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副島「私は、その中で、「ラチオ(ratio 合理)と、リーズン(reason 理性)を崇拝することがユダや思想の中心部分であり、本体である。そして、このラチオ、リーズンこそは、人類(すべての人間)が、片時も逃れることの出来ない、強欲と拝金の思想である」と、大いなる 読み破りをやった。」
「このラチオ、リーズン(合理、理性)の思想こそは、強欲と拝金の思想(金利をとる思想)であり、ユダヤ人の生き方そのものであり、それが、ユダヤ思想(=ユダヤ教 Judaism 、ジュダイズム)の中心になるもなのだ、と大きく解読してきた。これは、私、副島隆彦の日本人としての、つまり「日本国内基準だけ」での、大きな学問業績である。なぜなら、このことを解明して、公然と掲げた日本人知識人は、これまでひとりもいないからである。」(ブログ’07.5.23)
副島「ユダヤ思想の原理は、金儲けの精神であり、ラチオ=リーズンなのだ、ということだ。これを、強欲の精神とか、拝金主義とか、訳してもいい。えー。そんなに簡単なことなのか、と私に聞き返しても、どうにもならない。これで、読み破れたのだから、それでいいのです。」(ブログ’07.6.11 )
副島「私たちは、金儲け、そのものの否定をしてはいない。健全な金儲け、資産作り、営利活動そのものは、正当なまっとうな人間のすることであって決して嫌(いや)がったり嫌悪(けんお)したりしてはならない。金儲け(商業活動、会社経営、営利活動、利殖、蓄財、営利活動、商業、実利追求)を、私たちは否定しない。それらの活動は、人間にとって、自然なものであり、大切なものだ。」
「いけないのは、過度の、強欲な営利行動である。過度で強引で、策略的な営利活動は、まわりのひとびとを苦しめる、万人が否定すべき人間行動の類型だ。まわりの人を騙したり、脅(おど)したり、いじめたりして、それで自分が大きな儲けを作る、というのが、いけないのであり、否定すべきことなのです。そのことを、これまで私はあまりはっきりと書かなかった。ですから今日、…弟子たち全員に、明瞭、明晰、明確に書いて置きます。」
「人間の悪行(あくぎょう、仏教でなら悪業=あくごう=)として強く否定すべきなのは、過度の行過ぎた、強欲行動と、異常なまでの拝金と、それから守銭奴の金銭崇拝であり、これらがいけないのだ、と私はようやくのことで、54歳でやっとのことで分かりました。自分の頭の中で、この重要な区別基準をつけることを、これまで少し曖昧(あいまい)にしてきたようである。」
「人間にとっての、健全で穏やかな、産業資本(物づくり)とその販売を背景にした経済活動は、本来的に良いものなのです。営利活動や、自由な商業活動は、徹底的に擁護され、制度、政治体制としても、高く尊重されるべき人間行動である。」
「ですから、それに対して、自然で健全な営利活動と金儲けと資産形成は大切な人間行動であり、これらの活動に生来、向いている人は積極的に行うべきだ。しかし、これとは異なる、異常なまでの強欲な行動との区別を私たちははっきりとつけなければならないのである。ここに、私たちの知識・思想・学問研究における、大きな善悪判断の基準(クライテリア、criteria )を持たなければならない。そのように、今回、私ははっきりと分かりました。」
「だから、私たちが、否定し糾弾すべきは過度の強欲行動と過度の行過ぎた拝金主義である。」
「私自身が、この8年間の時間をかけて、ラチオ(合理)、リーズン(理性)の本態がユダヤ思想の中心・根本であり、ここに 強欲、拝金の思想が横たわっているのだ、と大きく深く解明してきたのだが、それを、一般の正当な商業、営利活動、資産防衛の肯定との比較で、これまで、区別をはっきりつけなかった。そのことが、敵どもと渡り合う上での、自分たち東アジアの原住民(日本部族、ジャパン・トライブ、Japan tribe )の弱点であったと、まず私が率先して反省しているのです。」(ブログ2007/06/22 副島隆彦拝)
〔仁王像コメント〕
教授はこれまで、「合理ratio 」と「理性reason」の言葉の真意は、強欲と拝金思想であり、西洋社会ではそのような含意で理解されている※、その日本での発見者は教授であると強く主張してきた。筆者もそのような解釈に感心してきたところである。
〔※ と主張していると読者は受け取る。「日本国内基準だけ」というのはその意味であろう。〕
だが、その解釈をここにきて変えようとしていると見る。
早い話が、そもそも「合理」と「理性」の真意は、”健全な金儲け、資産作り、営利活動そのものは、正当なまっとうな人間のすることで…それらの活動は、人間にとって、自然なものであり、大切なものだ”という解釈が正当なもの、西洋社会でもそれが含意として定着してきたのではないのか。それゆえ「合理」や「理性」という言葉がやたらに出てくるというカントとやらの哲学者が持ち上げられてきたのではないのか。
「合理」「理性」の含意ー「健全な手段での金儲け、商業活動は正当である」との思想がヨーロッパに芽生えたので、教授が言うように、近代資本主義の発祥の地となったのではないか。
それを教授は「勇み足」で解釈した。”まず私が率先して反省しているのです”とサラリと言っているが、この言葉の意味は重い。
次に、健全な経済活動はよろしいが、強欲・拝金思想は糾弾すべきことを、「学問的」見地から明らかにしようとすることを示唆している。この二つを判然と区別する「学問」などあるのだろうか。単なる倫理規範・社会規範ではないのか。そもそもこのような倫理規範は、日本という国に伝統的に備わってきていたといえよう。
教授の思考規範は分らぬでもない。長く欧米研究に嵌まってきたために、西洋的思考の枠組みでなければ、足もとの日本のことすらトンと見えなくなっているのであろう。西洋流の生硬(せいこう)な理屈を拵(こしら)えなければ自分自身が納得しかねるのであろう。
新解釈でも、それが教授オリジナルなら教授の功績と言える。ただしその解釈をスッキリ整理した上、西洋社会でこの用語の含意が広く定着しているという事実・実態の現状確認が前提になる。(大型の英英辞典で、「ratio」「reason」は、どう解説されているのか。どなたかフォローできますか?)
教授は今や目の肥えた読者(たち)によって頭の上から覘(のぞ)かれるポジションに長逗留しているように見えはしないか。
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