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(回答先: Re: 『自由の新たな空間』から先へ進んでいない? 投稿者 南青山 日時 2005 年 3 月 23 日 14:36:11)
南青山さん どうもです。
ちょっと受け狙いのサブジェクトにしてみました。(笑)
話しを『帝国』に振り直すと、南青山さんはご存じでしょうが『帝国をめぐる5つの講義』という911以降にネグリが『帝国』の自ら「ガイドブック」と称して出版した講義録があります。まぁ300ページの大著をペラペラめくって理解してしまうエスパー君には不要な本ですが我々「凡人」にはネグリの立ち位置を知る上では手っ取り早いかもしれません。(一言多いか 笑)
特に冒頭の『帝国』に批判的なダニーロ・ゾーロ教授との対論は非常に面白いんですが、少し拾って見ると
自らを「労働者マルクス主義とフーコーのポスト構造主義の交配」だと言っていますね。この辺がネグリのラテン的というか図々しいところで「まったく良く言うよ、ぬけぬけと」。労働党左派からアナアキストに至るヨーロッパの左翼は「(デリダも死んで)フランスのフニャフニャしたヤツ(ポストモダン)が終わったと思ったら、今度はイタリヤ野郎か!」っていう感じじゃないでしょうか。私なんかはポストモダンの底意地の悪いテキストには免疫がありますが、いわゆる正統社会科学的は分析論を期待して読むとひきつけを起こしてあらぬ事を口走るというのは理解できます(二言多かったかな)
で、911に関しては「ツインタワーを破壊したのは中東の石油権益を守るために雇われた傭兵の「指揮官」たちである、彼らはマルチチュードとはなんの関係もない」と言っていますね。非常に唐突な文脈で出てくるので意を取りにくいのですが権力内部の「内戦」と把握しているようです。
あとメンタリティ的には「カソリック的普遍主義(社会正義、友愛)、コスモポリタニズム」ですね。国民国家についてもドレスデン爆撃やアウシュビッツの例を挙げて「とにかくあんな野蛮なものに何故執着するんだ、さっさと無くなったほうがいいんだ」という感じで実にあっけらからんとしています。去年ネグリと面談した人から聞いたんですがルネッサンスを絶賛しているそうです。「ルネッサンスまでのヨーロッパ近代はすばらしいんだ」とか。(苦笑)だからハイデガー=>デリダの流れの「ヨーロッパ形而上学の解体」というような志向というか屈折した所はまるでないんじゃないでしょうか。ついでに(最近スピヴァグの『デリダ論』が平凡社からでて、ある意味懐かしく読んだんですが、)スピヴァグは「第三世界=他者と言う図式は他我同一化だ」と言ってデリダやドゥルーズをブッタ斬っていましたが、ポストコロニアル批判という文脈だとネグリも斬られて当然?
あとヘーゲルの話を追加するとネグリ自身はヘーゲルというか弁証法自体を否定しているから自分が如何に線形歴史観から無縁であるか強調してますね。「帝国は斯くあるが、ありえなかったかもしれない」とか言って。もちろんヘーゲルに限らず「人は意識していないが、そうする」っていうのは前レスで書いたとおりです。
南青山さんはレガシーとおっしゃいましたがレガシーもレガシーそれもあっけらからんとしたレガシーですね。ですから深読みすると訳判らなくなるかもしれません。そのへんがポストモダン的決定不全に飽き飽きしていたり、その辺の経緯と無縁な世代に熱狂的に支持されたというのもあるかもしれません。
ただ、ゾーロも指摘しているけど恐ろしく粒度の粗い話してますよね 、ちょっとあのまま担げる神輿にはなりえないと思う。私は「ネーション・ステート・資本の三位一体構造」論も十全とは思いませんが柄やんとすれば「とても見ていられない」という感じじゃないでしょうか。
その辺で付け加えると訳者も触れているネグリ「再領有」に関わる話しですが、剰余価値の概念が物凄く実体論的なんじゃないかという気がします。『トラクリ』承前ではしょりますが、剰余価値はある不可視のシステムを通じて実現されるわけで、「価値」そのものが「非物質的労働」「物質的労働」(というカテゴライズも要検証ですが)を含めた商品の示差的な体系の中にしかないわけですから。その辺はネグリが何故『資本論』じゃなくって『グリンドリッセ』なのかずっと引っかかっていますけど(『マルクスを超えるマルクス』)パソコンとネットワークで価値創造っていうのは「宇野シンパ」の頭では理解不能です。(ちなみにうちにある『資本論』は鈴木鴻一郎訳です)
『帝国』は「とにかく出版する」という差し迫った?事情があるので、ゾーロからマルチチュード概念の不明瞭さを舌鋒鋭く批判されると「それついてはもっともだ、喜んで自己批判する」と言っているんで「おろ?」ってなっちゃいました。(笑)
次著『Mulutitude』は既に出ていますが邦訳はどうなんでしょうか
最近うちの近くの大型書店にも哲学書のコーナーが出来て「おやっ」と思うような本が置いてあるようになりました。カントの三大批判書は『帝国』を出した以文社から新訳が出て正月休みに読みました。『トラクリ』のせいかはともかく柄やん的にいうと「もはや戦前である」、1930年代的思想状況になってきたんじゃないでしょうか。あらゆる自明性がボロボロになって「『存在』とは何かという事実存在への問いをあからさまに反復」(ハイデガー)せざるを得ないとすれば、喜ぶべき事かどうか悩みますね。