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司馬遼太郎史観ははたして正しいのか、--- 『坂の上の雲』の歴史観に問題はないか
2004年1月17日 土曜日
◆司馬遼太郎について考えてみました
先日、「文藝春秋7月号に『朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ』という内容を見つけて云々・・・」の話を簡単に書いたことがあるが、どうもあの文章には疑問が残る。もう少し様子を見たほうがよさそうである。が、この同じ本の中で、特集『坂の上の雲』という部分があって、興味深く読まさせてもらった。いくつか気になる記述はあったが それはそれ。歴史に対する考え方や その人の思想・心情に触れる虞があるので あまり気にせず読み進んだ。
だけど、どうしても「日露戦争で活躍した登場人物たちが、勲章や爵位のため、歴史の改竄をはじめた」という考え方には 賛同しかねる。歴史を語っているわりには歴史を知らなすぎる。司馬氏も「日露戦争に勝った、その頃から日本の軍隊がおかしくなっていく」ような意見を述べられていた。確かに、多くの書籍などを読むと、それまでの日本−維新以降の日本は順風満帆で進んでいたように読み取れなくも無い。統一国家を作り上げ、国内の不平士族の反乱を鎮め、憲法を発布。国会の開催。清国・露西亜との戦いにも勝利し、不平等条約も撤廃できた。天皇を中心とした国家体制は ほぼ完成したかのように見える。どこに問題があろうか?
外見上は これで間違いではないのだ。一般的な見方では これで十分なのだ。でも、考えて見て欲しい。国家の構成員は一体誰なのかを。名も無く生きてきた多くの人々という立場から歴史を見てみれば、全く別な歴史に見えてくる筈だ。内乱が終わったと思ったら、外国の人達が大勢やってきて、急に物価は上がり、生活は苦しくなる一方。「もっと良い暮らしを・・・」と訴えていた人達は次々に警察に連れて行かれて戻っては来ない。その上、今度は軍隊に働き手を連れていかれ 外国との戦争の度に必要な物資は勝手に持っていかれて・・・。
これが、国民の側から見た明治だ。どこが良かったのか。全ての対外的な、歴史の表舞台の出来事は多くの国民の犠牲で成り立っていたのだ。この点をよく考えてもらいたい。『・・・明治期、国家形成を支えたのは、一般市民ではなく、指導者であったことがわかります。・・・』などと、良く言えたものである。国民から取れる限りのお金を搾り取って、自分達はぬくぬくとした優雅な生活をおくっておいて、何か不平でも言おうものなら 警察に連れて行かれてしまう。こんな時代だったということを知っていて、その上であの言葉なのだろうか?
いつものように前置きが長くなってしまいましたが、ここらで本題にはいります。
日清戦争・日露戦争これらの戦争の実態については、多くの人々によって活字化されている。その中には参謀本部と海軍軍令部によって作成された『公刊日清戦史』・『明治二十七八年海戦史』 及び『日露戦史』・『明治三十七八年海戦史』等がある。国家主導で作成したこれらの資料が最も権威がある資料だったかもしれない。従軍記や、外国ジャーナリスト達の作成した文章を別にすれば、国内で発刊されたものはこれらの資料を或る程度踏まえて作成されているだろうし、司馬遼太郎氏もこれらの資料を参考にしたはずである。
考えたいのは これらの資料の正確さ(どれ程 真実を包み隠さずにのべているのか)についてである。作成されて、一般の人達でも読むことの出来るこれらの資料に対する信憑性といったところです。多分司馬氏の場合には これらの資料を参考にしたのでしょう。しかし、今は新しい資料が見つかっています。例えば、『公刊日清戦史』の場合は、その下書きとなった『日清戦史草案』というものの存在が明らかとなっています。これは、中塚明氏が福島県立図書館で発見されたものです。
このほか、『明治二十七八年海戦史』に対しては『極秘明治二十七八年海戦史』が、『日露戦史』については『明治三十七八年陸軍政史』が、『明治三十七八年海戦史』については『極秘明治三十七八年海戦史』というものが存在したそうです。『極秘明治三十七八年海戦史』については野村實氏が防衛庁防衛研究所でその存在を発見していますが、『極秘明治二十七八年海戦史』及び『明治三十七八年陸軍政史』については 現存の確認は為されていないようです。これを一覧表にすると、以下のようになります。
では、どうしてこれらの資料が残っていないのでしょうか?基本的に これらは、軍内部で使用する為、あるいは発表するまでの下書きとして作成したもので、はじめから公開する予定のものでは無かったものです。ですが、一部の人達はそれを所持していました。それが敗戦によって失われてしまったのです。この部分は野村實氏による次の文章を読んでみてください。
「・・・第二次世界大戦終結時において、それまでの歴史では先例のなかった戦勝国による『敗戦国の主権停止』と『戦争責任の追及』がなされた。このため、日本では敗戦後に公文書の廃棄という、歴史の面からみればきわめて好ましくない経過が生じた。
このため、秘密区分に含まれる『極秘明治三十七八年海戦史』や『明治三十七八年陸軍政史』は、個人蔵も含め、原則として焼却された。海軍省文庫にあった一五○巻も同様である。しかし占領軍の厳しい捜索の手は、皇居内にまでは及ばなかったようである。つまり、かって海軍から明治天皇に奉呈された『極秘明治三十七八年海戦史』一五○巻一組だけが皇居内でかろうじて生き残り、それが戦後三十年を過ぎて宮内庁より防衛庁に移管され、防衛庁防衛研究所に所蔵されることになったのである。・・・」(野村實著「日本海海戦の真実」P26より引用)。これらの資料が見つかる可能性は極めて低いと言わざるを得ないが、今でもどこかに存在する可能性を信じたいものである。
それでは これら90年代になるまで 存在は知られていたが実物が見つかっていなかった資料にどんなことが書かれていたのだろうか?詳しくはそれぞれの資料を見られたほうが良いが、例えば『公刊日清戦史』の場合 嶋名政雄氏の言われているように「・・・『公刊日清戦史』の日清戦争開戦記述は、事実とはまったく違った作り話であり、差し替えられていたことの、動かしようのない物的証拠だった。・・・」(嶋名政雄著 「乃木神話と日清・日露」”はじめに”の部分より引用)歴史の事実を改竄し、修正することによって作られたものであった。
既に、日清戦争の時代から 歴史は書き換えられていた。都合の悪い事、具合の悪い事、一般の国民に知られたく無いこと、皇軍の失策を暴くことになる事等の事実は伏せられ、「勇敢に清国の軍隊と戦って連戦連勝の快進撃を続けた」かのような印象を与える文章のみが事実として伝えられていた。今風に言うなら マインドコントロールとでも言うべきか。司馬氏は「日露戦争終結後、論功行賞のために不利なことを書かないようにした」と言われているが、それより10年前の日清戦争の時点で既に 歴史はすりかえられていた。そればかりか、戦争すら自らの手で(あたかも偶然の出来事に見せかけて)引き起こしていたのだ。昭和の軍部の為した行為の原型が既にこの時点で準備されていたと言ってよい。
これらの資料が見つかったのは、1990年代に入ってからである。従って、司馬氏はこれらの資料は見ることが出来なかった。作家とは大変なもので、以前に書いた作品に対して新しい資料が しかもそれまでの常識を覆すような資料が見つかったとしても それが作品の骨格を為す部分であったとしたら 修正することは不可能だ。このような状態となった時、作家(司馬氏)はどのような想いがしたことだろう。司馬氏は その時点で出来る限りの資料を集めてあれだけの作品を作り上げた。まさに偉業といっても良いのだが、その根本的な歴史の読み方に問題はなかったのだろうか?
司馬氏は 22歳の時に終戦を迎えた。その子供のころの記憶、大変だった時代を生きてきた記憶が その後の作品に影響を与えたであろう事は見逃せない。自分が生きた 戦時中の『悲惨さ』を、『世界の第一線に日本が躍り出た日露戦争以降に原因があった』と直感的に思っ てしまったのだろう。それが、「明るい明治−暗い昭和」という明快な対比を彼の中に生み出してしまった。彼にもし、もっともっと民衆の力・民衆の行動を理解しようと する気持ちがあったとしたら、もっと別な歴史の読み方ができたのではないだろうか?
それが出来なかった理由の一つに「司馬氏は、士官として戦争を体験したからだ」という説が存在している。兵隊の立場とは違った見方、そんなものが何か士官には存在したとしてそれが 司馬氏の歴史認識の基礎をなしているとしたら、戦争はどれほど人の心−内面の深い部分−にまで影響を及ぼすものなのだろうか?彼が、「資料の取捨選択によって歴史を改竄したのでは?」というような考えを持っている人もいるだろう。しかし、私は司馬氏が意図的にそれを行ったというよりはむしろ その戦争体験がある種の引き金となって、「『明るい明治』というイメージを作りだしてしまった」と考えるのが妥当なのではないか?そんな風に思うのである。
(私のコメント)
去年の10月3日の日記で『本当は日本軍の大勝利だったノモンハン事件』を紹介しましたが、それまではソ連側の大本営発表がそのまま日本でも定説とされていました。しかし90年のソ連崩壊後に出てきた資料によると、日本側を上回る大損害をソ連軍が受けていたことが分かった。10倍ものソ連軍に対して日本軍を上回る被害と800両ものソ連戦車が破壊されて、飛行機も1600機以上の損害を出していた。
このように時間が経過したり、政変があって公開されていなかった資料が見つかって、今までの解釈が全く変わってしまうことがあります。だから司馬遼太郎氏も莫大な資料を集めて歴史小説を書いたことで知られますが、やはりそれらの歴史研究によって史実はこうだったと注釈をつけて改訂してゆくべきなのだろう。第二次世界大戦もまだまだ公開されていない隠された事実がたくさんあるに違いない。10月3日の日記にも次のように書きました。
五味川純平氏や、司馬遼太郎氏や、半籐一利氏などの作家は正確な資料を基に小説を書いてはいない。私は司馬氏の「坂之上の雲」や五味川氏の「人間の条件」などはもちろん読んだ。大変な力作の大河小説だが、軍事的なことや戦略的なことに対しては、小説家として限界を感じた。彼らの小説は旧日本軍を批判したいがためのプロパガンダに近いものがある。
このような旧日本軍に対するバッシングは、戦後のGHQによる言論統制による影響が大きいのだろう。もちろん日本軍は負けたのだから、それに対する反省と批判はなされるべきですが、それ以上に連合国側に都合の良い歴史解釈が、日本国民になされたのではないかと思います。『坂の上の雲』においても日清戦争のことに触れていますが、これも公文書をもとに書かれたのだろう。しかし、その前の下書きとなった秘密文書が90年代に発見されてかなり改竄された事がはっきりわかった。
このように100年以上前の事でも、途中で政府の圧力やGHQの言論統制で公文書が改竄されたり、焼却処分されて分からなかった真実が、時間の経過で秘密文書が発見されたり公開されたりする。特に司馬良太郎氏の史観で違和感を感ずるのは、戦前の日本は旧日本軍に占領されていたのを米軍により解放されたといった解釈をどこかで書いていたが、この事は小泉首相が去年テキサスのブッシュの牧場で、日本は戦後アメリカ軍によって解放されたというコメントに反映されている。
結局は司馬遼太郎氏も東京裁判史観から抜け出せなかったのだろうか。A級戦犯といわれれば、多くの人が間違いなく彼らが犯罪人であると思い込むだろう。彼らのせいで300万人もの日本人が戦死したと決め付けることも出来るだろう。しかしそれは正しいのか。歴史的に見て日本が戦争に勝ったのか負けたのかそれすら決め付けるのはまだ早いと思う。軍事的に見れば間違いなく完全に負けた。しかし歴史的に見て負けたといえるのか。
昨日紹介したマハティールの「立ち上がれ日本人」を見ても、大東亜戦争の意味を考える余地がありそうだ。もしあの時点で日本が戦争をしなかったら現代の世界はどうなっていたのか。もし逆に日本が勝っていたらどうなっていたのか。あるいは途中で講和して引き分けていたらどうなっていたのか。それぞれについて考えてみるべきだと思うのですが、戦後の日本人はそんなことを考えることすら行っていない。
もし昭和20年8月15日で戦争が終わらなかった場合はどうなったのか。現在のイラクのようにいったんアメリカ軍を受け入れてレジスタンス戦争を行っていたらどうなったか。様々な歴史的な検証を行ってみるべきなのでしょうが、実際の戦後の日本人は贖罪意識一辺倒で、十分な歴史的検証がなされないのはなぜか。あるとすれば司馬良太郎氏のような歴史小説家とか、SF作家による戦争物等の小説が大流行だ。
しかしこれらは娯楽読み物で、歴史研究書ではない。そのような意味で近代日本史の研究は全くの空白地帯になってしまっている。去年の8月に私は西尾幹二氏のBBSに投稿してみたものがあります。議論の出発点になればと投稿したのですが、歴史的認識のギャップが大きすぎたせいか、まだ大東亜戦争を冷静に考えるには早すぎるのか、それとも東京裁判史観の洗脳を解くには時間がかかりそうだ。
日本は大東亜戦争で大勝利した。負けたのは米英仏蘭である。