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(回答先: Re: アルフレート・ローゼンベルク 「20世紀の神話」 (2) 投稿者 ジャック・どんどん 日時 2004 年 5 月 18 日 00:56:54)
●出典は、まとめて最後の回に示します。ナチスの御用思想家といわれたローゼンベルクですが、知らないで批判するのはいかがなものかと思い投稿してます。ご興味のある方はしばらくお付き合いください。
われわれは、歴史から何を学ぶことができるだろうか?
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この詩が書かれた状況からすれば、もっぱら感情に訴えるアジテーションが何に対しての、誰に対しての復讐を呼びかけていたのかは、誤解の余地がなかったのである。圧倒的な反革命軍がミュンヘンの郊外まで迫り、市内でレーテ政権に対する武装反乱が開始される中で、4月30日、革命側に人質として捕らえられていた反革命派の十名が処刑される事態が生じたが、そのうち7名は「トゥーレ協会」のメンバーだった。それゆえ、、エッカルトの詩が呼びかける復讐を、この人質殺害に対する報復として理解することはもちろん的外れでないだろう。だが、それだけではなかった。復讐は、この人殺しの背景にあるさらに大きな敵に向けられていたのである。
エッカルトのもとを初めて訪れたローゼンベルクが、最初に口にした言葉は、「イェルサレムと戦う戦士を必要としておられるのではないでしょうか?」という問いだった。「もちろんですとも」というのが、エッカルトの答えだった。彼らのにとっては、クルト・アイスナーのバイエルン共和国も、その後に樹立された二次にわたるレーテ革命も、「下等人間どもの独裁」、「犯罪者の狂宴」以外の何ものでもなかったが、この犯罪者たる下等人間といのが、かれらによれば、「下層世界とガリツィア地方からやってきた同志たち」、つまりユダヤ人に他ならなかったのである。復讐が向けられるべき対象は、ユダヤ人総体だったのだ。
―事実、アイスナーをはじめとして、トラーもランダウアーもレヴィネも、そしてのちにナチスの強制収容所で殺されるミューザムも、ユダヤ人だった。バイエルンだけに限らず、ベルリンでのの革命のさなかに虐殺されたローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトも、ローザのかつての恋人でやはり殺されたレオ・ヨギヒェスも、その他のスパルタクス・ブント=ドイツ共産党の幹部のうち少なからぬものたちも、さらにレオ・シュラーゲターの死をめぐってメラー・ヴァン・デン・ブルックの批判を浴びたドイツコミンテルン執行委員、カール・ラデックもやはりそうだった。広義の社会主義政党であるドイツ社民党まで含めればその数はさらに大きくなるだろう。
ロシア革命とハンガリー革命についても同様のことが言えるのである。レーニンと並ぶロシア革命のリーダー、レオン・トロツキーがユダヤ人であることはよく知られているが、バイエルンでの革命を時を同じくして進行していたハンガリーの革命においても、これに変わりなかった。エッカルトは、「嵐、嵐、嵐、・・・・」の詩とちょうど同じころ、革命政権の暴虐に屈したまま
それに反対しないハンガリーの労働者を非難して、「ハンガリーの恐怖(テロル)の日々から」
と題する一篇の詩を書いている。
君たちはいったい見えないのか?いったい感じられないのか?
いったい石たちでさえそのことを叫んでないか?
ユダヤ人が野放しにされたのだ!生命と光明のうえに
卑劣なものが解き放たれてまっさかさまに落ちてくる。
古い悪魔的な力が現れる、
嘘と奸計にみちて、
そして地獄が高笑い、
そして、アンチクリストが・・・・
だが労働者は、なぜ連中が暴利のことをただの一言一句も口にしないのかと
たずねるかわりに
連中を信任している、まるで神を信じるごとく!
ユダヤ人たちの言いなりになっていれば
悲惨と困窮が終わると、信じているのだ。
本気で善良にそう考えているものを ユダヤ人は叩き殺す。
社会民主党と共産党との組織的合同によって推進されたハンガリーの評議会革命の場合も、そのリーダーたちの多くがユダヤ人だったことは、悪名高い反ユダヤ主義の扇動文献であるテオドール・フリッチェの『ユダや人ハンドブック』―この本をエッカルトは「われわれの精神的な七つ道具」と絶賛したのだった―が書き立てている。フリチェの扇動書は、革命政権首班のベラ・クン、教育人民委員のジグモント・クンフィ、軍事人民委員のティボル・サムエイ、政治警察長官のオットー・コルヴィン、そしてこれら以外に8人のユダヤ人が名前を挙げた上で、正副人民委員26人のうち18人までがユダヤ人だったと述べて、同国におけるユダヤ人の人口比率が7パーセントであるのに対して政権は70パーセントがユダヤ人によって占められていたこと、ハンガリー革命がまさに「イスラエルの支配」以外の何ものでもなかったことを、強調していた。
エッカルトの詩もまた、「ハンガリーの恐怖(テロル)」がユダヤ人によって生み出されていることを歌ったのである。
そしてさらに、このユダヤ人こそは、ほかでもない「暴利のことをただの一言一句も口にしない」連中、つまり、利潤と金利をほしいままに巨大資本の一党に他ならないこと、それゆえかれらの革命が資本主義的搾取から労働者を解放することなどありえないことを、エッカルトの詩は労働者に訴えようとする。フリッチェの扇動書は言及していないが、ジグモンド・クンフィの下で副教育人民委員を務め、社会民主主義者であるクンフィが辞任した後は教育人民委員として革命の文化行政を統括したジョルジュ・ルカーチはハンガリー最大の銀行であるハンガリー中央信用銀行の頭取を父に持つユダヤ人だった。
エッカルトが「嵐、嵐、嵐、・・・」の詩によって呼びかけ、ローゼンベルクとともに挺身していた反革命の戦い、復讐の戦いは、そのようなユダヤ人を敵とする反ユダヤ主義の戦いだったのである。
(つづく)