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(回答先: 聖書のうわべしか見ていないきみへ。ただ読んでいるだけの者より。 投稿者 アンチキリスト666 日時 2004 年 11 月 10 日 16:08:11)
アンチキリスト666さん、こんにちは、横レスにて失礼します。
最近、全く聖書に触れていない私が申し上げるのは少々気が引けるのですが、もう少し包括的な展開をしていただければと思っています。このままではアンチキリスト666さんの思索ノートないしは思考の断片を備忘録的にその都度貼り付けられているようにも見受けられ、どの様に応答すべきか戸惑いを禁じ得ません。けれども、昼休み板は雑談板や議論板とはまた違った使い勝手があるものと見ていますので、こちらへの投稿については何も申し上げることはありません。
先ず、私が聖書に触れようとしないのには理由があります。本源的に聖書は所謂(証明の中に証明すべき事柄を論拠として含む)循環論法の権化のようなものですし、しかも外延領域の特定不能性は明白でしょう。これは元来論証するに値しない対象です。つまり、信徒にとっては信心の対象なのですが、信徒であらぬ者にとっての認識の対象にはなり得ません。学部時代に日本でも権威あるキリスト教の学者による聖書講義を受けたものの、前記の事由に纏わる不信感は払拭できずに今日に至っています。おそらく如何様に尋ねようとも、神学者が自ら循環論法的である事実を認めて弁明するようなことは望むべくもないでしょう。
ところで、宗教の目的について考察する場合の視座は、アンチキリスト666さんと私との間にそれほどの差異はないだろうと考えています。私は宗教を文化的な見地で捉える時代は既に終わっていると見、したがって現時点では宗教というよりも厳密には「宗教システム」と呼ぶ方が的確ではないかと思っています。
無論、宗教が(宗教)システムであったのは今に始まったことではありません。アンチキリスト666さんが聖書の字句を逐語的に精査されていることからも聖書の編纂過程において幾重にも政治的プロットが働いたことは容易に推察が可能でしょう。宗教の概容は政治的システムであり、実体的には教団を形成し教団を運営していくための規則を含む社会システムと云うこともできるでしょう。本来誰の指令によるかは関係なく、教義はシステム運営にかかわる規範であり、内実は頗る世俗的・現実的なものです。さらに宗教システムに特徴的なことは、規範を保障する根拠となるのが、例えば聖書に代表される物語(神話)の類いです。
学生時代、信仰心の自覚なきまま、しかし何故か宗教に興味を持ち五指に余る団体に関係していたことがあります。集会では静かな祈りや人を寄せ付けないような激しい祈りや全くご利益ばかりを求める祈りがありました。信徒にとっては教典に記述されていることの真偽などはどうでもよいことのようでした。しかし、教典や導師の言葉に遵って祈りを捧げる有り様には、信徒でない私にとっては違和感が昂じて拒絶症状にも達する状態を惹起するものもありました。単に多くの人達が思考停止の状態にされたといったものではなく、それ以上のおぞましい空気が会場を支配していた記憶が蘇って来ます。
宗教システムの運用者はシステムの管理や維持のために信徒の信仰心を利用しようすることに腐心しても、信徒の信仰心の純粋性や直情性を真摯に受け留めようとしているようには見えませんでした。一方、信徒の方も己の信仰心に疑いをはさむことを飽くまでも拒否し、宗教システムと己の信仰心との乖離やシステムの運用者への疑念など思い浮べることすらないようでした。
彼等信者との教典を題材にした対話はいつも平行線を辿りました。私が接した限りでは、宗派を問わずキリスト教においても、S学会においても同様な結末になりました。最悪なのはシステムの運用者に近い幹部連中の不遜極まりない態度です。彼等には一様に、信じる者に限って助けてあげるといった心根が透けて見えたものです。
この点を一つとっても、愛すべき相手が敵でも隣人でもなく、イエスやその教えに所縁がある人間達に限定されていたというアンチキリスト666さんの指摘は十分肯けるものです。
しかしながら、何時己の信仰心が刺激されるかは不明ですし、そのときにどんな処し方になるかは不透明だと思います。それはアンチキリスト666さんにとっても私にとっても云えることではないでしょうか。アンチキリスト666さんによる聖書に関する考察がどこに行き着くのか、予測がつきません。また、いつ何時、或る宗教への専心という誘いが心の隙間に入り込んで来るか分かりません。失恋や離婚や肉親との別離等を契機に、それまでの信念を翻して信仰の道に入っていった人達は私の周囲にも多く見かけました。
宗教システムは信徒にたいし思考停止もしくは判断停止を直接的・間接的に要請しますが、それを信徒自身が能動的に受け入れてしまったとき、他者の介入を許さない強固な関係が生じます。そこに至ると最早教典自体に潜む矛盾や現実との齟齬は信徒にとって全く問題にはならないと想われます。
アンチキリスト666さんにおきましては、ミイラ取りがミイラにならぬように、くれぐれも気をつけて下さい。因みに私が境界を踏み越えることがなかったのは、信仰に救いを求めざるを得ないような契機に巡り会わなかったことや、宗教の教義にたいする興味よりも人間が信仰心を持つのは何故かといった心理学的な疑問へと関心が移っていったためだと思っています。
気概に反して私の方も断片的な記述になってしまいました。ご不明な点もあろうかと想像し、心苦しいのですが、ご容赦のほどをよろしくお願い申し上げます。加えて、近い将来、昼休み板での思索の成果を纏まったスレッドとして、雑談板もしくは議論板に立てていただきたく希望しています。
また、会いましょう。