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(回答先: Kさんの方向性に賛成します。本当は公務員は市民を守る為に秩序より良心に従う義務があるのだが 投稿者 パルタ 日時 2007 年 1 月 23 日 00:22:54)
パルタさん、
>現在の国家権力が何を目論んでいるかをしっかりと考察すべきです。
同意します。
国旗・国歌法に関して次のような記述を見つけました。1999年のものです。
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この法制化が「新ガイドライン関連法」、「住民基本台帳法」「盗聴法」などと一緒に出てきていること、さらに、憲法改悪や教育基本法改悪さえ考えられていることを考えるならば、日本社会の進路(とくに新たな戦争準備)に関わる重大な問題である。今後、「日の丸・君が代」は、国家主義、軍国主義を推進しつつある体制に対する忠誠をはかる『踏み絵』の役割を果たすことになろう。闘わなければ我々は、身動きも、息をすることも出来なくなる。
「日の丸・君が代」強制反対一問一答集(案)http://homepage3.nifty.com/hinokimi/html/99/hinokimi.htm
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>>基本的には「強制」は行き過ぎでしょう。しかし、君が代不起立はKが子供の時には既にあった運動です。当時は純粋に「天皇制度に反対」というイデオロギーの運動だったとKは認識しています。一時は「君が代」は「仰げば尊し」に差し替えられていた学校も多かったと記憶しています。
>私の卒業した学校は「仰げば尊し」ですね。
私の卒業した学校は両方あったように思います。
>では言います。違います。国家権力が兵士を育てるための教育にしない為の運動なのです。
そういう面もあります。同意します。
>>たかが歌、されど歌、仮に歌が「君が代」でなくなれば「不起立」という運動は事実上消滅するだろうとKは思います。
>>ただし、右派からは「抗議がある」だろうと思います。
>あるでしょうね。
君が代でないと右翼は承服しないという意味のことをKさんはおっしゃっていたのですね。
一読した時にはわかりませんでした。
>多数決じゃ小渕と一緒でしょうが。
小渕と一緒かどうかわかりませんが、人事面などでの処分という形で強制が行われている現状において、それに抵抗する人というのは多数にはなりえません。
しかしそれでも抵抗している現場の教師たちを支援することくらいはすべきだと思っています。
また、現場の教師が別に何の抵抗(抵抗といっても単に歌わず、座るだけのことですから暴力的なものでは全くない)もしていなければ、まさちゃんさんもおっしゃっているように問題は表面化しなかったでしょうし、「現状追認」ということで、ファシズム化に対する歯止めは全くきかなくなっていたでしょう。
>>まあ、もうどうでも良いや、処分されたいのなら好きに処分されてくださいという気持ちも少しあります。
>ゲシュタボに合わせる気持ちが少しあると?
少しどころか大ありでしょうよ。
>>君が代不起立に賛同の意を示すのは「簡単」です。
>>しかし、その結果として「処分されたら、本当の意味で困るのは、ご本人と家族」でしょう。
>>処分する現体制はおかしいのかもしれませんが、そこは、それこそ自民党が大敗でもしなければ変わらないでしょう。自民党が負けても民主党では変わらないかもしれません。
>>今、必要なのは「国の強制は規制すべきだ」という考え方を持つ人を多くする事であり、式典を妨害するかのような実力行使ではないと思います。
>私もKさんの意見に賛成します。
なんでそうなるのか理解できません。
>一体、行動では強制にしたがっておいて、「強制は間違っている」と言ってもなかなか信用されませんね。
>ただでも教師への精神的圧迫が凄まじいのに、積極的に不服従運動を勧める事はできない。
>逆に、弾圧者に合わせて言行一致を行なっている人間になんで文句が言えようか?
>教師は生徒に嘘を教える訳にはいかない。
>裏表のある人間になってはならないと言いながら、自分がそれをやってみせてはいけないと思う。
そうです。
だからこそ、体で強制に従わず、不起立・不斉唱ということを教師たちはやっているのです。
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「なぜ私は君が代斉唱時に起立しなかったのか」 停職処分の教諭の声(日刊ベリタ)
(http://www.asyura2.com/07/senkyo29/msg/885.html)
(略)
1989年当時の文部省が学習指導要領に「日の丸・君が代」を持ち込んで以降その強制を年々強め、都教委は2003年、いわゆる10・23通達を出し、反対意見を処分で脅し封じ、徹底した「君が代」服従を教員に、そして教員を通して子どもたちに強いてきた。
教育は「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」を期し、「学問の自由を尊重して」行うべきものであって、教育行政が「不当な介入に服してはならない」と教育基本法は謳っている。教育として「日の丸・君が代」を取り扱うならば、学校・教員はこれらについて子どもたちが考え判断できるよう資料を提示し、学習する機会を作るとともに、その上で子どもたちが自らの意思で行為を選択することを保障しなければならない。それが軍国主義教育の反省から生れた、教育基本法の示す教育行為である。
然るに、都教委が強行する、子どもたちに一つの価値観を押し付ける「君が代斉唱」行為は非教育・反教育行為であり、教育基本法に違反する行為である。それは調教と呼ぶべきものである。そのような理不尽なことに、私は従えない。職務命令を濫発されても従わない。
それは、教育基本法を順守し、軍国主義、国家主義教育に加担しないと誓った私の教員としての職責であり、選択である。私は、私の生き方を子どもたちに示すことで教育に責任を持つ。
(略)
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>卒業式なんぞで日本が良くなるなどとは考えない。そこまで社会の歯車・制度は甘くない。
>しかし、処分されてはいけないのだ。
>処分者が出れば経済的に運動と運動員が困窮する。
困窮するのは「運動と運動員」ではなく、抵抗者らです。
それを支援するのが運動と運動員の役目でしょう。
>そこで、教師は生徒に「日の丸・君が代」の問題点を指摘し、立たなくて処分される人もいた事を挙げた上で、自分自身がどう考えるか考察を深めていって下さいと言って式典では取り合えず従うのはどうか。
言行不一致の奨励ですね。
それで生徒の理解が得られると思いますか?
本当の理解が得られると思いますか?
そうはいいながらも自分は立って歌っているじゃないか。別に反対するほどのことじゃないんじゃない?と軽く流されるのがオチでしょう。
>「市民には国家への不服従の立場がある事。秩序や規律が無条件に正しいのではなく、市民の生命を危険に晒す規律や秩序は廃絶する事が可能である」という立場の宣伝を常日頃行い、かつ式典では従う。これが良いのではないでしょうか。
「不服従の立場が昔ありました、しかし今はありません。その証拠に私も不服従はしていません。」
これでは理解が得られるわけがないのでは?
>ファッショ支配の中では自分の生活・生命を守る為には奴隷の言葉を使用する必要もあると思います。
>現在の学校支配のやり方がファッショである事は訴えていかねばなりません。
>しかし、すでに処分された仲間の教師を救援する為には自分が処分される訳にもいかないと思います。
仮に全員が処分の道を選んだら?
教委もさすがに困ると思いますよ。
親もさすがに何かがおかしいと気付くでしょうね。
もちろん生徒も。
>市民の生命は秩序や規律よりも重視せねばならない。
もちろんです。
また、抵抗している教師らは、「まだ命を取られるわけじゃないんだから」と闘っています。
それと、教師らは何も他人の命を奪おうというような物騒なことはやってませんからそこらへん誤解なきよう。
不起立・不斉唱と、教育委員会とかに対する言葉による抵抗をやっているだけです。
暴力的行為は全く行っていません。
むしろ教育委員会側の方が暴力的に教師らを排除しようとしているくらいでしょう。
>公務員は文部省通達や教育委員、校長からの命令に絶対服従する以上に、一人の市民として物事を考えるべきだがファシストに対しては処分されず、賢く立ち回りましょう。
そういうやり方も全く否定するわけではありません。
しかし、現に処分も覚悟で抵抗している教師らに、そんなことやめろよ、と言うのは、違うと思っています。
>卒業式だけでなく、日常でも監視が強まっています。思想統制が凄まじくなっています。>過激な行動は慎み、市民の賛同者を増やしましょう。
過激というその見方はどこから出てくるのですか?
K氏の流言飛語によるものですか?
なぜ不起立・不斉唱という程度のことが過激とみなされなければならないのですか?