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久間章生防衛大臣が、2007年6月30日、千葉県柏市の麗澤大学で講演で、「米軍による広島、長崎への原爆投下はしようがなかった。米国を恨むつもりはない」と発言したことで、日本全国が騒然となっている。この原爆正当化的発言の影響は大きく、この話題に対し、インターネットやマスコミ報道で見る限り、国民の9割以上が批判的であるようだ。久間発言は、米国政府の見解そのままであることに、多くの日本人が反発し、そして遂に辞任してしまったものだ。
当方には、これが米国の意向を反映した故意・誘導の発言かどうか、あるいは本人も言及しているように、単なる米国の見解を紹介した程度なのか、それとも、全く想定外のことで、本人も知らずの内に無意識に口から出たものか、その真意の程は解らない。この時期の発言には、本人や周囲の何処か奥深い計算ないし思惑、あるいは無意識の過失、誤算もあろうが、現実の反響の大きさを考えれば、内閣支持率や次期参議委員選挙に及ぼす影響も決して少なくはないであろう。
しかし、当方は、この久間発言の内容は、よく理解出来るし賛同するものだ。そして、表面的な国民全体の感情的反発もさることながら、知らずの内に、問題提起に併せて、国民自身の意識変革になっていく転機になるものと思っている。真実を語って国民がどのように受け取っていくかで、歴史的総決算の時期に来たのではと思うからだ。これを正しく総括出来ない以上は、何時までも戦後は終わらないと思うし、近未来の急迫化した国家的危機に対する核兵器論議にも進展しないと思うからだ。
当方は以前から、原爆投下は、これだけ見れば、非容認派の言うように、戦争終結が間近いのに敢えて実行した残忍な人種差別行為であり、人類に対する計画的な犯罪行為であり、核兵器の人体に対する実験行為であり、核兵器の保有も使用も、決して許せない絶対反対の結論に至ることに、ある程度理解を示すものである。しかし、他方で、原爆投下には、それだけではない影響や効果があったことは、総合的な結果を踏まえて判断すべきであろうと思っている。即ち、その後の、ソ連の北方領土侵攻やドイツの状況などを考えて、もし原爆投下がなかった場合を、種々の観点から戦略的に思考することが必要であろうと思っている。
何も米国の原爆投下を無条件で賛同し正当化したり、逆に攻撃非難したりするものではない。ただソ連軍の侵攻を始めとする列強諸国の動向を考えれば、日本分断の危機を回避するのは、早期の日本からの降伏しか有り得ない状況だったことは間違いはない。それに強く影響を与え決断ならしめたものこそ、原爆投下であったことは明らかだ。もし原爆投下がなかったならば、日本は降伏するタイミングを失って、連合軍による分割統治を許していた可能性も高いと思われる。
確かに、長崎、広島への原爆投下は、それ自体は残虐非道の行為ではあるが、戦争が長引いて行った場合の残虐性と何れが残虐なのか、何れも残虐性に大した変わりはないものだ。実際、ドイツなどは原爆投下はなかったが、ドレスデン空襲に見られるように、日本以上の民間小都市を対象とした大空襲による残虐な大破壊であった。もっともドイツの場合には、原爆研究が、連合軍による大破壊を加速化した可能性も高い。日本は原爆の研究開発もあったが、途中で断念したからこそ、研究者の連行もなく、あの程度で済んだものと思われる。
なお、原爆・放射能による大量虐殺は残酷だが、それ以外は残酷ではないというのは、かなり情緒的で偏狭な見解であろう。戦争による死には、火炎放射器や地雷、毒ガス、爆弾の如何を問わず、何でも残酷であり、むしろ戦争自体が残酷性を伴うものである。それを承知で戦ったものであり、途中の一シーンをとらえて残酷だと言ったところで始まらない。ルールから外れた戦いがあり得る以上、何処かでドクターストップがなければ、完全な死を迎えることもあると言うものだ。原爆投下はドクターストップを決断させた意義があろうと思うものだ。
それに、戦争は時期が来れば次第に沈静化し終了するという甘いものではない。誰かが英断を下さない限り、戦力ある限り、逃走し崩壊しない限り、ゲリラ化していくことも有り得るのだ。もしも、原爆投下がなかったならば、タイミングを見出せずに、天皇陛下の戦争終結に向けた裁断もなかったものと思われる。そして、日本の降伏が遅れれば、ヤルタ協定によるソ連軍の北方領土侵攻を超えて、北海道や東北日本全体への侵攻も有り得たわけだし、大都市にも侵攻され、国土全体が分割統治支配に至った可能性も高いというものだ。ドイツでは、ソ連軍がベルリンに侵攻するのを許してしまい、結果はベルリン分割に至り、最後は、ドイツ全体が東西陣営に分断されてしまったのである。
なお、戦後は、米国にのみ占領されたからこそ発展があったもので、ソ連ならば、発展も後退もなく、単なる戦後の荒廃のままの現状維持に留まっていたであろう。その後の東欧諸国やシベリアの開発状況を見れば明らかであろう。また、中国の支配になっていけば、壮絶な復讐の下に、搾取・報復の嵐に見舞われて、二度と立ち上がれないほどの国家解体を余儀なくされていったであろう。
結果的には、当時では開かれた民主国家の米国単独による占領・支配に終わったことは、日本にとっては、非常に幸運であったと総括出来る。しかし、これはあくまでも、ソ連や中国の動向と関係した非常事態下での国際環境が背景にあるもので、それも結果としての総括であり、何も最初から、無条件、無原則的に、原爆投下に賛同し容認するものではない。原爆は戦争終結を早め、報復を早める効果があったことを否定するものではない。
なお、原爆投下は、それ自体を歴史的に検証し論議するばかりではなく、現在の国際環境における核兵器保有の是非を巡る論議と絡めることが大切であろう。当方は、周辺諸国が保有し、日本の安全を脅かしている以上は、核兵器保有は当然であり、核兵器に対する効果として、戦争抑止、攻撃に対する対抗・報復手段、終結を早める効果などを強調するものである。またこう指摘したからと言って、決して最初から、先制的に威圧的に行使するなど、無条件、無原則的な核兵器の使用を賛同し容認するものではないのは当然だ。
総括すれば、原爆投下は、その後のソ連軍の北海道侵攻の可能性や、ドイツのソ連によるベルリン陥落から東西陣営による分割統治、日本が米国単独支配になって分断を回避出来たこと、戦後の高度経済成長を達した背景などを教訓にすれば、仕方なかったことであり、結果的には、プラスに働いた要因が大きく、正に災い転じて福となしたというものであった。
これは決して、米国に対する原爆投下を感謝するという短絡的なものでもなく、また、原爆投下を無条件で肯定したり、米国の見解に迎合するものでもない。結果的に見れば、即ち、歴史を総合、相対的に考えてみると、やむを得なかったと言うことだ。日本人の国民性では、大胆な、相対的、総合的な発想、戦略的思考が出来ない限界を感じ、冷静客観的な判断力に欠き、概して、近視眼的で短絡、単純な情緒的な思考に陥りやすい国民性のように思われる。
大東亜戦争に関して、日本人全体が総括し実践することは、原爆投下の是非を巡る論争を超えて、原爆投下による多大な犠牲者を始め、戦争全体の犠牲者や英霊達の、苦怨・苦痛に喘ぐ死霊魂を、慈愛の心をもって慰謝し供養し救済していくことであろう。原爆投下に対し、米国に感謝するとか、迎合するとか、あるいは、米国に怒りをぶつけるとかの次元ではない。どちらに転んでも、英霊や犠牲者達は一向に浮かばれるものではないのだ。ただひたすらに国民が一体となって、戦争犠牲者達の慰謝と救済こそが大切であろう。それが過去を乗り越えて、国家発展の堅固な基盤となり得るものであろう。
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