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Re: 私物化(所有化)意識とは。
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投稿者 ゆらぎ 日時 2004 年 7 月 04 日 22:06:48:GhYcW4/mLfc6s
 

(回答先: Re: 私物化(所有化)意識とは。 投稿者 真相ハンターK 日時 2004 年 7 月 04 日 19:36:08)

真相ハンターKさん、どうもです。

▼真相ハンターKさん
【どうもゆらぎさんの私物化はかなり広範囲の事(概念としての定義)の様ですね。
あっしらさんとのやり取りから、ある程度の判断はついていたので結構慎重な言い回しをしたつもりなのですが・・・】


とりあえず広範囲に拡張せずに「殺人」「幼児虐待」(どちらかでも可)のみに的を絞っていただければ理解が進むかとも思われますが、ひとまずKさんの主張に合わせて答えて行きたいと思います。


▼真相ハンターKさん
【「自分の私有物なので壊す」と「自分にとって都合が悪いから壊す」は違います。
仮に他人の所有する塀が行き先との間にありそこを通らなければ行き先にたどり付けないと判断したと云う状況を想像します。どうしてもそこに行かなければならない用事があって、そこに障害物としての塀があれば多くの人が「他人の所有物である事を認識した上で壊す」でしょう。(少し極端な例ですが子供が事故にあったとして一刻も早く病院に運ばなければならないとした時とでも思って下さい。場合によっては他人の車を盗みます。その時に「この車は私の私有物」とは認識していないと思います。)】


「自分の私有物なので壊す」と「自分にとって都合が悪いから壊す」は一緒の“意識”だと認識しております。つまり「自分にとって都合が悪いから私有物として壊す」ということです。
仮にKさんの例題でいうところの他人の塀を壊す場合、その塀には他人の意志があります。つまりそこに存在させてほしいという意志です。その意志を無視して他人の壁を壊せば、それは自己のものとして壊したと解釈します。つまりそれが契約上自分の所有とか法律的に自分の所有とかの次元ではなく、私物化するという意識にあります。
カッコ部分はいい事例ですね。私の考える見解では、子供の事故でなんとかすぐに駆けつけなければならない状況にあり、壁の持ち主もその妥当性を充分認識できるものであれば、壁を壊すという行為は相手の意志に反する行為ではなく、私物化にあたらないとも考えられます。そして究極は壁を優先させるか子供を優先させるかの問題となると思います。どちらを優先させますか?(車を盗むのも同じことです)


▼真相ハンターKさん
【とは、言ってもKはゆらぎさんの主張は概ね理解しています。ゆらぎさんは「すべての人が全ての物(生物や、自分の子供も含む)を人類(もしくは地球=ガイア)共通の財産との認識を持ったらならば、あらゆる争いが無くなる」と云う意味の主張をしている訳です。
そこを認識したならば「子供達」はその親権者としての両親だけの財産ではないので国が責任を持ち、地域が地域の人材として、グループが愛を持って育てる事に何の疑問も無いはずだ。・・・との事になる訳です。(言い回しはともかくとしてイメージでは)
でも、多分それでは争いは減りません。ある人は「あくまで子供の自主性を尊重すべきだ」と言い、ある人は「世界一の勇者を目指させる」と言うかもしれません。「その子の為」にと云う口実が様々な意見の対立を生むのです。そこには「邪魔だ!」とか「所有物だ」と云う負の感情ではなく、「その子に良かれ」とした愛情や自分の経験からの現実対処法の教育と云う正の感情があるのですが、夫と妻においてもしばしば争いの元となるものが大勢の共有財産になどになったら尚更酷くなります。】


共有の財産とする考え方は好きです。しかし共有の財産ですが、誰の“所有”財産でもないということです。誰の“所有”財産でもなければ国の“所有”財産ではありません。誰一人の“所有”でもなく、どの組織の“所有”でもなく、どの集団の“所有”でもないということです。ですから国だけが責任を持つとはなりません。
また皆に責任というものがあるとすれば皆が「生きる権利」「快適に生活する」というものがお互いに守られるという責任です。
さらに言うと、我々が責任とするのは「有罪判決を受ける」ということと把握していますが、責任というものは罪悪感にあるものではなく、それよりも他人が自分の生み出した行為の結果によって害を受けるという経験をしたとき、それを救済できるなら何でもしようという意志をもつことができる社会。それが責任ある社会だと思っております。
つまり自分が最善と思った行為でも相手にとって害のある行動(相手の意志を尊重しない行動)は私物化意識になると考えております。
私物化意識のない社会では、例えば夫と妻においては誰の所有財産でもないためその人それぞれの意志で行動を決定すればいいと思います。また夫婦というのは共に生活することを選択し、生きていくために協力するパートナーという関係だと思います。その個人は誰のものでもありません。そういった社会になると考えられます。


▼真相ハンターKさん
【更に論を進めるならば、その争いも「私有物との意識が生む大人のエゴだ」そこを捨てるのです。との事になるのでしょうが、その意識を本気で可能だと思っているのならば、ゆらぎさんは誰に対しても何の意見も言えない事になってしまいます。
そこはご理解されますよね?「自分が正しい」と思った事の主張が対立を生みます。すべての意見は「全存在の共有財産」です。しかし、理解しようとしない者に取っては意味のないご意見でもあります。ゆらぎさんの主張が正しければ「説得行為は他人の思考は(ゆらぎさんの)私有物との認識の表れた行為」になってしまいます。
確かに、私有化の意識を希薄にする事は一定の争いの減少を生むでしょう。しかし、争いの元はそれほど単純ではないのです。】


もちろん自分が正しいと押し付ける行為はエゴになり、相手の意志を無視した自分の論の押し付けとなり、それは私物化意識にあたるものと思われます。
ただし、自分が正しいと思ったこと提案・提示・主張・教育することは、押し付けるということは違います。提案・提示・教育することは私物化意識にはあたらず、それを相手の意志に反して押し付けた行為が私物化意識になると考えております。つまり押し付けがなければ対立し争いを生み出しません。
ですから、私も自分の主張を押し付けようとは思っておりません。(少し過激になり反省はしておりますが・・・。)


私物化意識のない社会というのを想像し、考えることは非常に難しい問題です。
また「殺人」以外の諸問題についてはどこまでが「私物化意識」にあたるのかは難しく、考えさせられることが多いです。
ただし、今はっきりしていることは「殺人」というのは「私物化意識」にあるということです。そしてそこが論点のテーマです。
今回はKさんの主張に合わせて(理解を深める為に)議論を進めてきましたが、次からは「殺人」「幼児虐待」に的を絞って議論して頂ければ、今回の論点をはっきりさせることができるものと思います。つまり枝葉である「壁を壊す」・「車を盗む」・「夫と妻の関係」・「子供の教育」・「相互の主張」・「責任とは」等は次の段階として、まずは人が人を殺すという行為は私物化(所有化)にあたるのかどうかを考えて頂ければ幸いです。
枝葉に適用できないからといって、すべてに適用できないとはならず、あくまでも焦点は「殺人」「幼児虐待」(どちらかでも可)です。


ではまた明日。

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