現在地 HOME > 掲示板 > 議論15 > 183.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: Re: 釈尊が最終的に目指したものは法華経ーー方便だと思います。 投稿者 ああ、びっくり 日時 2003 年 10 月 20 日 00:57:54)
法華経については、先ほど書き込みしたなかで、「法華経にも心惹かれるものはありませんが、石原莞爾氏(国柱会)・井上日召氏(血盟団)・宮沢賢治氏(国柱会)・北一輝氏といった戦前の思想家が法華経及び日蓮の教えを信仰していたことで、日蓮の教義には関心を持っています。(戦後の宗教団体で活発で能動的なところは法華経及び日蓮に連なるところですからね)」と書いたように見ています。
法華経は最高の仏教経典という世評もあるので和訳で読みましたが、釈迦の大きな慈悲・慈愛を教えたいのだろうなとか、本地垂迹説の根拠になる経典だと思ったくらいで、初期仏典では感じたような魅力はなんら感じませんでした。
法華経は、釈迦の“神格化”がなされているだけで、新約聖書的な奇蹟と慈愛の話になってしまっているという印象を持っています。
あの釈迦は、とっく(数十億年を超えた昔)に悟りに達していたが、衆生のために釈迦族に生まれ出家して悟りの道を教えたとか、入滅するのも、このまま存在し続けたらみんなが自分を頼ることになるからだといった話には心を魅かれません。
火事に巻き込まれた息子たちを救出する話や毒を飲んだ子供たちを助ける話そして襟に縫い付けられた宝珠の話で示されている比喩も、失礼ながら、大川隆法氏の比喩レベルだと思っています。
参考として、法華経に書かれている内容を概要的に知れるものを転載します。
============================================================================================
法華経宇宙の旅:http://www.ho-wa.co.jp/hokke_e/hokke_e2.html
1.序品
法華経は「かくの如く、我れ、聞けり。」で始まります お釈迦さまが霊鷲山の山頂にて静かに瞑想に入っておられました。 まわりには、いつもそばにいる舎利弗や多くの修行僧、信者の人々、 さらには観世音、日光、月光、文殊などの菩薩さまが多くのお供を連れ、また、竜神さまや帝釈天などの守護神が多くの家来を連れて集まっています。 これから説かれる教えがいかに多くの生きとしいけるもののために説かれるかということが暗示されています。 やがて天上界から花びらが舞い、大地は静かに震動をはじめ、自然界が感動を現しはじめました。 お釈迦さまの額の真ん中からは光が放たれ、その輝きは東方の遙かかなたの世界までも照らし出しました。 これほどまでの光景は見たことがありません。 多くの人々の不思議な思いを感じて、弥勒菩薩が知恵第一といわれる文殊菩薩に尋ねました。 「いったいこの不思議な現象は何ですか。 これから何が起ころうとしているのですか。」文殊菩薩は、知恵のすべてを引き出して、前世や他の世界のことを思いださせました。 そして「以前にこれと同じようなことが日月灯明如来という仏さまの世界で起こったが、その時と同じ不思議な現象である。 お釈迦さまもこれから「妙法蓮華経」という偉大な素晴らしい教えを説かれるに違いない。」 と答えました。 法華経は偶然に説かれるのではなく、深い深いわけがあって、お釈迦さまがこの世で法華経を説かれるのだということです。
2.方便品
それまで深く静かに瞑想に入っておられたお釈迦さまが、いままでの瞑想をとかれ、しかも、お立ちになって、自ら語りはじめられました。これは大変めずらしいことです。 たいていの場合は、誰かの問いに対して、教えを説かれはじめますが、今回はお釈迦さまの方から語りはじめられたのです。 さらに、お立ちになって教えを説かれるというのは、今までとは違う特別な教えを説こうという、お釈迦さまの思いがあらわれています。 いよいよ舎利弗にむかって、説かれはじめました。 お釈迦さまが悟られたことがらは、仏と仏のみがよく理解できるのであり、人々に直接説いても難信難解であって、疑問を持つだろうから、これまでは直接に真実は説かずに、わかりやすい方便のかたちで説いてきた。 さらにこれ以上は教えを説くことはしないというのです。 舎利弗をはじめ多くの人々は大変驚きました。 というのは、これまでお釈迦さまが教えを説いてこられたのは方便 であって、真実そのものではなかったからです。 しかも、その真実を明かさないというのです。 だまってそうですかというわけにはいきません。 みんなの気持ちを代表して舎利弗がお釈迦さまに真実の教えを是非 説いてくださいと三度お願いします。 そしていよいよ、その真実が説かれることになりました。 ここでは、なぜお釈迦さまが悟りを開かれてすぐに法華経を説かれずに、いろいろな教えを説いてこられたのか、さらに、お釈迦さま は一大事の因縁があるから、この娑婆世界において法華経を説かれるのだと、その深い知恵と慈悲を示されています。
3.比喩品
お釈迦さまはお弟子の舎利弗が、お釈迦さまがどのような知恵と慈悲で私たちを救済されようとしているのかを、理解したと認められやがて華光如来という仏になるであろうと、成仏の証明をされます。 これを授記といいます。 さらに他の者に対して比喩のかたちでよりわかりやすく述べられます。 昔、大変大きな長者の家がありました。 その家の中では動物や化け物がお互いに殺し合い、糞やウジ虫などがわき、それはすさまじい様子でした。 そんな中で大勢の長者の子供たちが周囲のことを気にも止めずに遊んでいました。 ある日のことです、その家で火事がおこりました。 火はみるまに広がり、家を焼き尽くすかのように燃え上がりました。 長者はいちはやく外に逃れましたが、子供たちは遊びに夢中で火事のことすら気が付きません。 このままでは子供たちは焼け死んでしまいます。 父親である長者は大声で早く外に出るように叫びますが、父親の声さえ聞こえません。 そこで長者は考えました。 「おい、子供たち、以前からほしがっていた羊車、鹿車、牛車が外にあるよ、はやくこちらに出ておいで。」 と、呼びかけました。
4.信解品
比喩品で述べたように、お釈迦さまがこの世の衆生を救済されようとしている慈悲と、知恵のことを、迦葉尊者をはじめとする四人のお弟子たちがみずから理解したことがらとして、お釈迦さまに喩え話のかたちで申し上げます。 長者の息子が子供のころに行方不明になり、何年も流浪生活を続け青年になったころに、父である長者と再会します。 父親は我が子と気が付きますが、息子のほうは想像だに出来ません。 無理やり屋敷に連れてきたのでは抵抗するばかりですから、まずは 屋敷の仕事をするように仕組み、だんだん屋敷の生活に慣れさせるために、長者自らが変装して同じような使用人のふりをして息子に 近づき、やがてその能力を認めるかたちで、重要な役職につかせ、 最後に親子として名乗りでて、息子もそれを認め、親の財産を受け継いだ。という物語です。 ここでの父親はお釈迦さまのこと、流浪していた息子はわれわれ衆生のことです。 いきなりおまえは我が息子だといっても信じてもらえず、かえって逃げ出すかもしれない。 そこで次第に気が付かせるように、時間を掛けていろいろな手段を使い、やがて息子も父の存在を認めるようになるわけです。 そのための手段が、お釈迦さまがこれまで説いてこられた方便の教えであり、父親が最後に息子に与えた全財産とは、最高の功徳である法華経のことです。 父親と息子の関係を、方便の教えとお釈迦さまの真実の教えとの関係として説かれています。
5.薬草喩品
法華経は「かくの如く、我れ、聞けり。」で始まります。お釈迦さまが霊鷲山の山頂にて静かに瞑想に入っておられました。 まわりには、いつもそばにいる舎利弗や多くの修行僧、信者の人々、 さらには観世音、日光、月光、文殊などの菩薩さまが多くのお供を連れ、また、竜神さまや帝釈天などの守護神が多くの家来を連れて集まっています。 これから説かれる教えがいかに多くの生きとしいけるもののために説かれるかということが暗示されています。 やがて天上界から花びらが舞い、大地は静かに震動をはじめ、自然界が感動を現しはじめました。 お釈迦さまの額の真ん中からは光が放たれ、その輝きは東方の遙かかなたの世界までも照らし出しました。 これほどまでの光景は見たことがありません。 多くの人々の不思議な思いを感じて、弥勒菩薩が知恵第一といわれる文殊菩薩に尋ねました。 「いったいこの不思議な現象は何ですか。 これから何が起ころうとしているのですか。」文殊菩薩は、知恵のすべてを引き出して、前世や他の世界のことを思いださせました。 そして「以前にこれと同じようなことが日月灯明如来という仏さまの世界で起こったが、その時と同じ不思議な現象である。 お釈迦さまもこれから「妙法蓮華経」という偉大な素晴らしい教えを説かれるに違いない。」 と答えました。 法華経は偶然に説かれるのではなく、深い深いわけがあって、お釈迦さまがこの世で法華経を説かれるのだということです。
6.授記品
前の信解品で迦葉をはじめ四人の御弟子たちが、お釈迦さまの教えを理解した内容を「長者窮子」の喩えとして報告しました。お釈迦さまはその話を聞かれると、よく理解していることを認められ、迦葉に授記を与えられましたが、ここでは他の三人の修行者にも授記が与えられました。
7.化城喩品
前の授記品で「我および汝等が宿世の因縁吾当に説くべし、汝達善く聴け。」の文で終わり、これを受けてこの章が始まります。宿世の因縁とは現在の私達が過去にどういうつながりをもっていたかということです。ここではお釈迦さまのことについて説かれています。 ずーっと昔のことです、ある国に王さまと十六人の王子がいました。やがて王さまは出家をし、精進修行の後に悟りを開かれ大通智勝如来という仏さまになりました。その様子をみていた王子たちも父である大通智勝如来のお弟子として法華経の修行をはじめ、仏さまになりました。その中の九番目の王子は西の国の阿弥陀仏となり、十六番目の王子は東北の娑婆世界の釈迦牟尼仏となり、それぞれ法華経を説かれているというのです。ですから阿弥陀仏はお釈迦さまのお兄さんというわけです。ここで大切なことは、私たちの住んでいる娑婆世界ではお釈迦さまが法華経を説かれ、救い導いてくださるということです。私たち娑婆世界の住民は、なにも遠くの世界へ行って法華経を修行する必要はないのです。日蓮聖人が 「お釈迦さまは主・師・親の三つの徳を持ち、私たちと密接な関係をもっておられる方であり、信仰の基本としなければいけない。」 と強調されたのは、こうした意味があるからです。そのお釈迦さまが私たちに教え導かれるための方法の一つとして、次のような喩え話をされました。 昔、宝の国をめざす一行がありました。どこまでいっても宝の国に到着しません。人々は疲れはて、歩こうとしません。一行のリーダーは、これから先もどんなに大変な道のりかを知っていました。今それを言ってしまえば誰一人として動くはずがありません。そこで智恵をはたらかし、神通力で目の前に立派なお城を映し出し、「さあ、あれが私たちの目指していた宝の国だ、がんばって歩こうではないか。」とみんなを励ましました。人々はあと少しということで、歩きはじめ仮のお城で休憩をとり、元気を取り戻しました。そこでリーダーはそのお城を消してしまい、「みんなの求める本当のお城はもっと先にある、頑張って行こうではないか。」と一行をうながしました。そして何度もくりかえして、とうとう本当の宝の国へ無事到着した。というお話です
8.五百弟子受記品
この章ではお釈迦さまのお弟子フルナをはじめとして、五百人ものお弟子が授記されます。そしてこれら五百人の人々が了解したことをたとえ話としてお釈迦さまに申し上げたのです。そのたとえ話を「えり宝珠のたとえ」といいます。 ある人が親友の家をたずねてご馳走になり酒に酔って寝てしまいました。ところが家のあるじである友人は公用で外出しなければなりませんでした。しかし客人は寝ているので起こすのも気の毒と思ってそのままそっと外へ出たのでした。その時旅先で使うようにと、客人の上着のえりに大変高価な宝珠を縫い付けました。やがて客人は目をさまし、誰もいないとわかるとあてもなく歩きはじめました。国から国へとさまよい、持っていたお金も全部使いはたしてしまいました。親友が縫い付けた宝珠など知るよしもありません。やがてみすぼらしい生活をおくるようになりました。ある日偶然にも宝珠をくれた親友に出会いました。親友は友人の姿をみると、嘆きながら、「あなたはなぜそのように苦しんでいるのですか。私はあなたに安楽な生活をしてもらおうと、大切にしていた宝珠をさし上げたのに、その宝珠はそのままあるではないか。なぜそれを使わないのだ。早くそれを使い安楽な生活をおくるように。」と言いました。これがえり宝珠のたとえというお話しです。酒を飲んで寝てしまった客人とは私たち衆生のことをさし、宝珠を縫い付けた友人とはお釈迦さまのことで、宝珠とは仏種のことです。 この話は人間をはじめ生きるものすべてに仏種があるということです。ただ己の中に尊い宝物があるとはなかなか信じられません。酒によって自分に素晴しい宝物があるとは知らずに通した人と同じく私達は煩悩という酒によってわからずにいるのです。自分のことだけ目の前のことだけに気をとられ、もっと大切なものを見失いがちです。お釈迦さまはそんな私達の目をさまそうといろいろな形で教えを説かれたのです。 ところで、私たちの中に仏種があるということは、その種を自覚すればよいということではありません。その仏種を活動させなければなりません。つまり仏種があると自覚したときには、その働きが同時に行われているのです。ただひたすら瞑想に入り、おのれの中に仏さまがおられるということを追及するだけでは何もならないということです。日蓮聖人が人々を救済するために法華経を弘め、お題目を弘められたのは、仏の種を持つ者としての実践修行の大切さを自覚されていたからです。
9.授学無学人記品
無学というのは学ぶべきことがすでに無い、つまり学び尽くしてしまった人のことです。これと反対に「学」とはまだ学ぶべきことのある人のことをさします。ですから、私達のふだん使っている「学がないな」とか「学があるな」とかいった言葉とは逆なわけです。学のないことは最高なことなのです。ところでこのすぐれた無学の人々もいまだお釈迦さまから仏に成れるという証明をうけておりませんでした。ここにきてようやく記を受けることになります。その中にはお釈迦さまが以前まだ出家される前に生まれた我が子も含まれています。この人をラゴラといいます。我が子といえども時がくるまで、たとえ他の人に記をさずけても、けっして授けませんでした。
10.法師品
今まで二乗(小乗)と呼ばれ、仏には成れないとされていた人々が次々にこの法華経に於いて仏になれるという証明をお釈迦さまから授かりました。これを二乗作仏といいます。この二乗作仏は法華経がすぐれているということの大変重要な点です。 この法師品ではまず、法華経のすばらしさが説かれています。「もし私の滅後の法華経の一句一偈をきいて一念にも随喜する者がいたならばその人は悟りを得ることが出来るであろう。一人の為にも法華経のたとえ一句一偈でも説く者がいたならその人は仏の使いである。」 この他にもいろいろ法華経を信じ行ずることのすばらしさがくりかえし説かれました。では法華経を信じ行ずるとはどういうことなのでしょうか。一つに受持(信じたもつこと)、二つに読(一々の文字を読むこと)、三つに誦(声を出して文章を通読すること)、四つに解説(他の為に説くと)、五つに書写(書き写し世にひろめること)以上五つの種類があります。これを五種法師といいます。 この中で一番重要なのは受持の行でこれを正行といいます。他の四つはこの正行を助けるものとして助行といいます。日蓮聖人は正行である受持の行とは南無妙法蓮華経と唱えることであると説かれました。南無とは受持するという信力念力を意味することばです。お釈迦さまの滅後にたとえ一人のためにでも、法華経のことを一句だけでも説いたとすれば、その人は如来の使いであり、すばらしい功徳のそなわっている人である。出家であろうと在家であろうとこの教えを受持すれば悟りに至る功徳がそなわる。お釈迦さまの滅後にこの教えを説こうと思えば、そこに変化(へんげ)の人を使わし、法を聞くように人々を集めるであろう。又さみしい、人のいない所ならば、天竜鬼神等の人間以外のものをつかわして法を聞くようにするだろう。もちろんその人に危害を加えるような事があれば即座に守護するであろうと、説かれています。それ程にこの教えは弘め伝えていかなければならないのです。素晴しい教えは自分だけが知って幸福になれば良いというのではなく、素晴らしいからこそ、迷える人々に弘めなくてはなりません。これを大乗精神といいます。仏さまの慈悲に通じるものです。教えを説く人を法師といいますが、この法師たるものはそれだけの自覚と、どんなに苦しいことがあっても必ずこの教えを弘めるのだという覚悟が必要なのです。それでこそお釈迦さまは変化の人をつかわしてまでいろいろ守ってくださるわけです。
11.見宝塔品
前の法師品が説き終えると、地中より巨大な塔が出現しました。いろいろな宝石や金銀で飾られたそれはみごとな宝塔です。人々はこの立派な宝塔をみておどろきます。ところがさらに不思議なことにその塔の中から「大変素晴らしいことだ。釈迦牟尼世尊よ、法華経をこれらの人々に説くことは素晴らしいことだ、このおしえは真実の教えなのだ」と、の大音声が響きわたりました。大楽説という菩薩が人々の疑問を察知して、この宝塔の中から大音声を出している人はいかなる人であるか、そしてこの宝塔はどこから、何ゆえに現われたのかと、たずねました。お釈迦さまは 「この宝塔の中には多宝如来というかたが居る。もともと東方のずっとかなたに宝浄という国がありその国よりこの娑婆世界へやってきたのだ。この多宝如来は、法華経をきく為にその教えの説かれている所まで宝塔と一緒に行き、このおしえが真実であることを証明し、ほめたたえることを誓い、その誓いによって仏となられた。それ以来誓いの通り法華経の説かれているところへ必ず現われ、このように大音声を出してほめたたえているのだ。と、説かれました。すると大楽説菩薩は多宝如来のお姿を一目みたいとお願いしました。そのためには、釈尊の分身の諸仏を一同に集めなければなりません。釈尊の分身とは、釈尊の徳にてらされて釈尊と同じように十方(あらゆる方向)の世界でおしえを説いている仏さまをさします。釈尊はこれら分身の諸仏を呼ばれました。他の国より仏さまが来られるのですからこの娑婆世界を清浄にしなければなりません。又たくさんの仏さまが侍者をつれてくるのですからこの世界をもっと広いものにしなくてはなりません。やがて、諸仏諸尊が次々と集ってきました。釈尊は神通力で空中へ浮び多宝塔の前へ行き、右手でとびらを開きました。中には多宝如来が坐っておられましたが、 「お釈迦さま、どうぞこちらへおすわり下さい」といって座を半分ゆずりました。こうした釈尊は多宝塔の中へ入り多宝如来と並んでお坐りになりました。そこにいた多くの人々は自分達も多宝塔のそばに行き、釈尊と多宝如来をおまいりしたいと、お願いしました。釈尊は、神通力をもって、そこにいた人々を残らず虚空に呼び寄せたのでした。そして、「だれかこの娑婆世界で、妙法蓮華経を説くものはいないか。もしいるのなら私の滅後はその者に全てをまかせたい。しかしこの教えを持つことは大変むずかしい。この教えを読み持つものがいれば、その者は真の仏の子であり、仏の使いである。少しでもこの教えを説くものがいれば、その者は一切の天人から供養を受ける資格のあるものである」と、この法華経を信じ持つことの素晴らしさを説かれました。 ところでこの法華経を仏の滅後に信じ持つことのむずかしさについて六難九易と呼ばれるものがあります。法華経を実践することを六項目に分け、人間としては到底できないむずかしい事柄を九つあげて、この九つのようなむずかしさ(難)も法華経の実践の六つからみたら、やさしいもの(易)である。という説明のしかたです。日蓮聖人はこの六難九易を実践することの困難さを身をもって体験され、法華経の行者たることを自覚されました。
12.堤婆達多品
堤婆達多というのはお釈迦さまのいとこにあたる人で、一緒に修行に励んだ仲でしたが、お釈迦さまが先に悟りを開きおしえを説かれ、多勢のお弟子を連れているのを見て、ねたみの心を生じ、何かとお釈迦さまの布教活動を妨害しました。ところがお釈迦さまは一向にその堤婆達多に対して、怒りの言葉すら出そうとはしませんでした。その堤婆達多についてこの章では詳しく説かれています。 昔ある国に大変素晴らしい王様がいた。政治も順調にゆき人々も幸福な生活を送っておりましたが、真実を説いた教えというものを王様も人々も知りませんでした。そこで王様は 「誰か、優れた教え、真実の教えを説く者はいないか、もし説く人がいるのなら、私はその人につかえよう。」とふれを出しました。やがて一人の仙人がやって来ました。 「私は大乗の教え、妙法蓮華経という真実の教えを持っている。私についてくるならその教えを伝授しましょう。」王様は喜び、その仙人の弟子として、いろいろな修行を積みました。仙人の弟子となった王様は、薪を拾い、草や木の実を取り、時には身体を仙人の腰かけにさえしました。そうした修行を積んだ後、ようやく「法華経」という尊い真理を得ることが出来ました。というお話しですが、じつはその時の王様というのは今の釈尊で、仙人が今の堤婆達多であるというのです。釈尊より法華経を聞くことが出来るのも、その堤婆達多が善知識だったからだ。と、説かれています。現世に於いては堤婆達多はあくまでも大悪人なわけです。その堤婆達多は、釈尊が法華経を説かれてはじめて、天王如来という仏さまに成ることの証明を受けることが出来たのです。 次に竜女の成仏について説かれています。竜王のむすめが法華経を信じた功徳によって人々の前で成仏するわけです。インドでは昔、男の人が大変な修行を積み、それでもなかなか仏にはなれない。まして女の人が仏になれようはずがないと考えていました。それまで女性は成仏できないと信じこんでいた人々は大変おどろき、そして法華経を信ずることの素晴らしさをあらためて知りました。
13.勧持品
この章の名称の勧持とは、法華経を信じ持つことを勧めるという意味です。釈尊の前で多くの徳の高い菩薩たちが末法の世に於いてこの法華経を弘めることを誓います。末法の世に法華経を弘めると一口にいいますが大変な覚悟がいるのです。というのは末法は三種の強敵と呼ばれる、法華経流布を妨害する者がいるからです。まず一つには俗人の中で、仏教には全く無知で法華経を流布しようとする人に向い、石を投げ棒で打ち、けいべつして悪口をいう人がいるのです。 二つには出家者の中で仏教を少しかじっただけなのに何もかも知りつくりているかのように得意になっている人がいる。その人は法華経を知らないのでこの教えをでたらめだと思い信じこんでいる人です。 三つには人々から尊ばれているが、仏教の真髄まで知りつくしてはいない人。自分の為だけを考え心の中では人々を無知だとバカにし、法華経を説く人に対して、悪いおしえを説く者だと言い、国王大臣までもこの人の言うことを信じこんでしまっている人です。 これらの人々が法華経を説く人に対して迫害を加えるのです。その迫害を覚悟しなければ法華経を末法に弘めると釈尊に誓えるはずがありません。この立派な覚悟をきめた菩薩たちを見て、他の人々も法華経を弘める覚悟をきめました。しかし、お釈迦さまはあえて、これらの人々に委嘱されませんでした。その訳は後の従地涌出品以降に示されます。
14.安楽行品
前の章では末世に於いて法華経を弘めるには相当な覚悟が必要であり、多くの人がその覚悟を釈尊に述べました。そこで釈尊は仏の滅後に法華経を弘める者の心がまえをこの章で説かれました。身・口・意・誓願の四項目あるので四安楽行といいます。安楽とは平生の生活と変わりない安らかな心をいいます。 第一にいろいろの修行をしてもこれを行じたと誇ることなく、人に対して平等な心で接し、真理を求めてゆく、その他にも地位権力者に近づかぬこと、俗悪な物に近づかぬこと等を指摘されました。これを身安楽行といいます。 第二に日常の言葉についてあやまちのないよう務めること。その為には人の過失や欠点を言わず、他の人をバカにせず、そのような心を言葉に現わしてはならない。これを口安楽行といいます。 第三に日常の生活での心がまえは、嫉妬の心をすてて求道を軽んぜず、すべての人々に平等を教えを説かなければいけない。これを意安楽行といいます。 第四に法華経を弘めるという理想をたててこれを実現するために努力せねばならない。これを誓願安楽行といいます。 以上四つを実践することが、仏の滅後に於いて法華経を弘めるための唯一の方法であると説かれました。
15.従地涌出品
いよいよ重要な部分へと入ってまいりました。この章はそのための序分のようなものです。 ここでは上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩などの四菩薩をはじめとする地涌の菩薩というかたが登場いたします。地涌とは字の通り、地中から涌き出たという意味です。人々はこれら地涌の菩薩をみて大変おどろきました。というのはどの菩薩も大変立派な功徳を積み、仏さまのようなお顔をしているのです。しかも何千何万と数えきれぬ程の大勢です。いったいこれらの人々はどこの国で、そして何という仏さまに教化されたのだろうかとたずねました。すると釈尊はこれらの菩薩はこの娑婆世界に於いて私が教化したのだと答えられました。そこで一同は不思議に思いました。いつの間にこんなに大勢の人々を教化せられたのだろうか、私たちはいつも釈尊のそばでお仕えしていたのだが今まで一度もこれらの人々の前で教えを説かれたところを見たことがなかった。まるで老人が子供をつかまえて、この人は私の父であると言っているくらいに不思議なことだ。そこでこの疑問に答えるべく、釈尊がそのわけをお話になられました。それが次の如来寿量品第十六という大変重要な章なのです。
16.如来寿量品
前の章では人々の疑問を代表して弥勒菩薩が質問されたところで終わりましたが、その疑問に対して釈尊がいよいよ答えられるのがこの章です。 釈尊は次のように説かれました。「人々は私のことを王様の子として生まれ、三十才の時に悟りを開いたと思っているが、それは方便なのだ。ここで真実を話そう。私が悟りを開いたのは今から四十年前ではなく、もっとずーっと昔のそのまた昔なのだ。それ以来今日まで長い間教えを説きつづけてきたのだ。そして、これからも未来永劫にわたり教えを説きつづけるのだ。おまえたちの前にいるこの菩薩たちはその長い間に教化され、帰依(信ずる)し、そして、地中の世界に於いて長い間修行を積んで来たのだ。」ここでずっと昔というのは、無限の過去ということです。私たちの頭では考えられない宇宙のはじまりのようにはるか昔のことです。そんな昔から釈尊は悟りを開かれ、教えを説きつづけておられたわけです。人々は釈尊が無限な命を持って、ずっと過去から未来永遠に人々を教え導いておられることを知りました。そして更におどろくべき事を知ったのでした。 お経の中には、阿弥陀如来、大日如来、薬師如来など、誰でも知っている有名な如来さまの他にも、たくさんの如来さまが出て来ます。そういう如来さまはお釈迦さまの分身である。」と説かれたのです。釈尊の本仏としての本来の姿を示されたのです。このように最も大切な本仏である釈尊が、そのままじかに教えを説かれたのがこの法華経です。今、ここにいる無限な命をもつ姿こそ本当の姿なのだと顕わし示されたのです。しかし、実際は釈尊は亡くなられます。ちょうど今お話ししている寿量品を説かれてから数年後です。ではなぜ、せっかく無限な命をもっていることを人々に説かれたのにこの世から姿を消されたのでしょうか。次のようなたとえ話をなさいました。 昔インドに大変すぐれた医者がおりました。医者といっても昔は薬を調合して病を治しておりました。ある日外へ出かける用が出来てしまい子供たちに留守をたのみました。いたずらざかりの子供たちは、父親の薬の部屋に入り、手当たり次第に薬をなめはじめました。ところが、その薬の中には毒薬も入っていたのでした。子供たちはでたらめになめたのですから、たまったものではありません。お腹は痛みだし、中には正気を失ったようにあばれまわる子供も出るしまつです。ちょうどそこへ父親が帰って来ました。医者である父親は早速、良く効く薬を調合し、子供達へ与えました。毒を少しなめた程度の子供は父親の言うことを聞いて薬を飲み、苦しみから開放されましたが、大量の薬を飲んだいたずらな子供は、父親の言うことには耳をかさず、ただ苦しい苦しいと泣き叫ぶだけです。このままでは子供は死んでしまう。父親はしばらく考えておりましたが何を思ったか外に出ていきました。途中まで来ると家来の物に家に帰り子供たちへ、「大変だ、お前たちの父親が旅の途中で死んでしまった。」と伝えるよう命じました。 自分の父親が死んでしまったと聞けば、さすがに毒で苦しんでいる子供でも、一瞬われにかえりました。そして父親が調合してくれた薬に気がつき、それを飲むことにしました。あれほど苦しんでいた子供もいまは、うそのように良くなり父親の死を悲しんでおりました。その様子を見ていた父親は、我家へ帰り親子ともども、幸福に暮したということです。 医者である父親は釈尊(仏)のことです。毒に苦しむ子供達は我々衆生のことです。なかでも正気を失ったように苦しんでいる子供達は、末法に生きる我々のことです。つまり我々は釈尊は健在だと安心していつまでもなまけ心が生じ、少しも努力しようとはしません。そこで我々の目をさますために、この世から姿を消されるというわけです。ですから本当はどこかで我々の様子を見守っていらっしゃるわけです。そして薬を飲んで正気になれば、父親が姿を現わすように、私達も薬を飲めば釈尊が目前にあらわれるはずなのです。この薬を飲むというのはお題目を唱えることです。これを受持ともいいます。お題目を唱え、受持する時に、久遠の命を持った仏さまに見守られている自分を、発見することが出来るのです。
17.分別功徳品
寿量品で釈尊の本当の姿を知った者、法華経に説かれたことの真実を聞いたお弟子や菩薩たちが授記を得ることからはじまります。そしてその教えを聞いた者が、どのように修行し実践したら良いかということが説かれます。その実践とはこの教えを世に弘めることです。その功徳が説かれます。 ここでは四信五品ということが説かれています。四信とは一、一念信解、二、略解信解、三、広為他説、四、深信観成(仏の本当の姿を知って、深く心に信じ修行すれば仏さまが常に説法されているこの娑婆世界が浄上であることが悟れるということ)の四つである。その中でも私たち凡夫にとって特に大切なのが一念信解ということです。次に五品とは一、初随喜品、二、読誦品、三、説法品、四、兼行六度(この教えを持ち兼ねて六波羅蜜を行ずる)、五、正行六度(この教えを修行実践、他の為にも説き六波羅蜜を行ずる)の五つの功徳の素晴らしさをいいます。その中でも特に大切なのは、初随喜といって、すぐれたこの教えを信じ行い、またそれ等を実践している人々を見たり聞いたりして素直に喜ぶ気持になることです。実践する人を見聞するというのは、たとえば日蓮聖人が法華経に命を奉げご苦労されたことを知って、心から感謝することです。この一念信解と初随喜の二点が私達凡夫にとっては最も大切であり、実践しなくてはならないことなのです。 日蓮聖人が私達に説かれた信仰の基本はここにあります。「以信代慧」として、頭で理解することよりもまず、信じ行じていくことがすぐれているということです。
18.随喜功徳品
この章では、法華経を説いて随喜(素直に喜こぶ気持)の心を起こす人の功徳について説かれています。その功徳は法華経を聞いた人がその教えに感激を得、自分の知り合いなどに教えの内容を伝え、その人が又感動を得て更に次の人に伝えてゆく。こういうことが次から次へと繰り返され五十人目に伝えられた時、その人が教えを説いた功徳は素晴らしいものである。まして最初に伝えた人の功徳はどんなに素晴らしいものか量り知れないということです。
19.法師功徳品
ここでは法華経を受持し、読み、誦し、解説し、書写する五つの修行の大切さが説かれます。この修行の結果六根が清浄になる功徳がさらに説かれています。 六根とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つをいいます。清浄になるというのは、普通の肉体的なものから更に見えないものを見たり聞いたりすることが出来るようになることです。それは通常にない力を持つことです。人を助ける力でもあります。法華経の基本的なテーマは菩薩として生きることです。そのためにはどうしてもこうした力が必要となります。それは特別に意識しなくても自然にそなわり、知らず知らずのうちに人助けをしているような生き方になるのです。ところでこの章の中に、「もし俗間の経書、治世の語言、資生の業を説かば、皆正法に順ぜん」という有名な句があります。人間が毎日生きてゆく中で、その生き方そのものが仏の教えを実践していくことであるという意味です。何も特別なかたちの修行をしなくとも、こうした日々の生活の中で立派な行が出来るということです。
20.常不軽菩薩品
ここでは常不軽菩薩という菩薩の話しを通して信仰のあり方が説かれています。 昔ある国に一人の菩薩がいました。その菩薩は、人に会うと、誰に対しても合掌礼拝して「私は汝らを深く敬う。何故なら汝らはみな菩薩の道を行じ仏となる人だからだ。」と経典も読誦せず、もっぱら人々に対して礼拝するだけでした。そこで人々から「常不軽」と呼ばれるようになりました。ところでいつでも、誰にでも同じことばかりしていましたので、中にはバカにする者や、ついには石を投げたりする者すら出て来ました。それでもこの菩薩はひたすらに礼拝を続けていました。やがて生命が終ろうとする時、今までの功徳によって、法華経の精神を悟ることができ、更に寿命を延ばし人々の為に法華経を説くようになり、ついに仏に成ったということです。 その時の常不軽菩薩とは今の釈尊であり、迫害した人々は今の凡夫であると説かれています。常不軽菩薩を迫害した罪によって、長い間仏の教えも知らず、地獄の中で苦しみ続けてきましたが、その罪も消え、ようやく今ここに法華経を聞くことが出来たということです。このありがたい機会を感謝し大切にしなくてはならないわけです。
21.如来神力品
この章では、釈尊が地涌の菩薩に一切の教えを要約して授与し、末法に於いてはこの地涌の菩薩によって法華経が弘まることが述べられています。要約とは次のことです。一、如来の一切の所有の法二、如来の一切の自在の神力三、如来の一切の秘要の蔵四、如来の一切の甚深の事五、皆この経において宣示顕説するの五つです。日蓮聖人はこの五つが一切の教えをまとめた法華経の功徳として私達のために受け入れやすい形で示されたものであるととらえられました。そして所有の法とはあらゆる仏さまが悟られた内容を(法)としてまとめられたものである。自在の神力とは仏さまのもつ慈悲の力を私たちが受け入れられるように(妙)の字に集約されたもの。秘要の蔵とは仏さまの功徳を(蓮)の字にあらわし、甚深の事とは仏さまが人々を救済されるはたらきを(華)の字に示され、宣示顕説とは、これらが法華経という教えの中にすべてあらわしていると説かれました。つまり「妙法蓮華経」というお経の題目そのものに、一切の仏さまの悟りや智慧、そして慈悲とはたらきがこめられているというわけです。その五字にすべてをこめたものが、神力品で上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に対し、本仏である釈尊が付嘱されたのです。私達がお題目を唱えるというのは地涌の菩薩の一員として釈尊から付嘱されている姿なのです。 この付嘱がおわると、法華経の信仰があるところは園の中、林の中、その他どこでも塔を建てて供養しなければならないと説かれます。なぜならば、一切の付嘱をされた法華経の教えが信奉され実践されているところは、仏さまが悟りを開かれ、教えを説かれ、涅槃される第一級の道場だからです。 最後に仏さまの滅後に法華経を説く人の徳がうたわれています。
22.嘱累品
前回の「神力品」では地涌の菩薩という特定の限られた人に対して法華経の流布を嘱託されましたが、この章では、他の一切の人々に嘱託されました。「今以て汝等に付嘱す。汝等よ、当に受持読誦して広く、この法を宣べ、一切の衆生をしてあまねく聞知することを得せしむべし」という一説にそのことがしるされています。ここで注目すべきことは、平凡な無智の人も仏さまから付嘱されるということです。誰でも法華経を信ずる者は、仏さまから認められ仏さまの滅後に、その責任(法華経を弘めること)をまかせられた人ということです。このことを日蓮聖人は法華経が説かれた究極の事柄だと述べておられるのです。法華経を信ずるということは、ただ単に経文を信ずるということだけでなく、このような重大な意味をもっているのです。 この章では、釈尊からの依頼に対して、人々が必ず実践することを誓います。そうして他の世界から集まって来ていた人々は、それぞれ自分の世界へと帰って行きます。使命を実践するためです。釈尊から命をうけた人々はこの娑婆世界だけではなく、広く各世界全体の人々が同時に法華経を弘めているということです。ところで見宝塔品で多宝塔を開くために集まって来られた釈尊の分身である諸仏はここでもとの世界へともどられ、多宝塔も扉が閉ざされます。虚空会にいた人々も、もとの霊鷲山にもどります。
23.薬王菩薩本事品
昔、日月浄明徳仏という仏さまと、法華経を供養するために、自らの身をもやした菩薩がいました。名を一切衆生喜見菩薩といいます。その光明は宇宙のすみずみまでおよび、千二百歳の長きにわたり輝き続けました。この菩薩は修行の功徳でやがて、仏さまから法華経を付嘱され、教え説き弘めることを託されました。さらに数々の塔を建てて供養をし、さらに自分の臂を燃やして供養しました。人々は菩薩の両臂の消えるのを悲しみました。ところが菩薩は「仏に両臂を供養した功徳によって、金色の身を得られた。」と言ってもとの姿にもどりました。そしてこの喜見菩薩がいまの薬王菩薩なのです。
24.妙音菩薩品
浄光荘厳というはるかに遠い別の国から法華経の教えを受けにやってこられた妙音菩薩について、お釈迦さまが説明されます。この菩薩さまは三十四変化によって人々を救済され、法華経のすぐれたことを説いて聞かせるのです。
25.観世音菩薩普門品
ひろく観音さまとして知られ、信仰されている菩薩さまのことが説かれます。観音さまは、他の世界より法華経が説かれたために、この娑婆世界に来られた方ですが、そのまま娑婆世界で人々を救済し、法華経を弘めるとの誓いを立てられた方です。観世音とは、世の人々の悩みの声(音)を注意深く観るという意味です。人々の悩みを知ってはじめて本当の救済が出来るわけです。人々を救済するために、聖者、天人、婦人、子供、守護神など三十三通りの変化をして具体的なかたちでの神通力を発揮させます。
26.陀羅尼品
法華経の功徳の一つとして、この経を信じる者を諸菩薩や諸天善神が守護するということが説かれています。中でも代表的な神さまが毘沙門天王、持国天王、そして鬼子母神等です。これらの神さまたちがそれぞれに、お釈迦さまに、法華経の信仰者を守護することをお誓いします。日本に祀られている神さまの多くが同じ誓いを立てられています。 最後にお釈迦さまは法華経を信じたもつ者は、仏と同じほどに尊く敬い守護するようにとご命じになりました。
27.妙荘厳王本事品
浄蔵、浄眼という兄弟は大変に智恵にすぐれ、菩薩の修行を行じる事が出来るようになりました。父母を仏道に導こうと、まず母親に仏教を信じるようにすすめました。しかし父の妙荘厳王は仏教以外の教えを堅く信じていました。そこで、父の注意をひくために神通力を使って、身の下より水や火を出したり、種々の変化を見せました。父である妙荘厳王はこのような素晴らしい神通力を教えた師匠は誰かと問い、仏教に興味をもつようになりました。やがて仏教の素晴らしさに感銘をうけ、自分をはじめ夫人や家来の者などを仏道に入らしめたのでした。そして自分を仏教に導いてくれた我が子に心から感謝したのでした。
28.普賢菩薩勧発品
この章では普賢菩薩が登場します。普賢とは真理という意味です。普賢菩薩がお釈迦さま滅後、どのようにすれば法華経を弘め、実践することが出来るかたずねました。そこでお釈迦さまは、第一にいつも仏と一緒に生きているという自覚を持つこと。第二に善い行いをして功徳を積むこと。第三に正しい行動を歩みつづけ、よき仲間をつくること。第四に一切衆生を救おうという心を起こすこと。以上の四つを述べられました。法華経を本当に信じ、実践する人はこの四つを実行している人といえます。 また、普賢菩薩はお釈迦さまの滅後(末法)に於て、法華経を信じ行ずる者がいれば、神通力をもって守護することを誓いました。お釈迦さまも、法華経を信じる者を見たら、仏さまと思い、仏さまと同じように敬いなさいと申されました。特に末法の今、法華経を信じ、人々のために教化救済するという行いがいかに大切であるかを説かれているのです。