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別に思考停止していると思われてもかまいませんが、一応、返答しましょう。
>【「規律を大切にするという価値観」を持たない人の価値観が否定されることは「他人の価値観を否定する」ことにならないのですか?】
集団生活の中では、規律を大切にしない価値観は不適切だろうと思いますよ。
そのような価値観のある人は集団から離れるべきでしょう。
>【秩序を重んじる価値観とその秩序に従いたくないという価値観、どっちが優先されるべきか、考えてみました。結論から先に言うと、後者が優先されるべきです。】
ここは、主観の相違ですから議論しても平行論でしょう。
友人の結婚式の賛美歌不起立も是とするとの事ですから、結婚式に「呼んでくれた友人の立場とか、両親の立場とかは眼中にない」という事でしょう。
しかし、その場にいた友人は「自分の結婚式には呼べないな」と考える事は仕方がないでしょう。これは差別というよりは「経験からの学習能力」という事です。
>【規律はある程度は必要であると考える。だが、人によっては行き過ぎた規律と感じられるような「規律正しさ」というものもあるのであり、規律=善と単純には捉えられないと考える。】
仮に学校選択性になった時、卒業式も規律正しくできない学校には「自分の子供」を預ける気にはならないという人は相当数いるだろうと思います。
勤務時間中(労働対価報酬)の職務規律も保てない「学校」では、キチンとした躾ができるはずがないというイメージは大きいでしょう。
>【他人にこうあってほしいと思う価値観と、自分がこうありたいと思う価値観とは、性質が異なる。(少なくとも)個人の尊厳を最大の価値と認める社会においては、自分がこうありたいと思う価値観が、他人に対する希望を含む価値観の上位に置かれなければならないのである。】
もしかすると、この考察は正しいのかもしれませんね、日本という国が「個人の尊厳を最大の価値と認める社会」かどうかは、憲法解釈的にも拡大解釈だろうと思いますが、まあ、そのような社会があっても良いという意味において、とりあえず、この前提条件を受けて考察しましょう。
仮に「個人の良心の自由」が「集団の規律」より上位の位置を占めるとして、いきなり「集団の規律など糞くらえ」という事にはならないでしょう。
これは、仮に「集団の規律の重要度が下位にあるとしても、可能であるなら、集団の規律を無理に破壊することなく、是正策を考える」という事でしょう。
多分ですか、君が代不起立を結果的に行われた学校の「校長・教頭・学年主任などの責任のある立場の人は、上層部から厳重注意を受けるでしょう。」
場合によっては「ボーナスカット」などの実損まで受ける可能性もあります。
「そのような事は理不尽で狂っている」とKも思いますが、部下教員の「管理責任を問われるのが管理職、役職」なのです。
教師という職業をしていて、先輩教師、上司の教師などには、様々な部分でお世話になっているのだろうと思います。
「俺は誰の世話にもなっていない」という人もいるでしょうが、それは「気が付いていないだけ」だろうとも思います。
式典というケジメの行事を「ぶち壊れても良い」と協力しないと言う行動は「様々な犠牲を払っても行うだけの価値がある」とは思えません。
>【個人の思想の自由やその発露である表現の自由を、他の人の人権を侵害しているわけでもないのに弾圧してくるような国家は要らない、という立場です。国家による強制のうち思想の自由を侵してくるような強制については断固拒否します。】
ここは、強制の種類によります。
例えば「命令されれば人を殺せるか?」と言われれば、多くの人が「殺せない」でしょう。しかし「後ろから、殺せない時は、殺す」と銃を向けていられたらという場面もあるでしょう。
基本的には「強制」は行き過ぎでしょう。しかし、君が代不起立はKが子供の時には既にあった運動です。当時は純粋に「天皇制度に反対」というイデオロギーの運動だったとKは認識しています。一時は「君が代」は「仰げば尊し」に差し替えられていた学校も多かったと記憶しています。
ですから、ワヤクチャさんの意見とheartさんの意見は違うだろうと思います。
ワヤクチャさんの意見は「天皇制度」を意識したものでしょうし
heartさんの意見は「個人の自由」に振れているものでしょう。
「日本に共産主義を入れる」というのは「赤の運動」として、まず、受け入れられない種類の運動でしょう。「赤色分子」というのは「過激派」であり「秩序と日本文化を破壊するものだ」というイメージを団塊の世代以前には色濃くあります。
中核、核マル、赤軍、連合赤軍といった過激派は「市民の命より革命を重要としました」
これでは、市民の支持は得られなくて当然でしょう。
その運動の延長上にある「君が代不起立」は反政府運動だろうと思います。
少なくとも、多くの人は「そのような認識を持っている」だろうと思います。
たかが歌、されど歌、仮に歌が「君が代」でなくなれば「不起立」という運動は事実上消滅するだろうとKは思います。
ただし、右派からは「抗議がある」だろうと思います。
どこかで「協力できる事は協力しよう」という妥協点が必要でしょう。
この様に多分に個人の主観による事柄を決着させるには、最終的には「多数決によって決定する」のが妥当だろうと思います。
君が代不起立は多数派形成に有効か?
Kの主観ですが、これほど長期に行われていながら、ほとんど、多数派形成には成功していないと思われるから、有効度は低いと思われます。
少なくとも、石原都知事を落選させるくらいの広がりが必要ですが、少なくとも「君が代不起立だけ」では駄目でしょう。上映会とかメディア戦略に切り替えていくべきでしょう。もう十分に「実力行使」は行ったのですから、後は「その歴史を訴えて、気持ちを知ってもらう」人を増やし、賛同者を多くするべきだろうと考えます。
実力行使(君が代不起立という手法)は、話し合いの拒否という態度表明だろうと思っています。
まあ、もうどうでも良いや、処分されたいのなら好きに処分されてくださいという気持ちも少しあります。
一つだけ書いておきますが、本当にありがたいのは「嫌われることを覚悟して、注意してくれる人」です。「迎合して、後押しするような人に限って、いざとなったら知らぬ顔しています。」
君が代不起立に賛同の意を示すのは「簡単」です。
しかし、その結果として「処分されたら、本当の意味で困るのは、ご本人と家族」でしょう。
処分する現体制はおかしいのかもしれませんが、そこは、それこそ自民党が大敗でもしなければ変わらないでしょう。自民党が負けても民主党では変わらないかもしれません。
今、必要なのは「国の強制は規制すべきだ」という考え方を持つ人を多くする事であり、式典を妨害するかのような実力行使ではないと思います。