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(回答先: 第19回 東京裁判を蒸し返す政治的愚行を繰り返すな! (2005/06/02)⇒同じくたどれず。 投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 06 日 11:12:57)
第20回 靖国問題でいま改めて問う! 国立追悼施設以外に解決の道なし (2005/06/02)
http://web.archive.org/web/20051231032541/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni3/
2005年6月2日
多数の人が、小泉首相はあのような性格の人だから、8月15日にまた行くにちがいないと予測している。しかし、私は必ずしもそうはいえないと思っている。
この一連の事件で、小泉首相も、この問題の容易ならぬ根の深さにやっと気が付き、国民感情(多数派は靖国神社参拝をよしとしている)に気を使うのは当然だが、東京裁判否定までやったら日本はおしまいだということがやっとわかってきたらしい。この泥沼から逃れられたら早く逃れたいと思っているはずである。その唯一の道は、実はかなり前から小泉首相の前に提示されている。
一宗教法人の靖国神社に国家はかかわれない
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小泉首相は、首相になって初参拝する前の2001年6月の参院決算委で、
「アメリカのアーリントン墓地やドイツのノイエ・ヴァッヘのような国立追悼施設を作るべきではないか」
という公明党議員の質問に対し、
「貴重なご意見だと思います。検討してみたいと思います」
と答弁している。また、第一回の参拝後に出した談話の中には、
「内外の人々がわだかまりなく追悼の誠を奉げるにはどうすればよいか、議論をする必要があると考えております」
というくだりがある。同年12月には、そのような議論をする場として、当時の官房長官(福田康夫)の私的諮問機関として、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が作られて、そこでは、靖国神社とは別の国立の追悼施設を作るのが妥当との結論がとっくに出されている。
この問題、冷静に考えれば、それしか解決の道がないのである。
next: 近代国家は、どこの国でも「国家と宗教の分離」を…
http://web.archive.org/web/20060210225437/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni3/index1.html
近代国家は、どこの国でも「国家と宗教の分離」を憲法上の大原則としており、日本の憲法第20条でも、
「いかなる宗教団体も、国から特権を受けてはならない」
「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」
「国及びその機関は、いかなる宗教活動もしてはならない」
など、二重三重の縛りによって、靖国神社のような一宗教法人に国家がかかわることは厳に禁止されている。
大日本帝国の巨大な国家機構の一部だった靖国神社
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かつて靖国神社は、現代人の目から見れば、誰が見ても宗教施設なのに、「これは宗教ではない(国営の戦没者追悼施設)」という奇妙な法的位置付けにあり、陸軍省と海軍省に共同管理されていた。また、同時に神祗院の下に置かれた国営の神社(いわゆる国家神道)でもあるという扱いになっていて、全国各地にその支社として護国神社を持つという巨大組織になっていた。要するに靖国神社(プラス護国神社)は、宗教性を帯びた大日本帝国の巨大な国家機構の一部だったのである。その頃は、いまの憲法だったらすべて憲法違反になってしまうような、「国から与えられた特権」を持ち、「国民全体が参加を強制された参拝等の宗教儀式」をする、「国家が中心となって行う宗教活動」を中心的に行う国家組織そのものだったのである。
旧世代の日本人には、明治以来つづいてきた、このような「靖国神社だけは他のいかなる神社ともちがう特別な国家直結の"鎮魂の社"」意識がずっと頭の中に埋め込まれている。だから新憲法になってからも靖国神社の国家護持(国営施設化)を求める声がずっと続いてきたし、いまも少なからずある。
その一方で、靖国神社のほうは、戦後新憲法で宗教法人に与えられた特権(国家の宗教に対する干渉の絶対拒否権)だけは、しっかり握って放さない。だから、いまの国際軋轢のもとになっているA級戦犯合祀も、神社の判断だけで勝手に行ってしまったのである。
next: もともと、靖国神社の戦没者の祀り上げは…
http://web.archive.org/web/20050827065505/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni3/index2.html
もともと、靖国神社の戦没者の祀り上げは、すべて神社が勝手にやっているから、キリスト教信者も、仏教徒も、朝鮮人も、台湾人もすべて入ってしまっており、遺族が分祀してくれと訴訟まで起して頼んでも、すべて拒否されている。
A級戦犯問題で、後になって困り抜いた国家の側が、その分祀を頼んでも、神社側はそのようなことは、神道の教義上も伝統上もできないと断固として断りつづけている。それに対して国家の側が「お願い」以上に強く要求したりすることは、そもそもその要求自体、宗教と国家の分離を定めた憲法20条違反になってしまうから、国の側もあまり強くは出られない。かくてこの問題は千日手にはまったように動きがとれない状態にあるのである。
憲法を楯にとると、靖国神社の立場、つまりA級戦犯であろうと、誰であろうと、靖国神社としては、伝統と協議にもとづいて、国のために斃(たお)れた者はすべてわけへだてなく祀るという立場、これは強い。そして一方、中国、韓国などは、一般の戦没者の慰霊には全く異論がないが、戦争指導者であったA 級戦犯だけは許せないという立場をくずさない。
靖国神社の立場からすると、A級戦犯だけは許せないといわれても、そもそも神様として祀られてしまった神霊の一部だけをよそに移すなどという手続きはない、ということになる。またすべての犠牲者を祭るというのが靖国神社の本来の立場なのだから、そんなことができたとしてもしたくないということになる。このような靖国神社の立場は憲法が保障する宗教の自主独立性によってガッチリ守られている。こうなると、これはもう、アメリカのアーリントン墓地のような、国立の無宗教の追悼施設を作るほかないというのが、誰が考えても、唯一可能な解決策である。
そしてそれが、いろんな意味において、いちばん合理的な解決策でもある。
next: 憲法上の日本国の象徴である天皇が公式参拝できない靖国神社…
http://web.archive.org/web/20050828080722/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni3/index3.html
憲法上の日本国の象徴である天皇が公式参拝できない靖国神社
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日本人は、神道信奉者ばかりではない。仏教徒もいれば、キリスト教徒もいる。その他もろもろの宗教の信者も無宗教者もいる。そのような人の中には、靖国神社にお参りすることは心のこだわりがあって参拝できないという人が少なくない。そのような人々も、無宗教の国立追悼施設ができたら、心のこだわりを持たずに参拝できるようになる。
靖国神社こだわり派は、靖国神社が「わが国における戦没者追悼の中心的施設」であるとしているが、憲法上の日本国の象徴である天皇が公式参拝しないという事実そのものが、靖国神社が「わが国における戦没者追悼の中心的施設」ではないことを証明しているといっていい。毎年8月15日になると、靖国神社のすぐ向い側の武道館に、花いっぱいの無宗教の大祭壇が築かれて、そこに天皇がおもむいて戦没者追悼式をとり行い、そこに、総理大臣、議会の議長、最高裁の長官という日本国の三権の代表者すべてがそろうという事実が、いまの日本における戦没者追悼の中心的施設は客観的には存在せず、そのときテンポラリーに出現するだけということを示している。要するに無宗教の国立追悼施設とは、あの武道館の8月15日の祭壇を恒久化したものを作ろうということである。
それができたら、早い話、A級戦犯の合祀以来靖国神社参拝を避けている天皇も参拝できるようになる。いま公式参拝を避けている最高裁長官など、その他の国家機関の長も参拝ができるようになる。それに、諸外国の正式の使節なども、こだわりを持たずに参拝できるようになる(いまは参拝するのはきわめて一部の国の一部の使節だけ)。また自衛隊の公式参拝もできるようになる(いまは、一部の部隊がたまに私的にしているだけ)。
これまで、自民党の内部からも、靖国神社以外に、国立の追悼施設を作るべきだという声は何度も何度も出たことがある。しかしそのたびに、靖国神社の国家護持を叫ぶ遺族会などの声に押されて、いつも立ち消えになってしまったという経緯がもある。
私は小泉首相もバカではないから、ことここにいたれば唯一の逃げ道が、なんらかの靖国神社以外の国立追悼平和祈念施設を作ること以外にないということをとっくに理解していると思う。おそらくそちらに道を転じざるをえないと心は決めているが、その発表をいつどのようにやれば国民の共感が得られるか、そのタイミングを測っているところだろうと思っている。
next: 前言固執主義にとらわれていると小泉政権の命脈はつきる…
http://web.archive.org/web/20050825105638/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni3/index4.html
前言固執主義にとらわれていると小泉政権の命脈はつきる
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この問題で、もうひとつ感じるのは、細田官房長官のどうしようもない無能ぶりである。おそらく、もし福田氏がまだ官房長官をやっていたら、自分のもとにあった諮問機関である懇談会が出した結論でもあり、小泉首相に対して対等の口がきけるという政治的力関係もあり、問題がこれだけこじれる前に、とっくに国立追悼施設設立のほうに方向転換をはかり、それを実現していたにちがいない。
細田官房長官に対しては、それより何より不満を感じるのは、そのような政治的能力以前の問題である。そもそもこの人には、内閣のスポークスマンという官房長官の果すべき最大の役割の基本的な資質が欠けているということである。
現代のようなメディア社会においては、官房長官は首相以上に内閣の顔といってもいい存在である。その役割を有効に果すためには、官房長官は、もっとメディア対応が巧みでなければならない。
なによりも言語明晰、論理クリア、当意即妙の受け答えといった点において、言語能力に長けていなければならない。ところが細田官房長官のしゃべるのを聞いていると、そういう資質が根本的に欠けていると思わざるをえない。この人の話は聞いているだけで、なぜか妙に暗い気持になってくる。
話を聞く人に元気を与えないどころか、聞いていると自分のエネルギーが吸い取られてしまうような気持ちにさせられる。こういう人はスポークスマンになるための根本的な資質がどこか欠けているのである。
このミスキャストぶりには小泉首相もとっくに気が付いているにちがいないが、前言固執主義者の小泉首相としては、「一内閣一大臣」の前言を翻して別の人に差しかえるわけにはいかないと思っているのだろう。
この点においても、小泉首相は前言固執主義の欠陥に呪われている。早く豹のごとく美しくしなやかに変身できる小泉首相に変わらないと、小泉政権の命脈は意外に早くつきてしまうだろう。
小泉首相が、平成の時代に抜群の人気を誇った一ポピュリスト政治家として歴史のエピソードで終るか、それとも戦後最大の難問を見事に切り抜けて、日本をアジアの指導的国家にとどまらせた偉大なステーツマン政治家として歴史に名を残すことになるか、ここが正念場だろう。
立花 隆
評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。
著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。
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