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(回答先: あっしらさんの「善」と「悪」と社会有機体健康論 投稿者 たけ(tk) 日時 2004 年 6 月 13 日 14:41:16)
>あっしらさんの、次の発言のうちの「善」「悪」を「健康」「病気」「薬」「毒」に
>適当に読み替えてみます。
>あっしらさんが思うところの「善」とは「健康」になり、
>彼が非難するところの「善」は「薬」と言い換えることができるでしょう。
そのようなあなたの読み替えや理解は勝手ですが、そのような理解に基づいて私の投稿内容に手を加えて再利用するような蛮行は許容できません。
あなたが私の書き込みに触発されてあなた自身の言葉で何らかの書き込みをするのはまったくかまいませんが、私の書き込みに規則的な言葉の付加をして投稿するのは断じて認めることはできないのです。
なぜなら、私の思いや考え方と大きく違うものになっていながら、それがなお私のものであるかのように読まれてしまう危険性があるからです。
私が、「悪」を「病気」や「毒」、そして、「善」を「健康」や「薬」とは考えていないことは、雑談板の一連の書き込みを読めば理解していただけると思っています。
最初の投稿である「悪と善の序列」( http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/962.html )で、
「●「悪と知らず、悪を為す。」
子どもの態様として見られるものだが、子どもは無問題で、おとなが徐々に教えなければならないこと。
道徳や規範を冷笑する気分や価値相対主義の広がりが善悪の基準を曖昧にしていることから、おとなにもそのような態様が拡大している。」
と書いたように、「悪」は、「自己実現」という欲求や感情の“自然”な発露でもあり、健康的なものでもあると思っています。
「自己実現」の発露が「悪」になるのは、それが一時的・個人的には「快」(個人的な善と考えてもらっても可)であっても、時間経過的・他者関係総体的(その個人を含めて)には「害(悪)」になるからであって、不健康だからというわけではありません。
(子どもは、時間経過的・他者関係総体的な判断力の獲得段階だから、気が向きままに悪と知らずに悪を為すと思っており、支配―被支配関係構造の解消後もそれは変わらないことだと思っています)
例えば、怒りや不快感に衝き動されて他者を傷付けたり殺したりすることが「悪」だと判断されなければ、共同体(社会)に応報的暴力がはびこり屍累々という惨状にもつながりかねません。(それが個々人や共同体の存続に打撃を与えるものであることは容易に想像できるはずです)
資源の問題でも、魚を取れば取るほどお金が手に入るという現実であれば、取れるだけ取るのは「善(得)」と思う人は少なからずいますが、時間経過的(理性的)に判断すればそれでもなお、資源の欠乏や枯渇につながる中長期的な「悪(損)」であることがわかります。
電子力発電も、絶対安全・経済的有利を根拠に「善(得)」として拡大されてきましたが、放射性廃棄物・老朽化・廃炉などがリアルな問題になり、今や電力会社でさえ「悪(損)」と考えるようになっています。(負担は国家=国民に押し付ければいいと思っているので、あまり口には出さないようですが...)
悪を問題視するのは、不健康だからではなく、人々の多様な感受性・価値観を有するがゆえに「自己実現」(やりたいこと)の企ても多様であり、そのなかには、共同体に害悪ときには壊滅的打撃を与えるものもあるからです。
(悪をも構想させる人々の多様性は極めて貴重で好ましい(面白い)ことだと思っています)
善に対する考え方は、
「どうせくだらん抑制になるに決まっている善などクソ食らえ、です(笑)」
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/995.html
「【補足】“善”なる言葉を駆使して紡ぎ上げられた説明のおぞましさと危険性」
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/996.html
を参照してもらえばわかるはずです。
原則は「自己実現」の発露を認め合おうという立場です。
その上で、ある「自己実現」の仕方(内容)が悪につながるかどうかを直観や経験のみならず理性的思考力まで駆使して判断しようという考えです。
そして、そのように見定めるならば、内的欲求を抑えて思念的理性でのみ納得できる行動命題である善はことさら持ち出す必要がないと考えています。
自分が好きな組み合わせは「悪と知りながら悪を為し、善と知らず善を為す」と表明し、「私は、猥雑で躍動的な社会が好きですから、悪ではないことをいろいろやれる面白い社会が望ましい」と書いたように、悪の根絶をめざしているわけでも、善を悪に対する「薬」として利用したいとも思っていません。