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幕末明治維新におけるアメリカの役割
ラスト侍について書いてしまったら、また書きたくなってしまいました。(止まらなくなってしまったようです。)
ペリーが来航して、日米和親条約と日米通商条約を結んだ後、「アメリカから当時の情勢を眺めたとき、アメリカは日本に対してどのような活動を行っていたのか(アメリカから幕末・明治維新をみたらどんな風景が見えたのか)」、ということです。
ところで、昔から私は下記の疑問に答えられる人に出会ったことがありませんでした。
「明治維新においては、坂本竜馬の手によって薩長同盟が成立したことが重要なポイントなんだ。当時の状況からみれば両藩が手を結ぶということはおよそありえないことだったんだゾ。だから西郷と木戸を面会させる為の坂本の苦労は並大抵のものではなかったんだ。」と巷ではいうけれど、肝心の鳥羽伏見の戦いのときには、土佐と肥前が土壇場で加わっているじゃないの。これっていったい誰が・いつ・どうやってアレンジして実現したものなの? 薩摩と長州は秘密裏に動いていたはずなのに、それを土佐と肥前に感付かれてしまい、「僕達も仲間に入れて」って言われたから入れてやったの? なんかおかしいよね。どうして誰もこの部分にふれないの? 誰も疑問に思わないの?
ここでも肝心な核心部分の説明が抜け落ちているような気がする、、、、。
根拠のない私の妄想を結論から述べます。
「土佐と肥前はアメリカを代表とする勢力」ではなかったか、ということです。
我々は後代の人間として、最終的にはイギリスを中心とする薩長連合が、クーデターによって支配権を得たことを知っていますが、当時のほとんどの人は「公武合体」で政局が動いていると思っていました。
フランスもアメリカも日本国内の各勢力分析をする過程の中でそのように理解していたはずです。
当時彼ら外国勢力は、表面上は「一国だけで日本の利権をむさぼるのはやめようや。」という協定を結んでいたようです。だからイギリスもあからさまな手出しは出来ず、薩長達を通じて間接的に秘密裏にことを運ぼうとし、クーデターをやらせようとしました。
ところがこの計画にアメリカは土壇場で気付いたような気配があります。
アメリカは、ジョン万次郎や彦臓(ジョセフ・ヒコ)というスパイを使って国内事情を偵察させていましたが、この彦蔵が、イギリスの動きをキャッチしたようなのです。
彦蔵は、鳥羽伏見の戦いの数ヶ月前に長崎に赴き、グラバーと何事かを打ち合わせたようです。
「グラバーさん。日本語と英語のできる私の目をごまかそうたってだめですよ。
イギリスが、公武合体路線を捨て、近々クーデターを起こすつもりであることは当方(アメリカ)としても既に承知しています。この流れに対して、アメリカがあなた達イギリスに今さらやめろといっても、イギリスとしてはやめるはずもないということも、アメリカとしてはよくわかっているつもりです。しかし、1853年のペリー来航以来種々テマヒマをかけて準備をしてきたアメリカにとって、このままイギリスに日本の利権をむざむざと独占されるわけにはいかないんです。
ここでチョッと考えてみてください。アメリカを幕府側につかせて、イギリスVSフランス・アメリカ連合軍という形になるとすると、そちらさんにとっても事はなかなか厄介なことになると思いませんか。薩長の連中は、威勢はいいが、十分な装備や金もなく、幕府軍に相当苦戦する可能性があることはあなたもよくわかっているでしょう。(国内で武器をたくさん消費させることになり、外国勢力としてはそれも一興ではありますがね、)
実は、あなた方イギリス軍が薩長を手なずけてきたことと同様、我々も私とジョン万次郎の線から土佐を、フルベッキの線から肥前をオルグすることに成功し、来るクーデターとその後に続くであろう内乱に際しては、これらの藩の軍隊を、薩長軍(イギリス)に味方させることも、幕府軍(フランス)に味方させることも可能な状況にあります。
そこで相談ですが、来たるクーデター戦争においては、我々アメリカ(土佐・肥前連合軍)もイギリス側に一枚かましてはもらえないでしょうか。
当然、新政府が出来た暁にはそれなりのポジションと利権を分けてもらうという条件つきということになりますがね。」
詳細は自信ありませんが、このような会話が2人のあいだで交わされ、グラバーは最終的にこのアメリカのオファーに乗ったようです。(上海の了解は得たでしょうが。)
この会談を受けて、板垣等は土佐において軍団を上方へ送る準備をそそくさと整えたような気がします(板垣って本当に小物だな。)。
イギリスは、いったんは自軍補強のためアメリカと妥協を図りますが、明治維新後「自国の勢力固め・アメリカ勢力の放逐」を少しづつ実行していきます。
明治4年の欧米派遣使節は、ほとんどイギリス系の息のかかった人間ばかりであることに注意する必要があると思います。
副島、板垣、江藤等、いわゆる明治6年の政変で放逐されたのは、西郷等の一部例外を除き、土佐・肥前系が多くなっています。(大隈も14年に失脚させられる)。
明治維新は、イギリスとアメリカの日本における縄張り争いという側面も持っていたのです。
例えば、80:20で日本がイギリスのものとなったと仮に数字を置くとすると、その後何とかその20相当分の影響力を残そうとするアメリカと、100%利権を独占しようとするイギリスとの戦いという観点からみると、明治維新の別の側面が見えてきます。
それは、70年後の第二次大戦が、「なんとか日本に対する影響力を残そうとするイギリスと、新たな日本の支配者であろうとするアメリカの戦い」という側面を持っていたこととちょうど攻守を逆にした戦いであったこと(最近このことを立証する本が出ましたが、題名を忘れました)を考えれば、素直に納得していただけるのではないか、と思います。
ここで座興として妄想を更に膨らまします。
アメリカの戦略としては、新政権発足後、次第にアメリカの足場を崩そうとするイギリスに対し、あせりがあったはずです。
だとすれば、明治6年の政変により失脚した江藤或いは西郷に影からこっそりと支援の手をさしのべることにより、イギリスに対する一発逆転の道も内部では真剣に検討されたはずです。(私がアメリカの責任者だったらそうします。)
当然イギリスは、他の外国勢力が反政府軍側につくような動きに対してはキチンと警戒の網を張っていました。
西郷のいる鹿児島には、Willis?(はっきり記憶がありません)とかいう名前のイギリス人を直前まで配置し、その動向を監視していますし、いよいよ西郷軍が兵を挙げる直前には、わざわざ西郷の旧友(陰謀仲間)であるアーネストサトウを日本に呼び戻して鹿児島に派遣し、政府軍が確実に彼をしとめることができるのかを見に行かせています。
昨年のイラク戦争も、アメリカの戦争に一枚加わってそれなりの利権を確保しようとするイギリスと、イギリスを利用はさせてもらうものの100%で利権を確保しようとするアメリカの摩擦が一時話題となりました。
アメリカとイギリスは、対外的には第三者から利益を吸い取る際にお互い協力して事に当たるものの、時によりその分配割合においてケンカをすることがあります。
このような横綱と大関の争いというものは、150年前からあったということなのでしょうか。
以上、今回も客観的な根拠のない妄想話でした。
(いままでは、客観的な証拠がなくとも、主観的には確信のある話をご紹介してきましたが、今回は、全くのデタラメである可能性も多分にあります。何かこれらの話に関連する書物やエピソード等ご存知でしたら是非ご紹介ください。)