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「クズ」の考察B_訪ねる「吉野国樔」 ←「読解力ゼロのクズ」と言う前に日本文化を顧みる
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/1014.html
投稿者 傍らで観る者 日時 2004 年 11 月 21 日 22:35:33:ayjHlPlEsGXTU
 

(回答先: 「クズ」の考察A_読む「吉野葛」 ←「読解力ゼロのクズ」と言う前に日本文化を顧みる 投稿者 傍らで観る者 日時 2004 年 11 月 21 日 22:32:13)

2チャンネルやネット掲示板で多用されている「クズ」について多角的に再考したく、3番目に、『延喜式』に登場する古代・吉野地方の部族「吉野国樔」の歴史を探訪します。


引用: 坂東千年王国 掲示板・過去ログ6

178 尾のある人 投稿者:HON 投稿日:11月6日(水)20時23分03秒

悠久の始原―新編天武天皇の大陰謀 序章・すべては吉野から 05


(奈良県吉野郡川上村・井光(いかり))

吉野で両書【注1】とも神武軍は尾のある人、二人に出会う。一人は井氷鹿[いひか(井光)]という吉野首の始祖である。吉野川支流井光川の上流にいた。尾のある人とは、今日でもベテランの登山者は、尻当てに鹿皮をぶらさげる。野に腰を降ろしたり、斜面をそりに乗ったように滑り降りるのに重宝な代物である。尾のある人とは、そういう山人であった。


(井光(いかり)神社 祭神:井氷鹿(いひか))

吉野首祖の井光は井の中から出てきた「光て尾有り」人という。昭和五十年代に発表された現地ルポによると、この井戸、クレーターのごときと素直に表現したまではいいが、隕石の落下跡だろうと結論着けてしまった。いわば環状列石状になっていたらしいが、それが井戸の跡なら、垂直井戸は古代の掘削技術や石積み技術では不可能なため、関東などに多いすり鉢状に掘った「まいまいず井戸」だったに違いない。斜面四十五度以下なら野掘りでも山は崩れない。その穴が埋まってクレーター状になったのであろう。


(吉野川の支流・井光(いかり)川)

吉野首は天武十二年(683) 連の姓に昇格する。『新撰姓氏録』大和国神別の吉野連の条には、神武におまえは誰かと問われたて、豊御富が、天降った白雲別神の子孫で加彌比加尼(かみひかね)の女とこたえたところ、水光姫(みひかひめ)と名づけられたとある。そんな話は記紀にはないから、吉野連のでっちあげに過ぎないが、井光から水光姫を思いついたところが、何とも正直である。

というのも、クレーター状に岩が積まれた三十畳ほどの井戸、この光る井戸の水は水金、自然水銀の井戸であると見抜いたのは丹生研究者の松田壽男であった。井光は吉野首の祖、自然水銀やその元になる丹砂の採掘をする山人だった。

門外漢の我々には自然水銀が井戸にあるなどとは思いもよらないが、水銀を吹く辰砂の見本など見せられると、辰砂を加熱して水銀を得る以前は、浅い井戸から自然水銀を採取して利用していたことも納得できる。

井光の井戸水は光る水の水銀であり、それを神として崇めるなら正しく水光姫であったかもしれない。この水光姫、後に述べる丹生津姫とは別に、伊賀利、伊加利といった社名で、丹生水銀地帯に全国的に分布するという。それは言い換えると、吉野族の全国展開でもある。


引用: 坂東千年王国 掲示板・過去ログ6

179 吉野国樔 投稿者:HON 投稿日:11月6日(水)20時24分15秒

吉野国樔悠久の始原―新編天武天皇の大陰謀 序章・すべては吉野から 06


浄見原神社手前からの吉野川
(浄見原神社_神奈備)

もう一人の「尾有る人」は磐を押し分けて出てきて、磐排別(いわおしわけ)の子で国樔部の始祖という。吉野国樔は穴から出てきた山人だから、こちらは坑道を仕事場にしていたのではないかと思えるが、そこには丹生の片鱗も見出せない。


吉野郡吉野町南国栖の浄見原神社 国宝・重文等指定
(浄見原神社_ルネサンス吉野事務局)

国樔人は土蜘蛛などと同様、吉野ばかりにいたわけではない。各地の風土記では征伐の対象にされているが、吉野の国樔は神武軍の侵攻におとなしく帰順したという。『新撰姓氏録』大和国神別に『記・紀』と同様の記述とともに、允恭天皇のとき御贄を奉り、神業をもって仕えるとある。『延喜式』【注2】には大嘗祭や諸節に大贄を献じ、歌笛を奏するという。

『応神紀』や『雄略紀』にも吉野宮へ幸行したとあり、斉明女帝の吉野宮建造以前にも宮あったらしいことを記している。そこには狩場があり、山の司や狩人がいて、国樔人は酒を奉り、歌を献じたという。


国栖奏(くずそう) 県指定無形民俗文化財
(浄見原神社国栖奏_吉野町年中行事一覧)

宮滝【注3】遺跡の近くに国栖の地名が残る。国栖の浄見原神社では現在でも、毎年旧正月に国栖奏が奉納される。

吉野宮の先の吉野川を渡って宮滝万葉の道を行くと、菜摘川沿いに桜木神社がある。天武没後に祀るとされ、桜の宮ともいわれる。ここの伝承は、大友皇子に追われた大海人が吉野を頼って来て、桜の樹の陰に隠れて難を逃れたという。先年、枯れるまでこの桜の大木もあったといわれるが、桜の吉野ならではの伝承であるものの、いささか怪しい。大友皇子が吉野まで大海人を追って来というたのはご愛嬌としても、この時代、吉野に桜の蕾もなかった。例えば『万葉集』に吉野の桜は一句もなく、やっと『古今集』にいたって桜の吉野は満開になったのである。

大海人の吉野への逃亡が能の『国栖』になると、国栖人の嫗と尉がこの逃亡者をかくまい、仲間に呼びかけ、追っ手を向かえると居丈高に「あの狼藉人を打ち留め候へ」と脅しことばを浴びせるのである。

そのためであろうか、『延喜式』民部省には「凡そ吉野国栖、永く課役することなかれ」とあって、徭役や正税を免除されるなど、後世まで特別待遇を受けた。
さらに神武は吉野川の下流で、梁(やな)を仕掛けて魚を捕る阿太の鵜飼部の始祖に逢うが、『古事記』に贄持の子とあるから、吉野国樔と同様に贄を持って服属ししたことを意味する。阿太というのは、おそらく隼人族の一種で、最もはやく倭政権に服従したとされるが、吉野そのものが倭の属国のような状態になる。


【注1】両書:『記・紀』すなわち『古事記』と『日本書紀』。

【注2】《延喜式巻三十一》宮内省
凡諸節会。吉野国栖献御贄奏歌笛。毎節以十七人為定。国栖十二人。笛工五人。但笛工二人。在山城国綴喜郡。其十一月新嘗会。各給禄。 有位調布二端。無位庸布二段(引用: 延喜式 )。

【注3】宮滝:吉野川沿岸、吉野離宮のあった平地。神武・応神・雄略の三天皇紀や、斉明・天武・持統・元正・聖武の諸天皇紀に記載がある。

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