見る)。

192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免れる。

193 尊い人(=ブッダ)は得がたい。かれはどこにでも生れるのではない。思慮深い人(=ブッダ)の生れる家は、幸福に栄える。

194 もろもろのみ仏の現われたまうのは楽しい。正しい教えを説くのは楽しい。つどいが和合しているのは楽しい。和合している人々がいそしむのは楽しい。

195、196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でもそれを計ることができない。

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【 第十五章 楽しみ 】
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197 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。
怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。

198 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮そう。

199 貪っている人々のあいだにあって、患い無く、大いに楽しく生きよう。貪っている人々のあいだにあって、むさぼらないで暮らそう。

200 われわれは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(ハ)む者となろう。

201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。

202 愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、増悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすにぎにまさる楽しみは存在しない。

203 飢えは最大の病いであり、形成せられた存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。

204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

205 孤独(ヒトリイ)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過も無くなる、──真理の味をあじわいながら。

206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。

207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。──仇敵とともに住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい。──親族に出会うように。

208 よく気をつけていて、明らかに知慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、英知ある人に親しめよ。──月がもろもろの星の進む道にしたがうように。


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【 第十六章 愛するもの 】
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209 道に違(タゴ)うたことになじみ、道に順(シタガ)ったことにいそしまず、目的を捨てて快いことだけを取る人は、みずからの道に沿って進む者を羨むに至るであろう。

210 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。

212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

214 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

215 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

216 妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。妄執を離れたならば、憂いは存しない。どうして恐れることがあろうか。

217 徳行と見識とをそなえ、法にしたがって生き、真実を語り、自分のなすぺきことを行なう人は、人々から愛される。

218 ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、(流れを上る者)とよばれる。

219 久しく旅に出ていた人が遠方から無事に帰って来たならば、親戚・友人・親友たちはかれが帰って来たのを祝う。

220 そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。


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【 第十七章 怒 り 】
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221 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

222 走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。(<御者>とよぶにはふさわしくない。)

223 怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。

224 真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。

225 生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんでいる聖者は、不死の境地(クニ)におもむく。そこに至れば、憂えることがない。

226 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。

227 アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

228 ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

229 もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

230 その人を誰が非難し得るだろうか? かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。神々もかれを称讃する。梵天でさえもかれを称讃する。

231 身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎んでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。

232 ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎んでおれ。語(コトバ)による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。

233 心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。心について慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。

234 落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。このようにかれらは実によく己れをまもっている。

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【 第十八章 汚 れ 】
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235 汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には旅の資糧(カテ)さえも存在しない。

236 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、天の尊い処に至るであろう。

237 汝の生涯は終りに近づいた。汝は、閻魔王の近くにおもむいた。汝には、みちすがら休らう宿もなく、旅の資糧も存在しない。

238 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚れをはらい、罪過がなければ、汝はもはや生と老いとに近づかないであろう。

239 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、──鍛冶工が銀の汚れを除くように。

240 鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なうように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。

241 読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋(イエ)が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる。

242 不品行は婦女の汚れである。もの惜しみは、恵み与える人の汚れである。悪事は、この世においてもかの世においても(つねに)汚れである。

243 この汚れよりもさらに甚だしい汚れがある。無明こそ最大の汚れである。修行僧らよ。この汚れを捨てて、汚れ無き者となれ。

244 恥をしらず、烏のように厚かましく、図々しく、ひとを責め、大胆で、心のよごれた者は、生活し易い。

245 恥を知り、常に清きをもとめ、執著をはなたれ、つつしみ深く、真理を見て清く暮す者は、生活し難い。

246 247 生きものを殺し、虚言(イツワリ)を語り、世間において与えられないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺する人は、この世において自分の根本を掘りくずす人である。

248 人よ。このように知れ、──慎みがないのは悪いことである。──貪りと不正とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。

249 ひとは、信ずるところにしたがって、きよき喜びにしたがって、ほどこしをなす。だから、他人のくれた食物や飲料に満足しない人は、昼も夜も心の安らぎを得ない。

250 もしひとがこの(不満の思い)を絶ち、根だやしにしたならば、かれは昼も夜も心のやすらぎを得る。

251 情欲にひとしい火は存在しない。不利な骰(サイ)の目を投げたとしても、怒りにひとしい不運は存在しない。迷妄にひとしい網は存在しない。妄執にひとしい河は存在しない。

252 他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。──狡猾な賭博師が不利な骰(サイ)の目をかくしてしまうように。

253 他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている。

254 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。

255 虚空には足跡が無く、外面的なことを気にかけるならば、<道の人>ではない。造り出された現象が常住であることは有り得ない。真理をさとった人々(ブッダ)は、動揺することがない。

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【 第十九章 道を実践する人 】
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256 あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との両者を見きわめる人。

257 粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。

258 多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、──かれこそ<賢者>と呼ばれる。

259 多く説くからとて、それゆえにかれが道を実践している人なのではない。たとい教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人──かれこそ道を実践している人である。

260 頭髪が白くなったからとて<長老>なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いぼれた人」と言われる。

261 誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。

262 嫉みぶかく、吝嗇(ケチ)で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。

263 これを断ち、根絶やしにし、憎しみをのぞき、聡明である人、──かれこそ「端正な人」とよばれる。

264 頭を剃ったからとて、いましめをまもらず、偽りを語る人は、<道の人>ではない。欲望と貪りにみちている人が、どうして<道の人>であろうか?

265 大きかろうとも小さかろうとも悪をすべてとどめた人は、もろもろの悪を静め滅ぼしたのであるから、<道の人>と呼ばれる。

266 他人に食を乞うからとて、それだけでは<托鉢僧>なのではない。汚らわしい行ないをしているならば、それでは<托鉢僧>ではない。

267 この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。

268 269 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤りにかけてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

270 生きものを害うからとて<聖者>なのではない。生きとし生けるものどもを害わないので<聖者>と呼ばれる。

271 272 わたしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥すことによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消え失せない限りは、油断するな。

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【 第二十章 道 】
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273 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦)がもっともすぐれている。もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちで<眼ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。

274 これこそ道である。(真理を)見るはたらきを清めるためには、この他に道は無い。汝らはこの道を実践せよ。これこそ悪魔を迷わして(打ちひしぐ)ものである。

275 汝らがこの道を行くならば、苦しみをなくすことができるであろう。(棘が肉に刺さったので)矢を抜いて癒す方法を知って、わたくしは汝らにこの道を説いたのだ。

276 汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。

277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

280 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな知慧によって道を見出すことがない。

281 ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。

282 実に心が統一されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな知慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。

283 一つの樹をを伐るのではなくて、(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。

284 たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。──乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。

285 自己の愛執を断ち切れ、──池の水の上に出て来た秋の蓮を手で断ち切るように。静かなやすらぎに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。

286 「わたしは雨期にはここに住もう。冬と夏とにはここに住もう」と愚者はこのようにくよくよと慮って、死が迫って来るのに気がつかない。

287 子どもや家畜のことに気を奪われて心がそれに執著している人を、死はさらって行く。──眠っている村を大洪水が押し流すように。

288 子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死に捉えられた者を、親族も救い得る能力がない。

289 心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。

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【 第二一章 さまざまなこと 】
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290 つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ。

291 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆にまつわれて、怨みから免れることができない。

292 なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。

293 常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけている人々には、もろもろの汚れがなくなる。

294 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の武家の王をほろぼし、(主観的機官と客観的対象とあわせて十二の領域である)国土と(「喜び貪り」という)従臣とをほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

296 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に仏を念じている。

297 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に法を念じている。

298 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常にサンガ(修行者のつどい)を念じている。

299 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、昼も夜も常に身体(の真相)を念じている。

300 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も不傷害を楽しんでいる。

301 ゴータマの弟子は、いつもよく覚醒していて、その心は昼も夜も瞑想を楽しんでいる。

302 出家の生活は困難であり、それを楽しむことは難しい。在家の生活も困難であり、家に住むのも難しい。心を同じくしない人々と共に住むのも難しい。(修行僧が何かを求めて)旅に出て行くと、苦しみに遇う。だから旅に出るな。また苦しみに遇うな。

303 信仰あり、徳行そなわり、名声と繁栄を受けている人は、いかなる地方におもむこうとも、そこで尊ばれる。

304 善き人々は遠くにいても輝く、──雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない、──夜陰に放たれた矢のように。

305 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。

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【 第二二章 地 獄 】
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306 いつわりを語る人、あるいは自分でしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、──この両者は死後にはひとしくなる、──来世では行ないの下劣な業をもった人々なのであるから。

307 袈裟を頭から纒っていても、性質(タチ)が悪く、つつしみのない者が多い。かれら悪人は、悪いふるまいによって、悪いところに(地獄)に生まれる。

308 戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食らうほうがましだ。

309 放逸で他人の妻になれ近づく者は、四つの事がらに遭遇する。──すなわち、禍をまねき、臥して楽しからず、第三に非難を受け、第四に地獄に墜ちる。

310 禍をまねき、悪しきところ(地獄)に墜ち、相ともにおびえた男女の愉楽はすくなく、王は重罰を課する。それ故にひとは他人のなれ近づくな。

311 茅草でも、とらえ方を誤ると、手のひらを切るように、修行僧の行も、誤っておこなうと、地獄にひきずりおろす。

312 その行ないがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行ないなるものもあやしげであるならば、大きな果報はやって来ない。

313 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断乎として実行せよ。行ないの乱れた修行者はいっそう多く塵をまき散らす。

314 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。

315 辺境にある、城壁に囲まれた都市が内も外も守られているように、そのように自己を守れ。瞬時も空しく過ごすな。時を空しく過した人々は地獄に墜ちて、苦しみ悩む。

316 恥じなくてよいことを恥じ、恥ずべきことを恥じない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。

317 恐れなくてもよいことに恐れをいだき、恐れねばならぬことに恐れをいだかない人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。

318 避けねばならぬことを避けなくてもよいと思い、避けてはならぬ(=必ず為さねばならぬ)ことを避けてもよいと考える人々は、邪な見解をいだいて、悪いところ(=地獄)におもむく。

319 遠ざけるべきこと(=罪)を遠ざけるべきであると知り、遠ざけてはならぬ(=必らず為さねばならぬ)ことを遠ざけてはならぬと考える人々は、正しい見解をいだいて、善いところ(=天上)におもむく。


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【 第二三章 象 】
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320 戦場の象が、射られた矢にあたっても堪え忍ぶように、われはひとのそしりを忍ぼう。多くの人は実に性質(タチ)が悪いからである。

321 馴らされた象は、戦場にも連れて行かれ、王の乗りものともなる。世のそしりを忍び、自らをおさめた者は、人々の中にあっても最上の者である。

322 馴らされた騾馬は良い。インダス河のほとりの血統よき馬も良い。クンジャラという名の大きな象も良い。しかし自己(オノレ)をととのえた人はそれらよりもすぐれている。

323 何となれば、これらの乗物によっては未到の地(=ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。

324 「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。捕らえられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。

325 大食いをして、眠りをこのみ、ころげまわって寝て、まどろんでいる愚鈍な人は、大きな豚のように糧を食べて肥り、くりかえし母胎に入って(迷いの生存をつづける)。

326 この心は、以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今やわたくしはその心をすっかり抑制しよう、──象使いが鉤(カギ)をもって、発情期に狂う象を全くおさえつけるように。

327 つとめはげむのを楽しめ。おのれの心を護れ。自己を難処から救い出せ。──泥沼に落ち込んだ象のように。

328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念いをおちつけて、ともに歩め。

329 しかし、もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができないならば、国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め。

330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ヒトリ)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。──林の中にいる象のように。

331 事がおこったときに、友だちのあるのは楽しい。(大きかろうとも、小さかろうとも)、どんなことにでも満足するのは楽しい。善いことをしておけば、命の終るときに楽しい。(悪いことをしなかったので)、あらゆる苦しみ(の報い)を除くことは楽しい。

332 世に母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。世に修行者を敬うことは楽しい。世にバラモンを敬うことは楽しい。

333 老いた日に至るまで戒しめをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな知慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。

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【 第二四章 愛 執 】
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334 恣(ホシイママ)のふるまいをする人には愛執が蔓草(ツルクサ)のようにはびこる。林の中で猿が果実(コノミ)を探し求めるように、(この世からかの世へと)あちこちにさまよう。

335 この世において執著のもとであるこのうずく愛欲のなすがままである人は、もろもろの憂いが増大する。──雨が降ったあとにはビーラナ草がはびこるように。

336 この世において如何ともし難いこのうずく愛欲を断ったならば、憂いはその人から消え失せる。──水の滴が蓮華から落ちるように。

337 さあ、みなさんに告げます。──ここに集まったみなさんに幸あれ。欲望の根を掘れ。──(香しい)ウシーラ根を求める人がビーラナ草を掘るように。葦が激流に砕かれるように、魔にしばし砕かれてはならない。

338 たとえ樹を切っても、もしも頑強な根を断たなければ、樹が再び成長するように、妄執(渇愛)の根源となる潜勢力をほろぼさないならば、この苦しみはくりかえし現われ出る。

339 快いものに向って流れる三十六の激流があれば、その波浪は、悪しき見解をいだく人を漂わし去る。──その波浪とは貪欲にねざした想いである。

340 (愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、知慧によってその根を断ち切れ。

341 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。

342 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ執著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。

343 愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。それ故に修行僧は、自己の離欲望んで、愛欲を除き去れ。

344 愛欲の林から出ていながら、また愛欲の林に身をゆだね、愛欲の林から免れていながら、また愛欲の林に向って走る。その人を見よ! 束縛から脱しているのに、また束縛に向って走る。

345 346 鉄や木材や麻紐でつくられた枷(カセ)を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、──それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。
かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。

347 愛欲になずんでいる人々は、激流に押し流される、──蜘蛛がみずから作った網にしたがって行くようなものである。思慮ある人々はこれをも断ち切って、顧みることなく、すべての苦悩をすてて、歩んで行く。

348 前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。

349 あれこれ考えて心が乱れ、愛欲がはげしくうずくのに、愛欲を淨らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆を堅固たらしめる。

350 あれこれの考えをしずめるのを楽しみ、つねに心にかけて、(身体などを)不浄(キヨカラヌモノ)であると観じて修する人は、実に悪魔の束縛の絆をとりのぞき、断ち切るであろう。

351 さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。

352 愛欲を離れ、執著なく、諸の語義に通じ諸の文章とその脈絡を知るならば、その人は最後の身体をたもつものであり、「大いなる知慧ある人」と呼ばれる。

353 われはすべてに打ち勝ち、すべてを知り、あらゆることがらに関して汚されていない。すべてを捨てて、愛欲は尽きたので、こころは解脱している。みずからさとったのであって、誰を[師と]呼ぼうか。

354 教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えの妙味はすべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。妄執をほろぼすことはすべての苦しみうち勝つ。

355 彼岸にわたることを求める人々は享楽に害われることがない。愚人は享楽のために害われるが、享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人を害うように自分も害う。

356 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は愛欲によって害われる。それ故に愛欲を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

357 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は怒りによって害われる。これ故に怒りを離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

358 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は迷妄によって害われる。それ故に迷妄を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

359 田畑は雑草によって害われ、この世は人々は欲求によって害われる。それ故に欲求を離れた人々に供養して与えるならば、大いなる果報を受ける。

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【 第二五章 修行僧 】
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360 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。

361 身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。

362 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、──その人を<修行僧>と呼ぶ。

363 口をつつしみ、思慮して語り、心が浮わつくことなく、事がらと真理とを明らかにする修行僧──かれの説くところはやさしく甘美である。

364 真理を喜び、真理を楽しみ、真理をよく知り分けて、真理にしたがっている修行僧は、正しいことわりから堕落することがない。

365 (托鉢によって)自分の得たものを軽んじてはならない。他人の得たものを羨むな。他人を羨む修行僧は心の安定を得ることができない。

366 たとい得たものは少なくても、修行僧が自分の得たものを軽んずることが無いならば、怠ることなく清く生きるその人を、神々も称讃する。

367 名称とかたちについて「わがもの」という想いが全く存在しないで、何ものも無いからとて憂えることの無い人、──かれこそ<修行僧>とよばれる。

368 仏の教えを喜び、慈しみに住する修行僧は、動く形成作用の静まった、安楽な、静けさの境地に到達するであろう。

369 修行僧よ。この舟から水を汲み出せ。汝が水を汲み出したならば、舟は軽やかにやすやすと進むであろう。貪りと怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。

370 五つ(の束縛)を断て。五つ(の束縛)を捨てよ。さらに五つ(のはたらき)を修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、<激流を渡った者>とよばれる。

371 修行僧よ。瞑想せよ。なおざりになるな。汝の心を欲情の対象に向けるな。なおざりのゆえに鉄丸を呑むな。(灼熱した鉄丸で)焼かれるときに、「これは苦しい!」といって泣き叫ぶな。

372 明らかな知慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな知慧が無い。精神の安定統一と明らかな知慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

373 修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。

374 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅とを正しく理解するに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとって喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。

375 これは、この世において明らかな知慧のある修行僧の初めのつとめである。──感官に気をくばり、満足し、戒律をつつしみ行ない、怠らないで、淨らかに生きる善い友とつき合え。

376 その行ないが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を減するであろう。

377 修行僧らよ。ジャスミンの花が萎れた花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ。

378 修行僧は、身も静か、語(コトバ)も静か、心も静かで、よく精神統一をなし、世俗の享楽物を吐きすてたならば、<やすらぎに帰した人>と呼ばれる。

379 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

380 実に自己は自分の主(アルジ)である。自己は自分の帰趨(ヨルベ)である。故に自分をととのえよ。──商人が良い馬を調教するように。

381 喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。

382 たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。

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【 第二六章 バラモン 】
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383 バラモンよ。流れを断って。勇敢であれ。諸の欲望を去れ。諸の現象の消滅を知って、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知る者であれ。

384 バラモンが二つのことがら(=止と観)について彼岸に達した(=完全になった)ならば、かれはよく知る人であるので、かれの束縛はすべて消え失せるであろう。

385 彼岸(カナタノキシ)もなく、此岸(コナタノキシ)もなく、彼岸・此岸なるものもなく、恐れもなく、束縛もない人、──かれをわれはバラモンと呼ぶ。

386 静かに思い、塵垢(チリケガレ)なく、おちついて、為すべきことをなしとげ、煩悩を去り、最高の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

387 太陽は昼にかがやき、月は夜に照し。武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。

388 悪を取り除いたので<バラモン>(婆羅門)と呼ばれ、行ないが静かにやまっているので<道の人>(沙門)と呼ばれる。おのれの汚れを除いたので、そのゆえに<出家者>と呼ばれる。

389 バラモンを打つな。バラモンはかれ(=打つ人)にたいして怒りを放つな。バラモンを打つものには禍がある。しかし(打たれて)怒る者にはさらに禍がある。

390 愛好するものから心を遠ざけるならば、このことはバラモンにとって少なからずすぐれたことである。害する意(オモイ)がやむにつれて、苦悩が静まる。

391 身にも、ことばにも、心にも、悪い事を為さず、三つのところについてつつしんでいる人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

392 正しく覚った人(=ブッダ)の説かれた教えを、はっきりといかなる人から学び得たのであろうとも、その人を恭しく敬礼せよ、──バラモンが祭の火を恭しく尊ぶように。

393 螺髪を結んでいるからバラモンなのではない。氏姓によってバラモンなのでもない。生れによってバラモンなのでもない。真理と理法とをまもる人は、安楽である。かれこそ(真の)バラモンなのである。

394 愚者よ。螺髪を結うて何になるのだ。かもしかの皮をまとって何になるのだ。汝は内に密林(=汚れ)を蔵して、外側だけを飾る。

395 糞掃衣をまとい、痩せて、血管があらわれ、ひとり林の中にあって瞑想する人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

396 われは、(バラモン女の)胎から生れ(バラモンの)母から生れた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは「<きみよ>といって呼びかける者」といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

397 すべての束縛を断ち切り、恐れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

398 紐と革帯と網とを、手網ともども断ち切り、門をとざす閂(カンヌキ)を滅ぼして、めざめた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

399 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

400 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわれは<バラモン>とよぶ。

401 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、緒の欲情に汚されない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

402 すでにこの世において自分の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

403 明らかな知慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最後の目的を達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

404 在家者・出家者のいずれとも交らず、住家がなくて遍歴し、欲の少ない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

405 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さずまた殺させることのない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

406 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあさて執著しない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

407 芥子粒が錐(キリ)の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

408 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

409 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

410 現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

411 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

412 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

413 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

414 この障害・険道・輪廻(サマヨイ)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、疑惑なく、執著することなくて、心安らかな人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

415 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

416 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生存の尽きた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

417 人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

418 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った英雄、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

419 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、よく行きし人、覚った人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

420 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを滅ぼしつくした真人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

421 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

422 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望の無い人・沐浴者・覚った人(ブッダ)、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。

423 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/damma-all-text.htm  

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コメント
 
01. 2013年1月21日 13:29:48 : W18zBTaIM6

**法句経**   【ダンマパダ】真理のことば

岩波書店「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元著より
http://seijyaku.fc2web.com/hou.htm


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ダンマパダ(法句経)

阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 ダンマパダ聖典(法句経)

1 対なるものの章

1.1 チャックパーラ長老の事例

1.(1) 諸々の法(事象)は、意(おもい)を先行とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。もし、汚れた意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、そののち、彼に、苦しみが従い行く――〔荷を〕運ぶ〔牛〕の足跡に、車輪が〔付き従う〕ように。

1.2 マッタクンダリの事例

2.(2) 諸々の法(事象)は、意を先行とし、意を最勝〔の因〕とし、意をもとに作られる。もし、清らかな意で、あるいは、語り、あるいは、為すなら、そののち、彼に、楽しみが従い行く――影が離れないように。

1.3 ティッサ長老の事例

3.(3) 「〔彼は〕わたしを罵った。〔彼は〕わたしを打った。〔彼は〕わたしに勝った。〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕、しかして、彼らが、彼のことを怨むなら、彼らの怨みは静まることがない。

4.(4) 「〔彼は〕わたしを罵った。〔彼は〕わたしを打った。〔彼は〕わたしに勝った。〔彼は〕わたしから奪った」〔と〕、しかして、彼らが、彼を怨まないなら、彼らの怨みは止み静まる。

1.4 カーラ女夜叉の事例

5.(5) まさに、〔怨みにたいし〕怨みをもって〔為すなら〕、諸々の怨みは、この〔世において〕、いついかなる時も、静まることがない。しかしながら、〔怨みにたいし〕怨みなきをもって〔為すなら〕、〔諸々の怨みは〕静まる――これは、永遠の法(真理)である。

1.5 コーサンビーの者たちの事例

6.(6) しかしながら、他者たちは、〔わたしたちが滅び行く存在であることを〕識知しない。わたしたちは、ここに、〔自らが滅び行く存在であることを識知して、自らを〕制するのだ。しかして、彼らが、そこに、〔自らが滅び行く存在であることを〕識知するなら、そののち、諸々の確執は静まる。

1.6 マハーカーラ長老の事例

7.(7) 浄美の随観者として〔世に〕住する者(不浄のものを「美しく価値がある」と見る者)を、諸々の〔感官の〕機能(根)において〔自己が〕統御されていない者を、さらには、食について量を知らない者を、怠惰で精進に劣る者を、まさに、彼を、悪魔が打ち負かす――風が、力の弱い木を〔倒す〕ように。

8.(8) 不浄の随観者として〔世に〕住する者(不浄のものを「美しくなく価値がない」と見る者)を、諸々の〔感官の〕機能において〔自己が〕善く統御された者を、さらには、食について量を知る者を、信あり精進に励む者を、まさに、彼を、悪魔が打ち負かすことはない――風が、山の巌を〔倒そうとして倒せない〕ように。

1.7 デーヴァダッタの事例

9.(9) 〔まさに〕その、無濁ならざる者が、黄褐色(袈裟)の衣(ころも)をまとうことになるなら、調御と真理(諦)から離れた者であり、彼は、黄褐色〔の衣〕に値しない。

10.(10) しかしながら、彼が、汚濁を吐き捨て、諸戒において〔心が〕善く定められた者として存するなら、調御と真理を具した者であり、まさに、彼は、黄褐色〔の衣〕に値する。

1.8 サーリプッタ長老の事例

11.(11) 真髄(実:真実・本質)ならざるものについて「真髄である」と思い、さらには、真髄について「真髄ならず」と見る者たち――誤った思惟(邪思惟)を境涯とする彼らは、〔法の〕真髄に到達しない。

12.(12) しかしながら、真髄を「真髄である」と知って、さらには、真髄ならざるものを「真髄ならず」と〔知って〕、正しい思惟(正思惟)を境涯とする彼らは、〔法の〕真髄に到達する。

1.9 ナンダ長老の事例

13.(13) 〔屋根が〕だらしなく覆われた家に、雨が漏れ入るように、このように、修められていない心に、貪り〔の思い〕は漏れ入る。

14.(14) 〔屋根が〕しっかりと覆われた家に、雨が漏れ入らないように、このように、善く修められた心に、貪り〔の思い〕は漏れ入らない。

1.10 チュンダ屠豚者の事例

15.(15) 悪しき〔行為〕を為す者(悪業を作る者)は、この〔世において〕憂い悲しみ、死してのち憂い悲しむ。〔すなわち〕両所において憂い悲しむ。彼は憂い悲しみ、彼は打ちのめされる――自己の行為(業)が汚れたのを見て。

1.11 ダンミカ在俗信者の事例

16.(16) 善き〔行為〕を為した者(功徳を作った者)は、この〔世において〕喜び楽しみ、死してのち喜び楽しむ。〔すなわち〕両所において喜び楽しむ。彼は喜び楽しみ、彼は歓喜する――自己の行為の清浄を見て。

1.12 デーヴァダッタの事例

17.(17) 悪しき〔行為〕を為す者(悪業を作る者)は、この〔世において〕悩み苦しみ、死してのち悩み苦しむ。〔すなわち〕両所において悩み苦しむ。〔この世では〕「わたしは、悪を為した」と悩み苦しみ、〔死後は〕悪しき境遇(悪趣)に赴き、より一層、悩み苦しむ。

1.13 スマナーデーヴィーの事例

18.(18) 善き〔行為〕を為した者(功徳を作った者)は、この〔世において〕喜び楽しみ、死してのち喜び楽しむ。〔すなわち〕両所において喜び楽しむ。〔この世では〕「わたしは、善を為した」と喜び楽しみ、〔死後は〕善き境遇(善趣)に赴き、より一層、喜び楽しむ。

1.14 二者の道友の比丘の事例

19.(19) たとえ、もし、益あること(経典の言葉)を多く語る者であるとして、それを〔現に〕為す者と成らないなら、怠る人である。他者たちの牛を数えている牛飼いのようなものであり、沙門(修行者)の資質を分け持つ者には成らない。

20.(20) たとえ、もし、益あること(経典の言葉)を〔その〕僅かを語る者であるとして、法(教え)を法(教え)のままに行じおこなう者と成るなら、貪り(貪)と、怒り(瞋)と、迷い(痴)を捨棄して、心が善く解脱した正知の者となり、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔両者ともに〕執取することなく、彼は、沙門の資質を分け持つ者と成る。

 対なるものの章が、第一となる。

2 怠らないことの章

2.1 サーマーヴァティーの事例

21.(21) 〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)は、不死の境処である。怠ること(放逸)は、死魔の境処である。〔気づきを〕怠らない者たちは、死ぬことがない(常に目覚めている)。彼ら、〔気づきを〕怠る者たち――〔彼らは〕死んだままである。

22.(22) 怠らないことについて、賢者たちは、このように、「殊勝のものである」と知って、〔気づきを〕怠らないことに歓喜する――聖者たちの境涯に喜びある者たちとして。

23.(23) 彼らは、常恒の瞑想者たちであり、常に断固たる勤勉〔努力〕ある者たちである。〔常に気づきを怠らない〕慧者たちは、涅槃〔の境処〕を体得する――束縛からの〔心の〕平安という無上なるものを。

2.2 クンバゴーサカ長者の事例

24.(24) 奮起あり、気づき(念)あり、清らかな行為(業)あり、〔物事を〕真摯に為し、自制し、法(教え)によって生き、〔気づきを〕怠らない者であるなら、〔彼の〕福徳は〔自ずと〕増え行く。

2.3 チューラパンタカの事例

25.(25) 奮起によって、〔気づきを〕怠らないことによって、自制によって、さらには、調御によって、思慮ある者は、洲を作るがよい――それを、激流が押し流さないものとして。

2.4 愚かしい星祭りの鳴らしものの事例

26.(26) 愚者たちは、思慮浅き人たちは、怠ることに専念する。しかしながら、思慮ある者は、怠らないことに〔専念する〕――最勝の財を守るように。

27.(27) 怠ることに専念してはならない。欲望の歓楽や親愛〔の情〕に〔耽溺しては〕ならない。なぜなら、〔気づきを〕怠ることなく、〔常に〕瞑想している者は、広大なる安楽を得るからである。

2.5 マハーカッサパ長老の事例

28.(28) 賢者が、〔気づきを〕怠らないことによって、怠ることを除くとき、知慧(般若・慧)の高楼に登って、憂いなき者となり、憂いある人々を〔見る〕。山上に立つ者が、地上に立つ者たちを〔見る〕ように、慧者は、愚者たちを〔気づきの眼で〕注視する。

2.6 怠りあると怠りなき二者の道友の比丘の事例

29.(29) 怠りある者たちのなかにいながら怠らない者がいる。眠りについた者たちのなかにいながら多く起きている者がいる。駿馬が、力のない〔駄馬〕を〔置き去りにする〕ように、思慮深き者は、〔怠りある者たちを〕捨棄して行く。

2.7 マガの事例

30.(30) マガヴァント(インドラ神)は、〔気づきを〕怠らないことによって、天〔の神々〕たちのなかの最勝〔の地位〕たるに至った。〔賢者たちは〕怠らないことを賞賛する。怠ることは、常に非難されてきた。

2.8 或るどこかの比丘の事例

31.(31) 怠らないことに喜びある比丘(行乞者)は、あるいは、怠ることに恐怖を見る者であり、束縛するもの(結)を、微細であれ、粗大であれ、火のように焼き尽くしながら行く。

2.9 ニガマの住者ティッサ長老の事例

32.(32) 怠らないことに喜びある比丘は、あるいは、怠ることに恐怖を見る者であり、〔境涯の〕衰退は有りえず、まさしく、涅槃の現前にある。

 怠らないことの章が、第二となる。

3 心の章

3.1 メーギヤ長老の事例

33.(33) 震えおののき、動揺し、守り難く、防護し難い心を、思慮ある者は、真っすぐに作り為す――矢作りが、矢を〔真っすぐにする〕ように。

34.(34) 水のなかの避難所から引き出され、陸のうえに投げ出された魚のように、この心は、悪魔の領域を捨棄しようにも、震えおののく〔だけのこと〕。

3.2 或るどこかの比丘の事例

35.(35) 〔心は〕制御し難く、軽やかで、〔自らの〕欲する所へと落ちて行く。心を調御することは、善きことである。調御された心は、安楽をもたらす。

3.3 或るどこかの焦慮している比丘の事例

36.(36) 〔心は〕極めて見難く、極めて精緻で、〔自らの〕欲する所へと落ちて行く。思慮ある者は、心を守るもの。守られた心は、安楽をもたらす。

3.4 サンガラッキタの甥の長老の事例

37.(37) 〔心は〕遠くへと行き、独り歩み、肉体なく、〔胸の〕洞窟(心臓)に臥している。彼ら、心を自制する者たち――〔彼らは〕悪魔の結縛から解脱するであろう。

3.5 チッタハッタ長老の事例

38.(38) 心が確立されていない者に、正なる法(真理)を識知しない者に、〔心の〕清らかさ(浄信)が揺らぐ者に、知慧は円満成就しない。

39.(39) 心から〔煩悩が〕漏れ出ない者に、心に混乱なき者に、〔規範化した〕善悪を捨棄した者に、〔眠らずに〕起きている者(惰眠を貪らない者)に、恐怖は存在しない。

3.6 五百の比丘の事例

40.(40) 〔脆く儚い〕水瓶(みずがめ)の如きこの身体(からだ)を〔あるがままに〕知って――〔騒がしく雑然とした〕城市の如きこの心を〔外壁堅固に〕据え置いて――知慧の武器をもって、悪魔を討つがよい。しかして、勝ち得たものを守るように。〔かつまた、戦果に〕固着なき者として存するように。

3.7 プーティガッタ・ティッサ長老の事例

41.(41) まさに、長からずして、この身体は、地に臥すであろう。義(用途)のない木片のように捨て放たれ、識知(識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)を離れたものとして。

3.8 ナンダ牛飼いの事例

42.(42) 敵が敵に、あるいは、また、怨みある者が怨みある者に、為すであろう、〔まさに〕その、〔悪しき〕こと――それよりも、より悪しきことを、誤った〔思い〕に向けられた心は、彼に為すであろう。

3.9 ソーレイヤの事例

43.(43) 母が、父が、あるいは、さらに、また、他の親族たちでも、彼に為さないであろう〔善きこと〕――それよりも、より勝(まさ)ることを、正しい〔思い〕に向けられた心は、彼に為すであろう。

 心の章が、第三となる。

4 花の章

4.1 地についての言説を追い求める五百の比丘の事例

44.(44) 誰が、この地を征圧するのだろう――しかして、夜魔(閻魔)の世〔界〕を――天〔界〕を含む、この〔世界〕を。誰が、見事に説示された法(真理)の句を〔摘み取るのだろう〕――巧みな智ある者が、〔真理の〕花を摘み取るであろうように。

45.(45) 学びある者が、〔この〕地を征圧するであろう――しかして、夜魔の世〔界〕を――天〔界〕を含む、この〔世界〕を。学びある者が、見事に説示された法(真理)の句を〔摘み取るであろう〕――巧みな智ある者が、〔真理の〕花を摘み取るであろうように。

4.2 陽炎を〔心を定める〕行為の拠点とする比丘の事例

46.(46) この身体を、泡沫の如きものと知って、陽炎(かげろう)の法(性質)あるものと〔常に〕正覚している者は、悪魔の諸々の花の矢(迷いの生存)を断ち切って、死魔の王の見えざるところ(彼岸)に行くであろう。

4.3 ヴィタトゥーバの事例

47.(47) まさしく、まさに、花々を摘んでいる執着の意(おもい)ある人を、死魔は取って行く――眠りについた村を、大激流が〔流し去ってしまう〕ように。

4.4 パティプージカ・クマーリーの事例

48.(48) まさしく、まさに、花々を摘んでいる執着の意ある人を、まさしく、諸々の欲望〔の対象〕に満足しない者を、死神は〔思いのままに〕支配を為す。

4.5 物惜しみのコーシヤ長者の事例

49.(49) また、蜜蜂が、色艶と香りある花を損なうことなく、味(蜜)を取って移り行くように、このように、牟尼(沈黙の聖者)は、村を歩むがよい。

4.6 パーヴェイヤ・アージーヴァカ(邪命外道)の事例

50.(50) 他者たちの諸々の過ちではなく、他者たちの為したことや為さなかったことではなく、まさしく、自己の、為した諸々のことを、さらには、〔為すべきなのに〕為さなかった諸々のことを、〔気づきの眼で〕注視するがよい。

4.7 チャッタパーニ在俗信者の事例

51.(51) また、好ましく、色艶ある花に、香り無きものがあるように、このように、見事に語られた言葉は、為さずにいる者には、果の無きものと成る。

52.(52) また、好ましく、色艶ある花に、香り有るものがあるように、このように、見事に語られた言葉は、為している者には、果の有るものと成る。

4.8 ヴィサーカーの事例

53.(53) また、山積みの花から、多くの花飾の連なりを作るように、このように、死すべき者(人間)として生まれたなら、多くの善きことを為すべきである。

4.9 アーナンダ長老の問いの事例

54.(54) 花の香りは、風に逆らって行くことがない。栴檀〔の香り〕は、あるいは、タガラ(伽羅)やマッリカー(ジャスミン)〔の香り〕は、〔風に逆らって行くことが〕ない。しかしながら、正しくある者たちの香りは、風に逆らって行く。正しい人は、全ての方角に香り行く。

55.(55) 栴檀、あるいは、また、タガラ、青蓮、しかして、ヴァッシキー(ジャスミン)――これらの香りある類のなかでは、戒の香りが、無上なるものである。

4.10 マハーカッサパ長老に施された〔行乞の〕鉢食の事例

56.(56) すなわち、この、タガラと栴檀〔の香り〕であるが、この香りは、僅かばかりのもの。しかしながら、〔まさに〕その、戒ある者たちの香りは、最上のものであり、天〔の神々〕たちにおいて香りただよう。

4.11 ゴーディカ長老の完全なる涅槃の事例

57.(57) 彼ら、戒を成就した者たちの〔道を〕――〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)に住する者たちの〔道を〕――正しい了知による解脱者たちの道を――悪魔は知らない。

4.12 ガラハディンナの事例

58.(58) 塵芥場(ごみすてば)となり、廃棄された大道に、そこに、清らかな香りがあり、意が喜びとする、〔美しい〕蓮華が生じるように――

59.(59) このように、塵芥の生類(輪廻する有情)たちのなかにいながら、暗愚と成った〔迷える〕凡夫(無知蒙昧の徒)のなかにいながら、正自覚者(ブッダ)の弟子は、知慧によって輝きまさる。

 花の章が、第四となる。

5 愚者の章

5.1 或るどこかの人の事例

60.(60) 〔眠れずに〕起きている者に、夜は長い。〔歩みつづけ〕疲れている者に、〔一〕ヨージャナ(由旬:長さの単位・軛牛の一日の旅程距離)は長い。正なる法(真理)を識知しない愚者たちに、輪廻〔の道〕は長い。

5.2 マハーカッサパの共住者の事例

61.(61) 〔道を〕歩んでいる者が、もし、自己と同等か、より勝る者に到達しないなら、独り歩むこと(独行)を、断固として為すように。愚者のうちに、道友たること(真の友情)は存在しない。

5.3 アーナンダ長者の事例

62.(62) 「わたしには、子たちが存在する。わたしには、財が存在する」〔と〕、かくのごとく、愚者は〔所有の思いに〕打ちのめされる。まさに、自己は、自己のものとして存在しない(思いのままにならない存在である)。どうして、子たちが〔自己のものとして存在するであろう〕。どうして、財が〔自己のものとして存在するであろう〕。

5.4 お縄破りの盗賊の事例

63.(63) 〔自己の〕愚かさを思い考える、その愚者は――彼は、それによって、まさしく、賢者でさえある。しかしながら、〔自己を〕賢者と思量する愚者――まさに、彼は、「愚者」と呼ばれる。

5.5 ウダーイ長老の事例

64.(64) もし、愚者が、たとえ生あるかぎり、賢者に奉侍するとして、彼は、法(真理)を識知しない――匙(さじ)が、汁の味を〔識知しない〕ように。

5.6 三十のパーヴァーの比丘の事例

65.(65) もし、識者が、寸時でさえも、賢者に奉侍するなら、すみやかに、法(真理)を識知する――舌が、汁の味を〔識知する〕ように。

5.7 スッパブッダ癩病者の事例

66.(66) 思慮浅き愚者たちは、自己という、まさしく、朋(とも)ならざるものと歩む――〔まさに〕その、辛き果と成る、悪しき行為(悪業)を為しながら。

5.8 耕作者の事例

67.(67) それを為して苦しむなら、為したその行為は、善きものではない――その〔行為〕の報いを、泣き叫びながら、涙顔で受けるなら。

5.9 スマナ花屋の事例

68.(68) それを為して苦しまないなら、しかして、為したその行為は、善きものである――その〔行為〕の報いを、意(おもい)楽しく、満足して受けるなら。

5.10 ウッパラヴァンナー長老尼の事例

69.(69) 〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られないかぎり(悪業の報いが現われないうちは)、愚者は、〔自己の為す悪しき行為を〕蜜のように思いなす。しかしながら、〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られるとき(悪業の報いが現われるとき)、しかして、苦を受ける〔ことになる〕。

5.11 ジャンブカ長老の事例

70.(70) 月ごとに〔断食苦行の真似をして〕草の先端で食を受ける愚者――彼は、法(真理)を究めた者たちの、十六分の一にも値しない。

5.12 アヒ餓鬼の事例

71.(71) まさに、〔愚者が〕為した悪しき行為は、〔搾りたての〕乳のように、今日のうちには固まらない。灰に覆われた火のように、〔徐々に〕燃えながら、愚者に従い行く。

5.13 サッティクータ餓鬼の事例

72.(72) 義(目的)ならざるもののために、愚者に知識が生まれる、まさしく、そのかぎりは、〔その知識が〕愚者の幸運を打ち砕く――彼の頭を打ち落としながら。

5.14 チッタ家長の事例

73.(73) 正しからざる者たちの〔中身のない〕修行を、〔愚者は〕求めるもの(形だけの打算的な修行を好んでする)。しかして、比丘たちのなかでは尊奉を――かつまた、諸々の居住のなかでは権力を――さらには、他者の家々では供養を。

74.(74) 「在家者たちと出家者たちは、両者ともに、まさしく、わたしの為したことを、思い考えよ。諸々の為すべきことや為すべきではないこと(諸々の社会的義務)については、何であれ、まさしく、わたしの支配するものとして存するように」〔と〕、かくのごとく、愚者の妄想、欲求、そして、思量(慢:思い上がりの心)は、〔自ずと〕増え行く。

5.15 林の住者ティッサ沙弥の事例

75.(75) まさに、他なるものとして、利得に縁あるものがあり、他なるものとして、涅槃に至るものがある(両者は別個のものである)。このように、この〔道理〕を証知して、覚者(ブッダ)の弟子たる比丘は、〔自己への〕尊敬に愉悦せず、遠離〔の境地〕を増進するがよい。

 愚者の章が、第五となる。

6 賢者の章

6.1 ラーダ長老の事例

76.(76) 〔隠された〕諸々の財宝〔の在処〕を伝授する者のように、〔わが身の〕罪過に見ある者(無自覚の罪過を指摘してくれる者)を、彼を、見るなら、そのような賢者と、〔過誤を「過誤である」と正しく〕批判して説く思慮ある者と、親しくするがよい。そのような者と親しくしている者には、より勝ることが有り、より悪しきことは〔有りえ〕ない。

6.2 アッサジとプナッバスカの事例

77.(77) 〔他者を〕教え諭すように。〔真理を〕教え示すように。しかして、不当なることから〔自己を〕防護するように。まさに、彼は、正しくある者たちにとっては、愛しき者と成り、正しからざる者たちにとっては、愛しからざる者と成る。

6.3 チャンナ長老の事例

78.(78) 悪しき朋友たちとは、親しくしないように。最低の人たちとは、親しくしないように。善き朋友たちとは、親しくするように。最上の人たちとは、親しくするように。

6.4 マハーカッピナ長老の事例

79.(79) 法(真理)の喜悦ある者は、清らかな信ある心で、安楽に臥す。聖者によって知らされた法(真理)において、賢者は、常に喜び楽しむ。

6.5 パンディタ沙弥の事例

80.(80) まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、賢者たちは、自己を調御する。

6.6 ラクンダカバッディヤ長老の事例

81.(81) 一なる堅き巌(いわお)が、風に動かないように、このように、賢者たちは、諸々の非難や賞賛〔の声〕にたいし、〔心が〕動かない。

6.7 カーナの母の事例

82.(82) また、深い湖が、清らかで濁りがないように、このように、賢者たちは、諸々の法(教え)を聞いて、〔心が〕清まる。

6.8 五百の比丘の事例

83.(83) 一切所において、まさに、正しい人たちは、〔欲を〕捨てる。正しくある者たちは、欲を欲するままに話さない。楽しいことに触れたとして、あるいは、しかして、苦しいことに〔触れたとして〕、賢者たちは、高下を見せない。

6.9 ダンミカ長老の事例

84.(84) 自己を因とせず、他者を因とせず、子を求めず、財を〔求め〕ず、国を〔求め〕ず、法(正義)ならざるものによって自己の繁栄を求めないなら、彼は、戒あり、知慧あり、法(正義)にかなう者として、〔世に〕存するであろう。

6.10 法の聴聞の事例

85.(85) 彼ら、彼岸に至る人たち――彼らは、人間たちのなかでは僅かの者たち。しかして、〔まさに〕この、他の人々は、まさしく、〔此〕岸を走り回る(迷いの世界を輪廻している)。

86.(86) しかしながら、彼ら、まさに、正しく告げ知らされた法(教え)において、法(教え)に従い転じ行く者たち――彼ら、〔迷いなき〕人たちは、極めて超え難い、死魔の領域を〔超えて〕、彼岸に行くであろう。

6.11 五百の来客の比丘の事例

87.(87) 賢者は、黒の法(教え)を捨棄して、白〔の法〕を修めるもの。家から家なきに至りて、〔世俗の者には〕喜び難き所である、遠離〔の境地〕において。

88.(88) そこにおいて、〔真の〕喜びを求めるもの。諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、無一物となり。賢者は、諸々の心の汚れ(煩悩)から、自己を遍く清めるもの。

89.(89) 彼らの心が、〔七つの〕正覚の支分(七覚支)において、正しく、善く修められたなら――彼らが、執取の放棄〔という境地〕において、〔一切を〕執取せずして、喜びあるなら――彼らは、煩悩(漏)が滅尽した、光輝ある者たち、〔この〕世において、完全なる涅槃に到達した者たちである。

 賢者の章が、第六となる。

7 阿羅漢の章

7.1 ジーヴァカの問いの事例

90.(90) 旅を終え憂いを離れた者に、一切所に解脱した者に、一切の拘束を捨棄した者に、苦悶は見い出されない。

7.2 マハーカッサパ長老の事例

91.(91) 気づき(念)ある者たちは、〔家を〕出る。彼らは、家において喜ばない。白鳥たちが湖を捨棄して〔去り行く〕ように、彼らは、家々を捨棄する。

7.3 ベーラッタシーサ長老の事例

92.(92) 彼らに、蓄積(たくわえ)が存在せず、彼らが、食のことを遍知しているなら――彼らの、解脱の境涯が空にして、かつまた、相なきものであるなら――彼らの境遇(趣:死後に赴く所)は、虚空における鳥たちの〔行方〕のように、捉えどころがない。

7.4 アヌルッダ長老の事例

93.(93) 彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、しかして、〔彼が〕食について依存なき者であるなら――彼の、解脱の境涯が空にして、かつまた、相なきものであるなら――彼の境処(境地)は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。

7.5 マハーカッチャーヤナ長老の事例

94.(94) 馭者によって善く調御された馬たちのように、彼の、諸々の〔感官の〕機能(根)が、止寂〔の境地〕(奢摩他・止)に至ったなら、思量(慢)を捨棄した煩悩なき者を、そのような者である彼を、天〔の神々〕たちさえも羨む。

7.6 サーリプッタ長老の事例

95.(95) 地に等しく、〔何ものにも〕遮られない者――インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)の如く、そのように善き掟(おこない)の者――泥土を離去した〔澄んだ〕湖のような者――そのような者に、諸々の輪廻は有りえない。

7.7 コーサンビーの住者ティッサ長老の沙弥の事例

96.(96) 彼の意は、寂静と成る――言葉も、行為も、寂静と〔成る〕――正しい了知による解脱者にして寂静なる者、そのような者であるなら。

7.8 サーリプッタ長老の事例

97.(97) 〔特定のものについて〕信なく、かつまた、作られざるもの(涅槃)について知あり、しかして、〔輪廻の〕鎖を断ち切った、その人――〔造悪の〕機会を打ち砕き、〔自利の〕願望を吐き捨てた者――まさに、彼は、最上の人である。

7.9 カディラ(アカシア)林のレーヴァタ長老の事例

98.(98) もしくは、村であろうが、林であろうが、もしくは、低地であろうが、高地であろうが、そこに、阿羅漢(人格完成者)たちが住むなら、その地は、喜ぶべきものとなる。

7.10 或るどこかの婦女の事例

99.(99) 〔世俗の〕人が喜ばない所である、〔人里離れた〕諸々の林は、〔阿羅漢たちにとって〕喜ぶべきものである。貪欲を離れた者たちは、〔そこにおいて〕喜ぶであろう。彼らは、欲望〔の対象〕を求める者たちにあらず。

 阿羅漢の章が、第七となる。

8 千の章

8.1 タンバダーティカ盗賊屠殺者(死刑執行者)の事例

100.(100) たとえ、もし、千の言葉あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、義(意味)ある句のほうが、より勝(まさ)っている。

8.2 バーヒヤ・ダールチーリヤ長老の事例

101.(101) たとえ、もし、千の詩偈あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、詩偈の句のほうが、より勝っている。

8.3 クンダラケーシー長老尼の事例

102.(102) しかして、彼が、百の詩偈を語るとして、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、詩偈の句のほうが、より勝っている。

103.(103) 彼が、戦場において、百万の人間たちに勝利するとして、しかしながら、一つの自己に勝利するなら、まさに、彼は、最上の戦勝者である。

8.4 アナッタプッチャカ婆羅門の事例

104.(104) まさに、自己に勝利することは、より勝っている。それが、もし、〔まさに〕この、他の人々〔に勝利すること〕であるとして、〔それよりも〕。自己が調御された人であるなら、常に自制された歩みある者であるなら――

105.(105) そのような形態の人の勝利を、勝利ならざるものと為すのは、まさしく、天〔の神〕にあらず、ガンダッバ(音楽神)にあらず、梵〔天〕(ブラフマー神)を含む、悪魔にあらず(誰もできない)。

8.5 サーリプッタ長老の叔父の婆羅門の事例

106.(106) 彼が、百年のあいだ、月ごとに千〔回〕、祭祀をするとして、しかしながら、自己を修めた者たちの一者を、寸時でさえも供養するなら、まさしく、その供養は、より勝っている。それが、もし、百年の供犠であるとして、〔それよりも〕。

8.6 サーリプッタ長老の甥の事例

107.(107) しかして、その人が、百年のあいだ、林のなかで祭火(アグニ神)を世話するとして、しかしながら、自己を修めた者たちの一者を、寸時でさえも供養するなら、まさしく、その供養は、より勝っている。それが、もし、百年の供犠であるとして、〔それよりも〕。

8.7 サーリプッタ長老の道友の婆羅門の事例

108.(108) あるいは、祭祀されたものが、あるいは、供犠されたものが、それが何であれ、世において、功徳を期す者が、年間をとおし、祭祀をするとして、その全てでさえも、〔正しい供養の〕四分の一に至らない。真っすぐに赴いた者(正行者)たちにたいする敬拝のほうが、より勝っている。

8.8 アーユヴァッダナ・クマーラの事例

109.(109) 〔真っすぐに赴いた者たちにたいする〕敬拝を戒(ならい)とし、常に先達を敬う者には、四つの法(性質)が増え行く。寿命、色艶、安楽、力量が。

8.9 サンキッチャ沙弥の事例

110.(110) 〔心が〕定められていない戒に劣る者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、戒ある瞑想者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.10 カーヌコンダンニャ長老の事例

111.(111) 〔心が〕定められていない知慧浅き者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、知慧ある瞑想者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.11 サッバダーサ長老の事例

112.(112) 怠惰で精進に劣る者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、断固として精進に励んでいる者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.12 パターチャーラー長老尼の事例

113.(113) 〔物事の〕生滅〔の道理〕を見ずにいる者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、〔物事の〕生滅〔の道理〕を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.13 キサー・ゴータミーの事例

114.(114) 不死の境処を見ずにいる者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、不死の境処を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

8.14 バフプッティカー長老尼の事例

115.(115) 最上の法(真理)を見ずにいる者であるなら、しかして、彼が、百年のあいだ、〔世に〕生きるとして、最上の法(真理)を〔常に〕見ている者の一日の生のほうが、より勝っている。

 千の章が、第八となる。

9 悪の章

9.1 チューレーカサータカ婆羅門の事例

116.(116) 善きことにおいて、急ぐように。悪から、心を防護するように。なぜなら、善を為すに遅き意は、悪において喜ぶからである。

9.2 セイヤサカ長老の事例

117.(117) もし、人が、悪を為すなら、繰り返し、それ(悪)を為さないように。それ(悪)について、欲〔の思い〕を為さないように。悪を積み重ねることは、苦痛である。

9.3 ラージャ・デーヴァディーターの事例

118.(118) もし、人が、善を為すなら、繰り返し、それ(善)を為すように。それ(善)について、欲〔の思い〕を為すように。善を積み重ねることは、安楽である。

9.4 アナータピンディカ長者の事例

119.(119) 〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られないかぎり(悪業の報いが現われないうちは)、悪しき者もまた、幸を見る。しかしながら、〔自己の為した〕悪しき〔行為〕が煮られるとき(悪業の報いが現われるとき)、しかして、悪しき者は、諸々の悪(不幸)を見る。

120.(120) 〔自己の為した〕幸(さいわい)なる〔行為〕が煮られないかぎり(善業の報いが現われないうちは)、幸なる者(善人)もまた、悪(不幸)を見る。しかしながら、〔自己の為した〕幸なる〔行為〕が煮られるとき(善業の報いが現われるとき)、しかして、幸なる者(善人)は、諸々の幸を見る。

9.5 自制なき必需品〔の処理〕の事例

121.(121) 「それは、わたしに帰ってこないであろう」〔と〕、〔自己の為す〕悪しき〔行為〕を軽く考えてはならない。水瓶でさえも、水滴の落下(したたり)で満ち溢れる。たとえ、少しずつでも、〔行為は〕蓄積され、愚者は、悪〔の報い〕に満ち溢れる。

9.6 ビラーラパーダカ長者の事例

122.(122) 「それは、わたしに帰ってこないであろう」〔と〕、〔自己の為す〕善き〔行為〕を軽く考えてはならない。水瓶でさえも、水滴の落下で満ち溢れる。たとえ、少しずつでも、〔行為は〕蓄積され、慧者は、善〔の報い〕に満ち溢れる。

9.7 マハーダナ商人の事例

123.(123) 〔人員〕少なき隊商にして、〔なおかつ〕大財ある商人が、〔危険に満ちた〕恐怖の道を〔避ける〕ように――〔長く〕生きることを欲する者が、毒を〔避ける〕ように――諸々の悪を遍く避けるがよい。

9.8 クックタミッタ猟師の事例

124.(124) もし、手に傷が存在しないなら、手で毒を運ぶことができる。傷なき者に、毒が従い行くことはない。〔悪を〕為さずにいる者に、悪は存在しない。

9.9 コーカ猟犬猟師の事例

125.(125) 彼が、汚れなき人を汚すなら、清浄で穢れなき人を〔穢すなら〕(怒りなき者に怒り、悪意なき者に悪意を抱くなら)、まさしく、その愚者に、悪は戻り来る――風に逆らって投げられた微細な塵が、〔投げた者自身に戻って来る〕ように。

9.10 マニカーラ・クルーパカ・ティッサ長老の事例

126.(126) 或る者たちは、〔母〕胎に再生する。悪しき行為(悪業)ある者たちは、地獄に〔堕ちる〕。善き境遇(善趣)の者たちは、天上に行く。煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。

9.11 三者の人の事例

127.(127) 空中にあらず、海中にあらず、山々の〔岩の〕裂け目に入っても〔見い出され〕ない。そこに立つ者が〔自己の為した〕悪しき行為から解き放たれる、その〔場所〕は、地上における〔どの〕地域も、見い出されない。

9.12 スッパブッダ・サキャの事例

128.(128) 空中にあらず、海中にあらず、山々の〔岩の〕裂け目に入っても〔見い出され〕ない。そこに立つ者を死魔が打ち負かすことなき、その〔場所〕は、地上における〔どの〕地域も、見い出されない。

 悪の章が、第九となる。

10 棒の章

10.1 六群の比丘の事例

129.(129) 全ての者は、棒(武器)を恐れる。全ての者は、死魔に恐怖する。自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。

10.2 六群〔の比丘〕の事例

130.(130) 全ての者は、棒(武器)を恐れる。全ての者にとって、生命は愛しきもの。自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。

10.3 大勢の少年の事例

131.(131) 彼が、安楽を欲する生類たちを棒で害するなら、自己の安楽を求めつつ、彼は、死してのち、安楽を得ない。

132.(132) 彼が、安楽を欲する生類たちを棒で害さないなら、自己の安楽を求めつつ、彼は、死してのち、安楽を得る。

10.4 コンダダーナ長老の事例

133.(133) 誰にであれ、粗暴なことを言ってはならない。言われた者たちは、あなたに言い返すであろう。なぜなら、諸々の激昂の言説は、苦痛であり、諸々の報いの棒(報復)が、あなたを襲うからである。

134.(134) それで、もし、壊れた銅鑼(どら)のように、〔沈黙して〕自己を動かさないなら、あなたに、激昂〔の言説〕は見い出されず、〔まさに〕この、涅槃を得た者として、〔あなたは〕存している。

10.5 斎戒の婦女たちの事例

135.(135) 牛飼いが、牛たちを棒でもって餌場に追い立てるように、このように、老も、死魔も、生ある者たちの寿命を追い立てる。

10.6 アジャガラ餓鬼の事例

136.(136) しかして、諸々の悪しき行為(悪業)を為しつつ、愚者は、〔そのことを〕覚らない。思慮浅き者は、自らの〔為す〕諸々の〔悪しき〕行為(業)によって、火に焼かれた者のように悩み苦しむ。

10.7 マハーモッガッラーナ長老の事例

137.(137) 彼が、汚れ(怒りや憎しみなどの悪意)なく棒(武器)なき者たちを、棒(武器)でもって汚すなら、〔彼は、以下に示す〕十のなかのどれか一つの状況に、ごくすみやかに遭遇する。

138.(138) 粗暴なる〔苦痛の〕感受(受:知覚)、〔体力の〕衰退、あるいは、肉体の破壊、あるいは、また、重き病苦、あるいは、心の散乱〔という状況〕を得るであろう。

139.(139) あるいは、国王からの災禍、あるいは、凶悪な誹謗、あるいは、親族たちの完全なる滅尽、あるいは、諸々の財物の崩壊〔という状況〕を〔得るであろう〕。

140.(140) あるいは、しかして、彼の家々を、浄化の火が焼き尽くす。彼は、知慧浅き者として、身体の破壊ののち、地獄に再生する。

10.8 バフバンディカ比丘の事例

141.(141) 裸身の行にあらず、結髪〔の行〕にあらず、泥〔を塗る行〕にあらず、あるいは、断食〔の行〕、野臥〔の行〕にあらず、塵や埃〔をかぶること〕、うずくまったまま〔刻苦〕精励することに〔あらず〕――疑いを超えずにいる人間を清めるのは。

10.9 サンタティ大臣の事例

142.(142) たとえ、もし、〔見てくれを〕十分に作り為したとして、こころ静かに歩むがよい。一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、〔心が〕寂静で、〔善く〕調御された、〔正道〕決定の梵行者(禁欲清浄行の実践者)――彼は、婆羅門(聖職者)である――彼は、沙門(修行者)である――彼は、比丘(行乞者)である。

10.10 ピローティカ・ティッサ長老の事例

143.(143) 世において、どこの誰が、恥〔の思い〕(慚)で〔身を〕慎む人として、見い出されるというのだろう。彼は、〔他者の〕非難を気にかけない――賢馬が、鞭を〔気にかけない〕ように。

144.(144) 鞭を入れた賢馬のように、熱情ある者たちとして、〔無常の現実を〕畏怖する者たちとして、〔世に〕有るように。信によって、かつまた、戒によって、さらには、精進によって、〔心の〕統一(定:三昧の境地)によって、かつまた、法(真理)の判別によって、〔あなたたちは〕明知と行ないを成就した気づきの者たちとして、この、少なからざる苦しみを捨棄するであろう。

10.11 スカ沙弥の事例

145.(145) まさに、治水者たちは、水を誘導し、矢作りたちは、矢を調整し、大工たちは、木を矯正し、善き掟(おこない)の者たちは、自己を調御する。

 棒の章が、第十となる。

11 老の章

11.1 ヴィサーカーの道友たちの事例

146.(146) いったい、何の笑いがあるというのだろう――何の喜びがあるというのだろう――〔世界が〕常に燃え盛るものとして存しているときに。暗黒に覆われているのに、〔あなたたちは〕灯明を求めようとしない。

11.2 シリマーの事例

147.(147) 見よ――彩りあざやかに作り為された〔欲の〕幻影を――寄せ集めの、傷ある身体を――病んだ、妄想多きものを。それに、常久と止住は、〔何であれ〕存在しない。

11.3 ウッタラー長老尼の事例

148.(148) 老い朽ちた、この形態(色:肉体)は、病の巣となり、壊れ崩れるものとして〔存している〕。腐敗の肉身(からだ)は、朽ち果てる。まさに、死という終極あるのが、生命である。

11.4 大勢の高慢の比丘の事例

149.(149) あたかも、秋に投げ捨てられた、これらの瓜のように、諸々の灰白色の骨があるなら、それらを見て、何の歓楽があるというのだろう。

11.5 ジャナパダカルヤーニー・ルーパナンダー長老尼の事例

150.(150) 肉と血を塗り付け、諸々の骨で作られた城――そこには、老と、死魔と、思量(慢:思い上がりの心)が、さらには、偽装(覆:隠し立ての心)が、安置されている。

11.6 マッリカー王妃の事例

151.(151) 美しく彩りあざやかな諸々の王車は、まさに、老い朽ちる。しかして、肉体もまた、老へと近づき行く。しかしながら、正しくある者たちの法(真理)は、老へと近づき行くことがない。正しくある者たちは、まさに、正しくある者たちと、〔不滅の法を、互いが互いに〕知らしめる。

11.7 ラールダーイ長老の事例

152.(152) この少聞の人は、荷牛のように老い朽ちる。彼の諸々の肉は増え行くが、彼の知慧は増え行くことがない。

11.8 ウダーナ(感興の言葉)の事例

153.(153) 無数なる生の輪廻を、〔何も〕見い出すことなく、〔わたしは〕流転してきた――家の作り手を求めながら。生〔の輪廻〕は、繰り返し、苦しみである。

154.(154) 家の作り手よ、〔おまえは〕見られたものとして存している(その正体は、あるがままに見られた)。ふたたび、〔おまえが〕家を作ることはないであろう。おまえの全ての梁(はり)は壊され、家の屋根は働きを為さない。心は、〔迷いの生存を〕形成する働き(行:生の輪廻を施設し造作する働き)を離れるに至った。諸々の渇愛の滅尽に到達したのだ。

11.9 マハーダナ長者の子の事例

155.(155) 梵行(禁欲清浄行)を歩まずして、若いときに財を得ずして、まさしく、魚の尽きた沼地にいる、老いた白鷺たちのように、〔彼らは〕痩せ衰える。

156.(156) 梵行を歩まずして、若いときに財を得ずして、諸々の過去のことを泣き悲しみながら、諸々の使い古された弓のように、〔彼らは、地に〕臥す。

 老の章が、第十一となる。

12 自己の章

12.1 ボーディ王子の事例

157.(157) もし、自己を、愛しいものと知るなら、それを、善く守られたものとして、守るがよい。〔若年と壮年と老年の〕三つのなかの、どれか一つの時期を、賢者は、〔眠らずに〕起きているもの(若年・壮年・老年という、人生における三つの区分の、すくなくとも、どれか一つにおいて、人は目覚めるべきである)。

12.2 ウパナンダ・サキャプッタ長老の事例

158.(158) 第一に、自己こそを、適所において確たるものとするがよい。しかして、他者に教示するがよい。賢者は、〔世事には〕汚されないもの。

12.3 パダーニカ・ティッサ長老の事例

159.(159) 他者に教示するように、もし、そのとおり、自己に為すなら(自ら実践するなら)、〔自己が〕善く調御された者は、まさに、〔他者を〕調御するであろう。なぜなら、〔真に〕調御し難きものは、まさに、自己なのだから。

12.4 クマーラカッサパの母の長老尼の事例

160.(160) まさに、自己は、自己の主(あるじ)。まさに、他者の誰が、主として存するというのだろう。まさに、善く調御された自己によって、得難き主を得る。

12.5 マハーカーラ在俗信者の事例

161.(161) まさに、自己によって為された悪が、自己から生じ自己から発生する〔悪〕が、思慮浅き者を打ち砕く――石から作られる金剛(ダイアモンド)が、宝珠を〔打ち砕く〕ように。

12.6 デーヴァダッタの事例

162.(162) 蔓草が、〔それに〕覆われたサーラ〔樹〕を〔打ち負かす〕ように、彼に、徹底して下劣な戒があるなら、彼は、〔彼の〕敵が彼に求めるように、そのとおり、自己に為す(自滅する)。

12.7 僧団分裂の画策の事例

163.(163) 諸々の善ならざること、そして、自己にとって諸々の益ならざることは、為し易い。それが、まさに、〔自己にとって〕益にもなり、善にもなることであるなら、それは、まさに、最高に為し難い。

12.8 カーラ長老の事例

164.(164) 阿羅漢(人格完成者)にして聖者たる、法(教え)によって生きる者たちの教えを、悪しき見解に依存して非難する、〔まさに〕その、思慮浅き者――〔彼は〕カッタカ〔草〕の諸果のように、自己を滅ぼすために、〔諸々の悪しき報いを〕結果する。

12.9 チューラカーラ在俗信者の事例

165.(165) まさに、自己によって為された悪は、自己によって汚れ、自己によって為されなかった悪は、まさしく、自己によって清まる。清浄と清浄ならざるは、各自のこと。他者が他者を清めることはない(自己が自己を清める)。

12.10 アッタダッタ長老の事例

166.(166) たとえ、他者の義(道理)が多くあっても、自己の義(道理)を失わないように。自己の義(道理)を証知して、自らの義(道理)を追求する者として存するように。

 自己の章が、第十二となる。

13 世の章

13.1 青年の比丘の事例

167.(167) 下劣な法(教え)に親しまないように。怠り(放逸)と共に住まないように。誤った見解(邪見)に親しまないように。世〔俗〕の繁栄ある者として存さないように。

13.2 スッドーダナの事例

168.(168) 奮起するように。〔気づきを〕怠らないように。善き行ないの法(教え)を行じおこなうように。〔善き行ないの〕法(教え)を行じおこなう者は、安楽に臥す――この世において、さらには、他〔世〕において。

169.(169) 善き行ないの法(教え)を行じおこなうように。〔まさに〕その、悪しき行ないを行じおこなわないように。〔善き行ないの〕法(教え)を行じおこなう者は、安楽に臥す――この世において、さらには、他〔世〕において。

13.3 五百の〔あるがままの〕観察者の比丘の事例

170.(170) 泡粒を見るかのように、陽炎を見るかのように、このように、世〔界〕を〔常に〕注視している者を、死魔の王は見ない。

13.4 アバヤ王子の事例

171.(171) 来たれ、見よ――彩りあざやかな王車の如き、この世〔界〕を。そこに、愚者たちは沈むが、〔あるがままに〕識知している者たちに、執着〔の思い〕は存在しない。

13.5 サンマッジャナ長老の事例

172.(172) しかして、彼が、かつて〔気づきを〕怠っていても、彼が、のちに怠らないなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

13.6 アングリマーラ長老の事例

173.(173) 彼の為した悪しき行為(悪業)が、善によって塞がれるなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

13.7 機織り職人の娘の事例

174.(174) 暗愚と成ったのが、この世〔の人々〕である。ここに、数少ない者が、〔真実をあるがままに〕観察する――網から解き放たれた僅かな鳥が、天上に至るように。

13.8 三十の比丘の事例

175.(175) 白鳥たちは、太陽の道(大空)を行き、神通によって、〔聖賢たちは〕虚空を行く。慧者たちは、軍勢を有する悪魔に勝利して、〔この〕世から〔彼岸へと〕導かれる。

13.9 チンチャ・マーナヴィカーの事例

176.(176) 一なる法(真理)を超え行った、虚偽を説く人にとって、他世(来世)を否認する者にとって、為さずにいられる悪は存在しない。

13.10 同等のものなき布施の事例

177.(177) まさに、吝嗇の者たちは、天の世〔界〕に行かない。まさに、愚者たちは、布施を賞賛しない。しかして、慧者は、布施を随喜しながら、まさしく、それによって、彼は、他所(来世)において、安楽の者と成る。

13.11 アナータピンディカの子カーラの事例

178.(178) 地における一なる王になることよりも、あるいは、天上に至ることよりも、一切世〔界〕の君主になることよりも、預流果(よるか:覚りの第一階梯)のほうが、優れている。

 世の章が、第十三となる。

14 覚者の章

14.1 悪魔の娘の事例

179.(179) 彼の勝利は、失われることがない。誰であれ、世において、彼の勝利に行き着くことはない。彼を、覚者(ブッダ)を、終極なき境涯の者を、〔特定の〕境処なき者を、いかなる境処をもってして、〔あなたたちは〕導くというのだろう。

180.(180) 彼を誘い導くための執着と渇愛の網は、どこにも存在しない。彼を、覚者(ブッダ)を、終極なき境涯の者を、〔特定の〕境処なき者を、いかなる境処をもってして、〔あなたたちは〕導くというのだろう。

14.2 天からの降下の事例

181.(181) 彼ら、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を追求する慧者たち、離欲と寂止に喜びある者たち――彼らを、正覚者たちを、気づき(念)ある者たちを、天〔の神々〕たちさえも羨む。

14.3 エーラカパッタ龍王の事例

182.(182) むずかしきは、人間〔の生〕の獲得あること。むずかしきは、死すべき者たちに生命あること。むずかしきは、正なる法(教え)の聴聞あること。むずかしきは、覚者たちの生起あること。

14.4 アーナンダ長老の問いの事例

183.(183) 一切の悪を為さないこと、善を成就すること、自らの心を遍く清めること――これは、覚者たちの教えである。

184.(184) 「忍耐と忍受は、最高の苦行である。涅槃は、最高〔の境地〕である」〔と〕、覚者たちは説く。まさに、出家者は、他者を害さない。他者を悩ましている者が、沙門と成ることはない。

185.(185) 〔他者を〕批判しないこと、害さないこと、しかして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)において〔自己を〕統御すること、かつまた、食について量を知ること、なおかつ、辺境に臥坐すること、さらには、向上の心(瞑想)に専念すること――これは、覚者たちの教えである。

14.5 喜びなき比丘の事例

186.(186) 諸々の欲望〔の対象〕にたいし、貨幣の雨をもってしても、満足〔の思い〕は見い出されない。「諸々の欲望〔の対象〕は、悦楽少なく、苦しみである」〔と〕、かくのごとく識知して、賢者は――

187.(187) 彼は、天の諸々の欲望〔の対象〕にたいしてさえも、喜びには到達しない。渇愛の滅尽に喜びある者が、正自覚者(ブッダ)の弟子と成る。

14.6 アッギダッタ婆羅門の事例

188.(188) 恐怖に怯えた人間たちは、まさに、多くの帰依所(依存の対象)に赴く――諸々の山に、さらには、諸々の林に、諸々の聖園や樹木や塔廟に。

189.(189) まさに、この帰依所は、平安にあらず。この帰依所は、最上にあらず。この帰依所を頼りにしても、一切の苦しみからは解放されない。

190.(190) しかしながら、彼が、覚者(仏:ブッダ)と、法(法:ダンマ)と、僧団(僧:サンガ)と、〔これらを〕帰依所に赴いたなら、〔彼は〕四つの聖なる真理(四聖諦)を、正しい知慧によって見る。

191.(191) 〔すなわち〕苦しみを、苦しみの生起を、しかして、苦しみの超越を、さらには、苦しみの寂止へと至る聖なる八つの支分ある道(八正道)を。

192.(192) まさに、この帰依所は、平安である。この帰依所は、最上である。この帰依所を頼りにして、一切の苦しみから解放される。

14.7 アーナンダ長老の問いの事例

193.(193) 得難きは、善き生まれの人(覚者)――彼は、一切所に生まれない。その慧者が生まれる所――その家は、安楽に満ち栄える。

14.8 大勢の比丘の事例

194.(194) 楽しきは、覚者たちの生起あること。楽しきは、正なる法(教え)の説示あること。楽しきは、僧団の和合あること。和合者たちの苦行は、楽しきもの。

14.9 カッサパ十力者(過去仏)の黄金の塔廟の事例

195.(195) 覚者たちを、もしくは、弟子たちであろうが、供養に値する者たちを供養するなら――戯論(分別妄想)を超え行き、憂いと嘆きを超えた者たちを〔供養するなら〕――

196.(196) 彼ら、涅槃に到達し、何ものも恐れない、如(にょ)なる者たちを供養するなら――ここに、この功徳を究めることは、たとえ、何をもってしても、できないであろう(その功徳の量は計り知れない)。

 覚者の章が、第十四となる。

 〔以上が〕第一の読誦分となる。

15 安楽の章

15.1 親族の紛争の寂止の事例

197.(197) まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きる――怨みある者たちのなかにいながら、怨みなき者たちとして。怨みある人間たちのなかにいながら、怨みなき者として、〔世に〕住む。

198.(198) まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きる――病いある者たちのなかにいながら、病いなき者たちとして。病いある人間たちのなかにいながら、病いなき者として、〔世に〕住む。

199.(199) まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きる――焦りある者たちのなかにいながら、焦りなき者たちとして。焦りある人間たちのなかにいながら、焦りなき者として、〔世に〕住む。

15.2 悪魔の事例

200.(200) まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きる――〔まさに〕その、わたしたちには、何ものも存在しない(無一物である)。光音天〔の神々〕たちのように、喜悦を食とする者たちとして、〔世に〕有るのだ。

15.3 コーサラ王の敗北の事例

201.(201) 勝者は、怨恨を生み、敗者は、苦痛に臥す。寂静なる者は、勝ち敗けを捨棄して、安楽に臥す。

15.4 或るどこかの良家の息女の事例

202.(202) 貪欲(貪)に等しい火は、〔どこにも〕存在しない。憤怒(瞋)に等しい〔悪しき〕賽の目(罪悪)は、〔どこにも〕存在しない。〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)に等しい苦痛は、〔どこにも〕存在しない。寂静〔の境処〕の他に安楽は、〔どこにも〕存在しない。

15.5 或る在俗信者の事例

203.(203) 〔人間にとって〕諸々の飢え(日々空腹になること)は、最高の病である。諸々の〔迷いの生存を〕形成する働き(行:生の輪廻を施設し造作する働き)は、最高の苦痛である。このことを、事実のとおりに知って〔到達する〕、涅槃〔の境処〕は、最高の安楽である。

15.6 コーサラ〔国〕のパセーナディ〔王〕の事例

204.(204) 無病は、最高の利得である。知足は、最高の財産である。信頼は、最高の親族である。涅槃〔の境処〕は、最高の安楽である。

15.7 ティッサ長老の事例

205.(205) 遠離の味わいを飲み干して、さらには、寂止の味わいを〔飲み干して〕、懊悩なく悪なき者と成る――法(真理)の喜悦の味わいを飲み干しながら。

15.8 サッカ(帝釈天)の事例

206.(206) 聖者たちと相見えることは、善きことである。〔彼らと〕共に住むことは、常に、安楽である。愚者たちと相見えずにいることで、まさしく、常に、安楽の者として存するであろう。

207.(207) まさに、愚者と集いあつまって歩む者は、長時にわたり、憂い悲しむ。愚者たちと共に住むのは、朋ならざる〔敵〕と〔共に住む〕ように、一切時において、苦痛である。しかしながら、慧者は、親族たちの集いのように、共に住むのが安楽である。

208.(208) それゆえに、まさに――

 しかして、慧者と、かつまた、知慧ある者と、さらには、多聞の者と、重荷を運ぶを戒(ならい)とする者(忍耐強き者)と、〔善き〕掟ある者と、聖者と、正しい人と、思慮深き者と、そのような者である彼と、親しくするように――星の道に、月が〔従い行く〕ように。

 安楽の章が、第十五となる。

16 愛しいものの章

16.1 三人の出家者の事例

209.(209) 道理ならざることに自己を結び付け、なおかつ、道理あることに〔自己を〕結び付けずにいる者――義(道理)を捨棄して、愛しいものを収め取る者は、自己〔の道〕に専念する者たちを羨む。

210.(210) 愛しい者たち(愛着の対象)と、集いあつまってはならない。愛しくない者たち(憎悪の対象)と、いついかなる時も、〔集いあつまってはならない〕。愛しい者たちと相見えずにいることは、苦しみである。しかして、愛しくない者たちと相見えることは、〔苦しみである〕。

211.(211) それゆえに、愛しい者を作らないように。まさに、愛しい者を失うことは、悪しきこと(苦しみ)である。彼らに、愛しい者と愛しくない者(愛憎の対象)が存在しないなら、彼らに、諸々の拘束は見い出されない。

16.2 或るどこかの富豪の事例

212.(212) 愛しいものから、憂いが生まれ、愛しいものから、恐れが生まれる。愛しいもの〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.3 ヴィサーカーの事例

213.(213) 愛情から、憂いが生まれ、愛情から、恐れが生まれる。愛情〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.4 リッチャヴィの者たちの事例

214.(214) 歓楽から、憂いが生まれ、歓楽から、恐れが生まれる。歓楽〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.5 アニッティガンダ童子の事例

215.(215) 欲望から、憂いが生まれ、欲望から、恐れが生まれる。欲望〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.6 或るどこかの婆羅門の事例

216.(216) 渇愛から、憂いが生まれ、渇愛から、恐れが生まれる。渇愛〔という拘束〕から解放された者に、憂いは存在しない。どうして、恐れがあろう。

16.7 五百の少年の事例

217.(217) 戒と見を成就し、法(正義)に依って立ち、真理(諦)を説く者を――自己の〔為すべき〕行為を〔常に〕為している者を――人は、彼を、愛しき者と為す(彼は、誰からも愛される)。

16.8 或る不還者の長老の事例

218.(218) 「告げ知らされたもの」ではないもの(涅槃)にたいする欲〔の思い〕が生じた者(涅槃への意欲を起こした者)として、かつまた、〔その〕意に満たされた者として、〔世に〕存するように。しかして、諸々の欲望〔の対象〕にたいし、心が縛られない者は、「上流にある者(欲界を離れた者)」と呼ばれる。

16.9 ナンディヤの事例

219.(219) 長き不在の人が、遠方から〔無事〕安穏に帰ってきたなら、親族や朋友たち、そして、知人たちは、〔彼の〕帰還を喜ぶ。

220.(220) まさしく、そのように、善を為した者(功徳を作った者)もまた、この世から他〔世〕へと赴いたなら、諸々の善きこと(功徳)が迎え取る――親族たちが、愛しき者の帰還を〔喜ぶ〕ように。

 愛しいものの章が、第十六となる。

17 忿激の章

17.1 士族の娘ローヒニーの事例

221.(221) 忿激〔の心〕を捨棄するように。思量〔の心〕を捨棄し去るように。束縛するものの一切を超え行くように。彼に、名前と形態(名色:現象世界)について執着せずにいる者に、無一物の者に、諸々の苦しみが従い行くことはない。

17.2 或るどこかの比丘の事例

222.(222) 迷走する車を〔調御して、暴走を〕阻止するように、彼が、まさに、生起した忿激〔の心〕を〔調御して、平静を保持するなら〕、わたしは、彼を「馭者」と説く。他の人々は、手綱を掴む〔が、それだけのこと〕。

17.3 ウッタラー在俗女信者の事例

223.(223) 忿激なきによって、忿激に勝つように。善によって、善ならざるに勝つように。布施によって、吝嗇〔の心〕に勝つように。真理によって、偽りを説く者に〔勝つように〕。

17.4 マハーモッガッラーナの問いの事例

224.(224) 真理を語るように。怒らないように。乞われた者は、たとえ、少なくとも施すように。これらの三つの境位によって、天〔の神々〕たちの現前に至るであろう。

17.5 覚者の父の婆羅門の事例

225.(225) 彼ら、〔生類を〕害さず、常に身体によって統御された牟尼たち――彼らは、そこに至りて〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまない、不死なる境位へと赴く。

17.6 プンナー奴婢の事例

226.(226) 常に〔眠らずに〕起きていて、昼夜に学び、涅槃を志す者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。

17.7 アトゥラ在俗信者の事例

227.(227) アトゥラ(人名)よ、これは、過去からのことである。これは、今日だけのことではない。〔人々は〕沈黙して坐す者を非難し、多く語る者を非難する。〔それどころか〕節度をもって語る者でさえも非難する。世において、非難されずにいた者は、〔どこにも〕存在しない。

228.(228) 一方的に非難された人、あるいは、一方的に賞賛された〔人〕は、有ったこともなく、有るであろうこともなく、今現在も見い出されない。

229.(229) 〔しかしながら〕生活に瑕疵なく、思慮あり、知慧と戒によって〔心が〕定められた者(禅定者)を、もし、彼を、識者たちが、日々に随知して、賞賛するとして――

230.(230) ジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)のような彼を、誰が、非難できるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕(ブラフマー神)からさえも、〔彼は〕賞賛される。

17.8 六群〔の比丘〕の事例

231.(231) 身体(身)の動乱を守り押さえるように。身体によって統御された者として存するように。身体による悪しき行ないを捨棄して、身体による善き行ないを行じおこなうように。

232.(232) 言葉(口)の動乱を守り押さえるように。言葉によって統御された者として存するように。言葉による悪しき行ないを捨棄して、言葉による善き行ないを行じおこなうように。

233.(233) 意(意)の動乱を守り押さえるように。意によって統御された者として存するように。意による悪しき行ないを捨棄して、意による善き行ないを行じおこなうように。

234.(234) 慧者たちは、身体によって統御された者たちであり、しかして、言葉によって統御された者たちである。慧者たちは、意によって統御された者たちであり、まさに、彼らは、完全無欠の統御者たちである。

 忿激の章が、第十七となる。

18 垢の章

18.1 牛の屠殺者の子の事例

235.(235) 今や、〔あなたは〕枯葉のようなものとして存している。しかして、夜魔(閻魔)の使者たちもまた、あなたを待っている。しかして、〔あなたは〕旅路の門に立っている。しかして、あなたには、〔旅の〕路銀さえも見い出されない。

236.(236) 〔まさに〕その〔あなた〕は、自己の洲(依り所)を作りなさい。すみやかに努めなさい。賢者と成りなさい。〔世俗の〕垢を取り払った〔あなた〕は、穢れなき者となり、天の聖なる境地へと近づき行くであろう。

237.(237) しかして、今や、〔あなたは〕衰滅〔の面前〕に連れて行かれた者として存している。〔あなたは〕夜魔の現前に進み行く者として存している。途中、あなたに、住居は存在しない。しかして、あなたには、〔旅の〕路銀さえも見い出されない。

238.(238) 〔まさに〕その〔あなた〕は、自己の洲(依り所)を作りなさい。すみやかに努めなさい。賢者と成りなさい。〔世俗の〕垢を取り払った〔あなた〕は、穢れなき者となり、ふたたび、生と老〔の輪廻〕へと近づき行くことはないであろう。

18.2 或るどこかの婆羅門の事例

239.(239) 思慮ある者は、順次に、少しずつ、瞬間瞬間に、鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように、自己の垢を取り払うがよい。

18.3 ティッサ長老の事例

240.(240) 鉄から現起した垢(錆)が、それ(鉄)から出起して、まさしく、それ〔自身〕を喰い尽くすように、このように、諸々の自らの行為は、罪行者〔自身〕を、悪しき境遇(悪趣)に導く。

18.4 ラールダーイの事例

241.(241) 不誦という垢あるのが、諸々の呪文である。無精という垢あるのが、諸々の家屋である。色艶には、怠慢という垢がある。〔心身を〕守っている者には、怠り(放逸)という垢がある。

18.5 或るどこかの良家の子息の事例

242.(242) 婦女には、悪しき行ない(不品行)という垢がある。布施する者には、物惜しみという垢がある。まさに、垢という悪しき諸法(性質)がある――この世において、さらには、他〔世〕において。

243.(243) その垢よりも、さらにひどい垢がある。無明という、最高の垢がある。比丘たちよ、この垢を捨棄して、無垢の者たちと成れ。

18.6 チューラサーリ比丘の事例

244.(244) 生き易きは、恥〔の思い〕なく、烏のように厚かましく、厚顔で、傲岸で、尊大で、〔心が〕汚染された者による、生である。

245.(245) しかしながら、生き難きは、恥〔の思い〕あり、常に清よらかさを求め、陰鬱ならず、尊大ならず、清浄の生き方ある、〔常に真実を〕見ている者による、〔生である〕。

18.7 五者の在俗信者の事例

246.(246) 彼が、生き物を殺すなら、さらには、虚偽の論を語るなら、世において与えられていないものを取るなら、さらには、他者の妻のもとに行くなら――

247.(247) さらには、その人が、穀物酒や果実酒などの飲み物に〔自らを〕束縛するなら、この者は、まさしく、ここに、〔この〕世において、自己の根元を掘り崩す。

248.(248) 君よ、人たる者よ、このように知りなさい。〔諸々の欲望の対象にたいし〕自制なきことは、悪しき諸法(性質)である。貪り〔の思い〕、および、法(正義)ならざることが、あなたを、長きにわたり、苦しみによって害することがあってはならない。

18.8 ティッサ青年の事例

249.(249) まさに、信あるままに、清らかな信あるままに、人は布施をする。しかして、そこにおいて、彼(布施を受ける者)が、他者たちの飲食に〔心を〕惑わす者と成るなら(自己の飲食と比較して心を動かすなら)、彼は、昼であろうと、夜であろうと、〔心の〕統一(定:三昧の境地)に到達しない。

250.(250) しかしながら、彼の、この〔迷い〕が断絶され、根元から殲滅され、完破されたなら、まさに、彼は、昼であろうと、夜であろうと、〔心の〕統一に到達する。

18.9 五者の在俗信者の事例

251.(251) 貪欲(貪)に等しい火は、存在しない。憤怒(瞋)に等しい捕捉者は、存在しない。迷妄(痴)に等しい網は、存在しない。渇愛に等しい川は、存在しない。

18.10 メンダカ長者の事例

252.(252) 他者たちの罪過は見易く、いっぽうで、自己の〔罪過は〕見難い。まさに、他者たちの諸々の罪過を、誇大に暴き立てる彼は、いっぽうで、自己の〔罪過を〕覆い隠す――狡猾な賭博師が、〔悪しき〕賽の目を〔隠す〕ように。

18.11 ウッジャーナサンニ長老の事例

253.(253) 他者の罪過を随観し、常に譴責の表象(想:概念・心象)ある者――彼の、諸々の煩悩は増え行き、彼は、煩悩の滅尽から遠く離れている。

18.12 スバッダ遍歴遊行者の事例

254.(254) まさしく、虚空に、足跡は存在せず、外に、沙門は存在しない。戯論(空想)に歓楽あるのが、〔世の〕人々である。戯論なきは、如来(あるがまま行為者)たちである。

255.(255) まさしく、虚空に、足跡は存在せず、外に、沙門は存在しない。諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)は、常恒のものとして存在しない。覚者たちに、〔心の〕動揺は存在しない。

 垢の章が、第十八となる。

19 法に依って立つ者の章

19.1 判決の大臣(裁判官)の事例

256.(256) 無理やり義(道理)を導くことで、それによって、法(正義)に依って立つ者と成るのではない。しかしながら、彼が、義(道理)、および、義(道理)ならざることを、両者ともに〔正しく〕判別できる賢者であるなら――

257.(257) 無理やりではなく、正しい法(真理)によって他者たちを導く、法(真理)を守る思慮ある者であり、〔彼は〕「法(正義)に依って立つ者」と呼ばれる。

19.2 六群〔の比丘〕の事例

258.(258) 多く語るだけで、それによって、賢者と成るのではない。〔心が〕平安で、怨みなく、恐れなき者が、「賢者」と呼ばれる。

19.3 エークダーナ煩悩滅尽者(阿羅漢)の事例

259.(259) 多く語るだけで、それだけで、法(教え)を保つ者と〔成るのでは〕ない。しかしながら、彼が、たとえ、僅かでも、聞いて〔そののち〕、身体によって法(教え)を見るなら、彼が、法(教え)を怠らないなら、まさに、彼は、法(教え)を保つ者と成る。

19.4 ラクンダカ・バッディヤ長老の事例

260.(260) 彼の頭が、白髪となったことで、それによって、彼は、長老(上座)と成るのではない。彼のばあい、年齢を重ねた〔だけのこと〕。〔彼は〕「無駄の老いぼれ」と呼ばれる。

261.(261) 彼において、しかして、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、不害、自制、調御があるなら、まさに、彼は、垢(汚れ)を吐き捨てた慧者であり、「長老」と呼ばれる。

19.5 大勢の比丘の事例

262.(262) 嫉妬深く、物惜しみで、狡猾な者が、言葉遣いのみで、あるいは、蓮華の色艶あることで、形姿善き人と成るのではない。

263.(263) しかしながら、彼の、この〔迷い〕が断絶され、根元から殲滅され、完破されたなら、彼は、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を吐き捨てた思慮ある者であり、「形姿善き者」と呼ばれる。

19.6 ハッタカの事例

264.(264) 掟なく、偽りを語っている者が、剃髪によって、沙門(修行者)と〔成るのでは〕ない。〔悪しき〕欲求と貪欲〔の思い〕に関与している者が、どうして、沙門と成るのだろう。

265.(265) しかしながら、彼が、諸々の微細なると粗大なる悪を、全てにわたり静めるなら、まさに、諸々の悪が静められたことから、〔彼は〕「沙門」と呼ばれる。

19.7 或るどこかの婆羅門の事例

266.(266) 他者たちに〔食を〕乞うだけで、それによって、彼は、比丘(行乞者)と成るのではない。一切の法(性質)を受持しても、それだけでは、比丘と成らない。

267.(267) 彼が、この〔世において〕、善も、悪も、〔両者ともに〕拒否して、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)となり、〔法を〕究めて、世を歩むなら、まさに、彼は、「比丘」と呼ばれる。

19.8 異教者の事例

268.(268) 迷乱の形質ある無知なる者が、〔ただの〕沈黙によって、牟尼(沈黙の聖者)と成るのではない。しかしながら、彼が、〔あたかも〕秤(はかり)を掴んでいるかのように、優れているものを〔正しく〕取って、賢者であるなら――

269.(269) 牟尼である彼は、諸々の悪を遍く避ける。それによって、彼は、牟尼と〔成る〕。彼が、世において、〔善と悪の〕両者を〔あるがままに〕思い考えるなら、それによって、〔彼は〕「牟尼」〔と〕呼ばれる。

19.9 漁師の事例

270.(270) 〔供犠で〕生き物たちを害することで、それによって、聖者と成るのではない。一切の生き物を害さないことで、〔彼は〕「聖者」と呼ばれる。

19.10 戒等を成就した大勢の比丘の事例

271.(271) 〔形だけの〕戒や掟のみで、あるいは、また、〔伝え聞きの〕多くの真理によって、あるいは、しかして、〔心の〕統一(定:三昧の境地)を得ることによって、あるいは、遠離した臥所によっても、〔確信の思いは得られ〕ない。

272.(272) 「凡夫の慣れ親しむところにあらざる、離欲の安楽を、〔わたしは〕体得するのだ」〔と思っていても〕、比丘よ、煩悩の滅尽を得ずにいる者は、〔真の〕確信を体験した〔ことにはならない〕。

 法に依って立つ者の章が、第十九となる。

20 道の章

20.1 五百の比丘の事例

273.(273) 諸々の道のなかでは、八つの支分ある〔聖なる道〕(八正道)が最勝である。諸々の真理のなかでは、四つの〔聖なる〕境処(四聖諦)が〔最勝である〕。諸々の法(教え)のなかでは、離貪〔の法〕が最勝である。しかして、二足の者(人間)たちのなかでは、眼ある者が〔最勝である〕。

274.(274) これこそは、道である。見の清浄のための、他〔の道〕は存在しない。まさに、この〔道〕を、あなたたちは実践しなさい――悪魔〔の結縛〕を解き放つ、この〔道〕を。

275.(275) まさに、この〔道〕を実践するあなたたちは、苦しみの終極を為すであろう。矢を抜き取ることを了知して、道は告げ知らされたのだ――わたしによって、あなたたちに。

276.(276) まさに、あなたたちは、為すべきことを熱く〔為せ〕。如来たちは、〔道を〕告げ知らす者たちである。〔この道を〕実践する瞑想者たちは、悪魔の結縛から解脱するであろう。

20.2 無常の特相の事例

277.(277) 「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが常住ならざるものである(諸行無常)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。

20.3 苦痛の特相の事例

278.(278) 「諸々の形成〔作用〕(形成されたもの・現象世界)は、全てが苦しみである(一切皆苦)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。

20.4 無我の特相の事例

279.(279) 「諸々の法(事象)は、全てが自己ならざるものである(諸法無我)」と、知慧によって見るとき、しかして、苦しみについて厭離する――これは、清浄への道である。

20.5 パダーナカンミカ・ティッサ長老の事例

280.(280) 奮起する時に奮起せずにいる者、若く力があるのに怠け癖を具した者、思惟と意〔の働き〕が沈滞した怠惰なる者――怠け者は、知慧によって道を知ることがない。

20.6 スーカラ餓鬼の事例

281.(281) 言葉を守り、意によって善く統御された者が、しかして、身体によって善ならざることを為さないなら、これらの三つの行為の道を清め、聖賢によって知らされた道に達するであろう。

20.7 ポッティラ長老の事例

282.(282) まさに、〔心の〕制止(瑜伽)あるがゆえに、英知は生まれる。〔心の〕制止なきがゆえに、英知の消滅がある。実体(有:存在)への〔道を〕、さらには、虚無(非有:無)への〔道を〕――この二種の道を〔あるがままに〕知って、英知が増え行くように、そのように、自己を、確たるものとするがよい。

20.8 五者の老練の比丘の事例

283.(283) 〔一本の〕木ではなく、林〔そのもの〕を断て。〔欲の〕林からは、恐怖が生まれる。比丘たちよ、林と〔その〕林叢(したばえ)とを、〔両者ともに〕断って、〔欲の〕林なき者たちと成れ。

284.(284) まさに、女たちにたいする男の〔欲の〕林叢が、微塵ばかりでさえも、断たれずに〔残って〕いるかぎり、それだけで、彼は、まさしく、意が縛られた者となる――乳を飲む子牛が、母〔牛〕にたいするように。

20.9 スヴァンナカーラ長老の事例

285.(285) 自己への愛執〔の思い〕を断て――秋の蓮を、手で〔断ち切る〕ように。善き至達者(ブッダ)によって説示された涅槃〔の境処〕を、寂静の道こそを、育てよ。

20.10 マハーダナ商人の事例

286.(286) 「雨期のあいだ、〔わたしは〕ここで過ごすであろう。冬と夏には、ここで〔過ごすであろう〕」〔と〕、かくのごとく、愚者は熟慮するが、〔すぐ目の前の〕障(さわ)り(危険)を覚らない。

20.11 キサー・ゴータミーの事例

287.(287) 彼を、子供や家畜に夢中になり〔それらに〕執着の意ある人を、死魔は取って行く――眠りについた村を、大激流が〔流し去ってしまう〕ように。

20.12 パターチャーラーの事例

288.(288) 子供たちは、〔わが身の〕救いのために存在するのではない。父親は、〔わが身の救いのために存在するのでは〕ない。眷属たちもまた、〔わが身の救いのために存在するのでは〕ない。死神に囚われた者の救い手は、親族たちのなかには存在しない。

289.(289) この義(道理)たる所以を知って、戒において〔自己が〕統御された賢者は、涅槃に至る道を、ごくすみやかに清めるであろう。

 道の章が、第二十となる。

21 雑駁なるものの章

21.1 自己の過去の行為の事例

290.(290) もし、少量なる安楽を完全に捨て去るがゆえに、広大なる安楽を見るなら、広大なる安楽を〔常に〕正しく見ている慧者は、少量なる安楽を捨て去るであろう。

21.2 鶏の卵を喰う女の事例

291.(291) 他者に苦痛を与えることで、自己の安楽を求める者――怨み〔の思い〕と持ちつ持たれつの彼は、怨み〔の思い〕から解き放たれない。

21.3 バッディヤの比丘たちの事例

292.(292) まさに、その、為すべきことが捨てられ、いっぽうで、為すべきではないことが為されるなら、傲慢で〔気づきを〕怠る彼らの、諸々の煩悩は増え行く。

293.(293) しかしながら、彼らが、善く努め励み、常に、身体の在り方(時々刻々の身体の状況)についての気づき(念)があるなら、彼らは、諸々の為すべきことを常に為す者たちであり、為すべきではないことには親しまない。気づきと正知の者たちの、諸々の煩悩は〔自ずと〕滅却に至る。

21.4 ラクンダカ・バッディヤの事例

294.(294) 母(渇愛)と父(「わたしは存在する」という思量)を打ち砕いて、しかして、二者の士族の王(常住論と断滅論)を〔打ち砕いて〕、国(認識作用と認識対象)を従者(喜びと貪り)と共に打ち砕いて、煩悶なき婆羅門は行く。

295.(295) 母(渇愛)と父(「わたしは存在する」という思量)を打ち砕いて、しかして、二者の聞経者(婆羅門)の王(常住論と断滅論)を〔打ち砕いて〕、虎のような第五のもの(疑惑の思い)を打ち砕いて、煩悶なき婆羅門は行く。

21.5 木材の車引きの子の事例

296.(296) 彼らに、昼も、夜も、常に、覚者(仏:ブッダ)の在り方についての気づきがあるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

297.(297) 彼らに、昼も、夜も、常に、法(法:ダンマ)の在り方についての気づきがあるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

298.(298) 彼らに、昼も、夜も、常に、僧団(僧:サンガ)の在り方についての気づきがあるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

299.(299) 彼らに、昼も、夜も、常に、身体の在り方についての気づきがあるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

300.(300) 彼らに、昼も、夜も、不害〔の実践〕に喜びの意があるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

301.(301) 彼らに、昼も、夜も、修行〔の実践〕に喜びの意があるなら、〔彼らは〕ゴータマ(ブッダ)の弟子たちであり、善く目覚めた〔状態〕に、常に目覚めている。

21.6 ヴァッジ・プッタカ比丘の事例

302.(302) 出家し難く、〔出家の生活は〕喜び難きもの。在家〔の生活〕は住み難く、苦しきもの。同輩との共住は苦しく、苦しみに出会うのが旅行く者(遊行者)。それゆえに、しかして、旅行く者として存さないように。かつまた、苦しみに出会う者として存さないように。

21.7 チッタ家長の事例

303.(303) 信あり、戒を成就し、福徳と財物を授与された者は、〔彼が〕親しくする、その〔地域〕、その地域で、まさしく、そこかしこで、供養される者となる。

21.8 チューラスバッダーの事例

304.(304) 正しくある者たちは、遠くにあるも知れわたる――ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山嶺のように。正しからざる者たちは、この場にあるも見られない――夜に放たれた諸々の矢のように。

21.9 エーカヴィハーリ長老の事例

305.(305) 独り坐し、独り臥し、独り、休むことなく歩みつつ、独り、自己を調御しながら、林の外れにて、喜びある者として存するがよい。

 雑駁なるものの章が、第二十一となる。

22 地獄の章

22.1 スンダリー女遍歴遊行者の事例

306.(306) 事実ならざることを説く者は、地獄へと近づき行く。あるいは、また、彼が、為しておきながら、なおかつ、「〔わたしは〕為してない」〔と〕言うなら、〔彼もまた、地獄へと近づき行く〕。彼らは、死してのち、両者ともどもに等しきものと成る――下劣な行為(劣業)の人間たちとして、他所(来世)において。

22.2 悪しき行ないの果に責め苛まれる者の事例

307.(307) 黄褐色〔の衣〕(袈裟)を首にしながら、自制なく、悪しき法(性質)の者たちが、多くいる。彼ら、悪しき者たちは、〔自己の為した〕諸々の悪しき行為(悪業)によって、地獄に再生する。

22.3 ヴァッグムダー〔川〕の岸辺にいる比丘の事例

308.(308) 自制なく、戒に劣る者が、もし、国土において〔行乞の〕食を受ける、というのなら、熱せられた、火炎の如き鉄の玉を食べたほうが、より勝っている(悪業を作って地獄に落ちるよりはまだましである)。

22.4 ケーマカ長者の子の事例

309.(309) 〔気づきを〕怠り、他者に仕え親しむ人は、四つの状況を体験する。〔すなわち〕善ならざる利得(悪しき報い)あること、欲するままに臥せないこと、第三に、非難〔を受けること〕、第四に、地獄〔に堕ちること〕である。

310.(310) 善ならざる利得ある〔男〕と、悪しき境遇〔の女〕とがいる。恐怖する〔男〕に、恐怖する〔女〕に、しかして、歓楽は僅か。しかして、王は、重き棒(罰)を課す。それゆえに、人は、他者の妻と慣れ親しまぬもの。

22.5 悪しき言葉の比丘の事例

311.(311) 誤って掴んだ茅〔の葉〕が、まさしく、手を傷つけるように、誤って偏執された沙門の資質は、〔沙門その人を〕地獄へと引きずり落とす。

312.(312) それが何であれ、緩慢な行為であるなら、さらには、それが、汚染された掟であり、疑いある梵行(禁欲清浄行)であるなら、それは、大いなる果と成らない。

313.(313) もし、為すべきなら、これを為し、断固として、これに勤しむように。なぜなら、緩慢な遍歴遊行者は、より一層、塵を撒き散らすからである。

22.6 嫉妬〔の思い〕に支配された婦女の事例

314.(314) 悪行は、〔為すよりは〕為さずにいたほうが、より勝っている。のちに、為した悪が〔為した者を〕苦しめる〔からである〕。しかして、善行は、〔為さずにいるよりは〕為したほうが、より勝っている。それを為して苦しまない〔からである〕。

22.7 大勢の比丘の事例

315.(315) 辺境にある、内外共に守られた城市のように、このように、自己を守るがよい。〔この〕瞬間が、あなたたちを超え行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。なぜなら、〔この〕瞬間を〔無駄に〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむからである。

22.8 ニガンタ(ジャイナ教徒)の事例

316.(316) 〔彼らは〕恥ずべきではないところで恥じ、恥ずべきところで恥じない――誤った見解(邪見)を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇(悪趣)に赴く。

317.(317) 恐怖なきところで恐怖を見る者たち、さらには、恐怖あるところで恐怖を見ない者たち――誤った見解を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇に赴く。

22.9 異教者と弟子の事例

318.(318) 罪過なきものについて「罪過あり」と思い、さらには、罪過あるものについて「罪過なし」と見る者たち――誤った見解を受持しながら、〔迷いの〕有情たちは、悪しき境遇に赴く。

319.(319) しかしながら、罪過あるものを「罪過あり」と知って、さらには、罪過なきものを「罪過なし」と〔知って〕、正しい見解(正見)を受持しながら、〔迷いなき〕有情たちは、善き境遇(善趣)に赴く。

 地獄の章が、第二十二となる。

23 象の章

23.1 自己が調御された者の事例

320.(320) 象が、戦場において、弓から放たれた矢を〔忍受する〕ように、わたしは、〔他者からの〕誹謗の言葉を忍受するであろう。まさに、〔世の〕多くの人々は、劣戒の者(性質の悪い者)である。

321.(321) 調御された〔象〕を、〔人の〕集まるところ(戦場)へと、〔人間たちは〕導く。調御された〔象〕に、王は乗る。人間たちのなかで最勝の者は、〔自己が〕調御された者である。彼は、〔他者からの〕誹謗の言葉を忍受する。

322.(322) 優れているのは、調御された騾馬(らば)たちであり、しかして、善き生まれのシンダヴァたち(シンドゥ産の良馬)であり、さらには、「クンジャラ」〔という名〕の巨象たちである。〔しかしながら〕それよりも優れているのは、自己が調御された者である。

23.2 ハッターチャリヤ(象の調教師)・プッバカ比丘の事例

323.(323) まさに、これらの乗り物では、至らざる地(涅槃)に行くことはできない――善く調御された自己〔という乗り物〕で、調御された者が調御によって行くようには。

23.3 老い朽ちた婆羅門の子の事例

324.(324) 「財の守護者」という名のクンジャラ〔象〕がいる。辛辣なる破壊者で、防護し難く、捕縛されたなら、餌を食べない。クンジャラ〔象〕は、象の林を思念する。

23.4 コーサラ〔国〕のパセーナディ〔王〕の事例

325.(325) 惰眠の者として、さらには、大飯食いの者として、〔世に〕有るとき、眠りこけては、ごろ寝をする者となる。餌で養われた大豚のように、愚か者は、繰り返し、〔母〕胎へと近づき行く。

23.5 サーヌ沙弥の事例

326.(326) かつて、この心は、〔気ままに〕歩みさすらう者として歩んできた――求める所から、欲する所へと、安楽なるままに。わたしは、今日、それ(心)を、根源から制御するであろう――鉤をもつ捕捉者(象使い)が、狂象を〔制御する〕ように。

23.6 パーヴェイヤカ象の事例

327.(327) 〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)に喜びある者たちと成れ。自らの心を守れ。難所から自己を引き抜け――汚泥にはまったクンジャラ〔象〕が、〔自らを引き抜く〕ように。

23.7 大勢の比丘の事例

328.(328) 彼が、もし、賢明なる道友を得るなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た気づきの者となり、彼とともに、歩むがよい。

329.(329) もし、賢明なる道友を得ないなら、共に歩む善き住者たる慧者を〔得ないなら〕、征圧した国土を捨棄して〔顧みない〕王のように、林のなかのマータンガ象のように、独り、歩むがよい。

330.(330) 独りある者の歩みのほうが、より勝っている。愚者のうちに、道友たること(真の友情)は存在しない。しかして、諸々の悪しきことを為さず、〔俗事に〕思い入れ少なく、林のなかのマータンガ象のように、独り、歩むがよい。

23.8 悪魔の事例

331.(331) 義(事態)が生じたとき、道友たちがいることは、安楽である。すなわち、いかなるものによっても〔足ることを知り〕、満足〔の思い〕があることは、安楽である。生命の消滅あるとき、〔善き〕功徳があることは、安楽である。一切の苦痛を捨棄することは、安楽である。

332.(332) 世において、母を敬うことは、安楽である。しかして、父を敬うことは、安楽である。世において、沙門の資質あることは、安楽である。しかして、梵(婆羅門)の資質あることは、安楽である。

333.(333) 老いてなお、戒あることは、安楽である。確立した信あることは、安楽である。知慧を獲得することは、安楽である。諸々の悪を為さないことは、安楽である。

 象の章が、第二十三となる。

24 渇愛の章

24.1 カピラ魚の事例

334.(334) 〔気づきを〕怠るままに歩む人間の、渇愛〔の思い〕は増え行く――蔓草が〔生い茂る〕ように。彼は、あの〔世〕からあの〔世〕へと浮きただよう(輪廻する)――猿が、林のなかで果実を求めるように。

335.(335) 渇愛が、世における執着が、この卑しむべきものが、彼を打ち負かすなら、彼の、諸々の憂いは増え行く――雨を得たビーラナ〔草〕のように。

336.(336) しかしながら、渇愛を、世における超え難きものを、この卑しむべきものを、彼が打ち負かすなら、彼から、諸々の憂いは落ち行く――蓮〔の葉〕から、水の滴(しずく)が〔落ちる〕ように。

337.(337) 〔わたしは〕それを、あなたたちに説くであろう。ここに集いあつまったかぎりの、あなたたち〔全て〕に、幸せ〔有れ〕。渇愛の根を掘り崩せ――ウシーラ(ビーラナ草の根・香料として使う)〔の採取〕を義(目的)とする者が、ビーラナ〔草〕を〔掘る〕ように。悪魔が、繰り返し、あなたたちを、まさしく、流れが葦を〔打ちひしぐ〕ように、打ち砕くことがあってはならない。

24.2 若い雌豚の事例

338.(338) また、根が無禍にして堅固であるなら、たとえ、切断された木でも、まさしく、ふたたび成長するように、また、このように、渇愛の悪習(随眠)が打破されていないなら、この苦しみは、繰り返し発現する。

339.(339) 彼に、意に適うもの(欲望の対象)へと流れ行く、激しい三十六の流れがあるなら、諸々の貪欲〔の思い〕に依存した諸々の妄想が、運び手たちとなり、悪しき見解を運び来る。

340.(340) 諸々の〔渇愛の〕流れは、一切所に流れ行く。〔貪欲の〕蔓草は、芽生えては止(とど)まり住む。しかして、その蔓草が生じたのを見て、知慧によって、〔その〕根を断て。

341.(341) 諸々の〔渇愛の〕流れがあり、かつまた、諸々の愛執〔の対象〕があり、人には、〔その原因となる〕諸々の悦意(満足の思い)が有る。彼らは、快楽に依存する者たちであり、安楽を求める者たちである。まさに、彼らは、生と老〔の輪廻〕へと近づき行く人たちである。

342.(342) 渇愛〔の思い〕で〔特定のものを〕偏重する人々は、捕縛された兎のように這い回る。束縛するもの(欲望の対象)に執着〔の思い〕ある有情たちは、長きにわたり、繰り返し、苦しみへと近づき行く。

343.(343) 渇愛〔の思い〕で〔特定のものを〕偏重する人々は、捕縛された兎のように這い回る。それゆえに、渇愛〔の思い〕を取り除くがよい――自己の離貪を望みつつ。

24.3 還俗した比丘の事例

344.(344) 〔まさに〕その、〔欲の〕林叢(したばえ)なき者となりながら、〔欲の〕林に向かう者――〔欲の〕林から解き放たれた者となりながら、まさしく、〔欲の〕林へと走り行く者――来たれ、見よ、その人を。〔欲の結縛から〕解き放たれた者となりながら、まさしく、〔欲の〕結縛へと走り行く。

24.4 家の結縛の事例

345.(345) 〔まさに〕その、鉄でできているもの、木製のもの、さらには、麻製のものも――慧者たちは、それを、堅固な結縛と言わない。諸々の宝珠や耳飾にたいする貪染〔の思い〕に染まったもの――子たちにたいする、さらには、妻たちにたいする、〔まさに〕その、期待〔の思い〕なるもの――

346.(346) 重くのしかかり、緩やかではあるが、解き放ち難きもの――慧者たちは、これを、堅固な結縛と言う。〔彼らは〕これさえも断ち切って、遍歴遊行する――期待なき者たちとなり、欲望の楽しみを捨棄して。

24.5 ケーマー長老尼の事例

347.(347) 彼ら、貪欲〔の思い〕に染まった者たちは、〔渇愛の〕流れに沈む――蜘蛛が、自ら作った網に〔からまる〕ように。慧者たちは、これをもまた断ち切って、行く――期待なき者たちとなり、一切の苦しみを捨棄して。

24.6 ウッガセーナの事例

348.(348) 過去における〔迷いの生存を〕解き放て(過去の記憶に振り回されない)――未来から〔迷いの生存を〕解き放て(未来にたいし自分勝手な期待をしない)――〔その〕中間(現在)における〔迷いの〕生存(有)を解き放て(今この瞬間に執着の対象を作らない)――彼岸に至る者となり。一切所に意が解脱した〔あなた〕は、ふたたび、生と老〔の輪廻〕へと近づき行くことはないであろう。

24.7 練達の弓術師の事例

349.(349) 転倒した思考の人に、強き貪欲の者に、〔不浄の身体について〕「美しい(価値がある)」と随観する者に、渇愛〔の思い〕は、より一層、増え行く。まさに、この者は、〔自らの〕結縛を堅固に作り為す。

350.(350) しかしながら、彼が、思考〔の働き〕の寂止に喜びある者であり、〔身体について〕「美しくない(価値がない)」〔とする表象〕(不浄想)を修める、常に気づきある者であるなら、この者は、まさに、〔悪魔の結縛の〕終息を為すであろう。この者は、悪魔の結縛を断ち切るであろう。

24.8 悪魔の事例

351.(351) 究極〔の境地〕に赴き、畏怖なく、渇愛を離れ、穢れなき者は、諸々の〔迷いの〕生存の矢を断ち切った。これは、最後の積身(からだ)である(死後、涅槃に行く)。

352.(352) 渇愛を離れ、執取なく、語義を熟知し、かつまた、諸々の文字の配列と前後〔関係〕を知るなら、まさに、彼は、「最後の肉体ある者(解脱者)」「大いなる知慧の者」「大いなる人士たる者」と呼ばれる。

24.9 ウパカ・アージーヴァカ(邪命外道)の事例

353.(353) わたしは、一切を征服する者、一切を知る者、一切の諸法(事象)に汚されない者として、〔世に〕存している。一切を捨棄する者は、渇愛の滅尽〔という境地〕において解脱した者は、自ら証知して、誰を、〔師と〕定めよう。

24.10 サッカ(帝釈天)の問いの事例

354.(354) 法(真理)の施しは、一切の施しに勝つ。法(真理)の味わいは、一切の味わいに勝つ。法(真理)の喜びは、一切の喜びに勝つ。渇愛の滅尽は、一切の苦しみに勝つ。

24.11 子のない長者の事例

355.(355) 諸々の財物は、思慮浅き者を打ち砕く。しかしながら、彼岸を求める者たちを〔打ち砕くことは〕ない。思慮浅き者は、財物にたいする渇愛〔の思い〕のために、他者たちを〔打ち砕く〕ようにして、自己を打ち砕く。

24.12 アンクラの事例

356.(356) 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。貪欲(貪)という汚点あるのが、この〔世の〕人々である。それゆえに、まさに、貪欲から離れた者たちに施されたものは、大いなる果と成る。

357.(357) 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。憤怒(瞋)という汚点あるのが、この〔世の〕人々である。それゆえに、まさに、憤怒から離れた者たちに施されたものは、大いなる果と成る。

358.(358) 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。迷妄(痴)という汚点あるのが、この〔世の〕人々である。それゆえに、まさに、迷妄から離れた者たちに施されたものは、大いなる果と成る。

359.(359) 雑草という汚点あるのが、諸々の田畑である。欲求という汚点あるのが、この〔世の〕人々である。それゆえに、まさに、欲求から離れた者たちに施されたものは、大いなる果と成る。

 渇愛の章が、第二十四となる。

25 比丘の章

25.1 五者の比丘の事例

360.(360) 眼(視覚機能)によって統御することは、善きことである。耳(聴覚機能)によって統御することは、善きことである。鼻(嗅覚機能)によって統御することは、善きことである。舌(味覚機能)によって統御することは、善きことである。

361.(361) 身体(身)によって統御することは、善きことである。言葉(口)によって統御することは、善きことである。意(意)によって統御することは、善きことである。一切所において統御することは、善きことである。一切所において統御された比丘は、一切の苦しみから解き放たれる。

25.2 ハンサガータカ比丘の事例

362.(362) 手によって自制され、足によって自制され、言葉によって自制された、最上の自制者――〔心が〕定められ、内に喜びある者――〔常に〕満ち足りている、独りある者――彼を、〔賢者たちは〕「比丘」と言う。

25.3 コーカーリカの事例

363.(363) 彼が、口によって自制された比丘として、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらず、義(道理)を〔明らかにし〕、しかして、法(真理)を明らかにするなら、彼の語るところは、〔蜜のように〕甘美である。

25.4 ダンマーラーマ長老の事例

364.(364) 法(真理)を喜びとし、法(真理)に喜びあり、法(真理)を〔常に〕弁別し、法(真理)を〔常に〕随念している比丘は、正なる法(真理)から衰退しない。

25.5 敵対者と慣れ親しむ比丘の事例

365.(365) 自らの利得(行乞で得た施物)を軽んじないように。他者たち〔の利得〕を羨む者として歩まないように。他者たち〔の利得〕を羨んでいる比丘は、〔心の〕統一に到達しない。

366.(366) たとえ、もし、〔自らの〕利得が僅かであるとして、比丘は、自らの利得を軽んじることがない。休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある彼を、まさに、天〔の神々〕たちは賞賛する。

25.6 パンチャッガダーヤカ婆羅門の事例

367.(367) 彼に、全てにあまねく、名前と形態(名色:現象世界)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、まさに、彼は、「比丘」と呼ばれる。

25.7 大勢の比丘の事例

368.(368) 彼が、慈愛〔の心〕に住する比丘であり、覚者(ブッダ)の教えに清らかな信ある〔比丘〕であるなら、〔彼は〕寂静の境処に到達するであろう――形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という、安楽〔の境地〕に。

369.(369) 比丘よ、この舟〔の水〕を汲み出せ。あなたによって〔水を〕汲み出された〔舟〕は、軽やかに行くであろう。貪欲と憤怒とを〔完全に〕断ち切って、そののち、〔あなたは〕涅槃に行くであろう。

370.(370) 五つ〔の束縛するもの〕(修行者を欲界に縛る五つの束縛)を断つように。五つ〔の束縛するもの〕(修行者を色界と無色界に縛る五つの束縛)を捨棄するように。くわえて、また、五つ〔の機能〕(信・精進・気づき・心の統一・知慧)を修めるように。五つの執着(貪欲・憤怒・迷妄・思量・見解)を超え行く比丘は、「激流を超え渡った者」と呼ばれる。

371.(371) 比丘よ、瞑想せよ。〔気づきを〕怠ること(放逸)があってはならない。欲望の対象(妙欲)において、あなたの心を喜ばせることがあってはならない。怠る者となり、銅の玉を飲み込んではならない。〔欲の炎に〕焼かれる者となり、「これは、苦しみだ」と泣き叫んではならない。

372.(372) 知慧なき者に、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)は存在しない。瞑想なき者に、知慧は存在しない。彼において、瞑想と知慧とがあるなら、まさに、彼は、涅槃の現前にある。

373.(373) 〔人のいない〕空家に入った寂静心の比丘が、法(事象)を正しく〔あるがままに〕観察していると、人間ならざる喜びが有る(世俗の喜びを超えた喜びが生起する)。

374.(374) 〔心身を構成する五つの〕範疇(蘊)の生滅を〔時々刻々に〕触知するたびごとに、〔身体の在り方をあるがままに〕識知している者たちの、〔まさに〕その、不死なる喜悦と歓喜を、〔彼は〕得る。

375.(375) そこで、このことは、知慧ある比丘にとって、この〔世において〕、最初〔に為すべきこと〕と成る。〔感官の〕機能(根)を守る者となり、〔欲を貪らない〕知足の者となり、しかして、戒条(波羅提木叉:戒律条項)において〔自己を〕統御する者となり――

376.(376) 休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある、善き朋友たちと親しくせよ。友愛の生活ある者として存し、〔正しい〕行ないに巧みな智ある者として存するなら、そののち、歓喜多き者となり、苦しみの終極を為すであろう。

25.8 五百の比丘の事例

377.(377) ヴァッシカー(ジャスミン)が、萎れた花々を解き放つ(落とす)ように、比丘たちよ、このように、貪欲と憤怒とを〔完全に〕解き放つように。

25.9 サンタカーヤ長老の事例

378.(378) 身体が寂静で、言葉が寂静で、〔心が〕善く定められた寂静なる者――世財を吐き捨てた比丘は、「寂静者」と呼ばれる。

25.10 ナンガラクラ長老の事例

379.(379) 自己によって自己を叱咤せよ。自己によって〔自己を〕反省せよ。〔まさに〕その〔あなた〕は、自己が守られ、気づきある者となる。比丘よ、〔あなたは〕安楽に住するであろう。

380.(380) まさに、自己は、自己の主。まさに、他の誰が、主として存するというのだろう。まさに、自己は、自己の赴く所。それゆえに、自己を自制せよ――商人が、賢馬を〔調御する〕ように。

25.11 ヴァッカリ長老の事例

381.(381) 歓喜多き比丘は、覚者(ブッダ)の教えに清らかな信ある〔比丘〕は、寂静の境処に到達するであろう――形成〔作用〕の寂止という、安楽〔の境地〕に。

25.12 スマナ沙弥の事例

382.(382) 彼が、まさに、青年でありながらも、比丘として、覚者(ブッダ)の教えに専念するなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。

 比丘の章が、第二十五となる。

26 婆羅門の章

26.1 清らかな信多き婆羅門の事例

383.(383) 婆羅門よ、〔渇愛の〕流れを断て。〔道心堅固に〕勤しんで、諸々の欲望を除け。婆羅門よ、諸々の形成〔作用〕(諸行:形成されたもの・現象世界)の滅尽を知って、〔あなたは〕作られざるもの(涅槃)を知る者として〔世に〕存するのだ。

26.2 大勢の比丘の事例

384.(384) 婆羅門が、〔対立する〕二つの法(事象)について、彼岸に至る者(善悪の彼岸にいる者)として〔世に〕有るとき、しかして、〔あるがままをあるがままに〕知っている彼の、一切の束縛は〔自ずと〕滅却に至る。

26.3 悪魔の事例

385.(385) 彼に、彼岸が〔見い出されず〕、あるいは、此岸が〔見い出されず〕、彼岸と此岸が〔両者ともに〕見い出されないなら、懊悩を離れ、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.4 或るどこかの婆羅門の事例

386.(386) 〔世俗の〕塵を離れ〔林の中で〕坐す瞑想者を、為すべきことを為した煩悩なき者を、最上の義(目的)を獲得した者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.5 アーナンダ長老の事例

387.(387) 日は、昼に輝き、月は、夜に明からむ。士族は、武装して輝き、婆羅門は、瞑想にあって輝く。しかして、覚者(ブッダ)は、昼夜全てに、威光もて輝く。

26.6 或るどこかの婆羅門の出家者の事例

388.(388) 悪を拒否した者、ということで、「婆羅門」〔と呼ばれる〕。性行(おこない)が平静なるがゆえに、「沙門」と呼ばれる。自己の垢を〔常に〕払っている者は、それゆえに、「出家者」と呼ばれる。

26.7 サーリプッタ長老の事例

389.(389) 婆羅門を打たないように。婆羅門は、彼(婆羅門を打つ者)に、〔怒りの思いを〕解き放たないように。婆羅門を傷つける者は、厭わしい。彼(婆羅門を打つ者)に、〔怒りの思いを〕解き放つなら、彼(婆羅門を打つ者)よりも、厭わしい。

390.(390) 諸々の愛しいものからの慎みの意あるとき、婆羅門にとって、このことは、〔他の何よりも〕少なからず、より勝っている。害する意が減るたびごとに、そのたびごとに、苦しみは、まさしく、静まる。

26.8 マハーパジャーパティー・ゴータミーの事例

391.(391) 彼に、身体(身)と言葉(口)と意(意)による悪行が存在しないなら、三つの状況(身・句・意の三業)によって〔自己が〕統御された者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.9 サーリプッタ長老の事例

392.(392) 彼から、正自覚者(ブッダ)によって説示された法(真理)を識知するなら、謹んで、彼を礼拝するがよい――婆羅門が、祭火への捧げものを〔献じる〕ように。

26.10 結髪の婆羅門の事例

393.(393) 結髪にあらず、氏姓にあらず、出生にあらず――〔彼が〕婆羅門と成るのは。彼において、しかして、真理があり、かつまた、法(教え)があるなら、彼は、清らかな者であり、しかして、彼は、婆羅門と〔成る〕。

26.11 虚言の婆羅門の事例

394.(394) 思慮浅き者よ、あなたにとって、結髪が、何になるというのだろう。あなたにとって、皮衣が、何になるというのだろう。あなたには、内なる収め取り(執着)がある。〔あなたは〕外に〔見てくれを〕繕っている。

26.12 キサー・ゴータミーの事例

395.(395) 糞掃衣(ふんぞうえ:ぼろ布)を〔身に〕付ける人を、痩せ細り〔浮き出た〕血管が〔身体中に〕広がった者を、林のなかで、独り、瞑想している者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.13 或る婆羅門の事例

396.(396) しかして、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から発生する者を、「婆羅門」と説かない。彼が、もし、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、「ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)」という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.14 ウッガセーナ長者の子の事例

397.(397) 一切の束縛するものを断ち切って、彼が、まさに、思い悩まないなら、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.15 二者の婆羅門の事例

398.(398) 紐(憤怒)を断ち切って、さらには、緒(渇愛)を〔断ち切って〕、手綱(煩悩)と共に、綱(六十二邪見)を〔断ち切って〕、閂(無明)を引き抜いた覚者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.16 アッコーサカ・バーラドヴァージャの事例

399.(399) 罵倒を、さらには、殴打と結縛を、彼が、怒ることなく忍受するなら、忍耐の力ある者であり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.17 サーリプッタ長老の事例

400.(400) 忿激せず、掟あり、戒あり、焦りなき者を――最後の肉体ある、調御者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.18 ウッパラヴァンナー長老尼の事例

401.(401) 蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐(きり)の先にある芥子〔粒〕のように、彼が、諸々の欲望〔の対象〕に汚されないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.19 或るどこかの婆羅門の事例

402.(402) 彼が、まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知するなら、〔生の〕重荷を降ろした者であり、〔世の〕束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.20 ケーマー比丘尼の事例

403.(403) 深遠なる知慧ある者を、思慮ある者を、道と道ならざるものの熟知者を、最上の義(目的)を獲得した者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.21 パッバーラの住者ティッサ長老の事例

404.(404) 在家の者たち、および、家なき者たちと、〔その〕両者と交わらず、家なくして行く、求むこと少なき者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.22 或るどこかの比丘の事例

405.(405) 動くものたち、および、動かないものたちにたいし、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼が、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.23 沙弥たちの事例

406.(406) 〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)を、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者を、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.24 マハーパンタカ長老の事例

407.(407) 芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように、彼の、しかして、貪欲(貪)が〔打ち倒され〕、さらには、憤怒(瞋)が〔打ち倒され〕、思量(慢)、および、偽装(覆)が打ち倒されたなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.25 ピリンダヴァッチャ長老の事例

408.(408) 粗野ではなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を発し、それ(言葉)によって、誰であれ、傷つけることがないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.26 或るどこかの長老の事例

409.(409) 彼が、この〔世における〕、あるいは、長きものを、あるいは、短きものを、微細なると粗大なるものを、美なると美ならざるもの(清浄のものと不浄のもの)を、〔何であれ〕世において与えられていないものを取らないなら、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.27 サーリプッタ長老の事例

410.(410) この世において、さらには、他〔世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見い出されないなら、願求〔の思い〕なき者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.28 マハーモッガッラーナ長老の事例

411.(411) 彼に、諸々の執着が見い出されず、〔一切を〕了知して、懐疑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃)を獲得した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.29 レーヴァタ長老の事例

412.(412) 彼が、この〔世において〕、善も、悪も、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れる、清浄の者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.30 チャンダーバ長老の事例

413.(413) 月のように、垢(汚れ)を離れ、清浄で、清らかな信ある、濁りなき者を、愉悦〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.31 シーヴァリ長老の事例

414.(414) 彼が、この、障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行ったなら、〔激流を〕超え、彼岸に至った瞑想者であり、動揺なく、懐疑なく、〔一切を〕執取せずして、涅槃に到達した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.32 スンダラサムッダ長老の事例

415.(415) 彼が、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.33 ジャティラ長老の事例

416.(416) 彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.34 ジョーティカ長老の事例

417. 彼が、この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を捨棄して、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.35 ナタプッタカ長老の事例

418.(417) 人間としての束縛を捨棄して、天〔の神〕としての束縛を超え行ったなら、一切の束縛について束縛を離れた者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.36 ナタプッタカ長老の事例

419.(418) 歓楽も、不満も、〔両者ともに〕捨棄して、〔心が〕冷静(おだやか)と成った者を、〔心の〕依り所(依存の対象)なき者を、一切世〔界〕を征服する勇者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.37 ヴァンギーサ長老の事例

420.(419) 彼が、有情(生類)たちの死滅を、さらには、再生を、全てにわたり知ったなら、〔一切に〕執着なき者であり、善き至達者たる覚者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

421.(420) 天〔の神々〕たちが、ガンダッバ(音楽神)や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩が滅尽した者であり、阿羅漢(人格完成者)であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.38 ダンマディンナー長老尼の事例

422.(421) 彼のものが、過去にも、未来にも、〔その〕中間(現在)においても、何ものも存在しないなら、無一物の者であり、無執取の者であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.39 アングリマーラ長老の事例

423.(422) 〔勇猛果敢な〕雄牛を、最も優れた勇者を、偉大なる聖賢を、〔一切の〕征圧者を、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者を――わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

26.40 デーヴァヒタ婆羅門の事例

424.(423) 彼が、過去(前世)の居住(いきざま)を知ったなら、さらには、〔死後に赴く〕天上と悪所(地獄)を〔あるがままに〕見るなら、しかして、生の滅尽を得た者であり、〔あるがままに〕証知して〔知慧が〕完成された牟尼であり、一切が完成された完成者を、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

 婆羅門の章が、第二十六となる。

 これだけで、全て〔の章〕の最初のものとなる対なるものの章において、十四の事例があり、怠らないことの章において、九つ〔の事例〕があり、心の章において、九つ〔の事例〕があり、花の章において、十二〔の事例〕があり、愚者の章において、十五〔の事例〕があり、賢者の章において、十一〔の事例〕があり、阿羅漢の章において、十〔の事例〕があり、千の章において、十四〔の事例〕があり、悪の章において、十二〔の事例〕があり、棒の章において、十一〔の事例〕があり、老の章において、九つ〔の事例〕があり、自己の章において、十〔の事例〕があり、世の章において、十一〔の事例〕があり、覚者の章において、九つ〔の事例〕があり、安楽の章において、八つ〔の事例〕があり、愛しいものの章において、九つ〔の事例〕があり、忿激の章において、八つ〔の事例〕があり、垢の章において、十二〔の事例〕があり、法に依って立つ者の章において、十〔の事例〕があり、道の章において、十二〔の事例〕があり、雑駁なるものの章において、九つ〔の事例〕があり、地獄の章において、九つ〔の事例〕があり、象の章において、八つ〔の事例〕があり、渇愛の章において、十二〔の事例〕があり、比丘の章において、十二〔の事例〕があり、婆羅門の章において、四十〔の事例〕があり、ということで、三百と加えて五つの事例がある。

 〔しかして、詩偈に言う〕「四百二十三〔の詩偈〕を有する〔聖典〕が、四つの真理の分明者によって、しかして、三百と加えて五つの事例のために、現起した」と。

 ダンマパダにおける諸章のための、摂頌となる。

 〔しかして、詩偈に言う〕「対なるものと怠らないこと、心、花、愚者とともに、賢者、阿羅漢、および、千、悪、棒とともに、それらの十がある。

 老、および、自己、および、世、覚者、安楽、および、愛しいものとともに、忿激、および、垢、法に依って立つ者、道の章とともに、〔合わせて〕二十がある。

 雑駁なるもの、地獄、象、渇愛、および、比丘、婆羅門、これらの二十六の章が、太陽の眷属によって説示された」〔と〕。

 諸々の詩偈のための、摂頌となる。

 〔しかして、詩偈に言う〕「対なるものには二十の詩偈、怠らないことには十二、心の章には十一、花の章には十六〔の詩偈〕が〔有る〕。

 しかして、愚者には十六の詩偈、賢者には十四、阿羅漢には十の詩偈、千には十六〔の詩偈〕が有る。

 悪の章には十三、棒には十、および、七、老の章には十一、自己の章には、それらの十〔の詩偈〕が〔有る〕。

 世の章には十二、覚者の章には十三、しかして、安楽には、さらには、愛する者の章には、十二の詩偈が有る。

 忿激の章には十四、垢の章には二十一、しかして、法に依って立つ者には十七、道の章には十七〔の詩偈〕が〔有る〕。

 雑駁なるものには十六の詩偈、地獄、および、象には、十四、渇愛の章には二十四、比丘の章には二十三〔の詩偈〕が〔有る〕。

 最上の章たる婆羅門には四十一の詩偈が〔有る〕。四百の詩偈が、しかして、また、他に、二十三〔の詩偈〕が、ダンマパダ集成において、太陽の眷属によって説示された」〔と〕。

 ダンマパダ聖典は、〔以上で〕終了した。
https://sites.google.com/site/aranavihaara/arana-tipitaka/arana-khuddaka/khuddaka-nikaya-2


02. 2013年1月21日 13:44:08 : W18zBTaIM6

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The Dhammapada

Translated from the Pâli by F. Max Müller
The Sutta-Nipâta
Translated from the Pâli by V. Fausböll
Oxford, the Clarendon Press
[1881]
Vol. X of The Sacred Books of the East

DHAMMAPADA.


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CHAPTER I.
THE TWIN-VERSES.

1. All that we are is the result of what we have thought: it is founded on our thoughts, it is made up of our thoughts. If a man speaks or acts with an evil thought, pain follows him, as the wheel follows the foot of the ox that draws the carriage.

[1. Dharma, though clear in its meaning, is difficult to translate. It has different meanings in different systems of philosophy, and its peculiar application in the phraseology of Buddhism has been fully elucidated by Burnouf, Introduction à l'Histoire du Buddhisme, p. 41 seq. He writes: 'Je traduis ordinairement ce terme par condition, d'autres fois par lois, mais aucune de ces traductions n'est parfaitement complète; il faut entendre par dharma ce qui fait qu'une chose est ce qu'elle est, ce qui constitue sa nature propre, comme l'a bien montré Lassen, à l'occasion de la célèbre formule, "Ye dharmâ hetuprabhavâ."' Etymologically the Latin for-ma expresses the same general idea which was expressed by dhar-ma. See also Burnouf, Lotus de la bonne Loi, p. 524. Fausböll translates: 'Naturae a mente principium ducunt,' which shows that he rightly understood dharma in the Buddhist sense. Gogerly (see Spence Hardy, Eastern Monachism, p. 28) translates: 'Mind precedes action,' which, if not wrong, is at all events wrongly expressed; while Professor Weber's rendering, 'Die Pflichten aus dem Herz folgern,' is quite inadmissible. D'Alwis (Buddhist Nirwana, p. 70 seq.), following the commentary, proposes to give a more technical interpretation of this verse, viz. 'Mind is the leader or all its faculties. Mind is the chief (of all its faculties). The very mind is made up of those (faculties). If one speaks or acts with a polluted mind, then affliction follows him as the wheel follows the feet of the bearer (the bullock).' To me this technical acceptation seems not applicable here, where we have to deal with the simplest moral precepts, and not with psychological niceties of Buddhist philosophy. It should be stated, however, that Childers, who first (s.v. dhamma) approved of my translation, seems afterwards to have changed his opinion. On p. 120 of his excellent Pâli Dictionary he said: 'Three of the five khandhas, viz. vedanâ, saññâ, and sankhâra, are collectively termed dhammâ (plur.), "mental faculties," and in the first verse of Dhammapada the commentator takes the word dhammâ to mean those three faculties. But this interpretation appears forced and unnatural, and I look upon Dr. Max Müller's translation, "All that we are is the result of what we have thought," as the best possible rendering of the spirit of the phrase mano pubbangamâ dhammâ.' But on p. 577 the same scholar writes: 'Of the four mental khandhas the superiority of viññâna is strongly asserted in the first verse of Dhammapada, "The mental faculties (vedanâ, saññâ, and sankhâra) are dominated by Mind," they are governed by Mind, they are made up of Mind." That this is the true meaning of the passage I am now convinced; see D'Alwis, Nirwana, pp. 70-75.' I do not deny that this may have been the traditional interpretation, at all events since the days of Buddhaghosa, but the very legend quoted by Buddhaghosa in illustration of this verse shows that its simpler and purely moral interpretation was likewise supported by tradition, and I therefore adhere to my original translation.]

p. 4

2. All that we are is the result of what we have thought: it is founded on our thoughts, it is made up of our thoughts. If a man speaks or acts with a pure thought, happiness follows him, like a shadow that never leaves him.

3. 'He abused me, he beat me, he defeated me, he robbed me,'--in those who harbour such thoughts hatred will never cease.

4. 'He abused me, he beat me, he defeated me, he robbed me,'--in those who do not harbour such thoughts hatred will cease.

[2. See Beal, Dhammapada, p. 169.

3. On akkokkhi, see Kakkâyana VI, 4, 17. D'Alwis, Pâli Grammar, p. 38 note, 'When akkokkhi means "he abused," it is derived from krus, not from krudh.' See Senart, Kakkâyana, I. c.]

p. 5

5. For hatred does not cease by hatred at any time: hatred ceases by love, this is an old rule.

6. The world does not know that we must all come to an end here;--but those who know it, their quarrels cease at once.

7. He who lives looking for pleasures only, his senses uncontrolled, immoderate in his food, idle, and weak, Mâra (the tempter) will certainly overthrow him, as the wind throws down a weak tree.

8. He who lives without looking for pleasures, his senses well controlled, moderate in his food, faithful and strong, him Mâra will certainly not overthrow, any more than the wind throws down a rocky mountain.

9. He who wishes to put on the yellow dress without having cleansed himself from sin, who disregards temperance and truth, is unworthy of the yellow dress.

[6. Pare is explained by 'fools,' but it has that meaning by implication only. It is {Greek: oi pólloi}, cf. Vinaya, ed. Oldenberg, vol. i., p. 5, l. 4. Yamâmase, a 1 pers. plur. imp. Âtm., but really a Let in Pâli. See Fausböll, Five Gâtakas, p. 38.

7. Mâra must be taken in the Buddhist sense of 'tempter,' or 'evil spirit.' See Burnouf, Introduction, p. 76: 'Mâra est le démon de l'amour, du péché et de la mort; c'est le tentateur et l'ennemi de Buddha.' As to the definite meaning of vîrya, see Burnouf, Lotus, p. 548.

In the Buddhistical Sanskrit, kusîda, 'idle,' is the exact counterpart of the Pâli kusîta; see Burnouf, Lotus, p. 548. On the change of Sanskrit d into Pâli t, see Kuhn, Beiträge zur Pali Grammatik, p. 40; Weber, Ind. Studien, XIII, p. 135.

9. The dark yellow dress, the Kâsâva or Kâshâya, is the distinctive garment of the Buddhist priests. See Vishnu-sûtra LXIII, 36. The play on the words anikkasâvo kâsâvam, or in Sanskrit anishkashâyah kâshâyam, cannot be rendered in English. Kashâya means 'impurity,' nish-kashâya, 'free from impurity,' anish-kashâya, 'not free from impurity,' while kâshâya is the name of the yellowish Buddhist garment. The pun is evidently a favourite one, for, as Fausböll shows, it occurs also in the Mahâbhârata, XII, 568:
Anishkashâye kâshâyam îhârtham iti viddhi tam,
Dharmadhvagânâm mundânâm vrittyartham iti me matih.
'Know that this yellow-coloured garment on a man who is not free from impurity, serves only for the purpose or cupidity; my opinion is, that it is meant to supply the means of living to those shavelings, who carry their virtue or the dharma like a flag.'

(I read vrittyartham, according to the Bombay edition, instead of kritârtham, the reading of the Calcutta edition.)

On the exact colour of the dress, see Bishop Bigandet, The Life or Legend or Gaudama, the Budha of the Burmese, Rangoon, 1866, p. 504. Cf. Gâtaka, vol. ii. p. 198.]

p. 6

10. But he who has cleansed himself from sin, is well grounded in all virtues, and regards also temperance and truth, he is indeed worthy of the yellow dress.

11. They who imagine truth in untruth, and see untruth in truth, never arrive at truth, but follow vain desires.

12. They who know truth in truth, and untruth in untruth, arrive at truth, and follow true desires.

13. As rain breaks through an ill-thatched house, passion will break through an unreflecting mind.

14. As rain does not break through a well-thatched house, passion will not break through a well-reflecting mind.

15. The evil-doer mourns in this world, and he

[10. With regard to sîla, 'virtue,' see Burnouf, Lotus, p. 547.

11, 12. Sâra, which I have translated by 'truth,' has many meanings in Sanskrit. It means the sap of a thing, then essence or reality; in a metaphysical sense, the highest reality; in a moral sense, truth. It is impossible in a translation to do more than indicate the meaning of such words, and in order to understand them fully, we must know not only their definition, but their history. See Beal, Dhammapada, p. 64.

13. See Beal, Dhammapada, p. 65.

15. Kilittha is klishta, a participle of klis. It means literally, what is spoilt. The abstract noun klesa, 'evil or sin,' is contantly employed in Budddist works; see Burnouf, Lotus, p. 443.]

p. 7

mourns in the next; he mourns in both. He mourns and suffers when he sees the evil of his own work.

16. The virtuous man delights in this world, and he delights in the next; he delights in both. He delights and rejoices, when he sees the purity of his own work.

17. The evil-doer suffers in this world, and he suffers in the next; he suffers in both. He suffers when he thinks of the evil he has done; he suffers more when going on the evil path.

18. The virtuous man is happy in this world, and he is happy in the next; he is happy in both. He is happy when he thinks of the good he has done; he is still more happy when going on the good path.

19. The thoughtless man, even if he can recite a large portion (of the law), but is not a doer of it, has no share in the priesthood, but is like a cowherd counting the cows of others.

[16. Like klishta in the preceding verse, visuddhi in the present has a technical meaning. One of Buddhaghosa's most famous works is called Visuddhi-magga. See Burnouf, Lotus, p. 844; Beal, Dhammapada, p. 67.

17, 18. 'The evil path and the good path' are technical expressions for the descending and ascending scale of worlds through which all beings have to travel upward or downward, according to their deeds; see Bigandet; Life of Gaudama, p. 5, note 4, and p. 449; Burnouf, Introduction, p. 599; Lotus, p. 865, l. 7; l. 11. Fausböll translates 'heaven and hell,' which comes to the same; cf. vv. 126, 306.

19. In taking sahitam in the sense of samhitam or samhitâ, I follow the commentator who says, Tepitakassa Buddhavakanass' etam nâmam, but I cannot find another passage where the Tipitaka, or any portion of it, is called Sahita. Samhita in vv. 100-102 has a different meaning. The fact that some followers of Buddha were allowed to learn short portions only of the sacred writings by heart, and to repeat them, while others had to learn a larger collection, is shown by the story of Kakkhupâla, p. 3. of Mahâkâla, p. 26, &c. See Childers, s.v. sahita.]

p. 8

20. The follower of the law, even if he can recite only a small portion (of the law), but, having forsaken passion and hatred and foolishness, possesses true knowledge and serenity of mind, he, caring for nothing in this world or that to come, has indeed a share in the priesthood.

[20. Sâmañña, which I have rendered by 'priesthood,' expresses all that belongs to, or constitutes a real Samana or Sramana, this being the Buddhist name corresponding to the Brâhmana, or priest, of the orthodox Hindus. Buddha himself is frequently called the Good Samana. Fausböll takes the abstract word sâmañña as corresponding to the Sanskrit sâmânya, 'community,' but Weber has well shown that it ought to be taken as representing srâmanya. He might have quoted the Sâmañña-phala-sutta, of which Burnouf has given such interesting details in his Lotus, p. 449 seq. Fausböll also, in his notes on v. 332, rightly explains sâmaññatâ by srâmanyatâ. See Childers, s.v. sâmañña.

Anupâdiyâno, which I have translated by 'caring for nothing,' has a technical meaning. It is the negative of the fourth Nidâna, the so-called Upâdâna, which Köppen has well explained by Anhänglichkeit, 'taking to the world, loving the world.' Köppen, Die Religion des Buddha, p. 610. Cf. Suttanipâta, v. 470.]


CHAPTER II.
ON EARNESTNESS[1].

21. Earnestness is the path of immortality (Nirvâna), thoughtlessness the path of death. Those who are in earnest do not die, those who are thoughtless are as if dead already.

22. Those who are advanced in earnestness, having understood this clearly, delight in earnestness, and rejoice in the knowledge of the Ariyas (the elect).

23. These wise people, meditative, steady, always possessed of strong powers, attain to Nirvâna, the highest happiness.

[1. There is nothing in the tenth section of the Dhammapada, as translated by Beal, corresponding to the verses of this chapter.

21. Apramâda, which Fausböll translates by 'vigilantia,' Gogerly by 'religion,' Childers by 'diligence,' expresses literally the absence of that giddiness or thoughtlessness which characterizes the state of mind of worldly people. It is the first entering into oneself, and hence all virtues are said to have their root in apramâda. (Ye keki kusalâ dhammâ sabbe te appamâdamûlakâ.) I have translated it by 'earnestness,' sometimes by 'reflection.' 'Immortality,' amrita, is explained by Buddhaghosa as Nirvâna. Amrita is used, no doubt, as a synonym of Nirvâna, but this very fact shows how many different conceptions entered from the very first into the Nirvâna of the Buddhists. See Childers, s.v. nibbâna, p. 269.

This verse, as recited to Asoka; occurs in the Dîpavamsa VI, 53, and in the Mahâvamsa, p. 25. See also Sanatsugâtîya, translated by Telang, Sacred Books of the East, vol. viii. p. 138.

22. The Ariyas, the noble or elect, are those who have entered on the path that leads to Nirvâna; see Köppen, p. 396. Their knowledge and general status is minutely described; see Köppen, p. 436.

23. Childers, s.v. nibbâna, thinks that nibbâna here and in many other places means Arhatship.]

p. 10

24. If an earnest person has roused himself, if he is not forgetful, if his deeds are pure, if he acts with consideration, if he restrains himself, and lives according to law,--then his glory will increase.

25. By rousing himself, by earnestness, by restraint and control, the wise man may make for himself an island which no flood can overwhelm.

26. Fools follow after vanity, men of evil wisdom. The wise man keeps earnestness as his best jewel.

27. Follow not after vanity, nor after the enjoyment of love and lust! He who is earnest and meditative, obtains ample joy.

28. When the learned man drives away vanity by earnestness, he, the wise, climbing the terraced heights of wisdom, looks down upon the fools, serene he looks upon the toiling crowd, as one that stands on a mountain looks down upon them that stand upon the plain.

29. Earnest among the thoughtless, awake among the sleepers, the wise man advances like a racer, leaving behind the hack.

30. By earnestness did Maghavan (Indra) rise to the lordship of the gods. People praise earnestness; thoughtlessness is always blamed.

31. A Bhikshu (mendicant) who delights in earnestness, who looks with fear on thoughtlessness,

[25. Childers explains this island again as the state of an Arhat (arahatta-phalam).

28. Cf. Childers, Dictionary, Preface, p. xiv. See Vinaya, ed. Oldenberg, vol. i. p. 5, s.f.

31. Instead of saham, which Dr. Fausböll translates by 'vincens,' Dr. Weber by 'conquering,' I think we ought to read dahan, 'burning,' which was evidently the reading adopted by Buddhaghosa. Mr. R. C. Childers, whom I requested to see whether the MS. at the India Office gives saham or daham, writes that the reading daham is as clear as possible in that MS. The fetters are meant for the senses. See verse 370.]

p. 11

moves about like fire, burning all his fetters, small or large.

32. A Bhikshu (mendicant) who delights in reflection, who looks with fear on thoughtlessness, cannot fall away (from his perfect state)--he is close upon Nirvâna.

[1. See Childers, Notes, p. 5.]

CHAPTER III.
THOUGHT.

33. As a fletcher makes straight his arrow, a wise man makes straight his trembling and unsteady thought, which is difficult to guard, difficult to hold back.

34. As a fish taken from his watery home and thrown on dry ground, our thought trembles all over in order to escape the dominion of Mâra (the tempter).

35. It is good to tame the mind, which is difficult to hold in and flighty, rushing wherever it listeth; a tamed mind brings happiness.

36. Let the wise man guard his thoughts, for they are difficult to perceive, very artful, and they rush wherever they list: thoughts well guarded bring happiness.

37. Those who bridle their mind which travels far, moves about alone, is without a body, and hides in the chamber (of the heart), will be free from the bonds of Mâra (the tempter).

38. If a man's thoughts are unsteady, if he does not know the true law, if his peace of mind is troubled, his knowledge will never be perfect.

39. If a man's thoughts are not dissipated, if

[33. Cf. Gâtaka, vol. i. p. 400.

34. On Mâra, see verses 7 and 8.

35-39. Cf. Gâtaka, vol. i. pp. 312, 400.

39. Fausböll traces anavassuta, 'dissipated,' back to the Sanskrit root syai, 'to become rigid;' but the participle of that root would be sîta, not syuta. Professor Weber suggests that anavassuta stands for the Sanskrit anavasruta, which he translates unbefleckt, 'unspotted.' If avasruta were the right word; it might be taken in the sense of 'not fallen off, not fallen away,' but it could not mean 'unspotted;' cf. dhairyam no 'susruvat, 'our firmness ran away.' I have little doubt, however, that avassuta represents the Sanskrit avasruta, and is derived from the root sru, here used in its technical sense, peculiar to the Buddhist literature, and so well explained by Burnouf in his Appendix XIV (Lotus, p. 820). He shows that, according to Hemakandra and the Gina-alankâra, âsravakshaya, Pâli âsavasamkhaya is counted as the sixth abhigñâ, wherever six of these intellectual powers are mentioned, instead of five. The Chinese translate the term in their Own Chinese fashion by 'stillationis finis,' but Burnouf claims for it the definite sense of destruction of faults or vices. He quotes from the Lalita-vistara (Adhyâya XXII, ed. Râjendra Lal Mittra, p. 448) the words uttered by Buddha when he arrived at his complete Buddhahood:--
Sushkâ âsravâ na punah sravanti,
'The vices are dried up, they will not flow again;'
and he shows that the Pâli Dictionary, the Abhidhânappadîpikâ, explains âsava simply by kâma, 'love, pleasure of the senses.' In the Mahâparinibbâna-sutta, three classes of âsava are distinguished, the kâmâsavâ, the bhavâsavâ, and the aviggâsavâ. See also Burnouf, Lotus, p. 665; Childers, s.v. âsavo.

That sru means 'to run,' and is in fact a merely dialectic variety of sru, has been proved by Burnouf, while Boehtlingk thinks the substitution of s for s is a mistake. Âsrava therefore, or âsrava, meant originally 'the running out towards objects of the senses' (cf. sanga, âlara, &c.), and had nothing to do with âsrâva, 'a running, a sore,' Atharva-veda I, 2, 4. This conception of the original purport of â + sru or ava-sru is confirmed by a statement of Colebrooke's, who, when treating of the Gainas, writes (Miscellaneous Essays, I, 382); 'Âsrava is that which directs the embodied spirit (âsravayati purusham) towards external objects. It is the occupation and employment (vritti or pravritti) of the senses or organs on sensible objects. Through the means of the senses it, affects the embodied spirit with the sentiment of taction, colour, smell, and taste. Or it is the association or connection of body with right and wrong deeds. It comprises all the karmas, for they (âsravayanti) pervade, influence, and attend the doer, following him or attaching to him. It is a misdirection (mithyâ-pravritti) of the organs, for it is vain, a cause of disappointment, rendering the organs of sense and sensible objects subservient to fruition. Samvara is that which stops (samvrinoti) the course of the foregoing, or closes up the door or passage to it, and consists in self-command or restraint of organs internal and external, embracing all means of self-control and subjection of the senses, calming and subduing them.'

For a full account of the âsravas, see Lalita-vistara, ed. Calc. pp. 445 and 552, where Kshînâsrava is given as a name of Buddha. Âsrâva occurs in Âpastamba's Dharma-sûtras II, 5, 9, where the commentator explains it by objects of the senses, by which the soul is made to run out. It is better, however, to take âsrâva here, too, as the act of running out, the affections, appetites, passions.]

p. 13

his mind is not perplexed, if he has ceased to think of good or evil, then there is no fear for him while he is watchful.

p. 14

40. Knowing that this body is (fragile) like a jar, and making this thought firm like a fortress, one should attack Mâra (the tempter) with the weapon of knowledge, one should watch him when conquered, and should never rest.

41. Before long, alas! this body will lie on the earth, despised, without understanding, like a useless log.

42. Whatever a hater may do to a hater, or

[40. Anivesana has no doubt a technical meaning, and may signify, one who has left his house, his family and friends, to become a monk. A monk shall not return to his home, but travel about; he shall be anivesana, 'homeless,' anâgâra, 'houseless.' But I doubt whether this can be the meaning of anivesana here, as the sentence, let him be an anchorite, would come in too abruptly. I translate it therefore in a more general sense, let him not return or turn away from the battle, let him watch Mâra, even after he is vanquished, let him keep up a constant fight against the adversary, without being attached to anything or anybody.]

p. 15

an enemy to an enemy, a wrongly-directed mind will do us greater mischief.

43. Not a mother, not a father will do so much, nor any other relative; a well-directed mind will do us greater service.

[43. See Beal, Dhammapada, p. 73.]

CHAPTER IV.
FLOWERS[1].

44. Who shall overcome this earth, and the world of Yama (the lord of the departed), and the world of the gods? Who shall find out the plainly shown path of virtue, as a clever man finds out the (right) flower?

45. The disciple will overcome the earth, and the world of Yama, and the world of the gods. The disciple will find out the plainly shown path of virtue, as a clever man finds out the (right) flower.

[1. See Beal, Dhammapada, p. 75.

44, 45. If I differ from the translation of Fausböll and Weber, it is because the commentary takes the two verbs, vigessati and pakessati, to mean in the end the same thing, i.e. sakkhi-karissati, 'he will perceive.' I have not ventured to take vigessate for viganissati, though it should be remembered that the overcoming of the earth and of the worlds below and above, as here alluded to, is meant to be achieved by means of knowledge. Pakessati, 'he will gather' (cf. vi-ki, Indische Sprüche, 4560), means also, like 'to gather' in English, 'he will perceive or understand,' and the dhammapada, or 'path of virtue,' is distinctly explained by Buddhaghosa as consisting of the thirty-seven states or stations which lead to Bodhi. (See Burnouf, Lotus, p. 430; Hardy, Manual, p. 497.) Dhammapada might, no doubt, mean also 'a law-verse,' and sudesita, 'well taught,' and this double meaning may be intentional here as elsewhere. Buddha himself is called Mârga-darsaka and Mârga-desika (cf. Lal. Vist. p. 551). There is a curions similarity between these verses and verses 6540-41, and 9939 of the Sânti-parva:
Pushpânîva vikinvantam anyatragatamanasam,
Anavâpteshu kâmeshu mrityur abhyeti mânavam.
'Death approaches man like one who is gathering flowers, and whose mind is turned elsewhere, before his desires have been fulfilled.'
Suptam vyâghram mahaugho vâ mrityur âdâya gakkhati,
Sañkinvânakam evainam kâmânâm avitriptikam.
'As a stream (carries off) a sleeping tiger, death carries off this man who is gathering flowers, and who is not satiated in his pleasures.'

This last verse, particularly, seems to me clearly a translation from Pâli, and the kam of sañkinvânakam looks as if put in metri causâ.]

p. 17

46. He who knows that this body is like froth, and has learnt that it is as unsubstantial as a mirage, will break the flower-pointed arrow of Mâra, and never see the king of death.

47. Death carries off a man who is gathering flowers and whose mind is distracted, as a flood carries off a sleeping village.

48. Death subdues a man who is gathering flowers, and whose mind is distracted, before he is satiated in his pleasures.

49. As the bee collects nectar and departs without injuring the flower, or its colour or scent, so let a sage dwell in his village.

50. Not the perversities of others, not their sins

[46. The flower-arrows of Mâra, the tempter, are borrowed from Kâma, the Hindu god of love. For a similar expression see Lalita-vistara, ed. Calc. p. 40, l. 20, mâyâmarîkisadrisâ vidyutphenopamâs kapalâh. It is on account of this parallel passage that I prefer to translate marîki by 'mirage,' and not by 'sunbeam,' as Fausböll, or by 'solar atom,' as Weber proposes. The expression, 'he will never see the king of death,' is supposed to mean Arhatship by Childers, s.v. nibbâna, p. 270.

47. See Thiessen, Die Legende von Kisâgotamî, p. 9.

48. Antaka, 'death,' is given as an explanation of Mâra in the Amarakosha and Abhidhânappadîpika (cf. Fausböll, p. 210).

49. See Beal, Catena, p. 159, where vv. 49 and 50 are ascribed to Wessabhu, i.e. Visvabhû. See also Der Weise und der Thor, p. 134.]

p. 18

of commission or omission, but his own misdeeds and negligences should a sage take notice of.

51. Like a beautiful flower, full of colour, but without scent, are the fine but fruitless words of him who does not act accordingly.

52. But, like a beautiful flower, full of colour and full of scent, are the fine and fruitful words of him who acts accordingly.

53. As many kinds of wreaths can be made from a heap of flowers, so many good things may be achieved by a mortal when once he is born.

54. The scent of flowers does not travel against the wind, nor (that of) sandal-wood, or of Tagara and Mallikâ flowers; but the odour of good people travels even against the wind; a good man pervades every place.

55. Sandal-wood or Tagara, a lotus-flower, or a Vassikî, among these sorts of perfumes, the perfume of virtue is unsurpassed.

56. Mean is the scent that comes from Tagara and sandal-wood;--the perfume of those who possess virtue rises up to the gods as the highest.

57. Of the people who possess these virtues, who live without thoughtlessness, and who are emancipated

[51. St. Matthew xxiii. 3, 'For they say, and do not.'

54. Tagara, a plant from which a scented powder is made. Mallaka or mallikâ, according to Benfey, is an oil vessel. Hence tagaramallikâ was supposed to mean a bottle holding aromatic powder, or oil made of the Tagara. Mallikâ, however, is given by Dr. Eitel (Handbook of Chinese Buddhism) as the name of a flower now called Casturi (musk) on account of its rich odour, and Dr. Morris informs me that he has found mallikâ in Pâli as a name of jasmine. See also Childers, s.v.; Notes, p. 6 ; and Beal, Dhammapada, p. 76.]

p. 19

through true knowledge, Mâra, the tempter, never finds the way.

58., 59. As on a heap of rubbish cast upon the highway the lily will grow full of sweet perfume and delight, thus the disciple of the truly enlightened Buddha shines forth by his knowledge among those who are like rubbish, among the people that walk in darkness.

[58, 59. Cf. Beal, Dhammapada, p. 76.]

CHAPTER V.
THE FOOL.

60. Long is the night to him who is awake; long is a mile to him who is tired; long is life to the foolish who do not know the true law.

61. If a traveller does not meet with one who is his better, or his equal, let him firmly keep to his solitary journey; there is no companionship with a fool.

62. 'These sons belong to me, and this wealth belongs to me,' with such thoughts a fool is tormented. He himself does not belong to himself; how much less sons and wealth?

63. The fool who knows his foolishness, is wise at least so far. But a fool who thinks himself wise, he is called a fool indeed.

64. If a fool be associated with a wise man even all his life, he will perceive the truth as little as a spoon perceives the taste of soup.

65. If an intelligent man be associated for one minute only with a wise man, he will soon perceive the truth, as the tongue perceives the taste of soup.

66. Fools of little understanding have themselves

[60. 'Life,' samsâra, is the constant revolution of birth and death which goes on for ever until the knowledge of the true law or the true doctrine of Buddha enables a man to free himself from samsâra, and to enter into Nirvâna. See Buddhaghosha's Parables, Parable XIX, p. 134.

61. Cf. Suttanipâta, v. 46.

63. Cf. Beal, Dhammapada, p. 77.

65. Cf. Beal, Dhammapada, p. 78.]

p. 21

for their greatest enemies, for they do evil deeds which must bear bitter fruits.

67. That deed is not well done of which a man must repent, and the reward of which he receives crying and with a tearful face.

68. No, that deed is well done of which a man does not repent, and the reward of which he receives gladly and cheerfully.

69. As long as the evil deed done does not bear fruit, the fool thinks it is like honey; but when it ripens, then the fool suffers grief.

70. Let a fool month after month eat his food (like an ascetic) with the tip of a blade of Kusa grass, yet he is not worth the sixteenth particle of those who have well weighed the law.

71. An evil deed, like newly-drawn milk, does not turn (suddenly); smouldering, like fire covered by ashes, it follows the fool.

[67. See Beal, l.c. p. 78.

69. Taken from the Samyutta-nikâya, where, however, we read thânanhi instead of madhuvâ; see Feer, Comptes Rendus, 1871, p. 64.

70. The commentator clearly takes sankhâta in the sense of sankhyâta, 'reckoned,' for he explains it by nâtadhammâ, tulitadhammâ. The eating with the tip of Kusa grass has reference to the fastings performed by the Brahmans, but disapproved of, except as a moderate discipline, by the followers of Buddha. This verse seems to interrupt the continuity of the other verses which treat of the reward of evil deeds, or of the slow but sure ripening of every sinful act. See Childers, s.v. sankhâto.

71. I am not at all certain of the simile, unless mukkati, as applied to milk, can be used in the sense of changing or turning sour. In Manu IV, 172, where a similar sentence occurs, the commentators are equally doubtful: Nâdharmas karito loke sadyah phalati gaur iva, 'for an evil act committed in the world does not bear fruit at once, like a cow;' or 'like the earth (in due season);' or 'like milk.' See Childers, Notes, p. 6.]

p. 22

72. And when the evil deed, after it has become known, brings sorrow to the fool, then it destroys his bright lot, nay, it cleaves his head.

73. Let the fool wish for a false reputation, for precedence among the Bhikshus, for lordship in the convents, for worship among other people!

74. 'May both the layman and he who has left the world think that this is done by me; may they be subject to me in everything which is to be done or is not to be done,' thus is the mind of the fool, and his desire and pride increase.

75. 'One is the road that leads to wealth, another the road that leads to Nirvâna;' if the Bhikshu, the disciple of Buddha, has learnt this, he will not yearn for honour, he will strive after separation from the world.

[72. I take ñattam for gñapitam, the causative of gñâtam, for which in Sanskrit, too, we have the form without i, gñaptam. This gñaptam, 'made known, revealed,' stands in opppsition to the khanna, 'covered, hid,' of the preceding verse. Sukkamsa, which Fausböll explains by suklâmsa, has probably a more technical and special meaning. Childers traces ñattam to the Vedic gñâtram, 'knowledge.' Fausböll refers to Gâtaka, vol. i. p. 445, v. 118.

75. Viveka, which in Sanskrit means chiefly understanding, has with the Buddhists the more technical meaning of separation, whether separation from the world and retirement to the solitude of the forest (kâya-viveka), or separalion from idle thoughts (kitta-viveka), or the highest separation and freedom (Nirvâna).]

CHAPTER VI.
THE WISE MAN (PANDITA).

76. If you see an intelligent man who tells you where true treasures are to be found, who shows what is to be avoided, and administers reproofs, follow that wise man; it will be better, not worse, for those who follow him.

77. Let him admonish, let him teach, let him forbid what is improper!--he will be beloved of the good, by the bad he will be hated.

78. Do not have evil-doers for friends, do not have low people for friends: have virtuous people for friends, have for friends the best of men.

79. He who drinks in the law lives happily with a serene mind: the sage rejoices always in the law, as preached by the elect (Ariyas).

80. Well-makers lead the water (wherever they like); fletchers bend the arrow; carpenters bend a log of wood; wise people fashion themselves.

[78. It is hardly possible to take mitte kalyâne in the technical sense of kalyâna-mitra, 'ein geistlicher Rath,' a spiritual guide. Burnouf (Introd. p. 284) shows that in the technical sense kalyâna-mitra was widely spread in the Buddhist world.

79. Ariya, 'elect, venerable,' is explained by the commentator as referring to Buddha and other teachers.

80. See verses 33 and 145, the latter being a mere repetition of our verse. The nettikâs, to judge from the commentary and from the general purport of the verse, are not simply water-carriers, but builders of canals and aqueducts, who force the water to go where it would not go by itself. The Chinese translator says, 'the pilot manages his ship.' See Beal, l.c. p. 79.]

p. 24

81. As a solid rock is not shaken by the wind, wise people falter not amidst blame and praise.

82. Wise people, after they have listened to the laws, become serene, like a deep, smooth, and still lake.

83. Good people walk on whatever befall, the good do not prattle, longing for pleasure; whether touched by happiness or sorrow wise people never appear elated or depressed.

84. If, whether for his own sake, or for the sake of others, a man wishes neither for a son, nor for wealth, nor for lordship, and if he does not wish for his own success by unfair means, then he is good, wise, and virtuous.

85. Few are there among men who arrive at the other shore (become Arhats); the other people here run up and down the shore.

[83. The first line is very doubtful. I have adopted, in my translation, a suggestion of Mr. Childers, who writes, 'I think it will be necessary to take sabbattha in the sense of "everywhere," or "under every condition;" pañkakhandâdibhedesu, sabbadhammesu, says Buddhaghosha. I do not think we need assume that B. means the word vigahanti to be a synonym of vaganti. I would rather take the whole sentence together as a gloss upon the word vaganti:--vagantîti arahattañânena apakaddhantâ khandarâgam vigahanti; vaganti means that, ridding themselves of lust by the wisdom which Arhatship confers, they cast it away.' I am inclined to think the line means 'the righteous walk on (unmoved) in all the conditions of life.' Nindâ, pasamsâ, sukha, dukkha are four of the eight lokadhammas, or earthly conditions; the remaining lokadhammas are lâbba, alâbha, yasa, ayasa.

In v. 245, passatâ, 'by a man who sees,' means 'by a man who sees clearly or truly.' ln the same manner vrag may mean, not simply 'to walk,' but 'to walk properly,' or may be used synonymously with pravrag.

85. 'The other shore' is meant for Nirvâna, 'this shore' for common life. On reaching Nirvâna, the dominion of death is overcome. The commentator supplies târitvâ, 'having crossed,' in order to explain the accusative makkudheyyam. Possibly pâram essanti should here be taken as one word, in the sense of overcoming.]

p. 25

86. But those who, when the law has been well preached to them, follow the law, will pass across the dominion of death, however difficult to overcome.

87., 88. A wise man should leave the dark state (of ordinary life), and follow the bright state (of the Bhikshu). After going from his home to a homeless state, he should in his retirement look for enjoyment where there seemed to be no enjoyment. Leaving all pleasures behind, and calling nothing his own, the wise man should purge himself from all the troubles of the mind.

89. Those whose mind is well grounded in the (seven) elements of knowledge, who without clinging

[87, 88. Dark and bright are meant for bad and good; cf. Sutta-nipâta, v. 526, and Dhp. v. 167. Leaving one's home is the same as becoming a mendicant, without a home or family, an anâgâra, or anchorite. A man in that state of viveka, or retirement (see v. 75, note), sees, that where before there seemed to be no pleasure there real pleasure is to be found, or vice versâ. A similar idea is expressed in verse 99. See Burnouf, Lotus, p. 474, where he speaks of 'Le plaisir de la satisfaction, né de la distinction.'

The five troubles or evils of the mind are passion, anger, ignorance, arrogance, pride; see Burnouf, Lotus, pp. 360, 443. As to pariyodapeyya, see verse 183, and Lotus, pp. 523, 528; as to akiñkano, see Mahâbh. XII, 6568, 1240.

89. The elements of knowledge are the seven Sambodhvangas, on which see Burnouf, Lotus, p. 796. D'Alwis explains them as the thirty-seven Bodhipakkhiya-dhammâ. Khînâsavâ, which I have translated by 'they whose frailties have been conquered,' may also be taken in a more metaphysical sense, as explained in the note to v. 39. The same applies to the other terms occurring in this verse, such as âdâna, anupâdâya, &c. Dr. Fausböll seems inclined to take âsava in this passage, and in the other passages where it occurs, as the Pâli representative of âsraya. But âsraya, in Buddhist phraseology, means rather the five organs of sense with manas, 'the soul,' and these are kept distinct from the âsavas, 'the inclinations, the appetites, passions, or vices.' The commentary on the Abhidharma, when speaking of the Yogâkâras, says, 'En réunissant ensemble les réceptacles (âsr ya), les choses reçues (âsrita) et les supports (âlambana), qui sont chacun composés de six termes, on a dix-huit termes qu'on appelle "Dhâtus" ou contenants. La collection des six réceptacles, ce sont les organes de la vue, de l'ouïe, de l'odorat, du goût, du toucher, et le "manas" (ou l'organe du coeur), qui est le dernier. La collection des six choses reçues, c'est la connaissance produite par la vue et par les autres sens jusqu'au "manas" inclusivement. La collection des six supports, ce sont la forme et les autres attributs sensibles jusqu'au "Dharma" (la loi ou l'être) inclusivement.' See Burnouf, Introduction, p. 449.

Parinibbuta is again a technical term, the Sanskrit parinivrita meaning 'freed from all worldly fetters,' like vimukta. See Burnouf, Introduction, p. 590. See Childers, s.v. nibbâna, p. 270, and Notes on Dhammapada, p. 3; and D'Alwis, Buddhist Nirvâna, p. 75.]

p. 26

to anything, rejoice in freedom from attachment, whose appetites have been conquered, and who are full of light, are free (even) in this world.

CHAPTER VII.
THE VENERABLE (ARHAT).

90. There is no suffering for him who has finished his journey, and abandoned grief, who has freed himself on all sides, and thrown off all fetters.

91. They depart with their thoughts well-collected, they are not happy in their abode; like swans who have left their lake, they leave their house and home.

92. Men who have no riches, who live on recognised food, who have perceived void and unconditioned freedom (Nirvâna), their path is difficult to understand, like that of birds in the air.

[91. Satîmanto, Sanskrit smrimantah, 'possessed of memory,' but here used in the technical sense of sati, the first of the Bodhyangas. See Burnouf, Introduction, p. 797. Clough translates it by 'intense thought,' and this is the original meaning of smar, even in Sanskrit. See Lectures on the Science of Language, vol, ii. p. 332.

Uyyuñganti, which Buddhaghosa explains by 'they exert themselves,' seems to me to signify in this place 'they depart,' i.e. they leave their family, and embrace an ascetic life. See note to verse 235. See also Rhys Davids, Mahâparinibbâna-sutta, Sacred Books of the East, vol. xi. p. 22.

92. Suññato and animitto are adjectives belonging to vimokho, one of the many names of Nirvâna, or, according to Childers, s.v. nibbâna, p, 270, Arhatship; see Burnouf, Introduction, pp. 442, 462, on sûnya. The Sanskrit expression sûnyatânimittâpranihitam occurs in L'enfant egaré, 5 a, l. 4. Nimitta is cause in the most general sense, i.e, what causes existence. The commentator explains it chiefly in a moral sense: Râgâdinimittâbhâvena animittam, tehi ka vimuttan ti animitto vimokho, i.e. owing to the absence of passion and other causes, without causation; because freed from these causes, therefore it is called freedom without causation. See Childers, Pâli Dictionary, p. 270, col. 2, line 1.

The simile is intended to compare the ways of those who have obtained spiritual freedom to the flight of birds, it being difficult to understand how the birds move on without putting their feet on anything. This, at least, is the explanation of the commentator; The same metaphor occurs Mahâbh. XII, 6763. Childers translates, 'leaving no more trace of existence than a bird in the air.']

p. 28

93. He whose appetites are stilled, who is not absorbed in enjoyment, who has perceived void and unconditioned freedom (Nirvâna), his path is difficult to understand, like that of birds in the air.

94. The gods even envy him whose senses, like horses well broken in by the driver, have been subdued, who is free from pride, and free from appetites.

95. Such a one who does his duty is tolerant like the earth, like Indra's bolt; he is like a lake without mud; no new births are in store for him.

96. His thought is quiet, quiet are his word and deed, when he has obtained freedom by true knowledge, when he has thus become a quiet man.

[95. Without the hints given by the commentator, we should probably take the three similes of this verse in their natural sense, as illustrating the imperturbable state of an Arahanta, or venerable person. The earth is always represented as an emblem of patience; the bolt of Indra, if taken in its technical sense, as the bolt of a gate, might likewise suggest the idea of firmness; while the lake is a constant representative of serenity and purity. The commentator, however, suggests that what is meant is, that the earth, though flowers are cast on it, does not feel pleasure, nor the bolt of Indra displeasure, although less savoury things are thrown upon it; and that in like manner a wise person is indifferent to honour and dishonour.

96. That this very natural threefold division, thought, word, and deed, the trividha-dvâra or the three doors of the Buddhists (Hardy, Manual, p. 494), was not peculiar to the Buddhists or unknown to the Brahmans, has been proved against Dr. Weber by Professor Köppen in his 'Religion des Buddha,' I, p. 445. He particularly called attention to Manu XII, 4-8; and he might have added Mahâbh. XII, 4059, 6512, 6549, 6554; XIII, 5677, &c. Dr. Weber has himself afterwards brought forward a passage from the Atharva-veda, VI, 96, 3 (yak kakshushâ manasâ yak ka vâkâ upârima), which, however, has a different meaning. A better one was quoted by him from the Taitt. Ar. X, 1, 12 (yan me manasâ, vâkâ, karmanâ vâ dushkritam kritam). Similar expressions have been shown to exist in the Zend-avesta, and among the Manichæans (Lassen, Indische Alterthumskunde, III, p. 414; see also Boehtlingk's Dictionary, s.v. kâya, and Childers, s.v. kâyo). There was no ground, therefore, for supposing that this formula had found its way into the Christian liturgy from Persia, for, as Professor Cowell remarks (Journal of Philology, vol. vii, p. 215), Greek writers, such as Plato, employ very similar expressions, e.g. Protag. p. 348, 30, {Greek: pròs apan ergon kaì lógon kaì dianóhma}. In fact, the opposition between words and deeds occurs in almost every writer, from Homer downwards; and the further distinction between thoughts and words is clearly implied even in such expressions as, 'they say in their heart.' That the idea of sin committed by thought was not a new idea, even to the Jews, may be seen from Prov. xxiv. 9, 'the thought of foolishness is sin.' In the Âpastamba-sûtras, lately edited by Professor Bühler, we find the expression, atho yatkiñka manasâ vâkâ kakshushâ vâ sankalpayan dhyâyaty âhâbhivipasyati vâ tathaiva tad bhavatîtyupadisanti, 'they say that whatever a Brahman intending with his mind, voice, or eye, thinks, says, or looks, that will be.' This is clearly a very different division, and it is the same which is intended in the passage from the Atharva-veda, quoted above. In the mischief done by the eye, we have, perhaps, the first indication of the evil eye. (Mahâbh. XII, 3417. See Dhammapada, vv. 231-234.)

On the technical meaning of tâdi, see Childers, s.v. D'Alwis (p. 78) has evidently received the right interpretation, but has not understood it. Mâdrisa also is used very much like tâdrisa, and from it mâriso, a venerable person, in Sanskrit mârsha.]

p. 29

97. The man who is free from credulity, but knows the uncreated, who has cut all ties, removed all temptations, renounced all desires, he is the greatest of men.

p. 30

98. In a hamlet or in a forest, in the deep water or on the dry land, wherever venerable persons (Arhanta) dwell, that place is delightful.

99. Forests are delightful; where the world finds no delight, there the passionless will find delight, for they look not for pleasures.

CHAPTER VIII.
THE THOUSANDS.

100. Even though a speech be a thousand (of words), but made up of senseless words, one word of sense is better, which if a man hears, he becomes quiet.

101. Even though a Gâthâ (poem) be a thousand (of words), but made up of senseless words, one word of a Gâthâ is better, which if a man hears, he becomes quiet.

102. Though a man recite a hundred Gâthâs made up of senseless words, one word of the law is better, which if a man hears, he becomes quiet.

103. If one man conquer in battle a thousand times thousand men, and if another conquer himself, he is the greatest of conquerors.

104., 105. One's own self conquered is better than all other people; not even a god, a Gandharva, not Mâra with Brahman could change into defeat the

[100. This Sahasravarga, or Chapter of the Thousands, is quoted by that name in the Mahâvastu (Minayeff, Mélanges Asiatiques, VI, p. 583): Teshâm Bhagavâñ gatilânâm Dharmapadeshu sahasravargam bhâshati: 'Sahasram api vâkânâm anarthapadasamhitânâm, ekârthavati sreyâ yâm srutvâ upasâmyati. Sahasram api gâthânâm anarthapadasamhitânâm, ekârthavati sreyâ yâm srutvâ upasâmyati.' (MS. R. A. S. Lond.) Here the Pâli text seems decidedly more original and perfect.

104. Gitam, according to the commentator, stands for gito (lingavipallâso, i.e. viparyâsa); see also Senart in Journal Asiatique, 1880, p. 500.

The Devas (gods), Gandharvas (fairies), and other fanciful beings of the Brahmanic religion, such as the Nâgas, Sarpas, Garudas, &c., were allowed to continue in the traditional language of the people who had embraced Buddhism. See the pertinent remarks of Burnouf, Introduction, pp. 134 seq., 184. On Mâra, the tempter, see v. 7. Sâstram Aiyar, On the Gaina Religion, p. xx, says: 'Moreover as it is declared in the Gaina Vedas that all the gods worshipped by the various Hindu sects, viz. Siva, Brahma, Vishnu, Ganapati, Subramaniyan, and others, were devoted adherents of the above-mentioned Tîrthankaras, the Gainas therefore do not consider them as unworthy of their worship; but as they are servants of Arugan, they consider them to be deities of their system, and accordingly perform certain pûgâs in honour of them, and worship them also.' The case is more doubtful with orthodox Buddhists. 'Orthodox Buddhists,' as Mr. D'Alwis writes (Attanagalu-vansa, p. 55), 'do not consider the worship of the Devas as being sanctioned by him who disclaimed for himself and all the Devas any power over man's soul. Yet the Buddhists are everywhere idol-worshippers. Buddhism, however, acknowledges the existence of some of the Hindu deities, and from the various friendly offices which those Devas are said to have rendered to Gotama, Buddhists evince a respect for their idols.' See also Buddhaghosha's Parables, p. 162.]

p. 32

victory of a man who has vanquished himself, and always lives under restraint.

106. If a man for a hundred years sacrifice month after month with a thousand, and if he but for one moment pay homage to a man whose soul is grounded (in true knowledge), better is that homage than sacrifice for a hundred years.

107. If a man for a hundred years worship Agni (fire) in the forest, and if he but for one moment pay homage to a man whose soul is grounded (in true knowledge), better is that homage than sacrifice for a hundred years.

108. Whatever a man sacrifice in this world as an offering or as an oblation for a whole year in order to gain merit, the whole of it is not worth a quarter (a farthing); reverence shown to the righteous is better.

p. 33

109. He who always greets and constantly reveres the aged, four things will increase to him, viz. life, beauty, happiness, power.

110. But he who lives a hundred years, vicious and unrestrained, a life of one day is better if a man is virtuous and reflecting.

111. And he who lives a hundred years, ignorant and unrestrained, a life of one day is better if a man is wise and reflecting.

112. And he who lives a hundred years, idle and weak, a life of one day is better if a man has attained firm strength.

113. And he who lives a hundred years, not seeing beginning and end, a life of one day is better if a man sees beginning and end.

114. And he who lives a hundred years, not seeing the immortal place, a life of one day is better if a man sees the immortal place.

115. And he who lives a hundred years, not seeing the highest law, a life of one day is better if a man sees the highest law.

[109. Dr. Fausböll, in a most important note, called attention to the fact that the same verse, with slight variations, occurs in Manu. We there read, II, 121:
Abhivâdanasîlasya nityam vriddhopasevinah,
Katvâri sampravardhante âyur vidyâ yaso balam.
Here the four things are, life, knowledge, glory, power.

In the Âpastamba-sûtras, I, 2, 5, 15, the reward promised for the same virtue is svargam âyus ka, 'heaven and long life.' It seems, therefore, as if the original idea of this verse came from the Brahmans, and was afterwards adopted by the Buddhists. How largely it spread is shown by Dr. Fausböll from the Asiatic Researches, XX, p. 259, where the same verse of the Dhammapada is mentioned as being in use among the Buddhists of Siam.

112. On kusîto, see note to verse 7.]

Chapter IX.
Evil.

116. If a man would hasten towards the good, he should keep his thought away from evil; if a man does what is good slothfully, his mind delights in evil.

117. If a man commits a sin, let him not do it again; let him not delight in sin: pain is the outcome of evil.

118. If a man does what is good, let him do it again; let him delight in it: happiness is the outcome of good.

119. Even an evil-doer sees happiness as long as his evil deed has not ripened; but when his evil deed has ripened, then does the evil-doer see evil.

120. Even a good man sees evil days, as long as his good deed has not ripened; but when his good deed has ripened, then does the good man see happy days.

121. Let no man think lightly of evil, saying in his heart, It will not come nigh unto me. Even by the falling of water-drops a water-pot is filled; the fool becomes full of evil, even if he gather it little by little.

122. Let no man think lightly of good, saying in his heart, It will not come nigh unto me. Even by the falling of water-drops a water-pot is filled; the wise man becomes full of good, even if he gather it little by little.

123. Let a man avoid evil deeds, as a merchant, if he has few companions and carries much wealth,

p. 35

avoids a dangerous road; as a man who loves life avoids poison.

124. He who has no wound on his hand, may touch poison with his hand; poison does not affect one who has no wound; nor is there evil for one who does not commit evil.

125. If a man offend a harmless, pure, and innocent person, the evil falls back upon that fool, like light dust thrown up against the wind.

126. Some people are born again; evil-doers go to hell; righteous people go to heaven; those who are free from all worldly desires attain Nirvâna.

127. Not in the sky, not in the midst of the sea, not if we enter into the clefts of the mountains, is there known a spot in the whole world where death could not overcome (the mortal).

128. Not in the sky, not in the midst of the sea, not if we enter into the clefts of the mountains, is there known a spot in the whole world where death could not overcome (the mortal).

[125. Cf. Suttanipâta, v. 661; Indische Sprüche, 1582; Kathâsaritsâgara, 49, 222.

126. For a description of hell and its long, yet not endless sufferings, see Buddhaghosha's Parables, p. 132. The pleasures of heaven, too, are frequently described in these Parables and elsewhere. Buddha himself enjoyed these pleasures of heaven, before he was born for the last time. It is probably when good and evil deeds are equally balanced, that men are born again as human beings; this, at least, is the opinion of the Gainas. Cf. Chintâmani, ed. H. Bower, Introd. p. xv.

127. Cf. St. Luke xii. 2, 'For there is nothing covered that shall not be revealed;' and Psalm cxxxix. 8-12.]

CHAPTER X.
PUNISHMENT.

129. All men tremble at punishment, all men fear death; remember that you are like unto them, and do not kill, nor cause slaughter.

130. All men tremble at punishment, all men love life; remember that thou art like unto them, and do not kill, nor cause slaughter.

131. He who seeking his own happiness punishes or kills beings who also long for happiness, will not find happiness after death.

[129. One feels tempted, no doubt, to take upama in the sense of 'the nearest (der Nächste), the neighbour,' and to translate, 'having made oneself one's neighbour,' i.e. loving one's neighbour as oneself. But as upamäm, with a short a, is the correct accusative of upamâ, we must translate, 'having made oneself the likeness, the image of others, having placed oneself in the place of others.' This is an expression which occurs frequently in Sanskrit; cf. Hitopadesa I, 11:
Prânâ yathâtmano 'bhîshtâ bhûtânâm api te tathâ,
Âtmaupamyena bhûteshu dayâm kurvanti sâdhavah.
'As life is dear to oneself, it is dear also to other living beings: by comparing oneself with others, good people bestow pity on all beings.'

See also Hit. I, 12; Râm. V, 23, 5, âtmânam upamâm kritvâ sveshu dâreshu ramyatâm, 'making oneself a likeness, i.e. putting oneself in the position of other people, it is right to love none but one's own wife.' Dr. Fausböll has called attention to similar passages in the Mahâbhârata, XIII, 5569 seq.

130. Cf. St. Luke vi. 31.

131. Dr. Fausböll points out the striking similarity between this verse and two verses occurring in Manu and the Mahâbhârata:--
Manu V, 45:
Yo 'himsakâni bhûtâni hinasty âtmasukhekkhayâ,
Sa givams ka mritas kaiva na kvakit sukham edhate.
Mahâbhârata XIII, 5568:
Ahimsakâni bhûtâni dandena vinihanti yah,
Âtmanah sukham ikkhan sa pretya naiva sukhî bhavet.
If it were not for ahimsakâni, in which Manu and the Mahâbhârata agree, I should say that the verses in both were Sanskrit modifications of the Pâli original. The verse in the Mahâbhârata presupposes the verse of the Dhammapada.]

p. 37

132. He who seeking his own happiness does not punish or kill beings who also long for happiness, will find happiness after death.

133. Do not speak harshly to anybody; those who are spoken to will answer thee in the same way. Angry speech is painful, blows for blows will touch thee.

134. If, like a shattered metal plate (gong), thou utter not, then thou hast reached Nirvâna; contention is not known to thee.

135. As a cowherd with his staff drives his cows into the stable, so do Age and Death drive the life of men.

136. A fool does not know when he commits his evil deeds: but the wicked man burns by his own deeds, as if burnt by fire.

137. He who inflicts pain on innocent and harmless persons, will soon come to one of these ten states:

[133. See Mahâbhârata XII, 4056.

134. See Childers, s.v. nibbâna, p. 270, and s.v. kâmso; D'Alwis, Buddhist Nirvâna, p. 35.

136. The metaphor of 'burning' for 'suffering' is very common in Buddhist literature. Everything burns, i.e. everything suffers, was one of the first experiences of Buddha himself. See v. 146.]

p. 38

138. He will have cruel suffering, loss, injury of the body, heavy affliction, or loss of mind,

139. Or a misfortune coming from the king, or a fearful accusation, or loss of relations, or destruction of treasures,

140. Or lightning-fire will burn his houses; and when his body is destroyed, the fool will go to hell.

141. Not nakedness, not platted hair, not dirt, not fasting, or lying on the earth, not rubbing with dust,

[138. 'Cruel suffering' is explained by sîsaroga, 'headache,' &c. 'Loss' is taken for loss of money. 'Injury of the body' is held to be the cutting off of the arm, and other limbs. 'Heavy afflictions' are, again, various kinds of diseases.

139. Upasarga means 'accident, misfortune.' Dr. Fausböll translates râgato va upassaggam by 'fulgentis (lunae) defectionem;' Dr. Weber by 'Bestrafung vom König;' Beal by 'some governmental difficulty.' Abbhakkhânam, Sanskrit abhyâkhyânam, is a heavy accusation for high treason, or similar offences. Beal translates, 'some false accusation.' The 'destruction of pleasures or treasures' is explained by gold being changed to coals (see Buddhaghosha's Parables, p. 98; Thiessen, Kisâgotamî, p. 6), pearls to cotton seed, corn to potsherds, and by men and cattle becoming blind, lame, &c.

141. Cf. Hibbert Lectures, p. 355. Dr. Fausböll has pointed out that the same or avery similar verse occurs in a legend taken from the Divyâvadâna, and translated by Burnouf (Introduction, p. 313 seq.) Burnouf translates the verse: 'Ce n'est ni la coutume de marcher nu, ni les cheveux nattés, ni l'usage d'argile, ni le choix des diverses espèces d'aliments, ni l'habitude de coucher sur la terre nue, ni la poussière, ni la malpropreté, ni l'attention à fuir l'abri d'un toit, qui sont capables de dissiper le trouble dans lequel nous jettent les désirs non-satisfaits; mais qu'un homme, maître de ses sens, calme, recueilli, chaste, évitant de faire du mal à aucune créature, accomplisse la Loi, et il sera, quoique paré d'ornements, un Brâhmane, un Çramana, un Religieux.' See also Suttanipâta, v. 248.

Walking naked and the other things mentioned in our verse are outward signs of a saintly life, and these Buddha rejects because they do not calm the passions. Nakedness he seems to have rejected on other grounds too, if we may judge from the Sumâgadhâ-avadâna: 'A number of naked friars were assembled in the house of the daughter of Anâtha-pindika. She called ber daughter-in-law, Sumâgadhâ, and said, "Go and see those highly respectable persons." Sumâgadhâ, expecting to see some of the saints, like Sâriputra, Maudgalyâyana, and others, ran out full of joy. But when she saw these friars with their hair like pigeon wings, covered by nothing but dirt, offensive, and looking like demons, she became sad. "Why are you sad?" said her mother-in-law. Sumâgadhâ replied, "O mother, if these are saints, what must sinners be like?"

Burnouf (Introduction, p. 312) supposed that the Gainas only, and not the Buddhists, allowed nakedness. But the Gainas, too, do not allow it universally. They are divided into two parties, the Svetambaras and Digambaras. The Svetambaras, clad in white, are the followers of Parsvanâtha, and wear clothes. The Digambaras, i.e. sky-clad, disrobed, are followers of Mahâvîra, resident chiefly in Southern India. At present they, too, wear clothing, but not when eating. See Sâstram Aiyar, p. xxi.

The gatâ, or the hair platted and gathered up in a knot, was a sign of a Saiva ascetic. The sitting motionless is one of the postures assumed by ascetics. Clough explains ukkutika as 'the act of sitting on the heels;' Wilson gives for utkatukâsana, 'sitting on the hams.' See Fausböll, note on verse 140.]

p. 39

not sitting motionless, can purify a mortal who has not overcome desires.

142. He who, though dressed in fine apparel, exercises tranquillity, is quiet, subdued, restrained, chaste, and has ceased to find fault with all other beings, he indeed is a Brâhmana, an ascetic (sramana), a friar (bhikshu).

143. Is there in this world any man so restrained by humility that he does not mind reproof, as a well-trained horse the whip?

144. Like a well-trained horse when touched by

[142. As to dandanidhâna, see Mahâbh. XII, 6559, and Sutta-nipâta, v. 34.

143, 144. I am very doubtful as to the real meaning of these verses. If their object is to show how reproof or punishment should be borne, my translation would be right, though alpabodhati in the sense of parvi facere is strange.]

p. 40

the whip, be ye active and lively, and by faith, by virtue, by energy, by meditation, by discernment of the law you will overcome this great pain (of reproof), perfect in knowledge and in behaviour, and never forgetful.

145. Well-makers lead the water (wherever they like); fletchers bend the arrow; carpenters bend a log of wood; good people fashion themselves.

[145. The same as verse 80. According to Fausböll and Subhûti we ought to render the verses by, 'What man is there found on earth so restrained by shame that he never provokes reproof, as a good horse the whip?' See Childers, s.v. appabodhati.]

CHAPTER XI.
OLD AGE.

146. How is there laughter, how is there joy, as this world is always burning? Why do you not seek a light, ye who are surrounded by darkness?

147. Look at this dressed-up lump, covered with wounds, joined together, sickly, full of many thoughts, which has no strength, no hold!

148. This body is wasted, full of sickness, and frail; this heap of corruption breaks to pieces, life indeed ends in death.

[148. Dr. Fausböll informs me that Childers proposed the emendation maranantam hi gîvitam. The following extract from a letter, addressed by Childers to Dr. Fausböll, will be read with interest:--'As regards Dhp. v. 148, I have no doubt whatever. I quite agree with you that the idea (mors est vita ejus) is a profound and noble one, but the question is, Is the idea there? I think not. Maranam tamhi gîvitam is not Pâli, I mean not a Pâli construction, and years ago even it grated on my ear as a harsh phrase. The reading of your MSS. of the texts is nothing; your MSS. of Dhammapada are very bad ones, and it is merely the vicious Sinhalese spelling of bad MSS., like kammamtam for kammantam. But the comment sets the question at rest at once, for it explains maranantam by maranapariyosânam, which is exactly the same. I see there is one serious difficulty left, that all your MSS. seem to have tamhi, and not tam hi; but are you sure it is so? There was a Dhammapada in the India Office Library, and I had a great hunt for it a few days ago, but to my deep disappointment it is missing. I do not agree with you that the sentence "All Life is bounded by Death," is trivial: it is a truism, but half the noblest passages in poetry are truisms, and unless I greatly mistake, this very passage will be found in many other literatures.'

Dr. Fausböll adds:--

'I have still the same doubt as before, because of all my MSS. reading maranam tamhi. I do not know the readings of the London MSS. The explanation of the commentary does not settle the question, as it may as well be considered an explanation of my reading as of the reading which Childers proposed.--V. FAUSBÖLL.']

p. 42

149. Those white bones, like gourds thrown away in the autumn, what pleasure is there in looking at them?

150. After a stronghold has been made of the bones, it is covered with flesh and blood, and there dwell in it old age and death, pride and deceit.

151. The brilliant chariots of kings are destroyed, the body also approaches destruction, but the virtue of good people never approaches destruction,--thus do the good say to the good.

152. A man who has learnt little, grows old like an ox; his flesh grows, but his knowledge does not grow.

153., 154. Looking for the maker of this tabernacle, I shall have to run through a course of many births, so long as I do not find (him); and painful is birth again and again. But now, maker of the tabernacle, thou hast been seen; thou shalt not make up

[149. In the Rudrâyanâvadâna of the Divyâvadâna this verse appears as,
Yânîmâny apariddhâni vikshiptâni diso disah,
Kapotavarnâny asthîni tâni drishtvaiha kâ ratih.
See Schiefner, Mél. Asiat. VIII, p. 589; Gâtaka, vol. i. p. 322.

150. The expression mamsalohitalepanam is curiously like the expression used in Manu VI, 76, mâmsasonitalepanam, and in several passages of the Mahâbhârata, XII, 12462, 12053, as pointed out by Dr. Fausböll.

153, 154. These two verses are famous among Buddhists, for they are the words which the founder of Buddhism is supposed to have uttered at the moment he attained to Buddhahood. (See Spence Hardy, Manual; p. 180.) According to the Lalita-vistara, however, the words uttered on that solemn occasion were those quoted in the note to verse 39. In the commentary on the Brahmagâla this verse is called the first speech of Buddha, his last speech being the words in the Mabâparinibbâna-sutta, 'Life is subject to age; strive in earnest.' The words used in the Mahâparinibbâna-sutta, Chap. IV, 2, Katunnam dhammânam ananubodhâ appativedhâ evam idam dîgham addhânam sandhâvitam samsâritam mamañ k' eva tumhâkañ ka, answer to the anticipation expressed in our verse.

The exact rendering of this verse has been much discussed, chiefly by Mr. D'Alwis in the Attanugaluvansa, p. cxxviii, and again in his Buddhist Nirvâna, p. 78; also by Childers, Notes on Dhammapada, p. 4, and in his Dictionary. Gogerly translated: 'Through various transmigrations I must travel, if I do not discover the builder whom I seek.' Spence Hardy: 'Through many different births I have run (to me not having found), seeking the architect of the desire-resembling house.' Fausböll: 'Multiplices generationis revolutiones percurreram, non inveniens, domus (corporis) fabricatorem quaerens.' And again (p. 322): 'Multarum generationum revolutio mihi subeunda esset, nisi invenissem domus fabricatorem.' Childers: 'I have run through the revolution of countless births, seeking the architect of this dwelling and finding him not.' D'Alwis: 'Through transmigrations of numerous births have I run, not discovering, (though) seeking the house-builder.' All depends on how we take sandhavissam, which Fausböll takes as a conditional, Childers, following Trenckner, as an aorist, because the sense imperatively requires an aorist. In either case, the dropping of the augment and the doubling of the s are, however, irregular. Sandhavissam is the regular form of the future, and as such I translate it, qualifying, however, the future, by the participle present anibbisan, i.e. not finding, and taking it in the sense of, if or so long as I do not find the true cause of existence. I had formerly translated anibbisan, as not resting (anirvisan), but the commentator seems to authorise the meaning of not finding (avindanto, alabhanto), and in that case all the material difficulties of the verse seem to me to disappear.

'The maker of the tabernacle' is explained as a poetical expression for the cause of new births, at least according to the views of Buddha's followers, whatever his own views may have been. Buddha had conquered Mâra, the representative of worldly temptations, the father of worldly desires, and as desires (tamhâ) are, by means of upâdâna and bhava, the cause of gâti, or 'birth,' the destruction of desires and the conquest of Mâra are nearly the same thing, though expressed differently in the philosophical and legendary language of the Buddhists. Tamhâ, 'thirst' or 'desire,' is mentioned as serving in the army of Mâra. (Lotus, p. 443.)]

p. 43

this tabernacle again. All thy rafters are broken, thy ridge-pole is sundered; the mind, approaching the Eternal (visankhâra, nirvâna), has attained to the extinction of all desires.

p. 44

155. Men who have not observed proper discipline, and have not gained treasure in their youth, perish like old herons in a lake without fish.

156. Men who have not observed proper discipline, and have not gained treasure in their youth, lie, like broken bows, sighing after the past.

[155. On ghâyanti, i.e. kshâyanti, see Dr. Bollensen's learned remarks, Zeitschrift der Deutschen Morgenl. Gesellschaft, XVIII, 834, and Boehtlingk-Roth, s.v. kshâ.]

CHAPTER XII.
SELF.

157. If a man hold himself dear, let him watch himself carefully; during one at least out of the three watches a wise man should be watchful.

158. Let each man direct himself first to what is proper, then let him teach others; thus a wise man will not suffer.

159. If a man make himself as he teaches others to be, then, being himself well subdued, he may subdue (others); one's own self is indeed difficult to subdue.

160. Self is the lord of self, who else could be the lord? With self well subdued, a man finds a lord such as few can find.

161. The evil done by oneself, self-begotten, self-bred, crushes the foolish, as a diamond breaks a precious stone.

162. He whose wickedness is very great brings himself down to that state where his enemy wishes him to be, as a creeper does with the tree which it surrounds.

163. Bad deeds, and deeds hurtful to ourselves, are easy to do; what is beneficial and good, that is very difficult to do.

[157. The three watches of the night are meant for the three stages of life. Cf. St. Mark xiii. 37, 'And what I say unto you, I say unto all, Watch.'

158. Cf. Gâtaka, vol. ii. p. 441.

161. The Chinese translation renders vagiram by 'steel drill.']

p. 46

164. The foolish man who scorns the rule of the venerable (Arahat), of the elect (Ariya), of the virtuous, and follows false doctrine, he bears fruit to his own destruction, like the fruits of the Katthaka reed.

165. By oneself the evil is done, by oneself one suffers; by oneself evil is left undone, by oneself one is purified. Purity and impurity belong to oneself, no one can purify another.

166. Let no one forget his own duty for the sake of another's, however great; let a man, after he has discerned his own duty, be always attentive to his duty.

[164. The reed either dies after it has borne fruit, or is cut down for the sake of its fruit.

Ditthi, literally 'view,' is used even by itself like the Greek 'hairesis,' in the sense of heresy (see Burnouf, Lotus, p. 444). In other places a distinction is made between mikkhâditthi (vv. 167, 316) and sammâditthi (v. 319). If arahatam ariyânam are used in their technical sense, we should translate 'the reverend Arhats,'--Arhat being the highest degree of the four orders of Ariras, viz. Srotaâpanna, Sakadâgâmin, Anâgâmin, and Arhat. See note to verse 178.

166. Attha, lit. 'object,' must here be taken in a moral sense, as 'duty' rather than as 'advantage.' Childers rendered it by 'spiritual good.' The story which Buddhaghosa tells of the Thera Attadattha gives a clue to the origin of some of his parables, which seem to have been invented to suit the text of the Dhammapada rather than vice versâ. A similar case occurs in the commentary to verse 227.]

CHAPTER XIII.
THE WORLD.

167. Do not follow the evil law! Do not live on in thoughtlessness! Do not follow false doctrine! Be not a friend of the world.

168. Rouse thyself! do not be idle! Follow the law of virtue! The virtuous rests in bliss in this world and in the next.

169. Follow the law of virtue; do not follow that of sin. The virtuous rests in bliss in this world and in the next.

170. Look upon the world as a bubble, look upon it as a mirage: the king of death does not see him who thus looks down upon the world.

171. Come, look at this glittering world, like unto a royal chariot; the foolish are immersed in it, but the wise do not touch it.

172. He who formerly was reckless and afterwards became sober, brightens up this world, like the moon when freed from clouds.

173. He whose evil deeds are covered by good deeds, brightens up this world, like the moon when freed from clouds.

174. This world is dark, few only can see here; a few only go to heaven, like birds escaped from the net.

175. The swans go on the path of the sun, they go through the ether by means of their miraculous

[168, 169. See Rhys Davids, Buddhism, p. 65.

170. See Suttanipâta, v. 1118.

175. Hamsa may be meant for the bird, whether flamingo, or swan, or ibis (see Hardy, Manual, p. 17), but it may also, I believe, be taken in the sense of saint. As to iddhi, 'magical power,' i.e. riddhi, see Burnouf, Lotus, p. 310; Spence Hardy, Manual, pp. 498, 504; Legends, pp. 55, 177; and note to verse 254.]

p. 48

power; the wise are led out of this world, when they have conquered Mâra and his train.

176. If a man has transgressed one law, and speaks lies, and scoffs at another world, there is no evil he will not do.

177. The uncharitable do not go to the world of the gods; fools only do not praise liberality; a wise man rejoices in liberality, and through it becomes blessed in the other world.

178. Better than sovereignty over the earth, better than going to heaven, better than lordship over all worlds, is the reward of the first step in holiness.

[178. Sotâpatti, the technical term for the first step in thr path that leads to Nirvâna. There are four such steps, or stages, and on entering each, a man receives a new title:--

(1) The Srotaâpanna, lit. he who has got into the stream. A man may have seven more births before he reaches the other shore, i.e. Nirvâna.

(2) Sakridâgâmin, lit. he who comes back once, so called because, after having entered this stage, a man is born only once more among men or gods. Childers shows that this involves really two more births, one in the deva world, the other in the world of men: Burnouf says the same, Introduction, p. 293.

(3) Anâgâmin, lit. he who does not come back, so called because, after this stage, a man cannot be born again in a lower world; but can only be born into a Brahman world, before he reaches Nirvâna.

(4) Arhat, the venerable, the perfect, who has reached the highest stage that can be reached, and from which Nirvâna is perceived (sukkhavipassanâ, Lotus, p. 849). See Hardy, Eastern Monachism, p. 280; Burnouf, Introduction, p. 209; Köppen, p. 398; D'Alwis, Attanugaluvansa, p. cxxiv; Feer, Sutra en 42 articles, p. 6.]

CHAPTER XIV.
THE BUDDHA (THE AWAKENED).

179. He whose conquest is not conquered again, into whose conquest no one in this world enters, by what track can you lead him, the Awakened, the Omniscient, the trackless?

180. He whom no desire with its snares and poisons can lead astray, by what track can you lead him, the Awakened, the Omniscient, the trackless?

181. Even the gods envy those who are awakened and not forgetful, who are given to meditation, who are wise, and who delight in the repose of retirement (from the world).

182. Difficult (to obtain) is the conception of men, difficult is the life of mortals, difficult is the hearing of the True Law, difficult is the birth of the Awakened (the attainment of Buddhahood).

[179, 180. Buddha, the Awakened, is to be taken as an appellative rather than as the proper name of the Buddha (see v. 183). It means, anybody who has arrived at complete knowledge. Anantagokaram I take in the sense of, possessed of unlimited knowledge. Apadam, which Dr. Fausböll takes as an epithet of Buddha and translates by 'non investigabilis,' is translated 'trackless,' in order to show the play on the word pada; see Childers, s.v. The commentator says: 'The man who is possessed of even a single one of such conditions as râga, &c., him ye may lead forward; but the Buddha has not even one condition or basis of renewed existence, and therefore by what track will you lead this unconditioned Buddha?' Cf. Dhp. vv. 92, 420; and Gâtaka, vol. i. pp. 79, 313.

182. Mr. Beal (Dhammapada, p. 110) states that this verse occurs in the Sûtra of the Forty-two Sections.]

p. 50

183. Not to commit any sin, to do good, and to purify one's mind, that is the teaching of (all) the Awakened.

184. The Awakened call patience the highest penance, long-suffering the highest Nirvâna; for he is not an anchorite (pravragita) who strikes others, he is not an ascetic (sramana) who insults others.

185. Not to blame, not to strike, to live restrained under the law, to be moderate in eating, to sleep and sit alone, and to dwell on the highest thoughts,--this is the teaching of the Awakened.

[183. This verse is again one of the most solemn verses among the Buddhists. According to Csoma Körösi, it ought to follow the famous Âryâ stanza, 'Ye dhammâ' (Lotus, p. 522), and serve as its complement. But though this may be the case in Tibet, it was not so originally. The same verse (ascribed to Kanakamuni) occurs at the end of the Chinese translation of the Prâtimoksha. (Beal, J. R. A. S. XIX, p. 473; Catena, p. 159); in the Tibetan translation of the Gâthâsangraha, v. 14 (Schiefner, Mél. Asiat. I VIII, pp. 568, 586; and Csoma Körösi, As. Res. XX, p. 79). Burnouf has fully discussed the metre and meaning of our verse on pp. 527, 528 of his 'Lotus.' He prefers sakittaparidamanam, which Csoma translated by 'the mind must be brought under entire subjection' (svakittaparidamanam), and the late Dr. Mill by 'proprii intellectus subjugatio.' But his own MS. of the Mahâpadhâna-sutta gave likewise sakittapariyodapanam, and this is no doubt the correct reading. (See D'Alwis, Attanugaluvansa, p. cxxix.) We found pariyodappeya in verse 88, in the sense of purging oneself from the troubles of thought. From the same verb, (pari) ava + dai, we may derive the name Avadâna, a legend, originally a pure and virtuous act, an {Greek: aridteia}, afterwards a sacred story, and possibly a story the hearing of which purifies the mind. See Boehtlingk-Roth, s.v. avadâna.

184. Childers, following the commentator, translates, 'Patience, which is long-suffering, is the best devotion, the Buddhas declare that Nirvâna is the best (of things).'

185. Cf. Suttanipâta, v. 337. Pâtimokkhe, 'under the law,' i.e. according to the law, the law which leads to Moksha, or 'freedom.' Prâtimoksha is the title of the oldest collection of the moral laws of the Buddhists (Burnouf, Introduction, p. 300; Bigandet, The Life of Gaudama, p. 439; Rhys Davids, Buddhism, p. 162), and as it was common both to the Southem and the Northem Buddhists, pâtimokkhe in our passage may possibly be meant, as Professor Weber suggests, as the title of that very collection. The commentator explains it by getthakasîla and pâtimokkhasîla. Sayanâsam might stand for sayanâsanam, see Mahâbh. XII, 6684; but in Buddhist literature it is intended for sayanâsanam; see also Mahâbh. XII, 9978, sayyâsane. Fausböll now reads pânta instead of patthañ.

187. There is a curious similarity between this verse and verse 6503 (9919) of the Sântiparva:
Yak ka kâmasukham loke, yak ka divyam mahat sukham,
Trishnâkshayasukhasyaite nârhatah shodasim kalâm.
'And whatever delight of love there is on earth, and whatever is the great delight in heaven, they are not worth the sixteenth part of the pleasure which springs from the destruction of all desires.' The two verses 186, 187 are ascribed to king Mandhâtri shortly before his death (Mél. Asiat. VIII, p. 471; see also Gâtaka, vol. ii. p. 113).]

p. 51

186. There is no satisfying lusts, even by a shower of gold pieces; he who knows that lusts have a short taste and cause pain, he is wise;

187. Even in heavenly pleasures he finds no satisfaction, the disciple who is fully awakened delights only in the destruction of all desires.

188. Men, driven by fear, go to many a refuge, to mountains and forests, to groves and sacred trees.

189. But that is not a safe refuge, that is not the best refuge; a man is not delivered from all pains after having gone to that refuge.

190. He who takes refuge with Buddha, the Law,

[188-192. These verses occur in Sanskrit in the Prâtihâryasûtra, translated by Burnouf, Introduction, pp. 162-189; see p. 186. Burnouf translates rukkhaketyâni by 'arbres consacrés;' properly, sacred shrines under or near a tree. See also Gâtaka vol. i. p. 97.

190. Budda, Dharma, and Sangha are called the Trisarana (cf. Burnouf, Introd. p. 630). The four holy truths are the four statements that there is pain in this world, that the source of pain is desire, that desire can be annihilated, that there is a way (shown by Buddha) by which the annihilation of all desires can be achieved, and freedom be obtained. That way consists of eight parts. (See Burnouf, Introduction, p. 630.) The eightfold way forms the subject of Chapter XVIII. (See also Feer, Journal As. 1870, p. 418, and Chips from a German Workshop, 2nd ed. vol. i. p. 251 seq.)]

p. 52

and the Church; he who, with clear understanding, sees the four holy truths:--

191. Viz. pain, the origin of pain, the destruction of pain, and the eightfold holy way that leads to the quieting of pain;--

192. That is the safe refuge, that is the best refuge; having gone to that refuge, a man is delivered from all pain.

193. A supernatural person (a Buddha) is not easily found, he is not born everywhere. Wherever such a sage is born, that race prospers.

194. Happy is the arising of the awakened, happy is the teaching of the True Law, happy is peace in the church, happy is the devotion of those who are at peace.

195., 196. He who pays homage to those who deserve homage, whether the awakened (Buddha) or their disciples, those who have overcome the host (of evils), and crossed the flood of sorrow, he who pays homage to such as have found deliverance and know no fear, his merit can never be measured by anybody.


CHAPTER XV.
HAPPINESS.

197. Let us live happily then, not hating those who hate us! among men who hate us let us dwell free from hatred!

198. Let us live happily then, free from ailments among the ailing! among men who are ailing let us dwell free from ailments!

199. Let us live happily then, free from greed among the greedy! among men who are greedy let us dwell free from greed!

200. Let us live happily then, though we call nothing our own! We shall be like the bright gods, feeding on happiness!

201. Victory breeds hatred, for the conquered is unhappy. He who has given up both victory and defeat, he, the contented, is happy.

[198. The ailment here meant is moral rather than physical. Cf. Mahâbh. XII, 9924, samprasânto nirâmayah; 9925, yo 'sau prânântiko rogas tâm trishnâm tyagatah sukham.

200. The words placed in the mouth of the king of Videha, while his residence Mithilâ was in flames, are curiously like our verse; cf. Mahâbh. XII, 9917,
Susukham vata gîvâmi yasya me nâsti kiñkana,
Mithilâyâm pradîptâyâm na me dahyati kiñkana.
'I live happily, indeed, for I have nothing; while Mithilâ is in flames, nothing of mine is burning.' Cf. Muir, Religious sentiments, p. 106.

The âbhassara, i.e. âbhâsvara, 'the bright gods,' are frequently mentioned. Cf. Burnouf, Introd. p. 611.

201. This verse is ascribed to Buddha, when he heard of the defeat of Agâtasatru by Prasenagit. It exists in the Northern or Sanskrit and in the Southern or Pâli texts, i.e. in the Avadâna-sataka, in the Samyutta-nikâya. See Feer, Comptes Rendus, 1871, p. 44. and Journal As. 1880, p. 509. In the Avadâna-sataka, the Sanskrit version is--
Gayo vairam prasavati, duhkham sete parâgitah
Upasântah sukham sete hitvâ gayaparâgayam.]

p. 54

202. There is no fire like passion; there is no losing throw like hatred; there is no pain like this body; there is no happiness higher than rest.

203. Hunger is the worst of diseases, the body the greatest of pains; if one knows this truly, that is Nirvâna, the highest happiness.

[202. I take kali in the sense of an unlucky die which makes a player lose his game. A real simile seems wanted here, as in verse 251, where, for the same reason, I translate graha by 'shark,' not by 'captivitas,' as Dr. Fausböll proposes. The same scholar translates kali in our verse by 'peccatum.' If there is any objection to translating kali in Pâli by 'unlucky die,' I should still prefer to take it in the sense of the age of depravity, or the demon of depravity. To judge from Abhidhânappadîpikâ, 1106, kali was used for parâgaya, i.e. loss at game, a losing throw, and occurs in that sense again in verse 252. The Chinese translation has, 'there is no distress (poison) worse than hate.' A similar verse occurs Mahâbh. Sântip. 175, v. 35.

'Body' for khandha is a free translation, but it is difficult to find any other rendering. The Chinese translation also has 'body.' According to the Buddhists each sentient being consists of five khandhas (skandha), or aggregates, the organized body (rûpakhandha) with its four internal capacities of sensation (vedanâ), perception (sañgñâ), conception (samskâra), knowledge (vigñâna). See Burnouf, Introd. pp. 589, 634; Lotus, p. 335.

203. Samskâra is the fourth of the five khandhas, but the commentator takes it here, as well as in verse 255, for the five khandhas together, in which case we can only translate it by 'body.' See also verse 278. Childers proposes 'organic life'. (Notes on Dhammapada, p. 1). There is, however, another samskâra, that which follows inimediately upon avidyâ, 'ignorance,' as the second of the nidânas, or 'causes of existence,' and this too might be called the greatest pain, considering that it is the cause of birth, which is the cause of all pain. Samskâra seems sometimes to have a different and less techninal meaning, being used in the sense of conceptions, plans, desires, as, for instance, in verse 368, where sankhârânam khayam is used much like tamhâkhaya. Again, in his comment on verse 75, Buddhaghosa says, upadhiviveko sankhârasanganikam vinodeti; and again, upadhiviveko ka nirupadhînâm puggalânam visankhâragatânâm.

For a similar sentiment, see Stanislas Julien, Les Avadânas, vol. i. p. 40, 'Le corps est la plus grande source de souffrance,' &c. I should say that the khandhas in verse 202 and the sankhâras in verse 203 are nearly, if not quite, synonymous. I should prefer to read gigakkhâ-paramâ as a compound. Gigakkhâ, or as it is written in one MS., digakkhâ (Sk. gighatsâ), means not only 'hunger,' but 'appetite; desire.']

p. 55

204. Health is the greatest of gifts, contentedness the best riches; trust is the best of relationships, Nirvâna the highest happiness.

205. He who has tasted the sweetness of solitude and tranquillity, is free from fear and free from sin, while he tastes the sweetness of drinking in the law.

206. The sight of the elect (Arya) is good, to live with them is always happiness; if a man does not see fools, he will be truly happy.

207. He who walks in the company of fools suffers a long way; company with fools, as with an enemy, is always painful; company with the wise is pleasure, like meeting with kinsfolk.

208. Therefore, one ought to follow the wise, the intelligent, the learned, the much enduring, the dutiful, the elect; one ought to follow a good and wise man, as the moon follows the path of the stars.

[204. Childers translates, 'the best kinsman is a man you can trust.'

205. Cf. Suttanipâta, v. 256.

208. I should like to read sukho ka dhîrasamvâso.]


CHAPTER XVI.
PLEASURE.

209. He who gives himself to vanity, and does not give himself to meditation, forgetting the real aim (of life) and grasping at pleasure, will in time envy him who has exerted himself in meditation.

210. Let no man ever look for what is pleasant, or what is unpleasant. Not to see what is pleasant is pain, and it is pain to see what is unpleasant.

211. Let, therefore, no man love anything; loss of the beloved is evil. Those who love nothing and hate nothing, have no fetters.

212. From pleasure comes grief, from pleasure comes fear; he who is free from pleasure knows neither grief nor fear.

213. From affection comes grief, from affection comes fear; he who is free from affection knows neither grief nor fear.

214. From lust comes grief, from lust comes fear; he who is free from lust knows neither grief nor fear.

215. From love comes grief, from love comes fear; he who is free from love knows neither grief nor fear.

216. From greed comes grief, from greed comes fear; he who is free from greed knows neither grief nor fear.

217. He who possesses virtue and intelligence,

[214. See Beal, Catena, p. 200.]

p. 57

who is just, speaks the truth, and does what is his own business, him the world will hold dear.

218. He in whom a desire for the Ineffable (Nirvâna) has sprung up, who is satisfied in his mind, and whose thoughts are not bewildered by love, he is called ûrdhvamsrotas (carried upwards by the stream).

219. Kinsmen, friends, and lovers salute a man who has been long away, and returns safe from afar.

220. In like manner his good works receive him who has done good, and has gone from this world to the other;--as kinsmen receive a friend on his return.

[218. Ûrdhvamsrotas or uddhamsoto is the technical name for one who has reached the world of the Avrihas (Aviha), and is proceeding to that of the Akanishthas (Akanittha). This is the last stage before he reaches the formless world, the Arûpadhâtu. (See Buddhaghosha's Parables, p. 123; Burnouf, Introduction, p. 599.) Originally ûrdhvamsrotas may have been used in a less technical sense, meaning one who swims against the stream, and is not carried away by the vulgar passions of the world.]

CHAPTER XVII.
ANGER.

221. Let a man leave anger, let him forsake pride, let him overcome all bondage! No sufferings befall the man who is not attached to name and form, and who calls nothing his own.

222. He who holds back rising anger like a rolling chariot, him I call a real driver; other people are but holding the reins.

223. Let a man overcome anger by love, let him overcome evil by good; let him overcome the greedy by liberality, the liar by truth!

224. Speak the truth, do not yield to anger; give, if thou art asked for little; by these three steps thou wilt go near the gods.

225. The sages who injure nobody, and who always control their body, they will go to the unchangeable place (Nirvâna), where, if they have gone, they will suffer no more.

226. Those who are ever watchful, who study day and night, and who strive after Nirvâna, their passions will come to an end.

227. This is an old saying, O Atula, this is not only of to-day: 'They blame him who sits silent,

[221. 'Name and form' or 'mind and body' is the translation of nâma-rûpa, the ninth of the Buddhist Nidânas. Cf. Burnouf, Introduction, p. 501; see also Gogerly, Lecture on Buddhism, and Bigandet, The Life of Gaudama, p. 454.

223. Mahâbh. XII, 3550, asâdhum sadhunâ gayet. Cf. Ten Gâtakas, ed. Fausböll, p. 5.

227. It appears from the commentary that porânam and aggatanam are neuters, referring to what happened formerly and what happens to-day, and that they are not to be taken as adjectives referring to âsînam, &c. The commentator must have read atula instead of atulam, and he explains it as the name of a pupil whom Gautama addressed by that name. This may be so (see note to verse 166); but atula may also be taken in the sense of incomparable (Mahâbh. XIII, 1937), and in that case we ought to supply, with Professor Weber, some such word as 'saw' or 'saying.']

p. 59

they blame him who speaks much, they also blame him who says little; there is no one on earth who is not blamed.'

228. There never was, there never will be, nor is there now, a man who is always blamed, or a man who is always praised.

229., 230. But he whom those who discriminate praise continually day after day, as without blemish, wise, rich in knowledge and virtue, who would dare to blame him, like a coin made of gold from the Gambû river? Even the gods praise him, he is praised even by Brahman.

231. Beware of bodily anger, and control thy body! Leave the sins of the body, and with thy body practise virtue!

232. Beware of the anger of the tongue, and control thy tongue! Leave the sins of the tongue, and practise virtue with thy tongue!

233. Beware of the anger of the mind, and control thy mind! Leave the sins of the mind, and practise virtue with thy mind!

234. The wise who control their body, who control their tongue, the wise who control their mind, are indeed well controlled.

[230. The Brahman worlds are higher that the Deva worlds as the Brahman is higher than a Deva; see Hardy, Manual, p. 25; Burnouf, Introduction, pp. 134, 184.]

CHAPTER XVIII.
IMPURITY.

235. Thou art now like a sear leaf, the messengers of death (Yama) have come near to thee; thou standest at the door of thy departure, and thou hast no provision for thy journey.

236. Make thyself an island, work hard, be wise! When thy impurities are blown away, and thou art free from guilt, thou wilt enter into the heavenly world of the elect (Ariya).

237. Thy life has come to an end, thou art come near to death (Yama), there is no resting-place for thee on the road, and thou hast no provision for thy journey.

238. Make thyself an island, work hard, be wise! When thy impurities are blown away, and thou art free from guilt, thou wilt not enter again into birth and decay.

239. Let a wise man blow off the impurities of his self, as a smith blows off the impurities of silver one by one, little by little, and from time to time.

240. As the impurity which springs from the iron,

[235. Uyyoga seems to mean departure. See Buddhaghosa's commentary on verse 152, p. 319, l. 1; Fausböll, Five Gâtakas, p. 35.

236. 'An island,' for a drowning man to save himself; (see verse 25.) Dîpankara is the name of one of the former Buddhas, and it is also used as an appellative of the Buddha, but is always derived from dîpo, 'a lamp.'

239. This verse is the foundation of the thirty-fourth section of the Sûtra of the forty-two sections; see Beal, Catena, p. 201; Sutta-nipâta, v. 962.]

p. 61

when it springs from it, destroys it; thus do a transgressor's own works lead him to the evil path.

241. The taint of prayers is non-repetition; the taint of houses, non- repair; the taint of the body is sloth; the taint of a watchman, thoughtlessness.

242. Bad conduct is the taint of woman, greediness the taint of a benefactor; tainted are all evil ways in this world and in the next.

243. But there is a taint worse than all taints,--ignorance is the greatest taint. O mendicants! throw off that taint, and become taintless!

244. Life is easy to live for a man who is without shame, a crow hero, a mischief-maker, an insulting, bold, and wretched fellow.

245. But life is hard to live for a modest man, who always looks for what is pure, who is disinterested, quiet, spotless, and intelligent.

246. He who destroys life, who speaks untruth, who in this world takes what is not given him, who goes to another man's wife;

247. And the man who gives himself to drinking intoxicating liquors, he, even in this world, digs up his own root.

248. O man, know this, that the unrestrained are in a bad state; take care that greediness and vice do not bring thee to grief for a long time!

[244. Pakkhandin is identified by Dr. Fausböll with praskandin, one who jumps forward, insults, or, as Buddhaghosa explains it, one who meddles with other people's business, an interloper. At all events, it is a term of reproach, and, as it would seem, of theological reproach.

246. On the five principal commandments which are recapitulated in verses 246 and 247, see Buddhaghosha's Parables, p. 153.

248. Cf. Mahâbhârata XII, 4055, yeshâm vrittis ka samyatâ. See also verse 307.]

p. 62

249. The world gives according to their faith or according to their pleasure: if a man frets about the food and the drink given to others, he will find no rest either by day or by night.

250. He in whom that feeling is destroyed, and taken out with the very root, finds rest by day and by night.

251. There is no fire like passion, there is no shark like hatred, there is no snare like folly, there is no torrent like greed.

252. The fault of others is easily perceived, but that of oneself is difficult to perceive; a man winnows his neighbour's faults like chaff, but his own fault he hides, as a cheat hides the bad die from the gambler.

253. If a man looks after the faults of others, and is always inclined to be offended, his own passions will grow, and he is far from the destruction of passions.

254. There is no path through the air, a man is not a Samana by outward acts. The world

[249. This verse has evidently regard to the feelings of the Bhikshus or mendicants who receive either much or little, and who are exhorted not to be envious if others receive more than they themselves. Several of the Parables illustrate this feeling.

251. Dr. Fausböll translates gaho by 'captivitas,' Dr. Weber by 'fetter.' I take it in the same sense as grâha in Manu VI, 78; and Buddhaghosa does the same, though he assigns to grâha a more general meaning, viz. anything that seizes, whether an evil spirit (yakkha), a serpent (agagara), or a crocodile (kumbhîla).

Greed or thirst is represented as a river in Lalita-vistara, ed. Calc. p. 482, trishnâ-nadî tivegâ prasoshitâ me gñânasûryena, 'the wild river of thirst is dried up by the sun of my knowledge.'

252. See Childers, Notes, p. 7; St. Matthew vii. 3.

253. As to âsava, 'appetite, passion,' see note to verse 39.

254. I have translated this verse very freely, and not in accordance with Buddhaghosa's commentary. Dr. Fausböll proposed to translate, 'No one who is outside the Buddhist community can walk through the air, but only a Samana;' and the same view is taken by Professor Weber, though he arrives at it by a different construction. Now it is perfectly true that the idea of magical powers (riddhi) which enable saints to walk through the air, &c., occurs in the Dhammapada, see v. 175, note. But the Dhammapada may contain earlier and later verses, and in that case our verse might be an early protest on the part of Buddha against the belief in such miraculous powers. We know how Buddha himself protested against his disciples being called upon to perform vulgar miracles. 'I command my disciples not to work miracles,' he said, 'but to hide their good deeds, and to show their sins' (Burnouf, Introd. p. 170). It would be in harmony with this sentiment if we translated our verse as I have done. As to bahira, I should take it in the sense of 'external,' as opposed to adhyâtmika, or 'internal;' and the meaning would be, 'a Samana is not a Samana by outward acts, but by his heart.' D'Alwis translates (p. 85): 'There is no footprint in the air; there is not a Samana out of the pale of the Buddhist community.'

Prapañka, which I have here translated by 'vanity,' seems to include the whole host of human weaknesses; cf. v. 196, where it is explained by tamhâditthimânapapañka; in our verse by tamhâdisu papañkesu: cf. Lalita-vistara, p. 564, anâlayam nishprapañkam anutpâdam asambhavam (dharmakakram). As to Tathâgata, a name of Buddha, cf. Burnouf, Introd. p. 75.]

p. 63

delights in vanity, the Tathâgatas (the Buddhas) are free from vanity.

255. There is no path through the air, a man is not a Samana by outward acts. No creatures are eternal; but the awakened (Buddha) are never shaken.

[255. Sankhâra for samskâra; cf. note to verse 203. Creature does not, as Mr. D'Alwis (p. 69) supposes, involve the Christian conception of creation.]

CHAPTER XIX.
THE JUST.

256., 257. A man is not just if he carries a matter by violence; no, he who distinguishes both right and wrong, who is learned and leads others, not by violence, but by law and equity, and who is guarded by the law and intelligent, he is called just.

258. A man is not learned because he talks much; he who is patient, free from hatred and fear, he is called learned.

259. A man is not a supporter of the law because he talks much; even if a man has learnt little, but sees the law bodily, he is a supporter of the law, a man who never neglects the law.

260. A man is not an elder because his head is grey; his age may be ripe, but he is called 'Old-in-vain.'

261. He in whom there is truth, virtue, love, restraint, moderation, he who is free from impurity and is wise, he is called an elder.

262. An envious, greedy, dishonest man does not become respectable by means of much talking only, or by the beauty of his complexion.

263. He in whom all this is destroyed, and taken out with the very root, he, when freed from hatred and wise, is called respectable.

[259. Buddhaghosa here takes law (dhamma) in the sense of the four great truths, see note to verse 190. Could dhammam kâyena passati mean, 'he observes the law in his acts?' Hardly, if we compare expressions like dhammam vipassato, v. 373.]

p. 65

264. Not by tonsure does an undisciplined man who speaks falsehood become a Samana; can a man be a Samana who is still held captive by desire and greediness?

265. He who always quiets the evil, whether small or large, he is called a Samana (a quiet man), because he has quieted all evil.

266. A man is not a mendicant (Bhikshu) simply because he asks others for alms; he who adopts the whole law is a Bhikshu, not he who only begs.

267. He who is above good and evil, who is chaste, who with knowledge passes through the world, he indeed is called a Bhikshu.

268., 269. A man is not a Muni because he observes silence (mona, i.e. mauna), if he is foolish

[265. This is a curious etymology, because it shows that at the time when this verse was written, the original meaning of sramana had been forgotten. Sramana meant originally, in the language br the Brahmans, a man who performed hard penances, from sram, 'to work hard,' &c. When it became the name of the Buddhist ascetics, the language had changed, and sramana was pronounced samana. Now there is another Sanskrit root, sam, 'to quiet,' which in Pâli becomes likewise sam, and from this root sam, 'to quiet,' and not from sram, 'to tire,' did the popular etymology of the day and the writer of our verse derive the title of the Buddhist priests. The original form sramana became known to the Greeks as {Greek: Sarmanai}, that of samana as {Greek: Samanaioi}; the former through Megasthenes, the latter through Bardesanes, 80-60 B.C. (See Lassen, Indische Alterthumskunde, II, 700.) The Chinese Shamen and the Tungusian Shamen come from the same source, though the latter has sometimes been doubted. See Schott, Über die doppelte Bedeutung des Wortes Schamane, in the Philosophical Transactions of the Berlin Academy, 1842, p. 463 seq.

266-270. The etymologies here given of the ordinary titles of the followers of Buddha are entirely fanciful, and are curious only as showing how the people who spoke Pâli had lost the etymological consciousness of their language. A Bhikshu is a beggar, i.e. a Buddhist friar who bas left his family and lives entirely on alms. Muni is a sage, hence Sâkya-muni, a name of Gautama. Muni comes from man, 'to think,' and from muni comes mauna, 'silence.' Ariya, again, is the general name of those who embrace a religious life. It meant originally 'respectable, noble.' In verse 270 it seems as if the writer wished to guard against deriving ariya from ari, 'enemy.' See note to verse 22.]

p. 66

and ignorant; but the wise who, taking the balance, chooses the good and avoids evil, he is a Muni, and is a Muni thereby; he who in this world weighs both sides is called a Muni.

270. A man is not an elect (Ariya) because he injures living creatures; because he has pity on all living creatures, therefore is a man called Ariya.

271., 272. Not only by discipline and vows, not only by much learning, not by entering into a trance, not by sleeping alone, do I earn the happiness of release which no worldling can know. Bhikshu, be not confident as long as thou hast not attained the extinction of desires.

[272. See Childers, Notes, p. 7.]

CHAPTER XX.
THE WAY.

273. The best of ways is the eightfold; the best of truths the four words; the best of virtues passionlessness; the best of men he who has eyes to see.

274. This is the way, there is no other that leads to the purifying of intelligence. Go on this way! Everything else is the deceit of Mâra (the tempter).

275. If you go on this way, you will make an end of pain! The way was preached by me, when I had understood the removal of the thorns (in the flesh).

276. You yourself must make an effort. The Tathâgatas (Buddhas) are only preachers. The thoughtful who enter the way are freed from the bondage of Mâra.

277. 'All created things perish,' he who knows and sees this becomes passive in pain; this is the way to purity.

[273. The eightfold or eight-membered way is the technical term for the way by which Nirvâna is attained. (See Burnouf, Lotus, p. 519.) This very way constitutes the fourth of the Four Truths, or the four words of truth, viz. Duhkha, 'pain ;' Samudaya, 'origin;' Nirodha, 'destruction;' Mârga, 'road.' (Lotus, p. 517.) See note to verse 178. For another explanation of the Mârga, or 'way,' see Hardy, Eastern Monachism, p. 280.

274. The last line may mean, 'this way is the confusion of Mâra,' i.e. the discomfiture of Mâra.

275. The salyas, 'arrows or thorns,' are the sokasalya, 'the arrows of grief.' Buddha himself is called mahâsalya-hartâ, 'the great remover of thorns.' (Lalita-vistara, p. 550; Mahâbh. XII, 5616.)

277. See v. 255.]

p. 68

278. 'All created things are grief and pain,' he who knows and sees this becomes passive in pain; this is the way that leads to purity.

279. 'All forms are unreal,' he who knows and sees this becomes passive in pain; this is the way that leads to purity.

280. He who does not rouse himself when it is time to rise, who, though young and strong, is full of sloth, whose will and thought are weak, that lazy and idle man will never find the way to knowledge.

281. Watching his speech, well restrained in mind, let a man never commit any wrong with his body! Let a man but keep these three roads of action clear, and he will achieve the way which is taught by the wise.

282. Through zeal knowledge is gotten, through lack of zeal knowledge is lost; let a man who knows this double path of gain and loss thus place himself that knowledge may grow.

283. Cut down the whole forest (of lust), not a tree only! Danger comes out of the forest (of lust). When you have cut down both the forest (of lust) and its undergrowth, then, Bhikshus, you will be rid of the forest and free!

[278. See v. 203.

279. Dhamma is here explained, like sankhâra, as the five khandha, i.e. as what constitutes a living body.

281. Cf. Beal, Catena, p. 159.

282. Bhûri was rightly translated 'intelligentia' by Dr. Fausböll. Dr. Weber renders it by 'Gedeihen,' but the commentator distinctly explains it as 'vast knowledge,' and in the technical sense the word occurs after vidyâ and before medhâ, in the Lalita-vistara, p. 541.

283. A pun, vana meaning both 'lust' and 'forest.' See some mistaken remarks on this verse in D'Alwis, Nirvâna, p. 86, and some good remarks in Childers, Notes, p. 7.]

p. 69

284. So long as the love of man towards women, even the smallest, is not destroyed, so long is his mind in bondage, as the calf that drinks milk is to its mother.

285. Cut out the love of self, like an autumn lotus, with thy hand! Cherish the road of peace. Nirvâna has been shown by Sugata (Buddha).

286. 'Here I shall dwell in the rain, here in winter and summer,' thus the fool meditates, and does not think of his death.

287. Death comes and carries off that man, praised for his children and flocks, his mind distracted, as a flood carries off a sleeping village.

288. Sons are no help, nor a father, nor relations; there is no help from kinsfolk for one whom death has seized.

289. A wise and good man who knows the meaning of this, should quickly clear the way that leads to Nirvâna.

[285. Cf. Gâtaka, vol. i. p. 183.

286. Antarâya, according to the commentator, givitântarâya, i.e. interitus, death. In Sanskrit, antarita is used in the sense of 'vanished' or 'perished.'

287. See notes to verse 47, Thiessen, Kisâgotamî, p. 11, and Mahâbh. XII, 9944, 6540.]

CHAPTER XXI.
MISCELLANEOUS.

290. If by leaving a small pleasure one sees a great pleasure, let a wise man leave the small pleasure, and look to the great.

291. He who, by causing pain to others, wishes to obtain pleasure for himself, he, entangled in the bonds of hatred, will never be free from hatred.

292. What ought to be done is neglected, what ought not to be done is done; the desires of unruly, thoughtless people are always increasing.

293. But they whose whole watchfulness is always directed to their body, who do not follow what ought not to be done, and who steadfastly do what ought to be done, the desires of such watchful and wise people will come to an end.

294. A true Brâhmana goes scatheless, though he have killed father and mother, and two valiant kings, though he has destroyed a kingdom with all its subjects.

295. A true Brâhmana goes scatheless, though he have killed father and mother, and two holy kings, and an eminent man besides.

[292. Cf. Beal, Catena, p. 264.

294, 295. These two verses are either meant to show that a truly holy man who, by accident, commits all these crimes is guiltless, or they refer to some particular event in Buddha's history. The commentator is so startled that he explains them allegorically. Mr. D'Alwis is very indignant that I should have supposed Buddha capable of pardoning patricide. 'Can it be believed,' he writes, 'that a Teacher, who held life, even the life of the minutest insect, nay, even a living tree, in such high estimation as to prevent its wanton destruction, has declared that the murder of a Brâhmana, to whom he accorded reverence, along with his own Sangha, was blameless?' D'Alwis, Nirvâna, p. 88. Though something might be said in reply, considering the antecedents of king Agâtasatru, the patron of Buddha, and stories such as that quoted by the commentator on the Dhammapada (Beal, l.c. p. 150), or in Der Weise und der Thor, p. 306, still these two verses are startling, and I am not aware that Buddha has himself drawn the conclusion, which has been drawn by others, viz. that those who have reached the highest Sambodhi, and are in fact no longer themselves, are outside the domain of good and bad, and beyond the reach of guilt. Verses like 39 and 412 admit of a different explanation. Still our verses being miscellaneous extracts, might possibly have been taken from a work in which such an opinion was advanced, and I find that Mr. Childers, no mean admirer of Buddha, was not shocked by my explanation. 'In my judgment,' he says, 'this verse is intended to express in a forcible manner the Buddhist doctrine that the Arhat cannot commit a serious sin.' However, we have met before wilh far-fetched puns in these verses, and it is not impossible that the native commentators were right after all in seeing some puns or riddles in this verse. D'Alwis, following the commentary, explains mother as lust, father as pride, the two valiant klngs as heretical systems, and the realm as sensual pleasure, while veyyaggha is taken by him for a place infested wilh the tigers of obstruction against final beatitude. Some confirmation of this interpretation is supplied by a passage in the third book of the Lankâvatâra-sûtra, as quoted by Mr. Beal in his translation of the Dhammapada, Introduction, p. 5. Here a stanza is quoted as having been recited by Buddha, in explanation of a similar startling utterance which he had made to Mahâmati:
'Lust, or carnal desire, this is the Mother,
Ignorance, this is the Father,
The highest point of knowledge, this is Buddha,
All the klesas, these are the Rahats,
The five skandhas, these are the Priests;
To commit the five unpardonable sins
Is to destroy these five
And yet not suffer the pains of hell.'
The Lankâvatâra-sûtra was translated into Chinese by Bodhiruki (508-511); when it was written is doubtful. See also Gâtaka, vol. ii. p. 263.]

p. 71

296. The disciples of Gotama (Buddha) are always well awake, and their thoughts day and night are always set on Buddha.

297. The disciples of Gotama are always well awake, and their thoughts day and night are always set on the law.

298. The disciples of Gotama are always well awake, and their thoughts day and night are always set on the church.

299. The disciples of Gotama are always well awake, and their thoughts day and night are always set on their body.

p. 72

300. The disciples of Gotama are always well awake, and their mind day and night always delights in compassion.

301. The disciples of Gotama are always well awake, and their mind day and night always delights in meditation.

302. It is hard to leave the world (to become a friar), it is hard to enjoy the world; hard is the monastery, painful are the houses; painful it is to dwell with equals (to share everything in common), and the itinerant mendicant is beset with pain. Therefore let no man be an itinerant mendicant and he will not be beset with pain.

303. Whatever place a faithful, virtuous, celebrated, and wealthy man chooses, there he is respected.

304. Good people shine from afar, like the snowy

[302. This verse is difficult, and I give my translation as tentative only. Childers (Notes, p. 11) does not remove the difficulties, and I have been chiefly guided by the interpretation put on the verse by the Chinese translator; Beal, Dhammapada, p. 137.]

p. 73

mountains; bad people are not seen, like arrows shot by night.

305. He alone who, without ceasing, practises the duty of sitting alone and sleeping alone, he, subduing himself, will rejoice in the destruction of all desires alone, as if living in a forest.

[305. I have translated this verse so as to bring it into something like harmony with the preceding verses. Vanânte, according to a pun pointed out before (v. 283), means both 'in the end of a forest,' and 'in the end of desires.']


CHAPTER XXII.
THE DOWNWARD COURSE.

306. He who says what is not, goes to hell; he also who, having done a thing, says I have not done it. After death both are equal, they are men with evil deeds in the next world.

307. Many men whose shoulders are covered with the yellow gown are ill-conditioned and unrestrained; such evil-doers by their evil deeds go to hell.

308. Better it would be to swallow a heated iron ball, like flaring fire, than that a bad unrestrained fellow should live on the charity of the land.

309. Four things does a wreckless man gain who covets his neighbour's wife,--a bad reputation, an uncomfortable bed, thirdly, punishment, and lastly, hell.

[306. I translate niraya, 'the exit, the downward course, the evil path,' by 'hell,' because the meaning assigned to that ancient mythological name by Christian writers comes so near to the Buddhist idea of niraya, that it is difficult not to believe in some actual contact between these two streams of thought. See also Mahâbh. XII, 7176. Cf. Gâtaka, vol. ii. p. 416; Suttanipâta, v. 660.

307, 308. These two verses are said to be taken frorn the Vinaya-pitaka I, 4, 1; D'Alwis, Nirvâna; p. 29.

308. The charity of the land, i.e. the alms given, from a sense of religious duty, to every mendicant that asks for it.

309, 310. The four things rnentioned in verse 309 seem to be repeated in verse 310. Therefore, apuññalâbha, 'bad fame,' is the same in both: gati pâpikâ must be niraya; danda must be nindâ, and râtî thokikâ explains the anikâmaseyyam. Buddhaghosa takes the same view of the meaning of anikâmaseyya, i.e. yathâ ikkhati evam seyyam alabhitvâ, anikkhitam parittakam eva kâlam seyyam labhati, 'not obtaining the rest as he wishes it, he obtains it, as he does not wish it, for a short time only.']

p. 75

310. There is bad reputation, and the evil way (to hell), there is the short pleasure of the frightened in the arms of the frightened, and the king imposes heavy punishment; therefore let no man think of his neighbour's wife.

311. As a grass-blade, if badly grasped, cuts the arm, badly-practised asceticism leads to hell.

312. An act carelessly performed, a broken vow, and hesitating obedience to discipline, all this brings no great reward.

313. If anything is to be done, let a man do it, let him attack it vigorously! A careless pilgrim only scatters the dust of his passions more widely.

314. An evil deed is better left undone, for a man repents of it afterwards; a good deed is better done, for having done it, one does not repent.

315. Like a well-guarded frontier fort, with defences within and without, so let a man guard himself. Not a moment should escape, for they who allow the right moment to pass, suffer pain when they are in hell.

316. They who are ashamed of what they ought not to be ashamed of, and are not ashamed of what they ought to be ashamed of, such men, embracing false doctrines enter the evil path.

317. They who fear when they ought not to fear, and fear not when they ought to fear, such men, embracing false doctrines, enter the evil path.

[313. As to raga meaning 'dust' and 'passion,' see Buddhaghosha's Parables, pp. 65, 66.]

p. 76

318. They who forbid when there is nothing to be forbidden, and forbid not when there is something to be forbidden, such men, embracing false doctrines, enter the evil path.

319. They who know what is forbidden as forbidden, and what is not forbidden as not forbidden, such men, embracing the true doctrine, enter the good path.

CHAPTER XXIII.
THE ELEPHANT.

320. Silently shall I endure abuse as the elephant in battle endures the arrow sent from the bow: for the world is ill-natured.

321. They lead a tamed elephant to battle, the king mounts a tamed elephant; the tamed is the best among men, he who silently endures abuse.

322. Mules are good, if tamed, and noble Sindhu horses, and elephants with large tusks; but he who tames himself is better still.

323. For with these animals does no man reach the untrodden country (Nirvâna), where a tamed man goes on a tamed animal, viz. on his own well-tamed self.

324. The elephant called Dhanapâlaka, his temples running with sap, and difficult to hold, does not eat a morsel when bound; the elephant longs for the elephant grove.

[320. The elephant is with the Buddhists the emblem of endurance and self-restraint. Thus Buddha himseIf is called Nâga, 'the Elephant' (Lal. Vist. p. 553), or Mahânâga, 'the great Elephant' (Lal. Vist. p. 553), and in one passage (Lal. Vist. p. 554) the reason of this name is given, by stating that Buddha was sudânta, 'well-tamed,' like an elephant. He descended from heaven in the form of an elephant to be born on earth.

Cf. Manu VI, 47, ativâdâms titiksheta.

323. I read, as suggested by Dr. Fausböll, yath' attanâ sudantena danto dantena gakkhati' (cf. verse 160). The India Office MS. reads na hi etehi thânehi gakkheya agatam disam, yath' attânam sudantena danto dantena gakkhati. As to thânehi instead of yânehi, see verse 224.]

p. 78

325. If a man becomes fat and a great eater, if he is sleepy and rolls himself about, that fool, like a hog fed on wash, is born again and again.

326. This mind of mine went formerly wandering about as it liked, as it listed, as it pleased; but I shall now hold it in thoroughly, as the rider who holds the hook holds in the furious elephant.

327. Be not thoughtless, watch your thoughts! Draw yourself out of the evil way, like an elephant sunk in mud.

328. If a man find a prudent companion who walks with him, is wise, and lives soberly, he may walk with him, overcoming all dangers, happy, but considerate.

329. If a man find no prudent companion who walks with him, is wise, and lives soberly, let him walk alone, like a king who has left his conquered country behind,--like an elephant in the forest.

330. It is better to live alone, there is no companionship with a fool; let a man walk alone, let him commit no sin, with few wishes, like an elephant in the forest.

[326. Yoniso, i.e. yonisah, is rendered by Dr. Fausböll 'sapientiâ,' and this is the meaning ascribed to yoni by many Buddhist authorities. But the reference to Hemakandra (ed. Boehtlingk and Rieu, p. 281) shows clearly that it meant 'origin,' or 'cause.' Yoniso occurs frequently as a mere adverb, meaning 'thoroughly, radically' (Dhammapada, p. 359), and yoniso manasikâra (Dhammapada, p. 110) means 'taking to heart' or 'minding thoroughly,' or, what is nearly the same, 'wisely.' In the Lalita-vistara, p. 41, the commentator has clearly mistaken yonisah, changing it to ye 'niso, and explaining it by yamnisam, whereas M. Foucaux has rightly translated it by 'depuis l'origine.' Professor Weber suspected in yonisah a double entendre, but even grammar would show that our author is innocent of it. In Lalita-vistara, p. 544, l. 4, ayonisa occurs in the sense of error.

328, 329. Cf. Suttanipâta, vv. 44, 45.]

p. 79

331. If an occasion arises, friends are pleasant; enjoyment is pleasant, whatever be the cause; a good work is pleasant in the hour of death; the giving up of all grief is pleasant.

332. Pleasant in the world is the state of a mother, pleasant the state of a father, pleasant the state of a Samana, pleasant the state of a Brâhmana.

333. Pleasant is virtue lasting to old age, pleasant is a faith firmly rooted; pleasant is attainment of intelligence, pleasant is avoiding of sins.

[332. The commentator throughout takes these words, like matteyyatâ, &c., to signify, not the status of a mother, or maternity, but reverence shown to a mother.]

CHAPTER XXIV.
THIRST.

334. The thirst of a thoughtless man grows like a creeper; he runs from life to life, like a monkey seeking fruit in the forest.

335. Whomsoever this fierce thirst overcomes, full of poison, in this world, his sufferings increase like the abounding Bîrana grass.

336. He who overcomes this fierce thirst, difficult to be conquered in this world, sufferings fall off from him, like water-drops from a lotus leaf.

337. This salutary word I tell you, 'Do ye, as many as are here assembled, dig up the root of thirst, as he who wants the sweet-scented Usîra root must dig up the Bîrana grass, that Mâra (the tempter) may not crush you again and again, as the stream crushes the reeds.'

338. As a tree, even though it has been cut down, is firm so long as its root is safe, and grows again, thus, unless the feeders of thirst are destroyed, the pain (of life) will return again and again.

339. He whose thirst running towards pleasure is exceeding strong in the thirty-six channels, the

[334. This is explained by a story in the Chinese translation. Beal, Dhammapada, p. 148.

335. Bîrana grass is the Andropogon muricatum, and the scented root of it is called Usîra (cf. verse 337).

338. On Anusaya, i.e. Anusaya (Anlage), see Wassiljew, Der Buddhismus, p. 240 seq.

339. The thirty-six channels, or passions, which are divided by the commentator into eighteen external and eighteen internal, are explained by Burnouf (Lotus, p. 649), from a gloss of the Gina-alankâra 'L'indication précise des affections dont un Buddha acte indépendant, affections qui sont au nombre de dix-huit, nous est fourni par la glose d'un livre appartenant aux Buddhistes de Ceylan,' &c. Subhûti gives the right reading as manâpassavanâ; cf. Childers, Notes, p. 12.

Vâhâ, which Dr. Fausböll translates by 'equi,' may be vahâ, 'undae.' Cf. Suttanipâta, v. 1034.]

p. 81

waves will carry away that misguided man, viz. his desires which are set on passion.

340. The channels run everywhere, the creeper (of passion) stands sprouting; if you see the creeper springing up, cut its root by means of knowledge.

341. A creature's pleasures are extravagant and luxurious; sunk in lust and looking for pleasure, men undergo (again and again) birth and decay.

342. Men, driven on by thirst, run about like a snared hare; held in fetters and bonds, they undergo pain for a long time, again and again.

343. Men, driven on by thirst, run about like a snared hare; let therefore the mendicant drive out thirst, by striving after passionlessness for himself.

344. He who having got rid of the forest (of lust) (i.e. after having reached Nirvâna) gives himself over to forest-life (i.e. to lust), and who, when removed from the forest (i.e. from lust), runs to the forest (i.e. to lust), look at that man! though free, he runs into bondage.

[344. This verse seems again full of puns, all connected with the twofold meaning of vana, 'forest and lust.' By replacing 'forest' by 'lust,' we may translate: 'He who, when free from lust, gives himself up to lust, who, when removed from lust runs into lust, look at that man,' &c. Nibbana, 'though with a short a, may be intended to remind the hearer of Nibbâna. The right reading is nibbanatho; see Childers, Notes, p. 8.]

p. 82

345. Wise people do not call that a strong fetter which is made of iron, wood, or hemp; far stronger is the care for precious stones and rings, for sons and a wife.

346. That fetter wise people call strong which drags down, yields, but is difficult to undo; after having cut this at last, people leave the world, free from cares, and leaving desires and pleasures behind.

347. Those who are slaves to passions, run down with the stream (of desires), as a spider runs down the web which he has made himself; when they have cut this, at last, wise people leave the world free from cares, leaving all affection behind.

348. Give up what is before, give up what is behind, give up what is in the middle, when thou goest to the other shore of existence; if thy mind is altogether free, thou wilt not again enter into birth and decay.

349. If a man is tossed about by doubts, full of strong passions, and yearning only for what is delightful, his thirst will grow more and more, and he will indeed make his fetters strong.

350. If a man delights in quieting doubts, and, always reflecting, dwells on what is not delightful

[345. Apekhâ, apekshâ, 'care;' see Manu VI, 41, 49; Suttanipâta, v. 37; and Gâtaka, vol. ii. p. 140.

346. Paribbag, i.e. parivrag ; see Manu VI, 41.

347. The commentator explains the simile of the spider as follows: 'As a spider, after having made its thread-web, sits in the middle, and after killing with a violent rush a butterfly or a fly which has fallen in its circle, drinks its juice, returns, and sits again in the same place, in the same manner creatures who are given to passions, depraved by hatred, and maddened by wrath, run along the stream of thirst which they have made themselves, and cannot cross it,' &c.]

p. 83

(the impurity of the body, &c.), he certainly will remove, nay, he will cut the fetter of Mâra.

351. He who has reached the consummation, who does not tremble, who is without thirst and without sin, he has broken all the thorns of life: this will be his last body.

352. He who is without thirst and without affection, who understands the words and their interpretation, who knows the order of letters (those which are before and which are after), he has received his last body, he is called the great sage, the great man.

353. 'I have conquered all, I know all, in all conditions of life I am free from taint; I have left all, and through the destruction of thirst I am free; having learnt myself, whom shall I teach?'

354. The gift of the law exceeds all gifts; the sweetness of the law exceeds all sweetness; the delight in the law exceeds all delights; the extinction of thirst overcomes all pain.

355. Pleasures destroy the foolish, if they look not for the other shore; the foolish by his thirst for pleasures destroys himself, as if he were his own enemy.

[352. As to nirutti, and its technical meaning among the Buddhists, see Burnouf, Lotus, p. 841. Fausböll translates 'niruttis vocabulorum peritus,' which may be right, if we take nirutti in the sense of the language of the Scriptures. See note to verse 363. Could not sannipâta mean samhitâ or sannikarsha? Sannipâta occurs in the Sâkala-prâtisâkhya, but with a different meaning.

353. Cf. Suttanipâta, v. 210.

354. The dhammadâna, or 'gift of the law,' is the technical term for instruction in the Buddhist religion. See Buddhaghosha's Parables, p. 160, where the story of the Sakkadevarâga is told, and where a free rendering of our verse is given.]

p. 84

356. The fields are damaged by weeds, mankind is damaged by passion: therefore a gift bestowed on the passionless brings great reward.

357. The fields are damaged by weeds, mankind is damaged by hatred: therefore a gift bestowed on those who do not hate brings great reward.

358. The fields are damaged by weeds, mankind is damaged by vanity: therefore a gift bestowed on those who are free from vanity brings great reward.

359. The fields are damaged by weeds, mankind is damaged by lust: therefore a gift bestowed on those who are free from lust brings great reward.


CHAPTER XXV.
THE BHIKSHU (MENDICANT).

360. Restraint in the eye is good, good is restraint in the ear, in the nose restraint is good, good is restraint in the tongue.

361. In the body restraint is good, good is restraint in speech, in thought restraint is good, good is restraint in all things. A Bhikshu, restrained in all things, is freed from all pain.

362. He who controls his hand, he who controls his feet, he who controls his speech, he who is well controlled, he who delights inwardly, who is collected, who is solitary and content, him they call Bhikshu.

363. The Bhikshu who controls his mouth, who speaks wisely and calmly, who teaches the meaning and the law, his word is sweet.

364. He who dwells in the law, delights in the law, meditates on the law, follows the law, that Bhikshu will never fall away from the true law.

365. Let him not despise what he has received,

[363. On artha and dharma, see Stanislas Julien, Les Avadânas, I, 217, note; 'Les quatre connaissances sont; 1° la connaissance du sens (artha); 2° la connaissance de la Loi (dharma); 3° la connaissance des explications (niroukti); 4° la connaissance de l'intelligence (prâtibhâna).'

364. The expression dhammârâmo, 'having his garden or delight (Lustgarten) in the law,' is well matched by the Brahmanic expression ekârâma, i.e. nirdvandva (Mahâbh. XIII, 1930). Cf. Suttanipâta, v. 326; Dhammapada, v. 32.]

p. 86

nor ever envy others: a mendicant who envies others does not obtain peace of mind.

366. A Bhikshu who, though he receives little, does not despise what he has received, even the gods will praise him, if his life is pure, and if he is not slothful.

367. He who never identifies himself with name and form, and does not grieve over what is no more, he indeed is called a Bhikshu.

368. The Bhikshu who acts with kindness, who is calm in the doctrine of Buddha, will reach the quiet place (Nirvâna), cessation of natural desires, and happiness.

369. O Bhikshu, empty this boat! if emptied, it will go quickly; having cut off passion and hatred thou wilt go to Nirvâna.

370. Cut off the five (senses), leave the five, rise above the five. A Bhikshu, who has escaped from the five fetters, he is called Oghatinna, 'saved from the flood.'

371. Meditate, O Bhikshu, and be not heedless! Do not direct thy thought to what gives pleasure that thou mayest not for thy heedlessness have to swallow the iron ball (in hell), and that thou mayest not cry out when burning, 'This is pain.'

[367. Nâmarûpa is here used again in its technical sense of mind and body, neither of which, however, is with the Buddhists âtman, or 'self.' Asat, 'what is not,' may therefore mean the same as nâmarûpa, or we may take it in the sense of what is no more, as, for instance, the beauty or youth of the body, the vigour of the mind, &c.

368. See Childers, Notes, p. 11.

371. The swallowing of hot iron balls is considered as a punishment in hell; see verse 308. Professor Weber has perceived the right meaning of bhavassu, which can only be bhâvayasva, but I doubt whether the rest of his rendering is right, for who would swallow an iron ball by accident?]

p. 87

372. Without knowledge there is no meditation, without meditation there is no knowledge: he who has knowledge and meditation is near unto Nirvâna.

373. A Bhikshu who has entered his empty house, and whose mind is tranquil, feels a more than human delight when he sees the law clearly.

374. As soon as he has considered the origin and destruction of the elements (khandha) of the body, he finds happiness and joy which belong to those who know the immortal (Nirvâna).

375. And this is the beginning here for a wise Bhikshu: watchfulness over the senses, contentedness, restraint under the law; keep noble friends whose life is pure, and who are not slothful.

376. Let him live in charity, let him be perfect in his duties; then in the fulness of delight he will make an end of suffering.

377. As the Vassika plant sheds its withered flowers, men should shed passion and hatred, O ye Bhikshus!

378. The Bhikshu whose body and tongue and mind are quieted, who is collected, and has rejected the baits of the world, he is called quiet.

379. Rouse thyself by thyself, examine thyself by thyself, thus self-protected and attentive wilt thou live happily, O Bhikshu!

380. For self is the lord of self, self is the refuge of self; therefore curb thyself as the merchant curbs a good horse.

[372. Cf. Beal, Catena, p. 247.

375. Cf. Suttanipâta, v. 337.]

p. 88

381. The Bhikshu, full of delight, who is calm in the doctrine of Buddha will reach the quiet place (Nirvâna), cessation of natural desires, and happiness.

382. He who, even as a young Bhikshu, applies himself to the doctrine of Buddha, brightens up this world, like the moon when free from clouds.

[381. See verse 368. D'Alwis translates, 'dissolution of the sankhâras (elements of existence).']

CHAPTER XXVI.
THE BRÂHMANA (ARHAT).

383. Stop the stream valiantly, drive away the desires, O Brâhmana! When you have understood the destruction of all that was made, you will understand that which was not made.

384. If the Brâhmana has reached the other shore in both laws (in restraint and contemplation), all bonds vanish from him who has obtained knowledge.

385. He for whom there is neither this nor that shore, nor both, him, the fearless and unshackled, I call indeed a Brâhmana.

386. He who is thoughtful, blameless, settled, dutiful, without passions, and who has attained the highest end, him I call indeed a Brâhmana.

387. The sun is bright by day, the moon shines by night, the warrior is bright in his armour, the Brâhmana is bright in his meditation; but Buddha, the Awakened, is bright with splendour day and night.

388. Because a man is rid of evil, therefore he is called Brâhmana; because he walks quietly, therefore he is called Samana; because he has sent away his own impurities, therefore he is called Pravragita (Pabbagita, a pilgrim).

[385. The exact meaning of the two shores is not quite clear, and the commentator who takes them in the sense of internal and external organs of sense can hardly be right. See verse 86.

388. These would-be etytmologies are again interesting as showing the decline of the etymlological life of the spoken language of India at the time when such etymologies became possible. In order to derive Brâhmana from vâh, it must have been pronounced bâhmano; vâh, 'to remove,' occurs frequently in the Buddhistical Sanskrit. Cf. Lal. Vist. p. 551, l. 1; 553, l. 7. See note to verse 265.]

p. 90

389. No one should attack a Brâhmana, but no Brâhmana (if attacked) should let himself fly at his aggressor! Woe to him who strikes a Brâhmana, more woe to him who flies at his aggressor!

390. It advantages a Brâhmana not a little if he holds his mind back from the pleasures of life; when all wish to injure has vanished, pain will cease.

391. Him I call indeed a Brâhmana who does not offend by body, word, or thought, and is controlled on these three points.

392. After a man has once understood the law as taught by the Well-awakened (Buddha), let him worship it carefully, as the Brâhmana worships the sacrificial fire.

393. A man does not become a Brâhmana by his platted hair, by his family, or by birth; in whom there is truth and righteousness, he is blessed, he is a Brâhmana.

394. What is the use of platted hair, O fool! what of the raiment of goat-skins? Within thee there is ravening, but the outside thou makest clean.

395. The man who wears dirty raiments, who is

[390. I am afraid I have taken too much liberty with this verse. Dr. Fausböll translates, 'Non Brâhmanae hoc paulo melius, quando retentio fit mentis a jucundis.'

393. Fausböll proposes to read gakkâ (gâtyâ). 'Both' in the first edition of my translation was a misprint for 'birth.'

394. I have not copied the language of the Bible more than I was justified in. The words are abbhantaran te gahanam, bâhiram parimaggasi, 'interna est abyssus, externum mundas.' Cf. Gâtaka, vol. i. p. 481.

395. The expression Kisan dhamanisanthatam is the Sanskrit krisam dhamanîsantatam, the frequent occurrence of which in the Mahâbhârata has been pointed out by Boehtlingk, s.v. dhamani. It looks more like a Brâhmanic than like a Buddhist phrase.]

p. 91

emaciated and covered with veins, who lives alone in the forest, and meditates, him I call indeed a Brâhmana.

396. I do not call a man a Brâhmana because of his origin or of his mother. He is indeed arrogant, and he is wealthy: but the poor, who is free from all attachments, him I call indeed a Brâhmana.

397. Him I call indeed a Brâhmana who has cut all fetters, who never trembles, is independent and unshackled.

398. Him I call indeed a Brâhmana who has cut the strap and the thong, the chain with all that pertains to it, who has burst the bar, and is awakened.

399. Him I call indeed a Brâhmana who, though he has committed no offence, endures reproach, bonds, and stripes, who has endurance for his force, and strength for his army.

400. Him I call indeed a Brâhmana who is free from anger, dutiful, virtuous, without appetite, who is subdued, and has received his last body.

[396. From verse 396 to the first half of verse 423, the text of the Dhammapada agrees with the text of the Vasishtha-Bharadvâgasûtra. These verses are translated by D'Alwis in his Nirvâna, pp. 113-118, and again by Fausböll, Suttanipâta, v. 620 seq.

The text contains puns on kiñkana, which means 'wealth,' but also 'attachment;' cf. Childers, s.v.

398. D'Alwis points out a double entendre in these words. Nandhi may be either the strap that goes round a drum, or enmity; varatta may be either a thong or attachment; sandâna either chain or scepticism; sabanakkamam either due order or all its concomitants; paligha either bar or ignorance.

399. The exact meaning of balânîka is difficult to find. Does it mean, possessed of a strong army, or facing a force, or leading a force?]

p. 92

401. Him I call indeed a Brâhmana who does not cling to pleasures, like water on a lotus leaf, like a mustard seed on the point of a needle.

402. Him I call indeed a Brâhmana who, even here, knows the end of his suffering, has put down his burden, and is unshackled.

403. Him I call indeed a Brâhmana whose knowledge is deep, who possesses wisdom, who knows the right way and the wrong, and has attained the highest end.

404. Him I call indeed a Brâhmana who keeps aloof both from laymen and from mendicants, who frequents no houses, and has but few desires.

405. Him I call indeed a Brâhmana who finds no fault with other beings, whether feeble or strong, and does not kill nor cause slaughter.

406. Him I call indeed a Brâhmana who is tolerant with the intolerant, mild with fault-finders, and free from passion among the passionate.

407. Him I call indeed a Brâhmana from whom anger and hatred, pride and envy have dropt like a mustard seed from the point of a needle.

408. Him I call indeed a Brâhmana who utters true speech, instructive and free from harshness, so that he offend no one.

409. Him I call indeed a Brâhmana who takes nothing in the world that is not given him, be it long or short, small or large, good or bad.

410. Him I call indeed a Brâhmana who fosters no desires for this world or for the next, has no inclinations, and is unshackled.

[405. On tasa and thâvara, see Childers, s.v., and D'Alwis, Nirvâna, p. 115. On danda, 'the rod,' see Hibbert Lectures, p. 355, note.]

p. 93

411. Him I call indeed a Brâhmana who has no interests, and when he has understood (the truth), does not say How, how? and who has reached the depth of the Immortal.

412. Him I call indeed a Brâhmana who in this world is above good and evil, above the bondage of both, free from grief from sin, and from impurity.

413. Him I call indeed a Brâhmana who is bright like the moon, pure, serene, undisturbed, and in whom all gaiety is extinct.

414. Him I call indeed a Brâhmana who has traversed this miry road; the impassable world and its vanity, who has gone through, and reached the other shore, is thoughtful, guileless, free from doubts, free from attachment, and content.

415. Him I call indeed a Brâhmana who in this world, leaving all desires, travels about without a home, and in whom all concupiscence is extinct.

416. Him I call indeed a Brâhmana who, leaving all longings, travels about without a home, and in whom all covetousness is extinct.

417. Him I call indeed a Brâhmana who, after leaving all bondage to men, has risen above all

[411. Akathankathi is explained by Buddhaghosa as meaning, 'free from doubt or hesitation.' He also uses kathankathâ in the sense of 'doubt' (verse 414). ln the Kâvyâdarsa, III, 17, the commentator explains akatham by kathârahitam, nirvivâdam, which would mean, 'without a kathâ, a speech, a story without contradiction, unconditionally.' From our passage, however, it seems as if kathankathâ was a noun derived from kathankathayati, 'to say How, how?' so that neither the first nor the second element had anything to do with kath, 'to relate;' and in that case akatham, too, ought to be taken in the sense of 'without a Why.'

412. See verse 39. The distinction between good and evil vanishes when a man has retired from the world, and has ceased to act, longing only for deliverance.]

p. 94

bondage to the gods, and is free from all and every bondage.

418. Him I call indeed a Brâhmana who has left what gives pleasure and what gives pain, who is cold, and free from all germs (of renewed life), the hero who has conquered all the worlds.

419. Him I call indeed a Brâhmana who knows the destruction and the return of beings everywhere, who is free from bondage, welfaring (Sugata), and awakened (Buddha).

[418. Upadhi, if not used in a technical sense, is best translated by 'passions or affections.' Technically there are four upadhis or substrata, viz. the kandhas, kâma, 'desire,' kilesa, 'sin,' and kamma, 'work.' The Brâhmana may be called nirupadhi, as being free from desire, misery, and work and its consequences, but not yet of the kandhas, which end through death only. The commentator explains nirupadhi by nirupakkilesa, 'free from sin.' See Childers, s.v. nibbâna, p. 268 a.

419. Sugata is one of those many words in Buddhist literature which it is almost impossible to translate, because they have been taken in so many acceptations by the Buddhists themselves. Sugata etymologically means 'one who has fared well,' sugati means 'happiness and blessedness.' It is wrong to translate it literally by 'welcome,' for that in Sanskrit is svâgata; and we cannot accept Dr. Eitel's staternent (Handbook, p. 138) that sugata stands incorrectly for svâgata. Sugata is one of the not very numerous technical terms in Buddhism for which hitherto we know of no antecedents in earlier Brahmanism. It may have been used in the sense of 'happy and blessed,' but it never became a title, while in Buddhism it has become, not only a title, but almost a proper name of Buddha. The same applies to tathâgata, lit. 'thus come,' but used in Sanskrit very much like tathâvidha, in the sense of talis, while in Buddhism it means a Buddha. There are of course many interpretations of the word, and many reasons are given why Buddhas should be called Tathâgata (Burnouf, Introduction, p. 75, &c.) Boehtlingk s.v. supposed that, because Buddha had so many predicates, he was, for the sake of brevity, called 'such a one as he really is.' I think we may go a step further. Another word, tâdrisa, meaning talis, becomes in Pâli, under the form of tâdi, a name of Buddha's disciples, and afterwards of Buddha himself. If applied to Buddha's disciples, it may have meant originally 'such as he,' i.e. his fellows; but when applied to Buddha himself, it can only mean 'such a one,' i.e. 'so great a man.' The Sanskrit mârsha is probably the Pâli mâriso, which stands for mâdiso, Sk. mâdrisa, 'like me,' used in Pâli when a superior addresses others as his equals, and afterwards changed into a mere title of respect.]

p. 95

420. Him I call indeed a Brâhmana whose path the gods do not know, nor spirits (Gandharvas), nor men, whose passions are extinct, and who is an Arhat (venerable).

421. Him I call indeed a Brâhmana who calls nothing his own, whether it be before, behind, or between, who is poor, and free from the love of the world.

422. Him I call indeed a Brâhmana, the manly, the noble, the hero, the great sage, the conqueror, the impassible, the accomplished, the awakened.

423. Him I call indeed a Brâhmana who knows his former abodes, who sees heaven and hell, has reached the end of births, is perfect in knowledge, a sage, and whose perfections are all perfect.

http://www.sacred-texts.com/bud/sbe10/index.htm


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