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(回答先: キリスト教徒はその信仰対象を理解しているか? 投稿者 アンチキリスト666 日時 2004 年 11 月 09 日 09:22:11)
>イエスはユダヤ教の教義からは相当違う物を説いている。
残念ながら、同じです。
>「汝の敵を愛し、己を糾弾する者の為に祈れ」
「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)
>「全きな存在となれ。天の父が全きがごとく」
「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19:2)
>旧約の神が一度でも自分の敵を愛した事があったか?そんなエピソードは何処にもない。
これを理解するには、小室直樹氏の「日本人のための宗教原論」(徳間書店)が理解する助けになると思います。
(引用開始)
つまり、日本人は、神は人間の僕だと思っている節があるのである。
根本的な感じ方からいうと、日本にはまず人間が先にありき。そして、人間の役に立つ神様、つまり御利益を授けてくれる神様がよい神様、役に立たない神様は悪い神様なのである。
ところが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの啓典宗教においては、まず初めに神が厳然として、ある。そして神は天と地との間にあるすべてのものを創造し、すべての法則も是非善悪も創造した。勿論、すべての人間は神様がつくりたもうた。つまり、人間は神の被造物であり、生かそうとも殺そうとも神の意志のまま。これはパウロに言わせると、壷造りと壷のような関係ということだ。気に入らないとなれば、叩き割ってしまっても誰も文句などいえない。
(引用終了 p106)
補足として、パウロの手紙から、
(引用開始)
「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。
では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、
「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
(ローマ9:13-14)
ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つは貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
(ローマ9:19-21)
(引用終了 聖書 新共同訳より)