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(回答先: 選択肢なし 本音のコラム宮崎学 投稿者 エンセン 日時 2003 年 11 月 15 日 06:57:02)
アウトローや警察機構を描く宮崎氏にしてはつまらない感想文だ。
この感想文を読む限り、政治感覚はかつて所属した共産党系のそれを引きずっているように思える。
>それは、そもそもこの社会を決定づける最良の方法が果たして選挙なのだろうかとい
>う根元的な疑問である。とりわけ、二大政党化体制の進行するもとでは、有権者には
>かつてのような多様な選択肢がない。
アウトローが、“私的権益の公化”をリーガルに行うための民主主義価値観や民主主義的議会制度に対し、「社会を決定づける最良の方法が果たして選挙なのだろうかという根元的な疑問」を抱いてどうする。
アウトローが法的規制や公的暴力機構の間隙をぬって権益を確保せんとする戦いと本質は同じだと喝破しなければ“キツネ目”の存在意義はない。
洗練された手法で大手を振って私的権益を貪るのか、泥臭くきつい戦いを勝ち抜いて私的権益にありつくのかという違いでしかない。
茶番には、疑問ではなく、本質と笑いをぶつけなければならない。
「二大政党化体制の進行」云々を説明の補強に持ち出すようでは、“キツネ目”が、共産党やリールガル性に私的権益を求める政治評論家と同列になってしまう。
>自民党と民主党の差も当事者達が強調するわりには明確なものではなく、どの党が政
>権を担っても同じと感ずる絶望感は、今回の選挙ではより大きくなった。
「どの党が政権を担っても同じと感ずる」状況の現出は、絶望感がそろそろ達観に変わる兆しである。
あの党が政権を担えばよくなるのにという期待を持ちながら敗北を続けていれば絶望感にとらわれるが、「どの党が政権を担っても同じと感ずる」ならば絶望感さえ生じない。
“キツネ目”も元左翼らしい敗北主義者らしく、絶望が達観に変われば、面白いことができるという楽観主義を持てないようだ。
>組織がなければ何も出来ない、だから組織が重要であるとする考え方を放棄できない
>まま進行する政治の状況が、個人の自由な発想の選択肢をさらに狭めている。
公明党がたかだか34議席と800万余の票を獲得したからといって、組織がどうのというものでもなければ、ましてや、「個人の自由な発想の選択肢をさらに狭め」るというたいそうなものではない。
“キツネ目”自身が、自分の政治感覚で政治的現実を見つめてぴくぴくし、“キツネ目”「個人の自由な発想の選択肢をさらに狭めている」だけだ。
自立的に政権を獲得できない二大政党状況のなか、貧弱な公明党=創価学会が政治的キャスティングボードを握れていることの意味を“自由な発想”で捉え返さなければならない。
公明党=創価学会が二大政党の一角を占めているわけではないのである。
>個人か組織かというテーマがこのような形で突きつけられることへの嫌悪感は深く民
>衆の間に沈澱した。これが今回の選挙の底流である。軽い政治の言葉が飛び交う中で
>の実に重苦しい現実だ。今のシステムの下で、民衆の側の「気分」はこのように常に
>組織に負け続けるのだろう。選挙に代わる方法が欲しいものである。
アウトローが、くだらん選挙の結果を「実に重苦しい現実だ」と受け止め、「個人か組織かというテーマがこのような形で突きつけられることへの嫌悪感」を見出してどうする。
政権をめざさない投票行動という議院内閣制に照らせばアウトローの政治活動で、二大政党を含む度し難い権力亡者政党をけっこうなレベルでコントロールできる条件が生まれたのである。
政党を支持するのではなく、政党を制御できる政治状況を生み出したのが今回の総選挙である。
別に護憲勢力でなくてもかまわないが、1500万人が比例代表選挙で社民党?に投票することで、二大政党も公明党も揃って右往左往させることができるのである。
しかも、献身的な日常活動も過酷な選挙運動もなく...
「今のシステムの下で、民衆の側の「気分」はこのように常に組織に負け続けるのだろう。選挙に代わる方法が欲しいものである」という敗北主義の表明や泣き言は不要である。
政権をめざさない投票(政治)活動のなかから、選挙に代わる方法が生み出されることになるだろう。