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第16回 憲法第9条を死守して「崇高な理想」を貫け (2005/05/12)
http://www.asyura2.com/08/senkyo56/msg/553.html
投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 06 日 10:45:29: Dh66aZsq5vxts
 

(回答先: 立花隆さんの「メディア ソシオ-ポリティクス」の海外アーカイブを阿修羅のスレッドでまとめて保存してくれないかと、。 投稿者 ROMが好き 日時 2008 年 12 月 05 日 18:06:37)

第16回 憲法第9条を死守して「崇高な理想」を貫け (2005/05/12)
http://web.archive.org/web/20051231032541/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050512_shisyu/

2005年5月12日

 憲法第9条二項に関する議論をはじめる前に、まず、そもそも憲法を変える必要があるのかどうかという議論をする必要があるだろう。

 TBSの番組では、私が憲法改正に反対する立場、宮台真司氏が、憲法改正をよしとする立場に立ったが、時間がなかったので、お互いの立場を表明しただけで、具体論はほとんどできないで終った。

 ここでは、まず、私がなぜ憲法を変える必要はないと考えるのか、その理由を書いておく。

 
壊れていない車は修理するな
……………………………………………………………………
 変えないほうがいいと思う最大の理由は、どうしてもいますぐ第9条を変えなければ困るというさし迫った事情がないからである。とりあえず、変えなくてもすんでいるし、これからもすむだろうと思うからである。どうしても変えなければならない事情が具体的に出てきたら、そのとき、その状況に即して考えればいいのである。そのようなのっぴきならない事情が出てくる前に、変える必要はない。

 いま提出されている改憲論のすべては、この「必要性」の議論において弱い。提示されている必要性は、自衛隊の存在とそのあり方などにおいて、現実と法の建て前との間にズレが生じているから、そのズレを「直した方がよい」といった程度の議論であって、「どうしても」「いますぐ」「直す必要がある」という、「緊急性」と「代替方策不可能性」をともなっての、「絶対的必要性」はどこからも提示されていない。

 第9条一項は、すでに述べたように、現在の国際社会で一般に合意されていること(国連憲章第1条と第2条)と同じであるし、日本の改憲論争でも、それを捨てることを前提とする改憲論が事実上ほとんどない以上、第9条一項は今後も日本の憲法として堅持されるものとして論をすすめる。

 詳しくは後に書くが、残る第9条二項の問題というのは、基本的に自衛隊に持たせる戦力の問題と交戦権の問題である。

 第9条二項の縛りによって、自衛隊は「戦力なき軍隊」としてのみ存在が許されている。どの程度までの武力が自衛隊に持つことが許され、どの限度を越えると、許されなくなるのかというと、これまでの政府統一見解では「近代戦遂行能力」である。では、第9条2項を変えないと、日本は近代戦遂行能力が持てないのかというと、そうではない。近代戦遂行能力を持つ敵が武力侵攻してきたときに、それに対応して防衛しようとしたら、必然的に近代戦にならざるをえない。そういう、防衛的な近代戦遂行能力なら、第9条2項に違反しないと考えられ、事実自衛隊は持っている。自衛隊の持つ軍事力はすでに軍事費からいって世界第3位にランクされるほどのものになっている。

 
next: 第9条二項に違反すると考えられる防衛力は…
http://web.archive.org/web/20051226131819/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050512_shisyu/index1.html

 第9条二項に違反すると考えられる防衛力とは、攻撃的防衛力である。攻撃的防衛力とは何かというと、先制攻撃能力である。先制攻撃とは何かというと、第2次世界大戦において日本が真珠湾でやったことであり、イラク戦争でアメリカがやったこと(大量破壊兵器があるという思いこみだけでイラクを徹底破壊)である。

 要するに、第9条二項を外して先制攻撃能力を持つということは、日本が歯止めなしの戦争能力を持ち、何でもありの戦争をすぐにはじめられる状態に身を置くというに等しいことである。純粋な防衛力(専制守備的自衛力)と攻撃的防衛力(先制攻撃能力)とでは、天と地ほどのちがいがあるのである。後者を持つということは、日本にほとんどどのような戦争でも起す力を持たせるということである。安倍晋三幹事長代理にいたっては、最近、日本は核戦力を持つことだって許されているとまで公言している(持つつもりはないと付言はしているが)。

 ものごとは何でも具体的に考える必要がある。第9条二項の問題を考えるということは、二項の文言をひねくりまわして、抽象的にその意味をああでもないこうでもないと議論するということではない。第9条二項の縛りによって、今の日本がどのような状態に置かれているか(具体的に何ができて何ができないのか)を知り、その縛りを外したら、現実にどのようなことが起きうるのかを、全方位的に考える(軍事的に、政治的に、外交的に、経済的に、社会心理的に)ということである。

 詳論は後にゆずるとして、話を戻すと、「した方がよい」という程度の必要性しかないときに、あえて憲法を変える必要性はないというのが、私の基本的考えである。

 基本的法制に関しては、変えなくてもすむものは変えないほうがいいのである。

 法の問題で何より重要なのは、法の安定性を守ることである。法の安定性を守るために何より重要なのは、法をみだりに変えないことである。法の世界でいちばんいけないのは、朝令暮改である。今朝は法律で正しいとされていたことが、夕方になったら誤りとされてしまうようでは、人は法に対する信頼性を根本的に失ってしまう。朝令暮改の世界では人は、法を守る気力すら失ってしまう。法は変えないですむなら、変えないにこしたことはない。

 朝日新聞の論説主幹である佐柄木俊郎氏が書いた「改憲幻想論」(朝日新聞社)というちょっと面白い憲法論の本があるが、これには、「壊れていない車は修理するな」という副題がついている。この本がいっていることは、私の主張と基本的に同じである。変えないですむものは変えないほうがいいのである。

 
next: 国民投票で否決されたオーストラリアの憲法改正
http://web.archive.org/web/20050923203637/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050512_shisyu/index2.html

国民投票で否決されたオーストラリアの憲法改正
……………………………………………………………………
 この副題は、オーストラリアで1999年に行われた憲法改正の国民投票のときに、改正に反対する保守党が使ったスローガンだという。いまのオーストラリアの憲法は基本的に百年前のオーストラリアがまだイギリスの植民地だった時代に作られた憲法だから(その後若干の改正はあった)、現実とそぐわなくなっている箇所がいろいろある。国民のマインドと合わなくなっている箇所もいろいろある。

 たとえば、国家の基本構造がほとんど植民地時代と同じで、オーストラリアは、今でもイギリスのエリザベス女王を国家元首にあおぐ立憲君主制の国なのである。君主制とはいっても植民地だから、日常的には、女王が任命する総督が女王名代の最高権力者として君臨する形になっている。

 しかし、そのような側面はとっくに形骸化している。たしかにいまでも総督はいる。そして、連邦議会に立法権はあるが、議会を通った法律も、そのあと総督のところにまわされ、総督がそれを裁可したという形式をとらないと、法として発効しないことになっている。しかし今や、これはただの形式になっており、総督にも女王にも実質的な権力は何もない。

 それは日本の象徴天皇制とほとんど同じといってもよい。日本でも、天皇が形式的に御名御璽(ぎょめいぎょじ。署名して天皇の印を押す)を付さないと、いかなる法律も発効しないが、天皇に許されているのは、まわってきたものに形式的に署名捺印することだけで、自分の自由意志でそれに抵抗したり拒否したりすることはできない。総督がすることもそれと同じで、基本的には、やることなすことすべてセレモニーにすぎない。それくらいオーストラリアの「英王室を君主とあおぐ君主制」は形式化してしまっている(だいたい総督ですらオーストラリア政府がオーストラリア人の中から選んで指名した者を、女王が形式的に任命しているだけ)。しかし、では、君主制をやめて、選挙で大統領を選出する共和制に移行するかというと、そういう提案をした1999年の憲法改正案は、国民投票で、ノーの答えが出てしまったのである。

 エリザベス女王や英王室が特に好きというわけではない。世論調査ではとっくに女王に対して親近感なしという答えが出ている。この国民投票にあたって、ノーの投票を呼びかけた保守派の側が使ったスローガンがこの「壊れていない車は修理するな」だったのである。そしてこのスローガンが共感を呼び、大統領制提案は否決されてしまったのである。

 それは、君主制のメリット・デメリットと、共和制のメリット・デメリットをくらべて、こちらのほうがこれだけ利点が多いからこちらにしようというような利害得失の計算にもとづいての呼びかけではなかった。どうしても変えなければならないような特段の事情がないかぎり、それなりにうまく走っている社会システムを変えたら、無用のきしみが出るにきまっているから、変えないほうがいいということなのである。

 変えるとしても、君主制から一挙に共和制へというようなラディカルな体制変革をやったら別の危険性がでてくる(野心家の大統領の登場など)。それよりはむしろ実害が何もない現在の形式的君主制を維持し、何かどうしてもまずいことが出るたびに、そこだけちょっとずつ改良を積み重ねていけばよいではないかという考え方なのである。

 
next: 実際問題として…
http://web.archive.org/web/20050524133500/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050512_shisyu/index3.html

 実際問題として、イギリスの純粋の植民地であったオーストラリアが、今日のような独立国家になるにあたっての変化も、そのような改良の積み重ね方式だった。あまりに徐々に徐々に変化が積み上げられてこうなったので、オーストラリアがいつイギリスの保護を脱して正式の独立国家になったのかという点についてすら、人の意見はみんなわかれる(1931年説、1948年説、1973年説、1986年説など)というくらい、それはゆっくりゆっくりの変化だったという。

 佐柄木氏は、日本の憲法状況を一言で、「壊れていない点では同国の君主制の比ではない」と 総括して、日本の憲法を今日ただいま改正する必要はないとしているが、私もその通りだろうと思っている。

 
過剰な改憲論は「オッカムのカミソリ」で切り落とせ
……………………………………………………………………
 論理学の世界で最も有名な命題の一つに、「オッカムのカミソリ」と呼ばれる命題がある。それは「必要がないものをふやしてはならない」あるいは、「より少しのものでできることをより多くのものでなすことは意味がない」ということで、実に幅広く応用がきく命題である。哲学の世界でもサイエンスの世界でもあるいは社会科学の世界でも、必要がない概念あるいは新しい法則は導入しないほうがよりよい理論構成ができるのである。工学の世界やビジネスの世界でも、現実にうまく働いてるシステムに何か余計な手を加えると、だいたいうまくいかなくなるのである。「シンプル・イズ・ベスト」はあらゆる世界で通じる偉大な真理である。自然界には最小エネルギーの法則というのがあって、あらゆる自然現象は、「水は低きに流れる」ようにより少ないエネルギーですむ方向に自然に進行するというのもこれに似ている。

 同様に法律体系もよりシンプルに構成できる法体系のほうがより安定する。

 最近新しく出てきた改憲論の中には、環境権、プライバシー権、知る権利など、新しい権利をいろいろ並べ立てて、そういった権利を新しく法的に認知するためにもそれらの権利を入れた新しい憲法を作るべきだとする創憲論、加憲論などの議論がさかんに出てきている。

 しかし、私はそういった議論はすべて、「オッカムのカミソリ」でスパッと切り落せばすむだけの過剰な改憲論だと思っている。それらの新しい権利は、どれも今の憲法に明記されてはいないが、すでに、さまざまの判例の積み重ねによって日本の法体系の中で、しっかり定着している。従って、いまさらそれらの権利のために憲法の新しい条項を作る必要は全くないのである。

 佐柄木氏は、このような改憲案を「目くらましの改憲案」と呼んでいるが、私もそうだと思う。最近の憲法に関する各種世論調査にあらわれている顕著な傾向は、単に憲法を改正したほうがいいと思うかどうかを問うと、改正したほうがいいという人が多数になるが(調査によっては、6割、7割以上になる)、誰が考えても最大の問題である憲法第9条の問題になると、改正論が決して多数派ではなく、堅持派が若干多いか、せいぜい国論まっぷたつ状態にしかなっていないということである。この二つの傾向の間の落差が何から生じているかというと、「目くらましの改憲案」にだまされて、いまのままで立派に存在している権利が、改憲をしないと存在しなくなってしまうか弱いものになってしまうかに思ってしまう、法律に無知な人がそれだけ多いということだろう。

 
next: 先に述べたように…
http://web.archive.org/web/20050524133516/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050512_shisyu/index4.html

 先に述べたように、法は六法全書に明文化されているものだけが法なのではない。法の最も重要な法源は、過去の判例の積み重ねである。

 個々具体的な訴訟の積み重ねの中で、裁判所が具体的なケースに対して具体的に下した、そのときどきでの具体的な法的判断の累積が現に生きている法の総体なのである。特に、英米法の世界においては、それが主たる法源であり、それに比べると成文法そのものの持つ重さは軽いといってもさしつかえない。なかでもイギリスの法体系はそういう性格が強いから、成文法たる憲法は存在すらしていないのである。

 
抽象的な条文は運用されてこそ「生きている法」になる
……………………………………………………………………
 日本の法律体系は、戦前は大陸法(全体が、さながら幾何学の公理、定理の体系のごとく厳密に構成されていて、基礎原理的な上位法から、具体的なことを定める下位法まで、さまざまなレベルの法律があって、全体がピラミッド状に作りあげられている法律体系)的であったが、戦後は急速に英米法(法は本質的に判例の積み重ねであり、過去の判例のすべてが法体系をなしている)が取り入れられたので、独特の両体系混合体系となっている。

 このあたりのことは、ちょっと法律を学んだことがある人には、常識に属することだが、法律を学んだことがない一般市民の大多数は、法というと、六法全書の条文のことだと思ってしまい、それは全体として幾何学の体系のようになっているという大陸法のイメージを持ってしまっている。だから、プライバシー法も環境法もいまの憲法には書かれていませんというと、それがものすごく大きな欠陥のように思ってしまって、「目くらましの改憲論」にすぐだまされてしまうわけである。

 私にいわせれば、六法全書の上の条文だけの法は「死んだ法」であって、本当の法は「生きている法」である。抽象的な条文でしかなかった法が解釈適用され、運用されたときにはじめて、生きた法になる。法の生きた全体を見るためには、大陸法的なイメージでものを考えると、必ずことを誤る。英米法的なイメージで見ないかぎり、法の本質的な生きた問題は見えてこない。

 憲法の問題にしても、憲法の条文そのものからはシンプルなことしかわからず、むしろ、個々具体的なケースの上で、それがどのように機能してきたか、適用運用されてきたかその全体を見るほうが、はるかに大切なのである。

 そして、それを見るためには、結局、判例集を見るか、政府の議会における憲法答弁集(最高裁判例とならんで日本の憲法の最重要な法源の一つとなっているのが、政府の最高有権解釈者である内閣法制局の出す見解である)を見るかしなければならない。法律判断の問題というのは、常に生きたケースに即して出される生きた問題である。それは幾何学の問題のように、公理と定理と推論規則さえつかめば、答えが一義的に出てくるというものではない。

 
next: 法の問題は…
http://web.archive.org/web/20050524133534/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050512_shisyu/index5.html

 法の問題は、法的世界の公理も定理も、推論規則も、すべてがある幅をもって存在しているから、その幅は、ケースに即しての解釈と不可分という独特にファジーな世界である。そのファジーな全体像が生きた法の世界である。そのような生きた全体をとらえないかぎり、法的問題の本当のところはわからない。

 特に日本の憲法の問題はそうである。憲法は最上位の法として、条文に書かれていることは、きわめてシンプルなレベルにとどめおかれており、具体的な内容は、「法の定めるところに従って…」などの表現が多用されて、下位法と一体のものとしてはじめて理解でき運用されるような仕掛けになっているからである。

 このあたりは、日本の憲法の一つの特徴であって、他国(特に大陸法の系統の国)の憲法とはかなりちがう部分でもある。

 そこを理解していないと、改憲問題でも、相当判断を誤ってしまう。

 
40回も改憲したドイツ憲法とそのままの比較はできない
……………………………………………………………………
 たとえば、改憲論争の中に、日本の憲法のようにできてから半世紀以上もぜんぜん改憲されたことがないというのは、それ自体が異常であって、ドイツ憲法(基本法)などは40回以上も改憲されているという例を引きあいに出して、もっと憲法は気軽にどんどん変えがほうがいいなどという人がいるが、そんなことをいうのは、ドイツ憲法を具体的に知らない人である。

 岩波文庫で「世界憲法集」という本が出ているから、それを読んでみるとすぐわかることだが、ドイツ憲法は、一つひとつの条文が詳しすぎるのである。ドイツは大陸法の典型的な国であり、何でも厳密に決めてしまおうとして、後々の運用まかせ、解釈まかせにするファジーな部分を残そうとしないから、日本人が読むと、「エッ、憲法でそんなに細かいところまで決めてしまうのか」と驚きの連続である。あんまり細かいことまで決めているから、これなら、すぐに身動きがとれなくなって、創出以来、40回以上の改正が必要だったという話がすぐに納得される。

 どれくらい細かいかというと、私の持っている第四版の場合、日本の憲法は20ページで全部記述されているのに、ドイツ憲法の場合、80ページも費やされているのである。ページ数からいって、ざっと4倍ということである。日本なら、下位法で規定するようなことを、ドイツでは全部憲法で規定してしまうから憲法改正を沢山やらざるをえないのである。逆にいうと、日本では、ドイツが憲法で規定するようなことをたいてい下位法の規定にしてしまったということである。ということは別の見方をすると、日本では憲法改正の手続きなしで(普通法の普通の改正手続きだけで)、ドイツなら憲法改正をしないとできないような法の改正を簡単にどんどんやってきたということにもなるわけである。これが、日本で解釈改憲が多用されてきた理由でもある。

 つまり憲法の枠組みをドイツ基準にすると、日本のほうが憲法改正を気軽にどんどんやってきたといういい方もできるわけである。

 
next: 日本の法体系は…
http://web.archive.org/web/20050524133554/http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/050512_shisyu/index6.html

 日本の法体系は、重要な法のエッセンス部分(枠組み部分)だけを憲法で定め、あとはどんどん下位法にまわしてしまう。下位法にもさまざまのレベルのものがある。下位法の最上位のものは、教育基本法のように、××基本法の名をかぶされるが、そういうものだけで20本以上もある。基本法の下には、基本法の定めをさらに具体化していく下位法の定めが幾つもあるわけで、その全体を見ないと、本当の法体系の比較はできないのである。

 
解釈改憲と下位法が結びついた自衛隊法
……………………………………………………………………
 解釈改憲と下位法による具体化が結びついた典型的な例が、自衛隊の法的認知である。第9条改憲論のかなりの部分が、第9条を改正しないと、自衛隊が法的に認知されないと主張し、第9条改憲に組する一般市民の中にも第9条を改憲しないことには、自衛隊が法的に認知されないのだと思いこんでしまっている人がいるが、そんなことは全くない。

 自衛隊は、自衛隊法によって、立派に認知された合法的存在である。だからこそ、自衛隊には、毎年数兆円という巨額の予算が投じられ、世界第3位の軍事力を持つにいたっているのである。

 もちろん、これは解釈改憲を是とする立場に立った場合の話で、解釈改憲を非とする立場に立つ人たちもいる。しかし、かつて解釈改憲を非とする最も大きな勢力であった旧社会党が、村山内閣で解釈改憲を是とする立場に立って以来、自衛隊の存在そのものを違憲の存在として、その存在すら認めない立場の人たちは、絶対的少数者になっている。

 それよりも、法的認知の問題は、基本的に法的手続きの問題なのであるから、解釈改憲を非とする立場の人も自衛隊が事実問題として法的に認知された存在であることは認めなくてはならない。日本では、あらゆる問題について、事実問題とそれに対する自分の評価の問題をごっちゃにして論じる人があまりに多いので、話が混乱する。

 私自身は解釈改憲を是とする立場である。それは政治的にそういう立場に立つというより、英米法的立場(私はそのほうが正しいと思っている)に立てば、それが当たり前だと思うからだ。法は常に解釈と不可分なのである。そして、一つひとつの解釈改憲プロセスが合法的手段で進められてきた以上、それに不満があったとしても、違法呼ばわりはできないと考えている。

 ここで、解釈改憲の流れを詳しく述べている余裕はないが、私は、解釈改憲の歴史にはやむをえざるところが多分にあったと思う。先に述べたように日本の憲法ができた直後から、国際情勢が大きく変ってしまって、憲法第9条が生んだような「崇高な理想」も「諸国民の公正と信義」もあっという間に消えてしまったからである。

 それにもかかわらず、憲法第9条を捨てずに、今日まで守りつづけたことには大きな意義があり、今日の日本の政治的、経済的成功も憲法第9条のおかげという側面が多分にあると思っている。もしいま第9条を捨ててしまったら、日本は政治的にも経済的にも外交的にも苦境におちいることになるだろう。

(この項、続く)

 
立花 隆

 評論家・ジャーナリスト。1940年5月28日長崎生まれ。1964年東大仏文科卒業。同年、文藝春秋社入社。1966年文藝春秋社退社、東大哲学科入学。フリーライターとして活動開始。1995-1998年東大先端研客員教授。1996-1998年東大教養学部非常勤講師。

 著書は、「文明の逆説」「脳を鍛える」「宇宙からの帰還」「東大生はバカになったか」「脳死」「シベリア鎮魂歌―香月泰男の世界」「サル学の現在」「臨死体験」「田中角栄研究」「日本共産党研究」「思索紀行」ほか多数。講談社ノンフィクション賞、菊池寛賞、司馬遼太郎賞など受賞。

 

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