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十何年か前、まだ二十代の半ばだった頃、フランスの思想家であるシモーヌ・ヴェーユの生前のノート『カイエ』を読んでましたら、チベット(いろいろと角の立つ土地ですが、私は欧米帝国主義の肩は持ちませんよ)の聖者ミラレパの言葉として「信仰のあるところにはまた、疑いもある」という言葉をヴェーユが引用していました。この言葉は、ヴェーユのみならず、私にとっても何かピンと来るものがあったのですが、今ひとつ、捉えどころがなくて、十数年考え続けて来ました。ごく最近、この疑問についての私なりの答えが見つかりました。つまり、ミラレパの言いたいのは、おそらく、
「信じ得るのは疑い得るものだけである」。
ということだと思います。これは私が最近、哲学者のL.ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』からヒントを得て「信じ得るのは、証明不可能なことだけである」と主張していたのを言い換えたものです。
世の人々は往々にして、疑いようのないものを確かなものとして信じたがるものです。しかし、疑いようのないものは単に事実であって、そもそも信じるか否かというものではないのです。にも関わらず、人々は「疑いようのない真理」を追い求めます。ここにこの世の錯誤があるのでしょう。この種の錯誤の代表的な例は哲学者J.P.サルトルの「証明不可能なものは信じなくとも良い権利がある」という言葉です。証明可能であれば信じる必要はないのです。
世に所謂、「狂信」、「盲信」とは、自らの信じるところが疑いようのないものであると信じる、或いは、そのような信じ方をすることです。ところが、「疑い得るものへの信」が「疑い得ぬものへの信」よりも正しいというのは、世間的な感覚からすると全く転倒した物の見方です。私は今まで、「狂信」、「盲信」ということを何度も繰り返し定義しようと試みて、それが出来なかった理由をここに見つけたような気がしました。
こんな風に信仰とはそもそも何であるかという問題を考えていて、この前、ふと聖書の四福音書に「信仰」という言葉がそれぞれ幾つ出てくるかを調べて見ました(日本聖書協会口語訳による)。
マタイによる福音書(13)
マルコによる福音書(7+2、最後の二つは後代の付加部分といわれる十六章)
ルカによる福音書(15)
ヨハネによる福音書(0)
福音書に「信仰」という言葉が登場するのは、概ねイエスが弟子たちや時代の不信仰を嘆く場面です。パウロの「ローマ人への手紙」を調べると、福音書よりもずっと多いです。ここで疑問に思うのはイエスの「信仰」とパウロの「信仰」は果たして本当に同じものなのだろうかということです。
私は生まれてこの方、キリスト教会とは関わりを持ったことはありません。これからもないでしょう。私は「教会教理」というものは信じません。「キリスト教国」などという戯言も信じるつもりはありません。