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(回答先: 今の天皇は現王朝が出来てから四代目(孝明天皇で前王朝は終了し、明治天皇から新王朝が始まっている) 投稿者 リーマン 日時 2004 年 2 月 06 日 02:48:08)
リーマンさん、お久しぶりです。
鹿島氏・太田龍氏・中丸薫氏などが明治天皇すり替え説を提示し、阿修羅でも下記のような投稿が行われています。
私も、孝明天皇暗殺(中央公論社の新書にも提示済み)と明治天皇のすり替えはあったと思っています。
明治天皇になったとされる長州の大室寅之祐は南朝の末裔を名乗っていましたが、南朝の末裔を名乗る人は数多くいて、南朝系になった後でも(笑)熊沢天皇事件が起きています。
南朝系に変わったというより、「自称南朝系」の人物が天皇になったといったほうがいいと思います。
明治憲法のように「万世一系」を謳うという愚を犯していない現在の天皇制では、血統問題はどうでもいいことですが、明治維新以降に確立した近代日本の価値観が今なお生き続けていることに照らせば、「万世一系」ではないということが明確になることが大きな意味があると思っています。
南北朝対立も含めてですが、明治維新までの日本の対立構造の基底にあるのは、白村江敗戦を契機に生じた「東西対立」だと思っています。
律令制もどきの統治構造の確立を目指した西国(百済と関係が深い勢力)と西国による支配から逃れようとした東国(高句麗からの渡来者と土着勢力がつながった)とのせめぎ合いが日本史の大きな流れを規定していたと考えています。
源頼朝を御輿に担いだ北条氏の鎌倉幕府から足利氏が支えた北朝時代まで東国が政治権力の中心になり、織田・豊臣という中間期を経て、徳川幕府により東国の圧倒的優位が確立したというざっぱくな見方をしています。
そして、明治維新は、西国の逆襲であり、夢を果たせなかった律令制もどき国家の確立をはかるものだったと思っています。
明治維新は、英国のエージェントが志向した国際金融家に奉仕する近代国家樹立という側面と律令制もどき国家の確立という水と油の価値観がない交ぜになったパワーで達成されたと見ています。(このあたりのズレが西郷隆盛の離脱や西南戦争に関わりがないこともないと思っています)
政府樹立後は在野で民本主義(近代民主主義の日本版)が普及したので、混濁した統治価値観だったと言えます。
リーマンさんがこの間投稿されてきた英国(国際金融家)エージェントによる近代日本の育成という観点でこの問題に少しだけ触れてみます。
リーマンさん:「当時のイギリスが水戸学や南北朝問題に詳しかったとは思えませんのでこの「すり替え」のアイデアまでイギリスが出したとは思えませんが、この話を伊藤や岩倉から聞いた「アーネストサトウ、パークス、グラバー」等当時のイギリスの中心人物たちは「興趣に富んだなかなかオツなアイデアだと思う」といったのではないか、と想像しています。」
エージェントたちは、事前か事後かわかりませんが、すり替えを聞かされただろうと思っています。
エージェントにとって日本国内の最大の敵は、「公武合体派」だったはずです。
公武合体派であった孝明天皇をなんとかしたいと考えるのは、政治闘争では自然なことです。
孝明天皇の息子が父親の暗殺を知っていたのかどうかはわかりませんが、16歳にもなっていた息子も公武合体派であった可能性があるので、彼も排除されたと考えることができます。
そして、それでも天皇という権威が革命の遂行にとって不可欠だと思えば、後釜を据える必要があります。そのとき、手身近にいたのが南朝の末裔を名乗る大室寅之祐だったということでしょう。
英国(国際金融家)は、「万世一系」なぞを気にするわけではなく、征服王朝であることを公言し、オランダからオレンジ公を引っ張ってきて王に据えることをいとわないので、天皇のすり替えなぞたいしたこととは思わず、それでことがうまくいくなら「興趣に富んだなかなかオツなアイデアだ」と思ったでしょう。
リーマンさん:「明治の天皇制の枠組みが、江戸時代までのものとは異なり、実質的にはイギリス人の発案によって作られたものであることは以前申し上げました。イギリスから見れば、天皇制とは「日本人という新たに発見した土人を上手に治めるための道具」としての位置付けであったことは間違いありません。以前お話したインディージョーンズ魔球の伝説の中に出てくるシバ神の像のようなものということです。
このシバ神が発泡スチロール製であるのか金属製であるのかという問題は、人民を騙す側から見ればことの本質から離れた問題であるはずです。表面がおどろおどろしく畏まっているのであればそれで宜しい。
しかし、「天皇をすりかえた」という話を聞いたとき、イギリス人は「芸術的な騙しだ。全くもって素晴らしい。イギリス人ってそのような美的センスのある騙しって大好きなんですよ、伊藤さん・岩倉さん」と悦に入ったのではないか、と思います。」
国家神道が英国国教会を範とした制度だと思っていますが、明治の天皇制の枠組み全体が英国の発案であるとは思っていません。
エージェントにしてみれば、彼らの意が通じる寡頭政治であればいいわけで、制度はそれほどこだわらなかったと思っています。
リーマンさん:「幕末に大室が明治天皇に成り代わったとき、伊藤・大久保・岩倉はどうして後に昭憲皇太后と呼ばれるこの女性を始末しておかなかったのかはわかりません。あまりにも忙しくてそこまで手が回らなかったのでしょうか。或いは、この皇后の実家ごと陰謀に取り込んだ可能性もあります。」
京都の公家勢力が分裂していたことと公家の他力による自己保身が、そのような結末になった要因ではないかと思っています。
天皇はすり替わったが、朝廷の奥や公家はすり替わっていません。
制度論的に見れば、大室寅之祐がシャッポに据わったというだけで、制度の根幹は変わらなかったということになります。
天皇の権威を使おうと考えていたのですから、公家や朝廷の使用人を皆殺しにするわけにはいきません。(そんなことをすれば、朝敵であることが公然となります)
また、公家や朝廷の使用人も、自分たちの身分や生活が保証されるのならそれはそれでいいと判断したはずです。そうではなく、主や義に生きるのではあれば、それまでの日本史も違っていたでしょう。
(天皇の血統が変わることは桓武天皇までもあり、ある範囲の公家はそのなかで生き残ったはずです。岩倉のように、三流公家が出世するという下克上も政変では昔からあったはずです)
公家や朝廷の使用人が、新しい現実を受け入れたことで丸く収まったというのが実態ではないでしょうか。
昭憲皇太后も、保身のために身分を継続したが、とても本来の夫を殺害した一味の明治天皇とは褥をともにする気にはならなかったし、明治天皇もそのような酔狂な趣味は持っていなかったと思っています。
★ 参照投稿リスト
「大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室」
http://www.asyura.com/2002/bd18/msg/943.html
「参考資料(幕末〜明治)」
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/761.html
「Re: 参考資料(幕末〜明治)2」
http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/762.html
「「萩」へマンジュウつくりにいってくる 田布施町のタブー2003春 大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室について」
http://www.asyura.com/0306/dispute12/msg/477.html
「転載:極悪国賊売国奴孝明天皇弑逆犯の一味によって捏っち上げられた「皇国史観」に、筆誅を加えなければならない。 [週刊日本新聞]」
http://www.asyura.com/0306/dispute12/msg/283.html