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(回答先: 下北よ! 原子力と私たち(1)13年前、玉虫色の約束(朝日新聞 青森) 投稿者 クマのプーさん 日時 2008 年 1 月 09 日 23:14:09)
http://mytown.asahi.com/aomori/news.php?k_id=02000310801040002
(2)「夫倒れ危険性知った」
2008年01月04日
喜友名正さんの放射線管理手帳。六ケ所村の再処理工場で被曝した記録も残っている
六ケ所再処理工場の西の方角に、アパートのような建物が40棟並ぶ施設がある。日本原燃に通う建設作業員らが寝泊まりする施設として、94年秋から営業している。
4畳半か6畳1室。部屋にベッド、テレビ、机がある。食堂、風呂、洗面所は共同だ。最盛期には、800人収容の宿に収容できないほど作業員が全国から集まった。
「今、六ケ所ってところにいるよ」
沖縄県うるま市。喜友名末子さん(56)は同い年の夫の正さんから電話を受けたことがある。正さんは六ケ所のこの施設に泊まっていた。
■ □
沖縄は青森と並んで雇用も少なく、賃金も低い県だ。正さんが「もっといい給料で違う仕事がしたい」と、20年以上勤めた沖縄県内の会社をやめたのは97年だった。
大阪市内の派遣会社に登録し、原発の労働者となった。放射能漏れの非破壊検査担当だった。同年9月、北海道電力の泊原発で初めて働いた。
原発の仕事は数日と短いこともあれば、1カ月近いこともあった。現場では簡易線量計をつけて仕事する。自身の被曝量を知ることができる。
一つの事業所での仕事が終わるたびに被曝量を書き留め、また別の事業所へ派遣される。被曝量は「放射線管理手帳」に記載される。
正さんが派遣された原発は次のようになる。泊→ 伊方(四国電力)→高浜(関西電力)→大飯(同)→美浜(同)→敦賀(日本原子力発電)→玄海(九州電力)。東北電力の秋田火発を経て六ケ所再処理工場へ。
正さんの放射線管理手帳によると、03年4月8〜17日、同6月19〜8月25日に再処理工場で働いた記録がある。
□ ■
01年ごろ、正さんに異変が起き始めた。鼻血が頻繁に出た。手足は氷のように冷たくなった。気力がなくなり、ご飯をお代わりしなくなった。
病気とは思わず、正さんは出稼ぎを続けた。だが、六ケ所からうるま市に帰った翌04年1月、顔の右半分が突然、大きく腫れ上がった。
鼻に腫瘍があった。緊急手術を受け、琉球大医学部付属病院に転院。ここで初めて悪性リンパ腫と診断された。
約7年間で正さんが被曝した線量の合計は99.76ミリシーベルト。国の基準によると、被曝線量は年間50ミリシーベルト、5年間で100ミリシーベルトを超えてはならないと定めている。
正さんが逝ったのは05年3月、53歳だった。
■ □
「初めて、心から愛した人。今も好きだから、夫の無念を晴らしたい」
末子さんは05年10月、正さんが悪性リンパ腫で亡くなったのは被曝によるものだとして、大阪府の淀川労基署に労災を申請した。だが、06年9月、不支給の決定が出された。
2人は18歳の時、沖縄の集団就職のグループで出会った。川崎市の電機メーカーで約3年半働き、沖縄に戻って24歳で結婚した。
正さんは本島北部の宮城島という小さな島で生まれ育った。2人のデートは決まって宮城島。末子さんは貝を拾い、正さんは釣りに興じた。
だが、正さんのいない3度目の正月。沖縄の家の台所に置かれ、守り神としてまつっている「ヒヌカン(火の神)」に手を合わせる。「見守っていてね」と語りかける。
末子さんは、労基署がある大阪にたびたび出かけた。大都会を1人で歩き回り、自分をこう奮い立たせたという。
「夫は病気になって初めて、原発労働の危険性に気づいた。労災を勝ち取って、夫が亡くなった事実を知ってもらい、私と同じ思いをする人が出ないようにしたい」
末子さんの不服申し立てに、厚生労働省は07年6月、「再検討する」と回答してきた。末子さんは吉報を待っている。
(北沢拓也)
【キーワード】原発・核燃料施設労働者の労災
厚生労働省によると、白血病になった原発労働者6人と、99年のJCO東海事業所(茨城県東海村)の臨界事故で被曝し、急性放射線症となった3人の計9人が労災認定を受けている。原発労働者の労災は、白血病など認定対象の疾病以外は検討に時間がかかり、「認められにくい」との指摘も多かった。だが、04年1月、東京電力福島第一原発などで働き、多発性骨髄腫になった大阪市の元作業員が初認定された。
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