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(回答先: 質問ですが「マルチチュードの概念は非常にヘーゲル的」とは? 投稿者 バルタン星人 日時 2005 年 3 月 22 日 09:37:20)
バルタン星人さん、お久しぶりです。
『帝国』はきちんと精読したわけではないので(現在柄谷の『トランスクリティーク』や竹田青嗣の『人間的自由の条件』を読みながら再読中です)、とりあえずの感想めいたものでしかありませんが、まず、ベルグソンを出したのは、たんにドゥルーズの師匠というだけでなく、随所にベルグソン/ドゥルーズ的な「生成」のイメージが出てくるからです。(汗)
次に、マルチチュードの概念がヘーゲル的というのは、「4-3 帝国にこうするマルチチュード」の項で、帝国の生成自体が必然的にマルチチュード的なものを生み出してしまう、という論旨が展開されているからです。
ヘーゲル弁証法は、たんに論理学の領域に収まるものではなく、歴史哲学、精神現象学の理念を含んでいます(というのは釈迦に説法でしょうが)。
ある種の目的論と言えるかも知れませんが、宇宙の自然史的過程は精神の正反合の(絶対知、絶対精神へ向かう)自己運動によって規定される、というのがヘーゲル流弁証法/歴史哲学の肝の1つと思いますが、ネグリ/ハートの帝国/マルチチュードの関係の背後にも、そうしたヘーゲル流歴史観、生成観が見て取れます。
ネグリ/ハートのいうマルチチュードは帝国に対抗するものですが、別の観点から見れば帝国を補完する(正/反)ものでもあるというわけで、われわれはその限界を知らなければならないと思います。
さらに、われわれは絶えずその次(合)を思い描かなければならないということです。
その先をどう思い描くか。
これもなかなか難しい問題ですが、ヘーゲル/スピノザ/マルクス/ベルグソン/ドゥルーズは彼らなりの答えを出していると思います。
『帝国』はその点で限界があるということもできますが、そこまで踏み込むことを目的としていないので、無理な注文でもありますが。