★阿修羅♪ > 雑談専用36 > 273.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
なぜ人間は他の動物には無い観念の世界におぼれてしまうのか教えてください。
また私は「楢篠賢司の部屋」でこのような文章を書いております。
人間と宗教
2009-02-14 09:57:03 | Weblog
あなたの宗教を信じている意味を教えてください。
前のタイトルにこのように書いたが、誰からも何のコメントもいただけなかった。
『人間とは何か』を追求していけば必ずと言っていいほど人間は宗教の問題を素通りしていくことはできないだろう。
あまた数多くある生物、動物と絞るべきかと思うが、どういう訳か人間だけが宗教と言う現実から離れた架空の世界へ逃避してしまう。
なぜ現実から受ける悩み、ストレスを現実の世界で戦わないのか、他の動物、野生の動物であれば日々その戦いを繰り返しているではないか。
そして人間に飼育されている動物は死ぬまで最高の餌を与えられ、最高の環境で(ケイジ飼いの鶏を除く)ストレスも無く優雅な生活を送っている。彼ら動物(豚でも牛でも)は朝目覚めたときから、目の前に新鮮な食事が用意され、食べたいだけ食べることができる。喉が渇けば野生では味わえないような厳選された飲料水があてがわれ、日々の健康にも細心の注意が払われる。
ただ彼らに明日のことが考えられたなら、人間のように絶望のあまり食欲が落ちてしまうだろうか。いや絶望のあまり狭い小屋を付き捲り自殺を選んでしまうだろうか。だが彼らには明日と言う時間が解らない、いや時間の観念が無いと言うことなのだろうか。
そこで人間が宗教に救いを求めるのは、人間は時間の観念を持っている所以であるということになる。つまり他の動物には絶対ありえない『明日と言う観念』を持っているということになる。
人間と宗教 U
私の書こうとしていることは宗教を否定することではなく、また宗教家でもない私が宗教を肯定することでもない文章になるだろう。楢篠賢治の部屋ではそのことをこれから書き綴っていきたい。
ただ最後まで人間と宗教で貫かれるのは、他の動物には無い人間だけの能力というか、はたまた感性というか『時間の観念』を持ったがゆえに、未来を想像上で予知し不安心理になるということだと言える。そしてそれは幼児期には無く、いつのころからかその観念を身につけていく。
そしてあえて最終的なものを書くとすれば身についた時間の観念の最高峰とよぶべきか別としても、宗教上の悟りにあたるものと言うべきか、哲学を学問としてではなく『永遠の時間の流れ』を察知する能力。自己自身の置かれている状況を時間の流れの中で別の自分として上から見ている自分に気がつく。「私はどこから来て、どこへ去ろうとしているのか」と言うたゆまない懐疑、そのときあらゆる本を読みだし自分を認識する哲学が始まっていく。自分を知ることイコール「人間とは何か」を知ることでもある。
現在のところまだ経済が終わってないのでこちらに進めませんが、終わり次第人間と宗教続編を書いていきます。
モデムの調子が悪くネットに接続できませんでしたが、退院まじかにして「30日退院)現在繋がりました)
私は宗教関係と経済にはいくらか自信がありますので議論しましょう。そして最終的な目標は人間開放です。