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(回答先: Re: 吉野雑考 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 11 月 23 日 22:18:23)
バルタン星人さん、レスありがとうございます。
西欧の哲学・文学に造詣の深いバルタン星人さんは、また、『紀州 木の国・根の国物語』の中上健二にも造詣が深かったのですね。
紀伊半島から吉野、そして房総半島は、日本文化の基底層・縄文時代からの文化がかろうじて残存しています。手掛かりは、地名と神社、および神社に残る伝統行事です。
紀伊と房総、奈良と房総には、同名の地名が数多く知られています。
【例】南紀白浜⇔房総白浜、南紀勝浦⇔安房勝浦
生駒郡の平群川(竜田川)⇔館山の平群川
井野の「辻ぎり」 (井野の辻ぎり) |
土地の境界にある木に、角のある蛇を架ける風習は今も僅かに残っており、佐倉市井野には角のある蛇を木に架ける「辻切り」があるそうです(他船橋市、市川市にも)。
稲渕の勧請縄(男綱) (飛鳥 その3−3) | 栢森の勧請縄(女綱) (飛鳥 その3−5) |
飛鳥川上流の稲淵や栢森では、正月に「勧請縄」を飛鳥川に架ける「勧請吊り」神事が残っています。(平成14年7月14日)
竜田川の「勧請縄」 (生駒山周辺と信貴山まで) |
「勧請縄」の風習は、大和の青垣の東西に多く見られますが、蘇我氏出自の里・平群谷(竜田川流域)にも残っています。「勧請縄」は別名「道切り」とも言われ、「辻切り」に通じるようです。
平群氏は、天武朝に栄え、長屋王(天武の孫)の墓は平群谷にあります。平群谷古墳群が蘇我氏歴代の墓だとする説もあります。
また、平群谷の入り口付近の王子駅の近辺には、現在も「紀」姓の人々が多く住んでおり、近くの「藤の木古墳」の埋葬者は紀氏ではないかとの説もあります。
御綱掛け神事 (花窟神社) |
余談ですが、千葉の蘇我比(そがひめ)神社には、「日本武尊命の妃・弟橘姫に同道して海に沈んだ蘇我大臣の姫が、浜に流れ着いて里人の手厚い看護により蘇生し都に帰ることができた」という伝説があります。
蘇我氏とは、最も早い時期に倭民族に帰順した日本原住民の一部族「隼人」の後世における呼称ではないかとも言われています。
大和では、「勧請縄」の風習が、クズ神社の分布と重なるように見えます。
国樔とは、自らを原日本人「国の巣」と名乗った山岳部族の名称であり、蛇をトーテムとする信仰を持ち、蛇を象徴する「勧請縄」を架ける神事を伝承してきたのでしょう。
葛神社、国栖神社、国樔神社、九頭神社、国津神社などと表されるクズ神社は、「クズの民はここより平地に降りるべからず」という「結界」の役割をしているようです。
かつては結界に守られて平群谷の伝統文化を守ってきた人々の町(平群町から王子町にかけて)に、今、かつては信仰の対象であった少女を、残忍に毀損する事件が起こされ、日本文化の基底層への破壊が進んでいます。