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(回答先: 憲法を骨抜きにしようとしている人々 投稿者 エンセン 日時 2003 年 8 月 11 日 02:45:32)
ブッシュ父子と秘密結社スカル・アンド・ボーンズ
最近よくテレビで見かける国際政治研究家田中宇氏は「オサマ・ビンラディンとCIAの愛憎関係」という題で、次のように述べている。
「オサマ・ビンラディンといえば、アメリカにとって9月11日の大規模テロ事件を起こした仇敵であるはずだが、そのビン・ラディンが今年7月、中東ドバイのアメリカン病院に腎臓の病気を治療するため入院し、入院中にアメリカCIA要員やサウジ高官などが面会に訪れていたという。…
アフガニスタンに亡命先を変える前の1991−96年にビン・ラディンはスーダンに亡命していたが、当時のスーダンのエルワ国防大臣(Elfatih Erwa)が1996年にアメリカを訪れ「ビン・ラディンを引き渡すから、アメリカの裁判所で裁いてくれ」とCIAに掛け合ったが、断られたという…。
スーダンに頼まれた際、アメリカがビン・ラディンを引き取っていれば、9月11日の大規模テロ事件は防げたわけだが、実はCIAは98年にもビン・ラディンを捕捉するチャンスを自ら逃している。前出のサウジのタラキ王子が98年6月にタリバンの最高指導者オマル師と会い、ビン・ラディンをサウジアラビアに引き渡す交渉をした。オマルは引き渡しに前向きだったのだが、この2ヶ月後、アフリカのケニアなどで米大使館同時爆破テロが起こった。…
これらのことをアメリカの作戦失敗と考えることもできるが、CIAはビン・ラディンを捕まえたくなかったのではないかとも思える。
前出のビレッジボイスの記事でも、アメリカはサウジとの友好関係を重視して、ビン・ラディンの逮捕を見送ったのではないかと考察している。
またCIAは1960年代から、敵の勢力を完全につぶさず脅威として残しておくことで、アメリカ政府にとってCIAが大切な存在であり続けられるようにしてきたことでも知られている。」
これは、常識では考えられないことである。
アメリカがもしテロに事前に知っており、ビン・ラディンと何らかの関係があったとすれば、今アメリカがビン・ラディンを血眼になって探しているのはいったい何なのか。同時多発テロは、ブッシュがあらかじめ予期していたことだったのか。
アメリカは、第二次大戦の際にも、日本の真珠湾攻撃をあらかじめ知っていたというし、イラクのクウェート侵攻は、アメリカが仕掛けた罠だとも言われる。
ブッシュ政権をはじめとして、アメリカには、このような不可解な陰謀的行動が多いのは一体何故だろう。
私は、この謎を解く鍵は、ブッシュやアメリカの指導者たちが属しているスカル・アンド・ボーンズ(頭蓋骨と骨)というオカルト秘密結社にあるのではないかと考えている。
スカル・アンド・ボーンズ研究家クリス・ミレガンの記事
http://www.parascope.com/articles/0997/skullbones.htm を参考にこの秘密結社について述べてみたい。
スカル・アンド・ボーンズは、19世紀にイェール大学でできた秘密結社で、現在でも(少数の例外を除き)WASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)中心の徹底した白人至上主義エリート集団である。
数ある秘密結社の中でも、米国社会に最も強い影響力を持ち、CIAやアメリカ法曹界や金融界や学界に巨大なネットワークを持っている。
もともと、イギリスのロスチャイルドの肝いりで阿片貿易に参加し、巨万の富を得たニューイングランドの有力商家が中心となって作られた結社で、メンバーには、ホイットニー、ロード、フェルプス、ワッズワース、アレン、バンディ、アダムス、スティムソン、タフト、ギルマン、パーキンス(第1グループ)、ハリマン、ロックフェラー、ペイン、ダヴィソン、ピルスベリー、ウェイヤハウザー(第2グループ)などのアメリカを実質的に支配している家族が含まれる。シフ、ワルブルグ、グッゲンハイム、メイヤーなど、ドイツ系ユダヤ人移民も近づこうとしたが、ニューイングランドのWASPとイギリスのユダヤ人社会との仲介役として受け入れられるだけで、内部のメンバーにはなれなかった。
中心の中心にいる第1グループの家族は、ほとんどが17世紀に最初にアメリカにやってきたピューリタンの末裔たちで、名門中の名門である。
第2グループは、最も初期の入植者の家族ではないが、18世紀から19世紀に巨万の富を得た名家だ。
スカル・アンド・ボーンズの目的は、国家主義に基づく「新世界秩序」の創造である。
これは、スカル・アンド・ボーンズの創立者ウィリアム・ハンチントン・ラッセルが1831-32年にドイツに留学し、当時流行していたヘーゲル哲学を学んだことに由来する。
当時プロシアにおいて人々は、ナポレオンとの戦争に破れたのは、兵士が自分のことしか考えない利己主義者だったからだと考えていた。そこで、ジョン・ロックとジャン・ルソーの思想を取り入れた新しい国家中心主義教育が編み出された。
ジョアン・フィヒテは、『ドイツ国民に告ぐ』の中で、「子供たちは国家によって支配されるべきである。彼らは、何を、どのように考えるかを、国家に指示してもらわねばならないのだ。」と述べた。
フィヒテを継いだのがヘーゲルだった。彼は、「我々の世界は理性の世界である。国家は『絶対理性』であり、『世界を歩む神』であり、『最終目的』である。市民は国家を崇拝するときにはじめて自由になる」と説いた。このヘーゲルの神格化された全体主義・中央集権的国家の実現と、アメリカを中心とする世界秩序の再編こそがスカル・アンド・ボーンズの理念となったのである。
スカル・アンド・ボーンズのヘーゲル主義は、アメリカの各界に絶大な影響を与えてきた。
教育界では、スカル・アンド・ボーンズのメンバーであり、ジョンズ・ホプキンス大学(及びカリフォルニア大学)の初代学長であったダニエル・ギルマンが、ヘーゲル主義者ジョージ・S・モリス博士を招き、教鞭をとらせた。
モリスは次のように述べている。「…教育は、子供中心ではなく、国家中心であるべきだ。ヘーゲルは、『子供は、社会の歯車として機能しない限り、個人としての価値はまったくない。』と考えていた。」
このモリス博士のもとで学んだのが、アメリカ教育の父ジョン・デューイである。
デューイは、「子供は個人の才能を発達させるために学校へ行くのではなく、組織体としての社会の『単位』となる準備をするために行くのである。」と信じていた。デューイの社会主義、集団主義、国家主義は、モリスのヘーゲル主義に由来する。
モリスは、カーネギー研究所の初代所長になり、ピーボディ・スレイター・ラッセル・サーガ財団の創設に参加した。
このどちらの組織もスカル・アンド・ボーンズの支配下にある。
スカル・アンド・ボーンズのメンバー、アンドリュー・D・ホワイトはコーネル大学の初代学長、及び、米国歴史協会の初代会長で、国際司法制度を確立した1899年の第1回ハーグ会議の米国代表団長でもあった。
アントニー・C・サットンは、著書『アメリカの秘密組織』の中において、スカル・アンド・ボーンズの各界への巨大な影響力について次のように述べている。
「…彼らは、カーネギー、フォード、ピーボディー、ラッセル・サーガなど、すべての主要な財団を獲得した。彼らの目的は、これらの財団に真っ先に入り込み、その将来をコントロールすることにある(27ページ)。…学術団体の中でも、米国歴史協会、米国経済協会、米国化学協会、米国心理学協会は、すべてスカル・アンド・ボーンズのメンバーか、彼らに近い人々によって設立された。これらは、社会を左右する中心的な組織である。」
ジェームズ・W・ウォードナー博士は、著書『汚れた同盟』において、スカル・アンド・ボーンズの影響を次のようにまとめている。
1. 米国市民自由連合を創設。
2. ボルシェビキ革命を推進。
3. 神学校に影響を与える。
4. 教育を支配。
5. 連邦教会評議会と関係。
6. ジョージ・ブッシュはメンバーである。
7. CIAを支配。
8. 平和研究所を創設、支配。
9. 政策研究所を創設。
10. 「保守的な」共和党員と「リベラルな」民主党員の両方をコントロール。
11. メイソンを支配。
12. 共産主義に資金を提供。
13. ヒトラーに資金を提供。
14. ヨーロッパの類似組織と共に、国際金融をコントロール。
スカル・アンド・ボーンズは、アメリカのすべての主要な分野に触手を伸ばし、彼らが支配する統一世界政府を実現するために人々を洗脳しようとしているのである。
スカル・アンド・ボーンズが世界秩序の再編のために用いるのは、ヘーゲル主義者らしく、「破壊を通しての創造」である。
ヘーゲル思想の子孫であるマルクス主義者やナチズムと同様に、安定した社会の中に問題や事件を起こし、既存の秩序をいったん破壊する。そして、その問題解決の過程で、自分たちにとって望ましい新しい理想の秩序を作り出すのである。これは、ヘーゲルの弁証法的歴史発展説に則った方法で、既存の秩序にそれに反する力をぶつけることによって、対立を作り、その対立を解決する中から新たな調和を生み出そうとするのである。
マルクス主義者もヒトラーも暴動や騒乱、テロを起こし、社会に揺さぶりをかけ、一度混沌を作り出した。
1880年代、ロシア革命前の時代に起こった大規模なユダヤ人迫害(ポグロム)の背後には、マルクス主義者の煽動があったことが資料から明らかである(Material dlya Istorii Antievreiskikh Pogromov v Rosii, II, Gosdarstvennoe Izdateljstvo Petrograd, 1923)。
日本においても、松川事件や三鷹事件など、共産主義者によると見られる社会不安を引き起こす事件が数々起こった。
ミレガンは次のように言う。「スカル・アンド・ボーンズのメンバーは、歴史の弁証法的発展というヘーゲルの思想を信じている。彼らは、テーゼ(正)に対してアンチテーゼ(反)を作り、対立を制御しながら、あらかじめ定められたシンセシス(合)を導き出すのである。彼らの作り出すシンセシスとは、新世界秩序である。この秩序において、国家は絶対であり、自由は国家に服従する個人だけに与えられるのである。」
実際、スカル・アンド・ボーンズの有力なメンバーであるブラウン・ブラザース・ハリマンやモルガン保証信託は、ヒトラーやロシア革命に資金を提供した。
ロシア革命について、ミレガンは次のように述べている。
「アヴェレル[・ハリマン]は、連邦法を無視して、革命直後にソビエト連邦に投資した。投資会社である[モルガン]保証信託とブラウン・ブラザース・ハリマン(これらはどちらもスカル・アンド・ボーンズのメンバーに支配されている)は、共産主義者ロシアの初期の融資に関わっている。」
ブラウン・ブラザース・ハリマンは、スカル・アンド・ボーンズのメンバー9人を出資組合員として引き入れた。
その中でも有名なのは、ブッシュ前大統領の父親であり、現大統領ジョージ・ブッシュの祖父である、プレスコット・ブッシュである。
プレスコット・ブッシュは、敵国であるナチスドイツに資金提供していたことで有名である。
彼が頭取を務めるユニオン銀行は、ナチス政権下でのドイツ産業界の再編を支援するために設立された銀行である。
ドイツ側の窓口は、かの悪名高いナチ商人フリッツ・ティッセンである。プレスコット・ブッシュが金融支援した企業の一つに、自分と義理の父ジョージ・ハーバート・ウォーカーが経営し、ナチスの軍事産業に石炭を供給していたシレジアン・アメリカン社があった。
ユニオン銀行が金融支援した最大の会社は、ナチスの鉄鋼及び爆弾の3分の1から2分の1を生産していたドイツ・スチール・トラスト社であった。
フランクリン・ルーズベルト政府は、「敵国との交易に関する法」に基づいて、ブッシュの資産を差し押さえる命令(Order No.248, 11/17/42)を出したが、この命令は、ほとんど誰の目にも触れることのないような地味な政府の記録簿に載っただけで、公のニュースにはならなかった。
どこにもナチスとのつながりについての明白な記述はなく、ただ欄外注に、「ユニオン銀行は、敵国であるドイツもしくは(及び)ハンガリーのティッセン家のために活動している」としか記されていない。プレスコット・ブッシュとユニオン銀行の他の経営者は「ナチの窓口」であると控えめに宣言することによって、政府はさらに重要な歴史的な疑問、すなわち、「ヒトラーのナチはどのように雇われ、武器を与えられ、指示を受けていたのか?」という疑問を回避したのだ。
1944年12月16日付の『ニューヨークタイムズ』紙は、「ニューヨーク国家銀行局」の動静について5段にわたる記事を掲載した。
ブッシュの銀行に関しては、その最後に次のように記されている。
「ニューヨーク・ブロードウェイ39番地ユニオン銀行は、本社をブロードウェイ120番地に移す許可を得た。」
しかし、この「ブロードウェイ120番地」とは、政府の「海外資産管理局」の住所なのである。
つまり、ユニオン銀行のナチスへの資金援助は、政府の手に引き継がれたのだ。
戦後、プレスコット・ブッシュは、アメリカ上院議員となり、アイゼンハワー大統領と親交を持った。
ニクソンを政界入りさせ、1952年の選挙戦においてアイゼンハワー政権に加えたのは自分だと語っている。
スカル・アンド・ボーンズは、他国の秩序破壊者に援助するだけではなく、自ら母国において破壊行為を行ってきた。
ロドニー・スティックは、著書『欺くアメリカ』の中で、「ペガサス」というコードネームを持つCIAエージェントのチームが、J・エドガー・フーバーの電話を盗聴した事実について触れている。彼らは、ケネディ暗殺計画について語るフーバーの声をテープに収めた。
テープの中で登場する名前は「(ネルソン・)ロックフェラー、アレン・ダレス、(リンドン・)ジョンソン、ジョージ・ブッシュ、J・エドガー・フーバー」である。
ブッシュ前大統領は、1963年当時、自分はヒューストンに住んでおり、また石油会社ザパタ・オフショア社の経営に専念したため、CIAには関わっていなかったと述べている。また、「CIAのジョージ・ブッシュ君」に宛てられたフーバーの手紙についても、その存在を否定している。
最初、CIAは、当時ブッシュが協力者であったかどうかについてはコメントしないと述べていた。しかし、この手紙の存在が世間に知られるようになると、「このジョージ・ブッシュは1988年に大統領になったあの人のことではなく、同姓同名の別人である」と言い出した。
「ジョージ・ブッシュ」という名前の下級職員がCIAに勤務していたことは確かだが、彼はFBIからメッセージを受けるような立場にはいなかったし、事実、受けたことなど一度もないのである。
また、注目すべきなのは、当時ピッグズ湾作戦を表すCIAのコード名は「ザパタ作戦」であり、この作戦において派遣された2隻の支援船の名前は「バーバラ」と「ヒューストン」であったということである。ジョージ・ブッシュ前大統領が、当時CIAにおいて幹部として命令を下す立場にあり、キューバ侵攻作戦に参加するキューバ人のリクルートと管理の責任を負っていたと証言する人は多い。
『リアリスト』紙(1991年夏)は、「ブッシュは、かの有名なCIAエージェント、フェリックス・ロドリゲスと共に働き、キューバ侵攻に参加する右派の亡命キューバ人をリクルートしていた。マイアミのキューバ人社会を侵攻に向けて組織化することは、ブッシュの務めだった。…最近明らかになったFBIの文書には、ジョージ・ブッシュが1963年のジョン・ケネディ大統領の暗殺に直接に関わっていたと記載されている。文書には、CIAによって送り込まれた狙撃者の位置が記されている。当時ブッシュはテキサスに住んでおり、ヒューストンとマイアミの間を毎週往復していた。1960年と61年に、ブッシュは侵攻のためにマイアミでキューバ人をリクルートしていたのである。…」と述べた。
ニクソンと主席補佐官ハルデマンの会話を記録した1972年6月23日付のテープの中で、ニクソンは、FBIの調査によって、自分たちが「ピッグズ湾の件」に関与していたという事実が暴露されることを恐れていると語った。
ハルデマンはその著書『権力の終焉』の中で、「ピッグズ湾の件」とは、JFK暗殺を表すニクソンの暗号であったと述べている。
当時、ブッシュのパートナー、ロバート・モスバッカーは、テキサスにおいて、ニクソンのために資金調達者として働いていた。このテープの中で、ニクソンは、「キューバ人」と「テキサス人」という言葉を頻繁に使用しているが、「テキサス人」とはブッシュ、モスバッカー、ベイカーのことを指すのである。
ケネディの暗殺には、単にキューバ侵攻の口実を作るためという政治的な目的だけではなく、アメリカの社会に揺さぶりをかけるという心理的な目的もあった。ジェームズ・シェルビー・ダウンワードは、「魔術、セックス、暗殺、象徴学」という記事の中で、ケネディの暗殺は、「王の殺害」と呼ばれるオカルトの儀式の一つであると語った。これは、心的外傷を与えることによって、大衆の心をコントロールし、既存の政体に揺さぶりを掛けるための革命的手法である。
首謀者たちは、あからさまな陰謀を見せ付けることによって、自らの力を誇示し、同時に、大衆に無力感を与えようとする。
確かに、ケネディの暗殺後、凶悪犯罪は増加し、政府への不信、社会悪の増大が顕著に見られる。
この事件がアメリカ人の心に残したトラウマは大きかったのである。
スカル・アンド・ボーンズが、既存の社会秩序を崩壊させ、自分たちに都合のよい体制を作るために用いている手段には、麻薬がある。
そもそも、スカル・アンド・ボーンズは、阿片貿易によって財を成した商人によって創立されたのであり、彼らが麻薬密売に関与しているとしてもそれほど驚くべきことではない。
ベトナム戦争以前、黄金の三角地帯(世界の生阿片の大部分を生産するインドシナ北部のビルマ・タイ・ラオス・中国が国境を接する地域)は、フランスの諜報機関と白人ギャングによって経営されていた。フランスが引き上げた後は、アメリカが引き継ぎ、シシリアのギャングの助けを借りて、アメリカ諜報機関が支配してきた。この麻薬ネットワークについては、アルフレッド・マッコイの『東南アジアにおけるヘロイン政策』と、ヘンリック・クルーガーの『巨大ヘロインクーデター』、サム&チャック・ギアンカナの『ダブル・クロス』において詳しく解説されている。
レーガン政権において、国家麻薬阻止制度の長官を務めていたジョージ・ブッシュ副大統領は、「麻薬戦争」に関わった政府の最高責任者であった。
米国麻薬強制取締局(DEA)の前局長フランシス・ミューレン・ジュニアは、ブッシュの仕事を「知的欺瞞」であり、「資産というよりも、むしろ負担である」とも述べたのである。この発言の後、彼は辞職し、会計検査院の報告書は闇に葬られた。この報告書(1985年7月)には、「ジョージ・ブッシュが率いた国家麻薬阻止制度は何の成果も残さなかった。むしろ、この機関の全般的な努力は、麻薬供給の促進に傾けられていた…」と記されていた。
テレビ番組「シクスティ・ミニッツ」のプロデューサー、モニカ・ジェンセン・スチーヴンソンは、秘密の麻薬取引の実体を暴露するルポを放映しようとしたところ、CBSニュースに拒否され、さらに、辞職に追い込まれた。彼女は、その後、著書『キス・ザ・ボーイズ、グッドバイ』の中で、米国の諜報機関が、戦争捕虜と戦争後行方不明兵士に関する政府機関を隠れ蓑にして黄金の三角地帯から阿片を密輸していると述べた。
そもそも、CIAは、スカル・アンド・ボーンズの中心メンバー、ロバート・A・ロヴェットによって創設された組織である。
「1945年10月22日、戦争長官ロバート・パターソンは、第二次大戦後のアメリカの諜報機関創設に関する政府諮問グループとして、ロバート・A・ロヴェットを長とするロヴェット委員会を創設した…。この新しい機関は軍部の『意見を聞く』だろうが、対外諜報活動や対抗諜報活動の分野においては独立して活動しなければならない。独立した予算を持ち、公聴会を経ずに議会から直接 活動費を受け取れるようにすべきだ。1945年11月14日、ロヴェットは、国務、戦争、海軍各長官の前に現れ、…戦時中のOffice of Strategic Services(戦略的任務局)を復活させるよう強く迫った…。CIAは、…ロバート・ロヴェットの訓令にしたがって、1947年に創設された。」(『ジョージ・ブッシュ――非公認バイオグラフィー』)
そのため、当然、CIAは、スカル・アンド・ボーンズの思想と活動に強く影響されていると考えることができるのである。
イェール大学歴史学教授ガッディス・スミスは、「イェール大学は、他のいかなる大学よりも、CIAに対して強い影響を与えている。CIAには、まるで同窓会のような空気が漂っている」と述べた。もちろん、イェール大学のOBに流れる主人脈は、ボーンズメンである。
アメリカは、公開契約を重んじるキリスト教を主な宗教とする国に相応しくないやり方で国内政治や国際政治を司ってきた。
麻薬の密輸、要人暗殺、戦争、政府転覆など、国家をあげて行われるこれらの陰謀的活動の本質を理解するには、その背後にいる黒幕(スカル・アンド・ボーンズというオカルト秘密結社に率いられたCIAの存在)を知らなければならないのである。
スカル・アンド・ボーンズは、テロや暗殺、革命によって社会不安を起こし、麻薬やポルノによって国民の倫理や家族を崩壊させ、世界や国内に混沌を生み出そうとしている。そして、その混乱の中から、自分たちが目指す中央集権的、国家主義的体制を作りだし、米英を中心とした世界統一政府を築き上げようとしているのである。
スカル・アンド・ボーンズにとって、軍事力の行使は政治権力を獲得するのに避けられない選択である。
彼らは、真に歴史を変えるためには、軍事力は必要不可欠であると教えられている。彼らにとって倫理などどうでもよいことなのである。
ここが日本の武士との違いである。日本の武士道は、武士の間の名誉を重んじ、道徳を尊重した。
しかし、スカル・アンド・ボーンズにとって、大切なのは、彼らの組織に属しているかどうか、ということだけである。
誰でも彼らの結社に入っていない人間は劣っており、それゆえ、彼らにとって操作され、利用される対象である。
1990年代初頭のブッシュ政権は、日本を利用する対象としか見ていなかったのである。いくら日本の政府が湾岸戦争において多額の戦費を支出したとしても、彼らにとってアングロサクソンの白人以外の日本人など、自分たちの体制を固めるために利用すべきコマに過ぎないのだ。
また、1980年代にアメリカを脅かす経済力をつけた日本は、彼らにとって目の上のタンコブだった。
彼らは、WASP以外の国が世界のパワーとなることを望んでいないのだ。だから、陰謀を含めてあらゆる手段を講じてライバルを叩き落そうとした。
1990年代の日本は彼らの罠にはまり、バブル崩壊後、深刻な経済不況に陥ってしまったのである。
このような裏の事情があるにもかかわらず、小泉内閣は、必死になって軍艦を派遣し、アメリカに気に入られようと努めている。愚かなことである。
どんなに頑張っても、WASPではない日本は、所詮、二流国に落とされる運命なのである。
ブッシュにとって、重要なのは、イギリスなど同じ人種、文化、言語の国だけである。
彼らが目指しているのは、世界の互恵的協調ではなく、WASPによる世界支配である。だから、ブッシュ政権が始まったときから、戦争が起こるのは決まっていたし、その戦争の後に、彼らが目指す地域にアメリカの支配を確立することは計画されていたのだ。
父親の時には湾岸戦争、子供の時には同時多発テロ。
この親子の時だけ、このような重大な事件が起こるのはどういうわけだろう。過去を振り返っても、スカル・アンド・ボーンズのメンバーが政権において重要な地位を占めたときに、戦争や血生臭い事件が起こり、彼らの意にかなわない人々が暗殺されているのだ。
第25代大統領マッキンレーは、米国建国の父たちの理念「反イギリス、反帝国主義、反拡張主義」を信奉する最後の大統領であった。
しかし、在任中に彼は、スカル・アンド・ボーンズの拡張主義者から大きなプレッシャーを受けていた。
ついに圧力に負けて、彼は、スペインに戦いを挑まざるを得なかった。米西戦争を通じて、アメリカはキューバとフィリピンを獲得した。
これは、アメリカが入念な操作と陰謀によって領土を拡張した最初の戦争であった。
この戦争を契機に、スカル・アンド・ボーンズは、共和党内に勢力を拡大し、政治において支配的な地位を確立した。
1900年の大統領選挙戦において、マッキンレーは、副大統領にボーンズマンであるセオドア・ルーズベルトを任命した。
これも、かの組織から大きなプレッシャーがかかったからだ。しかし、1901年の任命式からわずか数ヶ月後に彼は暗殺されてしまう。
もちろん後任は、副大統領であるルーズベルトだ。
ルーズベルトは、周りをボーンズマンで固め、後継者として、ボーンズマンの第2世代であるウィリアム・ハワード・タフトを選んだ。
スカル・アンド・ボーンズは、ホワイトハウスにしっかりと根を下ろしたのである。
ルーズベルトは、拡張主義者であり、特に、アメリカは太平洋の覇権を取るべきだという信念を持っていた。
彼はスティムソン(側近。ボーンズマン)への手紙の中で次のように述べている。「我が国民は、臆病でも弱虫でもない。我々は、心意気を高く持ち、自信をもって未来に立ち向かい、偉大な仕事を行うのだ…。私は、アメリカ合衆国が太平洋の覇者となることを願っている。」
ケネディ大統領のキャビネットの、ほとんどのメンバーは、ロバート・ロヴェットによって選ばれた。
ロヴェットは第二次大戦時、フランクリン・ルーズベルト大統領のもとで産業界の動員の責任者であり、朝鮮戦争では国防長官として全軍を指揮した人物である。最初ケネディはロヴェットにキャビネットに加わるよう個人的に要請したが、自ら公的な立場につくよりも、若いボーンズマンを多数、権力の中枢に送り込むほうがよいと考え、影のフィクサー役に回った。彼は、国家安全保障問題特別補佐官にマクジョージ・バンディを、アジア担当国務次官にアヴェレル・ハリマンを任命した。ハリマンは、アメリカをベトナム戦争の泥沼に引き込むことになった数々の重要政策を決定した責任者である。
ボーンズマンたちは、ベトナム軍事介入を強力に推進しようとしていたが、ケネディ大統領は、「合衆国は再びアジアにおいて大規模な戦争を行うべきではない」というダグラス・マッカーサーの忠告を重視し、介入に二の足を踏み始めた。大統領暗殺後、多数のアメリカの若者が、ベトナムに送り込まれ、戦争が本格化した。ハリマンは、リンドン・ジョンソン大統領の下でベトナム政策の責任者に留まったが、マクジョージ・バンディは、ジョンソンの安保問題特別補佐官の座を離れ、アメリカ最大の税金免除慈善団体であるフォード財団の総裁に就任し、ベトナム反戦運動の支持者になった。
1960年代と1970年初期の新左翼運動を統括する組織「全国学生動員委員会」を率いていたのは、イェールOBであるデイビッド・デリンジャーであり、彼に次ぐ反戦運動のリーダーであった英国国教会活動家ウィリアム・スローン・コフィン(ボーンズマン)は、かつてCIAの職員であった。
このように、スカル・アンド・ボーンズは、1960年代後半のアメリカにおいて、2つの互いに矛盾する動き(ベトナムへの本格的介入とベトナム反戦運動)の両方において主導権を握っていたのである。
一方においては、兵力を小出しにする破局的戦略を指揮し、他方において、若者の間にドラッグ・ロック・フリーセックスのニューエイジ・カウンターカルチャーの出所となった新左翼を援助することによって。
キッシンジャーは初めの頃、マクジョージ・バンディの支援を受けていたが、彼の時代全体を通じて、スカル・アンド・ボーンズの、政権への影響は縮小した。CIAは、数々のスキャンダルを暴かれ、ベトナム政策への批判も強まる中で、影響力を失っていった。
しかし、『秘密のスケジュール』を書いたジム・ホーガンなど信頼すべき複数の著者によれば、CIAはこの流れを変えるために、ウォーターゲート事件を暴き、ニクソンを政権から引きずり降ろしたという。これを証明するかのように、フォード大統領において、スカル・アンド・ボーンズが政権に返り咲いた。
フォードは1975年秋「土曜の夜の大虐殺」として有名な政変において、突然キッシンジャーを解任し、国家安保補佐官にブレント・スコウクロフトを任命した。国防長官は、キッシンジャーの盟友ジェームズ・シュレジンジャーの代わりにドナルド・ラムズフェルドがなり、CIA長官は、ウィリアム・コルビーに代わって、ジョージ・ブッシュがなった。