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あっしらさんの「善」と「悪」と社会有機体健康論
あっしらさんの、次の発言のうちの「善」「悪」を「健康」「病気」「薬」「毒」に適当に読み替えてみます。
あっしらさんが思うところの「善」とは「健康」になり、
彼が非難するところの「善」は「薬」と言い換えることができるでしょう。
薬は毒なのです。
薬は病気を治すかぎりにおいて役に立ちます。
しかし、「薬」というラベルを信仰するなら、毒を健康体・病人に投入することになりかねない。
そういう趣旨の発言になります。
【補足】“薬”なる言葉を駆使して紡ぎ上げられた説明のおぞましさと危険性
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/996.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 13 日 02:22:34:Mo7ApAlflbQ6s
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薬(善)をミソクソに言っている背景には、毒(悪)を薬(善)と言い募るために、“薬(善)”の言葉を駆使して紡ぎ上げられた説明がはびこり、それが病気(悪の行為)を支えているという思いがあります。
薬(民主主義・自由・人道(支援)・改革・真実・誠意・平和など)の言葉が現在ほど空虚なものになったことはないはずなのに、相変わらず支配者はそれは使い続け、それなりに被支配者を納得させています。(第二次世界大戦にはまだ空虚を埋める要素があった)
政治的反対者も、真の薬(真の民主主義・真の自由・真の人道・真の改革・真の平和)といったなんとなくもっともらしいが実は空虚でしかない言葉を使って非難しているだけで、こうするのが健康(善)であるという説明も不十分なら、支配者の行為が健康(善)でないという論証も不十分であるように思えます。
だからこそ、“戦争の終結”や“主権移譲”と進むにつれ、薬(民主主義・自由・人道(支援)・改革・真実・誠意・平和など)の言葉がなんとなくリアルなものになり、支配者の言い分に吸い寄せられていくことになります。
(アフガニスタンの推移はその例証です。イラクも、健康(善)を回復しようとする人たちが毒を盛る人(悪人)になる危険性が待ち構えていると思っています)
“薬(善)”のラベルが貼られた言葉を使って語れば、健康(善)を語っているどころか、最後には病気(善)を為していることになってしまうというすさまじい錯誤が横溢しているのが現在だと思っています。
薬(善)が禅問答になり、薬(善)なる言葉が人々の判断力を呪縛しています。
薬(善)の言葉による主張の恐さは、薬(善)ならいいじゃないかという感じで、人を思考停止に追い込むことです。
(薬(善)だとされていることにケチを付けるのは気が引ける)
人はやりたいことを毒(悪)だと言われたら、なんで?どうして?どこが?と問うのに、薬(善)だと思い込んでいる言葉を羅列されて説明されると、それなら仕方ないとなってしまう危険性です。(最後には“投薬(善なる行為)”に身を投じない我が身を恥じるまでになる)
薬(善)をクソ食らえと叫び、病気(悪)にこだわる説明をしているのは、このような気持ちがあるからです。
薬(善)を受け容れるのではなく、病気(悪)ではないのか、病気(悪)になる危険性はないのかという視点で物事の理非を問い続けることが重要です。
9・11以降の世界がとんでもない犠牲を伴いながら、薬(善)なる言葉を口にする空虚さと醜悪さを極め付きのリアルさで示しているからこそ、それをこの身でしっかり受け止めたいと思っています。
今そして今後おそらく10年ほどは、病気(奴隷=被支配者)である身から脱する術を考える好機が続きます。
その好機を逃すと、病気(奴隷)であることさえ感じない“天国”に入ってしまうかもしれません。
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たけ(tk)、社会有機体の健康が「社会的な善」であるという意見です。
たけ(tk)、健康とは全体と全部の部分が調和的かつ活発に活動する状態、と理解しています。
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http://www.sugitaku.net/002/20021029.html
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健康の定義
健康に関する定義で世界的に知られているのはWHO(世界保健機関)憲章の前文中にあるものです。
「健康とは、身体的、精神的ならびに社会的に完全に良好な状態であり、単に病気や虚弱でないことに留まるものではない。
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