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割と民族的・種族的な差別がない地方で育った。
海外からの出稼ぎ者が多く、同級生には在日韓国人・中国残留孤児だった人の子供・ブラジル人・ロシア系・アイヌがいて、彼らのことを例えば「在日だから」と差別するなら、周りから「あいつは差別意識丸出しのいやなやつ」と逆に蔑まれたことだろう。
そんななか、一人だけ差別意識を丸出しにしている人間がいた。
俺の祖父だ。
京都府の舞鶴市出身で、青春の真ん中を海軍学校で過ごし、特攻で乗るはずだった船が沈んで命拾いして、逃げるように北の大地を踏んだ人物だ。
祖母の話だと、戦後の彼はまるっきり抜け殻で、見合いで一緒になった祖母が豆腐店を切り盛りしてなんとか家族を養った。あとづてに聞いたところでは、そういう人間は「特攻崩れ」と呼ばれていたらしい。
まあ、そんなふうにアイデンティティを戦争で喪失した祖父が何故か「日本人」ということに異様な誇りを持って、他のアジア民族を憎むように蔑視していた。
小さい頃はよく分からなかったが、小学校高学年になっていくと明らかに分かってきた。
親友のキムキム(キム・チョルスくん、在日2世)が遊びにくると、よそでは聞いたようなことのないような言葉で、祖父が悪態をつくのを聞いた。まるで、キムに聞こえるように何度も。執拗に。
キムキムといっしょに他の友達のうちに行くこともあるが、そんなふうにキムに接する老人はうちの祖父くらいだ。よそのうちの祖父母は、俺もキムも友達も、分け隔てなく接してくれる。
「なんでうちのじいちゃんはキムに対してあんな態度をとるんだろう・・・俺は恥ずかしい」
キムの所作の中からほんの小さな違いを探して、祖父は蔑んだ。学校でも、そんなことを言って他人のあら捜しをする人はいない。
差別は少ないが、経済状態や住んでいる地域による「違い」は確かにあった。そこでは、働き者の両親がコツコツと一等地で立派なうちを立てたキム一家より、うちのような商売に向かない人間の寄せ集めでボロ家に住んでいるうちのほうが「差別される」境遇にあったと言っても過言でない。
日本人でいることなど、何の誇りにもならないように思っていたのに、この祖父の居丈高さはなんだ?俺は疑問だった。
そして、ある日キムに対して「チョン」と口にした祖父に、従順だった俺はとうとう切れた。
「やめろ・・・っ!」
テレビをぶん投げたような気がするが、頭に血が上っていてあまり記憶が定かでない。
それ以来、祖父はあまり差別語を口に出さなくはなったが、底にある意識は変わっていないようだった。
俺が中学のとき、九州から祖父の兄が遊びに来た。
北朝鮮からの引揚者で、北朝鮮で妻と子供を亡くした。故郷に戻る途中で、夫が戦死したうちに後添いに入って、そのまま九州にいついたのだ。
家庭を支え、血の繋がらない子供を立派に育て、子供たちに慕われていた。(大伯父が亡くなった今も大伯父の義理の息子である人から、みかんを送ってもらっている。)
祖父と大伯父がいっしょに酒を飲みながらテレビを見ていたとき、従軍慰安婦のニュースをやっていて、祖父が何気なしに、笑い話で、
「こういうのは金目当てでやってるんだよ、浅ましい」といったことを口にしたとたん、大伯父の顔色が変わった。
「おまえ、おまえは本土にずっといたから分からないだろうけど、
向こうじゃ朝鮮人でも日本人でも、助け合って仲良くやってたよ。
俺が家族を亡くして、ずっとあっち(北朝鮮)にいるつもりだったときも、朝鮮の人が励まして、密航船に乗せてくれた。
故郷に帰れないのはよくないよ、そう言って、命がけで帰してくれたんだぞ。
見つかったら、その人たちが銃殺されていたのに。
そうやって向こうの人に助けられた日本人がたくさんいるのに、日本人はそんなに簡単にその恩や自分たちがやったことを忘れていいのかね。」
少し抑えたくぐもった声で、しかしゆっくりと怒りを抑えながらのように話した。
祖父は真っ赤な顔をうなだれていた。
俺にはその大伯父の言葉が立派に思え、
大柄な祖父が小さく見えた。
差別することは恥ずかしい。
公正なことは立派だ。
今も俺にはそういう意識がある。
だから、差別意識丸出しで「なんでこれが差別なんですか」と言っている人物に会うと、パンツ丸出しで気づいてない人を見ているようで当惑するのだ。
投稿者:DoX at 23:10