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私はずっと、あなた方に蔑まれてきた「ノンポリ、無党派層」です。
http://www.asyura2.com/0311/senkyo1/msg/598.html
投稿者 無駄一 さん。
無駄一さん、こんばんわ。
からだに染み入る言葉をありがとうございました。返信が遅れまして申し訳ありません。
「左翼・元左翼は読書するから投稿できる」などと偉そうに言ってしまったことを、自分は反省しております。
スレッドがたいぶ下になりましたので、新規投稿させていただきました。
誰でも読書する人は文章が書けて投稿できます。
オンラインでパソコンモニター画面の投稿文章を読むことも読書です。
読書とは他者の話を聞ける学習能力でもあると思います。
自分は高校を卒業してすぐ印刷工になりましたので、いま50歳ですが、人生を振り返りますと
やはり先輩に現場で教えてもらったことが、体に身につくということで、一番、学べました。
いままで印刷工にはじまって、ペンキ塗装工(看板・住宅)、アニメーション、住宅外装(塗装)営業、
日雇労働(道路工事・建築現場)、舞台関係などの仕事をしてまいりました。
水道管を取り替える道路工事などでは、道具の名前が全然わからず、先輩から「○○を持って来い」といわれても
オロオロして「ばかやろう!」と怒られてしまいました。
舞台関係も40歳からはじめましたので、黒幕を吊るひもの縛り方など、全然わからず、恥ばかりかいてまいりました。
10年くらい経験しまして、やっと舞台裏方の流れなどが、わかってきた現状です。
やはり現場は道具の名前から覚えることにはじまり、これまでの技術を習得しませんと、
約束事で成立しております現場に通用しない人間として認知されてしまいます。
多くの人はやはり仕事の現場で学んでいくのだと思います。
仕事とは別の世界を学ぶことができるのが読書だと思います。
自分は他の人と比較して、読書量は低い方です。
自分は中学生から高校生のとき「まんが」を描いておりましたので、石森章太郎「マンガ家入門」とか
手塚治虫の「マンガ家入門」などに影響をされました。
「まんがを描くためには読書しろ」と教えられました。
「思想」なるものに興味をもったのは、16歳の頃、「幕末暗殺」という時代劇をまんがで描き、友人とふたりで作った
まんが研究会の1冊しかない肉筆同人誌に掲載した頃からです。
そこでは徳川幕府老中を暗殺する青年武士が登場するのですが、刺された老中がテロリストである青年武士に
「おまえは利用されている」と言い残し死んでいきます。雨の中をさまよう青年武士、それがラストシーンでした。
「青年の激情は無残にも政治に利用されていく」それがテーマでした。
「政治」に興味をもったのは、中学1年から新聞配達をしておりましたので、新聞一面はほとんど政治記事ですので
毎日、朝刊夕刊の配達をしておりましたので、からだに染み込んでしまったのではないかと思っております。
>きっとあなたは純粋に「思想」を信じて活動されていたのでしょうね。
自分が教条思想信仰から救われたのは、中学・高校時代に新聞配達をやってきたからだと思います。
からだで家の多様さを学ぶことができました。新聞をとっている人が住む街はあまりにも多様でした。
立派な家もあれば、自分みたく貧しい家もあったわけです。
夕刊配達の時は理髪店で働く若い女性からリンゴなどをもらい喜んだときもありました。
朝刊配達のときは、街の人はまだ眠っておりますから、街は静かです。
夕刊配達のときは、「夕刊でーす」と声を出して玄関口に届けますので、街の人の表情に出会います。
自分が小学生6年の頃(東京オリンピックの頃)母親が創価学会に入信しましたので
高校生になると自動的に入信させられました。
「体験発表会」「座談会」などに通いました。信者が誘いにくるわけです。「池田大作先生の指導」の話です。
そこでは公明党の選挙の話もでます。最初にお題目、最後はみんなで「人は石垣・人は城」「武田信玄の歌」の合唱です。
「人間革命」の本も読まされました。
ここで一番勉強になったのは
電器会社シャープが自分の故郷である栃木県矢板市に工場誘致されまして、シャープの本場は関西ですから
関西の創価学会青年活動家がぞくぞくと矢板市に来たわけです。
毎晩、家庭訪問指導だと言って、貧しい自分の家族が住んでいる貧乏長屋に来ましては、情熱を語ってくれました。
自分はそうとうにこうした創価学会青年労働者の実存から学ぶことができました。「情熱」をです。
大学紛争・大学全共闘運動の上潮、1968年・1969年の頃でした。
また大興電器というおおきな工場もありましたので、そこの創価学会青年労働者も、夜、自分の家に訪問に来てくれて
「情熱」を語ってくれました。
60年代はまだ「貧困」がある理想と情熱を投影する場所であったからです。
問題意識はからだで感じた複合的な複雑的な矛盾感覚から出発します。
自分の場合、親父が精神病院に入院したり、病院から脱走してきたり、また入院の繰り返しで貧乏生活ということがありました。
母親は日雇労働から街の大きな工場であった大興電器(沖電器の下請け-NTT電話交換機などを製造する)の臨時工になりました。
なぜ、臨時工になれたのかは、大興電器は大きな労働争議がありまして、経営者が臨時工を採用したからです。
大興電器工場の壁には「臨時工をなくせ!」という労働組合の張り紙。
自分は母親が臨時工であることを知っていたので複雑さがからだに染み込みました。
自分の故郷は労働争議の街でもありました。
大興電器創価学会青年労働者はわが貧乏長屋に夜来まして、創価学会員の労働組合をつくろう!などと話をしながら帰っていきます。そこで自分は「勢力」なるものの存在をなんとなくからだで感じました。
創価学会の「体験発表会」や「座談会」に行かなくなったのは、高校生でも「純粋」「絶対」なるものは
存在しないと、新聞配達でからだで学んだからです。からだが拒否していきました。1970年頃は高校3年でしたが
自分は左翼になっておりました。
一番上の兄貴が高校を卒業し、東京品川のちいさな会社に見習旋盤工として働きに行ったのは1967年でした。
兄貴は音楽と歌が好きだったので、働いていた工場近くの公園で歌を歌っておりましたら、ある青年労働者に声をかけられました。
その人は日本共産党系の中央合唱団に所属しておりましたので、兄貴はその中央合唱団に入りました。
そして兄貴は日本共産党の青年組織である日本民主青年同盟に加盟しました。
兄貴は東京から五月の連休や正月に帰郷しますと、弟たちに「労働者解放」と「マルクス・レーニン主義」「共産主義」なる
言葉を語って聞かせます。「情熱」です。「思想」とは「情熱」でした。
東京オリンピックは1964年でした。
「国民が団結してオリンピックを成功させよう」が合言葉でした。日本国民は団結してオリンピックという世界規模の祭りを
準備して成功させました。東京オリンピックの英雄はマラソン選手円谷と女子バレーボール「東洋の魔女」でした。
この世界への自信こそが多感な青年労働者の「情熱」となっていきました。
その発動こそ東京オリンピック以降に爆発した日本全国各地の工場労働争議だったと思います。
そして今日の創価学会を形成したのも当時青年部に所属していた創価学会青年労働者でした。
その子供たちが現在、猛勉強につぐ猛勉強で権力機構内部に入ったのです。
1967年・68年・69年・70年という60年代後半は大学紛争・高校紛争という祭りでもありました。
祭りのおもしろさはアナーキーさがあることです。今に置換するならロック・コンサートです。
中卒・高卒の人間は労働現場で学んでいきます。習得していきます。
大学生は頭脳で学習を反復することが仕事です。
自分の文章は支離滅裂で申し訳ありません。
無駄一さんにご理解していただきたいのは
団塊の世代(全共闘世代)と当時高校生であった弟世代は、60年代後半という祭り。
それは中国の文化革命から発信され(1989年事態である天安門事件から東欧社会主義崩壊ベリリンの壁崩壊と似ています)
パリ五月革命、イタリアの熱い季節、ニューヨーク・ベトナム反戦運動そして日本の全共闘運動とベトナム反戦運動。
いやおうなくこの60年代後半の熱い祭りに参入せざるえなかったことです。
ロック・コンサートに参加せざるえなかったのです。
ゆえに左翼であり元左翼が圧倒的にこの世代には多いのです。敗北としての過程であったのかもしれません。
青年の情熱が北京に集結した紅衛兵のごとく政治に利用されたのかもしれません。
この敗北の過程から「近代」への見直しが開始されたことは事実でした。
1968年は明治維新100年でもありました。
しかし「反乱の祭り」の内部では日本国家近代史の見直しという内省的な作業が開始されていたのです。
それが60年代後半の熱い季節が生み出した思想であったと思います。
自分は大学に行っておりませんから、学生運動を経験しておりません。
17歳高校3年で社会主義青年同盟解放派という新左翼に所属し、20歳でそこを脱落し、次に日本共産党系の民主主義青年同盟に
入り日本共産党に入り、24歳で脱落。
30歳の頃から戦旗・共産主義者同盟(ブント)という新左翼に参加し、36歳で脱落。
などの左翼経験をしてきました元左翼です。
学生運動よりも労働運動のほうがアナーキー性もありエネルギーがあるというのが自分の実感体験です。
1971年の沖縄闘争、東京での集会には栃木の反戦国鉄労働者などと参加しに行ったのですが
上野駅の地下などの労働者食堂などで昼飯などを国鉄労働者と一緒に食いました。
巨大な地下基幹基地だと感じました。左翼はいろいろ参入していきますから体験できるわけです。
自分はこの経験を悔いてはおりません。この社会的経験が学びの大学であったからです。
高卒は現場でからだで学ぶしかないのです。人との出会いから学ぶしかありません。
そしてこの学んだことは仕事で学んだことと同じく貴重です。
敗北の過程。それが自分の人生です。これが表現の糧であってほいしと自分に願っております。
無駄一さん。
ノンポリ、無党派層とは高度な意識を持った人々だと感じております。
自分の投稿文章から蔑視の傾向を感じ取られましたなら申し訳ありません。
無駄一さんの投稿文章はよくからだに染みます。
ありがとうございました。