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(回答先: 小生は無神論者です。あえて言うならば「智」の信者です。(本文なし) 投稿者 黒望 日時 2004 年 6 月 18 日 23:29:51)
黒望さん、初めまして。
基本認識は、そのようにも表現できるという部分も含めておおむね同意できます。
そうであることや「智のゲーム」であることを踏まえて、いくつか思うところを書きます。
● 「現在の日本は歴史的に見て非常に良い状態でしょう。」
このような認識は、「皆さん判っていませんね」と前ぶりした阿修羅の既存読者のある範囲にとってあまり意味がないし、「人生などは死ぬまでの暇つぶし」と考えられているあなたにも意味がないと思います。
人は過去を思ったり物語ることはできても(「智のゲーム」ですね)、過去に生きることはできません。(別に江戸時代に生きることはできないという話しではなく、昨日にも生きることはできないということ)
ということで、生きることもできず、生きる予定もない過去と生きている現在を比較して良い悪いを語ってもそれほど意味があるとは思えません。
意味があるのは、生きている今をどう認識しどう判断するかです。そして、気にいらなければどうやってそれを解消するかを考え、気にいるならそれを保守する術を考え、どうでもいいのなら暇つぶしに“励む”ということになるのでしょう。
人は、暇つぶしやぎりぎりの生存条件なら今だけを生きることになり、意味を求めたり少しは余裕があるのなら、今を生きるなかに将来を考慮した部分があると思っています。
将来を考慮して今を生きる典型が、開拓を行ったり、灌漑設備や機械をつくることです。定住農耕は、「将来を考慮して今を生きる」ことをより強く人に促す生存様式だと思っています。
ある条件の人が暇つぶしに“励む”ことができるのも、自発的か強制か、自覚しているか無自覚なのかなどを別にして、「将来を考慮して今を生きる」人たちがいるからです。
● 「子孫や将来を考えた時、今のイラクの宗教主導の体制が続くのと米国を手本とした民主的合理主義社会が良いのかの問題」
その後に「迷信が主体の社会から科学が主体の社会」という表現もありますが、宗教が迷信であり科学は迷信でないというお考えなのですか?
宗教(ここではイスラム)を迷信と呼べるのなら、科学(近代科学)も迷信と呼べると考えています。
「小生は無神論者です。」と書かれていますが、無神論は、極めて宗教的な立論ですから、南青山さんの「新手の宗教のようだけれど、」に“イエス”と答えていることになります。(「智のゲーム」愛好者ですから、ご理解いただけますよね)
なお、イラクは政治的に脱宗教体制がずっと続いてきたので、「イラクの宗教主導の体制が続くのと米国を手本とした民主的合理主義社会が良いのかの問題」という表現は誤解を招くものです。
(米国が「民主的合理主義社会」であるとの表現は、「智のゲーム」故の揶揄と受け止め触れません)