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(回答先: Re: 帝国を補完するものとしてんマルチチュード 投稿者 南青山 日時 2005 年 3 月 22 日 11:17:10)
南青山さん、レスありがとうございます。
「トラクリ」をお読みになっているとのことですが、私の手札はほとんどお見通しになるんで、以降のレスは気をつけます。(笑)
そういえばドゥルーズの実の兄はレジスタンスとして逮捕されアウシュビッツに送られる列車の中で死亡していますね。
>(というのは釈迦に説法でしょうが)。
いや「歴史哲学」と「小論理学」ぐらいしか読んでいないので辞退いたします。
>ある種の目的論と言えるかも知れませんが、宇宙の自然史的過程は精神の正反合の(絶対知、
>絶対精神へ向かう)自己運動によって規定される、というのがヘーゲル流弁証法/歴史哲学の肝
哲学というより「哲学史」という捉え返しですよね。「俺が出てきたからもう終りだ」っていう。
ネグリが「帝国」で書いていましたがヘーゲルが参照した「イギリスの経済学者」ってアダム・スミスでしょう。グッドなタイミングで別のところでも書いたのですが、ルカーチが「若きヘーゲル」でヘーゲルの著作に残されたアダム・スミスの痕跡を丹念に精査しているらしいという話を聞きました。つまり産業資本主義初期の資本の自己増殖運動=商品(貨幣)経済が古い共同体を解体、再編して行く凄まじい突破力を「絶対理念の自己運動」に重ね併せた、いわばヘーゲルを「ヘーゲル主義者」たらしめたフロイト的無意識の構造。あとその人格的体現者がナポレオンですかね。そもそもヘーゲルのいた時代、どころか、マルクスの時代になってもドイツに「市民社会」なんかなかったわけですから。(「トラクリ」での柄やんのモチーフははカントの実践理性批判を資本の運動(商品経済)批判として見ようする...っていうのはお節介でした)
>ネグリ/ハートのいうマルチチュードは帝国に対抗するものですが、別の観点から見れば帝国を補完
>する(正/反)ものでもあるというわけで、われわれはその限界を知らなければならないと思います。
いや、それだと「資本主義を最も否定するが故に最も肯定する」従前の「プロレタリアート」とおんなじになっちゃうわけですよ。
ネグリの「帝国」の第3部はかなりヌルイ話を延々と書いているとしか思えないのですが(それが致命的な欠点とは言いませんが)宇野弘蔵シンパと公言している、わたくし的にはウォーラーステインの「世界システム論」の方がはるかに胸に落ちますね。つまり、旧第三世界だと資本は共同体土地所有を解体して賃労働者を輩出せしめるけど、彼らはプロレタリアートではない、なぜなら「労働力再生産費用」に準ずる賃金など払われたためしがないわけです。宇野が「資本論50年」の座談で「相対的過剰人口がどうやってメシを食っているか原理論では解けない」と言っていますが、じゃどうやって食っているのか? かあちゃんは時々近所の手伝い、姉チャンは売春、弟はヤクの売人でしょ。彼らは資本が生み出しながらプロレタリアートとして回収され得ない、資本の外側に弾き飛ばされた人達=マルチチュードっていうのが私の理解です。(宇野の話を続けると「農民層の分解=農業の資本主義化まで行ったのはイギリスだけで、むしろ特殊だ」ということでしょう。)その構造が第一世界(旧宗主国)に逆流してきているわけです。
これはあっしらさんの「産業資本主義の終焉」論と関わるのですが、もはや資本を生産過程に再投入しても利潤は得られない、すでに「平準化」しているから。日本は移民の問題とかないからピンと来ないけど「年収300万で楽しく暮らせる」のはご当人だけで、その子どもはよっぽど優秀じゃない限り年収100万の仕事にしかつけないという縮小再生産、もはや社会保険付の終身雇用などありえない、親が援助できなくなったら終りということでしょう。あっしらさんの論だと資本は本来の「高利貸し資本」に戻って「国民国家」を担保に国民を人質に取るというネグリと正反対の話だったと思いましたが。
>さらに、われわれは絶えずその次(合)を思い描かなければならないということです。
資本が破壊し打擲した「生産」を再組織して繋げ併せていく.....ネグリは「労働は我々の権利だ」というのはそういう意味で良くわかるんですが「非物質的労働」とか「ネットワーク」とか良くわかりませんね。
あと柄やんはトラクリで「資本と国家は位相が異なる」といっていますが要は「幻想域しての国家」っていう視点がネグリにはまるで無い。あと「非ヨーロッパ世界への眼差し」もそうですね。まぁ、おもねるわけではないですが、私は南青山さん以上に吉本隆明にこだわっているつもりですけど。(笑)