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(回答先: 第16回 憲法第9条を死守して「崇高な理想」を貫け (2005/05/12) 投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 06 日 10:45:29)
第17回 日本を軍国主義へ導く「普通の国」論の危険性 (2005/05/17)
http://web.archive.org/web/20051231032541/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050517_futunokuni/
2005年5月17日
憲法第9条二項の問題について考えるときは、それを変えたらどうなるかを、具体的に、それも全方位的(軍事的、政治的、外交的、経済的、社会心理的)に考えることが必要だと書いた。全方位のうちで、軍事的、外交的に考えるにためにぜひ読むべき直近の資料となるのが、5月3日の日本経済新聞の憲法問題特集ページにのった、長文のカール・ジャクソン元米大統領特別補佐官のインタビュー記事「集団的自衛権、同盟の礎」だろう。
日本の改憲論者に充満する「普通の国」論的思考
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カール・ジャクソンは、ブッシュ(父)大統領時代(89〜91年。つまり湾岸戦争時代)の特別補佐官で、現在はジョンズ・ホプキンス大学教授。彼の見解は、アメリカの保守派の基本的考えと思ってよい。
憲法第9条問題で最重要な観点の一つが、アメリカとの関係をどうするかという問題であるから、アメリカの安全保障面での国策を現実に作っている人々が、第9条改憲をどのように考えているかということを、ぜひとも知っておく必要がある。カール・ジャクソンは、いわゆる「普通の国」論によって、憲法第9 条を改正すべしと説く。
「日本はほかの『普通の国』と同様に、集団的自衛権を持っている。(行使できるように)早く9条か、9条の解釈を変えることが好ましい。日本人が同盟相手である米国人の隣で従軍していけない理由はない。」
そして、日本が「普通の国」になることは、日米同盟のためだけでなく、世界のためにも、日本のためにも望ましいとして、こういっている。
「日本が『普通の国』になることは日米同盟のためだけではなく、アジアの平和にとっても重要だ。兵力整備や外交政策の立案について(憲法で)特別の制約を加えるべきでない。日本はいつまでも年少者の役割を演じ続けることもできない。改正はこうした日本の現実に憲法が追いつくためのものだ。」
これと同じような考え(「普通の国」論)が日本の改憲論者の中に広くあることは、よく知られている通りだ。
next: 9条を改正して…
http://web.archive.org/web/20051210024425/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050517_futunokuni/index1.html
9条を改正して、日本が普通の国になるとは具体的にどうなることを意味するのかというと、このジャクソンの言にあるように、アメリカと肩をならべて戦うようになるということである。9条があるいまは、日米安保条約は片務的な同盟にとどまっていて、アメリカが日本を防衛する義務はあっても、日本がアメリカを防衛する義務はない。しかし、9条を改正すれば、集団的自衛権を行使できるようになり(いまは9条によって行使できないと考えられている)、日米同盟も双務的な(お互いに相手の国を防衛する義務を負う)同盟に変わるということである。そうなると、具体的に何が起りうると考えられるのか。カール・ジャクソンはこう話をつづける。
「将来の具体的な事例について話すのは不可能だ。だが、例えば台湾が挑発行為をとっていないのに中国から攻撃されたとしたら、米国は台湾防衛に出動するに違いない。その場合、日本は米側につくべきだ。50メートル後方にとどまるのでなく、米国と肩を並べ、持てるすべての装備によって支持する必要がある。」
これに対して、聞き手の記者が、
──米国人が日本のために血を流すなら、日本人にも米国のために命をかけてほしいということですか。
と問うと、ジャクソンは、
「当然だ。同盟とはそういうものだ」
と答え、さらに、こう述べている。
「通常、米国が戦争に追い込まれたとき、(共に戦ってくれると)確信できるのは英国だけだ。オーストラリアもほぼ英国に近い。米国が英豪以外にも頼れる国がある方が世界の安定にも好ましい。」
これを読めば、日本の立場からだけ憲法第9条問題を考えていては考えが足りないことになるということがすぐわかるだろう。憲法第9条を変えると、いま現に日本がアメリカと日米安保条約(日本に十分な防衛力がないことを前提に結ばれた片務的軍事条約)を結んでいる以上、そのあり方を変えなければならないことに必然的になるのである。
もちろん、それをどう変えるかは、アメリカの意向次第なのだが、アメリカの基本的意向はこのようなものなのである。要するに、安保条約をフルの軍事同盟条約にして、日本をパックス・アメリカーナの最重要な担い手の一人(イギリスとならぶ)としたいということなのである。
別の言い方にするなら、日本人は世界帝国アメリカを守るために血を流せということなのだ。
next:「血を流さない」日米安保条約と…
http://web.archive.org/web/20051004083559/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050517_futunokuni/index2.html
「血を流さない」日米安保条約と「血盟関係」の米韓相互条約
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これまでは、第9条があるために、安保条約があっても日本は血を流さないで済んできた。しかし、第9条を捨てたとたんに、日本は、アメリカに求められるがままに、ベトナム戦争に参加して血を流さざるをえなかった韓国と同じ運命をたどることになりそうなのである。
日本では知る人が少いだろうが、韓国はアメリカの要請に応じて、約30万の戦闘部隊をベトナムに派遣し、約5000名の戦死者を出し、負傷者は10 万人をこえた。韓国の場合、多数の犠牲者を出しただけでなく、敵方に与えた損害も大きかった。韓国から派遣されたのは、朝鮮戦争の頃から、勇猛をもって知られた精鋭部隊「タイガー」で、彼らはベトコン、北ベトナム兵を殺しまくり、公式統計にのった死者の数だけで、4万人を殺している。そのような過去がたたり、ベトナムで韓国人はいまだにこころよく受け入れてもらえないのである。
韓国は朝鮮戦争において、アメリカから多大の支援を受けた。朝鮮戦争における国連軍は、一応22カ国が参加したとはいうものの、実質ほとんどがアメリカ軍だった。アメリカは3万人をこえる戦死者を出しても韓国を守り抜いたので、米韓両国はその後「血盟関係」にあるといわれるようになった。両国はその後、米韓相互防衛条約を結び、互いに同盟国を血を流してでも防衛する義務を負いあうことになった。この条約があることが、韓国がベトナム戦争に積極的に加わった理由である。
日米安保条約と米韓相互条約の最大のちがいは、このような片務性と双務性のちがいにある。このちがいの根底にあるのは、憲法9条を持つ国と持たない国のちがいでもある。憲法9条を日本が捨てたら、アメリカは当然のごとく、これまでの日米安保条約を廃して、新しく双務的な日米相互防衛条約に切りかえることを提案してくるにちがいない。
それに対して、日本が、9条を廃した後の自国の生き方をちゃんと考えていて、国民各層が合意できるような、そしてアメリカも同意できるような対案を出せるならいい。それなしに、9条を捨てたら、日本はアメリカがゴリ押しする「日本もアメリカと肩をならべて戦い、共に血を流せ。同盟国ならそれが当然だ」という要求にズルズルと従わざるを得なくなるだろう。そして、ベトナム戦争における韓国のように、多大の血を流さなければならなくなる。それも自分たちの血だけでなく、敵方の血もである。流された敵方の血は、同盟国によって流された敵方の血も含め、負の遺産となって、我々の将来世代に重くのしかかることになる。ちょうど我々がいま、戦争時代の日本がのこした大きな負の遺産に苦しみつづけているように。
next: 誰も殺さず誰も殺されない…
http://web.archive.org/web/20051004083625/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050517_futunokuni/index3.html
誰も殺さず誰も殺されない「不戦国家」の誇りを持て
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憲法第9条を持つことによって得た最大のメリットは、それがアメリカの「いっしょに血を流せ」というゴリ押しの要求を常に軽々とはねのける唯一最大の防護壁になってきたということにある。
憲法9条があったればこそ、自衛隊はイラクに行っても、外国の軍隊に守ってもらいつつ、サマワ郊外に堅固な陣地を築いて中に閉じこもったままでいるなどということができる。しかし、9条を捨てたら、そんなことはできない。陣地の外に出て、反政府的武装勢力と直接対峙しなければならないことになる。日本は第9条あるが故に、イラクに行っても、アメリカとは一線を画した存在でありつづけることができた。それ故に、現地の武装勢力からお目こぼしを受けている。しかし、日本がアメリカと本当に一体であることがわかったら、容赦はされないだろう(すでにそのような警告を何度も受けている)。それは同時に、いまアメリカがイラクで受けている恐ろしいほどの憎しみを共に受け止めなければならないということを意味する。日本人はそこまでの覚悟ができているのか。そこまでアメリカにコミットすることが正しいことだと思っているのか。
第9条を捨てたら、日本はいやでもアメリカの大義なき戦争のために血を流さなければならないことになるのである。
イラク戦争が大義のための戦争であり、日本も誇りをもって参戦できるというならまだしも、アメリカが開戦前にならべていた大義(フセインが核兵器ないし、生物化学兵器などの大量破壊兵器を持っていることは確実だから、それを使う前に先制攻撃によってつぶしてしまう必要がある)は、まるで根拠がないものだったことが次々にあばかれ、グローバルにはもちろん、アメリカ国内においてすら、イラク戦争に大義なし(世論調査によると、「戦うだけの価値がなかった」)と考える人が多数を占めつつあるのである。
第9条があっても、それを極限までねじまげ、ここまでアメリカにコミットした小泉首相は、完全に国を誤ったというべきだろう。第9条がなかったら、小泉首相はどこまでアメリカに肩入れし、どれだけ日本人の血を流していただろうか。想像するだに恐ろしいものがある。
私は憲法第9条は、この60年間(正確にいうと、60年にちょっと欠けるが)の日本の最大の国益の守り手であったと思っている。
憲法第9条のおかげで日本が得たものは沢山あるが、なかんずく、この60年間、日本が戦争によって、同胞の血を一適も流さないですんできたことが何よりも誇らしいことだと思う。このようなことは、日本の近代史においていまだかつてなかったことである。1945年以前は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、山東出兵、満州事変、日中戦争と、日本は戦争をやりつづけてきた。そして、世界でも有数の好戦国家と思われてきた。日本はこの60 年間、同胞の血を流さなかっただけでなく、日本国の名において他国の国民を一人も殺さないできた。世界の主要国で、そのような実績(誰も殺さず誰も殺されない不戦国家でありつづけたこと)を残すことができた国は、日本の他にはない。憲法第9条があったがゆえに、日本は名実ともに平和国家の名にふさわしい実績を持つ国になりえたのである。
私は、「普通の国」になるために憲法第9条の改正を主張する人々には、断固として与しない。日本は憲法第9条を持ったときから、「普通の国」とはちがう生き方を選択したのである。「普通の国」ではない生き方のほうが、「平和を維持しようと努めている国際社会において、名誉ある地位」(憲法前文)をしめることになると考え、そのような生き方を、「国家の名誉にかけ、全力をあげて」(同前)守ることを誓ったのである。そこにこそ、日本という国家の誇りがある。日本という国家のアイデンティティがある。その第9条を敝履(へいり)のごとく捨てて「普通の国家」に戻ることには日本国にとって何のメリットもない。
next: 憲法第9条はマッカーサーを欺いた…
http://web.archive.org/web/20050923204238/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050517_futunokuni/index4.html
憲法第9条はマッカーサーを欺いた「救国のトリック」
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最近読んだ憲法第9条関連書で抜群に面白かったのは、堤尭「昭和の三傑」(集英社インターナショナル)である。
憲法第9条を、戦争直後の時代日本人がおちいっていたナイーブな理想主義的心情の産物のごとく考え、レアルポリティク(政治学用語。現実主義的権力政治。国益中心主義的政治。語源はドイツ語)を何も知らないバカがつくった条文のごとくいう人が最近の改憲論者には多いが、それはとんでもない誤りだということをこの本は論証している。憲法第9条こそ、あの時代に、誰よりもよく国際政治におけるリアルポリティクの世界を長年にわたって知りつくした練達の外交官政治家が、考えに考え抜いてつくった仕掛けだというのだ。
その練達の政治家とは、あの憲法が作られたときの総理大臣幣原喜重郎である。
一般には、あの憲法は、はじめから終りまで、マッカーサーが日本に押し付けたマッカーサー憲法であるというのが、改憲論者の主張だが、堤氏は、憲法第9条だけはちがうという。幣原が、頭をふりしぼった大芝居で、マッカーサーをまんまとはめた「救国のトリック」だったというのだ。
そもそも憲法第9条を誰が発案したかについては、さまざまな説があり、いまだに真偽定まらない。幣原が核心部分の謎を語らないまま死んでしまった以上、これは永遠の謎に終るほかないと考えられているが、堤氏は、あらゆる関連資料を丹念に読み込み、比較検討した上で、先に記したような結論にもっていっている。
詳細は省くが、その論はなかなか読ませるものを持ち、その論を読んだあとでは、かなりの人の憲法第9条の見方がガラリと変わるはずである。
問題のポイントは、憲法9条ができていく過程で、誰がいちばんの知恵者だったかというところにある。それは誰がレアルポリティクの神髄をつかんでいたかということでもある。レアルポリティクの世界は、実は欺し合いの世界でもあるから、それは誰が誰を欺したのかという問いでもある。堤氏の推論のポイントは、幣原が、それが欺しであることを露ほどもさとられぬようにして、マッカーサーを欺しきったというところにある。マッカーサーだけではない、米側、日本側双方の憲法改正にたずさわった人々一同、さらには後世の日本人一同も欺しきったというところにある。
それほど完璧な欺しであったのなら、それが欺しであった証拠すら残らず、欺しであったのかどうかもわからないはずではと思うかもしれない。しかし、眼光紙背に徹するところまで資料を読みこんでいくと、なるほどそうだったのかという資料の裏に隠れている部分が読み取れてくるのである。
next:「普通の国」になることは…
http://web.archive.org/web/20050923204302/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050517_futunokuni/index5.html
「普通の国」になることは日本の繁栄のカギを捨てること
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というわけで、この本、かんじんの部分は簡単な要約を許さないから、一度原本にあたってみることをおすすめする。この本を書いた堤氏という人は、かつて「週刊文春」、月刊「文藝春秋」、「諸君!」などの編集長を長くつとめた人で、出版業界ではよく知られた人物である。ちなみに小生は、かつて大学を卒業して、文春に入社したその日から、この人の下に配属され、毎日徹底的にしごかれるところからジャーナリスト生活をスタートさせたという経験を持つ。
私と堤氏はいくつかのポイントで基本的観点にズレるところがあったので、いつもよく激しい議論を交わした。しかし彼の議論の仕方はフェアで論点がよく整理されていたので、論調が一致しなくても、いつも議論それ自体は刺激的で面白かった。そして、この本に説かれている憲法9条の成立過程と幣原のかかわり、マッカーサーとのやりとりの評価などに関しては、この本の通りだろうと思っている。
ちなみに堤氏はレアルポリティク大好き人間(出身も東大法学部政治学コース)で、文藝春秋社で編集長をつとめた3誌ともレアルポリティクを知らなくてはつとまらない雑誌だから、ますますその方面にみがきがかかったことが本書を読むとわかる。私が堤氏から受けたしごきもその側面からのものの見方についてが多かったので、私は生来理想主義的傾向を持つ人間だが、その頃から、何事につけ、反射的にレアルポリティクサイドからもものを考える人間になったことが、その後のジャーナリスト生活に大いに役立った。
提説が頭に入ると、レアルポリティクの世界が見えない頭の単純な愚か者たちが、いま自民党から民主党までゾロゾロ出てきた改憲論者たちだということがわかってくる。
愚か者というのは、彼らが戦後日本の繁栄のもとを築いたのが憲法第9条だということがわかっていないからである。そして、日本が憲法第9条を捨てて「普通の国」になるということは、日本の繁栄のカギを捨てると同時に、国際社会において最も名誉ある地位を捨てるに等しいことだということがわかっていないからである。
幣原の深謀遠慮は、アメリカをして、憲法第9条の作者はアメリカであるかのごとく思いこませた。憲法第9条はアメリカの理想主義が日本に無理やり押しつけたものであるかのごとく思いこませた。だからこそ、アメリカが日本に再軍備を迫ろうとしたとき、日本が憲法第9条をタテにそれを拒もうとすると、アメリカはそれ以上の無理押しができなかったのである。
日本の解釈改憲の歴史は、アメリカがふっかけてくる無理難題(日本はもっと軍事的に貢献せよ)を、日本が憲法第9条をタテに拒みつづけた歴史でもある。そして、アメリカにじりじり押しまくられたが、それでも、最後の一線だけは守り通してきた歴史でもある。
一口にいうなら、憲法第9条は、日本の国益を守る最大の壁であり、柱だった。冷戦時代、日本の国益は、アメリカに身を寄せて、アメリカから最大限の保護(軍事的、経済的)を引き出しながら、アメリカに対する貢献(軍事的、経済的)は最小限にとどめることにあった。それを可能にしたのが、憲法第9条だった。日本がこの防護壁のかげに身を隠すと、アメリカは、それ以上日本に迫れなかった。その防護壁はアメリカが作り、日本に押しつけたものだったからだ。
いわば、アメリカは日本に戦争に勝ったのに、外交のテーブルでまんまと一杯食わされたのである。日本はアメリカを「お番犬さま」(椎名外務大臣の名言)に仕立てあげ、ありがたがって見せつつ、最大限の利益を引きだしつづけたのである。
next: 憲法第9条が日本に…
http://web.archive.org/web/20051004083718/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050517_futunokuni/index6.html
憲法第9条が日本に歴史上未曾有の繁栄もたらす
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日本が、憲法第9条あるがために、どれほど大きな利益を得たかは、冷戦を終らせることになった88年の米ソ首脳会談で、レーガンがゴルバチョフにいった一言、「もう冷戦はやめよう。我々がこんな無益なことをつづけている間に、日本にいいようにされてしまったではないか(この前後、日本経済はバブル的大繁栄の頂点にあり、それに対してアメリカもソ連も過大な軍事費ゆえに経済的に破綻しつつあった)」によくあらわれている。
春秋の筆法をもってするなら、冷戦を終らせたのは、日本の憲法第9条だったともいえるのである。
日本がこのように、アメリカから一方的に利益を引きだしてきたのはズルイという意見もあるが、それこそ、ナイーブな人(レアルポリティク的にいうと頭が悪い人の別名)のナイーブすぎるものの見方である。レアルポリティクの教えに従えば、国家の目的は常に最大限の国益の追求にある。そのためには、大義名分さえつけば、少々(あるいは大がかりに)ズルイことをするのは、当たり前すぎるほど当たり前のことである。幣原は、外交交渉の場においては、一国を代表する者は、エゴイズムのかたまりとなって行動しなければならないということをよく知っていた。かつて幣原は、自分のなした軍縮交渉を例にとって、こう述べたという。
「私は軍縮の困難さを身をもって体験してきた。交渉に当たる者に与えられる任務は、いかにして相手を欺瞞するかにある。国家は極端なエゴイストであり、そのエゴイズムが、最も狡猾で悪辣な狐狸となることを交渉者に要求する。虚々実々千変万化、軍縮会議に展開される交渉の舞台裏を覗き見るならば、何人も戦慄を禁じ得ないであろう。軍縮交渉とは形を変えた戦争である。平和の名をもってする別個の戦争なのである。」(「昭和の三傑」)
マッカーサーは軍人としては優れていても、虚々実々の外交交渉の場においては、狡猾な老外交官幣原に負けたのである。それから60年、後代の日本人たちは、幣原の作ってくれた憲法第9条のおかげで、歴史上未曾有の繁栄を楽しんできた。そしていま、愚かな政治家たちが、この最大の宝物を捨てるのが日本のためだというような愚論をならべたてている。
立花 隆
評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。
著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。
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