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(回答先: コンクラーベ:超巨大カルトの首領=教皇選出の鍵【第1部:「ミスター冷戦」の後】 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 4 月 11 日 23:04:44)
コンクラーベ:超巨大カルトの首領=教皇選出の鍵【第2部:オプス・デイの正体】
●今からの話は一見バチカンの後継者のテーマとは無関係なように思えるでしょうが、しかし今までバチカン中枢部を握ってきたオプス・デイの本当の姿を見極めてもらうためには、極めて重要なことだと思いますので、理解していただきたいと思います。
私はスペインに住んでいるせいもあって、1936年に始まる内戦から1975年のフランコの死、そして現在に至るまでのこの国の現代史をいろんな角度から見てきました。そして奇妙な「不整合」に出会いました。この点について詳しくは雑誌『真相の深層』誌第3号にある「聖なるマフィア オプス・デイの素顔を暴く:第1部 スペイン現代史の不整合面」をお読みいただきたいのですが、フランコの死からわずか3年間で、一発の銃声を聞くことも無く、法律を次々と変えていくだけで独裁制から立憲君主制の民主体制へ変換していったのです。
その際にまさに「超人的」な働きをしたのが現国王フアン・カルロス1世とアドルフォ・スアレスなのですが、その以前に独裁体制の解体を主張する「体制内変革派」の代表者にラファエル・カルボ・セレルという人物がいます。彼はいまだ非合法で地下活動中の共産党が主導する反体制組織「民主評議会」に参加することすらしました。もちろんスペイン中で60年代後半から、非合法の労働運動や学生運動、民族主義者による反独裁運動が徐々に活発化していました。
1973年12月にフランシスコ・フランコの最大の後継者と見なされ実質的にスペインを運営していたカレロ・ブランコ(オプス・デイ)がETAの爆弾によって暗殺された事件は、高齢と病気で統率力を失いつつあったフランコにとっては救いようの無い痛手でした。もはや独裁体制を維持するだけの実力を持った政治家がいなくなったのです。
1975年11月にフランコは病死し、直ちにフアン・カルロス1世が国王として国家元首に就任したのですが、首相を務めたアリエス・ナバロを半年ほどで解任し、無名の青年国民運動(ファランヘ)党員アドルフォ・スアレスを首相に任命しました。以後、国王とスアレスのコンビは、あれよあれよと言う間に目を見張るような改革を次々と実行に移します。
スアレスは地下活動中だった社会労働者党のフェリペ・ゴンサレスと直接に秘密会談を持ち、パリに亡命中のサンチアゴ・カリリョ共産党委員長に密使を派遣して、民主化へ協力を取り付けました。一方フアン・カルロス国王は腹心のフェルナンデス・ミランダを使って保守派や軍部に徹底的な根回しをし、フランコの死後1年で政治改革法案を国民の圧倒的支持で成立させました。引き続いてすべての労働組合活動の承認や社会労働者党と共産党の合法化、公安裁判所の廃止など、瞬く間に民主化・自由化が進み、77年には第1回総選挙(スアレスの民主中道連合が第1党)、そして78年に新憲法が公布され、フアン・カルロスは象徴として政治の表舞台から退きます。
その後1982年の総選挙で以後14年間続くゴンサレス政権が始まるわけですが、その最大のきっかけになったのが1981年に起こった「クーデター未遂事件」です。アントニオ・テヘロ中佐が国会議事堂を武装占拠したのですが、国王は間髪いれずにTVで国民に冷静を呼びかけて反乱軍の投降を命じ、その後、アルフォンソ・アルマダ将軍など数名が首謀者として逮捕されました。さらにこの事件の「実行犯」テヘロが獄中から総選挙に立候補したことで、独裁政治の亡霊におびえた国民の警戒心が爆発して社労党の圧勝を導いたのです。そしてゴンサレス左翼政権によって独裁体制の名残は次々と取り払われていきました。
と、まあ、これで「メデタシ、メデタシ」となるところなのですが・・・、何か奇妙なのです。特に「クーデター未遂事件」で逮捕されたアルマダ将軍は国王と親密な仲で、当時スペイン国内でも国王に対する疑惑の声が上がったようです。また、フアン・カルロス国王がいくら有能な国家元首だとは言え、独裁を支えた保守政治家も官僚も軍も、特に政治・経済・宗教・教育の中心を担っていたオプス・デイまでが、ほとんど大した反抗もせず何の社会的混乱も起こさずに、また共和制樹立を目指して地下活動を続けていた社労党と共産党もこの国王とスアレスによる改革に対する反対をほとんど示すこと無しに、法的な操作を次々と行うだけで、実に整然と、国全体がまるでスルリと着物を着替えるように別の体制に入れ替わってしまったのです。
こんなことってアリかな?とずっと疑問に思ってきました。同じくサラザールの独裁政治に悩んできた隣国ポルトガルが、1974年の左翼的軍人によるクーデターの後、長い間政治的・経済的混乱を避けることが出来なかったのとは大変な違いなのです。しかも1981年の成功するはずもない「クーデター未遂」は、あたかもゴンサレス左翼政権を準備するかのように行われた・・・。
スペインでも日本でも、歴史学者は様々にこの劇的な大変化を「解釈」しようとしているのですが、どれも単に起こった出来事を順番に説明しているに過ぎず、権力を握る集団が自ら進んでその力を捨てるかのような不思議さには誰一人触れません。ましてフランコの後継者として育てられたはずの国王フアン・カルロス(3年間の改革の後で彗星のように政治の表舞台から去る)と政治経験のほとんど無いスアレスが、どうしてそこまで強大で極めてソフィスティケートされた政治力を発揮でき、これほどの大改革をまるで水が流れるようにやってのけることが出来たのか、筋の通った論理を展開できる歴史家は誰一人いません。
私が2年ほど前にようやくインターネットに接続して以来、このスペイン現代史について数多くのスペイン語と英語の資料を比較・検討していくうちに、先ほどから名前を挙げてきたフアン・カルロス1世、アドルフォ・スアレス、カルボ・セレル、フェルナンデス・ミランダ、アルフォンソ・アルマダといった人物を結び付けるとんでもない重要な要素を発見しました。それがオプス・デイなのです。これは私にとっては驚愕でした。いま挙げたスペイン民主化の「功労者たち」は全員がこの教団の重要な関係者だったのです。(この点については、念のためにレス欄でその資料を挙げておきます。ただし多くがスペイン語でほとんどの人には参考にならないかもしれませんが。)
つまりこういうことです。スペイン内戦に勝利した1939年以来、フランコ軍事独裁を支え、カレロ・ブランコやロペス・ロドを軸にして「スペインの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を実現して独裁を延命させ、政治・経済・報道・教育・宗教のあらゆる分野で事実上の絶対権力者となっていたオプス・デイこそが、その独裁政治を終了させて民主化と自由化を成し遂げ、さらにはゴンサレス左翼政権を誕生させて独裁の名残をかき消していった、その張本人だった、ということなのです。(なお、社会労働者党内にはオプス・デイの関係者はいないようです。)
そしてこの点については、スペインでは「右」にとっても「左」にとってもタブーとなっています。必然的に外国の歴史学者は何も知らないし、知るチャンスはいくらでもあるのに知ろうともしません。歴史学などしょせんはこの程度のものです。
ちょうどそれと同じ頃に、オプス・デイはCIAと共に中南米で左翼政権を打倒して軍事独裁政権誕生に力を尽くしていたわけですから(チリ:ピノチェット政権1973年、アルゼンチン:ビデラ政権1976年、ニカラグア:コントラの侵攻開始1983年、等)、ずいぶんと奇妙に聞こえるかもしれません。
これは、オプス・デイが「冷戦構造」と「共産主義の敗北によるその解消」を演出した勢力の重要なメンバー、と受け取ることによってのみ、納得がいくことです。欧州で反共独裁政治が続くことは、「西側」勢力にとってもオプス・デイのとっても、逆に危険なことでありスペインを民主化して欧州統一に組み込むことの方が重要だったのです。
そしてスペインに新憲法が生まれた1978年にバチカンではオプス・デイの傀儡ヨハネ・パウロ2世が誕生しました。あとは前回の私の投稿『「使命」を終えたヨハネ・パウロ2世』で申し上げたとおりです。
スペイン国内ではオプス・デイは「戦術的後退」を行いました。一見すると彼らは表舞台から消えてしまったかのように見えるのですが、経済界・官界・宗教界に根を張ったこの教団はむしろその後に着実な成長を遂げます。実を言うと初めから彼らの本体は「右」の手も「左」の手も使い分ける「舞台裏の演出家」集団の一部であり、この教団を単に「反共右派カトリック集団」などと見ているととんでもない見間違いをしてしまうでしょう。彼らは必要ならば「戦術的後退」を迷わずに選びます。
そしてこれがこの超巨大カルトの正体なのです。オプス・デイばかりでなく、バチカンそのものが持っている本質的な姿です。
●またこれは阿修羅で何度か投稿していることなのですが、スペインの独裁政権終了の合図を告げたETAによるカレロ・ブランコの暗殺(1973年:チリのピノチェットによるクーデターと同年)は、裏でCIAがETAを操って起こしたものである、という元スペイン諜報員からの報告があります。同時にETAが英国(MI6)とつながりがあるという資料もあります。その上に私はフランスの諜報部との関係も疑っています。
オプス・デイの創始者エスクリバー・デ・バラゲーの盟友でありスペインでのこの教団最大の庇護者カレロ・ブランコの暗殺は、教団に対するCIAの攻撃でしょうか。それともオプス・デイ自らが進んで彼を生贄にしたのでしょうか。私は、その前後の展開から考えて、間違いなく後者だと見ます。
教団最大のイデオローグであるカルボ・セレルは、1942年にフアン・カルロス国王の父親ドン・フアン・デ・ボルボンと秘密会談を行い、フランコ独裁開始の初期から「その後」のデザインをしていたのです。そして幼いフアン・カルロス王子はオプス・デイの養育係と家庭教師によって育てられました。
そのカルボ・セレルがフランコ体制内の「左派」として言論を通して独裁制の改革を叫び、フアン・カルロスはわずか3年の間で恐るべき政治力を発揮して「民主化」を成し遂げました。(というより、この教団の本体がスペイン支部に命じて、成し遂げさせました。)これがこの教団の底力なのです。その過程で、中南米で力を貸していたCIAの手を借りたのでしょう。
なお、当時のCIA長官はカトリック教徒で米国国内ではオプス・デイとの強い関係を噂されているウイリアム・コルビーです。そして1976年にその跡を継いだのがジョージ・ブッシュ父で、中南米での謀略を通した彼とこの教団との付き合いは決して浅いものではありません。故ヨハネ・パウロ2世の葬儀に彼が出席したのは単なる元国家元首としての礼儀だけではないでしょう。
これに関連して、阿修羅で何度か投稿させてもらいましたが、オプス・デイの誕生と創成期にも、通説には大きな不整合があります。次を参照してください。
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http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/378.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 4 月 09 日 06:13:37
ありがとうございます。少しずつ「ミッシング・リング」がつながり始めました
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通説では、ホセ・マリア・エスクリバー・デ・バラゲーがオプス・デイを作ったのが1929年で、一般的にはスペイン内戦で勢力を伸ばしフランコ政権の中で実力をつけた、と言われているのですが、これはとんでもない間違いです。彼らはその初期から支配者の一群として育ったのですが、このようなこの教団の素顔をまともに追及しようとする歴史学者がほとんどいないのはどういうわけなのでしょうか。
私はよく左翼勢力のことを悪く言うのですが、確かに左翼勢力は命をかけてフランコ独裁やピノチェットやビデラの軍事独裁と戦い続けました。しかしその「自分たちがファシズムと戦ってきた」という思いが強いだけに、その主観から逃れることが出来ず、敵の本当の姿を冷静に見つめることができない、それが私にはくやしい、無念なのです。
まして本当に戦ってもいないのに先人の口先だけを真似して「左翼面」をする輩は、私にとっては絶対に許せないのです。そんな連中は単に支配者の「左手」として利用されるだけでしょう。