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(回答先: 怪しいのはむしろ岩崎弥太郎ではないでしょうか 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 1 月 21 日 21:25:51)
>その支点は、
>1. トーマス・ブレーク・グラバーとその背後の駆動力
>2. 同時代内戦(戊辰戦争、西南戦争、米国南北戦争)の駆動力
>に置くべきです。
【中略】
>(同時代内戦−南北戦争)
>かくして、徳川幕府−官軍の正面的な激突を回避した後、
>悲惨な戊辰戦争、そして西南戦争までは、
>一つの流れとして見ることができます。
>その駆動力は、けっきょくのところ「英国」であり、「資本主義」であるのか。
>米国の影がこの時期薄くなるのは、
>むしろ南北戦争による国内混乱が主原因ではないでしょうか。
>(南北戦争:1961〜65年)
>南北戦争の歴史も、隠蔽された事柄が多いのではないかと思いますが、
>米国人でもないと本当のところはよくわからないでしょう。
>だから推測。
>この戦争では、日本とは異なり、全面戦争を避けることができず、
>南部の首都が炎上するところまでいってしまいます。
>この影に英国の手が入っていたのでは?
>奴隷解放問題という建前は別として、
>米国−日本の内戦は同時代であり、
>その次なる工業資本主義の時代の幕開きという点で似ています。
>同じ駆動力が背後にあったのではと想像します。
>(分からないのでここまでね)。
この点が非常に面白かったので、
勉強不足の自分自身の勉強を兼ねて少し検索して調べてみました。
長文ですので、必要なところだけ拾い読みしてください。
まず、大英帝国発祥?
「帝国主義」について
http://www.rikkyo.ne.jp/univ/nakaj/nakajima/eh0209.htm
(引用開始)
9.帝国主義
「周辺」世界の「近代化」の試みとその挫折
西ヨーロッパ主要国以外で19世紀に近代工業の樹立に成功したのは3地域に限られる
アメリカ合衆国( 1861〜65 南北戦争 )
ロシア( 1861 農奴解放 )
日本( 1868 明治維新 )
他の地域では(ヨーロッパ周辺部も含め)、近代化・工業化の試みの多くは先発諸勢力の干渉により挫折
19世紀に入るころから、「先進」世界に文化的優越の意識が生まれる
→ 旧世界の政治・経済過程に強力に介入 → 混乱
→ イギリスの主導による世界市場分割( パックス・ブリタニカ )
ドイツ・イタリア・日本の不満が内攻 → 第一次・第二次世界大戦へ
「周辺」地域の一部は、従属的地位に置かれながら、着実に産業発展の基礎を構築
政治的独立・自立(多くは第二次大戦後)→ 国際的に連帯、NIEsとなる地域も
世界経済の「一体化」
オスマン・トルコ帝国の解体
1829 ギリシア独立 1840 エジプト自立(英勢力下に) 1878 バルカン諸国独立
1839 ギュルハネ勅令 → タンジマート開始 1876 ミトハト憲法
1889 青年トルコ党結成 1908 サロニカ革命 → 立憲制へ ( → 1922 共和制樹立 )
ロシアと領土対立 → 英仏に、後には独に接近
ペルシア王国の動揺
1828 アルメニアをロシアに奪われる → 英に接近、欧化政策
1848 バーブ教徒の反乱 1891 タバコ・ボイコット運動 1905〜11 立憲革命( → 挫折 )
ムガール帝国の崩壊
1765 イギリス東インド会社、ベンガル地方の徴税権を取得 → インド経済の実効支配を徐々に確立
ベンガル …… ザミーンダーリー制( 旧領主層が徴税請負 )
マドラス・ボンベイ …… ライーヤトワーリー制( 農民が直接納税 )
パンジャーブ …… マハールワーリー制( 農村の支配者集団が共同で納税請負 )
19世紀に入ると、インドの対欧輸出用(細糸)綿布生産は、イギリス製品の流入で壊滅的打撃
→ 代替作物の栽培を推進 : 藍、阿片...
1813 東インド会社の貿易独占権廃止
→ プランテーション本格化 : 茶、綿花、コーヒー、小麦、ジュート...
内陸部と港市を結ぶ鉄道建設
1857〜59 大反乱(セポイの乱) → 1858 ムガール皇帝を廃位、東インド会社解散、英政府直接統治へ
1877 ヴィクトリア女王、インド皇帝位につく
インドネシアの苦悩
1619 オランダ東インド会社、バタヴィア(現ジャカルタ)を建設
18世紀半ばにはマタラム王国を滅ぼし、徐々に支配領域を広げる
19世紀初頭、一時イギリス支配に入る( → 1819 シンガポール建設 )
1830 ベルギー独立で財政難に陥ったオランダ本国政府により、強制栽培制度が導入される
コーヒー、砂糖、藍... ( → 1860年代以降、民間プランテーションに徐々に移行 )
19世紀末以降、サミン、サレカット・イスラムなど、宗教的色彩の強い民族運動が興る
清帝国と列強
1757 乾隆帝、外国貿易港を広東のみに限定し、商人ギルド(公行)に管理させる
19世紀に入るころからイギリス・インドとの間に三角貿易が盛んになる
中国 →(茶・絹)→ イギリス →(綿布)→ インド →(阿片)→ 中国
阿片貿易の行き過ぎによる銀流失 → 経済混乱 → 密貿易取締り → アヘン戦争(1840〜42)
1842 南京条約( 5港開港、公行廃止、香港割譲 )
1851〜64 太平天国の乱 → 清朝政府は統治能力のなさを露呈
以後一連の不平等条約( 1858 天津条約、1860 北京条約...)で、清朝は関税自主権を喪失
洋務派官僚による近代化の試みはほとんど失敗( ← 西太后ら守旧派の圧力 )
日清戦争(1894〜95)敗北後、中国は完全に諸列強による利権獲得の草刈り場となる
1894 興中会 → 1905 中国革命同盟会 → 1911〜12 辛亥革命、中華民国成立
アフリカ人奴隷の供給途絶 → 印僑・華僑が西欧主導の経済開発の人的担い手として世界各地に散る
(引用終わり)
南北戦争においてのデュポンの役割について、
という不思議なものを発見しましたので、こちらも。
これは今の石油資本と結びついているのかな?
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~780901/datako/ko318.htmより 抜粋
(引用開始)
2)デュポンの発展
デュポン家のモットー。社長は在職中に売上を2倍に。しかし利益第1、安全第1.「売上高が利益よりも高く評価されるようになれば、それは企業ではない。官僚制度である」。(社長、コープランド)。自己金融中心。研究開発重視。年間1億ドル以上の研究開発費。年間1千以上の新製品の試み。海外戦略の積極化。(21国以上に61以上の工場。全体の20%が海外工場従業員。売上高の20%が海外売上高)、1500人以上がデュポン家族と言われる。同族経営であるが、事業部制の採用など経営の近代化には先進的役割を果たす。
○第1期(創立―100年間)アメリカ最大の火薬会社に発展
1771年、フランスのパリでE.I.デュポン・ド・ヌムールの創業者,イレネー・デュポン誕生。父は国務参事官、商務長官などを歴任。1789年フランス革命起こる。1790年国民議会議長になる。その後父東国。 1798年 デュポン・ド・ヌムール父子商会を設立。1799年アメリカに亡命。
1801年 デュポン火薬会社を設立。イレネー(30歳)で社長に就任。資本金3万6千ドル。フランス革命が世界に飛び火し、爆薬販売が飛躍的に伸びる。
1804年 社名をE.I.デュポン・ド・ヌムール会社とする。
1812年 米英戦争でデュポンは多量の火薬を納入し、アメリカの勝利に導く。
1834年 イレネー死去。デュポン社は完全にアメリカの会社になる。それまでフランスにも拠点。
1837年 イレネーの長男、アルフレッドが第2代目の社長となる。
1850年 アルフレッドの弟、ヘンリーが第3代目の社長となる。
その後、メキシコ戦争(1846年)、南北戦争(1861-65年)で大きな利益。
1872年火薬トラストを設立。GTA。
1879年 アメリカで消費される火薬の61%をデュポンが支配。
1889年 ユージン・デュポンが4代目の社長となる。
1898年の米西戦争で巨大な利益を上げる。4ケ月で220万ポンドの火薬を政府に納入。生産力は一挙に9倍にアップ。
1899年 株式会社E.I.デュポン・ド・ヌムール社がデラウェアー州で成立。これが今日のデュポン社の創立の年とされる。
○第2期(20世紀初頭から1920年代末まで)火薬専業メーカーから買収合併を通じて化学製品の多角化に進んだ時代
1902年 T.コールマン・デュポンが5代目の社長となる。本部をウイルミントンに移す。競争相手のラフリン・アンド・ランド社を買収し、アメリカ火薬産業を独占的位置。その後、さらに多くの企業を合併し、アメリカ火薬生産の64-74%を生産。
1907年 シャーマン反独占禁止法により告発。
1911年有罪の判決。デュポン、アトラス火薬、ハーキュリーズ火薬の3社に分割。
1914年 第1次世界大戦。各国に10億ドルを上回る火薬を販売。
1915年 ピェール・サミュエル・デュポンが6代目の社長になる。
1919年 第1次世界大戦の終了。デュポンの従業員は8万5600人から1万8000人に削減。経営危機。イレネー・デュポンが7代目の社長。
1920年 GMを買収し、ピェール・SがGMの社長を兼ねる。
3)多角化と組織の変革
1902年 社長の死を契機に経営危機。以後、吸収合併を積極的に展開。集権的職能部組織を生み出す。ラインースタッフ組織の導入。各主要部門には副社長を配置。
1908年 火薬以外に進出。(過剰設備、過剰人員の有効利用として)。1910年頃より人工皮革、人造絹糸、セルロイドなどの生産を開始。但し、1913年では、火薬以外の売上はわずか3%であった。
第1次世界大戦中は、爆薬生産に集中。しかし戦後の過剰設備は深刻なることを予測。その対策としては、一層の多角化。1917年の経営委員会は以下の5分野に多角化を推進することを最終決定。1.染料および関連有機化学製品 2.植物性油脂 3.ペイントおよびワニス 4.水溶性化学製品 5.セルロースおよび綿精製事業。
組織的には、集権的職能部組織をとり、集権化をより一層強めることで対処。
1919年 中央集権化の強化。全社の業務活動を生産、販売、開発、財務の4つの職能別部門に分ける。それぞれ副社長が担当。
1920-21年 深刻な戦後不況。業績の悪化。小委員会の設置。問題の分析。製品系列による分析。大口販売―半製品、染料など。トン単位で販売。小口販売―小口包装製品。この分野でとくに損失が多きことが判明。投下資本利益率が15%以下。
☆勧告。職能よりも製品を組織の基礎にすること。二つの事業部門に分割することを提案。しかしこの勧告は採択されず。
1920年 大赤字。危機認識強まる。火薬部門いがいですべて赤字。改革案。1.集権的職能部制を事業部制へ。2.経営委員会から現業管理者を排除。客観的経営分析の必要性。従来は経営委員会は各部長によって構成されていた。
☆組織改革案。
・ 5つの製品事業部―各担当事業部長はそれぞれの事業部で全面的な権限と責任をもつ。ライン的活動を遂行し、購買、製造、販売などに責任をもった。経営委員会の権限にのみ従う。
・ 8つのスタッフ的補助部門―総務部、開発部、施設部、化学部など。コンサルタントとしての機能。会社および各事業部のためにスタッフ的なサービスを行う。経営委員会に責任を負う。
・ 財務部―若干のライン権限をもち続けた。
このデュポンの組織改革はその後GMの組織改革に直接的な影響を及ぼす。
○第3期(1928年―1960年代初めまで)研究開発による発展時代。合成ゴムのネオプレン(1931年)、ナイロン(1935年)などの発明。独占商品による高収益時代。
○第4期(1962年以降―)GM株保有違反判決。独占体制が揺らぎ始める。競争激化、利益率低下。内部統合を図る。海外進出を積極化。世界企業へ発展。
《石油産業企業の競争戦略と組織》
ロックフェラーを中心にして
―ロックフェラーは如何にして成功したのか?-アメリカ石油産業の発展―
1. 石油産業とは。
・ 石油産業としての特徴。生産の自然独占、製品の戦略的重要性。
・ 製品特性。製品の多様性。原油からの完成品までの生産調整。
・ 産油地。第2次世界大戦前は、アメリカ、ロシア(1880年代)、メキシコ(1910年代)、ヴェネゼラ(1920年代)。第2次世界大戦後は中東へ。現在では中東が世界の原油生産の半分以上を生産。
・ 製品としては、灯油、潤滑油、アスファルト。20世紀に入ってからガソリン需要が急増。
・ 石油産業の主要事業部門。探索、原油採掘、生産、精製、輸送(鉄道、パイプライン、タンカーなど)
・ 石油産業の技術革新。
<石油の成分と精製>
沸点 内容比率
ガス(メタン,エタン) −89c以下
LPG(プロパン、ブタン) −42cから1c
ガソリン 35cから180c 12.0%
灯油 170cから250c 9.4%
軽油 240cから350c 7.0%
残油 350c以上
粘度による分類 重油 52.5%
A 重油
B 重油
C 重油 硫黄分多い
ナフサ 15.2%
廃ガスの利用により石油化学へ
2. ロックフェラーの登場
・ 1859年にペンシルヴェニアでDrakeが噴出油田を発見し、商業化する。
・ 1863年 ロックフェラーが石油精製業に参入。
・ 1870年 ロックフェラーがStandard of Ohioを設立。資本金100万ドル。差別運賃の導入。輸送コストの削減。輸送コストは販売 価格の4分の1を占めていた。
・ 1872年 南部時開発会社を設立。全国の製油能力の20%を支配。
同年、Petroleum Refiners’ Associationを結成。会長にロックフェラー就任
・ 1873年 この頃、Standardとペンシルヴェニア鉄道との間で激しい競争。Standardはトランク・ラインを建設(鉄道の代替)。
・ 1875年 ロックフェラーはCentral Refiners’ Associationを結成。
・ 1876年 この頃までにStandardはPennsylvania鉄道に勝利。
・ 1878年 Standardの集中運動完成
・ 1879年 この頃のStandardの精製能力は全国の90-95%を占める。
(70年代に入って販売部門へ進出、Pipe Lineを支配。生産業者をも支配下に置く)
・ 1882年にStandard Oil Trustの結成。
・ 1890年 Sherman(反トラスト)法成立
・ 1892年 trustが違法とされる。
・ 1911年 Sherman 法によりStandard Oil Trustの解体。
3.世界の石油
○国際石油資本(Majors or Seven Sisters)
Standard Oil of New Jersey(Esso、 1998年にMobileとの合併を発表)、Standard of New York(Mobile)、Standard Of California、Royal Dutch Shell、Gulf Oil(1984年にソーカルに吸収され、シェブロンに社名変更)、 Texaco(1902年にテキサスに設立、1936年サウジアラビアから利権を獲得、ロイヤル・ダッチ・シェルと提携)、British Petroleum(1998年に米大手石油会社アモコと合併)。→1990年代は「スーパー・メジャー」と呼ばれ、3強時代へ。
○Majorsの戦略。
@企業内におけるバランスの取れた統合企業
A輸出市場における国際カルテル
B販売政策―特約店制度の利用。
4. 石油危機
<1973 年、第1次石油ショック>。10月に第4次中東戦争勃発。この時アラブ諸国は石油戦略を発動。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が石油の減産・禁輸を行い、OPEC(石油輸出国機構)は原油価格を一挙に4倍に引き上げた。原油価格は1972年末の約5倍に値上がり、世界経済は大打撃を受ける。
<1979年2月、第2次石油ショック>。イラン革命。王政が崩壊。原油再び価格急騰。翌年、イラン・イラク戦争発生。両国の石油輸出がストップしたため石油価格は第2次ショック以前の2倍半に上昇。また金銀など商品相場も高値を付け、ドルは急落。 1980年代前半、世界的大不況。物価上昇→高金利→景気後退の悪循環に陥る。石油1バーレル=20ドル時代を迎え、西側各国は石油消費の抑制とエネルギー源の多様化を図り、コスト削減が徹底された。
5. ロックフェラーの成功の理由とエネルギー産業の未来
<ロックフェラー財閥>
デュポン家、メロン家とならぶアメリカ三大財閥の一つで、石油産業(エクソン社などスタンダード系石油会社)を中心に、鉱山、化学、銀行(チェイス・マンハッタン銀行)など多岐にわたる事業を展開している。同時にロックフェラー財団を通じて、特に医学、農業など自然科学の分野における篤志活動を行っている。とりわけ1960年代の発展途上国の慢性的な食料不足の克服に貢献のあった新種の種子開発によるグリーン・レボリューション(緑の革命)は、財団の業績として評価が高い。石油事業で巨万の富を築いたJ.D.ロックフェラーは、鉄のカーネギー、自動車のフォードとともに、アメリカ資本主義の代名詞ともなっている。しかし、その強引ともいえる競争者の排除による石油独占体の形成に対して19世紀の悪徳資本家と糾弾する評価もある。こうした傾向は第2次大戦後薄らいだとはいえ、最近に至っても程度の差はあれ残っており、アメリカの<影の支配者>として一族を捉える見方もある。
(引用終わり)
創始者はフランス革命に絡んでいたみたいですし、
デュポンは南北戦争で大もうけしたみたいです。
「イギリス」だけではなくて「金融資本」が絡んでる模様。
南北戦争前のアメリカ独立戦争は、フランスの陰もちらつくようです。
デュポン社の自社紹介
http://www.dupont.co.jp/jpcorp/tradition/history/history_02a.html
にも「南北戦争の光と陰」と題して、
北軍の勝利にデュポン社の軍用火薬が役立ったという話があります。
(引用開始)
南北戦争の激化につれ、北軍の火薬原料である硝酸ナトリウムの備蓄量は底を突き始める。米連邦政府は、ある事件をきっかけに南部連合の支援に回ったイギリスから、硝酸ナトリウムを買い占めようと考え、1861年10月30日にヘンリー・デュポン(3代目経営者)をホワイトハウスに召喚した。ヘンリー・デュポンは、甥のラモット・デュポンにその使命を託し、密使としてイギリスに送り込んだ。
その後3年間にわたりラモットは、北軍が戦争を続けるのに十分な硝酸ナトリウムを供給し続けた。彼の努力は南軍の敗退を決定づけるものとなった。
戦争当時、デュポンは、およそ40%を占める400万ポンド(180万キロ)あまりの軍用火薬を生産していたのだ。
ヘンリーとラモット、そして218人の従業員と家族が努力を重ね、精力を費やした結果、E・I・デュポン・ド・ヌムール・アンド・カンパニー社は、国内第1位の火薬製造会社に成長していた。
(引用終わり)
このあと、ノーベルの出現。ニトログリセリンの発見。
ちなみにこの「歴史と伝統」を読むとかなり勉強になります。
6章にはマンハッタン計画の事まで書かれてあります。必見。
もう一つ。
ロッテリーという、
いわゆるイギリス発祥の宝くじと同じだと思うのですが、
その発祥と使途に注目してください。
世界史豆知識より
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mizuta/mame13.htm
(引用開始)
イギリスの賭博(18世紀)
18世紀のイギリスは賭博熱が異常に高まりました。拳闘・レスリング・短剣の決闘・動物賭博をはじめ、食べくらべ・飲みくらべから近親者の死亡時刻当てまでありました。しかし、賭博が職業になり始めると、常に勝ち続ける必要からいかさまがさかんに行われるようになりました。
ロッテリー(アメリカ)
ロッテリーがエスカレートして、あまりにも人々の射倖心をあおるので、イギリスは1699年に禁止しました。しかし、その11年後に再度許可されています。アメリカでは南北戦争(1861〜65)の戦費調達(北軍)や大学建設のくじなども売られました。
ロッテリー(ヨーロッパ)
ヨーロッパのロッテリーは、適当な相続人がいない貴族が死んだとき、家具・宝石類などを賞品にしたくじを売り出して換金するやりかたが、その始まりでした。フランスでは1520年に許可され、1539年以降は収益を国家にいれることになりました。イギリスやイタリアでも16世紀に行われ始めました。
ロッテリー
ロッテリーというのは、主催者が大勢の人々に大量のくじを売って大金を獲得しておき、くじに当たった特定の者だけに高い倍率で金を割りもどすものです。日本では富くじといい、江戸時代初期に始まっています。収益を寺社修復にあてるのが目的でした。
(引用終わり)
永井俊哉ドットコムより
http://www.nagaitosiya.com/lecture/0116.htm 「金本位制の功罪」です。
長文ですが。
(引用始め)
著名な経済人類学者カール・ポランニーは、1816年から1914年までの金本位制の時代を国際協調と平和の100年として懐かしんでいた。確かにナポレオン戦争が終結した1815年以降、第一次世界大戦が起きるまでの約100年間、あまり大きな戦争が起きていない。この100年は、コンドラチェフ・サイクルの第一波動の金利の山から第三波動の金利の山にいたるまでの期間に相当する。途中の第二波動における金利の山(1870年)を形成する過程で、1853-56年にクリミア戦争、1861-65年に南北戦争、1866年に普墺戦争、1870-71年に普仏戦争が起き、物価と金利が上昇している。しかしこれらの一連の戦争は、他のサイクルの金利上昇=インフレ局面で見られる戦争と比べれば、規模が小さい。なにより、金本位制の時代は、物価も金利も安定していた。では、金本位制は、世界に平和と安定をもたらす、すばらしい制度であったのだろうか。
この問題を検討する前に、金本位制とは何かを説明しよう。金本位制とは、中央銀行が、発行した紙幣と同額の金を常時保管し、金と紙幣との兌換を保証する制度である。それ以前は、金と並んで銀も本位通貨とされていた。金本位制を採用すると、銀を本位貨幣から外すために、ベースマネーが減少する。すると、実質金利が上昇するので、貸し出しが控えられ、マネーサプライが減少する。つまり金本位制度導入には、金融引き締めの効果がある。
1816年にイギリスは、ナポレオン戦争によって生じたインフレを抑えるべく、世界に先駆けて金本位制を導入する。その後、最初に述べたとおり、1870年前後に再びインフレが生じると、ドイツ、オランダ、ベルキー、フランス、イタリア、スイス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、日本といった先進国が次々と金本位制を導入し、1870年代に国際金本位制が確立する。当時銀貨の価値が下がっていたので、銀を本位通貨としてインフレを煽ることにならないよう、金本位制を導入した(その結果銀貨はさらに暴落する)ことは正しい判断だったといえる。
問題は、デフレになった時である。1873年にイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、オーストラリアで鉄道バブルが崩壊し、以後19世紀の末まで世界経済は長く深刻な不況に苦しむことになる(例えば、英国の場合、1873〜96年の年平均で小売物価下落率1.7%)。この世界大恐慌は、1929年の暗黒の木曜日から始まった世界大恐慌に匹敵する大規模なデフレだった。そして、金本位制の導入は、このデフレの原因の一つだった。
デフレになると、物価が下落し、貨幣価値が上昇する。物価が下落すると、企業の収益が悪化し、また貨幣価値が上昇すると、貸し渋りにより資金調達が難しくなるので、投資と生産が抑制される。その結果失業者が増えるか賃金が低下する。すると消費が減退し、物が売れなくなるので、値下げによる物価の下落がさらに続く。デフレが新たなデフレを呼ぶデフレスパイラルである。このデフレスパイラルから脱却するには、
1.貨幣価値を下げる
2.物価を上げる
のどちらかまたは両方を政策的に行わなければならない。
1.貨幣価値を下げる最も簡単な方法は、ベースマネーの量を増やすこと(量的金融緩和)である。しかし金本位制のもとでは、ベースマネーを増やすには、金の物理的量を増やさなければならない。イギリスでは、当時イギリスの植民地であったオーストラリアや南アフリカでのゴールドラッシュのおかげである程度金の保有量を増やすことができた。しかしドイツやアメリカといった他の新興工業国は、この手段をとることができなかった。
2.物価を上げる最も簡単な方法は、戦争で資源を浪費して物不足状態を作ることである。ところが、1873年の大恐慌以降、第一次世界大戦が勃発するまで、デフレを解消するような大きな戦争は起きなかった。これは、大英帝国の軍事力が圧倒的で、どの国もパクス・ブリタニカに挑戦しようとしなかったからではない。19世紀の末になると、アメリカとドイツが、工業生産力という点でも、軍事力という点でも、イギリスを凌駕するようになっていた。だから、実際よりももっと早く、アメリカとドイツのどちらかが大英帝国の世界制覇に挑む戦争をしてもおかしくはなかったのだが、政治的な理由、すなわち、アメリカは孤立主義により、ドイツはビスマルク外交により、大規模な世界戦争は1914年まで延期となった。
戦争という手段を選ばなかった列強諸国は、別の手段で、物価を引き上げた。すなわち、大産業資本がカルテル・トラスト・コンツェルンなどを形成し市場を独占/寡占して、価格を引き上げることを容認したのである。いわゆる独占資本主義の始まりである。時を同じくして、労働組合も結成されるようになった。これは組合が労働市場を独占して、賃金(労働者の価格)を引き上げることを意味している。だからこの当時の社会主義運動の高まりは、独占資本主義に対抗する運動というよりも、これに同調する運動だったのである。
こうして物価下落という意味でのデフレは阻止されたが、独占/寡占による供給サイド主導の価格の引き上げは、需要の減退をもたらすので、先進工業国は、国外に新たな市場を見つけなければならなくなった。その結果、レーニンが帝国主義と名付けた植民地獲得競争が起きる。ドイツは、もはやビスマルク外交を続けることができなくなり、1890年にビスマルクが失脚すると、ヴィルヘルム2世は積極的な世界政策を展開し、これがやがて第一次世界大戦を惹き起こすことになる。こうして、1873年以来の長期のデフレは完全に解消される。
このように、金本位制は、ヨーロッパに平和をもたらしたのではなく、むしろ戦争を惹き起こすデフレの原因となっていたのである。もし、1873年のバブル崩壊後に、大規模な量的金融緩和が行われていたら、第一次世界大戦は回避できたかもしれない。
言語が世界の情報を代表象するように、貨幣は全商品の価値を代表象する。金の価値の総額は、市場経済で売買される商品の価値と比べると圧倒的に少ない。本位貨幣を金に限ると、市場経済の成長とともに増大する資金需要を満たすことができなくなる。したがって、纏足を続けると、成長する女性の足が屈折していびつになるように、金本位制度を続けると、成長する資本主義が屈折していびつになる。しかし、纏足が女性の足の必然的発展形態ではないのと同様に、独占資本主義は、マルクス主義者がそう誤解しているような資本主義の必然的発展形態ではない。実際、金本位制度が放棄された第二次世界大戦以後、特にニクソンが1971年にドルと金の交換を停止して以来、先進国は国内における独占/寡占を容認しなくなったし、植民地獲得のための帝国主義戦争を行わなくなったのである。
(引用終わり)