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みなさんこんにちは。
フニャコと申します。
ここのところ私の中の「なんだこの世の中は」という憤りが非常に高まってまいりまして、
直感と実体験にしか根拠を見出せない性質の人間でございますが、私なりに詰めて考えましたので、
ここに投稿させていただき、できれば皆さんの駄目出しやご意見など聞かせていただければと
思うのです。
できればボコボコにしていただければと思うのです。
「論議板に投稿しようか」とも思いましたのですが、まともに論議ができる新規投稿かどうか疑わしいと
判断いたしまして、ここ雑談板に書きこまさせて頂くことにしました。
この考えの出発点は、私個人が置かれている環境やこれまでの経験(たいした物ではないです)
からの直感でございます。
*私論の前フリ
私は店舗商売をやっております。
接客の基礎は「客に話しかけ、会話のやり取りも商品のひとつとして楽しんでもらう」というものです。
しかし、しばしば思うことなのですが、若い客に限ってそれを嫌う傾向にあります。
リアクションひとつせず、商品を選んで買う段になっても黙ったままレジに持ってきて清算し、
店に入って買って出て行くまで、一言も、一寸のうめき声すら発することがない。
こちらが必死に話し掛けても、です。
そんな若い客が驚くほど多いのです。
(どうやらどんな店もコンビニと同じだと思っているようです。)
街を歩いても、自分と同じく街を歩く他者に対して配慮のかけらも無く、他者をただの障害物と見なし
ているかのような、そんな雰囲気の人も少なくありません。
通勤電車でも「明らかに席を必要としている人物」を無視していたり、車内でごみを落としても無視して
いたり「足組んで新聞広げて明らかに迷惑な状態」を注意されて逆ギレしていたり、挙げればきりがありません。
居酒屋に行けば、明らかにマスコミに誘導された考えを元に政治談議しつつセクハラ。
公道は痰ツボや灰皿ゴミ箱に等しく、金儲けと性的欲求ばかり追いかけるやつが目立ち、上司は部下を搾取。
「勝ち組負け組」などという言葉も多く聞かれるようになって参りました。
(この言葉を好んで使う人を見ると不愉快なのに何故か笑いが込み上げてきます。)
貧富の差を押し広げるための前フリかもしれません。
(貧富の差はあってもいいとは思いますが、その為に自身が努力で成り上がるチャンスを削らせるべきでは
ありません。例えば『金持ちの子は教育の機会があり貧乏人の子はそれが無い』というような)
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/114.html
「携帯電話の功罪について 2000/12/31さま」
このスレででんでんさまが仰るように「仲間と私的な会話をするだけ」と言う状態があります。
しかしもうこれは携帯電話をとりまく状況だけではなく、実生活でもそのような状態になりつつあるように
見えます。
“仲間”以外の人間との繋がりが無いのです。
社会にでれば仕事以外の人間関係を構築することは難しく、生活に追われ汲々とし、情報源は新聞、
雑誌、テレビ。
都市に人は集まり続けるものの、それはモノや仕事のためであってコミュニティを作ろうと集まっている
わけではありません。
我々は様々な面で、徐々に分断されつつあります。
(「個々に分断し、身の周りで論議する環境を奪い、マスコミを使って扇動」という各個撃破の状況を
狙っているのだと勘繰ってしまいます。)
こんな状況で選挙などしても状況の好転など望めますまい。
*ささやかに抵抗
そこで私は考えました。
「都市の中で共同体を作り、色々話し合い、認識を深める場所を作ってみよう」
と、いうことで一昨年あたりから細々とそんなことをやっています。
↓でちょこっと漏らしています。
http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/858.html
各個撃破され得る状況はこれから強まっていくと考えています。
そこで、このような「ゆるやかな共同体」を作り温存し、既存の共同体とリンクさせていき、私の「俺定義」
でいう「文化」を育て、現状のような「俺さえよければいいじゃん」といった風潮の蔓延をやり過ごし、
次に備えたいとそう思っております。
(「次」とはこの風潮が見直されそうな風向きになった時のことです。風潮そのものを変える力は私には
もちろんありませんので、温存しておきたいと思っています。隠れキリシタンみたいなものです)
共同体さえあれば対話をして、助け合い、気づく機会がそれだけ増えると思っています。
(「ゆるやかな」というのは昔の村落のように「みなと同じじゃないと村八分」のようなことのない
個人尊重の共同体と言う意味です。)
実際、そのような「場」を観察しまして思うことは、そこにいる子供達が驚くほど育ってゆくという事です。
よく「年寄のいうことは聞くもの」と申しますが、本当のようです。(愚かな年寄もいるでしょうが)
今風の格好で言葉遣いの悪い子でも、道徳のポイントをしっかり押さえ、幼児の面倒もみたり、老人に気を
使ったり(これはしごく当たり前のことなのですが)しますし、また年寄に対しても、間違ってると思えば
直言したりします。
やはり対話が人を育てるのだと実感しています。
(実際、年寄のほうも考えが若くなっていっています)
いつか議論板にて魚住達郎さまが「日本のとるべき戦略」という書き込みにおいて
「日本固有の哲学を」と仰っておられたとおもいます。
私も大まかには賛成ですが、しかし、哲学と言うものは、これまでもこれからも生きた人間が作り上げるもの
であって、その哲学者が生活していた文化から切り離すことはできず、今、それが必要であるか、或いはそれ
は正しいか、などといった有用性は、これまでにあった既存の哲学の素晴らしさとは別の話だと思っています。
やはり、今生きている人間達が今と未来に必要とされるであろう哲学を、様々な人々との対話から導き出す
作業が必要だと思います。
(和の精神、武士道、は一度置いておいて考えたほうがいいと言う意味です。批判ではありません)
与えられた考え方だけではなく、対話から生ずるものが必要だと考えています。
共同体と対話で何とかなりそうなあんなことやこんなことを書こうと思いましたが、
書いててすごく疲れたのでまたにします。