現在地 HOME > 掲示板 > 議論15 > 280.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: 国家としての「敗戦責任」を問わずに国家を語る愚 投稿者 あっしら 日時 2003 年 10 月 30 日 00:18:30)
>それはそうとして、今日はあまり述べる時間がないのですけれども、要するに戦争
>(敗戦)責任という視点には「だれそれのせい・だれそれが悪かった」というところ
>にどうしてもアクセントがあるでしょう?
>国家(国民)が、国家が自ら総力をあげて遂行した戦争の「敗戦責任」を、「だれそれのせ
>い・だれそれが悪かった」というレベルの論議でよしとするのなら、その国家国民にまともな>未来はないはずです。
>戦争を止めることができなかったことこそを自戒しその責任(問題点)を追及しなければなら>ないのに、我が党だけは一貫として戦争に反対したと胸を張り、軍部が悪かったとか天皇絶対>政が悪かったからだと説明している日本共産党と国家を同列に置くわけにはゆきません。
>「だれそれのせい・だれそれが悪かった」という流れの議論になったら、微力ながら徹底的に諌める論陣を張ります。
>責任を明確にすることは、人格を非難したり攻撃することではありません。
>責任の明確化が人格非難であるかのように錯誤するから、まともな議論ができない状況がある>と思っています。
>(ことさら言わなくとも、本人は責任を自覚しているはずだという思い遣りがある国民性であることは承知していますが、「敗戦責任」という重大問題をそのようなレベルで見過ごすことはできません)
>「いや、個々の事象についての客観的な失敗者を特定するだけだ」とおっしゃるので
>しょうけれど、それなら道徳的・法的な非難という意味を排除した「敗因」とか「失
>敗理由」を分析すると言えばよいのです。
>やはりご理解いただけないようですね。
>「個々の事象についての客観的な失敗者を特定するだけだ」という考えで、「敗戦責任」を論>議しようとしているわけではありません。
>周辺にある書き込みの内容をお読みいただければ、それはご理解いただけると思っています。
>また、道徳的・法的な非難を意図しているわけでもありません。
>様々な道徳的観点から「敗戦責任」を論じて欲しいと思っていますし、法はどういう権限がど>ういう機関(人)に割り当てられていたかという問題で意味を持つものだと思っています。
>個人が出てくるとしても国家機構的地位にある個人であり、その地位がどういう判断をしたの>かを問うものです。(全人格の是非を論じるわけではありません)
>戦争は国策の実現手段ですから、戦術や戦闘の「敗因」とか「失敗理由」に限定されるもので>はありませんが、「敗因」とか「失敗理由」をきちんと論議すれば、機械が動いたわけなく特>定の国家的地位にある生身の人間が決定したことですから、「敗戦責任」そのものにつながり>ます。
>それ以前に、何が成功で何が失敗なのかという基準は客観的・普遍的ではありえない
>でしょう。「大東亜戦争肯定論」の側に立つ人々は、私も含めて戦争に負けたからと
>いって「失敗だった」とか「やらないほうがよかった」とは言わないのです。今回は
>もう話す時間は無いけれども、ここには複雑な問題があるのです。この基準は人に
>よって異なるということだけは、確かなのです。
>もちろん、「失敗だった」とか「やらないほうがよかった」ではない論議も大歓迎ですし、人>によって基準が異なるからこそ議論が有用なのです。
>「何が成功で何が失敗なのかという基準は客観的・普遍的ではありえない」ことは確かですが、客観的普遍的基準がないまま、今でも国家統治者は不断に国策を選び取り決定しているのです。
>客観的普遍的基準がないからこそ、国家レベルでの議論が必要なのです。
(客観的普遍的基準があるのなら、議論は必要ありません)
客観的事実が必要でしょう。戦前の軍需産業に対する考察がこれまでの議論には少ないと思います。客観的事実に基づく議論がもっと必要ですね。戦中のありのままの事実を追求する事が議論なのだと思ってます。少しでも客観的事実に近づく事が大切なのだと思う。
>※ お詫び
>花子さん:「敗戦責任も満足に扱えないお前なんぞと議論するつもりはない!」とあっしらさんに言われたので、書記長さんはあなたにレスをつけるのを遠慮しているのでしょうね。私もあの消えた絶縁宣言を偶然読んだのですけれども、それは激しい口調でした。まるで今まで確実に2・3人鉄パイプで半殺しにしたことがあり、本当は一人殺している左翼みたいな波動を発していました。」
>どの書き込みを指しているのかわかりませんが、そのように感じられたのなら非をお詫びさせていただきたいと書記長にお伝えください。
あっしらさんがそんな激しい言い方をするような人には思えないのですが・・