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(回答先: 第18回 靖国問題の決着へ向け 小泉首相、豹変せよ! (2005/06/02)⇒たどれず。 投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 06 日 11:09:25)
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第18回 靖国問題の決着へ向け 小泉首相、豹変せよ! (2005/06/02)
http://web.archive.org/web/20051215160710/nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni1/
2005年6月2日
小泉首相は、極端に自分の前言にこだわる政治家である。一度あることを決めると、あるいはあることに関して強い発言をしてしまうと、あくまでその決定、あるいはその発言を固守しようとする。
これは小泉首相の長所であると同時に、大きな欠点でもある。長所というのは、自分の発言を大切にするのは、政治家の心得の第一条だからだ。短所というのは、そうはいっても、政治家は自己の発言を翻すことが必要な場合もあるという、政治家の心得の第二条を知らないからだ。
いくつかの政治的イッシュー(郵政民営化問題、靖国問題など)での、小泉首相の一連のかたくなな発言を見ていると、小泉首相は自分の発言を「綸言(りんげん)汗のごとし」と思い込んでいるのではないかと思えてくる。
「綸言」とは、皇帝の発言を意味する。皇帝の発言は、汗と同じく、一度体外に発出されたら、もう元に戻すことはできない、一度言ったことを取り消して言わなかったことにしたり、発言内容を変えたりすることはできない、というのが、「綸言汗のごとし」の意味である。
日本では、しばしばこの言葉が、総理大臣の国会答弁などにおける食言を非難するときに用いられたりするが、もちろん、日本国の首相は皇帝ではないのだから、その用法は誤りである。
日本国首相は、基本的に政治家なのだから、時と場合によっては、それ相応の理由があれば、前言を翻すことが許されるし、そうすることが必要な場合もある。
もちろん、総理大臣の言うことがネコの目のようにキョロキョロ変わるのは困るし、一度決定したことを朝令暮改で簡単に二転三転させるのは困る。
next: しかし、自分の過去の発言、決定にこだわるあまり…
http://web.archive.org/web/20050605004920/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni1/index1.html
しかし、自分の過去の発言、決定にこだわるあまり、見直すべきことを見直せず、変えるべきことを変えられないのはもっと困る。誰が困るといって、国民が困る。政治は、その本質において、目の前に刻一刻展開されていく生きた現実に対応してなされる政治的判断そのものだからである。
そして政治とは、国民各層の価値体系のぶつかり合い、政治的見解のぶつかり合いの中で、利害を異にする集団間のベストの妥協点を探っていくプロセスそのものなのだから、おのずからその軌跡はジグザグたるものにならざるをえない。政治のプロセスにおいては、いかなる政治家も前言を翻さざるをえない場面が必ずある。政治家にとって大切な能力は、そのような場面に追いこまれたときに、その変身をいかに巧みに、いかに筋道を通しつつ、そして大衆の支援を失わずに(できれば、共感を得つつ)行っていくかにある。
ただし、筋道と大衆の共感が相反する場合もあるというのが政治のむずかしいところで、その場合、筋道を通す方向で大衆を説得できる政治家が偉大なステーツマン政治家で、大衆にズルズルひきずられて筋道を忘れるのがポピュリスト(大衆迎合)政治家である。
豹変能力を欠くのは愚かな政治家である
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「君子は豹変す」という言葉がある。これは、しばしばそう誤解する人がいるように、政治家が突然態度を変えることを非難する言葉ではない。変化を誉める言葉なのである。変るべきときに、豹のようにしなやかにかつ美しい身のこなしで変ることができる政治家に対して与えられる賛辞なのである。
小泉首相のように、前言を翻すことができない政治家は、豹変能力を欠く政治家である。環境世界が変っていくときに、それに対応して変れない政治家は、いずれ野たれ死にせざるをえない。
どんな人間だって、ある時点において、未来のあらゆる展開をあらかじめ予測できるはずがないから、過去のある一点における判断・言動には山のような誤りがつきまとってしまうものである。それなのに、自分の過去の言動はすべて正しかったという見せかけの正しさを守るために、自分の過去になした言動にあくまで固執して、それに合うように自分の未来の言動を縛ろうとすることは、豹変能力(美しい変身能力)を欠く、愚かな政治家だけがすることである。
next: それは自己の無謬性願望にとらわれた政治家…
http://web.archive.org/web/20050605010201/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni1/index2.html
それは自己の無謬性願望にとらわれた政治家といってもいい。自分で自分の無謬説を作ってそれを守ろうとするのは、ある時代のローマ法王とか、スターリン全盛期のスターリンとか、あるいはさまざまの時代にさまざまの地域に登場した各種独裁的権力者とか、異常に権力を肥大させた独裁者が陥りがちな誤ちだが、いずれもハッピーな権力の終焉を迎えていない。
小泉首相の権力もここ数年異常に大きくなり、最近では、しばしば自民党の意向を無視して突っ走る小泉首相を批判して、「小泉は独裁者になってしまった」との声が自民党反主流派の間からさかんに聞かれるようになっている。
このまま無謬の小泉神話を作るべく強権頼みの独走を続けていくと、小泉政権の終わりもハッピーなエンディングを迎えられないことになると思う。
権力は変身能力を伴ったときにはじめて長つづきする。時代状況はあらゆる意味で変化していくから、自己の変身能力を持たずに、あくまで過去に固執しようとする者は、必ず時代とズレていく。一時は時代の寵児であった者も、いつの間にか、時代にうとまれるアナクロ政治家になっていく。
そのような意味において、過去固執型の政治家は、意外に早く耐用年数というか賞味期限が切れる。
小泉首相の賞味期限が実はすでにかなり前から切れているらしいことを示すのは、世論調査における小泉支持率の高低ではなく、その支持理由の中身の変化である。
小泉支持率は依然として高い数字を保ってはいるものの、その支持理由を問うと、さまざまな積極的理由をあげて、「だからやっぱり小泉」とする積極的支持者は少数者になり、「他に適当な人がいないから」という消極的支持者が多数者になっている。そうなった時点(はっきりは覚えてないが、もう相当前である)で、すでに本当の意味での小泉時代は終ったと見てよいと思う。
next: この上なく険悪な雰囲気の中で行われた日中会談…
http://web.archive.org/web/20050605011058/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni1/index3.html
この上なく険悪な雰囲気の中で行われた日中会談
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前言固執主義の小泉首相がいま困り抜いているのは、何といっても靖国問題だろう。8月15日は、もう目の前に迫りつつある。
またも靖国神社参拝をすれば、中国、韓国を怒らせることは必至だし、行かなければ、国内の保守派(靖国こだわり派)を怒らせることは、これまた必至という情勢にある。
いま靖国問題は一見小康状態にあるように見えるが、それは作られた見せかけである。
この5月23日に、中国の呉儀副首相が小泉首相との会見の約束を破って、突然帰国した。それに対して、日本側が外交慣例を破る無礼な行為、と怒りを表明したのに対し、5月25日、中国側は帰国した理由は、小泉首相の靖国神社参拝問題にあるとはっきり声明した。
その声明をどう思うか問われた、細田官房長官は、「これ以上コメントすることは、日中関係にとって生産的でない」といい、コメントを拒否した。それ以後、マスメディアではこの問題があたかも存在しなくなったかの如く扱わなくなった。しかし、問題は全く変らずにそこにある。
5月23日、呉副首相が帰国した日の夕方、小泉首相はいつもの首相官邸におけるぶら下がり取材会見で、
「わかんないですよねぇ。野党の審議拒否が伝染したのかなあ」
と、いかにも本当に訳がわからないような表情を作り、首をかしげるなどのゼスチュアをしてみせた。しかし、もちろんこれは100%のパフォーマンスで、小泉首相はその真の理由が靖国問題にあることをとっくの昔に承知していたのである。
5月21日に、自民党の武部幹事長と公明党の冬柴幹事長が連れ立って北京を訪問し、同日夜、釣魚台国賓館で唐家セン国務委員(外交担当)、王家瑞・中国共産党対外連絡部長などと会談した。その日のマスコミ第一報では、その会談で反日デモ以来冷えきった状態にある日中関係を改善するため、終始友好的な雰囲気の中で、両者お互いに自分の立場を述べあいつつ建設的な意見交換が行われた、といったおきまりの文句をならべた報道が行われた。
next: しかし実は、この会談は…
http://web.archive.org/web/20050605012934/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni1/index4.html
しかし実は、この会談は、この上なく険悪な雰囲気の中で行われた。とくに靖国神社参拝問題をめぐって、中国側は声を荒げ、机を叩くような調子で日本側を難詰し、それに武部幹事長が反論すると、中国側はさらに激高して日本側を論難することの連続だったという。会談内容に建設的な要素は何もなく、あまりに激しいやり取りだったので、会談を終えるにあたって、両者が激しく衝突したことは表に出さず、終始友好的な雰囲気のうちに建設的な話し合いが行われたことにしようということが合意されたので、マスコミ向け発表はそのような内容になったということである。
もちろん、小泉首相に対しては武部幹事長からすぐにそのすべてが報告されているから、小泉首相はその日のうちに、自分の靖国神社参拝問題が、いまや日中間の最大の問題になってしまったことをどう疑いようもなく理解したはずである。
反日デモのころから、それが一番の問題であることは、すでに周知の事実で、インドネシアにおける小泉・胡錦濤会談でもそれがいちばんの問題であったということは、このページでもすでに述べたことがある(4月25日掲載の第12回「歴史認識の“修復”なしに反日デモは終わらない」)。
話を戻すと、5月22日の武部幹事長と胡錦濤主席との会談では、胡主席から、
「日本の指導者がA級戦犯がまつられている靖国神社に参拝する姿はもう見たくない」
とまでハッキリいわれている。これまであらゆる手段で小泉首相に送った「靖国神社参拝をやめてくれ」という外交的サインがすべて無視されてきたので、もう言葉ではっきり伝えるほかないということになったのだろう。呉副首相の突然の帰国は、その翌日(帰国の通告は23日朝)である。こういうことの流れを見れば、突然の帰国の理由が、靖国問題以外ではありえないことはあまりにも明白で、小泉首相の
「わかんないですよねえ。野党の審議拒否が伝染したのかなあ」
という発言は、人をバカにしたおとぼけ以外のなにものでもない。
25日の中国政府からの「帰国理由は靖国神社参拝問題に対する不満」という発表は、日本のマスコミが、このような小泉首相のおとぼけ発言に誘導されて、別の原因を探ったり、中国側の非礼な態度を糾弾するような調子になっていったりしたことに対する、はっきりした不満の表明である。
next: 果たして靖国問題に口をはさむのは内政干渉か…
http://web.archive.org/web/20050605013640/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050602_yasukuni1/index5.html
果たして靖国問題に口をはさむのは内政干渉か
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では、このような事態の裏側を、日本のマスコミはいつ知ったのか。武部・王家瑞会談での激しい応酬の内容が紙面で報じられたのは、朝日新聞の場合、5月26日である。
しかし、私はこの報道と同じ内容を、5月23日の時点で、在京の外国メディア筋から聞いている。「とにかくすごかったらしいよ。もうケンカ以上だったらしい。日本側の『靖国問題に口をはさむのは内政干渉だ』という発言(小泉首相と武部幹事長)と、小泉首相の国会答弁での『A級戦犯に対しても、孔子がいった通り、罪を憎んで人を憎まずだ』というくだりがとりわけ大きな反発をまねいたらしい。孔子はそんなことをいっていないからね。中国側はあの発言を孔子(中国文化)に対する侮辱だとも受け止めた。何をかんちがいしたのか、あれは小泉首相の大チョンボだね」ということだった。二次情報で私の耳にまで入ったくらいだから、各社23日には、同じ情報をつかんでいたはずである。
そう思って、24日の新聞を読み直してみると、なるほどトンチンカンなことが山のように書いてある。これでは中国側が、日本側が誤解しようのないくらいハッキリ靖国神社参拝問題が原因なのだといってやろうと決意したのも無理はないと思えてくる。
26日付の朝日新聞によると、人民日報は25日の論評記事で、小泉首相の国会答弁を「荒唐無稽な弁解」と評し、靖国神社参拝問題は「国際正義と人類の道義の問題であり、他国が干渉できない内政問題ではない」と主張しているという。武部・王会談でも、A級戦犯への参拝を批判することが内政干渉になるのかどうかが、いちばん大きな論争点だったという。
ここは日本人がいちばん誤解しやすいことなのだが、A級戦犯問題は、そんなに簡単に片付けられる問題ではないのである。日本では、極東国際軍事裁判(東京裁判)は戦勝国が戦争に勝った勢いで、敗戦国に押し付けた無法な裁判で、A級戦犯は犯罪者というより民族の罪をかぶされた犠牲者という見方がかなり強くあり、そのような視点から、「A級戦犯が合祀された靖国神社に参拝することがどこが悪い。そんなことにまで文句をつける中国の言い分など聞く必要がない」といった意見が少なからず見受けられるが、ことはそれほど簡単な論理で通る問題ではない。
(この項、次に続く)
立花 隆
評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。
著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。
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