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(回答先: Re: 日本の取るべき戦略 その2 投稿者 岩住達郎 日時 2004 年 6 月 06 日 06:04:51)
13.日本はどの様な民主主義を採用すべきか。
第8章で述べた様に、国民の生活水準の定義が政府の政策に大きく反映し、将来の社会に破綻をもたらす原因になるのであれば、未来の経済指標は国民の幸福感を最大化しながら且つ天然資源の浪費を最小化する様な物を採用すべきである事は自明の理であろう。現在使用されている経済指標は国民の精神的満足感を表す要素は全く含まれておらず、只単に流通する通貨を測ってそれを単位時間内に最大化する事を目標としている。従って、どんなに資源を浪費し膨大な無駄をしようとも、その為に国民が環境破壊と健康障害を被っても、又貧富の差が拡大しようとも、経済指標さえ上がれば政府としては良い仕事をしていると評価されてしまう。即ち国民の生活感覚と経済指標とは乖離している。
どうしてこの様な馬鹿げた事態を誰も是正しようとしないのか。答えは簡単である。現在使われている諸種の経済指標は昔の未熟な経済学者達が事実に基づかない仮説から作ったのだが、それ以来、資源やエネルギーが無限であるという仮定に基づく事に対し誰も異議を唱えなかったからに過ぎない。こういった経済指標が一度根を下ろすと、以後の経済的価値判断の全てが誤った根拠に基づいて行われ、誰もそれに疑問を呈しなくなるのである。これも誤った仮定から理論を作るとその悪影響は測り知れない実例の一つである。
過去の誤りを正すには、先ず誤りの元となった理論を完全に破棄する事である。理論には色々あって、本質的に正しいが修正する必要がある物から全くお話にならない間違った物まである。現在の経済学は後者に属する。その理由は現在の経済学では人間の心理を、生活に対する満足感とか不安感を別の指標として測る事はあっても、経済の基本に据えて居ないからである。経済とは人間の営みであるのに、お金の動きの事ばかり議論している。お金を動かしているのは人間の心理なのだから、主客転倒なのだ。
経済は通貨の額で定量化出来る為、数学的操作をやりやすく、様々な経済指標が提案され使用されて来た。しかし現在使われているどの経済指標をとって見ても、生活環境の向上がもたらす事による庶民の生活に対する満足度を表現していない。これは、定量的経済学が発生して200年にもなる事を考えれば、驚くべき事だ。今フランスで新古典経済学派が数学の応用に囚われて肝心の人間の営みとしての経済を忘れていると攻撃されているのは当然である。
現在広く使われているGDPにしても、統計的手法が国によってまちまちで多くの欠陥がある事が分かっているにもかかわらず、その数値が上下する度に政府や政治家は一喜一憂し、次期投票に備えて無謀な手段に訴えてもGDPを上げようとする。我々が経済指標としてGDPだのROAだのを使う限り、経済は通貨の量的拡大を至上命題としているのであって、少数の支配者の富は増えても、肝心の大多数の人間の幸福の向上には何の関係も無い。この欠点を補う為、例えばGPI(Genuine Progress Indicator)なども提唱されているが、政府や政治家の無策を批判する手段として使われても一般には受け入れられていない。
現在の世界経済はアングロサクソン的価値観によって支配されており、その総本山といえるアメリカ社会では貧富の差が益々増大して貧民による革命運動が起こらないのが不思議な位の状態を呈している。この状態が改善されない限り、大不況になればアメリカの貧民による暴動略奪放火の大量発生に至るのは避けられないであろう。大量の銃砲が市民に行き渡っている社会であるから、社会不安は直ちに市民対政府の銃撃戦に発展する。そして、アメリカの経済恐慌による社会不安はすぐに欧州に飛び火し、世界中に広がる恐れがある。
そもそも今の色々な経済指標は私利私欲最大化の原理に基づいて作られたものだ。ここで私は私利私欲最大化に対する倫理の善悪を論じているのでは無い。日本人だって昔から私利私欲に走る人は沢山居たが、常に社会的倫理の対象となり自然に抑圧されて来た。物事の価値判断は民族、宗教、習慣によって大きく違い、その社会の人間にのみ通用する物で、絶対的倫理という物は存在しない。所が、現在主流の経済理論がイギリスとアメリカで発展した為に、アングロサクソンの価値判断に偏っており、アングロサクソン以外の人達も彼らの価値感を押しつけられて来たのである。
私がここで提起する基本概念は、地球上の資源が有限であると云う物理的制約に基づき、人間が生きていく上で最も重要な、そして各国社会の倫理や価値判断に応じて最適化出来る政治経済的要素を数値化し、それを最大化する様に政治経済活動をするという事にある。即ち、通貨価値の総額で国の経済を比較するので無く、国民の政治経済に対する満足度或いは幸福度で比較する様にするのが目的である。
数理民主主義
そこで、数理民主主義とは国民の大多数が彼らの幸福感を代表すると認めた幸福指標を設定し、政治家がそれを最大化する為に色々な政策や法律を作る制度であると定義する。勿論、幸福指数の構成は時代と共に変わって行くべきだから、定期的に国民の要望と幸福指数が一致しているかどうかを調査し、必要に応じて変更する任務を持った政府機関を設けねばならない。この民主主義の定義は、従来の掴み所のない観念的な物から一変して、指標数値になったわけである。従来の経済指標の一部は幸福指標に組み込まれるが、誤った仮説に基づいた経済指標は全て廃止される。
この数理民主主義の最大の利点は、今までの観念論から一変して、国民の持つ多くの相反する要望が如何なる重みを持って互いに妥協しているかを明確に示す事が出来る事にある。民主主義の数値化が社会を構成する多数の競合する利益集団が共存共栄するにはどうするか、という政治問題を政治家が論理的に討議出来る様になる。
(続く)