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(回答先: 「南京虐殺」と真実の検証 投稿者 baka 日時 2004 年 8 月 07 日 15:04:19)
bakaさん、どうもです。
「南京虐殺」ではなく、私にいただいた挨拶部分へのレスです。
>「どのように受けとめられているのか、どこがわかりにくいところなのかがほとんど
>見えないので苦慮しています(笑)。」とのことですが、夏ばてと、日本官僚人種
>(企業、諸団体の連中を含む)と動力学の実態に漸く気付き始めたbakaのバカバカし
>さにも似た絶望の観点では、あっしらサン、もっと簡潔明瞭に結論から書いてチョ、
>と云いたい今日この頃です。
私も、一頃に較べればましになったとはいえやっぱり暑い日々で思考怠惰になっています。
「簡潔明瞭に」説明したいと思っていますが、私自身の能力問題はさておき、そうすると、どうしても抽象的なレベルになってしまい具体的なイメージ形成にはつながらないと思ってあれやこれやをネタに長々と書いています。
概念や論理は、頭のなかで具体的なイメージが描けるようになって初めて理解したと言えると思っています。
概念や論理を言葉で考えるのではなく、具体的で動態的なイメージとして構築し、そのイメージを見ながら言葉にするひとが一人でも増えてくれればいいなあと思いながら書いています。(“夢見”と同じような思考です)
「近代経済システム」の基本像=世界観を持てば、学問的概念(用語)を忘れても、自分の言葉で経済論理を説明できるようになります。
今回のシリーズの要点は、生産手段の高度化(固定資本の質量的増大)が生産性の上昇の源泉であり、生産性上昇が輸出増加・インフレ・給与引き上げなどによって滑らかに利益の増加につながることで産業資本は増殖を続け、勤労者の生活も向上してきたというものです。
ですから、「産業資本主義」の終焉は、固定資本の質量的増大が産業資本の増殖に結びつかない経済状況に立ち至ることを意味します。(個々の企業という視点ではなく、産業全体の資本増殖が問題です)
※ これが簡潔明瞭な説明になります。これだけのことを、いろんなことを素材にあれこれ説明してきたのが今回のシリーズです。
「「産業資本主義」の終焉シリーズ」は、価値観が違っていても共通の現実基盤である「近代経済」がどのような論理で動いているかを知る(考える)ことを目的として書いています。
経済論理は共通であっても、それを知ってどう対処する(活かす)かは価値観次第です。
経済論理がこうだからといって、行うべき政策が自動的に導き出されるわけではありません。経済論理を踏まえてどうしたいかやどうすべきかは、ひとり一人が選択することです。
“彼ら”は、私が説明した論理をほとんど知った上で、グローバリズムや自由主義経済政策を推進しています。
ざっくばらんに言えば、嘘の説明で人々を騙して自分たちの価値観や政策の妥当性を信じさせ、隠している目的を実現しようとしています。
“彼ら”は、既に、歴史的経済論理を踏まえ自分たちに有利な政策(手法)を選択しているわけです。
価値観に基づく選択を善悪で評価してもあまり意味はありません。
意味があるのは、提示されたり現実化されている政策や価値観が自分にとって利益かどうかの判断であり、不利益だと思うなら異なる政策や価値観を提示し多数派を形成することです。
経済的痛みは我慢して耐えるしかない、公的負担が増大するのも仕方がない、年金が切り捨てられるのもやむをえない、労働時間が増えるのもしょうがない(欧州でも週35時間から週40時間への動きが加速しています)と思う人が多数なら、“彼ら”のプロパガンダ(言説)が優っているということです。
西欧諸国や韓国ではけっこう多くの勤労者がそのような動きに反対していますが、“既得権益”にしがみつく身勝手な運動で財政を困難に陥れたり企業の競争力を削ぐ国益にも反すると考える人もいて多数派にはなっていません。
これは、不利な条件にあることは承知していますが、言説において“彼ら”や支配層より劣っているということです。
あれこれ長々と書いているのは、“彼ら”やカスの日本支配層に言説で負けないひとが一人でも増えて欲しいと思っているからです。
投稿を読んだことをきっかけにいろいろ考えてもらって頭のなかに「近代世界像」を結んでもらうことが目的で、結論はどうでもいいと思っています。